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今週の一枚(2017/10/23)



Essay 848:「物語」のはなし

 「物語」がコケると自分も崩壊する 
 「物語」再構築による救済とその麻酔作用 

 写真は、いよいよ満開になってきたジャカランダ。場所はウチの近所のGlebe。この壁画もずっと前からあるなー。
 今週はちょい抽象的な話を。
 まだ日本にいた頃、「物語治療論―少女はなぜ「カツ丼」を抱いて走るのか」(大塚英志著)というのを読んだことがあります。

 詳しい内容は忘れてしまったけど「物語治療論」というフレーズはかなり印象的で、それ以来頭に刻まれています。そして、今にいたるまで折に触れ「結局そういうことか」という感慨を重ねてきました。物語療法(ナラティブセラピー)というのも実際にあるらしいですね(深い内容は知らないけど)。

 ここでは学術的な考察ではなく(出来ないし)、市井の現場や個人体験レベルで、一杯やりながら「いや、最近よく思うんだけどさー」くらいのノリで書きます。

物語治療論

物語の途方もない重要性

 「物語」というのは、人が生きていくにあたってめちゃくちゃ重要だと思います。とてつもない影響力がある。なぜなら、自分が自分であるアイデンティティやら、人生の意味付けやら、ひいては世界観、あるいは因果関係や論理そのものも、煎じ詰めれば「物語」だと思うからです。もしかしてほとんどコレかも?ってくらい。人間の脳がそういうパターン認知を好むのか、記憶情報の連結パターンがそうだからかなーって先走りすぎた。

物語=因果=論理

 物語には論理があります。因果関係もあります。論理と因果関係は、もしかしたら同じものかもしれない。Aがありました、Bがそれに絡みました、だからCになりました、という一連の流れは、因果の流れでもあり、論理の展開でもあります。

 桃太郎の育った村では、昔から鬼が暴れて財宝を強奪していきました。壮健な若者に育った桃太郎は、悲嘆にくれる村人たちのために立ち上がり、鬼ヶ島にいって鬼退治をして財宝を取り戻してきました。これは勧善懲悪であり、復讐リベンジの「物語」です。「悪いことをしたAは、何らかの意味で応報をうけるべき」という論理があります。当たり前すぎてよくわからんかもしれんけど。

 でもね、断片的に捉えたら、桃太郎は侵略者でもあり強盗犯でもあるのですよ。だって、いきなり他人の住んでるところに来襲して、ことの成り行き上暴行傷害(もしかして殺害も)行い、鬼の持ってた財宝をぶんどっているんだから、国家レベルでいえば、まごうことなき侵略戦争であり、刑法的にいえば強盗傷害(殺人)罪ですよね。桃太郎が直に被害を受けたという経緯もなさそうだ。だから、桃太郎の行為だけ見ていたら悪いのは桃太郎のようです。それが正当化され、正義のお話になるのは、「鬼の方が悪い」からであり、それは過去の鬼の悪行があるからです。

論理の本質は感情

 なぜ悪いことをしたら報いを受けるべきなのか?というと、古い法哲学の問題で泥沼なんですけど、ぶっちゃけていえば、僕の考えではその命題を正しいとする論理的な根拠は「ない」です。「なんでそうなるの?」と徹底的に遡っていくと、およそ「論理」を成り立たせる構成要素というのは、単なる「感情」だと思います。悪いことをした奴がなんの咎めもうけずにのうのうとのさばっている風景をみると「腹が立つ」「ムカつく」と。これは人間の「原始的な応報感情」とかいうこともありますが、ネーミングはともかく、要するに「ムカつく」という感情が湧き起って、その感情を整理したり、正当化するために「悪いことをしたら罰を受けるべし」という論理になると(なぜそこでムカつくのか?とまで言い出すとキリがないから割愛します)。

 他者を傷つけて、のうのうとしていても腹が立たないことがあります。例えば、温厚で従順な牛さんやブタさんを叩き殺して、食いまくってるんだけど、でもお咎めなし。牛やブタの祟りで死んだ人間がいても良さそうなものだけど、そういう話は聞かない。殺しっぱなし、殺し得。桃太郎論理で言えば、鬼以上にひどい話で、人類なんか可及的速やかに退治されるべきという話になりそうなんだけど、そうはならない。なぜ違うのか?結局その差はなんなのか?といえば、桃太郎の場合は腹が立つけど、牛豚の場合は腹が立たないからでしょう。それだけでしょ?論理的には全然一貫してないんだけど、でもいいと。だから論理の本質は感情だという所以です。

