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今週の一枚(2018/01/01)



Essay 858:なぜ新年はめでたいのか? 

 〜生きてるだけで丸儲けだから

 写真は、Morisset Parkのカンガルー。ところどころでカンガルー君たちが観光客の一群にチヤホヤされ、観光客もじっとチヤホヤ順番待ちをするの図。



 なんと元旦が更新日に当たってしまいました。
 あ、明けましておめでとうございます(一応言っておこう)。

 お休みにしたっていいんですけど、その告示を書くのが面倒くさいので、本文書いちゃいます。ただ、新年早々気合の入らない、ほにゃらら〜とした与太話を書きます。


全然「おめでたく」ないし

未だに解けない中二病的疑問

 なぜ年が明けると「おめでたい」のか?中二病の頃に不思議に思い、オトナになれば分かるかな〜と思ったけど、でも未だにピンときません。

 あ、いや、別に議論をふっかけるとかそんなんじゃなくて、ほにゃらら世間話です。

 中二病の頃は、誰でもどこかしらそうだと思いますが、常に世の中に対してムカムカしているという心情がベースにあります。そして正月ともなれば、どのTVのチャンネルをつけても「おめでとうございます〜!」と全員が全員、無条件にめでたがっていて、「なんじゃそら?」と思ったもんです。この「猫も杓子も」「無条件に」という思考停止状態が新興宗教みたいで気持ち悪かったわけです。また、それを波状攻撃のように何度も何度も食らうから、だんだんムカムカしてくると。

 これが結婚しました、なにかに合格しました、子供が生まれました、自分の店を開店しましたなら、素直に「おめでとう!」と言えます。だって、それまでの色々な曲折やら努力やらが実を結んで、何事かを成し遂げたわけですから、コングラッチュレーションズ!です。

 しかし、英語で A Happy New Yearとはいうけど、Congratulations!とは言わないのと同じく、カレンダー的に自動的に巡ってくるものなんか、ただの節目であって、何事かを成し遂げたわけでもなんでもない。"Oh,great! You made it!(おー、やったじゃん!)"という要素はない。これは誕生日についても同じで、ハッピーとは言うけど、コングラとは(あまり)言わない。クリスマスもバレンタインも、メリーとかハッピーであって、Congratulationsは言わない。それは日本語でも「バレンタインおめでとう」とは言わないのと同じ。

 そりゃそうですよ。カレンダーなんか人工的な目盛りにすぎず、元旦といっても天文学的になにか事象が起きたわけでもない。客観的には何十億年前から、相も変わらず地球が太陽のまわりをグルグル廻ってるだけです。それはもう回転寿司のようなもので、とある寿司皿が一周したからといって「めでたい」か?といえば別にめでたくない。

 というわけで、オトナの視点で冷静に考えても、「なぜ正月はめでたいのか?」という問いに答えるならば、客観的には別におめでたくも何もないと思います。また辛い日々が相も変わらず続くだけですからね。個人的になんら状況は好転してないのならば喜ぶべき原因はない、というのが正解ではないか。

語源や定義

 なお、ここで、「おめでとう」の語源、それは「めでたい」=「愛(め)でたい」=「愛しく大切にしたい(ほど素晴らしい)」という本来の意味に立ち返れば、「新年おめでとう」はアリだと思います。愛しく or すばらしく思う根拠なんかなんでもいいんだから、理由がなくてもそう思いたいならそれでいい。つまり「おめでたい」の本来の定義は「愛しいよ」「素敵だね」であり、恋人に囁くようなものに近い。また、英語のHAPPY(楽しもうよ)にニュアンス近くなってくるでしょう。

 でも、現代日本語の「めでたい」の語義はちょっと違う。「キミは素敵だよ」というときに「キミはおめでたいよ」といったら、意味が違ってきちゃいますもんね、ぶっ飛ばされるぞ(笑)。

 現代日本語の「おめでたい」の語義は、結婚や合格など「人のなにかの営為」に対して「好意的な認知」「賞賛」(努力が実って良かったね)」をすることだと思います。あるいは第二ケースとしては、これから未来がどんどん良くなると思われる何らかの兆候(瑞兆)があって(占いで良い卦が出たとか、茶柱が立ったとか)、その輝かしい未来をともに喜ぶような場合かな。

 いずれにせよ、喜ぶべき何らかの根拠があってこそです。でもオートマティックに訪れる新年に、そんな根拠なんか無い。だから別にめでたくもない。中二病のときに疑問に思ったことは、あながち的外れでも無いとは思います。

オトナの解釈

 したがって問いかけは、「なぜ、めでたくもないものを、めでたいかのように錯覚するのか?」あるいは「なぜめでたいフリをするのか?」と、一歩踏み込んだ形で問われるべきなのでしょう。

 このあたりの「解釈」はできます。

 あ。繰り返しになりますが、これ与太話のしょーもな話ですから。そんなに真面目に考えちゃダメですよー。
 それを踏まえて、多分こういうことじゃないか?を考えてみると、、、、

昔は達成感あるリアルだった

 一つは、昔はリアルに達成していたという点。

 生存環境が厳しいなかでは、新年=寒い冬=食糧が枯渇し餓死や凍死のリスク期を生き延びて新年を迎えるわけですから、確かに「成し遂げた」のでしょう。これは祝うだけの実質はあるでしょう。やあ、お互い無事に生き延びられて良かったね、やったね、おめでとうと。わりと心底そう思えたのでしょう。皆そろって仲良く合格!みたいな感じ。

