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今週の一枚(2017/09/04)



Essay 841:ポップとディープ〜マンガの優秀なメディア特性

 「一般受けするわかり易さ」と「専門的な正確さ」の両立

 写真は、LillyfieldとRozelle裏手にあるCallan Park。なんか景色が北海道チックなのだが、都心(Townhall)からわずか5キロちょいです。
 未だに「シドニーは都会でビルばっか」とか思ってる人がいたりして、心外ですねー。「先入観も極まれり」って感じ。情報は正確に。


 今週は先にマンガ紹介を書いてしまいました。まだ時間があるうちにやってしまったので、リキが入って長くなってしまった。なので、本文は短くしたいと思います。というか、もう、マンガの話をしよっと。

情報源いろいろ

現場

 常々思い、書いてもいるけど、今の世の中どうなってるか、これからどうなるか、ディープな先端を知りたかったら漫画が一番のメディアだと思います。もうぶっちぎり。

 まあ、本当のところでいえば、一番先端で一番ディープな状況がわかっているのは、まずは現場の人達でしょう。日常的に目の前であらゆる矛盾や問題を見ているから。そして専門の官庁ですね。彼らも実によく知ってます(現場のニュアンスは現場にいくほどわかると思うが=麻薬のことなら潜入捜査をやってる麻薬取締官とか)。

 彼らは本当によく知っている。たまたま配属された現場や職場というミクロ×偶然の要素で大きく見え方が変わるという点=俯瞰性や大局性に欠ける恨みがあるけど、それを差し引いてもその情報価値は物凄いものがあると思います。しかし大きな欠点があります。そういった情報が一般世間に流出することがマレだということです。なんせ「立場上言えない」ことばっかだから、情報チャネルとして機能しない。出るとしたら「内部告発」くらいのもので。でもそんなの職を辞める覚悟、場合によっては殺される覚悟でやらないとならないから、そうそう出てくるものではない。

 ということで、本当の日本を知りたかったら、なすべきことは、あらゆる業界に親しい友だちを持つこと。いっぱい飲みながら職場の愚痴を聴くのが一番の「メディア」になります。いわゆる社外人脈でありネットワークですが、政財官のエリートさんから、各専門職、各業界、暴力団や風俗などのアンダーグラウンド系、全国各地の一般市民、福祉関係の現場、、、もう分類すれば数千くらいのオーダーになると思いますが、とりあえず「友だち1000人」作ることですな。無理っぽいけど(笑)。ただ数よりもバランスの方が大事かと。同じような業界やエリアで300人知り合うくらいだったら、満遍なくひろがった30人の方が価値あります。ただそれが難しい。人間というのは類友属性があるから、どうしても似た者同士で群れてしまう。周囲が似たり寄ったりの世界観だから、誰と話しても同じことになり、この世界はそんなもんだと思いがち。それをいかに広げていくか。これは就活なんぞの10倍以上価値あることだと僕は思う。

 僕が前職で弁護士やってて良かったなと思う点はこれで、なる前はさほど重要視してなかったけど、やってみたらデカかったという。なんせ依頼者(&相手方)は本当に千差万別で、議員先生もいればヤクザもいます。もちろん市井の普通の方々も多いのですが、これがまた業界によって生き方が違ってたりしますし、役職によっても違う。エリアによっても違う。それもかなりディープなところまでやるから、業界の裏事情から、人妻がどんだけ浮気してるとか、そこまで見聞する機会があります。短期間で世の中の実相をまんべんなく知ろうと思う人には良い仕事です。もっとも同じことはジャーナリストにも言えるし、医療関係者だって、建築関係だって、介護関係だって、いろんな方々の人生の断片と接するわけだから、その気になれば学びの宝庫。まあ、問題はそんなこと話している余裕がないくらいの激務が多いという。

