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今週の一枚(2017/11/20)



Essay 852:世界へつなぐ「開けゴマ!」=プロトコルとアルゴリズム

〜何かを実現するには「一定の手順」が絶対に必要(プロトコル)
〜それをどうやって導き出すか(アルゴリズム)

 写真は、昨日(11月19日)にCityのMartin Placeで撮影した、恒例のクリスマスツリーの飾り付けをしている風景。こういうクレーンでやるんだーと。



 プロトコルアルゴリズム、この2つが現代から近未来のキーワードになるような気がします。

 実際これまでエッセイを書いていて、特に直近2年くらいの時事モノを書いてるときに、自然に「こういうことだろ」という言葉選択で、自分でも頻繁に使っています。ま、自分で使ってるから馴染みが出て、今もそう思ってるだけなのかもしれないけど(多分そうだろうな)。

 でも、まあ、なんでそう思うのか?をこれから書きますので、ご興味があれば読んで下さい。

プロトコル

 プロトコル(protocol)は、本来は外交上の儀礼とか型にはまった様式のことを言います。転じてITでは「データ通信を行うための規約。情報フォーマット、交信手順」とされます。

 これじゃなんのこっちゃ?ですね。僕が最初この言葉に出くわしたのは、ネットの接続でTCP/IPとかありますが、その際にプロトコルとか出てきたときです。なんじゃ、それ?って最初は面食らったんだけど、だんだん「ああ、そういうことか」とわかった気がしたのは、一定の手順を踏まないとネットに接続できないんだ、単にコード差し込めばいいってもんじゃないんだ、いろんな条件設定をしてやらないとダメなんだってことを理解してきたからです。

 90年代のネット黎明期からやってたので、「だー、なんでつながらないんじゃああ!」でブチ切れながらトライしてたのです。ネットで検索しようにもネット自体がつながらないし、つながったところで当時は大した資料なんかネットになかったし、本屋いって探そうにも全部英語だし、日本と違って痒いところに手が届くような解説本ってほんとに無いのよね。わけわからない設定いじくって、順列組み合わせでやってみてとか。そのときにプロトコルって言葉は脳髄に染み込みました。

 で、今言いたいのは、何事かをスムースに実現しようと思ったら、一定の手順が絶対に必要なのだという認識です。やみくもにやってもダメ。アリババは「開けゴマ!(オープン・セサミ)」って言わなければならない。ゴマは外したら絶対開かない。それがプロトコル。


 この概念はコンピューターよりも、むしろ一般社会においてこそ重要です。例えば、法律の世界なんかプロトコルそのものです。株式会社をやる場合、1年に一回は株主総会を招集し、議決をしなければならず、そのためには株主に○日前以前に通知しなければならず、また議事録を作成し、、、という「手順」が事細かに書かれています。あるいは、刑事手続もプロトコルの嵐です。こういう場合は逮捕が出来て、逮捕したら48時間以内に検察官に送致し、検察官は送致を受けてから24時間以内に裁判所に勾留請求をし、裁判所の勾留状が出たら10日間勾留出来、さらに延長でもう10日出来て、その間に起訴しなかったら釈放しなければならない、最大23日だと、ものすごい厳密に手続が決まってる。これがプロトコルです。こーゆーやり方でやれと、それ以外はダメだと。

 さらに一般の風習や「しきたり」もプロトコルです。例えば結婚の場合、伝統的にいえば、両親への挨拶→両家の両親の顔合わせ→結納(のあれこれ)→結婚式と披露宴の手配と準備(会場、仲人さん、招待状、引き出物)→新婚旅行の手配など沢山あります。葬式もそうです。ちなみに、今、KK(婚活&国際結婚)フォーラムとか有志がプロジェクトでやってますが、これが国際ヴァージョンになったらどうなるか?相手さんがキリスト教、ユダヤ教、イスラム教などだったらどうなるか、オーストラリアの場合はどうなるか、どこをどうすればいいかというプロトコルの変容があり、そこには多大なノウハウがあるから、それを集合知として皆でシェアしたらいいじゃんって発想がベースにありました。

