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今週の一枚(2017/12/04)



Essay 854:「〜家」になっちゃえ 

〜シューベルトに学ぶ仕事とアイデンティティ

 写真は、Balmain。曇天、雨天であっても、こういう建物はサマになります。

シューベルトと仕事

 シューベルトという有名な作曲家(音楽家)がいますが、彼は不遇で貧乏だったことでも有名です。もっとも本当にどこまで貧乏だったのか、後世の人々が話を盛っているんじゃないかという指摘もあるらしく、真偽の程はわかりません。

 しかし、仮に彼が売れなくて貧乏であったとしても、彼が作曲家・音楽家であることは揺るぎもない事実でしょう。ここがポイントです。

 シューベルトの人生のテーマが音楽であり、彼のアイデンティティが音楽家であることと、どのくらい儲かったか=商業的成功を得られたかは、それほど関係がない。

 生きている間は全然売れなかったんだけど、後世になって発掘され、その作品が高額に取引される例、いわゆる不遇の天才の話はよく聞きます。音楽のみならず絵画などアート系にも多いし、学問や武道の世界にもあります。これらのケースでは、いかに心血注いで天才的な価値創造を行ったとしても、それでは稼げてないわけですから、その商業価値にはゼロに近く、世間的にいえば「道楽」でしかない。

 そこで思うのですね、「仕事」ってなんだろう?といういつもの話です。

 ともすれば、仕事=金銭獲得活動と狭く考えがちですが、本当にそうか?です。

 僕はそうではないと思う。お金を稼ぎ/生計をたてることと、その人のテーマ・アイデンティティ・人生を貫く営為とは、関係する場合もあるし、関係しない場合もある。少なくとも必ず結びつくものではない。

野ばら

 シューベルトが有名な「野ばら」を作曲したのは1815年、18歳です(同じころに「魔王」も作っている)。今でいえば高校〜大学くらいで、受験予備校に通ったり、新歓コンパで倒れている年代です。シューベルトは生涯で600曲と膨大な曲を書いていますが、その半分を十代に作っていたと言われます。しかし、彼の当時の「仕事」は、小学校の先生みたいなことをやっていた。それで給料を稼いでいたのですが、か〜なりイヤだったらしく、その鬱憤を晴らすかのように音楽活動をしていた。師匠はサリエリ(モーツアルトの映画アマデウスにでてくる)だが、サリエリ先生もシューベルトを十分に理解してくれてなかったようでもあります。要するに、「あーあ、つまんねーな」と日々を過ごしている青年がバンド活動に精を出しているようなものだったのかもしれない。

 シューベルトは「野ばら」を作曲したが、これで一気にブレイクしてスターダムにのしあがったという話もなさそうです。だから商業的=金銭獲得活動としては「野ばら」は「仕事」とは言いにくい。しかし、シューベルトの「野ばら」は、その後、多くの人々に愛され、これからの愛され続けるでしょう。極東の島国日本においてすら、この曲は、学校のチャイムやJR東日本の発車メロディとして採用されたこともあるそうです。

 僕からしたら、シューベルトの野ばら創作活動は立派な「仕事」であると思う。たとえ一銭も稼げなかったとしても、それは仕事であり、むしろ人類史に刻まれるべき(すでに刻まれているが)「偉業」であるすらと思う。が、リアルタイムでみれば、昼間はつまんねー仕事をして、家に帰ったら、せっせと次の新曲をつくっている18歳のお兄ちゃんである。

 話はかわって、ときの政権や大スポンサーに忖度して、報道すべきものを報道せず、スピン(話を逸らす)目的で、どうでもいい民間人の不倫や不行跡をセンセーショナルに報道するように指示しているおエライさんは、たとえそれが年収3000万を稼ぐ「仕事」であろうとも、なにやら「卑しい」ものを僕は感じる。

 そして、お金を得られるか否かのただその一点に着目していけば、卑しいものが偉業よりもぶっちぎりで優越することなるのですが、それでいいのか?といえば良くないのではないか。少なくとも僕はそんな価値観に立ちたくないなーって思う。

 改めて問いかけます。「仕事」とはなにか?

