Tweet
今週の一枚(2018/01/29)
Essay 862:「わからない」恐怖感情と知的劣化スパイラル
写真は、Burwoodのショッピングセンター近くの公園。
直近の出来事が重なって今週のテーマが決まりました。
「うーん」と唸ってしまった。
まず問題提起として、1995年を境に日本人のメンタルが変わった、という点です。
何が変わったかというと、意味不明で不条理なものを受け入れて楽しむ心の余裕がなくなった。
サリンと神戸地震によって、「理解できないこと」が目の前にバンバン生じてきたので、心が折れたっぽいところがある。その結果どうなるかというと--------、
「とにかく理解して安心したい」「理解できないものは全部拒否!」というメンタルに対して、表現者としては突っぱねるか、迎合すべきか悩ましいところ。
それは漫画家の中川いさみさんの場合も同じで、
これに対する意見はまた後で書きます。まずはこういう出来事(作品を読んだ)という点。
そこで、あれこれ(また長文の)お返事をしたのですが、その内容が上の出来事1と延長線上で重なってくるのです。
第二に、しかしながら総じて言えるのは、何かを体験することによって何かを知ったり、慣れたりすることが人間力増強につながっていく場合が多いという点です。
例えば、他者からなにか危害を加えられたら「渡る世間は鬼ばかり」という認識を得ますが、それによって周囲の人々から温かいサポートを受けたら「渡る世間に鬼はなし」という認識も得ます。正反対に矛盾してるんだけど、それがしれっと同時存在しているのが現実。その現実を体験することで世間や他者に対する見え方も広がるし、深まる。「いいことばかりじゃないけど、悪いことばかりではない」という「ニュアンス」がわかる。それが人間力につながっていく(器の大きい大局観とか、洞察力とか、パニックに陥らない平常心とか)。
いずれにせよ何かを経験しないと身につかない。
あ、「経験」といっても、ジタバタ身体を動かすだけではなく、読書や音楽鑑賞もそうだし、自然に触れたりすることも勿論含まれます。なんでもいい。「あ、いいな」「それはイヤだな」「あ、そうなんだ」って思いを得る度に、何事かを学び、その分だけ成長する。これはスポーツでの武道でもそうで、「こういうコンビネーションでパンチを打つとワンテンポ遅れるからカウンターを食らう」と一発食らっておねんねしている間に学ぶ。バイト先の親方でも「この人、口は悪いけど、邪悪ではないな」「口が悪いというのは要するに正直であり、且つボキャブラリが少ないからなんだな」とか段々わかるようにもなる。
ということで、どうしたら(効率よく)人間力を付けられますか?といえば、一つでも多くいろいろな経験をするといいよってことは言えると思います。さらに「上級技術」として、「経験」のバラエティを広げるとか、良い経験と悪い経験のバランスを取るとかあるけど、まずは「数」でしょう。全人生で寿司を一回、それもたった一貫しか食べたことがなかったら、寿司のなんたるかはわからんだろう?と。そりゃゼロ回よりは飛躍的に理解は進むけど、それで全てがわかるなんてことは、まず無い。ちなみに「寿司」のところに「恋人」「仕事」「住まい」なんでも代入可。
さて、そうなってくると、次の課題がでてきます。
どうやったら経験を増やせるか?です。
ということは、経験の本質的な栄養素は「未知の成分」だと思われます。「未知」をより多く摂取できるかどうかがポイントになるでしょう。
ただ、ここで大きな問題があります。未知のもの(よく知らないもの)は恐い/不安だという点です。知らない世界に入っていくのは、いつでもスプーン一杯分の勇気がいります。
結局はその勇気があるかどうかでしょう。
でもね、いちいち「勇気」とか言わなくても、未知のものに楽しくベタベタ触れる人だったら苦労は要らない。「勇気」というのは「なんらかの苦痛を予期しつつも、敢えて行動するための心の準備」だと思うのですが、それって「辛いこと」という前提での話です。最初から「楽しいこと」だと思ってたら勇気なんか別にいらない。大好きなケーキを食べるときに勇気はいらない。美味しいケーキ屋さんで新作が登場して、それは確かに「未知」のものなんだけど、それに触れるときは特に「勇気」なんかいらないでしょう?
世の中には、同じ未知のことを接しながらも、「不安」よりも「期待」「楽しさ」を感じる人もいます。だから、そういう人になってしまうのが一番簡単だと思います。まあ、そんなにいきなり「そういう人になる」のは無理っぽく感じるでしょうが、だけど、こんなの「考え方ひとつ」ですからね。
そこは性格とか過去のトラウマとかいろいろ難しい事があるのでしょうけど、でも、それほど深刻なものではない90%以上の場合は、ただの「思考技術」というか、「こう考えるといいよ」というテクニックだと僕は思ってます。
子供(昔の僕ら)は全てにおいてひ弱だから、生きていくために必要な知識を急速に摂取しなければならない。それは本能的な欲求でしょう。おっぱいの吸い方にせよ、「泣くと事態が改善されるぞ」という因果関係やらなんやら(笑)。特に生まれたては(覚えてないけど)、100%完全未知であって、今の僕らでいえばタイムスリップかなんかで45世紀の超未来に来てしまいましたー!ってくらいの経験の筈で、パニックになったり発狂しても不思議ではないくらいの出来事でしょう。それを全ての赤ちゃん、子供は乗り越えて(つまり僕らも乗り越えて)、ここまでいろいろ学んで来ているわけです。もうね、もの凄いことやってきてる。
だから未知のものに触れて、新しい知識や感覚を得て、それを自分のものにして、自分大きくなるというのは、僕らにとっては生まれてこの方最も頻繁にやってきた得意中の得意技のはずです。そこが不得意だったら、育つ過程でヤバいことになっていたでしょう。その意味で、生きること=未知に触れることであり、生命力の強さ=未知耐性ではないかと思うくらいです。
ならば大人になった今でも、子供の頃の感性を出来るだけ維持してた方が良い。未知のものに対して、恐怖感情を得るのではなく、好奇心にかりたてられること。かつての自分は確かにそうだったのだから、絶対できるのですよ、だってマスター済なんだから。あとは頑張って思い出せ!と。お気楽に言ってますけど、これ、思い出せますよ。1時間でもいいから、小学校の夏休みの虫取りやら、クリスマスやら楽しいときの思い出に耽ってたらいいです。だんだんあの頃の感覚が賦活されてきますから。いやマジに。
