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今週の一枚(2017/09/11)



Essay 842:フランスの民事連帯契約〜「結婚」のあれこれ

 

 写真は、Cockatoo Islandaにて。春先とはいえ、陽射しはもうだいぶ強くなってますねー。夜はまだ寒いけど。


結婚制度

パックス=民事連帯契約

 オーストラリアでは、同性婚(same sex marriage) が政治話題になってますが(ようやく、今頃!)、今週は結婚制度の話をします。

 まずはじめにフランスの民事連帯契約から。

 フランスには、民事連帯契約=通称PACS(パックス〜”Pacte Civil de Solidarite”の略。英語では"A Civil Partnership "や"Civil solidarity pact"などと訳すようですが)という制度があり、これが活用されまくって、現在のところ従来の法律婚とパックスを使う人がほぼ半々くらいの普及をしています。簡単にいえば、フランスの結婚制度には、伝統ヴァージョンとより軽量化して使いやすくしたライトヴァージョンの2つの選択肢があるということでしょう。

 なんでこんなものがあるのか?
 もともとはフランスの法律法が厳格すぎる(協議離婚が出来ないとか)からだそうです。かといって事実婚だと相続できない。だったら婚姻法を変えたら良いようなものですが、この種の問題は感情論が入るからか容易にできないのでしょう。だったら第三のカテゴリーとして、現代社会に必要とされる結婚制度の要点のみをとりあげたパックス(民事連帯契約)を作っちゃえってことだったらしいです。1999年に施行されてますから、前世紀にできています。

 これは同時に同性婚を認めるという機能があったのですが、使い勝手が良いので、今では異性婚にも普及しています。その「使い勝手の良さ」ですが、簡単に特徴をいうと、同性でも可、外国人とでも可、両方外国人であっても(フランスの長期滞在許可証を持ってれば)可、財産については明示がなければ基本半々。賃貸、相続、労災、保険、雇用における休暇の配慮、税制、手当などは法律婚に準じる扱い、養子縁組は片方のみ、離婚は片方の宣言で足りる(合意は要らない)などです。詳細は多言語のすすめ〜ロシア・東欧情報〜民事連帯契約 PACSのページがよく解説されてましたので、ご興味のある方はご参照を。


 さて、パックスの普及状況ですが、英語版Wikiに掲載されていたグラフを表示します。上の青線が一般の結婚で、下の赤線がパックスです。2010年までの段階で徐々に拮抗してます。

 その後の状況はよく分からないのですが、拮抗しつつも逆転するところまではいってないようですね。パックスが上昇するほど旧来の結婚数が減少してないからです。昔ながらの形態がいいって人が半数くらいはいるかと。まあ、そうだろうなーとは思います。

 同時に、同性婚の割合ですが、2013年においてはパックス全体16.8万中の6054件ですから3-4%くらいしかないです。つまり、こういう同性婚も含む新しい結婚形態にしたといって、別にそれは同性婚オンリーの問題ではないってことです。

 以上がフランスのパックスですが、日本の婚姻と違う面は、同性婚、国際結婚が簡単、離婚も簡単だという点でしょう。つまり、くっつきやすく、離れやすいが、維持している間は法律婚に準じる保護をするということです。

 ここでは、パックスについて詳しく語るつもりはないのですが、これらの特徴に重要なポイントが含まれています。「できるだけ実態を反映する」ということです。

同性婚

 結婚を考えてみる場合、いくつかの次元の違う論点がブドウのようにたわわに実っています。

(1)異性に限るのか、同性でも良いのか?
(2)結婚の法的扱い
(3)社会文化的側面

 まず同性婚については、世界的の先進諸国においてはほぼYESということでカタがついてるといっていいでしょう。同性婚を認めるか、あるいは類似のパートナー法を認めるか、何らか形で処置している国が多数です。オーストラリアなんか「何を今さら」という遅れっぷりですし、日本はスタートラインにも立ってるかどうか怪しいです。

 ただね、発展途上国も含めれば、ダメという国も多いです。面積的にいえばむしろそっちの方が大きいかなー。
 これは日本版Wikiにあった図表ですが、


 この地図で青系統はOKです。欧米諸国は東欧を除いて大体OK。赤系統はダメで、なんと同性愛が犯罪になったりもする。アフリカや中東の一部では死刑!?もある。サウジとかイランとかスーダンとか。意外なのがインド周辺で最高で終身刑にもなる。灰色(日本やアジア一般)白黒はっきりせずにシカトしてて、薄茶(ロシアや中国)はそういう表現の自由を制約してるくらいだと。

