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今週の一枚(2018/04/02)



Essay 871:心の空白をついてせり上がってくる「黒い感情海流」

自我を確立するときにニアミスする世界の絶対虚無
何もかも投げ出したくなる虚しさと死に至る病

写真は、Balmainのタウンホール。
下ばっかみて歩いていると目線の上のアートを見過ごしますよー。
さらに上空を滑空するカッコいいマグパイ(カササギ)も。
なんか知らんけど、何が起きたわけでもないけど、いきなり
なんにもする気がなくなった
何もかもが無意味に思えた
生きるのがかったるくなった

 誰でも、そういう気分になるときってあると思います。僕もあるよ。
 大抵は、いつしか忘れたり、取り紛れたり、回復したりするんだけど、どうしてあんな気分になるのか、そしてどうして快復するのか、あるいはなかなか快復しないのか。

 今回はこの話をしよう。以下に述べるのは、何の学術的根拠も出典もない、100%僕自身の体験に基づく私論です。僕自身、多分に変わった人間でなので、これがあなたに横滑りで通用するとは思わない。だけど、なにかしらのヒントやらになれば幸いです。

個人的な原理的世界(死生)観

可愛げがない

 僕は無宗教です。かといって僕は宗教に対する嫌悪感も忌避感は持ってないし、どちらかといえば平均的な日本人よりも好意的な方です。が、自分自身はあまり宗教的ではない。

 「宗教的ではない」という意味をもう少し言えば、「生と死をキャンバスにした壮大な物語」を信じられないという点です。生前の善行悪行によって死後に審判を受けて天国地獄行きが決まるとか、輪廻があるとか、思ってないです。絶対違うというほどの確証もないのだけど、積極的にそうだと思えるほどの根拠もない。だから理知的な面では「わからない」「証拠不十分」。感情的な面(そうであって欲しいという願望)もそれほど強くはない。そこまで「なにかの物語」を強く欲してるわけではない。まあ、そこまで心底辛い思いをしてないから淡々としていられるだけなのかもしれないけど、とりあえず今はそう。

 あとプチ宗教みたいな要素も少ない。「赤い糸の伝説」みたいな、「運命の〜」とか、運勢とか占いとか、ジンクスとか、「なんらかの超越的な法則性」があるような気もしない。仏滅だろうが、13日の金曜日だろうが気にしない。御神籤はひかない、破魔矢とか縁起物も興味ない、神仏に頼まない、星占いは読まない、姓名判断にも興味はない。かといってムキになって否定する気もない。「ふーん」くらいの淡い無関心。その種のもので、あるとしたら、うーん、シンクロニシティくらいかな?この世には不思議なこともあるよなってくらい。

 人間のタイプとして「信じる」という精神作用が少ないのでしょう。「信じる」的な状況においても、「蓋然性を検討して一定の判断を下す」のか、さもなければ「結果は二の次で、好き嫌いで決める」くらいであって、文学的な甘い香りのする「信じる」という心理にいかない。「○さんを信じてる」という場面でも、「過去のデーターを積み重ねていけば、○という推測が出来る」というだけのことでり、そういう表現の仕方を好む。「必勝の信念」というのも、そのくらい(やや偏狭なくらい)のマインドセットでコトにあたったほうが成功率が高くなるだろうと小怜悧に考えてしまう。つまりは、あんまり可愛げのないの性格だということです。

人生にも人間にも意味はない

 そこからナチュラルにつながっていくのは、人生の意味・意義なんてものは客観的には存在しないし、人類の存在それ自体がそんな特別なものではないという発想です。人、そして生まれてから死ぬまでの人の活動総体(人生)も、雲や虹のような自然現象の一部に過ぎない。とある宗教のように人間が他の動物とは違った特別な存在だとも思わない。他の昆虫やウィルスとなんら変わるところはない。誰かのペットを殺したら器物損壊罪(財産犯)で、人を殺したら殺人罪で、野良犬だったら無罪だというのも、人間の手前勝手な身びいきであり、本質的にはくだらねえなって思ってます。

 もともと人生に生きる意味なんか無いんだから、それを客観的に探してもそれは無理だと思う。むしろ、客観的に存在しない「意味」を主観的に勝手に作り上げて、盛り上がったり/落ち込んだりしてるところが、人類の頭の悪いところでもあり、同時に愛すべき可憐さであり、その迷妄こそが価値であると思ってます。ゴリゴリの唯物論者であるからこそ唯心論者でもあるというか。