日本企業やヤンキー的プロトコル

 もっと例を出します。物事進めるとき、とくに日本の大企業とか、日本社会の古典的要素が濃厚にある社会では、プロトコルが厳然としてあります。例えば、宴会の幹事一つやるだけでも膨大なプロトコルがあります。APLACの語ルシス掲示板に連載されているバインさんという方が、ご自身のサイトで「なぜそうなるか」を詳しく書かれていて、僕の知る限りここまで理路整然と書いてくれているのは見当たらいなので、必読です(飲み会の作法(1)〜(4))。「キーパーソンの特定を見誤ると、もう取り返しがつきません」とか笑えるけど、いや本当にそうだよねって話が沢山あります。

 ハッキリ言って、普通に平均的な日本人の20代は、この社会的プロトコルを覚えることがメイン課題であるとすらいえます。それは「話を通しておく」という根回しやら、接待やら、コトが起きた時の事態収拾やら。学生時代にはあんまりやらないので、実社会で「ぼけえ!」と言われながら覚えると。僕も司法修習のときに、おエライさんとの付き合いから、誰から先に話をもっていくか、誰の承認を得て次に誰に聴くかというダンドリの細かいところ、そしてなぜそれが最適解なのか?を学ばされました。カラオケのやりかたとか、高級クラブでのお姉さまとの会話のやりかたとかも。

 思うに、これは勉強君よりも現場系のヤンキー君の方がよく身についてますね。先輩に先に話を通しておかないと、「俺は聞いてねえぞ」「てめ、舐めてんのか?」とボコられる。同じように「スジの通し方」「ワビの入れ方」があります。これらは、旧態依然とか、封建的とかいう概念、あるいは「礼儀正しい」とかいうことで済ませてはいけないものがあります。かなり奥深いのですよ。ポイントは「なぜそうするのか?」であり、そこには人間心理に関する深い経験的洞察があります。「人はこういうことをされるとムカつくように出きている」と。

 いや、そんなことはないぞ、何でもフランクに自由平等にやればいいんだよって思うでしょう。僕もそう思う。多分あなたよりも激しくそう思う。その僕ですら、そこらへんの小学生に「おい、お前、ちょっとこっち来い」って命令されたらカチンと来ますよ。なんじゃ、このガキ、しばいたろかって思うよ。年齢も立場も人はみな平等で自由でって理念からしたら、怒っちゃいけないのかもしれないけど、でもムカつくでしょ?それはもう人間の生理なのだ。だから、話も通さずに勝手にやられるとカチンとくるし、自分が軽蔑されたと感じる。「お前なんかクソの役にも立たないんだから言うだけ無駄だろ」って言われているような気がする。なぜかといえば、人は自分に向けられた攻撃(らしきもの)を敏感に察知するものです。それは自然の防衛本能であって、そういうのが敏感な個体だけが厳しい生存競争を打ち勝って生き残ってきて、そのDNAを承継しているのが僕らですから、それはもうあって当然。

 そしてプロトコルというのは、それを考えた上で、こうすれば一番障害が少なく目的達成ができるという芸術品のような最適解なのですな。それをボコられて理解するのが社会人最初の数年だと。30歳過ぎてそのあたりが出来てなかったら、伝統的な日本社会では、もう人として認めてもらえないんじゃないかなー。

国家社会の本質はプロトコル

 僕はこのエッセイで、前々から「国家いらない論」を展開してますが(世界的にもそういう流れ)、国家の存在理由が、19世紀的なもの(喧嘩最強メソッド=軍事)から空洞化してきてるからです。国家(社会)があるとどんなイイコトがあるの?といえば、現在から将来に関しては、僕らが生存していく環境をベストな状態にもっていくためでしょう。いってしまえばインフラ環境の整備です。

 でも、中央集権的に一律にやるのが良かったのは、人の生き方がそれほど多様ではありえなかった生産性の低い昔の話。気を抜いたら餓死してしまうくらい食糧の絶対量がヤバいとか、発電するのに気が遠くなるような手間暇がかかった頃の話でしょう。

 今は科学技術も進歩したし、世の中も進化して、ちょっと前までのように女性は25歳までに何がなんでも結婚しなければ人生終わり、食っていけないというほど生存環境が追い詰められてるわけでもない。今は、もう晩婚化非婚化してて、二人に一人くらいは一生結婚もしなくなるでしょう。そのくらい自由なライフスタイルの選択ができるようになったし、それが可能なくらい豊かになった。