 大雑把な傾向としていえば、いわゆるOECD先進国、経済も発達して、社会システムも洗練されている国では大体OK。逆に、古くからの宗教その他が強いエリアは禁止!と。その間にたっているのが、日本も含めアジアや中ロであって、宗教その他の古くからの制約からは自由なんだけど、経済ばっか先行して、そのあたりのことについては疎いと。

法的扱い

 さて、結婚という制度がなんのためにあるのか?です。
 単に男女(or同性)で親密になって、抱き合って、ハッピーになって、喧嘩してアンハッピーになってって出来事は、別に制度にもなんにもなってない。バレンタイン・チョコという習俗・慣習はあっても「バレンタイン・チョコの交付に関する臨時措置法」を制定しようという動きはないし、サークルの彼と親友とで三角関係になってもう大変!だから「三角関係調整法」なんて話にもならない。

 なぜ?やってることは同じじゃないの?好きなもん同士ひっついて、すったもんだして、離れていくことに何の違いも無いじゃないか?なぜ一般の恋愛は無法地帯の治外法権なのに、結婚だけ別格に扱うのか?なんでそんなことをするのか?

 答は簡単で「第三者(との法律関係)に影響を与えるから」です。制度・システムというのは、本来そういうものです。

 では結婚はどういう形で第三者に影響をあたえるか?
(1)公的関係:税法(配偶者控除など)、遺族年金、第3号被保険者とかその他の関係
(2)相続:パートナーが死んだ時の財産
(3)子供:教育、養育の義務、その後は扶養、介護義務

 (1)国など公的関係は、夫婦=世帯であって、同じ生計基盤でやってるから、行政上の扱いでもリアルにそれに合わせましょうということです。(2)相続も、片方が死んだときには、一番近しい人で、一番勝手がよくわかってる人にまず承継させたほうがいいだろうという配慮があってのことです。一般に相続は血族原理(血のつながってる者の間)なんだけど、唯一、血族ではないけど最強の立場になる赤の他人として配偶者を置くということですな。これも日常生活や人生における共通基盤という実質が配慮されてのことです。

 (3)子供関係ですが、まず親子関係を確定させて相続のベースにすると同時に、子供を育てるために一番近いポジションにある人間にやってもらうことにする。普通は自然の情愛としてほっといてもきちんと育てるだろうが、やらない人もいるから、まず「やれ」というルールを作っておいて、やらない人には保護責任者遺棄その他のペナルティを課したり、第三者の家庭に”内政干渉する”という児童相談所その他の措置を適法化するなどの理由があります。

 こうしてバラしていくと、「生計をともにしている」「一緒に暮らしてる」「他人以上に親身な行為が期待できる」「よく知っている」などの実体に着目して、それぞれ適切な扱いをしましょうという原理に基づくことは同じです。

システムと虚構

 ならば、形だけ結婚していても、実質的には全く生計をともにしてなかったり、全然親身でもなんでもなかったら、これらの措置はしなくても良い、あるいはしてはならない筈です。別居して冷え切ってそれぞれ好き勝手に暮らしている夫婦だったら、配偶者控除なんか認めるべきではないし、年金の3号被保険者は2号被保険者にすべきです。が!そんなもん、日本全国で数千万カップルあるのを、いちいち「ここは最近夜もご無沙汰」「急速冷凍中」「完全ダメぽ」とか国家が調べるのかい?GoogleとアマゾンとSNSとマイナンバーと監視カメラのビッグデーターを使えば大体ことはわかると思うのだが、そんなこと税金使ってやるべきか?そもそも国民として政府に自分らの夜も含めた結婚生活を監視してほしいか?といえば、普通はNOでしょう。

 だからこれは制度上完璧はありえないし、また完璧を期するべきでもない。アバウトでいいし、アバウトでやるのが一番いい。しかし、アバウトではあんまりなので、とりあえず分かりやすいカタチを作りましょう、結婚では「婚姻届」を出してもらうというカタチにしましょうってことでしょう。