 古代ギリシャ時代から、一部の人達が人間機械論を説いてますが、僕も基本的にそれに近い。ただし、心とか無意識・自意識という膨大な「柔らかい素材」が多いので、機械といっても作動プロセスにおいては、不可視的な確率論を経るので、「機械」というイメージとはちょっと違うかもしれない。しかし、超越的ななにかによって決定されるのではなく、解き明かされれば誰も平易に納得できるメカニズムがあるんだろうなって思うところで機械論。

人間心理の他愛なさ

 そういった身も蓋もない世界観で、自分の含めて人間の心理、やる気であったり、モチベーションであったり、ネガ気分やら盛り上がりやらを、「あれは一体なんなのだ?」と考えると、それほど大したことではないと思ってます。

感情算数

 特に「気分」という一過性の感情についていえば、「たまたまの偶然」の作用であり、その偶然を促した過去の記憶も、せいぜい数個どまりだろう。そのパターンを書き出してみるとおおむね以下のとおりだと思われる。

(1)なんらかの不快な思い、あるいは悲観的な方向に向かわせるような出来事に遭遇したら(or 思い出したら)、心は自然と暗くふさぎ込む。

(2)その逆に、心はずむような楽しい思い or 思い出に触れたら、自然と心は明るい方向に向かう。

(3)通例、同時にプラマイ数個の感情を抱いてるものだが、偶然の作用でマイナスばかりが揃うと暗くなり、プラスばかりが揃うと明るくなる。

(4)今抱いている感情を木っ端微塵にブチ壊すくらいの新しい情報に触れたら、それどころではなくなる。

 こんなのは単なる算数です。
 (3)の同時複数感情ですが、いま仮に3個あるとします。A感情(マイナス20)、B感情(プラス50)、C感情(マイナス15)で差し引きプラス15だったら明るい気分になっているってな感じでしょう。

 風邪気味で喉がイガイガしてて気分悪い(マイナス20)
 好きな○さんと一緒にご飯を食べていて楽しい(プラス50)
 来週までに仕上げないといけない課題(仕事、宿題)で心が重い(マイナス15)

 この差し引き15の黒字の状態で、気分はまあほがらか。ここで、出てきた料理が激ウマでさらに10点加点なのだが、好きな○さんに変なことを言われてちょっと傷ついたので50点が一気に10点くらいに下がってトータルマイナスに転落、でも話しているうちに誤解が解けたので一気にプラス回復、、、

 こんな感じで秒単位で感情メーターがプラス・マイナスをいったりきたりしているのだと思う。

 (4)の「それどころではない」局面は、あれこれ悩んで落ち込んでるマイナス100くらいのドツボ状況でありながら、次の瞬間に近所に大火事があったり、大きな地震があって真剣に冷や汗が出たり、あるいはふと目にした壁にゴキブリが這っているのを発見したりしただけで、「うきゃー!」になって、それまでの想念など木っ端微塵に吹き飛ぶ。ダイナマイト的な。

 それは人の心の複雑さでもあり、人の心の他愛のない単純さでもあると思います。
 昔からよく言うじゃないですか、今泣いたカラスがもう笑ったって。ほんと、ただそれだけのことだと思う。それが7割くらいかな。


無意識世界の高等数学 

 しかし、人の心は、こんな表層意識に出てくる事柄だけ決まるわけではない。もうちょっと複雑だと思います。

 それが今回述べる「わけもなく」「これといった理由はないのだけど」ということで、原因は無意識にある。無意識だから意識はしないのだけど、思い悩んでる事柄、コンプレックス、怨恨、無常観などが深層海流のようにゆっくり黒い海を流れています。

 これらが同じようにひょんな偶然で盛り上がって、あたかも海底火山の活動が活発になったので周囲の水温が上がるように、なにかに盛り上がったり、奈落の底に引き込まれるような感情の退潮を覚える。それが何かよくわからないだけに、つらいところがある。

 それらは子供の頃から抱いてきたコンプレックス、例えば容姿容貌、例えば頭のよしあし、例えば家族環境、例えば自分でも持て余している奇妙な性癖かもしれない。それらが黒い海流として膨大な無意識領域を流れている。それらは年季が古いだけに質量も膨大であり、動きも複雑である。上に述べた表層意識の一過性の動きが算数だとしたら、高等数学のように複雑で計算しにくい。