仕事の3つの要素

 「仕事」の定義は実にたくさんあるでしょう。

 第一に単なる「金稼ぎ」という意味で「仕事」を使う場合もあります。
 金という一点に注目するのだから、ときとして合法違法を問わない。仕事人や仕事師(ゴト師)とかいうと非合法的エリアでのそれを意味するし、その種の世界の人達が「今度の仕事(ヤマ)は〜」というときは、犯罪活動である場合も多い。なぜ、それを仕事と呼ぶのか?お金を得られるからです。

 第二に、そうそう生半可なことではお金は得られないことから、いわゆる遊びと違って、「それなりに真剣な行為」「一定水準以上の質を伴う」という実質的な意味で「仕事」と呼ばれる場合もある。

 第三に、分業社会における構成メンバーの責任分担として「仕事」という場合もある。やってられないような早朝深夜の作業や、泣きたくなるくらいしんどい作業であっても、「ま、仕事ですから」の一言で済ませるのは、それがそれだけの内実や責任感を伴うからでしょう。

 整理すると、(1)金銭要素、(2)真剣実質要素、(3)社会責任要素となるでしょうか。
 (2)と(3)はひっくるめて一つにしても良いのかもしれないし、誇らしげに「仕事」と語られるときは、この意味が多い。ニートやひきこもりがゴクツブシ的にえてして非難されるのも、人生や社会に真摯に向き合っていない、ずしっとした重量感のある営為に関わっていない→人の生き方としては半端であり、そのようなハンパな生き方をしている人格もまたハンパであるというロジック(or感情)なのだと思う。

 しかし、これら3要素が常に幸福に一致しているわけではない。

 例えば、(2)(3)真剣・責任という実質を追求していくほど、(1)金との関係は薄まり、ひいては相反してくる。利潤さえ上げれば良いのだというのではなく、「赤ひげ」のような清廉な市井の専門家は、みすみす損をしてまで仕事をするし、その完成度を上げようとする。お金的には自殺行為なのだが、それが世間で賞賛されたりもする。

 そんな偉人だけの話ではないです。諸物価高騰で利潤が減りながらも、頑固に素材もダシを変えずに頑張っている料理人もそうだし、同僚やお客のことを考えて、みずから進んでサービス残業する場合もある。とくに日本人は、その傾向が強く、自分のやってる仕事に何らかの意義を見出したいという気持が強いし、お金で全てを割り切りたいとも思わない。

 その気持は僕にも分かるし、実際自分がやってることの80%くらいは利潤という意味では全く無駄だったりするわけです。シェア探しの手伝いしようが、人生相談しようが、別に一文も入ってこない。でも完成度をあげる余地や、それを行うべき価値を見出したら、ついついやりたくなってしまう。その意味だけでいえば、僕くらい日本人属性が豊富な奴はいないとすら思いますよ。あなたも多分そうだと思う。

 しかし、話はそこで終わらない。

雑魚の悲しさと親子喧嘩

 いったい金が重要なのか、人生の真摯さが重要なのか、もちろんそのどちらも重要なのだろうが、都合よく境界やらレシピーを曖昧にぼかしているところがあります。ときと場合によってコウモリのように金に近寄ったり、実質や誇りや大義を唱えたりもする。

 それが端的に出てくるのが子供の就職や進路相談です。

 自分の子供が、就職はやめて生涯創作活動に打ち込む(全然売れてないけど)とか、一心不乱にボランティ活動を行い、自分でもNPOを立ち上げるんだとか言ったら、「悪いことは言わないからとにかく一回は就職しろ」という親が多いでしょう。いや、本当は多くないのかもしれないけど、僕の中のある日本社会のイメージでは多そうな感じがします。

 そこでは、みすみすお金で苦労することをさせるわけにはいかないという親心もあるだろうし、そんなに世の中甘いものじゃないという認識もあるでしょう。ごもっともな話です。ごもっともなんだけど、しかし、そこでは「お金>実質」である。わが身の富裕や虚名のためには、誇りも大義も劣後するといってることに変わりはない。やや後ろめたい部分もあります。