 婚姻届って、申請さえすればいいですからね。認可や許可は要りませんから。全然愛し合ってなくても、極論すれば、相手が会ったこともないような人であっても、婚姻届は申請できます。証人二名だって、別に住民票を添付しろとかもないし、実印である必要もないから、これも極論すれば架空の人間であっても受理はされる筈です。そりゃ「マリー・アントワネット」とか書いたらヤバイでしょうけど、「鈴木一郎」でもっともらしい住所と本籍だったら、いちいち確認してないはずですよ。そこまで面倒なことをする筈もないし。また他人の本籍住所なんかその気になったら見ることができる(流用できる)立場の人だっていくらでもいるしね(学校や会社の事務とか)。

 みな、法律とか手続とかいうと厳格なものだと錯覚してますけど、厳格にやってたら業務が進まない。それでも厳格にやるんだーというなら、公務員の数を今の100倍に増やして、300%くらい増税もしなきゃダメっすよ。無理なのだ。法律学でいうところの「擬制(ぎせい)」ちゅーのがあって、「そーゆーことにしましょ」ってことです。とりあえず婚姻届を出していたら、実体もちゃんと仲良し夫婦であるということにしましょ、と。

 だもんで、はい、正確にいえば虚構です。でも制度には虚構はつきものです。虚構という表現が気に障るなら「誤差」と言い換えてもいい。リアルな現実社会は無限のバリエーションがあります。色彩だって本当は何百万色もあるんだけど、これは「赤」ってことにしましょうってアバウトにやってるのと同じこと。そんなイチイチ「可視光線波長が620-750ナノメートル」とか現場でやってらんないでしょ。大体合ってりゃいい。

 以上の次第で、法律の専門家からすれば、結婚制度というのは「虚構のかたまり」とまでは言わないまでも、非常にテクニカルな概念なのです。精密なプログラミングをやってるようなもの。もちろん虚構といっても騙すつもりでやってるわけではなく、常に出来るだけ実体をリアルに反映させたいとは思ってる。でもそれを実行するにあたっての経費効率や可能性もあるから、最小予算(最小税金)で最大効果を発揮させる線を求めているということですね。

 そして同性婚であれ、事実婚であれ、民事連帯契約であれ何であれ、そこにそういう実体があるなら、出来るだけ制度にもビビッドに反映させましょうという努力であり、その結晶でもあるわけです。

 結婚のカタチが時代とともに揺れ動くことをもって、性風俗が乱れて退廃しているとか、嘆かわしいとかいう人もいるけど(いや、今どき、いるんか?)、制度がリアルな現実にフィットしようとするのは原理的には「正義」です。制度というのは、理念や思想を普及したり強制したりするためにあるのではなく、あくまで現実にどう適合させるかです。道路の信号に右翼も左翼もないように、制度は価値的に無色透明であるのが一番良い。

公的システムの概念

 上の同性婚や事実婚の世界地図でも分かるように、だいたい一人あたりのGDPと(婚姻制度の)自由度は比例関係にあると思われます。西欧諸国はよく普及している。経済的に豊かになればゆとりも生まれるし、教育水準もあがるから、理性的にものも考えられるようになるからなのでしょう。

 しかし、GDPと自由のギャップのある国もあります。経済は発達してても社会は古いままで制度が追いついてない国で、毎度おなじみの日中韓のチャンバラトリオがそうです。

 なんでそうなの?を突っ込んでいくと、思うに日本の場合は、日本人という個人(庶民)に着目すると、世界でも先進的にアバンギャルドな感性持ってると思います。同性愛なんか日本の伝統、武士のタシナミみたいなものであるし、風俗やサブカルのツッコミの尖鋭度では世界でも比類ないです。が!それを公的に処理するところにギャップがあると思う。個人としての素の顔は、話もわかるし、さばけてて面白い連中なんだけど、いざ公的な場面になると(学級会とか国会とか)、いきなり猫被って「いい子ちゃん」になろうとする悪い癖があると僕は思うのです。不倫なんかでもそうだけど。一方中国は、人間の欲望の追求にかけては4000年そればっかやってたから凄い水準なくせに、共産党支配というのが枷になってるんだろうな。

