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今週の一枚(2017/10/30)



Essay 849:音楽と楽器のはなし

 〜神聖な感情の魔法のツール 

 写真は、夜のMarrickvilleの街路。

音楽が好きなのはなぜ?

 今週はガラリと趣向を変えて、音楽とギターの話をします。マニアックにならないように。

 のっけから変なことをいいますが、音楽というのはドラッグ=向精神薬みたいなものだと思います。いかがわしい麻薬という意味ではなく、「心に影響を与えるという作用」がメインにあるんだという点です。

 心に影響を与えない音楽は、それはその人にとっては「音楽」じゃなくて、ただの「音」であり、それが不快な方向にいくなら「雑音」「騒音」「ノイズ」になるのでしょう。

 音楽には、演歌、クラシック、民族音楽、ロック、ジャズ、、いろんなジャンルがありますが、なぜそういうジャンルになるかといえば、その音を聴くことによって自分の心がどう影響されたいのか、自分の心をどう(いい具合に)変えたいのか?なのでしょうね。

 癒し系の音が欲しい人は、音が持ってる鎮痛作用が大事なのでしょう。疲れてるときは静かな音楽が聴きたいとか、ささくれだった心が落ち着くような音が欲しいとか。よくわかります。それを進めていけば、別に「音楽」でなくても、環境音でもいいわけですよね。波の音とか、雨がしとしと降る音とか、メディテーション(瞑想)なんかでもよく使われますよね。リレクゼーションやヒーリング系のやつで、なかには自己催眠系もあります。Hemi-Syncとか?

とにかく腹が立っていた

 でも僕は昔っからロックが好きです。これでも中学時代はポップスとかクラシックも多かったんですけど、高校になる頃からロック系がメインになっていきました。なぜか?何を求めていたのか?でいえば、やっぱ「腹立ってた」と思うのですよ。ま、男子高校生なんかそんなもんでしょ。ガタイもパワーも人生最強レベルに育ってくる。日々力がみなぎってるくせに、やらされてることは刑務作業みたいな日々。お勉強だわ受験だわ、ああしろ、こうしろ、これすな、あれすなですから、普通に不愉快。だから、「かったりーなー」「ざけんじゃねえよ」が口癖になるという。あなたも高校時代言ってなかったですか?そんな口癖。とにかく、かったるかったのは覚えてる。

 そうなってくると内側から湧いてくるパワーを持て余すようになり、ちょうどオシッコ我慢してるみたいな感じで、どっかに吐き出さないと気持ち悪くて仕方がない。そして青少年は、部活やら、バイクやら、不良やら、オタクやらに自分のパワーをぶちまけられる場を求めると。定番ですよね。

 んでも、いつでもどこでも手軽に出来るのが音楽で、聴くと「うおおお!」って盛り上がる。その頃、評論で「ロック=暴力衝動発散音楽」って書いてあるのを読んで、まさに!と我が意を得たり的に思いましたけど、いやほんとそうで。男の子なんて(女子もそうだとは思うが)、心のどっかで「暴れたい」欲求はあるんだと思いますよ。その心の「どっか」が、非常に目につきやすいところにドーンと陳列されているか、奥の倉庫の引き出しにひっそり眠ってるかは人それぞれだろうけど、「破壊本能(衝動)」というのは誰にでもあるだろう。だからこそ、映画でもマンガでも、怪獣が東京をメチャクチャに壊すシーンやら、殺してもいい悪者達をやっつけたりすると、「まあ、ひどい」「おお、なんということだ」と悲嘆に暮れたりはせず、やったー!って思う。考えてみれば大惨事が起きてるわけなんだけど、でもうれしい、カタルシスを得る。少年マンガ雑誌の世界では、もう毎週最低でも一人は殴られてますよね(チャンピオンが伝統的に比率高いが)。

感情を整理してくれる

 ここで、暴力衝動にムズムズしてる青少年が、ロックを聴いて「うおお!」となるなら、暴力衝動は沈静化されるどころか、むしろ促進増大されて収拾つかなくなるのではないか?って気もしますが、凝縮して〜発散して〜沈静化するという過程になるのかな。

