今週の一枚(2017/10/09)
Essay 846:ライフワークとマックジョブ
これからの時代の処方箋
写真は、Kogarah(コグラ)駅前。なんかヨーロッパ映画のワンシーンみたいだったので、それ風に撮りました。上の黒い部分は、手前の建物の庇(ひさし)部分です。黒枠を入れた方が、劇場で見てるみたいでカッチョいいなと。
現状から将来への問題
もうビジネスやめようかな
事務所をGlebeに移した甲斐もあって、ほぼ連日のように誰かが遊びに来てくれて、いろいろお話しています。ほんと、毎日がオフって感じ。問題はそれがほとんど収益に結びついていないことです。わはは、困ったもんだ。
もっと問題なのは、別に結びつかなくてもいいじゃん、楽しいじゃんって僕が思ってることです。もうこの仕事、ビジネスとしてやるのやめようかなーとすら思ってます。ただそうすると生計が立たないので、お金稼がなきゃねって話になりますが、フルタイムで働く気は毛頭なくて、もうカジュアルの時給なんぼでいいと思ってます。てかそれがいい。フルタイムなんかでやってたら、コレができなくなっちゃうもん。
こういう発想は若い頃から馴染みがあります。バンドや役者さんが居酒屋で働くような、ボクサーがラーメン屋で働くような、司法試験受験生が夜警のバイトをやってるようなもの。メイン・プロジェクトはドーン!と他にあって、そのための生命維持&活動資金が得られたらいいやって感じです。
高校の部活にのめり込んでいる人が、一応授業も出なきゃねーでクラスルームにいるような感じで仕事をする。この感覚。珍しいですかね?高度成長の頃は珍しいのかもしれないけど、これからの時代、そっちがメインになっていくんじゃないんですかね?いろんな意味で。
仕事が詰まらなくなる傾向
一つは(先進国における)仕事が詰まらなくなったことです。もちろん面白い仕事もたくさんあるだろうけど、大きく四捨五入すればつまらなくなったと思いますよ。高度成長の余韻もバブルも知ってますが、あのときゃまだ面白かったんですよ。経済が成長してましたから。仕事でもなんでも「面白い」と感じるというのは、どっかしらゲーム的な面白さがあり、且つ一定の比率でそれに勝ってるからこそでしょう。一生懸命企画しました、地べた這いずる回るように営業やりました、プレゼン死ぬほどやりました、それで売れたー、やったー!という一連の過程が面白い。昔は、全体にパイが大きくなってたし、成功率も高かった。物もサービスもよく売れた。勝率高し。んでも失われた25年やら30年やら、もう四半世紀ですけど、パイが平坦、ないし縮小している。最近どっかで読んだんだけど、過去30年のGDP成長率でも日本はわずか1.5倍です。1.5倍だったら大したもんだって思ってしまうかもしれないですけど、それがダメなんですよね。あのアメリカですら4倍成長。中国にいたっては75倍で桁が違う。それはエライとかいう問題ではなくて、個人レベルで仕事やってて「報われる」率がそれだけ違うということでしょう。今の仕事は基本金儲けですから、金を儲けてなんぼです。お客の皆さんが気前よく買ってくれたらやっぱうれしい。でも皆がしょぼくなってケチりだしたら売れなくなって、悲しい、つまらん。じゃあ、なんで昔はよかったのか?といえば、人口ボーナスとか、たまたまその頃世界のライバルが居なかったということも大きいです。
昔と時代も情況も違うんだから、昔のように仕事やってたら楽しいとか、充実とか、老後もバッチリとかいう部分がかなり薄らいできているでしょう。また、全体に縮小局面での競争ってセコく、世知辛くなるのですよ。拡大局面の競争だったら羽振りもよくて、デラックス化しようとか、度肝を抜くような大イベントを仕掛けようとか、そういうのってやってて面白いのですよ。