 日本の同性婚の問題は、同性愛それ自体は、素の顔においては全然OKだと思うのですよ。特に若い世代においてはOKって人が大半じゃない?ただ、それを公的なシステムにしようとかいう議論それ自体が盛り上がらない、、つか、公的なことにあんま興味がない、慣れてもいないし、詰まんないしって、だから立ち消えになってる感があります。これを市井の弁護士の経験でいえば、日本人、法律に興味ないですね。法律=難病みたいに「なにやら恐ろしげで禍々しいもの」くらいにしか思ってなくて、出来れば法律なんてものに関わりなく一生を過ごせたら良いくらいに思ってるんじゃないかな。気持ちはわかるわ。

 逆に、西欧諸国において広く普及しているのは、現実と制度をできるだけフィットさせようという人々の意識が強いからでしょうね。自分らの日常生活や普通の感性と、国や制度のありかたが一致してないと気がすまないのでしょう。だからこれは、結婚観の違いというよりも、公的概念の違いの方が大きいような気がします。

 ちなみにオーストラリアでパートナービザ(永住ビザ)を取る場合、日本では当たり前の届け出婚ではなく、デファクトと呼ばれる事実婚が多いです。これは永住ビザに関してだけ多いわけではなく、一般にヨーロピアンに多い。なぜなら、事実婚と法律婚にそんなに差がないからです。そもそも日本では当たり前の戸籍というのが、世界では珍しい。逆に、「なんでそんなもんがあるの?」と聞き返されるくらいです。

 登録(レジスター)というのは、TSUTAYAの会員証や自動車の登録みたいなもので、一定のエリアと目的の範囲でやればよく、だから出生届はあるし、選挙民名簿もあるし、結婚証明書もある。でも目的ごとに単体バラバラで、必要なときに必要な限度で申請し、交付され、提出すればいい。そのあたりの個人情報やプライバシーへの配慮が厳格で、就職など多くの場合は、その人物が実在することと同一性が立証され(100point制度になってたり)、後日必要があったら(横領したので告訴するとか)その限度で辿っていけるだけの手がかりがあればそれで足りる。そして手がかりからたどるためには、他の機関に個人情報を照会することになり、その際にはその必要性を立証しなければならない。そうすることで個人情報を守ろうとするということでしょう。逆に日本にはない証明書もあります。無犯罪証明書であるとか、チャイルドケアなど子供関係の仕事をする場合の”Working With Children Check ”であるとか。

 そして、これは個人情報云々よりももっと深い感覚があるようにも思います。つまり「必要がないことをやる」ことに対する心理的な抵抗です。特に国家などシステムが不必要なことをやることに対する拒否反応ですね。無駄だし、有害だし、システムのバグだと。日本みたいに、家を借りたり就職するとき戸籍謄本とかありえないでしょう。たかがどっかの私企業と労働契約を締結するだけのことに、日本の戸籍記載の事項=親兄弟やら生年月日やら出生地やら婚姻歴やらそんなもんが必要なのか?と。どこにそれをする合理的な根拠があるのか、合理性が無いならすべきではない。家族関係は社会保険事務処理に必要といっても納税者番号さえ書いて貰えればあとはそこから自動的に処理出来るようにすれば良い。システムや公というものに対する徹底的な道具感覚があるのでしょう。

 その道具感覚を突き詰めていくと、この世界に、自分(=国民)以上に高い地位を持つものは存在しないという意識です。「お上」なんかねーよと。国家も政治家も下女下男みたいなもので、役に立つから使ってやってるだけのことで、使えなかったらクビだし、必要もないのに根掘り葉掘り聞くんじゃねーよって感覚かな。そのあたりの公の意識はだいぶ違う気がします。

 もっとも、西欧やオーストラリアが素晴らしいかというと、学生ビザの申請書などを見てると、かなり根掘り葉掘りで無駄臭い気がしますから、一概に素晴らしいとは言えないですね。西欧諸国からでてきたGoogleでもFBでもやたらめったら個人情報を欲しがるから(簡単に手にはいらないからこそかもしれないが)、理念と現実はここでも違うと思います。

文化・宗教・社会的側面〜かくあるべしの妄執

 一方、結婚制度にはありとあらゆる人間の情念がからみつきます。
 多くは「ともに白髪が生えるまで」という年を経るごとに深まる絆=幸せな人生への素朴な憧憬です。無邪気で、罪もなく、とても美しい感性です。いいよねー。それには全く異論ないのですが、しかしこれは上手くいってるときの話で、うまくいってない場合にはこの感性はあまり効果がない。てか、悲しくなったり恨んだりって、愛憎ベクトルが逆転します。