 いや、感じとしては「整理される」気がする。形にならないモヤモヤが、音という一点に集まってくれる。音が一種の「依り代(よりしろ)」になるというか。依り代というのは、神様とか霊的なものがどっかに降りてくる場所やモノで、神霊が依り憑く(よりつく)対象物。神体とか、神域とか。人の場合は、巫(かんなぎ)とか巫女・シャーマンとか、恐山のイタコとか。ま、そんなオカルティックなものではないけど、形にならない抽象的なパワーや思いがなにかに象徴的に宿ることはあるでしょ?「刀は武士の魂」的な、そんな感じ。

 音という一点に集まってくれるだけに、あとはマネージしやすい。マネージしやすいから沈静もコントロールもしやすい。ムカついたことがあっても、これを爆音で聴けばスカッと爽やかって(そんな単純なもんではないけど)。でも、情念がたまりまくって、ヨモギのようにもつれまくって、何がなんだか〜って迷宮泥沼に落ちるのを救う機能はあると思うよ、たしかに。その無形のエネルギーを自分にとって望ましい方向に整理して、向かわせてくれる。

 その整理の仕方なんだけど、それは歌詞世界による言語的なものと、音そのものの場合があって、音の方が多いです。それは明るい曲調とかそんな単純な話ではなくて、その音の質、聴いた耳障り、リズム、全体の響き、鳴り、展開、その全てがあいまって「なにか」を伝えてくれる。言葉よりも雄弁に、言葉よりも直接的にわかりやすく言ってくれる、励ましてくれるし、叱ってもくれる。

 おお、ムカつくよな、腹立つよな?当然だ、もっと怒れよ、お前には怒る権利がある。なに遠慮してんだ?もっと怒れよ、なにいい子になってんだ?なに諦めてんだよ?もっとブチ切れろや。でも、今のお前に何が出来る?あっはは、なんもできねーよな?お前は一人じゃなにも出来ないひよわなガキなんだよ。だせーよな。でもしょーがねえよな、事実だもんな。だったらどうするよ?そうだ、戦えよ、戦えよ、戦うんだよ、負けてもいいから歯向かえよ、悔し涙流してもいいから目を伏せるな、睨みつけるのだけはやめちゃダメだ、いつかぜってー勝つために今日戦わなきゃダメだ。最後はぜってー勝つんだよ。決まってんじゃん、そんなこたあ。でも勝つためには強くならなきゃダメだ、頭もクールに切れないとダメだ、今みたいな馬鹿なヘタレだったら一生無理だ。だったらどうするよ?いくしかないだろ?タフでクールにキレる野郎になるしかねーんだよ。俺たちみんな怒って、みんな戦ってるぜ、お前も来いよ。ほらもっとやってみろ、なんだそんなもんか?もっとこいよ

 みたいな感じかな?高校生の自分の耳に聞こえていたのは(今でもそう聞こえるけど)。

 もちろんそんなの幻覚だよ(笑)。
 音楽自体がそう言ってるわけではない(ニアリーなニュアンスはあるだろうけど)。ただ、その音楽を聴いていると、自分の中のもやもやしたものが、だんだん整理されていくのですよ。整理されきた感情が写し出されて、そのままその曲がそう言ってるような「気がする」だけのことで。ただ、そういう感情の整理作業をするには、その音楽とはとても素晴らしいツールであり相棒であったわけです。気づかない間に自分でカウンセリングやってたようなものですね。言葉でやるのではなく、音でやっていた。

 ただの「ざけんじゃねえ!」の粗暴な衝動が、その勢いを殺すのではなく、増幅させながら、大きく収斂されていく、形になっていく。ただ馬鹿みたいに無目的に爆発していた感情が前に進むエネルギーになっていく。それがロックが持ってる「暴力衝動発散音楽」性だと僕は勝手に思ってましたし、今もそう思ってる。

 言葉を正確にすれば、「発散」というよりは、暴力衝動の「保存」と「有効利用」なんだろうけど、そう言ってしまうとなんか優等生的にきれいにまとまってしまってなんか違う。ほんとはもっと荒々しくて、ニュアンスも違う。大きなところでいえば、「暴れる」という感情が「戦う」という方向性や生産性を得ていくような感じです。そしてそうすることで「荒ぶる原感情」は擦り切れたり、ひねくれて歪んだりもせずに保存される。

 その効用と霊験はあらたかで、大したこともない馬鹿ガキひとり司法試験に受からせるくらいの力はあった。ロック聴いてなかったら、多分受かってなかったと思いますよ。かなりの確度でそれは言えるかな。「世間を睨み殺す」くらいの情念パワーがないと、あんな気違いじみた勉強なんかできんもん。その火を絶やさず、自分が自分でありつづけさせてくれたのは、やっぱ音楽が大きいです。