でも縮小局面になると、基本的にいかにケチるか、になるでしょ?だからリストラ、下請けイジメ、非正規への待遇差別という心が荒むような情景が増える。顧客を満足させるよりも、いかに詐欺まがいに騙すかにシフトする。また、ミスは許されないってことで、安全に手堅くどこからも文句が出ないようにって方向になる。冒険はNG。でもって、人口ボーナス幸運を自分の実力とカンチガイしているジジーが結構いたりして、その頃の感覚で「仕事の鬼になれば解決」みたいな、B29竹槍的な話になったりするから、もう大変。
これで仕事が面白くなったら奇跡です。野球やってて勝率7−8割くらいでのびのびやってるときは、魔球!秘打!とかやってても勝てた。これは楽しいですよ。でもボロ負けしてきたら、チーム内部でお前のせいだとか戦犯探しや、アラ探し、責任の押しつけ合いが始まり、監督もエラーや凡打したら烈火のように怒る。もう打てないならデッドボールで出塁しろみたいな無茶をいわれて、痛いの覚悟してバッターボックスに立つみたいな。そんな野球やってて面白いか?です。
分割処理
昔の仕事は、「楽しい部分」「生計維持・将来設計」という2つの要素があったと思う。だから社会が成長している時代には「仕事」というアクティビティが流行ったんだと思います。あれは単なる「流行」だと。だって面白いし、生活楽になるし、いいことずくめじゃん。やらない手はない。今は、そこから楽しさ部分が目減りしてきて、あとは生計の問題になるだったら、合体ロボみたいにまとめないで、分離してやってった方が合目的だとも思うわけです。つまり楽しいパーツは、ミュージシャンにおける音楽活動(全然儲からない、つか赤字)みたいなもので、それはライフワークのように死ぬまであれこれやっていればいい。それで稼ごうとか、生計立てようとは、あんまり思わない。そりゃあ立ったらいいけど、ハッピーな形で生計が立つのはマレでしょう。他方、生計部分は、これはバイトでもなんでもいいと。
正攻法の限界
ただしかし、バイト的な稼ぐ力では今はいいけど将来的に不安でしょう。やはり老後は3000万円の貯金がとか言われてるぞ、どうするんだよって。確かにそうなんですよ。でも正社員的にやってたらクリアできるのか?といえば、これもどんどん怪しくなってきている。長生きリスクとかいうくらい、今は約50%くらいが90歳まで生きちゃうそうです。平均余命という形でやれば80代なんだけど、50%はそこまでいかないで死ぬんだけど、50%はもっと長生きしちゃう。悠々自適っつっても長過ぎるし、やってたら枯渇してくる。昔のように銀行に預けておいたら高利回りなんてことは無いし、投資とかいっても多くの人は失敗してドボンでしょ。てか一回でも経済クラッシュがきたらパー。親世代の相続をアテにしてても、多分生活と介護で消えてしまうだろう。企業はどんどん非正規に置き換え(要するに賃下げ)、AI化、そして技術進歩による業界まるごと消滅リスク。さらに超高負担化する税金、その割に老朽化するインフラと劣化するサービス。思うのですけど、これだけのリスクが将来にあるなら、「真面目に働く」という正攻法だけでは難しいんじゃないか?それでうまくいく人もいるだろうけど、自分がそうなる保証はないし、自分が確実にそうなるという方法論もわからない。
勉強するほど失業する
なんせAIがあそこまでいってしまうと、頭の良い人、知的付加価値のある高級職から先に失業していきます。前に紹介したようにゴールドマン・サックスの超エリートが99%クビになってるし。この論理が恐いんですよー。これまでは勉強して知的付加価値を高めたら(医者や弁護士などになったら)、破綻リスクを下げられた。先に時代に食われていくのは知的カーストの下の方からで、上位の階段にいたらOKっぽかったんだけど、階段のてっぺんにAIというラスボスがいきなり出現したもんだから、上から順に食われるかもしれないわけですよ。これまでの攻防戦略が一新してしまった。けっこうヤバイと思いますよ。だって勉強すればするほどヤバイんだもん。語学必死にやってプロになっても、生きてる間のどっかの時点で、自動翻訳機に追い抜かれたらそれまででしょ?