 そういった当事者の感情だけではないです。当事者レベルだけだったらどんなに簡単か。
 「結婚は本人だけの問題じゃない」とかよく言われます。第三者への影響という法的な側面は既に述べましたが、それ以上に社会文化的な存在であり、帰属社会における長い伝統とシキタリによって結婚は意味づけられるのだと。まあ、それはそうでしょう。各民族ごとに意匠を凝らした結婚セレモニーと、仲間の幸せな節目を皆で祝うのは微笑ましくあります。いいよね。

 でもね、実際にはそんなメルヘンばかりではない。ときには本人の意思を踏みじったり、理不尽な屈従を強いたりするのも、また文化とか習慣とかいうシロモノだったりもする。

 人間というのはおせっかいなもので、自分だけに集中してりゃいいのに、他人の結婚にもあれこれ注文をつけたがる。最たるものが宗教で、絶対離婚を許さない宗教もあるし、そうかと思えば一夫多妻を認めるところもあります。好きなもの同士が自然に惹かれて、くっついて、やがて秋風が通り過ぎ、一人に戻るという過程をそっと見守るなり、見てみないふりをしてりゃいいのに、あれしろ、これしろ、これはダメ、あれはダメとうるさいうるさい。

 文化習俗も宗教と似たり寄ったりのところがある。日本に今なお続いている封建的な「家」制度もそうだし、我国の「淳風美俗」とやらもそうです。特に後者は、「女三界に家なし」やら、父→夫→息子の召使になれやら、たまたま生まれた性に階級的隷属を強いる(それが封建制の本質だが)、ここまで一個の人格に対してレスペクトを欠きながら、それをもって「美俗」とする感覚はなんなんだって素朴に思う。特にフェミニストではないが、男の立場からみてもそりゃ無いだろ、ただの弱い者いじめじゃんかよって感じる。なお直感でいうと、こういうことを押し付けたがるのって、僕ら「男部族」の中でも、特にヘタレで弱そうな奴のような気がする。だって最初から自分に有利なルールにしたがるのって単純に卑怯だし、どんだけ自信がないのよ?本当に自信があったら、対等でなきゃ詰まらんだろ。

 あるいは直接関係もないのに、他人の結婚(てか行為すべて)にあれこれ論評したり、非難したりする連中というのは、どっかしら「邪心」があると思います。道徳とか正義を振りかざすのだけど、その正体はただの薄汚い嫉妬であったりね。でもね、そんな醜悪な情念で結婚の外堀が埋められているのも、また事実だったりします。よき妻・よき母、良妻賢母モデルから少しでも逸脱したら、なんだかんだ言われるから、自己防衛的にそう振る舞うしかない。そうやって外堀を埋められて、日々の結婚生活が形どられると。

 他方では単純に慣性の法則(保守心情)がある。単にそれまでのやり方に慣れしたんだから変えるのはイヤだという感覚。最初の刷り込みがキツい人です。腰だめの感覚ですが、事柄にもよるけど、人類の約半数がそうかなーって気もします。フランスでパックス普及が大体半数くらいで落ち着いていることからしても。この種の保守性の本質はなにか?というと又面白いんだけど、自我の境界が甘いのかな?社会(他人)と自分とかキッチリ分かれてなくて、人は人って思えないタイプの人。だから他人のことでも、自分が侵されたように腹が立ったりするんじゃない?このあたりは別の機会に深めたいです。

文化に根拠なし、楽しむべし、苦しむべからず

 僕らが結婚について普通にイメージするのは、大体がこの社会慣習的なものですが、その正体は?と、一つひとつ解剖していくと、いずれも大した根拠はない。むしろどちらかといえば感心しないような動機でなされていたりもする。合理的根拠という点でいえば、その昔の武家社会のように、家=企業の生産単位であることから、側室など公的な浮気システムが整備され、一人でも多く子供を作るというのは分かる。戦国大名のようなマホメットの時代に、戦死者の寡婦への公的救済として4人まで妻を認めた(てか、扶養させた)のは、ある意味では理にかなってる。でも、なんとなくの雰囲気で決まっていく文化とか習俗というのは、上でみたようにあまり合理的でもないものも多い。