 同じように明るい海流もある。それは幼児の頃からお母さんにしっかり抱きしめられた時間の総量、自分は誰かに守られているんだという確信、自分は誰かに必要とされている価値ある存在なのだという思い。そして成長過程で抱いてきた数々の感情の高潮。部活や遊びで熱くなって、腹の底から信じられる仲間たちと感情を共有した思い、誰かに真剣な瞳で愛された思い、何かが出来た時の天に上るような高揚感、あるいはただひたすらに自分を求めてくる我が子の純粋な存在、、、、それらが明るい海流として流れている。

 それらは表層意識の一過性のもの=晴れたり曇ったり、日がさしたり、一雨きたりというものではない。それを気象(お天気)というなら、暖流寒流、偏西風、公転周期に伴う累積変化(台風とか)、さらに温帯とかツンドラという気候帯のようなものでもある。

 これら膨大な無意識の世界の動きは予想できないし、そもそも今どうなってるか観察もできない。ましてやコントールなんか出来るわけもない。表層的には大したことなくても(同僚の罪もない一言)、その言葉が、催眠術のキーワードのように作用して、黒い海に眠っていた膨大のネガ海流を引き寄せてしまうかもしれない。あるいは何かの一言、音楽、風景が、明るい海流パワーを呼び起こし、それによって救われたりもする。でも、なにがどうなるかはよくわからない。だから困る。

自意識と無意識の交錯〜ネタ切れ空白

 これは僕も自覚ありますが、細かいプラスだマイナスだという感情要因がふと途切れる時間があって、可もなく不可もなくプラマイゼロなんだけど、自意識感情スクリーンが薄くなった間隙をついて、意識下の黒い海流がももも〜ってせり上がってくるときがあります。

 これが結構厄介です。むしろ表層的にマイナスが重なってそれがさらに黒い海流を呼ぶときのほうが対象はしやすい。なぜならネガ感情の内容はわりと明確だから、それへの対処の仕方も長く生きてたら覚えてくるし、「あー、その問題はねー、もうどうしようもないんだよねー、笑うしかないよね」「広い世界でみたら、そんな重大な不幸とかいうもんでもないしさ」「そこでおセンチになってるのってけっこう滑稽だよね」とか、これまで生きていてそれなりに解決してきている。

 だけど、虚をつかれるように心の空白をついてせり上がってきた「黒い感情海流」の場合は、それがなんなのかまずわからない。なんでそう思うかもわからない。わからないくせに影響力だけはやたらある。ちょうど台風が近づいてきた時に、蒸し蒸しした空気になってみたりという、妙に不気味な空模様になってみたりするように。

 こうなるとエアポケットのようなもので、前に生きていく推進力が途切れたところで、一気に引力にひきずりこまれることもある。

 だいたいにおいて「虚しい」という感情が支配的になる。
 なんでこんなことやってるの?意味ないじゃん。面倒臭えし、かったるいし。仮にこれが出来たからって、それが何だっていうの?思ってるほど誰も喜んでくれないよ。空回りだよ。つながってるようで全然つながってないよ。誰だってしょせん他人事なんだよな。自分だってそうだし。知ってるし。なんだ、こんなもんか、まあ予想はしてたけど、ここまで無内容だとはね。ちょっとびっくりだね。別に俺なんかいなくてもいいでしょ?居る意味ないもんな。ああ、面倒くせえ。なに?また明日早起きしてアレやるの?ありえねーよな。くだらねえ。あー、なにもかもがかったるい。なあ、もういい加減やめない?こんなこと?

