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今週の一枚(2017/10/30)



Essay 850:「死後の世界」のフローチャート

 〜「ある」「ない」「どちらも同じ」と最適解の研究 

 写真は、Chatswood。この時期、「新緑」なのかどうかわからんけど緑がひときわキレイです。青空もいいけど、曇り空に緑もまたオツなもので、なんとなく軽井沢的な。

もう楽しみで

 「死後の世界」はあるかどうか?これが自分のなかでは人気のトピックです。それも最近そうなったわけではなく、けっこう前からそうです。

 いや、死後の世界がどうなってるかを、今知りたいわけではないんです。オカルティックな話じゃないんですよ。「そんなの絶対わからんだろ」という前提での話です。むしろ「絶対わからない」からホットなんです。もう死んでみるしかない。逆に言えば、死んだら全てが(or ある程度は)分かるわけでしょう?それが楽しみで楽しみで。

 もう受験の合格発表なんぞよりも100倍ドキドキしますね。受験だって、やるかやらないかは本人の選択なんだし、大体どのくらいで受かるとかいうのは大雑把にはわかる。そして受かったらこうなる、落ちたらこうなるというのも分かるし、その理解はおおよそ正しい。これが死後の世界になったら、否応なしに絶対に体験させられるわけでしょう?死なない奴はいないんだし、僕もあなたはいつかは必ず絶対死ぬし、その後がある。いや、あるかないかすらわからない。無かったらどうなるってこともよく分からんし、あったらこうなるというのももっと分からん。要するに何一つわからない。これだけ完璧に「何もわからない」ことって、今の世の中そうそう無いですよ。

 そして今までの全人生、全人格、全世界の質量と同じかそれ以上のドンデン返しがあるわけでしょう?それも絶対にある。遅かれ早かれ絶対ある。すごいですよ。なんせ自分が死ぬということは、全世界が消滅するのと主観的には同じことですからね。それに比べたら、日本が地震で沈没しようが、第三次世界大戦で人類が滅亡しようが、宇宙人が襲来しようが、そんなことは「些細なこと」です。だって地球そのものはあるし、宇宙だって微動だにしない。でも、死ぬということは全宇宙が消滅する、少なくとも自分の認識における全宇宙世界が根本的に変わるわけで、なにがビッグイベントかいって、これくらい超弩級にグレートはことは無いです。

 それが「もうすぐ」、しかも「必ず」起きるわけでしょう?
 もう、楽しみで楽しみで(笑)。

 とまあ、ウキウキしているわけです。が、それにとどまらず、この視座が自分の処世訓や人生訓になってます。そのあたりの話を書きます。

死後のフローチャート〜死後の有無に関係なく導けること

とりかえしのつかない一回性

 僕自身宗教的資質や傾向はゼロに近いし、オカルティックな興味もあんまりないです。だからフラットに考えるのですが、そうなると「場合分け」であり、フローチャートです。死後の世界が「ある」場合と「ない」場合にわける。さらに「ある」場合にも内容は分からないまでもある程度条件設定はできる。それぞれを検討した上で、じゃあ、現世ではどうすべきかが逆算される。

 そんなの「絶対わからない」ならやっても無駄だろ?って思うかもしれませんが、これが意外とそんなことないですよ。いろんば場合を想定していくと、結局同じことなのか、って思ったりするのです。

 まず、「ある・ない」以前に、「どっちにせよ同じ」という領域があります。
 基本的に「やりなおしがきかない」という原則です。死んだ後に、「いまのナシ!」と、将棋の「待った」みたいなものをかけるのはダメ。

 これも、もしかしたら「待った」アリかもしれませんよね。何も分からんから、全ての可能性を考えるべきだし。もしかして、死んでしまった後、神様(らしき存在、どっかの末端の職員みたいな存在かもしれんが)に対して、「過去行為補正申請」なんぞを出して、「しょうがねえな、今回だけだぞ」とお許しを得たりなんかして、過去に戻ってやりなおす。その時点でパラレルワールドになるんかな。