ネタとして〜リアリティのない達成感を祝い事として味合う

 もう一つは、祝い事、ネタです。
 生存環境がそこまで厳しくなくなったら、新年を祝う論拠を失うから辞めたらよさそうなのに辞めないのはなぜか。なりゆき?慣習?惰性?馬鹿なの?それもあるだろうけど、もっと実質的な理由があると思います。

 僕の説は、生存環境は別に甘くなったわけではないというものです。

 確かに自然条件で生死が決まるというわかりやすい時代は終わったけど、自然界の淘汰圧は変わらずに存在し、生存環境の厳しさは形を変えて続いている。ただより見えない形になり、より一年中均一になった。それは「生活厳しい」「仕事がつまらん」「しがらみ多すぎ」「生き甲斐が感じられない」という、より厄介な形に変換された。

 だって自然環境そのものは、今だって厳冬の北海道で野宿したら凍死するんだから変わってないですよ。ただそこから逃れるためには「社会」に参加しなくてはならず、お金を稼がねばならず、そのためにやりたくないことも沢山やらなきゃならなくなった、という形に変換されただけでしょう。

 ただ、そうなると、凍死や餓死のようにわかり易くない分、その危機を乗り越えた、成し遂げたぞ!感もまた曖昧になってくる。「今日も1日、クビにならずに済みました」「あやうくブチ切れるところを我慢してクリアできました」というのが「成し遂げた」ことになるのでしょうけど、なんか曖昧でハッキリせんよね。カタルシスないよ。

 だったら年に一回くらいまとめて祝おう、いやおつかれさまでした、大変だったよね、一時はどうなることかと思ったよね、でもなんとかここまでやってこれたじゃん、よくやったよ、えらいよって。

 それをもっとペーソス(哀感)混じりに「意訳」すると、こんな感じじゃないかな。

意訳

 やあ、ほんと、生きてくのって大変だよねー。
 ムカつくこと沢山あるし、報われないこと多いし、なかなかお金たまらないし、先を考えると気分が滅入ってくるよね。
 でも、それ貴方だけじゃないよ、皆そうだよ。見た目リア充っぽく、インスタ的に笑ってるけど、ほんとは泣いてたりするんだよね。なんか抱えてんだよ、みんな。
 いやあ、ネアンデルタール人の頃から、生きることの辛さは変わってないんだよなー、大変っすよ、もう。

 だから僕らは、何かにかこつけては楽しくなろうとするんだ。
 お酒や宴会が好きな人が、やれ歓迎会だ、やれ花見だ、やれ新年会だと、なんだかんだ理由をでっち上げては飲み会やるけど、あれと同じだよ。

 理由なんざなんでもいいんだよ、新年だろうがなんだろうが。
 大体、○月○日というクソ平凡な日にすら、こどもの日だ、なんたらの節句だ、挙句の果てにはクリスマスだバレンタインだと外国のものまで引っ張り込んで一生懸命「ハレ」の日を作ろうとする。

 こんなのは、要するに「ネタ」「言い訳」「口実」なんだから、なんでもいいんだわ。

 そして、それは庶民のケナゲな生きていく知恵。

 束の間、しんどい人生を忘れられて、
 この日ばかりはお互い「いい人」になっちゃったりして、脳天気に過ごすんだよ。

 「仕事しないでヘラヘラ遊んでても、昼間っから酒かっくらっても、誰にも怒られない日」

 ってのがあった方がいいだろ?

 こんなクソみたいな世の中なんだから(それは歴史上常にそうだね)、
 ときどきアホの子にならないとやってらんないんだよ。
 素面でやってられるほど甘くないんだよな。

 「地球に優しい」とかいうけど、地球は僕らに優しくない。
 優しかったら最初から進化なんかしてないよ。する必要ないもん。
 それがこんなに進化してるってことは、生存環境は常に過酷。だろ?

 やあやあ、そんなカコクな環境で、俺たちよくやってるじゃん?
 だから、たまにはそんなケナゲな自分らを愛でてあげよう。
 おつかれ、よくやってるよって。
 で、昼間っから天下御免でヘラヘラしようぜ。


 てな感じだと思います。
 一応慶賀すべき実質はあるのですよね。あの大変な日々を365回も繰り返したその努力、その忍耐!そして、地雷原みたいにリスクだらけのこの世界で、とにもかくにも生き延びてこられた。一歩間違えたら旧年中にゲームオーバーになってたかもしれないわけで、確かに僕らはなにごとかを「成し遂げた」のだ。

 ただ、それがあまりにもエブリディ過ぎてピンとこないから、「一周LAP」「一面クリア」って節目に改めてそう思おうってことでしょう。

 年が明けたという事象そのものではなく、新年が特に素晴らしい年になる保証も見込みも別に無いんだけど、それでも祝う。その根底にあるのは、「生き延びた」ということ、生きてること・存在してることそれだけでいいんだ、それが大事なんだ、「生きてるだけで丸儲け」なんだ、ということを改めて確認しましょうよってことなんだと僕は思います。

 こう言ってくれたら、中二病の頃の自分もかなり納得したと思うぞ。「なるほどねえ」って。
 でも言ってくれるオトナはいなかったな、周囲に。
 だから昔の自分に向かって書いておこう。

 こんな資源の無駄みたいな拙文を書いてられるのも僕が生き延びたからで、それを読んでるあなたも生き延びたからで、すごいじゃん、俺ら。しぶといじゃん。しぶとくやってりゃイイこともあるよ。こんな順番待ちしてカンガルーと遊んだり出来るのも、生きてればこそです。





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 文責:田村

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