 ということで、要するに桃太郎は「ムカついたから暴行を振るってる」わけですよね。そこらへんのDV男や、弱い者イジメをしてるヤンキーと変わらんわけで、桃太郎極悪説だってアリでしょう。でも、桃太郎はそうは思ってないでしょう。俺は正義を実行してるんだって思うでしょう。またこの説話を聞いた人々もそうは思わない。正義の味方、ヒーロー桃太郎って思うでしょう。単に感情に支配されて他人を傷つけるんだけど、でも正義、でもヒーロー。

 なにをクデクデ書いてるかというと、思うんですけど、僕らって理路整然と何かを遂行しているつもりでいながら、結局には「感情に突き動かされて」やってるだけなんだろうなーと。ムカついたから殴る、可哀想だから助けるとか、大雑把にいえばそのくらいの感じなんだろ?と。ただそれじゃカッコつかないし、そうやって剥き出しにしてしまうと馬鹿みたいだから、論理とか道徳とか大義名分をもってきて、整理して(誤魔化して)るだけじゃないの?ってことが一つ。でも、それを非難する気はないです。人間なんてそんなもんだろ?って思うし。

 問題は、それを誤魔化して、いかにもイイコトであるかのような、いかにも正義であるかのように仕立て上げるために「論理」というものがあり、別の言葉でいえば「物語」があるんだってことです。

 物語は、感情を整理するための格好のツールです。そして人間は感情の動物であるから、人間にとって物語は切っても切れない「お気に入り」の必須ツールだと。

物語がコケたら大変

 そして、その物語がコケたりしたら、さあ、大変!!
 苦悩、葛藤、ひいいては人格崩壊、世界観崩壊が起きたりして、それで皆さん困ってる。

 例えば、俺は正義の味方で皆のためにイイコトをしたんだとご満悦の桃太郎サンでしたが、あとになって、村人が嘘をついていたことが発覚!実は鬼が村人に迷惑をかけたり財宝を強奪したという事実は存在せず、彼らは単にガタイが良くて角が生えてるだけの善良な皆さんで、鬼ヶ島で勤勉に漁業や貿易やっていたから裕福になって財宝を持ってるだけの話で、何の努力もしないで鬼を羨むだけの村人が、世間知らずの桃太郎に大嘘を吹き込んで、鬼を皆殺しにさせたのだ、という「驚愕の真実」なんぞが明らかになったら、得意絶頂の桃太郎はあーっと奈落の底に堕ちていきますよね。物語の崩壊によって「俺=いい人」というアイデンティティは崩壊するわ、自分の人生は「ただの馬鹿」「ただの人(鬼)殺し」ってことになって、もう生きていけなくなったりします。

 ま、普通はこんなドラマ的な急転直下はないんだけど、でも「なんかひっかかる」「疑惑」みたいなレベルで残ったりして、それが心の虫歯みたいにジクジク痛む、、、というのはあるでしょ。

 僕らもまた桃太郎と同じ。僕らが僕らであること、僕らの人生について、なんで今こんな所でこんなコトやってんの?ってことでも、全部桃太郎のような「物語」があります。そして、その物語がときとして揺らぐ、疑惑を感じる、崩れそうになるから、アイデンティティがヤバくなったり、生きていく意味やら楽しさを見いだせなくなったりして、凹み、悩み、ふさぎこむ。場合によっては自殺したり。

物語の再構成

物語に潰され、物語をリセットする

 多くのカウンセリングや悩みの解消、トラブルの解決をするには「物語の整理・再構築」が必要です。それが上手に再構築できるかどうかがキモで、そしてそれが結構難しい。物語治療論とかいうのも察するにそういうことじゃないかなーと。僕が日常的に、皆の話を聞いたり、あれこれ言ったりするのもそうです。そして遡れば、弁護士時代にてがけた案件も大体そうだったし、ひいては自分自身の立ち位置を納得させる作業もまたそうでした。物語の成立、再構築です。

 例えば、思春期から中年期にアレコレあって誰もが凹むわけです。やれフラれたとか、友達に裏切られたとか、受験や就活に失敗したとか、成功したけどその先で煮詰まってるとか、煮詰まったあげくひきこもったり、通り魔になってみたり。ずっとエリートだった人がどっかでコケると、もう立ち直れないとかいう話もありますが、あれもそういう(自分でエリートで世を導く使命が〜的な)「物語」が崩壊してしまって、収拾がつかなくなったともいえます。