 でもその可能性は低い気がする。なぜなら、そんなことが出来るならやってそうな人が沢山いるんだもん。ふとした不注意で交通事故起こして全てを失った人とか、後悔してもしきれない人は沢山おられると思うです。「待った」かけたいでしょう。でも待ったがかかるなら、この世からこういう事故・事件は存在していない筈で、それがあるなら、やっぱり「待った」はないのだろう。もしかして修正後のパラレルワールドではうまくいってるのかもしれないけど、こっちの世界は相変わらずダメなんだから、抜本的な解決になっていないではないか。

 ということで原則は待ったなし。そう考えたほうがよさそうだ。ならば、死んだ後になって、「あれをすればよかった」「こうすればよかった」とか思っても、絶対に取り返しがつかないということです。

何が一番きついか?

 さてその中で何がキツいか、それで一番悔しい思いをするのは何か?
 まあ、死後の世界が無いんだったら「悔しい」思いもヘチマもしないだろうと思うけど、死ぬ前には思うだろう。死ぬ瞬間の走馬灯状態では1秒で一時間分くらい考えられるっぽいし。

 それに死ぬ直前だけではなく、ある程度のトシになって事実上今からやりなおすことが不可能になった(不可能そうに思えた)時点で、ほとんど死後と同じような後悔を感じると思うのですよ。「ああ、やっときゃよかった」と、その苦しさは生前においても味わうだろう。

 これを抽象化すれば、よく言われる「取り返しのつかない人生の一回性」というやつで、過去は絶対変えられない。だから、死を基準点にしてBefore・Afterがあるというよりも、取り返しが「つく」「つかない」こそが基準点なのか。まあ、それでも生きていれば、完全は到底不可能でも多少なりとも「埋め合わせ」「罪滅ぼし」はできます。死んだらそれも出来ないね。

 ただ、人は数え切れないくらいのミスを犯し、失敗をします。「命長ければ恥多し」というけど、「な、なんであんなことを」と思うことの1ダースや2ダース、百ダースや二百ダースはあるだろう。その全てを回避するのは不可能だし、その必要もないのだけど、数ある後悔のなかでチャンピオンに輝く最大後悔はなんだろう?多分、「分かっていたのにやらなかったこと」だと思います。あなたは違うかもしれないが、僕はそう思う。

 それが重要なことはよく分かっていた、それを実行できるだけの時間も労力もあった、にもかかわらずそれを行わずに一生レベルの後悔をすることになった。しかも、やらなかった理由が、何かそれと拮抗するくらい大事な価値を守るためという僅差でのそれではなく(ここ一番の大事な仕事のために家族との時間が少なくなったとか)、「ちょっと面倒くさかった」という、くだらない、くーだらない理由でそれをやらなかったこと。

 例えば、あるとき自分の子供が思い詰めた顔で話しかけてきたのに、たまたまどうでもいい些細な仕事やら、どうでもいいつきあい人間関係でカリカリきてて、「うるさい、今忙しいんだ、あとにしろ」とか突き放してしまった。その子は哀しげな顔でうつむき、去っていって、それがその子を見た最後だった(その後、事故とか自殺とかで死んでしまった)、、、なんて場合です。これはキツいですよ。もう自分を責めて責めて叩き殺したくなるくらい後悔すると思う。なんでちょっと聞いてやれなかったんだ、こんなくっだらないことに心乱されて、大事なことを見過ごした、自分の命くらい大切なものが壊れようとしているのを見逃してしまった、てか自分でグシャッと潰してしまった。

 僕の想像力では、それ以上に後悔しそうなパターンは思いつかないのです。そのエッセンスを要約すれば、いま言ったように、「大事なことであるのはわかっていた」「やろうと思えばいくらでも出来た」「でもやらなかった」「その理由がクソみたいなくだらない理由だった」という点です。