 ロックにしたって胸が締め付けられるような切ない曲も沢山あるし、うっとりするくらい美しい曲もある。それがロックとして一括りにされているのは不思議でもあるんだけど、でも不思議でもない。なぜなら、そもそもなんで怒ってるの?といえば、涙がでるくらい大切なモノが最初にあって、それを嘲笑されたり、足で踏みにじられたりするから、猛然と怒りの感情が湧いてくるわけです。だから大切なモノを歌うときは、うって変わって、静かに抱きしめるようなピースフルな曲になるだけことで、不思議ではないというのはそういうこと。ただ、抱きしめてそれで終わりじゃなくて、それを汚されたら狂犬のように怒り狂うという部分があるのがロック。

美しい感情

 今はロックの一番典型的な部分だけ書きましたけど、音楽の広がりはそんな一点に尽きるわけではない。怒りの感情とか高揚感とかいっても、実は本当に色が違う。どっかしら虚しさが伴う怒りもあるし、滅びの予感を感じつつつの高揚感もある。静かな気持ちといっても、その「静か」なバリエーションは数百数千というパターンであると思います。時が止まったかのような午後の陽射しの静けさもあるし、喧騒の都会のなかでもすべての音が無音になる孤独な静かさもあるし、はるか昔の回想シーンで音声が入ってないみたいな静かさもあるし、冬の林のような寂寥感のある静かさもあるし、、、わかるでしょ?

 音楽というのは(文学も絵画もすべての表現がそうだが)、自分がもってる摩訶不思議なくらいに膨大で複雑な感情や精神状態を引き出してくれる、再現してくれる、励起させてくれる、整理させてくれる。

 そして何よりも、自分のなかに、こんなにも美しいもの(感情)があるのだということを気づかせてくれる。

 だから音楽(言葉も絵も)好きなんですよね。

 そして、どんなジャンルが好きかとか、どのバンドが好きか、どの曲が好きかといえば、パーソナルなこと過ぎて説明できないのだろう。自分にとって大切な感情=神様みたいなものが、降りてきて、その依り代になる/なった曲がフェバリットになるのでしょう。

 懐メロだって、それを聴いていた時、自分にとって一生モノの素晴らしい感情があったのでしょう。音楽は単にBGMとして鳴ってただけであって、実は曲自体は大したことないのかもしれないけど、たまたまBGMで鳴ってたからそのチェリッシュな(抱きしめたくなるくらい大切な)感情とリンクして、かけがえのない曲になるのかもしれないです。

 ま、音楽であれ、アートであれ、実は政治経済であれ、御本尊の御神体は「感情」なんだと思います。自分にとって、大切な感情、まかり間違っても汚してはいけない気持ち、それをそのまま保存し、維持し、メンテナンスし、呼び起こし、思い出させてくれるツール、自分の大事な感情のツールとして音や言葉があるんだと思います。

 

ギターについて

 ギターはですね、音楽とは微妙に違います。いや微妙どころじゃないな、かなり違う。

自我の混入

 音楽を聴くのは受け身ですけど、楽器は自分から能動的にやります。だから「自分」という要素が、単なるリスナーよりも濃厚に混入します。

 「自分」が入るから、自己顕示欲求がもれなくセットでついてきます。ギタリストでもピアニストでもなんでも、「どうだ、凄いだろう?巧いだろう?」という欲求は絶対入るだろうし、これが入ってないって人を僕は信用できない(笑)。だって悪いことじゃないんだもん。自分を出したいって意欲は誰にだってあるし、それがあるから人は精進するし。まあ別の理由で精進もするけど、自己顕示欲こそが最強のモチベーションになる。また自信も自尊心もつくしね、いいことですよん。

 でも、その意味でいえば上に述べた音楽の意味(神聖な感情の魔法のツール)からは離れる。行為としては「見せびらかし」ですからね。全然悪くないけど、でも音楽そのものとはちょっと違う。

 第二に、ゲーム的な自己実現があります。できなかった曲ができるようになると、やったー!てなもんで、もう無条件にうれしいですよ。一つ出来ると、もっと難しい技に挑戦したくなり、さらにさらにと上がっていきます。これはどんな技芸でも同じだと思います。やってると盛り上がって、ハマって、無限にやってしまうという。