もう少し抽象化していえば、知らないことに接してポジな結末とネガな結末が予想される場合、子供はわりとポジな方に意識が集中するのだが、大人はそれほどポジ傾向が少ない。なぜそうなのか?を掘り下げて、源流まで遡っていけば、「なんのために生きているのか?」という根源的な問いやら、毎日生きていく上での基本ポリシーみたいなものに行き着くと思います。
子供は簡単で、人生の意味や生活の基本方針は「楽しくなりたい」です。複雑な家庭環境とかなければ、基本はそうであるはず。楽しいかどうかで日々決まっている。ところが大人になると、いろいろあったのか、トラウマの品揃えが充実したのか、単に運動不足なのか、「辛いことは出来るだけ避けたい」というネガベースになる。ポジの極大化ではなく、ネガの極小化が生きていく基本フォーマットになる。
僕が思うに、ネガベースの発想が日常に染み付いてしまった人は(楽な方がいい、しんどいのイヤが基準になってる)は既に「老人」でしょう。歴数年齢なんか関係なく、メンタルとしては老人。老人がそうなるのもわかるのですよ。身体の苦痛は年々強くなります。単に階段昇るだけでも若い頃の10倍くらいしんどい。20代の人がこれを追体験しようと思ったら、常に他人をおんぶしながら日常暮らしていると思ったらいい。また記憶力も衰えてくるから、新しい技術を習得するのも効率悪いし、覚える快感よりも、なかなか覚えられない情けなさや苦痛の方が強い。いくら説明されても理解できないから、怒られたりして悲しくなってしまう。そうなると、出来るだけ何も変わらない方がいいし、何か新しい(知らない)事が起きたら、それは悲しい結末になるケースが多いから、できるだけ接したくなくなる。かくして老人は保守的になると言われてますが、これはわかります。無理もない。
でも子供でないければ老人でもないエリア(20-80歳くらいかな)は、ポジ原則(子供派)になるかネガ原則(老人派)になるかは、ひとえにその人の気の持ちようだと思います。だから「考え方一つ」だと。でもなー、50歳以前で既に老人派に属しているとしたら、なにかが決定的に間違ってるような気がします。間違って何が悪いかというと、勿体ないです。楽しかるべき人生の時間を、悲し方向へ、辛い方向へ、自分でもっていってるから、それはちょっと、、、と。
ちなみに歴数年齢が90だろうが110だろうが、子供の感性もってる人はいます。まあ、もともと子供に還りますけど、それでも、「これがね、ハマると病みつきになってね」「とっても美味しいのよ、これ」とかニコニコ説明している可愛いおじいちゃん、おばあちゃんがいますけど、ほんと少年少女ですよね。死ぬまでポジであることは、普通に可能だと思いますし、僕自身も十代の頃の自分がライバルで、あの地点から一歩でも退いたら、横に立ってる十代の自分にせせら笑われてるような気がして。いつまで生きてられるかわからんが、身体が動くかぎり「落ち着きのない子」でいたいもんです。
さて、その話が人間力とどう結びつくかと言えば、ポジとネガで将来的にどっちが伸びるか?といえば、言うまでもなくポジベースな人です。なんせ多少コケようが、失敗しようが、たいしてメゲずに、次から次へとトライし続けるから、結果的に単位時間あたりの経験量はネガベースの人の数倍数十倍の差になる。それだけ数をこなせば、どんな人でも賢くなろうし、技術も力もつくでしょう。それだけのことじゃないですかね。
共通点はなにか?もうおわかりでしょう、「わからないことを楽しめるか、怖がるか」です。
1995年のサリンも、神戸地震も、僕はたまたま日本に帰国して永住権が降りるのを待っていたので、どちらも体験しました。神戸地震のときは睡眠中(覚醒時)に本棚から固い法律書群の雪崩攻撃を受けましたし、サリンもテレビ見てました。「うわー」とか思ったけど、でも、それで世界観が変わったかというと、うーん、別に変わらなかったけど。
ということは、僕は昔から「そのくらいアリだろ」っていう世界観だったんですかね。でも歴史とか見てたらその百倍くらい残虐なことを人類はやってきたし、これからもやると思う。犯罪とか人間の異常行動とかいうのは、仕事柄見てたので世界観が変わったのはむしろ職場の方が強い(てか、法学部在籍時代ですら、過去の判例とか見てると、「これ本当に日本であったの?」と信じられないような事件がいくらでもでてきますから)。また職域外でも、変な人とか普通にいたしな。中島らものエッセイで、阪急神戸線に有名なおっちゃんがいて、両手をピンと左右に伸ばして、自分が飛行機になって「ぶーん」と言いながら車内を走ってて、ああ、おっちゃん、今日も元気やーとか。そんなラフな世の中だったけどな(残念ながら僕は見たことがないけど)。
鴻上さんが言うように、「気持ちの問題でしかないやん」「今さらわかったからといって逃げていいの」というのは僕も強く思います。それ以上に、どうしてオウムや地震程度のことで変わるの?という疑問はあります。それまで、あんまりショッキングな物事に触れてこずに過ごしてきたからかなー。
ただ、そうなると「羹に懲りて膾を吹く」という難しい漢字の諺がでてきます。熱いラーメンを迂闊に食って舌を火傷したやつは、冷やし中華を食べるときもフーフー冷まして食べるという意味です。ガーンとショッキングだったんで、そこがトラウマになっちゃって、「この世界はわからない、恐い」と思い込んでしまった。
例えば、一行で楽しくピクニックをして森を歩いていたら、いきなり熊が出現して、可哀想な仲間の一人が捕まって、見るも無残に腸引きずりだされて食われているという経験。それまで楽しい森だったのがホラー映画なって、いつまた悲惨な目に遭うかもしれないってビビってしまった。つまりは「打ちのめされて世の中の見え方が変わってしまった」のでしょうか。
そうなると、「わからない」ということが(怖くて)許せなくなる。なんでもわかりたがるようになる。それ以前は、器が大きかったのか、あるいは平和ボケしてたのか(どちらの場合もあるだろうけど)、不条理ものとか楽しめていた。「わはは、全然わかんね、でも面白〜」って。マンガでも、「コージ苑」がでてきて、「伝染るんです」がでてきて、この作品の書いた中川いさみさんの「熊のプー太郎」が出てきた。僕は「熊プー」がめっちゃ好きで、あの不条理ボケには何度転げ回って笑ったことか。でもそんなのが受けなくなった。寂しいですねー。
でも、それじゃ「未知耐性」が弱まる一方で、生きるにしても「とにかく辛くない方向へ」になり、出来るだけ経験数(未知成分)を減らす方向になるから、経験値がつかず、大人になっても信じられないくらい精神年齢が子供のまんまという痛い人になってしまう。