 同性婚についても然りで、結婚は子孫をもうけるためのもので、男女でないのは「不自然」だという考えもツッコミどころ満載ですな。子孫生殖だけが問題なら、その昔の「三年子なきは去れ」で結婚3年で子供(跡継ぎの男児)を産まなかった妻は役立たずとしてリストラされたという制度を復活させるべき。あまつさえセックスレスなど言語道断だから即刻離婚させるべき。生殖だけが目的なら避妊もコンドーム会社も許されないし。そもそも子供が成長したらもう結婚している必要もないから目的達成(生殖)でユニット解散すべき。それらを徹底してないのは、結婚=生殖という前提を、真剣に思ってるわけじゃないからでしょう。

 「自然」かどうかなんか個人の趣味にすぎない。大自然界からすれば、道具を使って服なんか着ている人間の存在そのものが不自然極まる。それに自然界が正しいかといえば、群れのボスが変わったら、一斉に前のボスの子達を殺してしまう動物(猿、ライオンなど多数)いるが、あれは良いのか美しいのか?「自然」というマジックワードを出せば全て許されるってもんでもない。とどのつまりは「自分にとって気持ちよいものは正義で、気持ち悪いものは許さない」という子供じみた発想ではないか。このように理屈をはなんぼでも言えるし、理屈だけではなく、実際にもそう大したもんでもないでしょ。

 という具合につらつら考えるに、文化風俗的な意味での結婚というのは、およそ「論じる」には値しないと僕は思うのです。別に無価値だとは言ってませんよ。ただ正解がない世界で「論ずる」ことに何の意味がある?と。随筆やら世間話のように話してて面白いから語るってならわかります。くだらなくて無意味なものほど面白いからね。

 ただ、「あるべき姿」でいえば、それぞれが好きに良かれと思うことをすればいいだけだと思います。ふざけて生きてる奴なんか居ないですよ。いい加減そうに見えたとしても、本人が一番真剣でしょ。その本人がそう思ってやってるんだったら、それでいいじゃん。あとは第三者に迷惑をかけるかどうかであって、第三者に関係するのは、前述したように社会プログラミングとして処理していけばよい。そして、その際においては、できるだけ実態に即して行えば良い。それだけのことじゃないのか。

 文化というのはお祭りや七夕みたいなもので、笹に短冊を吊るしたら願い事が叶うとか、誰も心底本気で信じてはいないし、無駄といえばこのくらい無駄な行為はない。でも、何が正しいってもんでもないでしょ。カルチャーにおいて正邪はないし、正邪を論じるのは野暮であり、すべからかくエンジョイするものでしょう。結婚式で白無垢を着ようが、ウェデイングドレスを着ようが、楽しかったらそれでいい。一生に一度のプリマドンナのファッションショーなら楽しめばいい。宗教心などゼロのくせに、神式やら教会やらも全然アリだと思います。カルチャーにおいては楽しいことこそ正義であると。だから、文化や習俗で「苦しむ」なんてことはあってはならないというのが僕の意見。楽しいからこそ、馬鹿を承知でやるのが文化。それで苦しんでどうする。

まとめ

 民事連帯契約に戻りますが、結婚制度を出来るだけ実体に即してフィットさせる試みは良いと思います。

 そして、僕の素の感覚でいえば、それを結婚と呼ぼうがなんと呼ぼうが、本質的にはどーでも良いと思ってます。一般の恋愛と結婚との本質的な差など無いと。たしかに結婚の方が社会的な約束事やシキタリが多いけど、それは属性の差でしょう。海老の天麩羅みたいなもので、衣(社会的なあれこれ)がついているのが結婚で、ついてないのが一般恋愛。でもエビ(愛情)はエビであることに変わりはない。エビを本質だと思えば、コロモは属性/形式。

 もしコロモの方が本質だというなら、当事者の心情などまるで無視しても、形さえ整ってれば良いことになるが、果たしてそう言い切れますか?たしかに政略結婚などはあるけど、それでいいのか。結婚とは実質なのか/形式なのかです。どっちだと思いますか。

 この世の最初のカップルであるアダムとイブの場合、社会もないから結婚という制度も概念もなかった。ではあの二人は結婚した夫婦なのか?結婚実質(エビ)説を取れば、彼らは結婚している。しかし結婚形式(コロモ)説をとれば、彼らは内縁関係なり事実婚に過ぎない。