 もーね、この2つ(自己顕示とゲーム性)があれば、「一生もののアイテム」として一丁上がりです。自慢できて、自分が自分であることにちょっといい気持ちに浸れて、且つゲーム的な報奨関係(努力した分だけ報われるという対応関係)があって、無限に複雑に難しくなっていくという。これさえ揃えば、ギターだろうが、料理だろうが、小説だろうが、政治権力だろうが、対象がなんであれ、一生遊べます。

音の不思議さ

 自我とかあまり関係のない側面があります。自分で楽器やるということは、絶対にプロのCDや演奏では聴くことが出来ない音を聴くことができます。それはすなわち「ヘタクソな音」なんですけど、まず自分で楽器やると、そこが最大のショックです。

 自分で演る前は、ジャーンと弾いたらCDのような音が出るんだろうなとか甘く考えてるんですけど、似ても似つかない、しょぼい音。こ、こんなにも難しいのか?と愕然とするよね。とりあえずミュージシャンがいかにも自然に抱えているギターが、実際にもってみたらこんなにも違和感あるのか?と思うし、ジャーンと弾き下ろしたつもりが、距離感がわかってないから、すかっと空振りしたり、ゴンと手首をギターに激突させて痛いとか。当然、出て来る音も、いまだかつて聴いたことない音。聴けたもんじゃないんだけど、でも新鮮といえば新鮮。

 そして思うんです。こんなものから、なんであんな魔法のような音楽が出てくるのだ?と。僕も自分が弾けない頃、上手な友人や先輩みて、魔法使いか、こいつは?と思ったもんな。え、なんで?なんでそんな音がでんの?どうやってるの?って。

 つまり不思議なんですよ、ピュアに。そしてそこが最も本質的な意味で「音楽」なのかもしれないけど、「音」を「楽しむ」ようになります。曲にもクソにもなってない段階だからこそ、一番ピュアに「音」そのものと戯れるようになります。ロックギターが良いのは、ピアノのバイエルとか教程がありそうで全然なくて、基本、皆自分でギターをいじくり倒していくなかで覚えていきます。教則本もDVDもYouTubeもあるけど、僕が思うに、そんな受験勉強みたいにやらなくていいんじゃないかな。なぜって、この「音で遊んでる時間」が一番純粋で楽しいからです。

 だってねー、ほんとに不思議なんですよー。短調と長調のように半音(1フレット)ずらしただけで、全然醸し出す感情が変わる。楽しいウキウキが嘘のように拭い去られて悲しい気持ちになる。これ、今でも覚えてますけど(高校くらいのとき、スーパーで買った超弾きにくいガットギターで)、「うわあ!」って。そして、思った。「そうか!これが魔法か!」と。魔法の一端を覚えた気分。

 それから適当に押さえて弾いてみて、また別な音を交えてって、昔の錬金術師があーでもないとやったように、「幽霊が出てくる音」「理科の実験の音」「ウルトラQの音」「催眠術の音」「鉄腕アトムの最初の音(=後から知ったが、ホールトーンスケールといって、ドレミファがすべて全音で構成される〜合わせ鏡のような不思議な回廊が開くぞ)」とか、やってましたねえ。ギターじゃないけど、ピアノで全部黒鍵だけで弾くと中国音階になるとか。

 でも「創造」ってそういうことなんだと思います。自分の創造力はこの時期に一番強化された気がするのですが、とにかく一切の固定観念も、思い込みも完全ゼロリセットすることが出来るようになった。また結果を恐れず、予想せず、出てきた音に意味づけもせず、整理もせず、ただただ現象それ自体を愛でること。シュタイナー教育みたいないいツールだったんだなって思うんだけど、当時は別に意識せず。

 原子のようなレベルでこれやっておくと、あとで何にでも応用ききますよ。「応用がきく」というより、否応なく色が違って見えるというか。どっかの曲を聴いても、ああこの部分は借用やらパクリ(悪いことではないけど)でしょ、その寄せ集めだけでオリジナルな部分が無いなとか、あるいはやってることは陳腐なことなんだけど、そこに乗っかってる想いはオリジナルだなとか。誰かの文章読んでも、他人を見てても、その人のオリジナルっぽい部分をわりと見つけやすい。色盲検査のように見えるものは見えるんだから仕方がないというか、オニギリ食べててどこに梅干しがあるかってレベルで。合ってるかどうかは永遠に不明なんだろうけど、あなた、もともとそういう人じゃないでしょ?って。