ただね、僕が本当に問題だと思っているのは、そこから先です。
でも、現実的に調査研究したり、有効な対策を構築して前向きな解決するのではなく(地震が恐いなら自ら地学を勉強し気象庁に入るとか)、ものすごいショートカットが行われますことがあります。恐怖感情そのものを沈静化するのを第一にもってきてしまうことです。
恐怖感情が強すぎて「わからないまま」という状況が感情的に許されない。またイチから基礎を勉強して〜なんて迂遠な方法をとってる心の余裕もない。だから、なにがなんでも辻褄の合いそうな仮説、時にはトンデモ的な陰謀論まがいのストーリーを見つけ出し、しがみつき、それを真実だと思い込むという、本末転倒の作業が行われることです。
繰り返しになりますが、「不安→わかりたい」という欲求は、知的能力を高める方向に作用します。もっと知りたい、なんでそうなるのか理解したいって知的好奇心があるからこそ、人類はここまでこれた。でも「恐いから」という知的好奇心ではない感情がモチベーションになってると、真実を解明するという知的興奮や楽しさよりも、恐怖から逃げることがメインになってくるから、本当かどうか、それが真実であるかどうかの慎重で論理的な(それだけに面倒くさい)知的作法を放棄する。あるいは最初からやるつもりなんかない。
もう、ここまできたら宗教とか因習です。「龍神様の祟りじゃあ〜」とか言ってるのと差がないですよ。あ、宗教の名誉のために書いておきますが、良心的で真摯な宗教家、あるいは開祖の連中はそんなこと言ってなくて、いかに人間の善性を高め、人が人としてまっとうできる生き方はないもんか?という実践哲学としてやっているでしょう。でも、あまり良心的とは言い難いところもあって、なにかの不安や恐怖、不吉な出来事に関する「正解」を言い(これは家相、風水、墓相、、、you name it!が悪いから、こうなっているのだ)と、「解決」としては「これを買え」と。
知的劣化については、「絶対」までつけてやっちゃいけないと思うのは。それをやったらもう終わりというか、知的能力は荒廃の一途をたどるからです。まともにモノを考えるという事ができなくなる。まあ、考えない方が楽だし、人間一回楽な道を知ったら、そこから離れませんし。知的な意味での麻薬みたいなもんだと思います。単に阿呆になるというだけではなく、鬱やその他の精神疾患エリアも近いです。
本当に知的であろうとすれば、「わからん!」と吼えたくるように言ってるでしょう。まあ吠えんでもいいけど。この世のことなんか、わからんのが当たり前でしょ。僕も、ずっと昔のエッセイで「そんなに簡単にわかってたまるか!」を書きましたが、あれから20年くらいあれこれ調べ物したり考えたりしますけど、一向にわかった気がしません。
だから凹むか?といえば、全然。凹むわけないでしょ。面白いもん。
第一線の研究者とかと話すと、実に喜々として「これがね、わかんないんですよ」「もうミステリーですよ」って、うれしそう。なぜ人間は○○になると○○になるか?で、脳内の○○の働きが活性化するからだまでわかっても、じゃあ何がそこを活性化するかというとわからない、どういう化学物質がどう作用して活性化がおきるのか?というと又わからない。一つ突き止めたら2つ以上新しい疑問が出るのは普通の話で、永遠にわからない。これを「永遠に遊べる」と思って、嬉々としているのが知的快楽であり、知的作法ってもんでしょう。
研究職や健康な連中の「わかりたい」という欲求そのものは、恐怖にかられている連中の百倍以上の熱意で思ってる。でも、わからないと死ぬとか恐怖に苛まれるわけではない。そのあたりの心のバランスがきちんととれている。
簡単に言えば、余裕が無いんでしょうね。あれやってもこれやってもストレス、ストレス、またストレスで、心のCPUはパンパンで、どっかのソフトが止まったら、マウスばんばん叩いて怒り狂うような感じ。追い詰められているというか、わからないものを、わからないまま楽しむとか賞味するとかいう余裕はないね。
もうそうなると、全てが博打でいうところの「安目をひく」状態になる。知的劣化は病気みたいなものですから、どんどん症状が進行する。ちょっと考えればすぐにわかるような大嘘にすぐひっかかる。「ちょっと考える」ってことが出来ない。とりあえず自分で反対仮説を幾つか並べてみて、ひとつ一つ潰していって検証してみるとか、そういう作業ができない。
なぜ出来ないかといえば、全てが心の安定というストレス対策だから、別に知的である必要もないし、それが真実である必要もないのよね。「お伽ばなし」でもなんでもいい。できれば自分のプライドをくすぐってくれたり、ちょっといい気分に浸れるような「おはなし」だったら尚のこと心に心地よいからすがりつく。
だけどそれやってる分だけ現実と乖離するから、現実的にはやってはいけない下策愚策ばかり行い、当然のように事態はどんどん悪化する。「日本は神の国だから絶対負けない」とか声高に叫んでると、次の瞬間ボコボコに空襲くらって皆殺しにされてしまう。
もっといえば、わからないことが恐怖をかきたてる時点で、ちょっとおかしい。同じく、未知のものを怖がりすぎている時点で、既にちょっと病んでるんじゃないかね。
「想定外」「ありえない」です。どちらもここ10年ほど好んで使われるようになり、政治家やメディアですら言うようになった。これねー、僕のようにタイムカプセルで保存されているような古い日本人(90年初頭くらいの)感性でいえば、けっこう恥ずかしいセリフですよ。少なくとも、専門家やプロがその言葉を使ったらいかんでしょってくらい、馬鹿宣言、無能告白じゃないかな。
だってさ、想定外っていっても現実に生じてるのは間違いないわけで、それを想定できなかった時点でれっきとしたミスですよ。無能確定でしょ。プロだったら不可抗力は言い訳にならない。どんな場合も処理できて一人前だし、処理できないような不可抗力はあらかじめ(天変地異条項などで)想定して契約に書くのがビジネスマンの基本でしょ。それを悪びれもせずヌケヌケと想定外って、どんだけって。これはしっかりした秘書業務とかやってた人なら同意していただけるはず。
「ありえない」も同じで、現実に起きているんだから「ありうる」んだわ。てか「えない・うる」という可能性の話ではなく、議論の余地なく現実に起きている。それを想定してなかったのは、いかに世間が狭いか、いかに将来の予知能力が低いかでしょう。恥ずかしい話だよ。意味内容としては、「気に食わない出来事が起きた」という気に食わない心情部分にあるんだろうけど、ほら、そういう自分の感情→世界観になってるところが問題なのよ。この世は自分の気に入った状態であって欲しい、そうでないものは客観として認めない、「私が気に入らないものはこの世に存在してはならない」という幼児的な発想でしょう。自分のパーティに参加してくれない友達がいたら「ありえない」というのは、いかに手前勝手な天動説で生きてるかってことです。