 ちなみに、乗ってた飛行機が落ちたとか、通り魔に殺されたとかこれも納得できないとは思いますよ。でも銀メダル。なぜなら、この種のことは回避不可能だからです。自分にミスはないです。それでこの結果なら、もうそういう運命だったってことで、それがこの世のルールだろう。悔しいけど悔しさの質が違う。それに、そんなこといい出したら、歴史上虐殺されてきた人びと、たまたま障害を持って産まれた人々、産まれるやいなや臓器売買のためにバラバラにされてしまった赤ちゃん、、もっと納得出来ない人は大量にいる。納得はできないし、神様の胸ぐら掴んで文句の一つも言いたいだろうが、ただ、「後悔」とか悔しさというのとは質が違うと思います。

 しかし、やれば出来たのにみすみす、、、という苦さはもっとキツいと思う。

 これを今の時点にまで遡って、どこに注目すべきかというと、最後の「くだらない理由でやらなかった」点であり、それをさらに純化換言すれば「価値の序列を間違えた」ことです。大事なことと、どうでもいいことの順番を間違えてしまった。

 で、ここで一つ自分にとって処世訓が出てくるのです。「どーでもいいことは重要視しない」原則です。ちょっと世間の体裁が悪いとか、ちょっと(深刻なレベルではなく)金がないとか、クソみたいな仕事で忙しくて判断力を欠くとか、単にちょっと面倒臭いとか億劫だとか恐いとか不安とかその程度の心のケバ立ち程度の障害です。いわば「小石ひとつ」みたいなものですが、それで全人生が崩壊する。こんな悔しいことはない。そして、そういうことは「よくある」んですよ。ほんとに。新幹線だって小石一つで脱線するらしいけど、本当にそんな感じ。

 だから、僕は自分に対して言い聞かせているのは、どーでもいいことはどーでもいいと切り捨てること、バサッと切り捨てられる心の強さを養うこと、維持することです。これをやっておかないと、長い長い人生のどっかでミスをするかもしれず、そしてコケたときにはもう遅い。

 いついかなるときも、可能な限り価値序列は守れと。本当に大事なこと(そんなに多くはない)以外は、全部余事、瑣事、雑務処理。それをやらなかったがゆえに、怒られようが、嘲笑されようが、損をしようが、そんなこたあどうでもいい。そんな細っけーことでガタガタすんな、ってことです。難しいけど、でも、改めて思うが、これって意外と大事なことだと。さもないと、いつか自分で自分を許せなくなるくらいのエライことになる。

死後がない場合

あるんだか、ないんだか〜程度問題

 これは簡単です。無いなら無いで後悔することもないし、また「ない」と理解することもないでしょう。
 ただ、「ない」といっても程度問題だろって気がします。ある/ないに程度問題っていうのも変だけど、あるんだか無いんだかよくわからんって領域もあるだろうとか。自分が消滅するというよりは、自分が純粋な意識体になって広く拡散していき、大自然や地球の集合意識みたいなものにはいっていくということもあるかもしれない。

 ちょっと前に語ルシス掲示板にちょこっと詩作みたいなのを書いてて、自分では気に入ってるんだけど。巫女的な舞踏で神がかっていくトランス状態の気持ちよさみたいなのを表現したくて書いたものだけど、最後の方だけ抜書きすると、

ここから来て、ここに還る
「ここ」とは、つまり全部だ
だから、どこにもいかない
ただ、私が地球大にひろがっていくだけ 拡散していくだけ

私はこの星の一部になり この星そのものになり
数千億の一族の仲間たちとともに
私のアイデンティティはこの星になる
自我がぴったり整合する
かつてなかった真の安息がそこにはある

この星になった私は、やがて漆黒の宇宙と対峙し
語り合うのだ

なにかとても大事な話があった気がする
地球になった私が、千億の星々と交わす話があった筈
内容は覚えていないが、そういう確信がある
内容は見当もつかないが、慌てはしない もうすぐ思い出すだろうから