 内容は人によりけり、場合によりけりでしょうけど、意識の空白を侵食してくるこの寒波のような黒い世界は、なんだこれ?ってくらい影響力ある(場合もある)。

死に至る病

 それが文学的にお洒落にすると、「アンニュイな気分」とかいってみたり、「花曇りのパリにて」とか、さらに進むと一瞬の作られた快感しかよりどころがなくなって頽廃的になってみたり。

 キルケゴールというクソ難しい本を書いてる哲学者がいるのだけど、その著書に「死に至る病」というのがあって、ちょっと僕の発想と似てるんだけど(てか壮絶にエラそうな言い方、仰ぎ見るような巨星に対して”似てる”とか)、死に至る病は絶望なんだけど、真の自己の追求をすればするほど、真面目に考えれば考える程絶望するしかなくなって、それから逃れたかったら宗教でもいくしかないよなって発想(すごい端折り方だが)。

 人類の9割はなんらかの形で神の存在を信じてるそうだけど、自我が確立すればするほどそうなるのも無理ないよ。この世界の凍てつくような絶対虚無に長時間対峙していられるほど人間精神は強くない。例えば、絶対零度の宇宙空間に一人で投げ出されていたら、酸素がどうのとかいうよりも心が耐えきれなくなる。そんな上も下もない地点、どこにいるかの座標もない、およそ自分の存在意味なんかありそうもない、全世界から徹底的に拒否られているような時空間が永遠に続くのだったら、多分そんなに長く精神は持たない。

 自我の確立というのはコレをやることで、○家に生まれたからとか、○人だからとか、全体から勝手に押し付けられた役割から離れて、また誰かとの関係とか他人を利用するようなこともやめて(我が子のためにとか、愛する○のためにとか)、100%ワン&オンリーの自分だけって絶対孤独の世界にいかないと、本当の意味で自我なんか確立しない。それは宇宙があって自分がいるという原点に戻ることであり、そこで感じるのは虚無とか絶望とかいうも愚かしいほど圧倒的な世界。全宇宙から未来永劫放置プレイを受けているかのような真実。人間の脳みそや精神のキャパと現実とではあまりにもサイズが違いすぎる。耐えきれないよ。

 耐えきれないからこそ昔から神がおって自分がおってとかいう秩序や意味を求める。どこの部族にも神話はある。なぜならそうでも思わないと気が狂うのでしょう。ちなみに日本人に無神論が多いのは、それだけクールだというよりも、それだけ自我が不分明だから、それだけ魂も凍てつくような虚無に接してないからかもしれないです。

 僕のお兄さんお姉さん世代は、賢かったからまだ十代の頃にこんな本とか沢山読んで、せっせと自殺してたりしたんだけど。まあ、でも、言わんとするところはわかるし、多分それが正解なんだろうなとも思う。さきに書いたように、もともと生きていく意味とか、自分の価値なんかあるわけないんだから、なんかで気を紛らわしたり誤魔化すことを潔しとせず、真剣に真剣に考えていけば、無意味というすごい真実にうちのめされるしかない。「かったりー、意味ねーじゃん」って「自殺街道はこちら」という分岐点のような気分が厄介なのは、それが気の迷いではなく、それが事実だから。

 僕も15-16歳の頃だったかな、キルケゴールという名前も思想も知らなかったけど、似たようなことは思ってたわけですよ。「え、マジ、意味ないじゃん」って。

 ただそこで思ったのは、それで絶望するってのも、なんかカッコ悪いなって。なんて表現すればいいのかな、「おこがましい」というか、「何をいまさら」というか。もともと大宇宙の塵みたいなものがひょんな偶然で集積してグルグル回って地球になって、その中の素材がテキトーに複雑な化学反応を起こして生命現象が生じて自分がいるわけで、それだけのことでしょ。そんな微細な粒子みたいなものにいちいち意味とかあるわけない。この宇宙が虚無であり、生まれる以前が虚無で、死んだらまた虚無になるなら、虚無であること、徹底的に無意味であるのは当然なこと。虚無こそ自分のホームグラウンド、自分の実家みたいなもので、「なにを今更」と思うのはそこ。また、「その程度のクソ当たり前な事実」にいちいち大仰に絶望とかしている事自体が、なんかしょってるというか、おこがましいというか、カッコ悪いというか、何張り切ってんだよお前って感じ。

 もともと、なんかの甘ったるい幻想やらお話に誤魔化してしまうことを良しとせず、幻覚剤を食らってラリったりしたくなくて、冷厳なまでの純粋理性を志すなら=本当のことを知りたい、それを前提にしたい、嘘は前提にしたくないって思うならば、そんなところでコケてんじゃねーよって。そんなもんで甘ったるく絶望するくらいの根性だったら、最初から幻覚ドラッグきめてラリってりゃいいんだよ、てめ、世界を舐めてんのか?ってな気分です。