 確かにそれが出来たらカッコいいんだろうけど、それが出来るのは類まれな資質と信念に恵まれた偉人レベルであって、凡人には無理だという苦い思いもまたある。それは「信によって立ち、義のために死す、これぞ男子の本懐であーる!」と言い切れない凡俗の悲しさでもある。僕らは「普通の人間」なんだけど、普通の人間というのは英雄豪傑や偉人レベルからみたら、ただのしょーもないダメ人間ですからね。親としては「俺もお前もしょせんは雑魚なんだよ、雑魚が英雄ぶっても滑稽だし、ミジメなんだよ、身の程を知れ」といいたいのでしょう。

 だったらそう言えばいいし、そう言う率直な人もいるでしょうが、率直ではない人もいる。
 だって、そこまでハッキリ自分をザコ規定してしまうのも情けないし、イヤだし、説得力がありそうで無さそうだし。だから別のレトリックを使う。「世間は甘くないぞ」「一人前の仕事をして金稼いで、税金払ってからものを言え」とか、そういう言い回しです。

 でもねー、いきなりくだけた物言いになるけど、僕も50歳すぎると色々見えてきちゃうんですけど、それって微妙に話そらしてるよね。世間が甘いか厳しいかは、そいつの力量に比例するだけでしょ。無力な奴からみれば世間は厳しいが、有能剛腕な奴からみれば世間はちょろい。結局は能力問題。それに「義のために死すべし」という命題からしたら、世間が厳しくても何の問題もない、死んでもいいっていってるんだから。世間は残酷で汚いんだと言っても、だからこそ清廉なる士が立たねばならぬのだという話になって、火に油を注ぐだけ。

 「一人前」論だって、いくら稼いだかではなく、どのような大義や貢献をこの社会になし得たかという実績でいうべきであって、金銭基準説では説得力が乏しい。仕事の誇りやプライドの源泉が、お金以外の部分からくる以上、稼いでなんぼ、稼いで一人前説は、論拠と結論が整合していない。だから魂に響かない。これを平たい言葉で言えば、どーでもいい商品を売ってるどーでもいい会社でどーでもいい仕事をして搾取されて、涙金をもらってれば「一人前」なのかよ? Hey,Gentleman!そんなにソッチの水は甘いか?カビ臭いダイヤでも喰らえ!(by hide)とロックの歌詞みたいな話になったりもします。

 で、つかみ合いの親子喧嘩になるのが懐かしい昭和の風景だったのですね。そういえば、僕が学生だったころ、大先輩(京都弁護士会の中堅どころ)がやってきて話してくださったんだけど、お前は馬鹿だからもう司法試験やめろと(すでに5回〜10回くらい落ちている〜この世界は普通だが)父親に言われて、言い争いになって、取っ組み合いになって、舞台は居間から庭に場外乱闘になって、障子二枚蹴り倒して、障子の桟がバキバキに折れてとかやってたそうです。僕らのちょい上(今の60代以上)では、どこの家庭にも似たようなことはあって、ほのぼのとした風景ですらあります。まあ、そうなるわなー。

 まあ、今はそんなこともないのかもしれません。でも問題が解決したわけでもないでしょ。

 この問題のペーソス(哀感)は、イケてる人生になりえなかった人が、それでもなんとか自分を肯定し、盛り立てたいという悲痛な願いが一方にある。他方では世間知らずのクソガキからその痛いところを付かれて、昔だったら「資本主義の犬」がとか、今なら「社畜風情が語ってんじゃねーよ」って言われて、そうなれば親もキレて、お前ごときに言われたくはないよって、ってなことでしょう。ま、いわば「ダメ人間の哀しみと主張」を、それすら理解できないもっとダメ人間に批判される怒りといいますか。

 しかし、そうやって親子間で価値観やら感情開放ができるのは幸せなことかもしれないです。それすら言えず、じっと押し殺してたら、人生ドラマはまだ始まらないもんね。で、幕がしまったまま、時間が来て閉演になるという。あるいは、僕はその社畜にすらなりえないダメダメダメ人間なんだって子供が言うから、このパターンは想定外だったと親もうろたえ、もうどうしたらいいかわからないという。