 これはフィクションですが、例えばこんな感じの場合、それは死後の世界が「ある」ことになるのか?それは死後もなにも今この場にも現存する世界なんだけど、スケールが大きすぎたり、純粋すぎたりして単に気づかないだけ。死んで、肉体の枷を外されることで、「自意識」ではない純粋意識、自然現象としての意識になり、ついには自然そのものになっていくような感じね。これって死後の世界なんかな?「あるんだか、ないんだか」「程度問題」というのはそういうものです。

 ちなみに「自意識ではない純粋意識」ってなんだ?って思われるかもしれないけど、僕の感覚では「夢をみてるときの自分」です。夢の中では、起きているときの自意識とは違いますよね。ときとして子供の自分になったり、あるいは性別が違ったり、年齢が違ったり、自分を外からみてたり、自分がなんて名前の何者なのかすらわからない状態。救急医療なんかで「見当識があるか」って判断しますけど、自分が誰で、今の年月時、どこに居るかなど基本的な状況把握ですが、寝てなくてもこれがぶっ飛ぶときがあります。そこでは自意識はかなり剥離してるでしょ。「我思う故に我あり」的な自意識はあるかしらんけど、自分がどこの誰かがわからないし、それに興味もない。純粋に意識だけしているという。多分あんな感じなんじゃないかなーと。

因果関係が切断されているかどうか

 ま、いずれにせよ同じことで、現世は現世として完結しており、次の世界にシフトしようがあまり因果関係はないと(現世で悪いことをすると地獄に落ちるとかいう対応関係はない)。また、いかなる意味でも意識は残らず、停電でパソコンが落ちるみたいに、ぶちっと切れてそれで終わりだとしても、現世が現世として完結しているという点では同じ。

 そうなると、先程の問題と同じになります。つまり、死ななくても、もう取り返し不可能という地点まできた時点で、救いのない後悔が始まるという点。この場合の処世訓は、前と同じ。価値序列を間違えないこと。

 あるいは事故かなんかで即死して、後悔するヒマもない場合もあるでしょう。その場合は「後悔しないために今を頑張る」という方程式は通用しない。なんせ後悔するヒマがないんだから(走馬灯的に後悔はするだろうが)。

 ただね、この場合も、よくよく考えると、何かが起きて死ぬほど大後悔するってことは、それだけの客観的な情況はあるってことでしょ。単にキッカケがないから明確に気づいてないだけで。そして気づく直前までハッピー丸出し100%か?といえば、そんなことないんじゃないかなー?ちょっと気づいて大後悔するくらいだったら、仮に気づいてなくても、なんとはなしの気持ち悪さや「なんか違う」「これでいいんか」って違和感は持ってるんじゃないかな。さっきの子供の例でいえば、突き放された子供が死ななくて平穏な日常が続いていたとしても、それでハッピーなのか?といえば、大事なことに気づいておらず、本当のところでは不本意な日々を送ってることに何の変わりもないわけですよ。それが気持ちいいのか、納得できるのか、死を前にして「これでよかったんだ」と思えるか?です。

 その意味でいえば、コトが起きるか起きないかに関わりなく、似たり寄ったりでしょう。後悔するような情況があり、後悔できるだけの能力があるなら、仮に明瞭に意識しなくても、ずっと居心地の悪さは感じるだろうし、その不愉快さは累積していけば大後悔に並ぶくらいあるんじゃないかな。だから後悔するかどうかがポイントなのではなく、自分が自分の信じる価値序列どおりに生きていないって情況自体が、なんらかの意味でストレスなり負担になって、持病のようにジクジクと響き続けるのではないか。

 そうだとすれば、同じことじゃないか。自分の価値観通りに生きられるかどうかが問題になるんだから。

死後の世界が明確にある場合

死後も理不尽でない保証はない

 それはその死後の世界がどうなってるかによります。It depends.