そういえば、先日、法科大学院制度が破綻しまくって、弁護士も食えなくなって、司法試験は今どうなってるの?と思ったら、なんと受験者数が7000人弱。え?と絶句しました。僕らの頃(1980年代)は2.5万人くらい受けてた(そのうち450人くらい合格)、法科大学院制度の最盛期は4.5万人も受けていたらしいですが、それが落ちるところまで落ちたって感じで7000人ですからね。でも、なんだかんだいって文系資格だったら弁護士が一番食えますよ。司法書士とか税理士とは比較にならない。公認会計士も難関ですごいんだけど、クライアントが大企業に限り、且つ大事務所でサラリーマンやらないといけないからそこがネック。
それはさておき、その弁護士ですら食えない層が出てきている(食えてる人もたくさんいるけど)。AIがなくてもコレですからね。なぜか?といえば、思うに、やっぱ平和な時代が続いて、進学率があがって、誰でも弁護士になるチャンスを得られたことでしょう。多くの国民が高等教育を受けられるようになるのは素晴らしいことです。でも従来の産業構造からしたら、そんなに知的能力の高い人って必要ないのですよね。必要ないのに人が増えたら、そりゃ厳しい。皆が将棋やり始めて、プロ棋士が1万人、名人などのタイトルだけでも300種類とかになったら、もう一人あたりの配分なんかしれてますもん。プロ=食えるってもんじゃない。資格=金ではない。それはプロゴルファーにせよ、プロボクサーにせよ、それで食えるのは一握りですから、それと同じことです。それにAIが追い討ちかけてくる。
一方医者はどうか?というと、医療系も結構難しいと僕は思ってます。医療系は保険制度があって三角関係になるからわかりづらいんだけど、生計収入に直結する本当のクライアントは保険組合(国や公的団体)です。でもってどこも青息吐息で破綻しそうだから、「お客さん」がビンボーなわけです。客がビンボーだったらどうなるかといえば、まあ値切りますよね(医療点数や薬価の切り下げ)。でも、当面の患者は高齢化が進むからメチャクチャ増える。つまり仕事量は増えるけど、金はケチられるというプラマイのベクトルからしたら、あまり楽観はできないなと。需要があって流行ってれば儲かるってもんでもないのですよね。今の介護業界がまさにそれで、需要それ自体は死ぬほどあるんだけど、ペイが伴わない。
ま、全体にいって、皆がもってるお金が減ってくれば、そして将来的に寒い風景が見えてきたら、そんなに誰もお金を使わないわけで、儲からなくなるのは理の必然。そしてその悪循環なんだけど、それを打破するのは、これまでの常識を叩き壊すような全く新しい商品なりサービスでしょう。でもそれって、ビジネス的にいえば「魔球」「秘打」みたいなもので、のびのびやってないと出てこないですわ。デッドボールで出塁とか言われてたら魔球なんか練習してるヒマはないね。だから画期的な新商品も打ち出せずジリ貧。今後、情況が一新して素敵なことが起きるか?というと、うーん、どうかなーという。
つまり、これまでの正攻法でやっても成功率が下がってきているなら、やっぱりそこでは何らかの手当はいる。
その「手当」を5年くらい前からあれこれ考えて、あれこれ布石を打っているところです。いつも書いてることですけどね。
対抗策
ライフワーク
「楽しさ」です。金銭活動と楽しさを切り分けてしまえ。そりゃ仕事で充実感や楽しさを得られたらいいけど、そうなる保証はないのだったら、もう仕事から切り離して、仕事以上に自分とって大切なものをみつけることでしょう。ボクサーにおけるボクシングのように。また、楽しさといっても、仕事メインで休みの余暇時間に趣味で遊ぶとかいった生ぬるいレベルではなく、優に仕事を凌駕するくらいのもの。この楽しさのために必要だったら、躊躇なく今の仕事をやめられるくらい。むしろ人生レベルでの「仕事」という意味ではこちらの方だというくらいの。
「ライフワーク」というと、なんか円空が木彫りの仏像を〜みたいな大それた偉業を考えちゃうかもしれないけど、いやいや、しょーもないものでもいい。自分が楽しかったらいいんだから。僕の場合は、高校時代と変わらんですけど、音楽聴いて、自分でもやって、本やらマンガやら読んで、なんか書いたり表現したり、本音部分で付き合える人がおって、夕焼けがおおっときれいだったらそれでいいです。その全部が満たされなくても、どれか一つだけでもいいです。あとは、この「対策」を実行していく10年から20年がかりのプロジェクトが面白いですねえ。