 でもって、ただ虚無だーって嘆いてるのも頭悪そうだし、芸なさすぎだし、そこで15-6のガキ時分の僕が思ったのは、じゃあ「意味」は俺が作ったるわと。世界が絶対零度のような真正虚無だとしても、いいよ別に、上等じゃん、俺は気にしないよ、てか気にしても変わらんだろ?だったらそれを前提になんか面白いことやってやるよ、てめえの領域だけでも、ちっぽけな範囲でしないけど、それでもなんか無から有を生じさせてやる。意味を作ることが俺の意味だと。てかね、なんかカンに触ったのですよ。虚無ごときがエラそうな面しやがって、どうだビビったか?みたいに言われている気がして(言われてないけど)、なんだてめえチョーシこいてんじゃねーよ、んなもんでビビるかよって感じ。

意外と死なない

 さて冒頭の「わけもなく」落ち込むって話しに戻りますが、そりゃそういうことは当然あるでしょ。無いほうがおかしい。もともと絶対虚無という引力圏をフライトしてるんだから、なんだかんだ目先の推力があるうちはいいけど、なんか拍子で途切れたら、吸い込まれるように落ちていくのは、そりゃそうだよ。

 別に珍しい話ではない。その結果として、昨日まで明るく笑ってた友達や恋人が家族が、その深夜に自ら命を断ったとしても、珍しいことではない。最初は、なんでじゃ?と衝撃だけど、経験数が増えてくると、まあ、そういうこともあるよなって。

 ただね、思うのは、もし本当に絶対虚無が支配してて、ちょっとでも気を緩めたら一気に死ぬんだったら、人類の自殺率はほぼ100%になるんじゃないの?それがそうなってないのはなぜ?自殺が増えたとか多いとかいっても人口比でいえば1%もない。1%も自殺してたら年間125万人も死んでる計算になって、毎年都道府県がイッコ消滅するくらいだ。実際には3万人かそこらだから、普通は死なない。

 これはいったいどういうことか?というと、意味なんかなくても、虚無であっても、結構楽しくやっていけてしまう、楽しくなくても死ぬほどでもないってことなんでしょう。99.99%が死なずに済んでるということを考えれば、変な言い方だけど、なんでそんなに死なないのか逆に不思議というか(笑)、「よっぽどこの世は楽しいんだろうなあ」って思うわ。つまり、生きていく意味なんかわりと簡単に見いだせるし、楽しいことだらけってことでしょう。だって生存成功率99.99%ですよ?すごくない?まあ、意地悪くいえば、けっこう簡単に誤魔化せてしまうってことでもあり、目先の感情のあれこれで浮いたり沈んだり忙しないんだけど、そのせわしなさで救われているというか。

 自殺の話ばっかしてるけど、これは極端なケースを出すほうがわかりやすいから。鬱の極致のような自殺でこれだったら、それよりも毒素は薄い普通の鬱気分とかだったら、通例の場合、それをなんとかするのは、それほど難しいことじゃないんじゃないか。大体自殺といっても、経済的理由であるとか、イジメとか悲惨な事情とか、QOLが急激に落ちるような疾患とかが多く、純粋に「落ち込んだから」とかいう哲学的・気分的な理由で死ぬ人はさらに少ない。つまり、気分だけでは中々死ねない。

 いや、黒い無意識海流につかまって、あーって流されているときは難しいだろうし、また、かなりしんどい状況になってしまったらヤバいかもしれないけど、その手前くらいの段階だったら、今まで書いてきたことをもう一回思い出したらいいかも。

 つまり絶対虚無という凍えるようなこの世の事実からしたら、落ち込んだり、死んだりしても無理はない。ましてや神とか宗教とか絶対的なフォーマットがなくて我流でやってるとしたら、意識の途切れで墜落しても無理はない。なのに、こんなにも死なないのは何故?といえば、最初からほっといたら死なないように、楽しくなっちゃうように人間(生き物)というのは出来ているのだろう。考えてみたらそうだよね、そこでコロコロ死ぬような種族だったらとっくの昔に淘汰絶滅してるはず。それを地球に溢れかえらんばかりに繁殖してる人類ってなんなの?っていば、もう殺しても死なないというか、めちゃくちゃしぶとい。横丁をぶらっと散歩してくるだけでもう生きる意味とか生きる喜びを簡単に拾ってきてしまうくらいの生き物なんだろう。