そんな深い意識で使ってないのはわかるけど、だから恐いんですよ。無意識レベルでそうなってるんだから。
あと「意味不明」って言葉もそうですね。この言葉を使われている状況をみると、確かにそこだけ見てたら不明なんだけど、大局的にみて、あれこれ意味を推測して補強してやれば、だいたいの意味はわかる場合が多い。それを「不明」といってディスるのは、それだけの知的作業がもう億劫になってしまっている、一種の知的な老化現象じゃないですかね。同時に、他者に対して好意的に理解してあげようという優しさも劣化してる気がする。
他にも、ツイッター的に120文字で世の中知ろうとしたり、まとめサイトのようにアンチョコ的に調べたらいいみたいな傾向とか。ひとことでいえば、世の中舐めてますよね。「自分のパートナーの気持ち」すらよう分からんのに、あれだけ豊富な現場情報を持ち合わせていながら、それでもわからず、いつも地雷踏んじゃどっかーんと吹き飛ばされているのに(me too!)、そういう複雑な人間が何万何億という単位でランダムに動き回ってる世の中が一行二行でわかると思う方がおかしい。
知的劣化を、それこそ一言でまとめてしまえば「貧すれば鈍する」でしょう。人間追い詰められると馬鹿になる。メンタルがそのままインテリジェンスに直結する。詰将棋だろうが、大学入試だろうが、静かな環境で誰にも邪魔されないでゆっくり解いたら出来るものも、目の前にピストル突きつけられてやらされてたら、まともに頭なんか働かない。誰でもそう。それだけのことだと思う。知性を十分に活動させられるだけの精神的安定性がない。
ネガベースになるから、未知を恐れて新体験ができず、人間的に成熟できない。また恐怖感情が強すぎるから、反比例して知的能力が錆びついてきて、局面局面で愚かな選択を繰り返し、それがどんどん悪化する。負け戦ってのはそういうことです。
なんでそうなるの?といえば、ネガベースだからであり、なんでネガベースになっちゃうの?といえば、攻撃がない、ポジがない。つまりは、楽しいことを思いつく能力が低下している点に基づくでしょう。さらになんで楽しいことを思いつけないの?といえば、それまで本当に楽しい思いを十分にしてないからでしょう。
自己破産案件とかやってたとき、多くは真面目にやってて遂にって人が多いけど、なかにはどうしようもない人もいる。それこそ「闇金、ウシジマくん」に出てくるような多重債務者達で、僕が思うに、彼らの共通点は、金がないくせに金遣いが荒い。金がないからケチケチするのはいいんですよ。当然の行動だし。でも、金がないない言ってるくせに、買い食いするわ、衝動買いするわ、バクチやるわ、馬鹿みたいな金の使い方をする。
なんで?ってみてると、結局、お金で買う快楽(楽しさ)しか選択肢がない。それしか思いつかない。別に金なんか使わなくたって、いくらでも楽しいことなんかあるし、どっちかというと本当に楽しいことって、金使わないとき(使っても少額)の方が多いんだけど、なんでそんなにジャンキーのようにお金使うのかなー?って。
でも、楽しいこと考えるのってけっこう難しくて、一定レベル以上のメンタルと知的水準が必要だと思う。経験的にもめちゃくちゃ楽しかったことって、だいたいにおいて下らな〜い、馬鹿馬鹿しい、それがどうした?的な遊びが多いです。遊びって基本そういうものです。それを「楽しいな」って感じられるためには、一定以上の心のゆとりが必要。また、なんかの遊びを思いつくためには(仮装コスプレをしながら「だるまさんがころんだ」をやろうとか、遠くから見たときのシュールで馬鹿馬鹿しい風景に笑い転げようとか)、手持ちの記憶をランダムに検索して組わせていくという高度な知的作業が必要です。平凡なことも一捻りいれるとすごく面白くなるとか。だからポジベースに持っていくためには、それなりの前提条件が必要。知性とメンタルですが、先にくるのはメンタル。メンタルがいけてたら頭は働きますから。
ということで、上流の上流まで遡ってきて出てきた結論は、もっと楽しめ、です。エンジョイ!です。バカボンドじゃないけど「もっと笑え」ですし、「笑う門には福来る」です。
楽しいという感覚を取り戻すのが第一だと思う。
↓
それを取り戻したら、未知のものが少しは楽しく感じられるようになる。
↓
だから、未知の世界にはいっていけるし、そこで経験を積むから人間力もつくし、賢くもなる。
↓
それが好循環になれば、未知=楽しいに近くなり、わからないこともそれほど恐怖ではなくなる。
↓
ゆえに恐怖感情や焦燥感も減り、冷静に物事をみることができるようになり、結果的にクレバーな選択が増えるので、良い方向に転がっていく。
そして明朗快活な日々のなかで、楽しい感情は増大し、生命力もまたはち切れんばかりに増大し、ついには「箸が転がっただけでも笑い転げる」というティーンエージャーの横溢とした生命力が賦活し、ひいては子供時代に回帰する。
大人の知恵・技術と子供の感性・行動力を併せ持っていたら最強だと思うし、目指すのはそこだと僕は思う。
Tweet
文責:田村1995年から日本人のメンタルが弱くなった件
出来事その1は、例によってマンガを渉猟(しょうりょう=狩りのようにあちこち探しまわること)をしておりましたら、「マンガ家再入門」(全四巻)という中川いさみさんの作品がありました。いずれまた、趣味全開バリバリのはてなブログAnnexで紹介するかもしれませんが、その中に以下のような鴻上尚史さんの話がありました。「うーん」と唸ってしまった。
まず問題提起として、1995年を境に日本人のメンタルが変わった、という点です。
何が変わったかというと、意味不明で不条理なものを受け入れて楽しむ心の余裕がなくなった。
サリンと神戸地震によって、「理解できないこと」が目の前にバンバン生じてきたので、心が折れたっぽいところがある。その結果どうなるかというと--------、
「とにかく理解して安心したい」「理解できないものは全部拒否!」というメンタルに対して、表現者としては突っぱねるか、迎合すべきか悩ましいところ。
それは漫画家の中川いさみさんの場合も同じで、
これに対する意見はまた後で書きます。まずはこういう出来事(作品を読んだ)という点。
人間力増強の方法は?