だから、別に「美味しいケーキを食べること」でもいいです。おお、これは!と唸らせてもらえる推理小説に出会うことでもいいです。ひきこもりやってる人だって、動的活動って意味で「ひきこもり」という表現になってるんだけど、あれだけ自室に長時間居れるんだから、なんか面白いことやってるんじゃないの?その「面白いこと」がライフワークではないのか。部屋から出てこないことがポイントではなく、部屋のなかで何をやっているのかがポイントだと。それが詰まらんかったら、それこそが問題だと。
これは誰でも出来ると思う。だって儲からなくても、生計が立たなくてもいいんだもん。経済とか金銭とかから切り離されてる自由さがあるのだから。
海外という保険
海外保険じゃないですよ。日本がヤバくなったときに、軽やかにひょいと難を避けるための海外拠点のことです。ちょっと前に書いたように、オーストラリアの永住権さえ取れば、(掛け金不要で)年金が得られるし、その他の保障制度は整ってるので、日本で年金その他が得られないリスクを、海外でヘッジ(減らす)するとか。なにもどっかで永住権をとったり、永住しなきゃならないってもんでもないでしょう。一時的に行く所があればいいんだし、少なくとも気分転換にもなろうし、あるいは「もうひとつの故郷・実家」感が得られたら、それだけでも人生は全然違ってくる。「行くところがある」というのは、それが無い人にくらべれば、天地の差がありますよ。
ただし、その海外のどっかに行ったとしても、そこが居心地悪かったら何の意味もないです。辛い思いをしに行くためのようなものですから。したがって、自分がそこでハッピーになれる必要がある。その土地に存在する、生きている喜びが得られなければならない。そして、それを得るためのいささかのノウハウも必要でしょう。例えば、その土地での生活習慣であるとか、日々が不安と不愉快にならない程度の現地の言語であるとか。
単に生活費が安いとかいうだけで知りもしない海外にいくのはどうかなーと思います。なんの目論見も打算もない素の感覚で、「ええわー、ここ」と思えるかが大事。ヨーロッパからタヒチまでやってきたゴーギャンさんも「ええわ〜」と思ったんでしょうね。なんせ楽しくなかったら意味ないもん。
これからの時代、留学とかワーホリとか旅行とか、そういった観点で捉え直すことが出来ると思いますよ。それを単に「再就職に有利」とかだけ思ってたら、僕からしたらちょっと時代遅れではないかと。なんせ就職しても、大した保障にならないんですからね。それも高級職ほどヤバイんですから。
この観点で、前からいってるオーストラリアでのシェアハウスなり何なりって構想がでてきます。永住権持ってる連中がネット組んだり、フレーム作って、永住権持ってない人への拠点を提供するし、こっちも利用させてもらうという、なんかそういうしなやかなシステムが作れたらいいなと。
脱貨幣経済
要は生命維持が出来ればいい、不愉快になられければいい。一般には、金銭をもってその最低条件を満たそうとしているのだが、別にそれだけが方法論ではない。金銭による解決法は、どんどん歩合の悪い方法になりつつすらあるでしょう。なんせ稼ぎにくくなったのが一点。また稼ぐ過程における身体・精神の消耗度と、その金銭をもって購(あがな)える身体精神の増進とを比べて赤字である場合もある。
では金がなくても暮らしていくことは可能か?って、こんなの可能に決まってるじゃん。現地球上の150万種類の生物のうち貨幣をつかっているのは人類だけだし、人類においても数十万年の歴史のうち金銭がでてきたのはたかだか直近数千年に過ぎない。いわば例外中の例外事象なのだから。カネがないと死ぬというのは錯覚。
かといって一足飛びに進むわけもなく、トランジェント(遷移)期においては混合ハイブリッドになるだろう。つまり金で解決する方が合理的である局面と、金ではない方が合理的である局面がミックスされる。今でもそうですけどね。。スポーツにせよ恋愛にせよ、金がある方が有利ではあるが決定的ではない。金の力で決定できないこともないが(敵チームを買収、札びらでほっぺたひっぱたいで愛人にする)、一般に邪道だし、それは正道では勝利しえない弱者のカンニングみたいなものであって快楽値も低い。
生計の具体的内実