 だから、あんま受験勉強のように、仕事のように、楽器練習せんでもいいんじゃないの?ヘタな時期、何をどうやればいいのか分からず途方に暮れているような時期が、実は一番みのり豊かな時期なんだよって気がします。「遊び」なんだから、純粋に遊べばいいじゃんって、当たり前のことだと思いますけど。

最近弾くときは

 若い頃は鬼のように速弾き練習しましたし、これは誰でもやるんじゃないかな。特にハードロック系は天井知らずに超絶技巧を競い合うし、またギターが一番目立てるジャンルだし。エアギターでおなじみの、のけぞってギター弾くアレですけど、ハードやメタル系でないとああいう弾き方はあんましない。

 でも、速弾きもだんだんどうでもよくなってきますよね。それがどうしたみたいな。速いギターよりもカッコいいギターを弾きたいという具合に変わる。速さがカッコよさに結びついてるギターは今聴いてもゾクゾクしますが、あんまり結びついてないのはどうも。でも、まあ、ボケ防止の指運動で今でも速いのは弾きますし、昔出来たことが出来ないと、もう単純に悔しいから出来るところまでやりはします。でもゆっくり弾くほうが実は難しくて、ビブラートなんか永遠の課題ですよね。言葉に魂入れて言霊にするように、音に魂こめるのはビブラートですから。

 今は、自分で弾いて自分で聴くというか、音楽として弾けるようになったというか。かといって一曲まるまる完コピなんて絶えて久しくやっておらず、それどころか、音楽に「曲」という形式は正しいのか?みたいな意識すらあります。あれって、いわば「商品パッケージ」でしょう?だから、自分で曲作ったりしたときに思ったんですけど、単なる「手続き」みたいなパートもあるわけですよ。でね、要るのか、これ?とか思ったり。

 バンドとか仲間でやるなら一応の形はいるでしょうけど、自分一人が趣味で弾いてるだけなら、その昔のキース・ジャレットのライブみたいに、頭から終わりまで100%全部即興、アドリブです。そういう人多いと思うけどな。クラシックピアノ長いことやってた友人は、一人で弾くときも曲単位だとかいうけど、ロック系はもともとが音遊びから入ってるから、即興の方が慣れ親しんでて、その方が楽しい。

 即興とかいいつも、殆どが指グセなんだけどね。でも、気分と音とが交互に引っ張り合って、こんな感じの音聞きたいなと思うから、そういう感じの音をだして、その音を聴いてまた違った感情が出てきて、その感情をもっと深めたいな、もう飽きたなとかいうことで弾く方向も変えるって感じ。

 そんなことやってて楽しいか?って思うかもしれないけど、楽しいですよ。ゴリッゴリのスラッシュ風やった次の瞬間にクラシックみたいなの弾いて、そのあとジャズっぽいの弾いて、ちょっとズラしてボサノバっぽくなって、さらにコテコテのブルースにして、で、本道のロックに戻って。メタル系のギガギガ幾何学的なリフを楽しんだら、今度はレイド・バックしたアメリカン・ロックの感じとか、ストーンズみたいな気だるくワルっぽい音にしてとか。短時間にいろんな気分に浸れるし、ふとした気まぐれで音出せますし。これ、iTuneで曲目リスト作ればいいじゃんって説もあるけど、なんか事前に仕込むってのが違う感じがするし、一曲まるまるなんてかったるくて聴いてらんない、10秒も聴けば十分ってときもあるし、早送りも曲飛ばしも、自分で弾くくらい簡単なものはないですからね。

 でもって、そんなに思う通り弾けるわけないから、そこで横道はいって研究タイムになったりします。頭ポリポリかきながら「違うんだよなあ」って。もうちょっと半音ズラした方がいいんでねーのとか、音はあんまり歪ませないほうがいいかなとか、このフレーズは自分のストックにはないなとか、それがまた結構楽しいです。