 しかし、こんなのはコトバの遊びであって、考えるだけ無駄と思う。結婚というのは、男女(or同性)間の恋情という中核(エビ)にまつわる「あれこれ」であって、それ以上に定義づけるのは難しい。実質と形式の統合体なのだろうが、実質と形式はあまり整合していないから「統合」なんか出来ない場合も多い。

 形式コロモ重視でいくなら、結婚とは本人らの意思とは関係なく、外部の事情=帰属社会の文化宗教など、時として身勝手で理不尽な事情によって決められることになる。ある場合には、どんなに当人同士が愛し合っていようとも子供に恵まれなかっただけで強制的に引き裂かれたり、同じ宗教を信じてなかったら結婚できなかったり、破綻しまくっていても死ぬまで離婚が許されなかったりってのも、形式説からはアリでしょう。本人の意向(エビ)なんかどうでもいいんだから。究極的にはエビが入ってない海老天もアリってことになるかもしれない。

 実質説を貫けば、カタチではないのだから、同性異性の差はないし、年齢制限も、人数制限もない。時間的な継続性すら要らないかもしれない。その実質を決められるのは本人だけであり、それが双方一致している必要すらないのかもしれない(どっかではズレてたりするしね)。ただただ本人が、自分なりに必死に考えたり悩んだりして、大切だと思うかどうかだと。長編漫画「龍(RON)」に、たった一度だけ月夜に情誼を交わしただけのことを、半世紀以上たっても双方が大切な思い出としてしていたら、それは価値のあることだと思う。誰か他人のことを「大切な人」だと思うこと、それをどこまで真剣にそう思ったか、その真剣度こそが尺度であり、それ以外はカタチの問題にすぎない。本来利己的な人間が、誰か他人を「大切に思う」という心情にこそ価値があるのだと。

 だもんで実質説からすれば、それが結婚なのかどうかは、他人からは分からない。絶対わからないし、又わかろうとしてはならない。本人ですらわからないかもしれない。そこで本人がなすべきは、自分なりに真剣にやるだけのことだろうし、第三者がなすべきは、他人が真剣にやってるのをレスペクトすることだと思います。

 その他のことは、社会システムのエンジニアリングの話であって、そこでは専門知識技能をフルに発揮して、実体にできるだけフィットしつつ、第三者との利害調整ができるように、最小の犠牲(税金)で最適化をはかればよい。本人、第三者、全体システムと、それぞれによってたつ原理が全然違うので、これを無理やり統合させることもないかと思います。


漫画紹介


[ヨシノサツキ] ばらかもん


 先週とはうって変わって、心があったかくなる、ほんわかドメスティックなお話です。おすすめだよ。

 展覧会で入選常連という若い書道家が離島で繰り広げるドタバタコメディで、アニメにもなってます(なかなか良いらしい、見てないけど)。

 幾つかの要素が入っているのですが、まず(1)書道の世界、(2)離島(長崎県五島列島)の世界、(3)親子の情愛とありかた、(4)それぞれのキャラの人生世界、などです。

 まずそれら要素以前に主人公の設定ですが、人付き合いはヘタだが、プライドが高くて、だからすぐ落ち込んでネガになる、まあ引きこもり予備軍みたいな設定です。要は感受性豊かでナイーブな人なんだけど、社会的・精神的に未熟な部分、それが劣等感になってる部分、それらを埋め合わせるために書道という特異な世界でのプライドだけが支えになるけど、そんなもん実はつっかえ棒にもならないし、精神的成熟なくして書の世界での進歩もない。本人もそのことに薄々気づいている。イケメンであるがその活用法も知らない。わはは、かなりややこしい設定ですな。

 ただし、別にそんなに変わった人でもないし、変わった人のような描かれ方はしていない。むしろ、大なり小なり、誰もが似たようなもんだろって視点はしっかりある。そんな未熟な主人公を、純真な島の子供達がなついて、そして島の大人たちが、親友が、両親が少しづつ肉付けしていってくれる。

 こう書いてしまうと道徳ファンタジーみたいなニュアンスがありますが、離島だ純真だって言っても、現代の普通の人々です。特に天使っぽく描いているわけでもない。てか、明るいリア充でありながらも、何をやってもオール3であるという「普通」すぎる悩みを抱える高校生浩志、漫画家志望の腐女子属性満載の中学生の珠子、その友だちのボーイッシュな筋肉少女美和、小学一年で破天荒なくらい明るいなる(だが、両親は不明で語りたがらないという秘めた一面もある)など、ややデフォルメされながらも普通の人達です。大人たちも同様で、特に変わった人もいない。