 ならば全員に国民服を着せるような中央集権である必要はないし、細かな地域地域、あるいは好みの集団や部族単位で、自分らの身の丈にあったインフラ整備をすればいいじゃないか、実際にそれが出来るくらいテクノロジーの進歩はあるのですから。

 教育だって、なんでも標準的な公立学校よりも、独特な方針と細かなケアをする私立の方が人気があったり、あるいは全く並行しての別館のような塾や予備校が廃れもせずに続いているのはなぜか?です。あるいは学校給食やら、病院食がこの世でもっとも美味しいか?ベストな食事なのか?といえば、必ずしもそうは言えないでしょう?それがつまり、中央集権による画一的なインフラ整備の限界であり、なにもそこまでせんでもいいんじゃないの?です。

 だとしたら何が残るか?といえば、プロトコルだと思うんです。
 プロトコルというのは、これをやらないとダメなんだけど、逆にいえばこれさえやっておけば道が開ける、次のステップに接続できるってことです。

 例えば、大学で学位を得るのにふさわしいのは、何の単位をどのくらい履修すべきかを決めるのがプロトコルです。医者になれるにはこういう条件を満たせとかね。

 でも、今はそれらも国際的になってきてます。どっかの国の大学を卒業して留学する際にも、これとこれは単位免除してくれとか普通にやってますよね。国際的に、このくらいの学位(ディグリー)を認めるためには、このくらいの勉強と実力が必要という具合に定められてますから。オーストラリアの永住権を取る場合にも、外国での資格や経験をオーストラリアの基準でどう認めるかは各業界に査定委員会があります。そのあたりの設定がプロトコルです。

 今、世界レベルでプロトコルの標準化が行われているところでしょう。
 車関係なんかは進んでいて、地球上のどの国にいっても、信号の赤は止まれで、青は進めでしょう(違う国ってあるの?)。マクドナルドやファーストフードの店舗システム、先にカウンターで注文してお金はらってというやり方。あるいはスーパーのように最後にレジがあるとか、今は中国みたいにレジすらなくて、一定のギアさえ装備してれば、そのままスキャン課金できるから勝手に取ってもっていけばいいとか。技術の社会的浸透の差はあれども、国際的な差はどんどんなくなってきている。

極大化(グローバリゼーション)と極小化(ローカリゼーション)

 文化と文明の違うは何かといえば、文化(カルチャー)は非合理を本質とする精神的価値が大きく、文明(シビル)は合理性を本質とする物質的価値。文明に関しては国際的標準化が起き、それと反比例するようにカルチャーに対する理解や愛着も深くなってきています。日本や世界の小さな村の風習や、風景、肌触りを好ましいと思う。大規模なフランチャイズ店よりも、ワン・アンド・オンリーの小さな店のユニークさとか優秀さが愛でられている。

 つまり極大化(グローバリゼーション)と極小化(ローカリゼーション)が同時進行で起きている。てかとっくの昔にそうなっている。"Think globally, Act locally"って言葉があって、発想は国際的になすべし、しかし、行動はその土地に適したローカルを重視せよと。これ一番最初に提唱されていたのは1960年代ですからね。昔から見えてる人には見えていたという。半世紀以上たって何を今更の話なんだけど。そういえば、全然流行らなかったけど、グローカル(glocal)とかいう造語もあったな。


 極大プロトコルについては、世界レベルで統一基準を決めたほうがやりやすく、それがどこの国の誰であろうが、世界的な基準を満たせば世界的に承認される。オリンピック競技の世界記録のように、一定の方式さえ満たしていれば、世界記録として認められる。キリスト教だけとか、西側諸国だけとか、そんな下らないことを言うやつはいない。

 極小においては、例えば日本と一口にいっても金太郎飴にみたいにどこも同じわけではなく、そのエリアエリアで千年以上続いた豊かな文化あり、山紫水明の絶景があり、心を癒やす風物がある。「北陸」と大雑把にいうのは失礼すぎる話で、越後・越中・加賀・越前にはそれぞれ国が違うくらい豊かなローカルがあり、石川県一つとっても金沢文化圏があり、能登文化圏があり、さらにその中でも、、って、本当に深くて豊かな世界がそこにはある。それを皆が気づいてきて、有名だから、流行ってるとか、そんな70年代の「デラックス=正義」みたいな薄っぺらでチャラい理由ではなく、もっともっと高度な審美眼でそれらを愛でるようになっている。