 ロックやる以上は、なんかしらんけどバンドでやるのが前提だから、アコギは座って弾くけど、エレキは立って弾くとか。立って弾くほうが難しいんだけど、それができてなんぼだし。特にソロパートよりも普通のバッキングパートを好んで弾きます。だって、何度もライブやって思い知らされたんだけど、実際のライブでいくらソロで頑張ってても、自分がプロでプロのミキサーさんやPAがついてないと、なかなか聞こえないのよね。みんなも別にソロ聴いてないし(笑)。それよりも全体としての音の存在感がなによりも大事。だから一人で弾くときも、一つの音しか鳴ってないんだけど、それがいかにバンドの音のように鳴らせるか(鳴ってないドラムの音まで聞こえてくるかのように)どうかが大事で、それが出来たらうれしい。グルーブ感というか、単に6弦開放E音を単調に弾いてるだけなんだけど、それだけで何かが降りてくる感じ。で、最高なのはやっぱ自分の音が「依り代」になってなにかが落っこちてくることですよね。自分のなかですごいいい感情が出てきたなーとか、そういうときは弾いてるパッセージや曲調もいいです。

 なんて色々書いてますけど、別に技術的にはそんな巧くはないのですよ。そのへんの中坊といい勝負じゃない?でも、決して巧くなくても楽しむことは全然可能だって言いたいのですよ。だって全く技術ゼロのときに、この「魔法」に出会ったんだし、それが楽しかったんだから、上手いかヘタかは本質的にどうでもいいです。スポーツの楽しさは、上手いか下手かはあんまり関係ないのと同じ。といっても、そう思えるようになったのは、年とってからで、自己顕示欲が適当に衰弱していったからだとも思います。

 ということで、楽器やったこと無い人、やってたけど今はやってない人、いかがですか?って、まあ余計なお世話だけど、いいですよ、「魔法使い」になるのって。

漫画紹介

[高橋ツトム] 残響


 高橋ツトムという作家に最近ハマってまして、最近知ったのは残響で、現在連載している「NeuN」、さらに遡って「SHIDOO(士道)」「爆音列島」なんぞも読みました。まだまだ読んでない作品も多いのですが。

 最初にこの「残響」を読んで、むむ、タダモノではないと思いました。日本映画まるまる一本みた気分です。

 なにが日本映画かというと、「意味わかんない」ところが絶妙に混じってるところです。間違っても文科省推薦になりそうもなく、愛と涙の感動巨編でもない、そんないい子ちゃんぽくない、皆が期待する予定調和に落としていこうという気がサラサラないところがいいです。あー、ロックしてんなって。

 ストーリーは、ちゃんと読めば見事なくらいに整合しているんだけど、固定観念に縛られてたら最初っから破綻してます。なにしろ、アパートの隣の爺さんにピストル渡され「俺を殺せ」ってところから始まるんだから。そして馬鹿みたいに律儀に爺さんの遺言に従って、田舎の暴力団に香典届けにいって監禁されて、抜け出して、知り合った女装子と道連れになって、さらに孤児になったばかりの少年を拾って、逃避行がはじまり、主人公も逃れるために女装して、女装子二人と少年が「家族」になり、それが命を替えても守るべき大切なものになっていく。意味わかんないでしょ。

 でも、「わかる」んだわ。意味分かるのが分かるのもいいけど、意味わかんないのが分かるのはもっといい。生きながら死んでるようなクソみたいな日々、人生の名に値するのかすら疑問な日々の主人公に、余命幾ばくもないもと極道の筋金入りの爺さんが「てめえに”生きる”ってことを叩き込んでやる」という「親切」で人(自分)を殺させる。もともと人を3人も殺してきた俺が病気で死ぬなんて贅沢すぎるという爺さんなりのスジの通し方ってもあるんだけど、生きるためには「一線を超えろ」と。何も別に殺さなくても良さそうなものなんだけど、そこに不思議と意思の疎通が出来て、以後、主人公は爺さんの教えを守りつづけ、次の世代に伝える。

 主題として一貫して流れているのは、圧倒的に巨大な、しかしクソみたいな社会に押しつぶされるな、抗え、生きろということで、それは他の作品にも通底しています。眉一つ動かさず人(悪者だが)を殺せる、カラカラに乾いたキャラなんだけど、でも無垢な子供には優しい。自分の生きる意味、自分が生きている価値を見出し、自分に言い聞かせるように、子供にいう、「お前はなんにも悪くない、不幸になる理由なんかないんだ」と。

 そして本当に大切なものだけがあればいい、それも一生ほそぼそと続く必要もない、断片でいい。ただその断片がどれだけ激しく輝けるかだと。

 こういう表現は難しいです。殺伐としたバイオレンスシーンが多いのだけど、言わんとしているのは文学作品レベルで、それを表現として成り立たせるのは圧倒的な絵の力でしょう。