 離婚したら「結婚に失敗した」という物語が重くのしかかる人もいるでしょう。最初からモテなかったら、「一人前以下の自分」「ひと一人分の価値も魅力もない自分」という物語にひっかかりやすい。破産したり、ふとした油断で交通事故を起こして人を殺めてしまった場合、腹心の部下に会社の金を持ち逃げされて何十年も築いたものを失った人の場合、「俺の人生、いったい何だったんだ?」的に思ったりもするし、「人並み以下」という強烈な負のストーリーが出来て、それで苦しむこともあります。

 そこで色々思うのですが、「これは多感な(でも世間知らずな)少年少女が、実際にあれこれ経験していくなかで、成熟した大人の男・女になっていく成長の物語です」ってやればいいじゃんって。特に、離婚や破産が「失敗」だとは、僕は個人的には全然思ってません。僕自身離婚したことありますが、それまでの約10年の結婚生活は大成功だったと思うし、離婚そのものはバンドの解散に似てる。やりたいことが違ってきたので、分岐点で「じゃあここで」って感じ。すべての指紋が違うようにすべての離婚はそれぞれに違うでしょう。すべてが成功だというつもりはないが、すべてが失敗だというはずはない。プラマイ中立であるなら「やりたいことをやった」分プラスだろうし、なにかの行動によって経験を得たならば、次になすべきは経験の純化でしょう。そこで学んだものを正しく位置づけること。

 一般に離婚はヴァージョンアップであり、破産はリセット&フレッシュスタートなんだけど、そう思えない人もいる。まあ実際、自堕落放縦の末にそうなった場合もありますが、だったら最初から自堕落な自分が問題なのであって、個々の現象は数ある結果の一つに過ぎないし、そんな瑣末な結果が問題なのではない。またダメ人間が成長するにしても、一つひとつ失敗して痛い思いをして学んでいくしかないし、それは立派な学びのプロセス。それが「成長物語」なんだとは考えられないかな?という話を、深夜の事務所の蛍光灯の下であれこれ話をしたりするわけです。

 エリート挫折パターンでも、そこでのしかかってくる物語は、「最初から大した人間でもなかった馬鹿が、ちょっと田舎の秀才的に勉強ができるから何をカンチガイしたか身分不相応に舞い上がって、そして地べたに叩きつけられる自業自得のザコ物語」とか思っちゃうから、それがまた弁明の余地がないくらい本当ぽいから、自己嫌悪感を募る。それまでの優越意識やら、優越意識丸出しの言動やらが全て「馬鹿の証拠」になって跳ね返ってくるから、たまらんだろうなー。

 「最初から大した人間ではなかった」という部分はそうかもしれないんだけど、その迷妄が晴らされたら、却って生き方は広がっていく筈なんですけどね。エリート縛りがなくなるんだから、市井の一般人と同じ人生の楽しみを、同じように味わえばいいわけですよ。花見も海水浴も合コンも横目でみながら「ふ、愚民どもめが」と冷笑して、しこしこガリ勉やガリ仕事やってたという「ご苦労な人生」から離脱して、いっしょに波打ち際でキャッキャやれるビッグチャンスが転がり込んできたんじゃないか。いいじゃんよ。それに、それでも尚も平均よりは多少は賢さや知識もあるだろうから、今度はその力を純粋な形で他人と自分のために行使すればいい。くっだらない優越感情と虚栄心を満たすための証拠づくり(出世したとか賞をもらったとか)に自分の知能を使うのではなくね。

ケーススタディ〜離婚

 離婚やら労働事件をムキになってやる場合は、経済的な利得よりも、個人の物語のジョイント部分にそういうことをしておく方が良いからって場合もあります。離婚でも、もう一緒にやっていくのは無理となった時点で、とっとと次のステージに進めばいいんですけど、それまでのルサンチマンとか感情が溜まってる場合は、一度吐き出して清算しておいた方がいい場合がある。