 これは世界的にもそうみたいで、例えば中国人旅行客も、リピーターになるほどに、有名エリアではなく個人的な興味で日本各地に散開・散策しているそうです。中国人観光客「成熟層」はここまでマニアックに日本を楽しんでいるとかね、「小津安二郎が定宿にしていた旅館『茅ヶ崎館』。趣のある部屋を見せてもらい感動した」とか。

 ちょっと話題それるんだけど、発展途上国が発展するスピードが、日本の頃に比べたら格段に速くなってるし、成熟するスピードもえらい速い気がします。日本の過去を考えると、冷蔵庫とか三種の神器を買って、パックツアーの海外旅行にいって、それから感度のいい連中が個人旅行的に萩やら安曇野に行って(でも雑誌という教科書はあった)、さらに個人的なテーマでアニメの聖地巡礼があって、団地マニアや廃墟マニアが出てきて、、、というのに50年くらいかかってます。でも、今では10年くらいでそこまでいっちゃう感じ。小中高の12年が3年に短縮みたいな。なんでか?というと、やっぱネットその他で世界の先端知識なんかがすぐに共有できるからだと思います。

 でもって、グローバル化が進めば進むほど(世界どこにいても同じように知識情報を得られる)、逆に欲しくなるのが強烈なローカル個性なんだろうなー。グローバリゼーションが、地域の特色を殺して標準化していくのは、発展途上の中央集権的な時代の発想であって、そんなの古すぎ。いつの時代の話じゃい。今はグローバリゼーションが進めば進むほど、ローカルの価値があがり、二人三脚になっている。逆に言えば、過疎の村を中央集権的に再生するのは、もはや不可能に近いのだが、逆にグローバルに再生することはできる。日本人にとっては、ただのド田舎であっても、外国人からみたらファンタスティックな風景なんだわね。

 そういう時代においては、国家というサイズは実に使い勝手が悪い。「帯に短しタスキに長し」なんだと思うわけですよ。日本の場合だって、北海道と沖縄を同じ基準でやるというのが無理。最低限これだけは全国共通しましょうってものだけ決めておいて、あとはローカルにまかせておけばいいんじゃないか。例えば、義務教育の内容だって、とりあえず四則計算の原理がわかれば小学生OKとかさ、その程度。あとは、北海道は雪かきの重要性ややり方を義務教育の内容にするとか、沖縄だったら台風の防災あれこれを義務教育にいれるとかローカルにフィットさせたらいい。義務教育の内容は、30%くらいは中央で決め、あとの70%はローカルで決めたらいいんじゃないのと。地方だったら「東京論」「都会のノウハウ」なんかも教えておくべきだとおもうし、逆に都会の学校だったら地方論とか地方の豊かさ論とか、移住論とかもね、必要ちゃう?

 そういう意味で、極小集団が極大世界にコネクトすることになっていくだろうけど、その場合の結合点、接続の方法がプロトコルになっていくんじゃないかって思うわけです。だからこれから先プロトコルがキーワードになるんじゃないか。

 いい例がAirbnbです。あれは世界中に展開しているけど、世界の極小のなかでも最小単位ともいうべきド極小=普通の個人の家を、世界市場にダイレクトに接続しているわけですよね。すっごいことやってるんですね、考えてみれば。ケニアだろうが、ボリビアだろうが、中国だろうが、秋田県だろうが、同じプロトコルでやってるという。そして、もっと大事なのは「それが出来てしまっている」という点です。

 だもんで、世界に通用しうる、透明で、分かりやすくて、合理性がある手順、やり方、プロトコルを作ってしまえば、いくらでも世界とコネクトできるし、それをどういう基準でやればいいかと。先進技術では、例えばIoTについても、そのベースになる部分=プラットホームの争奪戦が繰り広げられているけど、社会レベルにおいては、そんな技術的なものではないから、やってるうちに自然に収斂されていくような気もします。

 で、思うのは、これから必要なものは、組織ではなく、国家でもない。社会は、これは「人間集団」という意味でいえば絶対になくならないんだけど、社会を社会たらしめているものは何か?といえば、プロトコルなんだと思うわけです。だから、これがあればあとは要らない。問題はそれを誰が決めて、誰がどうメンテナンスするかですよね。

アルゴリズムは?