出来事その2は、直近いただいたお悩みメールで、どうやったら人間力がつけられるのか?というお問合わせでありました。「そんなもん、自分で考えろ、ですよね」とご自身でオチまでつけておられたけど、真摯にお悩みなのは伝わってきます。そこで、あれこれ(また長文の)お返事をしたのですが、その内容が上の出来事1と延長線上で重なってくるのです。
やっぱ経験の数でしょう
お返事した第一点は、人間力というのは「結果としてついてくる」ものであって、それ自体を目指すのは難しいこと。「人間力」って非常に抽象的な概念だし、また内容も多岐にわたる〜むしろ「全部」って言っていいくらい広いので、それを目指してると全ての方角が正解になってしまって立ちすくんでしまいがち。第二に、しかしながら総じて言えるのは、何かを体験することによって何かを知ったり、慣れたりすることが人間力増強につながっていく場合が多いという点です。
例えば、他者からなにか危害を加えられたら「渡る世間は鬼ばかり」という認識を得ますが、それによって周囲の人々から温かいサポートを受けたら「渡る世間に鬼はなし」という認識も得ます。正反対に矛盾してるんだけど、それがしれっと同時存在しているのが現実。その現実を体験することで世間や他者に対する見え方も広がるし、深まる。「いいことばかりじゃないけど、悪いことばかりではない」という「ニュアンス」がわかる。それが人間力につながっていく(器の大きい大局観とか、洞察力とか、パニックに陥らない平常心とか)。
いずれにせよ何かを経験しないと身につかない。
あ、「経験」といっても、ジタバタ身体を動かすだけではなく、読書や音楽鑑賞もそうだし、自然に触れたりすることも勿論含まれます。なんでもいい。「あ、いいな」「それはイヤだな」「あ、そうなんだ」って思いを得る度に、何事かを学び、その分だけ成長する。これはスポーツでの武道でもそうで、「こういうコンビネーションでパンチを打つとワンテンポ遅れるからカウンターを食らう」と一発食らっておねんねしている間に学ぶ。バイト先の親方でも「この人、口は悪いけど、邪悪ではないな」「口が悪いというのは要するに正直であり、且つボキャブラリが少ないからなんだな」とか段々わかるようにもなる。
ということで、どうしたら(効率よく)人間力を付けられますか?といえば、一つでも多くいろいろな経験をするといいよってことは言えると思います。さらに「上級技術」として、「経験」のバラエティを広げるとか、良い経験と悪い経験のバランスを取るとかあるけど、まずは「数」でしょう。全人生で寿司を一回、それもたった一貫しか食べたことがなかったら、寿司のなんたるかはわからんだろう?と。そりゃゼロ回よりは飛躍的に理解は進むけど、それで全てがわかるなんてことは、まず無い。ちなみに「寿司」のところに「恋人」「仕事」「住まい」なんでも代入可。
さて、そうなってくると、次の課題がでてきます。
どうやったら経験を増やせるか?です。
未知を怖がらないで楽しむ
経験というのは、それまでやったことがない=全然知らないことの方が収穫量が多いです。100%勝手知ったることをやってても、あまり経験値は増えない。自宅のトイレに1000回行こうが1300回行こうが、そんなに進歩はない。ということは、経験の本質的な栄養素は「未知の成分」だと思われます。「未知」をより多く摂取できるかどうかがポイントになるでしょう。
ただ、ここで大きな問題があります。未知のもの(よく知らないもの)は恐い/不安だという点です。知らない世界に入っていくのは、いつでもスプーン一杯分の勇気がいります。
結局はその勇気があるかどうかでしょう。
でもね、いちいち「勇気」とか言わなくても、未知のものに楽しくベタベタ触れる人だったら苦労は要らない。「勇気」というのは「なんらかの苦痛を予期しつつも、敢えて行動するための心の準備」だと思うのですが、それって「辛いこと」という前提での話です。最初から「楽しいこと」だと思ってたら勇気なんか別にいらない。大好きなケーキを食べるときに勇気はいらない。美味しいケーキ屋さんで新作が登場して、それは確かに「未知」のものなんだけど、それに触れるときは特に「勇気」なんかいらないでしょう?
世の中には、同じ未知のことを接しながらも、「不安」よりも「期待」「楽しさ」を感じる人もいます。だから、そういう人になってしまうのが一番簡単だと思います。まあ、そんなにいきなり「そういう人になる」のは無理っぽく感じるでしょうが、だけど、こんなの「考え方ひとつ」ですからね。
そこは性格とか過去のトラウマとかいろいろ難しい事があるのでしょうけど、でも、それほど深刻なものではない90%以上の場合は、ただの「思考技術」というか、「こう考えるといいよ」というテクニックだと僕は思ってます。
誰でも昔は子供だったから、当然マスターしているはず
だって全員それは知ってるはずだし、出来る筈です。なぜなら、子供の頃は誰でもそだったはずですもん。子供というのは、未知なこと、知らないことが大好きです。成長するのが仕事のような子供の場合(特に10歳未満)、めちゃくちゃ未知のものへの耐性が強いです。耐性というよりも、大好物で、「なになになになに?それ?見せて見せて」「なんで?なんで?なんで?」ととにかく見たがる、触りたがる、そして知りたがる。子供(昔の僕ら)は全てにおいてひ弱だから、生きていくために必要な知識を急速に摂取しなければならない。それは本能的な欲求でしょう。おっぱいの吸い方にせよ、「泣くと事態が改善されるぞ」という因果関係やらなんやら(笑)。特に生まれたては(覚えてないけど)、100%完全未知であって、今の僕らでいえばタイムスリップかなんかで45世紀の超未来に来てしまいましたー!ってくらいの経験の筈で、パニックになったり発狂しても不思議ではないくらいの出来事でしょう。それを全ての赤ちゃん、子供は乗り越えて(つまり僕らも乗り越えて)、ここまでいろいろ学んで来ているわけです。もうね、もの凄いことやってきてる。
だから未知のものに触れて、新しい知識や感覚を得て、それを自分のものにして、自分大きくなるというのは、僕らにとっては生まれてこの方最も頻繁にやってきた得意中の得意技のはずです。そこが不得意だったら、育つ過程でヤバいことになっていたでしょう。その意味で、生きること=未知に触れることであり、生命力の強さ=未知耐性ではないかと思うくらいです。
ならば大人になった今でも、子供の頃の感性を出来るだけ維持してた方が良い。未知のものに対して、恐怖感情を得るのではなく、好奇心にかりたてられること。かつての自分は確かにそうだったのだから、絶対できるのですよ、だってマスター済なんだから。あとは頑張って思い出せ!と。お気楽に言ってますけど、これ、思い出せますよ。1時間でもいいから、小学校の夏休みの虫取りやら、クリスマスやら楽しいときの思い出に耽ってたらいいです。だんだんあの頃の感覚が賦活されてきますから。いやマジに。