 特に熟年離婚などのケースの場合、積もり積もって数十年分の恨みとかもあるわけです。女性の場合、人格否定の30年とかあるわけで、「お前は黙ってろ」「出過ぎた真似をするな」と叱りつけられ、自尊心を殺してきた日々があるわけで、次のステップに進むにしても、その自尊心は奪回しておく必要がある。最後の最後まで、相手のペースで押し付けられてってなると、なんか負けっぱなしのいいとこなしだから、そんな気持ちで新生活になっても引きずりそうだ。ならば、最後の最後くらいは、中指立てて、ばっきゃろーって言って、「堪忍袋の緒が切れた」「仏の顔も三度まで」という形に、耐えて耐えて最後にドカンというよくある日本映画(往年の健さんのような)的な物語にした方がいい。

 でないとフレッシュなスタートが切れない恐れもある。「いつも誰かの食い物にされる私」という馬鹿な物語になっちゃっても困るし、「およそ人は信じてはいけない」「わたる世間は鬼ばかり」という拗ねた世界観に染まってしまえば、その後の展開がしょっぱくなるのは結構見えてますしねー。だから、いい感じで、これまでの軌跡について納得いく位置づけを与えてくれる「大きな物語」を構築しなければならない。

ケーススタディ〜普通の民事案件

 普通の払った・払ってない水掛け論の民事紛争だって、だいたいがどっかで和解してシャンシャンになる場合が多いのだけど(裁判かけても、面倒な判決を書きたくない裁判官から熱心に和解を勧められる)、当然100%自分の満足いく結果になることはない。依頼者からしてみたら、「結局あいつのゴネ得を認めろってことですか?」と憤懣やるかたなしって感じで、到底納得にはいかない。かといって、水掛け論のまま平行線だったら挙証責任を負ってる方が負けるからゼロ判決もありうる。そこでまた蛍光灯の下でテーブル叩いて、海千山千の中小企業の社長とやるわけですよ。

 もし完全敗訴になってしまったら「下らないいいいかがりをつけた馬鹿なやつ」という不本意極まりない形で終わってしまうけど、ほんでもええんかい?自分の主張が100%通ることなど滅多にない、なんてことは幼稚園児でも知っとるわ、ええ年こいてそんなことも分からんのか?それが嫌なら日頃からきちんと証拠を残すようにしておくべきで、それをしないから負けたとしたら、負けるほうが正義だろ。などとガンガン言いながら、同時に「わかっとるよ」と。

 わかっとるよ、社長。相手方の熱心さにほだされて、協力したろうと思ってあれこれ援助したあんたの男気、俺は知っとる。だから証文とか利息とか「水臭い」ことはしたくなかったんやろ?そらそうや、クリスマスプレゼントを贈るときに領収書を求める馬鹿はおらんわな。それが今回裏目に出たわけだけど、なんでこんな理不尽なことが起きたかといえば、向こうがメチャクチャだからだわな。これだけ恩義を被っておいて、いざとなったら出し惜しみして、貰ってないやら、払ったやら証拠がないのをいいことに言い逃れする。人間あそこまで浅ましくなれるんか?って、それはもう感動だわなー、世界びっくり大賞だわな。人として間違ってるわな。

 せやけど、そんな人として間違っとるヤツ相手に、人としての正論をかまそうとするあんたも間違っとるよ。ゴキブリに説教してるようなものだろ?言うこときかんからゆーて、いちいち怒ってどないすんねん?人を見る目がなかったって?いやあったと思うよ。確かに援助を求めたときは真剣だったのかもしれんよ。そうそう騙されるようなタマやないやろ、あんたも?でもその後がアカンかったんちゃう?軌道に乗ったけど、見栄っ張りだから豪勢なオフィスにしたり、まあ金ばっかかかるわな、内情火の車ちゃうか?そんなこんなやってる間に、あそこまで歪んでしまったという。

 せやのんで、ここはこの雀の涙の和解金で許したれや。あなたが今ムカついているのは、踏み倒されたお金が惜しくて怒ってるのか?違うやろ。あのとき真摯で誠実だった相手、あれだけ目をかけて援助した相手が、こうも人の道を外れて畜生道に堕ちていくのが悲しく、腹立たしいんちゃうか?いや、ほんま、悲しいわなあ。でも畜生道に堕ちてしまったんだから、こっから先は地獄の閻魔さんの仕事や、俺ら人間の領域超えとる。まあ、最後の香典代わりに、足りない部分は相手にくれてやったらええやん。人ひとり地獄に堕ちるんやで、そんくらい出したりーや。振り上げた拳、今が落とし所やで。