 さて、プロトコルは以上なんだけど、じゃあアルゴリズムはなにか?ですが、プロトコルを導き出すためのものの考え方です。ありとあらゆる場合を想定して、こういうときはこうする、ああいう場合はああやるというフローチャートであり、それを作っていく部分です。

 例えば誰かに料理を作ってあげるにしても、先に聞いておくこともあります。体調はどう?食べれる?量はどのくらい?何か食べられないものがある?ベジタリアンとかピーマンがダメとか?どんなのが食べたい?がっちり食べる、それともあっさりにする?とか聞いていくうちに、じゃあ、素麺くらいでいいのかな、でも身体を冷やしたらよくないから温かくにゅうめん仕立てにしようかな、具はネギくらいであっさりと。でも、それじゃ栄養つかないからだし巻き卵でもつけておこうかとか。と同時に、今冷蔵庫に何があったかな、ああ冷えたゴハンがあるから、雑炊にしちゃおうかなとか。そういった諸条件をブチ込んでいって、物事を決めていく論理的なプロセスを、アルゴリズムというのだろうと、僕は勝手に思ってます。

 で、アルゴリズムで出てきた解を、今度は実現するためには、まず冷蔵庫から卵を取り出します、肉を解凍します、まないたを出します、コンロに火をつけます、、という具体的な手順がプロトコルです。

一般に応用されているアルゴリズム

 IT的に活用されているのは、ご存知AMAZONのシステムで、「こういう本を検索した人は、こういう本も気に入るかもしれしれない」ということで類似の本を出してきてくれるアレです。YouTubeなんかもそうですよね。あれってお店の「接客営業」のAI化ですよね。ブティックでお客の意向を聞きつつ、見繕って、「これなんかいかがでしょう」と出してくるやつです。昔店頭に出てたカミさんが、90年代本部戦略中枢でやってたとき、それをネットでやるんだと企画だしてやってたんだけど、あんまり理解されずに悔しい思いをしたそうで、あとでアマゾンが見事にやってるのを見て、また悔しかったそうです。ただ、あれ組み上げるだけで1000億?とか、数字はいい加減だけど、ありえないくらい金と労力がかかるそうだけど(当時の話)。

 これらはマーケティングのアルゴリズムです。過去の販売データーを精査して、Aという商品を買う人は、どういう商品を買うかという相関関係を数学的に解析して、他のパラメーター(媒介変数)(=客の年齢、昼に買うかなど時間帯、既婚未婚などステイタス、大阪東京の地域などなど)をぶち込んでさらに関係するかを解析してって統計学、情報工学のなんたら(知らん)やって、出してくる。

 株や投資のインベストメント・アルゴリズムは、1秒間に何十回という高速取引で今世界では普通にやってるやつですね。これも世界中の相場を調べて、シカゴのなんたら相場がどう動いたらとか、NYダウの○○がどうなったら、アメリカのRBAのなんたら議長の発言が○○だったら、ブラジル郊外の不動産価格、日銀の黒田くんがこう言ったらとか、、それら世界の何万という投資先と何万という変数を関係づけて、その瞬間瞬間での最適解を探し、実行する。あかん、日経平均なんかに投資してるよりスリランカの不動産買った方が儲かるやんけ!ってなったら資金をそっちに回すとかなんでしょう(詳しくは知らんし)。

 ま、このへんは金にあかせて、膨大な数のデーター集めて、膨大な専門家を雇ってアルゴリズム作ってるんでしょう。んでも、素人が考えるに、どっかで将棋の千日手みたいなループができちゃって、一定レベルを超えるとあかんのと違うかなー。や、どこまでいっても「結局わからん」って壁があるような。いや、こっちが売ると下がって、それをみて他のアルゴ取引やってるファンドがまた売って、また売って、こっちもそれをみてヤバイと思ってまた売ってとか、合成で暴落が作られちゃうとか。もちろんストッパーかますんだろうけど、かまさないほうがいい本物の暴落もあるだろうし、これって「今誰が売買したか」というデーターがなかったら完璧にならんのと違うやろか?