 重ねて言うが、時代が変わり、表現形態が変わろうが、問題(お金と実質の根本矛盾)が解決したわけではない。

 尚、ここで僕は別に誰も馬鹿にしてないし非難もしてません。昔書いたように(Essay691=あなたも私もみんな雑魚キャラ)、雑魚キャラでいいんですよ。普通=雑魚なんだし、雑魚のなにが悪い?と。そもそもですね「普通は〜」「常識的に」とかいうレトリックを使う以上、自分がマジョリティであることを前提にしてるわけで、マジョリティというのは別の言葉で言えば雑魚ですからね。常識や世間をふりかざせるのは雑魚の特権ですわ。

 そして人間には獰猛なまでの想像力や理想創造能力があるから、身の丈以上の「こうなればいいな」という超カッコいいモデルを考えてしまうのだわ。実現不可能なんだけど。ゆえに論理必然的に、みじめな雑魚キャラ感に苛まれながら一生を終えると。しょうがいないよねー。僕もあなたもそうだしさ。自分でそういう仕組をつくってるんだから。

 これを哲学的にカッコよく言うなら、「その究極の存在形態においてアンビバレンツな人間は、あらゆる生活局面においてその諸矛盾が表出し、それに伴って自己懐疑に苛まれる」ってところっすか。

21世紀型解決 

 この本質的な諸矛盾(お金も欲しいが、生き甲斐も欲しいってことだよね)をどう解決すべきか?

 僕の意見はですね、そもそも別に解決せんでもいいんじゃないのー?という脱力的な本音があります。いやあ、そこでウジウジ悩んだり、吹っ切れたり、また泥沼ったりするのが人のありようで、その哀しみにアートが宿ったりするんだしさ、いいじゃん、それで、美しいよなって(笑)。

 それじゃあんまりだから、もうちょい現実的な路線をいえば、僕が20歳の頃思ったことだけど、もう徹底分離しちゃえと。自分のアイデンティティ、自分のテーマ、自分のサムシングと、対社会的な仮面(ペルソナ)やらお金稼ぎの有効メソッドやらは、もう分割民営化してしまえ。そして三権分立のように、相互チェックして均衡バランスを取れるようにしてしまえと。

 僕自身のアイデンティティでいえば、ギタリストであり、ミュージシャンであり、アーチストだと思ってます。いや、これを言うのは勇気がいるくらい、ドつくくらい下手糞で、それで身を立てていくことは一生不可能だろうなってのは明瞭に分かってます。でも心の中で思うくらいだったらいいだろ、と。じゃ司法試験やら法曹はなんなの?といえば、あれは社会・金方面のペルソナプロジェクトであり、あれはあれで大事。そして、それをやってるうちに何らかの学びがあり、それが自分の血肉になっていけば、その部分に限りアイデンティティになる。

 そういえば高橋和巳の「悲の器」という好きな小説があるのだが、そこで主人公が卒業式の訓示で、衒学趣味(ひけらかし)的な引用をします。「たとえ圧倒的な名画の前に立って、それに打ちのめされようとも、それでもなお人は「自分もまた画家である」ということは出来る」というものです。読んだ当初はなんのこっちゃと思ったけど、年食ってきたらわかる。自分が何者であるかどうかは、自分が決めればよく、それは他者の承認をまったく必要としないのだと。

 だからお金稼ぎはお金稼ぎでやればいいんだけど、それと自分の生きざまやら、人格やらなにやらと過剰にリンクさせてはいけないと思う。そして、それとは別に社会貢献もできるし、自分なりの何らかのテーマをライフワーク的にやっていくこともできる。仕事に全てを代表させてはならない。

 昔は仕事が面白かったし、仕事をやってりゃ、人生における大凡のドラマはこなせたし、それだけの滋養分やらカリキュラムはあった。でも、長い目でみれば、そっちの方が珍しい。たまたまの惑星直列のような一瞬の重なり合いに過ぎないと思う。普通はズレるし、ズレてあたりまえ。

 オーストラリアでは仕事は超がつくくらいいい加減な人も多いが、それでもボランティアはよくやるし、確定申告も全員だし、投票率も100%だし、いくら生活苦しくてもホリデーには頑張って金使って遊ぶし、ファミリーは絶対だし。彼らは(西欧人は)、ナチュラルに分業ができている。仕事は金稼ぎプロジェクトだと明確に分かってる。あまりにも明確だから、いちいち口に出して確認するまでもないって感じ。たまにわかりやすく英語で言うなら、"What are you doing for living?"っていって、「食うため(for living)には何をやってるの?」という言い方ですね。それが君の本来の姿でもやりたいことでもないのは百も承知で、軽い世間話としてきく。