 そのあたりが「物語」の再構築です。1+1=1になるという理不尽な物事を、いうならば「社長!男じゃあ!」というすごい論理や物語で上書きするという。でもこれが出来なきゃ、市井で弁護士は出来ないよ。おきれいな(でも時として陰惨な)企業法務とはそこが違う。

物語のプリセット=洗脳

 ちなみに、最初から自分の都合のいい物語を用意しておいて、他人が生まれてからそれを教育しておけば、これは手間いらずですよね。自分が王様だったら、領民達に学校を用意して、そこで「王様はエラい、とにかくエラい、問答無用にエラい、神様の次にめっちゃくちゃ尊いものなのだ」とやっておけば、「そうかそういうものか」と思ってしまうから、自分の立場は安全ですよね。

 こりゃあいいわで古今東西昔からやられているわけだし、手を変え品を変え、現在に至るまで連綿と行われている。メディアはそのための使いっ走りですわね。

 宗教なんかもそうですね。愛国心なんかもそうだし、どっかの国を一方的に敵視する鬼畜米英も反日教育も、いたるところで似たようなことは行われている。さらに文化や美しい習俗の名を借りて、なんだかんだ押し通す。

 中世ヨーロッパの王権神授説なんかもそうで、王様がなんでエライのかといえば、それは神様から「お前が統治しろ」と統治権を授与されたからだという説明です。「見たんか?」って気もするけど、そんな批判したら殺されてしまう。人類を教え導く尊い使命を授かった優秀なゲルマン民族が、他民族を征服したり、ユダヤ民族に意地悪するのは「正義」なのだとか。日本の戦前の皇国史観でも、なんだか知らないけど南北朝の南朝の方が正統で、足利尊氏は「おそれ多くも」弓を引いた悪人になっている。薩長閥の利権保護のために、なんでそこまで?ってくらい「物語の作り込み」が行われる。

 時代を隔てて、ちょっと引いて見ると、ばっかじゃねーの?ってくらい荒唐無稽なんだけど、その時空間では、まぎれもないリアルとして通用して、分別も知性もあるはずの人々がコロリとやられてしまう。これって生物界でもかなり奇妙な現象じゃないかな。「知性は痴性」だなー。

 それは思想教育とかプロパガンダとか言われるものですが、これも物語ですよね。「思想」って純粋に発想やらアイデアだけだったら、そこまで血が騒ぐことはないと思うのですよね。でも、それが物語形式で語られると、感情を入れやすくなる、感情パワーをひきこみやすい。だから納得もしやすい。日本史で大和政権が出来た時、それまでの血塗られた虐殺の歴史(熊襲族、出雲族、蝦夷族)を誤魔化すために「おはなし」が大量に生産されますよね。「日本書紀」です。どこの国でも「建国神話」とかその種のストーリーで正当性を出そうとする。

 桃太郎でも、鬼が非道な振る舞いをしてきたとしても、それだけだったらどっかで強盗犯罪が起きたというだけ。「被害届」を出してあとは司直の捜査を待てばいい。でもそういう話にならず、疑問も持たないのは、「積年の被害」「善良な村人達の悲痛な叫び」とかいうストーリーが入って、感情の肉付けがほどこされていくからでしょう。これに「村人の期待を一身に背負って」「これまで育ててもらった親や郷里への恩返しじゃあ」という物語にすると、さらにアドレナリン濃度は高まり、うおおおお!!って話になる。

 しかし、まあ、こんな「出来あいの物語」に乗せられているようでは、自分の人生を生きるチャンスもないまま死んでしまうよ。

物語の破棄

物語がうざい

 というわけで「物語」は途方もない影響力をもつので、それは取扱注意!の重要性を持ちますが、折りに触れそう思うたびに、僕としてはそういう物語そのものがうざったく感じられもします。

 そんな物語に助けられたり、依存したりって、そうじゃないかもなーって。
 物語って本当に要るの?って。自分はもともと日本で生まれ育って、こんな仕事して、こんなこと思ってオーストラリアにやってきて、そこでこんなことして、今はだからこうなってますという一連のストーリーですが、「そんなのどーでもいいじゃん」って思う自分もあります。