 それに丁半博打をアルゴリズムで必勝法が組み上げられるか?というと、無限に資金をもってたら可能かしらんけど、普通は無理でしょ。過去の丁半データーから確率論的により高い値(丁か半か)はすぐに出ます。コンピュターなんかつかわなくても、正の字を書いて勘定していれば足りる。常により高い確率に賭ければいい。それも負けてたら負けてる全額を賭けつづければ、どっかで勝つから一気に取り戻せるから必勝です。しかしそんなに資金が続かないよね。最初100万で賭けて、運悪く連続10回最初に負けたら、次に100万賭けて、次に200万賭けて、次は400万と倍々ゲームになる。10回連続で負けたら10億2400万ですか?けど、そんな金あるのか?だし、逆に無尽蔵に持ってたらそもそも博打なんかやる必要あるのか?です。なんかどっかで破綻しそうなんだよね。

僕らの人生や社会におけるアルゴリズム

 さて、話を戻して、僕らの社会における一般論的なアルゴリズムです。
 考えてみれば、人間や社会のものごとは、大体この2つ(企画部門=アルゴリズムと実行部門=プロトコル)にわけられます。だから別に新奇な話をしているわけではないです。まあ、それに、ここまでがアルゴで、ここからがプロトって厳密に分けられるものでもないし。

 では、このように昔から僕らが自然に行ってるアルゴリズム(的なる知的操作)を、なぜ現在から未来へのキーワードというのか?

 それは、これまでの社会=人生アルゴリズムが揺らいでいるからです。
 富国強兵とか経済発展とかのために国家があって、資本主義は皆の幸福を極大値にするために機能していて、企業規模と年収・将来性がほぼリンクしていて、学歴と就職は高い相関関係があって(以上アルゴ)、だから「勉強さえすればいい」(プロトコル)ってなってたんだけど、それが今から将来にかけて揺らいているでしょう?

 だって、必死こいて長年かかって難関試験を突破して、専門知識を修めて、下積みやってプロになった頃には、AIに全部もってかれて仕事ありませーん、だったら目も当てられないでしょ?

 なんでそうなるか?といえば、これまでのアルゴリズムを組み上げてきた前提条件や環境変数のようなものが変わってきているからです。それは高度経済成長で売上や企業規模が増大していたとか、事務機器が今からみれば遅れてて膨大な数の事務作業員(ホワイトカラー)が必要だったとか、そういうアルゴリズムを導く前提が変わってきてるからです。このまま資本主義の悪い部分が修正されず、AIやロボット化が促進されれば、中間層は没落するというよりも消滅しかねないです。でもそうすると客の数も減るからビジネスモデルそれ自体を変容せざるをえない。超富裕層と貧困者しかいないマーケットはマーケットとして美味しくないから捨てたほうが得だという話になったりもする。前提が変わると、どこまでも波及的に変わっていくのですな。

 今はそのさなか(目に見えて始まってきたところ)だから、何をどうすればいいのか?そのプロトコルが見えない。見えないからしょうことなしに昔のプロトコルにしがみついて頑張ってやってるけど、もしかしたら全く無駄かもという不安もあるし。一方、じゃあ新しい方法論、新しいアルゴリズムを考えようとかいっても、どうやって考えればいいのかわからん!てな感じだし。

 でも、わからん!で匙を投げてたら人生詰んでしまうから、やっぱ考えないといけない。そうなると自分なりのアルゴリズムの組み方を自分で覚えていかないといけない。あるいは皆で試行錯誤しながら作っていかないといけない。そういう時代になってきてるので、「こうやって生きていけばいいよ」「なぜならば〜」って部分、アルゴリズムの組み方の部分が大事になるんだろうなーって思います。要は「生き方」が見えないということですね。

自分の場合

 僕も、自分の一括パックなどの業務で、最初は無意識で、次第に自覚的にやるようになってきました。

 平均的な日本人が海外にやってきて、まずぶち当たる問題はなにか?を分析して、次に出て来る壁はなにか、さらにその次に、、と考え、それぞれの問題の所在と解決方法を考えて(アルゴリズム)、じゃあ何をどの順番にやれば最も阻害要因が少なくスムースにいけるか(プロトコル)を考えるわけです。例えば知らない国を自由自在に動き回ることができなければ話にならない、最初はメンタル的な怖さが先立つから一緒にバスなどに乗って慣れてもらい、次にシステムを覚えてもらい、スマホのアプリ(TripViewとか)の使い方を教えて、且つその前提として携帯を使えるところまで持っていくためにSIM買って、場合によっては機体買って、アクティベイトして、それらを全体のスケジュールのどの段階にはめこんでいくのが合理的かを考え、、、って手慣れた感じでやってるようだけど、変数処理とか「じゃこうしよ」とかは百ステップくらいあると思います。シェア探しの最終段階でどうしてもとめておきたいときはデポジット(手付)打っておくべきかとか、7人で住んでトイレ一つだと朝が地獄になるかもしれないからそのあたり注意喚起しておくとか。