 宗教の天国地獄的な発想では、何となくとても理にかなった世界であるかのように思うけど、そんな保証もないんですよね。もしかしたら現世以上に理不尽がハバをきかしているクソみたいな世界なのかもしれない。例えば現世で良いことをしたら地獄に落ちて、悪いことをしたら天国にいけるとか、理不尽極まる世界かもしれないじゃん。わからんもん。

 ま、いずれにせよ「郷に入れば郷に従え」でやるしかない。オーストラリアに行ったら英語喋るしかないのと同じく、天国だか地獄だかいったら、とりあえずはそこのルールでやるっきゃない。それが不当だと思えば、その改善をはかるのもいいだろうけど、とりあえずは世界次第です。

 でも、「世界次第」だったら話はまた簡単です。なぜなら、現世と死後とは、ある意味では切り離されているからです。因果関係があるかもしれないし、ないかもしれないし、因果関係があったとしても納得できるとは限らない。いずれにせよ現世の行いと死後の待遇の対応関係を自分で決められない以上、もう考えても無駄です。その意味で切断されてる。ならば、死後がなくて突然死してるのと同じことであり、現世は現世で自分の価値観にしたがって完結させるしかない、それが一番気持ちいいだろうという結論です。

天国こそが一番ヤバイ件

 一番よく語られていて、理想だと思われていて、しかし僕がひそかに一番恐れているのは、ほんとうに今僕らがイメージしてるような天国やら地獄があったらどうする?です。

 何を恐れているかというと、地獄に落ちるからではなく、天国で何すんの?です。もしかして、歴代の地球人全員そこにいるんだとしましょう。そうなったら、ここを先途と歴史上の偉人とかに会ってみたいですよ。現世でもVIP過ぎて会えないものが向こうで会えるわけないだろって気もするが、そこはわからん。

 そこで何を恐れるかというと、あっちいったらそれなりに人生燃焼してきて、生き切った!って人も結構いると思うのですよ。あるいは非業の死を遂げたとしても、その人生濃度はかなりのものでしょう。そういう人らと会うわけですよ。でもって、「お前はどうやって生きてたんだ?」って聞かれた時に、あんま恥ずかしいこともいえないなーと。そこで、セコくヘタレな人生でしたってことで、「なんや、詰まらん人生やな」とか言われたたら辛いなーと。いや言われるのが辛いのではなく、本当にそうだという点が辛いんですよ。

 しかもですね、それがどれだけ続くかわからんのですよ。一回軽蔑されて終わりではなく、もしかしたら千年?一億年?ひょっとしたら永遠?永遠に「詰まらんやっちゃな」と言われ続けるのか?と思うと、これは恐怖ですよ。なんせ死んで逃げるわけにもいかないし。あっちいってジンギスカンに会って「くだらん」と言われ、こっちで織田信長に会って蝿のように追っ払われて、またジョン・レノンに会って、、って。別に有名人とか偉人でなくても、昔は生存環境が厳しかっただけに、名もない庶民といえども、その人生は濃い濃い。明治生まれのおばあちゃんの半生記とか聴いたらいいけど、唖然とするほど波乱万丈ですよ。それでも江戸生まれ先代には、明治生まれは腑抜けで使い物にならんとか言われたそうだから、遡るほど濃いだろう。平安時代とかどうなっちゃうんだ。そんなウルトラ・スーパーリア充(ハッピーではないが)集団のなかで、やっていけるのか、俺?という。それが恐いですね。

 ところで、悪いことしてる人たちってストレスないかな?もしかしたら地獄に落ちるかもしれないじゃん。そんなことあるけえ!迷信じゃあ!って言ってても、無いという保証もないんですよ。もし万が一あったら?もし各宗教のいうような世界だったら、未来永劫、生皮剥がされたり、尻から真っ赤に焼けた鉄串で貫かれたり、そんなエブリディライフですよー。意識面では否定してるだろうけど、無意識レベルの深層心理ではけっこう負担になってる気がする。少なくとも、僕はそこまでギャンブルする勇気ないです。だって、負けたとき悲惨すぎるんだもん。