 昨日までの自分は、全部記憶喪失でわかんなくなって、名前は?知らん、どこで生まれたの?わからん、なんでここにいるの?知らんわって感じね。でも目の前にある樹木の鮮烈な緑、海の透明な青さ、スカッとした空のひろがり、話しかけてくれる人の善良で親愛な感じ、心が温まる感じはリアルに目の前にあって、それでもういいじゃんって。他になにがいるの?という気もするのですよ。

 物語つっても、全部過去の話だし、煎じ詰めれば記憶情報でしかないし、リアルには存在しないでしょ?そんな存在しないものを後生大事に抱え込んでバイブル化しなくたって、人は生きていけるんじゃないかと思うのですよ。

 そうなると映画「メメント」のような前向性健忘症になって、なにもかも脈絡がなくなって大変なんですけどね。そこまでいかなくても、あまりにも物語に拘泥しすぎると、なんかもっと大事なことを忘れてしまうような気もするのです。例えば、受験のときは、合格/不合格プロジェクト物語って物語に支配されるんだけど、大事な「学ぶ喜び」というのが置き去りにされがち。

物語の感情鎮静=麻痺効果

 物語の副作用は、感動を摩滅させることじゃないかな。修学旅行で寺社仏閣をみてもあんまり感動せず、同じところに一人でいくと感動するのはなぜ?といえば、前者は「かったるい学校行事に強制的につきあわされている」という物語があって、それに支配されてるからじゃないかと。観光旅行でもワーホリでもなんでもそうで、オペハウスも予備知識があると感動が減るよね。たまたま道を歩いていて、角を曲がって視界がひらけたら、あれがバーンとでてきたら、「なんじゃあ!これは?」って感動すると思いますよ。

 家庭で幸福な妻・母を演じる物語をやってると、家族もまた「配役」みたいになって新鮮な感動が薄れる。よく考えてみたら、なんでこの人は自分のそばにいてくれるのかなー?もしかしてそれってすごいありがたいことじゃないのかな?とか、たまには思ったらいいかもよ。なんでこの人(母親)は俺のためにメシ作ってくれるのかな、え、これ食べていいんですか?無料でくれるんですか?わあ、ありがとうございますって普通の感覚を復活させるためにも。

 物語は「療法」というくらいですから、たしかに心を落ち着かせたり、癒やす作用があると思います。傷を癒やすという意味で麻酔成分があるんだけど、だから同時に、その麻酔成分が新鮮な感動、この世界に存在することの本質的な喜びをも麻痺させてしまう気がして、そこがなんかイヤなんですよね。すごく感動的な出来事が目の前にあるんだけど、「当たり前だろ」で流してしまって、本当の価値に気づかない。イヤだなー。

 治療の必要がある人には、物語もまた必要ですよ。でも、治療がそんなに必要ではない人、あるいは必要ではない瞬間においては、物語を忘れてもいいんじゃないか。なんだか知らないけど、なんとなーくここに居て、ここに存在して、ただ目の前にある世界がすべてで、それで何かを感じて、おおーとか思ったりする。それでいいじゃんって。

 年の功でいえば、だんだんそれが出来るようになってきたことですかね。薄皮が一枚づつむけていくように、あんまり物語にこだわらなくなってきて、なぜここにいるのか?と聞かれたら、いやよくわかんねーけど、でもここに存在してるのは紛れもない本当で、それで十分でしょって。これからの人生の目標は?と聞かれたら、いやあ、なんか気持ちいいのがいいですよねー、気持ちよくなりたいなーと答えるという。もうほんと腑抜けで、アホアホな感じ。かといって脱力無気力ってわけではなく、気持ちよくなるためにはどんな努力もする、千里の道を歩くのもいとわない。でもそれだけの行動を支える原理は?といえば、「だって気持ちいい方がいいじゃん」でしかないという。そんな感じになりたいですねー。


漫画紹介

[今井哲也] アリスと蔵六

 異色の漫画です。これまでのどのパターンにも当てはまらず、展開の予想がつかない。荒唐無稽といえばぶっ飛んで荒唐無稽なんだけど、しかし、昭和世界の地に足の着いた心の温まるテイストを持っています。この作品は、文化庁メディア芸術祭マンガ部門新人賞受賞したり、今年アニメ化されて放映されたりしてるので知ってる方も多いかと思います。