 絶対虚無に対抗して、俺が意味を作るとメンチ切ったティーンエイジャーの頃とか書いたけど、あの頃は百万の軍勢に一人で立ち向かうような悲壮感もあったんですよね。でもね、よく考えると、こんなに死なないんだったら、こんなにも簡単に生きる喜びを見いだせるんだったら、百万の軍勢は実は自分の背後にいたってことです。虎の威を借る狐は実はワタシでしたというオチですわ。なあんだ、です。

 また、こんなにも簡単に生きる意味を見いだせるのだったら、世界はむしろ絶対虚無の漆黒であってくれた方がいい。夜空に花火があがるように、花火をより鮮やかに楽しむためには、バックグラウンドは真っ黒でなくてはならない。漆黒こそが人生の色彩を際だたせるから。

傾向と対策

 生きてて幾つかの対処方法とか覚えたので書き出しておきます。

(1)無意識世界の健康
 無意識レベルにネガ海流が多いと、なにかつけて難儀しますから、プラス海流もたくさん作っておくおくといいです。長期的な健康管理や体つくりのようなもので、とにかく良い体験、楽しい出来事をたくさん体験して、ストックを増やすことです。

 皆に、とにかく楽しめ、楽しいって気持を大事にしろって馬鹿の一つ覚えのように言ってますけど、そういった楽しい記憶は、お金よりも何よりも人生の財産になりますから。ほんとにそうだよ。金を貯めるな、記憶を貯めろです。

 なんかしら落ち込んだ時に救ってくれるのは、自分の過去の楽しい記憶ですから。それは単に思い出して慰謝されるという形ではなくて、あらゆる形態で出てくる。美味しいものを食べるのは、動物的な快楽なだけにかなり強力ですが、そのためにも美味しい店を知っていること、さらに遡れば、その食べ物が美味しいということを知っているということ。それがあなたを救う。だからせっせと新しい味に挑戦して、「わ、これ、おいしいじゃん」ってストックを増やすといいです。

 同じように、小説、映画、音楽、漫画などあらゆるカルチャーで感動するといいです。いろいろな疑似体験をするんだけど、そこで知らないうちにあらゆる人生のハードシップの対処という免疫注射を受けてるようなものです。また、過去の自分に助けてもらうということも出来ます。ずっと昔に「芸術は拡張子」といのを書きましたけど、作品それ自体の力もそうですが、通例はその作品に接してる時の個人的な感情記憶がからんできます。例えば、甘酸っぱい初恋とかあの頃のよく聴いていた音楽は、何十年たっても色褪せないし、何十年たっても、落ち込んでるときでも、その曲を聞いたら、あたかも拡張子に関連付けたソフトが立ち上がるように、その頃の気分が蘇ってくる。プラスの感情、海流を呼び寄せることができる。それでどんだけ救われたか。無意識世界にアクセスできるのはアートだけ。

 さらに旅をするといいです。ああ、こんな風景が地球にあったんだと思い、夢幻的な花世界をハイキングし、雨の滴る日本旅館の軒先で旅情にふけり、無邪気に駅弁をかきこむ愛しい人の姿に心が満たされ、知らない異郷で優しく助けてくれた名も知らないおじいさん、荒れ狂う夜の海に畏怖を感じ、初めていく街の居酒屋にはいって最初のビールが出てくるまでのキョロキョロうきうきしてる気分やら、、、

 そういった数千数万というオーダーの膨大な記憶があなたを救うでしょう。この世界は、本質が虚無のくせにこんなにも彩り豊かで、こんなにも感動に満ちている。なかなか死なせてくれないよ。


(2)飛翔というよりも遊泳
 説明の便宜から、生きることは飛翔しているイメージで書きましたけど(推力がなくなると落ちる)、実感的にいえば、飛行というよりは海に浮かんでるような感じです。つまり、何もしなくても落ちはしないし、力を抜けば抜くほど浮くように出来ていること。

 なんとなく、何もかもイヤになったり、かったるくなることは僕にもあります。子供の頃から長い付き合いだから慣れてますけど、生きてるうちにわかってきたことは、そんなに簡単に死にはせんわってことです。いくら落ち込んで、メランコリックな気分に浸っても、そうは長く続かない。なんかテキトーになんか起きて気分が変わったり、何も起きなくて沈んでいても、だんだん沈んでるのに飽きてくる。