 これがなぜ「21世紀型」というかといえば、西欧人にとっては16世紀とかもっと昔からスタンダードなものだったろうけど、戦後の日本人的にはたまたまの惑星直列(高度成長)の呪縛がキツく、且つこれから先、昔ほど稼げなくなってるし、仕事もつまらなくなってるし、またその内容も、昔のように「良いものを安く」という胸を張れるようなものではなくなってきている。ペイは悪いわ、質は劣化するわです。そんなものと抱き合い心中してたら、命がいくつかあっても足りんぞと僕は言いたい。

 だから、本来の姿、小学校の頃、放課後のサッカー活動と教室での勉強活動はごく自然に切り離していたように、仕事も切り離したらいい。(1)お金的な意味でやる仕事もあろうし、(2)的に儲からないけど喜々としてやる仕事があってもいい。いや「あってもいい」なんてレベルではなく、どちらもなくてはならないくらいに思っててちょうどいいと思います。

 そんな難しい話ではない。ちょっとロックを外したら、自然にバラバラになっていくし、収まる所に収まっていくでしょう。

 そして三権分立のように相互チェックできたら尚良い。てか、これも自然にそうなるし。例えば、金のためにやってる仕事(だから賤業というわけではないし、誇り持っていい)で、なんぼ金のためとはいえ、お年寄りを騙して金出させてとか、それはあかんでしょう、そこまでいったらダメでしょうってとき、他の価値観、例えば「それはロックしてないだろう」という意識が働いてチェックかます。そして、それが通らないなら辞めたらいい。再就職が〜とか不安になるのだが、真剣に(1)お金部門のスキルアップを図りたいなら、自分を殺してしがみつくのではなく、いかに自分を殺さないで幅広く職ゲットできるかこそが「スキル」である筈。転職再就職は、しんどいけど、だからこそ本質的なスキルアップのいいチャンスだと思いますけどね。だって、50いくつまでしがみついて、それでリストラされちゃったらきついでしょ?

「〜家」になっちゃえ 

 抽象論は以上だけど、よりプロトコル的に簡易なメソッドをいえば、自分は「音楽家」であるみたいに、「○○家」という肩書を、ココロの中でいいから、自分で思うといいですよ。

 なぜって、〜家ってのは、必ずしも金とリンクしてないからです。端的には「美食家」「愛妻家」「篤志家」であり、こんなの金が出ていきそうではあっても、金が入ってきそうではないでしょう?

 ほかにも士(建築士とか)、師(医師とか)、人(詩人とか)、手(野球選手とか)、者(役者)とか類似のものはいくらでもあるけど、僕が見るかぎり「家」がもっとも金銭から距離が離れているから、お金以外のアイデンティティやテーマ探しにはやりやすい。発想も広がります。また、「社会や第三者に規定されない」「承認を必要としない」という意味でもやりやすい。建築士とか看護師になると、社会システムや資格とかいうのとリンクしちゃいがちで、自分がどう生きるのかが、第三者の都合で変わってしまう不安定さがあります。でもそれはどっちかといえば、それで稼げるのかという(1)金要素であって、できりゃ峻別したい。峻別するためにやってんだから。でもって、全然儲からないけど、でも尊敬されてるっぽい肯定感があるから気分いいでしょ。

 「家」なんか言ったもん勝ち、思ったもん勝ちです。
 そして、そのジャンルや範囲はたぶんあなたの想像を越えて広いです。そんなアイデンティティありなの?ってくらいね。

 「艶福(えんぷく)家」という言葉があります。ちゃんと語句変換するでしょ?これは男女関係が人並みはずれてお盛んな人のことを言います。もちろん真逆に罵倒することもできますが、あっけらかんと肯定もできる。明治時代の爵位もってる連中なんかけっこう多い。「○○男爵は艶福家でいらして、係累の方々も多く(要するにあちこちに子供作ってる)」とかね、よく言う。ね?単に人並み外れてセックスしてるだけなのに、なんか偉そうじゃん、立派そうじゃん。だからいいじゃんって。