どのフローチャートも結論は同じ 

 そんなことをつらつら考えていると、フローチャートで場合分けをしたところで、とどの詰まりは同じことなんかなって気がするのですよ。自分の価値観にしたがって、自分らしくきっちり生き切る、しかないよな。まあ、例外は死後の世界があって+そこが理不尽極まるものである場合ですね。現世で悪行を重ねまくった方が来世での待遇が良くなる場合。それが無いという理論的保証はないんだけど、じゃあそっちに賭けるか?といわれたら、イヤですよ、そんな穴馬狙いみたいなこと、もし外れたら(かなりありうる)どうすんだよって。

 もっかい整理すると、死後がない、あるいはそこが曖昧だったりあったとしても、現世がこうだから→来世はこうなるという因果関係が認められない、その内容の妥当性が保証されてないなら、基本、現世は現世で完結って思うべき。だとしたら、これで終わりなんですから、やりたいようにやるしかない。その「やりたいように」というのが、自分の価値序列であり、それにいかに忠実になるか、いかに枝葉に囚われずに、しょーもないことに目を奪われないかだけが問題です。

 次に、死後があって、しかも今思われてる天国地獄パターンまんまだった場合、濃い人達に対抗できるだけ、いや多分対抗なんか出来ないだろうけど、それでも「少なくとも俺なりに精一杯やった」と言えるだけの現世をやらんとまずいわけです。「やるだけのことはやったぞ」と胸を張れるかどうかがキモだろう。

 さらに場合分けをすると、そこまで濃くてエライ人達じゃなくて、意外にもヘタレばっかりいた場合。そうなると、あとでヘボ将棋の感想戦みたいに「あそこで告白しなかったのが最後まで尾を引いたよね」とか「あそこでビビって逃げたのが敗因ですよね」とか未来永劫いい続けているのも辛い。逆に「しかたないよね」「俺たち可哀想だよね」とか未来永劫傷をペロペロ舐め合ってるというのも、みじめな感じがするぞ。いずれにせよ「やるだけのことはやった!」といえないと結構つらいんだろうなと。

 だから何をどうやっても、フローチャートのどの場合を辿っていっても、結局は現世を自分なりに納得いくように充実させる以外の方向はないと思うのですよ。それをもっと平たい言葉で処世訓にするならば、「お前、こんなんで死ねるんか?」「納得できるの?」です。そこで「いや、我ながらよくやったと思うぞ」って思えるか?です。それもいつかそう思えるように、ではなく、今この瞬間に思えるかです。だって1分後に死ぬかもしれんのだもん。

 ちなみに、さっき書いたみたいに巨大な集合意識とかそんな感じにシフトしていく場合であっても、とりあえず現世は現世できっちりやりきっておきたい。でないと、なんか気持ちよく次のステップにいけそうな感じがしない。そこでウジウジしたくないのですよね。おっし、一面クリア!次!っていきたいよな。


 しっかし、いやー、どうなるんだろうなー。不思議な緑色の光に包まれて〜とか、ドラマチックなこととかあるんかしらん。もしかしたら、死んでも意識は残るけど、真っ暗闇のところにポツンといるだけで、誰も来ないわ、声も聞こえないわ、解説もないわ、何もおきないわで数億年、、、とかいうのはヤですね。「なるほど、そういうことだったのか」と長年の疑問は氷解するかしらんけど、それとエンジョイできるかはまた別の問題で。

 スカイダイビングってやったことないんですけど、そんな感じ。次々に皆が飛行機から飛び降りていくなか、誰がどの順番なのかさっぱりわからずランダムのまま、やがてあるときに「はい、じゃあ、次はキミね。いってみようか」って言われるんだろうな。そんときゃ、「おっしゃあ!」っていきたいもんです。心残りなく。


 今回、マンガ紹介はおやすみします。長くなったし、あれはあれで別にやったほうがいいかなとか思うし、今考え中です。



★表示させない




反対側は海(入江)です。気持ちいい空間ですよん。



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 文責:田村

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