 この感覚は海に浮かんでるようなもので、泳ぎ疲れるときもあるんだけど、そういうときは力抜いてほったらかしにしてると自然に浮く。そこでジタバタしてると却って溺れる。ヤバい、なんとかしなきゃとか焦ると鼻に水がはいったりしてますますパニックになる。

 だもんで、そんな焦んなくてもいいよ。ほっといても生きてしまうように出来てるので、そういった自然の初期設定をもっと信じてやればいい。

(3)哲学の効用
 学問的にやることもないし、知識や衒学趣味(学識のあることをひけらかす)もいらないし、系統的にやらんでもいいけど、どっかで麻疹のように「生きる意味とは」「愛とは」とか超真剣に思ったりする時期があったりします。大体は十代の頃だと思うけど、いっかいトコトン超真剣に詰めて考えてみるといいです。北極点を踏んだみたいな感じで、人生で一回でもやっておくと、そこまでは自分の領土になるから、大抵の問題はその範囲で解決しちゃう。

 その際、ハウツー的に軽く読めるように仕立ててくれてる本を読むよりも、(好みもあろうが)ガチで本格的な哲学書を読むといいです。超絶的に頭のいい連中が、朝から晩まで考え続けて、命を削って書いてますから、そりゃあヘビー級だし、深いです。難解すぎて理解できないかもしれないけど、わからなくてもいい。ぐわー考えるっていうのはこのレベルの事を言うのか、ここまで深く考えるもんなんかってうちのめされるだろうけど、それがいい。

 大体そうやって思いつめる時ってどっかしらナルシズムも入ってたりしてるし、それに浸ってる部分もある。孤高を気取ってるとか。でも、そんなしょーもないナルシズム、真正の本物に触れたらぶっとびますから。それまで考えてる「つもり」だった自分のレベルなんか、猿がアクビしてるのと大差ないわ、こんなレベルでは話にならんわ、こんな程度でわかった気になったり、落ち込んだり、僭越の極み、おこがましいわ、恐れ入りましたって気分になります。と同時に、全力でぶつかっても全然ついていけない世界に触れてみるのはいいすよ。で、そのうち考えるのに疲れてくるし、もうどうでもよくなりますから。

(4)動いてバランス
 これも年中言ってますけど、程度の軽い場合だったら、せっせとクソ忙しく出歩いたらいいです。記憶の短時間バッファを強制的に入れ替えるという効用がありますから(新しい記憶が古い記憶を押し出してしまう)。一番物理的で原始的なやりかたなだけに、一番即効性がある。

 それとは別の効用としてはバランス回復。落ち込むときは、この世界の数百数千ある視点のたった一つにはまり込んでる場合が多い。普段は、あれこれ移動してるから、いろんな角度から物事が見られる。だからバランスも取りやすいんだけど、落ち込むとじっと物理的にも心理的にも同じ所にとどまってしまうから、物事の見方が固定化されてしまう。

 単に長い時間同じところにいるから、底がベッタリ粘着してきて固定化されているだけなんだけど、その固定感が「動かぬ真実」であるかのように錯覚する。それ嘘だし。それに囚われて落ち込んでるくらい馬鹿臭いことはないので、いろんな角度でものが見えるように、フットワークは良くしておくといいです。

 お金のことばっか考えてるとこの世は金しかないって銭ゲバみたいな視点が固着するんで、金なんかあっても大した役にも立たない局面にも定期的に触れておかないと変な人になる。ただし、仙人的なことばっかやってると世俗に疎くなってズレてくる。この意味で、旅はいいですね。もう物理的に視点が変わるし、TVのチャンネル切り替えて別の番組になるように頭も切り替わるから。ただし旅人というのも視点のうちの一つにすぎないから、そればっかやってると固着してくる。

 足の裏がベトベトして固着してきたらヤバいです。片目だけでみてると距離感がつかめないのと同じ。最低でも両目、できればトンボみたいな複眼で見えていた方がいいです。1日の間で「やっぱ金は大事だよ」と思い、「いや、銭金じゃないよな」と思い、「愛こそが全てだよな」と思い、「寝るより楽はなかりけり」と思うくらいがいいです。結局なんだんだよ?ってくらい。でも全部正しいから矛盾しているのが正常。

 
文責:田村


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