 モチーフは、タイトルのように「不思議な国のアリス」なのだが、それは切り口やフレーバーを借用しているだけで、あの作品を下敷きにして話が展開するわけではない。アリス物語がもつ荒唐無稽な世界観を、そのまま現在の日本に持ってきているだけ。「だけ」とか書きましたが、それってどえらいことで、そんなの無理!って思うし、想像力の限界を軽く越えてしまいます。それを一本の作品にまとめあげているのは凄いと思う。

 まずベーシックな設定としてかなり高度なSF世界があります。僕はSFでは山田正紀氏の大ファンなのですが、あまりにも好きすぎて書き出したら終わらなくなるのでエッセイでは禁じ手にしてるくらいなんですけど、氏の初期のモットーは「想像できないことを想像する」でした。実際、「チョウたちの時間」では脳髄液が滴り落ちるくらい想像力の限界まで付き合わされ、さらに「エイダ」では今回述べたような発想=「世界は物語で成立している」と量子力学が融合しって感じ。

 この「アリスと蔵六」でも同じで、神の領域ともいえる世界、物理法則を書きかえる or より上位の物理法則が支配している「なにか」がある。そこでは平然と無から有が生じるし、光の速さや重力加速度という物理の公理も平然と無視し、時間も無視し、到底人知では理解できないめっちゃくちゃな世界。そこでは物理法則すらもが実体化して壁になったり、廊下になったりもする。もうこのへんで想像力の限界越えてきます。E=MC2を実体化した壁ってどんなんだ?(ただの壁なんだが)。


 その途方もなくパワフルな存在がこの現実世界に興味をもって近づいて干渉し、その影響を受けた人は「アリスの夢」と呼ばれる超能力者的な存在になる。人類は(日本政府も)それらを管理研究しようとするが(無理なんだが)、そのモノが「人」に興味を持って出現したのが主人公の女の子の紗名になる。研究室のなかの「ワンダーランド」では「赤の女王」と呼ばれる、超常現象の落とし子のような存在。

 その紗名が現実世界に飛び出してドタバタを繰り広げるのだが、精神的にはまだ何も知らない少女という設定。ここまではSFなんだけど、こっから先は、蔵六という「寺内貫太郎一家」的な、昭和の頑固親父とやんちゃな少女の物語になっていく。おじいさんと少女の交流という意味では「アルプスの少女」的でもあるんだけど、おじいちゃんが「おれは曲がったことは大嫌いなんだ!」という惚れ惚れするような江戸っ子的な気風の良さをもつ点が違う。

 はっきりいって蔵六こそが主人公じゃないかっていうくらい、素朴で骨太でブレない価値観を持ちつつ、決して偏狭ではなく、大らかで懐の深い人格。でもって職業は花屋さんだという。アリス的なぶっ飛びワールドを作りながら、そこにこんな異物をぶつけるか?という、よくそんなこと思いつくよなーという。でも蔵六のスジの通しかたと人間的な包容力が全体の世界を律していくのですな。蔵六がおらんかったら、この話は成立しないと思う。

 紗名が、実は「人」ではなく、なにかとてつもない現象の一部が人の形になっただけだと聞かされても、「それがどうした?」と平然と答える蔵六。なんという太っ腹、なんという肝の座り方、そしてなんという人としての普遍さ。




 年中ガミガミと蔵六に説教されている紗名も、普遍的で大きな人間愛に包まれているなかで、人として「ちゃんとなりたい」と悩み、努力するようになる。自分が人ではないバケモノなのだと自覚しつつも、それでも人になろうとする。そして一つ一つ学んでいくという、これは人が人になっていく清涼な成長物語でもあります。その普遍性が人の胸を打つ。


 と同時に、偏狭で人としてどうかと思われるのは、いわゆる普通の人の方だったりして。

 この作品は、今回のテーマとちょっとつながってます。紗名の「物語」は、あまりにも荒唐無稽で複雑怪奇なんだけど、でも事実でもある。紗名は自分の物語に押しつぶされそうになるんだけど(アイデンティティ=バケモノになるとか)、それを救うのが蔵六。蔵六は「物語」にとらわれない人で、その場において曲がってるか、曲がってないかで判断するし、紗名が人の子として十分な資質をもっており、良き心をもっているなら、人であろうがなかろうが、そんなこたあどーでもいいという態度を貫く。これってけっこう大事なことだと思う。過去になにがあり、どういう出自や経緯があろうとも、今ココでその人が良きものを持っていたら、それはそう評価すべきだと。




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反対側は海(入江)です。気持ちいい空間ですよん。


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 文責:田村

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