いわゆる「生計」の内容を腑分けしてみれば、食料、住居その他の生活グッズ、それに老齢疾病天災その他困難期のヘルプの3分野に分かれる。これらについては毎度おなじみにシェアという方法論が有効。メシでも一人分と二人分で材料や労働力が2倍になるというものではない。ましてや7人分と8人分との差は微々たるもの。住まいについても、今後10年、20年で日本の国土の8割以上が過疎地帯になり、2000万戸以上が空き家になるなら、住まいはもはや「そこらへんで拾ってきて使う」という廃材利用レベルにもなろう。災害おける財産被害については、最初からローンも組まず、さしたる財産も持ってなければ怖くもないし、肉体的なものは数多い医療技術者とのバーターヘルプである程度はまかなえる。最後に介護・被介護の問題があるが、これがシェアには一番なじむ。問題は、そういった客観条件ではなく、むしろどんな環境でも楽しく、しぶとく、ごきげんに生きていける自分という主観面を鍛えることだと思う。快楽のストライクゾーンをひろげること。どんな場所でもやっていけるフィジカルな力もそうだし、どんな仲間とでもある程度うまいことやっていける力、そこで流すべきは流し、絡むべきは絡むというメリハリもそう。その意味で、ワーホリでラウンド放浪生活を芯から楽しんできた人は大きなアドバンテージがあり、多分気づいてはいないとは思うが、将来に対する大きな投資になっているのだと思う。
のみならず、またそのために習得すべき知識と技術は膨大にある。生きていくためのベーシックな技術体系として、簡単な機械・電気修理、家の補修、炊事、園芸農耕、傷病への正しい知識、それを徐々に現実化していく過程における経済や行政法規に対する正確なアプローチ(丸覚えではなく現場の機微をもおさえる)などなど。またささやかでも良いから現金収入を得るためのあれこれ。シェアハウスにおける人選びの人物鑑定眼もそうなら、トラブルの際の解決技術もそう。起業サイトをつくるWEB構築に関する実戦的な知識と経験。売れるためのノウハウ、商品企画、開発、差別化、マーケ、広報、要するに今までの仕事経験が一番生きる分野でもある。
そして何よりも人。イヤなヤツ、波長の合わない人とシェアしてても不快さが募るだけでやる意味がない。こいつとだったらやりたいなって人をどれだけ得られるか、探せるか、そのためにはどうしたらよいか?また、一過性ではない継続的で風通しのよい関係性を保つためにはどうしたら良いか、どこに気をつけるべきか。
実現化
そんなことを考えたのが5年前くらいかな。で、漠然と動き出して掲示板つくって、A僑とかやって、オフやってってことです。冷静に考えて今の社会体制では次世代を乗り切れんな、結構こぼれ落ちてしまう人も出てくるだろうな、だから抜本的なスクラップ&ビルドをやらないといけないけど、その気配も乏しい。百年河清を待つがごとし。だったら、直したり、壊したりする手間を省いて(それはそれでやるけど)、そのへんの空き地にゼロから作った方が早いわと。もちろん既成のシステムとは相互に排除し合うものでもないし、少なくともインターフェイスにおいては共存しうるようにするし、良い部分を相互補完できるようにする。別にこれをしなければならない義理も義務もないのだが、他の人にとっても選択肢が多いことは悪いことではあるまい。
今では、別に自分一人が狂ったように一騎突出せんでも、それぞれが思い思いにやっていて、その人と人との鎖が二重にも三重にもなり、脳内細胞のようにあっちとこっちが結びついたりしていくなかで、なにか大きな実在空間ができてくるとは思います。まだまだ数百数千ステップくらい残りの道程はあるのだが、それだけ楽しめるということではある。
自分自身の属性でいえば、何が武器になるのかといえば、うーん、発想力とか持続力とかもそうだけど、多分、漠然としたものを漠然としたまま進めていく部分だと思う。別な言葉でいえば、明確に道が見えなくてもビビらないというか、おおざっぱな東西南北くらいの「あっち!」という方向感覚で行けることだと思います。いや実際、「あの山に行きたい」くらいでいいんだと思う。何となくその山が見えていたらそれでいい。その山にたどり着く明確なルートや時刻表なんか必要ない。あんまり目先の細かいことにこだわりすぎると、何もかもが不可能に思えてきてしまうし、出来るものも出来なくなってしまうしね。