 「好事家(こうずか)」なんてのもあります。「変わった物事に興味を抱く人。物好きな人。また、風流を好む人」という意味で、面白いもんが大好きな人です。そんなの誰でもそうだと思うのだけど、それが人並み外れていると「家」になるという。

 「評論家」なんか完全に言ったもん勝ちの世界で、それで売れるかどうかは世間次第です。でも売れる必要もない。その意味でいえば、百人いたら百人がなんかの評論家にはなれます。「登山家」も全然儲からないけど、でも成り立ってるでしょう。さらに横文字がはいって細分化されたりもする、アルピニストとクライマーとかね。

 「起業家」「実業家」なんかも、思いっきりビジネスっぽいんだけど、ドリーマー的な、儲かって無くてもOK的なニュアンスもあるでしょ。実際、儲からなくてよく破産したりしてるけど、それでもOK、それはスポーツ選手に怪我はつきもの的な肯定的な感じもする。

 既存の「家」だけでは足りなくなるから、どんどん新設したいい。別に許認可がいるわけでもないしね。「散歩家」なんかありそうで無いけど、あってもいいだろ。別に「家」でなくてもいい。

 昔から「遊び人」という素敵な職業(?)もあるわけで、ペルソナジョブは遠山左衛門尉景元で江戸北町奉行という警視庁長官と最高裁長官を合わせたようなことやってるんだけど、日頃は「遊び人の金さん」です。どっちかというと遊び人の方が楽しそう(そりゃそうだろうけど)。ポイントは江戸の人々が「遊び人」という「職業」かどうかは知らんが、少なくとも社会的身分として認めていることです。「渡世人」なんてのも普通にいたし。


 行くところまでいっちゃえば、そんな名称いらないですし、アイデンティティすらいらないです。他人に説明する必要も、理解してもらう必要もないですし。おそらく「自信」というのは、そこまでいくと得られるのかも。

まとめ

 ところで、最後に、話は冒頭のシューベルト先生に戻るのだが、偉人といわれている人だって、生前はそんな万能感ばっかじゃないすよ。シューベルト先生なんか死ぬまで雑魚キャラ感(報われない感、承認欲求の飢餓状態)に苦しんだと思いますよ。あれだけの業績を成し遂げたんだから、世間に承認してもらいたかったでしょうよ。それを求める権利(実績)は十分あるし、後世では認められている。でも生きてる間(わずか31歳で死んでしまったが)は、「ちくしょー、ちくしょー」の連続だったと思いますよ。

 シューベルトくらいの業績を積んでも、それでも満たされないんですからね。ましてや僕らがごとき凡俗が満たされるわけじゃないじゃん。だから満たされなくて当たり前だし、求めること自体がもともと無理目な話なのよね。また、妙な形で満たされたらよけいに辛い(全然作品を理解されてないのに人気爆発になっちゃったとか)。だもんで、勝手に自分で名乗って、思って、いい気分になっていいのさ〜って思います。マジに。

 まとめておくと、仕事に関するお金・質・責任の3つの要素、お金と実質でいえば2つの要素になりますが、その大きな違いには自覚的になるといいって話でした。どこが一番違うかといえば、お金系は他者の承認を必要とするが、実質系は他者の承認を必要としない点です。

 お金を稼ぐというのは、他人が持ってるお金を貰うことですから、その他人の承認は絶対に必要です。承諾なき金銭の移転は、すなわち「犯罪」ですからね。だからお金系では、いかにして他者に届くかが重要事項になります。そのためには本当に他者の幸福が増すような良いものを作ることにもなるし、それをきちんと説明して、一目瞭然に理解できるようにプレゼン能力を磨いて、アフターケアもやって、さらに信頼を得てという作業になります。他人あってこその領域です。

 これに対して実質面では、それが売れようが売れまいが、認知されようがされまいが、関係ない。誰もいない山奥でひたすら木彫りの仏像を刻んでいた円空のように、やりたいからやればいい。自分にとって意味があるかないか、それだけが重要で、それだけでいい。

 煎じ詰めればこの差に帰着し、あとはそれぞれの要素のレシピーやら重なり合いやらだと思います。




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 文責:田村

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