 この作家さんは、見開きの風景ページがときどき出てくるのですが、その絵そのものが何かを訴えてくる感じは、日本映画の映像と似てる。なんでその絵になるのか、なんでその構図にするのかなど。


「NeuN」
 これは最近連載が始まったところで、まだ1巻しか出ていません。場面は一気に変わって、ナチス時代のドイツ。

 すごいなと思ったのは、ファイズムが支配した社会の重苦しさと非人間性がよく描かれていること。それも説明中のセリフなどではなく、絵一発で重さが伝わってくることです。

 設定がまだ謎に包まれているのだけど、ヒットラーのDNAで9人の子供を生み出し、ヒトラーから直にその子を守れと命じられた「壁」が9人。ところが何がどうなったのか、その子供を全部殺せ、なかったことにしろという命令が出て、ゲシュタポが動き、子供を殺すのみならず、子供の顔を知っている村人全員を殺す。

 しかし、9番目(ノイン=タイトルになってる)の子供を守れと言われていた主人公「壁」は、やってきたゲシュタポを返り討ちの皆殺しにして、子供を連れて逃亡。そこで他の壁と子供に会う、、というところまでです。何がなんだか?ですけど、面白い。

 そしてここでも、平気で人を殺せるような主人公たちが、無垢な子供には優しく、「お前らは悪くない、悪いのはクソな社会の方だ」という。それを守るためにはこれ以上強大な敵はいないんじゃないかと思われるナチスドイツのど真ん中で国家権力に歯向かう。


「SHIDOO(士道)」

 2005年からの作品なので古いのですが、今度は幕末モノ。母親がコロリで死んでしまって取り残された幼い兄弟が、変な宗教団体(最後まで絡むが)に拾われ、そこでこれでもかというくらい非人間的で無茶苦茶な目に遭いながらも生き残り、生き残るために強くなり、徐々に幕末の世に出ていく。後半は高杉晋作とか、土方歳三とかおなじみのキャラが出てきて五稜郭までいくというお馴染みの話になるんだけど、坂本龍馬がそれほど良く描かれてないのが珍しいかな。でも、そんな幕末グッズ的なあれこれはどうでも良くて、縁あってやってきた会津を故郷として定め、おりにふれ磐梯山が出てくる点が印象的。

 どんなに時代や社会がクソで強大で無慈悲であろうとも、必死に抗い、生き続け、そして命を差し出しても良いと思えるような「いいもの」を見つけ出すというパターンは、上の二作と同じ。ここでは、人として良きものになることが、武士道という形で突き詰められ、しかし同時に、自分の愛する妻や子供がさらにそれに加わる。

 最後に、見開き風景絵なんですけど、これが出てくる必然性も分かる気がするのですよ。なぜかといえば、記号としての社会に馴染めなかったり、敵対したら、逆に社会からほどこされる洗脳も解けて、ひとりの自分に戻る。そのときに視界に飛び込んでくるのは、この世の実相ともいうべきただの自然であり、ただの風景だからです。世界があって、自分がいるという、シンプルな原構造に戻る。

 あなたも経験ないですか?学校時代クラスが馴染めないときに一人で屋上に上って町の風景を見てたり、詰まらない仕事で外回りやらされ、知らない町の道端で、なんでこんな所にいるんかなあって見渡したり。世界と自分というシンプルな構造にもどっていく。

 「爆音列島」は80年代の暴走族の話ですけど、これ作者の自伝でもあるそうで、相当中核幹部までいってますよね。ただ、それだけにヤンキーカルチャーどっぷりではなく、普通の少年がそうなっていくプロセス、そして最後は「卒業」という終わりの予感を抱いている寂しさ、巧く描けてます。

 この作品も、どの作品も同じなんですけど、少年たちが感じる素朴な思い、え、こんなクソみたいな人生しか用意されてないのかよ?これ一択なのかよ?という絶句するような思いでしょう。そしてそこから反逆がはじまり、物語が始まる。十代の反抗は必須教程ともいうべきカリキュラムで、これ履修しておかないと、大人になったあとえらい往生しますよ。まあ、その話はまた別の機会に。



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★表示させない




反対側は海(入江)です。気持ちいい空間ですよん。


 文責:田村

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