 これって弁護士時代にもやってたことで、クライアントの本当の意向(大ゴトにしたくない、腹の虫がおさまらない)を聞き、予算とか時間制限を聞き、大きな戦略をたて、これは訴訟にしないで話し合いで済ませたほうがいいとか、派手にぶち上げて大喧嘩カマした方がいいとか決め、そのうえで○日以内に○の申し立てをして、そのためには予納郵券がいくらでとか(プロトコル)。慣れてるっちゃ慣れてる作業なんです。

 ではそれをもっと大きく、人生レベルまで広げていく。

 これからの変数だらけの見えない世の中を、いかに自分らしくゴキゲンに生きていくか、そのアルゴリズムをどうやって組み上げたらいいか、どう修正するか、そしてどう実行に落としてこんでいってプロトコルまで結晶化させるか。

   そんな全ての生き方については出来ないけど、日本人が、その人生において海外(の中でもオーストラリア)を絡ませるんだったら、こういう組み方があるかなーとか、アルゴリズムを考え、そのうちに永住権取れなくても果実を得られるとか「虫のいい方法」はないかとか、日本にいながらにしてオーストラリアにいるような開放感のある生き方ができないかとか、そのあたりを考えているわけです。で、ある程度なったらプロトコル化してみて、試験的に動かしてみてって。

 僕は組織を作りたいのではなく、利潤を考えているわけでもなく、システム開発をしてるのです。「うまいやり方」を考えているのですね。それがアルゴリズムとプロトコルなんです。その研究と実践が、やたら面白くってねー(笑)。ここをこうしたらいくんじゃないか?とか、あーダメかあ、くそおとか、昔の錬金術師みたいな感じ。

 そういう意味では自由な時代になって面白いやん!って思いますけど。夏休みの課題で「自由研究」が一番好きで、一番燃えるようなタイプにはいい時代だと思います。ドリルの方が好きって人にはきついかしらんけど。


ところで、漫画紹介

 コンスタントにやってた漫画紹介ですが、エッセイと一緒にやっちゃうと長くなるし、僕も大変だし、あとから探しにくいし、かといってそれだけ独自に作るのはHP全体の流れ(オーストラリアの生活・移住・留学などの総合情報サイト)からしておさまりが悪い。

 そこで、この際、はてなブログ(SEOが良いと聞いたし(笑))に新規に作りました。
 APLaC’s blog (Annex) です。あ、これ、はてなはこれからSSL化するらしいので、多分近い将来、https://aplac.hatenablog.jp になると思われます。ま、リダリレクトかけてくれると思うけど。

 これまで全部自分でタグ打ち込んでやってたから、ブログなんか決められて詰まらんとか、自由度ないとか思ってたけど、まあ別館だからいいやと。確かにメンテフリーで楽ちんだわ。過去に書いたのを、リライトしたら画像差し替えたりしつつ、積み上げてます。

 同時並行で音楽話とか、小説とか、アニメ、映画とかそっちもやりたいのですが。でも、ま、これが普通のブログとかネット活動ですよねー。なんかこの20年間、ほぼ自分しか知らないことが多かったんで(その昔はシドニー=オペラハウスでしかなかったので、実はニュータウンが面白いとか、マリックビルのベトナム料理がとか全然日本語情報になかったので)、まずそれを書かなきゃでやってました。語りだしたら止まらないくらい、本当に書きたいことはあるんですけどね(それが読んで面白いかどうかは別の話だが)。

 旧来のものをUPしたときはスルーしますが、新たに書き下ろしたときは、UPDATEやFBで更新通知をだそうかなと思ってます。


 最後の冒頭写真の関係でもう少し。
↓遠くからみるとこんな感じ




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 文責:田村

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