子供のポジベースと老人のネガベース
しかし、子供の頃には楽勝に出来たことが、大人になると苦手になる(子供の頃は虫が好きだったのに、大人になると嫌いになるとか)ことが多いのですが、なぜそうなるのか?もう少し抽象化していえば、知らないことに接してポジな結末とネガな結末が予想される場合、子供はわりとポジな方に意識が集中するのだが、大人はそれほどポジ傾向が少ない。なぜそうなのか?を掘り下げて、源流まで遡っていけば、「なんのために生きているのか?」という根源的な問いやら、毎日生きていく上での基本ポリシーみたいなものに行き着くと思います。
子供は簡単で、人生の意味や生活の基本方針は「楽しくなりたい」です。複雑な家庭環境とかなければ、基本はそうであるはず。楽しいかどうかで日々決まっている。ところが大人になると、いろいろあったのか、トラウマの品揃えが充実したのか、単に運動不足なのか、「辛いことは出来るだけ避けたい」というネガベースになる。ポジの極大化ではなく、ネガの極小化が生きていく基本フォーマットになる。
僕が思うに、ネガベースの発想が日常に染み付いてしまった人は(楽な方がいい、しんどいのイヤが基準になってる)は既に「老人」でしょう。歴数年齢なんか関係なく、メンタルとしては老人。老人がそうなるのもわかるのですよ。身体の苦痛は年々強くなります。単に階段昇るだけでも若い頃の10倍くらいしんどい。20代の人がこれを追体験しようと思ったら、常に他人をおんぶしながら日常暮らしていると思ったらいい。また記憶力も衰えてくるから、新しい技術を習得するのも効率悪いし、覚える快感よりも、なかなか覚えられない情けなさや苦痛の方が強い。いくら説明されても理解できないから、怒られたりして悲しくなってしまう。そうなると、出来るだけ何も変わらない方がいいし、何か新しい(知らない)事が起きたら、それは悲しい結末になるケースが多いから、できるだけ接したくなくなる。かくして老人は保守的になると言われてますが、これはわかります。無理もない。
でも子供でないければ老人でもないエリア(20-80歳くらいかな)は、ポジ原則(子供派)になるかネガ原則(老人派)になるかは、ひとえにその人の気の持ちようだと思います。だから「考え方一つ」だと。でもなー、50歳以前で既に老人派に属しているとしたら、なにかが決定的に間違ってるような気がします。間違って何が悪いかというと、勿体ないです。楽しかるべき人生の時間を、悲し方向へ、辛い方向へ、自分でもっていってるから、それはちょっと、、、と。
ちなみに歴数年齢が90だろうが110だろうが、子供の感性もってる人はいます。まあ、もともと子供に還りますけど、それでも、「これがね、ハマると病みつきになってね」「とっても美味しいのよ、これ」とかニコニコ説明している可愛いおじいちゃん、おばあちゃんがいますけど、ほんと少年少女ですよね。死ぬまでポジであることは、普通に可能だと思いますし、僕自身も十代の頃の自分がライバルで、あの地点から一歩でも退いたら、横に立ってる十代の自分にせせら笑われてるような気がして。いつまで生きてられるかわからんが、身体が動くかぎり「落ち着きのない子」でいたいもんです。
さて、その話が人間力とどう結びつくかと言えば、ポジとネガで将来的にどっちが伸びるか?といえば、言うまでもなくポジベースな人です。なんせ多少コケようが、失敗しようが、たいしてメゲずに、次から次へとトライし続けるから、結果的に単位時間あたりの経験量はネガベースの人の数倍数十倍の差になる。それだけ数をこなせば、どんな人でも賢くなろうし、技術も力もつくでしょう。それだけのことじゃないですかね。
わかってないと恐いという防衛的ひきこもりメンタル
ショッキングでトラウマに
さて、ここで出来事1(95年以降理解できないものを拒否)と出来事2(人間力←経験←未知を楽しむ)が交錯していきます。共通点はなにか?もうおわかりでしょう、「わからないことを楽しめるか、怖がるか」です。
1995年のサリンも、神戸地震も、僕はたまたま日本に帰国して永住権が降りるのを待っていたので、どちらも体験しました。神戸地震のときは睡眠中(覚醒時)に本棚から固い法律書群の雪崩攻撃を受けましたし、サリンもテレビ見てました。「うわー」とか思ったけど、でも、それで世界観が変わったかというと、うーん、別に変わらなかったけど。
ということは、僕は昔から「そのくらいアリだろ」っていう世界観だったんですかね。でも歴史とか見てたらその百倍くらい残虐なことを人類はやってきたし、これからもやると思う。犯罪とか人間の異常行動とかいうのは、仕事柄見てたので世界観が変わったのはむしろ職場の方が強い(てか、法学部在籍時代ですら、過去の判例とか見てると、「これ本当に日本であったの?」と信じられないような事件がいくらでもでてきますから)。また職域外でも、変な人とか普通にいたしな。中島らものエッセイで、阪急神戸線に有名なおっちゃんがいて、両手をピンと左右に伸ばして、自分が飛行機になって「ぶーん」と言いながら車内を走ってて、ああ、おっちゃん、今日も元気やーとか。そんなラフな世の中だったけどな(残念ながら僕は見たことがないけど)。
鴻上さんが言うように、「気持ちの問題でしかないやん」「今さらわかったからといって逃げていいの」というのは僕も強く思います。それ以上に、どうしてオウムや地震程度のことで変わるの?という疑問はあります。それまで、あんまりショッキングな物事に触れてこずに過ごしてきたからかなー。
ただ、そうなると「羹に懲りて膾を吹く」という難しい漢字の諺がでてきます。熱いラーメンを迂闊に食って舌を火傷したやつは、冷やし中華を食べるときもフーフー冷まして食べるという意味です。ガーンとショッキングだったんで、そこがトラウマになっちゃって、「この世界はわからない、恐い」と思い込んでしまった。
例えば、一行で楽しくピクニックをして森を歩いていたら、いきなり熊が出現して、可哀想な仲間の一人が捕まって、見るも無残に腸引きずりだされて食われているという経験。それまで楽しい森だったのがホラー映画なって、いつまた悲惨な目に遭うかもしれないってビビってしまった。つまりは「打ちのめされて世の中の見え方が変わってしまった」のでしょうか。
そうなると、「わからない」ということが(怖くて)許せなくなる。なんでもわかりたがるようになる。それ以前は、器が大きかったのか、あるいは平和ボケしてたのか(どちらの場合もあるだろうけど)、不条理ものとか楽しめていた。「わはは、全然わかんね、でも面白〜」って。マンガでも、「コージ苑」がでてきて、「伝染るんです」がでてきて、この作品の書いた中川いさみさんの「熊のプー太郎」が出てきた。僕は「熊プー」がめっちゃ好きで、あの不条理ボケには何度転げ回って笑ったことか。でもそんなのが受けなくなった。寂しいですねー。