 だけど人が普通に生活していくだけで、自然でふくらみも滋養も貯えられるもの。主人公は、それに日々触れながら、知らないうちに得難い栄養を得て、人間的にも成長し、そして書道的にも成長していく。




 ただし、「成長していく」というもっともらしいテーマは極力避けられていて、日常的に展開するのは、ドタバタなコメディです。でもって、これがけっこう秀逸。何回声を出して「ぶはは!」と笑ったことか。


 あと親子関係がユニークです。素敵なご両親なのですな。お父さんは、主人公が憧れる日本を代表する書道家です。お父さんに教わって書道を始めたくらいですから。でもって、造形が、海原雄山を田村正和風にしたというか、スマートで良識ある人にしている。このお父さん、カッコいいんだわ。主人公は親父さんを越えたくて、越えられなくて悶々とするし、その父親へのこだわりをみてると一見ファザコンぽくもあるんだけど、これだけ魅力的な存在だったら、普通に憧れるだろって気もします。そして、ユニークすぎるのが可愛らしいお母さんで、全く子離れしておらず、溺愛を通り越してただの恋人じゃないのかってくらいなんだけど、でも、本当のところは聡明な人。感情表現とかが天然なだけで。

 ↓お父さんに教えてもらう主人公と、はじけているお母さん。


 島での体験が、書に活かされていく。書道ってこんなに自由なんだ!ってことでも興味深いです。

 よくある設定といえば、そうです。離島モノでいえば、「Dr.コトー診療所」があり、僕も好きですが、テイストはにてますよね、たしかに。主人公がまず人間的にいい人で、ダメなところと、職業的に凄いところを併せ持っているアンバランスな魅力はよく似てます。また、子どもたちの交流でいえば、遠くは「二十四の瞳」まで連なっていくでしょう。定番といってもいいかも。

 だけど、「よくある」けど、それがどうした?とも思うのです。言ってしまえば、人間のドラマなんか素材が同じ人間なんだから全部「よくある」んですよね。

 何一つ目新しいことがなかったとしても(この作品はたくさんあるけど)、そこに人々がいて、関わっていく限り、無限に変化していくし、その人と人とのふれあい、豊かなふくらみをもった陰影は、もうそれだけで十分に描くだけの、そして読むだけの内容をもっている。この漫画は、ストーリー展開で読ませる漫画ではないと思う。この先どうなるかとか、運命のなんたらとかは関係ない。だから無限に続かせようと思えば続かせられるだろうし、続いても良い。それは僕らの人生が、ストーリー展開主導で動いているわけでもないのと同じことでしょう。

 なんか昭和の時代のテレビドラマをちょっと思い出した。大きなストーリーの流れは何もなく、ただ日々の生活風景があるんだけど、それだけで巧まずしてドタバタ笑いになったり、ちょっと涙が出たり。ああ、別に人さえいれば、それでいいんだな、A地点からB地点まで行く必要もないんだな、何がどうなろうとそこに人がいて触れ合ってる限り、ドラマは続くし、大切なものは日々生まれ続けるのだなって、そういう原点を思い出させてくれる漫画です。コピーに「なんにもないから、なんでも楽しい」ってあったけど、そうだよなーって思う。

 ところで長崎の五島列島。行ったことあります!オーストラリアの半年留学して、一時帰国したとき、日本ラウンドがしたくてしたくて、九州一周したことあるんですけど、その際に行きました。船に乗って延々〜って。行って帰ってきただけで、そんなに記憶はないのですが(アラ鍋が旨かった)、いいなー、また行きたいな。五島列島出身であり、現在も五島列島に住んでいる作者のヨシノサツキさん、郷土愛に満ちた作品。毎回のタイトルが長崎弁てか五島列島弁(全然わからん)になってて、よくそんなに方言あるなーと感心します。題名の「ばらかもん」は「元気者」の意味らしいです。


 以上、ここで写真がばーっと出るんだけど、Cockatoo Island、写真ありすぎて選びきれん!ので扉の一枚だけにします。おいおい載せます。
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★表示させない




反対側は海(入江)です。気持ちいい空間ですよん。




 文責:田村



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