というわけで、誰ともなく呼びかけますが、ガンガン行け〜と。君らが突っ走った分だけ、皆の領土が広がり、可能性が高まるのだから。漠然とでいいから、行け。前以外に進む方向はなく、未来以外に進む方向はないのだから。
気分は移民の歌、"immigrant song”(Led Zeppelin)で、住んでるところが氷河期やらでヤバくなったので、皆でぞろぞろ暖かい南の大地を目指して歩いていってる感じ。
We come from the land of the ice and snow
So now you'd better stop and rebuild all your ruins
For peace and trust can win the day. Despite of all your losing
って、いい歌詞ですよね。人類は常にそうしてきたんだし。
漫画紹介
[沙村広明] 春風のスネグラチカ
今週は沙村広明氏の作品。沙村さんといえば「無限の住人」全30巻が代表作で、こっちを紹介するのがスジなのですが、これやりだすと読みふけってしまって中々書けない。なので、比較的知られていない佳作の方を先に紹介します。
この作品は完成度が高いです。わずか一巻なんだけど、完成度が高すぎて、もう10回以上読んでるけど、まだ完全に理解しきっていないくらいです。難解か?というと、確かにそうかもしれないけど、それは作品の責任ではないです。単に内容がそれだけ濃密で情報量があり、それを咀嚼しきれない僕の知能指数が低い点が問題なだけです。
それに1回目を読んだときもそれなり感動は得られます。ただ読み返すにつれ感動が深まっていって、9回目と10回とでは深さが違うというだけのこと。良い作品というのはそういうものでしょう。
この感覚はまさにロシア文学を読んでるときの感じに似てます。ロシアものを描きたくて描いたとあとがきに書かれてますが、まさに雰囲気出てます。僕も代表的な「罪と罰」「アンナ・カレーニナ」などを読んだ程度ですが、あの重厚なお腹いっぱい感。鉛のように重苦しい空気感。なによりも名前が長すぎて中々覚えられないとか。
ただこの作品はロシア文学の重苦しさや冗長さが抜かれてます。たまたま酒場で会った老人の愚痴が「旦那、聞いてくだせえ」で延々5ページくらい続き、それが本体とほとんど何の関係もないただの「情景描写」であるというしんどさは無いです。ストーリーは軽快に展開し、謎と伏線を残していき、徐々にそれを回収していく。そのプロットの巧緻さは凄いですよ。
そしてロシア文学独特の「北の大地の叙情」は一貫して流れていますし、ロシア革命によってロマノフ王朝最後のツァーリ(皇帝)から鉄の味がするようなソ連共産党の支配に移っていく時代背景。よく調べきった堅牢な史実の上、数奇な宿命で結ばれた若い男女の恋愛関係を越えた結びつきをフィクションでいれていく創作的な豪腕ぶり。すげえって感じ。
沙村氏は絵が巧いです。漫画的に上手というよりも、一般絵画的に巧い。星野之宣氏の上手さに通じる。背景などでも写真や資料からコピペ的トレースをしていくというのではなく、鉛筆によるデッサンやスケッチから本画に至っている感じで、背景の森や川にも思いが込められているような絵です。「情報としての絵」ではない。
沙村氏も星野氏も、その世界では確固たる評価を得てますが、一般には知名度が低く過小評価されている恨みがあります。例えば大友克洋氏は、僕も大好きですけど、でも沙村氏に比べれば過大評価されている。ま、過大というよりもやっぱり沙村氏が一般に評価されなさすぎるのでしょう。実際、話の作り込みかた、その創作的付加価値さでは、沙村氏の方が高いと思われますし。
もっとも一般受けしにくい要素もあるのですよね。エロやグロがセンスよく描かれているんだけど、安心して読めるか?というと、そこは難ありでしょう。でもね、そこを避けていたらダメでしょう。そんな必然性もなく描いているわけでもないし、リアルにはそうなのだろうし。この感覚は、音楽的は凡庸で無難な作品がメディアでブレークするけど(その昔の歌謡曲やJ-POPのように)、気合の入ったロック作品はどっかしら苦味があるから一般には売れないのと似てます。ジュースは売れるけどアルコールは売れないみたいな。
そうえいば、ラスプーチンのラスプーチの語義が「岐路」という意味だというのは初めて知りました。
以下、トップ写真の続きで、Kogarah駅まわりの風景