でも、それじゃ「未知耐性」が弱まる一方で、生きるにしても「とにかく辛くない方向へ」になり、出来るだけ経験数(未知成分)を減らす方向になるから、経験値がつかず、大人になっても信じられないくらい精神年齢が子供のまんまという痛い人になってしまう。
ただね、僕が本当に問題だと思っているのは、そこから先です。
絶対やっちゃいけない知的劣化
「不安だから理解したい」まではいいと思うのですよ。ある意味、当然の話だし、この世の全ての科学や文化はそこが出発点だったと思います。古代において、猛獣にガシガシ食われていた時代には、夜は襲ってこないとか、火を焚いておくと大丈夫だとか法則性をなんとか見出し、対抗できる石器を作ったりした。不安や恐怖を克服するために前に進んだ。でも、現実的に調査研究したり、有効な対策を構築して前向きな解決するのではなく(地震が恐いなら自ら地学を勉強し気象庁に入るとか)、ものすごいショートカットが行われますことがあります。恐怖感情そのものを沈静化するのを第一にもってきてしまうことです。
恐怖感情が強すぎて「わからないまま」という状況が感情的に許されない。またイチから基礎を勉強して〜なんて迂遠な方法をとってる心の余裕もない。だから、なにがなんでも辻褄の合いそうな仮説、時にはトンデモ的な陰謀論まがいのストーリーを見つけ出し、しがみつき、それを真実だと思い込むという、本末転倒の作業が行われることです。
繰り返しになりますが、「不安→わかりたい」という欲求は、知的能力を高める方向に作用します。もっと知りたい、なんでそうなるのか理解したいって知的好奇心があるからこそ、人類はここまでこれた。でも「恐いから」という知的好奇心ではない感情がモチベーションになってると、真実を解明するという知的興奮や楽しさよりも、恐怖から逃げることがメインになってくるから、本当かどうか、それが真実であるかどうかの慎重で論理的な(それだけに面倒くさい)知的作法を放棄する。あるいは最初からやるつもりなんかない。
もう、ここまできたら宗教とか因習です。「龍神様の祟りじゃあ〜」とか言ってるのと差がないですよ。あ、宗教の名誉のために書いておきますが、良心的で真摯な宗教家、あるいは開祖の連中はそんなこと言ってなくて、いかに人間の善性を高め、人が人としてまっとうできる生き方はないもんか?という実践哲学としてやっているでしょう。でも、あまり良心的とは言い難いところもあって、なにかの不安や恐怖、不吉な出来事に関する「正解」を言い(これは家相、風水、墓相、、、you name it!が悪いから、こうなっているのだ)と、「解決」としては「これを買え」と。
知的劣化については、「絶対」までつけてやっちゃいけないと思うのは。それをやったらもう終わりというか、知的能力は荒廃の一途をたどるからです。まともにモノを考えるという事ができなくなる。まあ、考えない方が楽だし、人間一回楽な道を知ったら、そこから離れませんし。知的な意味での麻薬みたいなもんだと思います。単に阿呆になるというだけではなく、鬱やその他の精神疾患エリアも近いです。
本当に知的であろうとすれば、「わからん!」と吼えたくるように言ってるでしょう。まあ吠えんでもいいけど。この世のことなんか、わからんのが当たり前でしょ。僕も、ずっと昔のエッセイで「そんなに簡単にわかってたまるか!」を書きましたが、あれから20年くらいあれこれ調べ物したり考えたりしますけど、一向にわかった気がしません。
だから凹むか?といえば、全然。凹むわけないでしょ。面白いもん。
第一線の研究者とかと話すと、実に喜々として「これがね、わかんないんですよ」「もうミステリーですよ」って、うれしそう。なぜ人間は○○になると○○になるか?で、脳内の○○の働きが活性化するからだまでわかっても、じゃあ何がそこを活性化するかというとわからない、どういう化学物質がどう作用して活性化がおきるのか?というと又わからない。一つ突き止めたら2つ以上新しい疑問が出るのは普通の話で、永遠にわからない。これを「永遠に遊べる」と思って、嬉々としているのが知的快楽であり、知的作法ってもんでしょう。
研究職や健康な連中の「わかりたい」という欲求そのものは、恐怖にかられている連中の百倍以上の熱意で思ってる。でも、わからないと死ぬとか恐怖に苛まれるわけではない。そのあたりの心のバランスがきちんととれている。
心の余裕がない
でも、なんでそんなに恐怖感情に囚われるのか?そこが不思議でもあり、不思議でもなし。簡単に言えば、余裕が無いんでしょうね。あれやってもこれやってもストレス、ストレス、またストレスで、心のCPUはパンパンで、どっかのソフトが止まったら、マウスばんばん叩いて怒り狂うような感じ。追い詰められているというか、わからないものを、わからないまま楽しむとか賞味するとかいう余裕はないね。
もうそうなると、全てが博打でいうところの「安目をひく」状態になる。知的劣化は病気みたいなものですから、どんどん症状が進行する。ちょっと考えればすぐにわかるような大嘘にすぐひっかかる。「ちょっと考える」ってことが出来ない。とりあえず自分で反対仮説を幾つか並べてみて、ひとつ一つ潰していって検証してみるとか、そういう作業ができない。
なぜ出来ないかといえば、全てが心の安定というストレス対策だから、別に知的である必要もないし、それが真実である必要もないのよね。「お伽ばなし」でもなんでもいい。できれば自分のプライドをくすぐってくれたり、ちょっといい気分に浸れるような「おはなし」だったら尚のこと心に心地よいからすがりつく。
だけどそれやってる分だけ現実と乖離するから、現実的にはやってはいけない下策愚策ばかり行い、当然のように事態はどんどん悪化する。「日本は神の国だから絶対負けない」とか声高に叫んでると、次の瞬間ボコボコに空襲くらって皆殺しにされてしまう。
もっといえば、わからないことが恐怖をかきたてる時点で、ちょっとおかしい。同じく、未知のものを怖がりすぎている時点で、既にちょっと病んでるんじゃないかね。
知的劣化の例証
ここ10年くらい日本社会が知的に劣化してるかというと、イエスでもあり、ノーでもあります。二極分化が進んでるかも。劣化方面で感じるのは、大体、流行語というよりも新たな「日本語の用法」などでも窺われます。「想定外」「ありえない」です。どちらもここ10年ほど好んで使われるようになり、政治家やメディアですら言うようになった。これねー、僕のようにタイムカプセルで保存されているような古い日本人(90年初頭くらいの)感性でいえば、けっこう恥ずかしいセリフですよ。少なくとも、専門家やプロがその言葉を使ったらいかんでしょってくらい、馬鹿宣言、無能告白じゃないかな。
だってさ、想定外っていっても現実に生じてるのは間違いないわけで、それを想定できなかった時点でれっきとしたミスですよ。無能確定でしょ。プロだったら不可抗力は言い訳にならない。どんな場合も処理できて一人前だし、処理できないような不可抗力はあらかじめ(天変地異条項などで)想定して契約に書くのがビジネスマンの基本でしょ。それを悪びれもせずヌケヌケと想定外って、どんだけって。これはしっかりした秘書業務とかやってた人なら同意していただけるはず。
「ありえない」も同じで、現実に起きているんだから「ありうる」んだわ。てか「えない・うる」という可能性の話ではなく、議論の余地なく現実に起きている。それを想定してなかったのは、いかに世間が狭いか、いかに将来の予知能力が低いかでしょう。恥ずかしい話だよ。意味内容としては、「気に食わない出来事が起きた」という気に食わない心情部分にあるんだろうけど、ほら、そういう自分の感情→世界観になってるところが問題なのよ。この世は自分の気に入った状態であって欲しい、そうでないものは客観として認めない、「私が気に入らないものはこの世に存在してはならない」という幼児的な発想でしょう。自分のパーティに参加してくれない友達がいたら「ありえない」というのは、いかに手前勝手な天動説で生きてるかってことです。
そんな深い意識で使ってないのはわかるけど、だから恐いんですよ。無意識レベルでそうなってるんだから。
あと「意味不明」って言葉もそうですね。この言葉を使われている状況をみると、確かにそこだけ見てたら不明なんだけど、大局的にみて、あれこれ意味を推測して補強してやれば、だいたいの意味はわかる場合が多い。それを「不明」といってディスるのは、それだけの知的作業がもう億劫になってしまっている、一種の知的な老化現象じゃないですかね。同時に、他者に対して好意的に理解してあげようという優しさも劣化してる気がする。
他にも、ツイッター的に120文字で世の中知ろうとしたり、まとめサイトのようにアンチョコ的に調べたらいいみたいな傾向とか。ひとことでいえば、世の中舐めてますよね。「自分のパートナーの気持ち」すらよう分からんのに、あれだけ豊富な現場情報を持ち合わせていながら、それでもわからず、いつも地雷踏んじゃどっかーんと吹き飛ばされているのに(me too!)、そういう複雑な人間が何万何億という単位でランダムに動き回ってる世の中が一行二行でわかると思う方がおかしい。
知的劣化を、それこそ一言でまとめてしまえば「貧すれば鈍する」でしょう。人間追い詰められると馬鹿になる。メンタルがそのままインテリジェンスに直結する。詰将棋だろうが、大学入試だろうが、静かな環境で誰にも邪魔されないでゆっくり解いたら出来るものも、目の前にピストル突きつけられてやらされてたら、まともに頭なんか働かない。誰でもそう。それだけのことだと思う。知性を十分に活動させられるだけの精神的安定性がない。
楽しいことを思いつく能力
なんか全てが悪い方向、損する方向に廻ってる感じがするのですが、どうしてそうなるの?の根本にあるのは、万能の子供時代の感覚を忘れているからでしょう。つまり、ポジベースになってなくて、ネガベースになってる。ネガベースって、別の言い方をすれば「負け戦」ですよ。完全に勝利してもゼロ(現状維持)で、負けたら負けただけ現状が悪くなるんだから、こんな歩合の悪い戦いはない。ネガベースになるから、未知を恐れて新体験ができず、人間的に成熟できない。また恐怖感情が強すぎるから、反比例して知的能力が錆びついてきて、局面局面で愚かな選択を繰り返し、それがどんどん悪化する。負け戦ってのはそういうことです。
なんでそうなるの?といえば、ネガベースだからであり、なんでネガベースになっちゃうの?といえば、攻撃がない、ポジがない。つまりは、楽しいことを思いつく能力が低下している点に基づくでしょう。さらになんで楽しいことを思いつけないの?といえば、それまで本当に楽しい思いを十分にしてないからでしょう。
自己破産案件とかやってたとき、多くは真面目にやってて遂にって人が多いけど、なかにはどうしようもない人もいる。それこそ「闇金、ウシジマくん」に出てくるような多重債務者達で、僕が思うに、彼らの共通点は、金がないくせに金遣いが荒い。金がないからケチケチするのはいいんですよ。当然の行動だし。でも、金がないない言ってるくせに、買い食いするわ、衝動買いするわ、バクチやるわ、馬鹿みたいな金の使い方をする。
なんで?ってみてると、結局、お金で買う快楽(楽しさ)しか選択肢がない。それしか思いつかない。別に金なんか使わなくたって、いくらでも楽しいことなんかあるし、どっちかというと本当に楽しいことって、金使わないとき(使っても少額)の方が多いんだけど、なんでそんなにジャンキーのようにお金使うのかなー?って。
でも、楽しいこと考えるのってけっこう難しくて、一定レベル以上のメンタルと知的水準が必要だと思う。経験的にもめちゃくちゃ楽しかったことって、だいたいにおいて下らな〜い、馬鹿馬鹿しい、それがどうした?的な遊びが多いです。遊びって基本そういうものです。それを「楽しいな」って感じられるためには、一定以上の心のゆとりが必要。また、なんかの遊びを思いつくためには(仮装コスプレをしながら「だるまさんがころんだ」をやろうとか、遠くから見たときのシュールで馬鹿馬鹿しい風景に笑い転げようとか)、手持ちの記憶をランダムに検索して組わせていくという高度な知的作業が必要です。平凡なことも一捻りいれるとすごく面白くなるとか。だからポジベースに持っていくためには、それなりの前提条件が必要。知性とメンタルですが、先にくるのはメンタル。メンタルがいけてたら頭は働きますから。
処方箋
ということで、上流の上流まで遡ってきて出てきた結論は、もっと楽しめ、です。エンジョイ!です。バカボンドじゃないけど「もっと笑え」ですし、「笑う門には福来る」です。
楽しいという感覚を取り戻すのが第一だと思う。
↓
それを取り戻したら、未知のものが少しは楽しく感じられるようになる。
↓
だから、未知の世界にはいっていけるし、そこで経験を積むから人間力もつくし、賢くもなる。
↓
それが好循環になれば、未知=楽しいに近くなり、わからないこともそれほど恐怖ではなくなる。
↓
ゆえに恐怖感情や焦燥感も減り、冷静に物事をみることができるようになり、結果的にクレバーな選択が増えるので、良い方向に転がっていく。
そして明朗快活な日々のなかで、楽しい感情は増大し、生命力もまたはち切れんばかりに増大し、ついには「箸が転がっただけでも笑い転げる」というティーンエージャーの横溢とした生命力が賦活し、ひいては子供時代に回帰する。
大人の知恵・技術と子供の感性・行動力を併せ持っていたら最強だと思うし、目指すのはそこだと僕は思う。
Tweet