 僕がオフだの個人的に人を紹介したりしてるのもその意味があって、単に会って楽しいだけではなく、一生レベルで生きてきますから。30年スパンで意味をもってくる。ヘタな年金入ってるよりも役に立ちまっせ。投資するなら金融資産や不動産ではなく「人」にしろ、です。人から情報を貰う場合、手順が大事で、先に専門知識から入るのと、先に人から入るのとでは全然違う。医者に診てもらうにしても、病気になってから初めてどっかの病院で医師と知り合うよりは、先に医師と友だちになって、あとで問題が出てきてから教えてもらう方がいい。なぜなら、情報価値の評価は、その情報を伝えてくれる「人」の評価にかかってるからです。まず人として友だちになって、この人結構アバウトだとか、やたら悲観的なところがあるとか、その人の性格や価値観を知ったあとに、専門情報を聴けばその情報のニュアンスがわかりますから。単に専門家Aはこういった、専門家Bは違う意見ですだけだったら、どっちをどう信じていいのかわからん。

情報源〜フリージャーナリストと研究者

 次に、専門にその問題を追いかけているフリーなジャーナリストや研究者が挙げられるでしょう。それと、個々の問題に取り組んでいるNPOとか団体もあります。

 彼らは長年現場で取材/活動すると同時に、体系的にアプローチしますので構造的に俯瞰できている。彼らが発信している情報(書き下ろした書物とかブログとか)はとても役に立ちます。

 いちいち本を買ってる余裕がない(金銭的にも時間的にも)にしても、そのエリアの雑誌などによく寄稿記事やインタビューが載ってるから要旨は理解できます。こういう一般雑誌の窓口は、彼らにしても啓蒙的な呼びかけにもなるし、また著書や仕事の広報にもなるから、けっこう積極的に応じてくれているんじゃないかな。自分の新刊本の内容を全部かいつまんで語ってくれたりしてます。こんなに言ってくれたら本を買う必要ないじゃんってくらい。「これ以上知りたかったら本を買え」って流れにしないのは、やっぱりそれだけ世間の人に広く知ってほしいって思いが強いのだと思います。また自分の仕事を何かの形にすることに意味があるのでしょう。

 実際、ベストセラーならともかく、真面目な本の収入なんか知れたもんですからねー。これは自分自身、弁護団や研究会やってもそう思ったから分かる気がする。ときどき活動をまとめて本にしようとかいう話があったりしても、皆イヤそうだったもんな。○○の章を書いてねとか言われても、時間ないし面倒臭いし、出来れば他人に押し付けたいという感じ。

 雑誌の記事のなかでも、専門研究者やルポライターが寄稿してる記事と、そうでない一般記事があります。やっぱ質が違いますよ。編集部が(売るための看板として)特集を組みますけど、大体が横断的で浅いのですよ。そりゃそうですよ、個々の編集者からしたら、毎週とか毎月の限られた時間、それ専門に費やせる時間なんか数日あればいいくらいでしょ。短い時間を効果的に取材して一本にまとめるのは上手なんだけど、しょせんはそれだけのことです。一方、専門で追いかけてるジャーナリストや研究者は、時間をふんだんに使って、現場に立ったり、関係者に会ったり、過去の資料を読破してるわけですから桁違いですもん。

 これがテレビや新聞になると、ほとんど使えないですねー。偏向、忖度、制約もさることながら、単純にキャパが狭い。どんな問題でも、語りだしたら最低でも30分くらいは欲しいだろうけど、テレビなんか数秒、よくて数十秒しかもらえないから、これで何を言えるのだ?という。新聞だって紙面の制約が厳しいから、通り一遍のことしか言えないでしょう。そんな「三国志の全貌を10秒で喋れ」みたいな情報に大した意味ないもん。

 ただね、こういったフリージャーナリストや研究者の情報には大きな欠点があります。それは、こっちが興味や問題意識を持たないと、敢えて調べて読もうとは思わないことです。つまり、視野を広げる効果は乏しい。既に広がっている視野を、より正確に、深くにするのはいいんだけど、それまでぜーんぜん興味のなかったことに目を向けるキッカケにはなりにくいのです。たとえば「日本の林業の現場」「日本の墓石産業の将来」とかさ、普段大して興味持たないですもん。それを「へー、こういうことになってるんだー」ってところで視野が広がるんだけど、そこにいくまでが大変。

 それに目を向けさせてくれるメディアが漫画だと思うのです。

マンガのずば抜けたメディア特性

社会の探求力〜ネタやテーマの広汎性

 日本の漫画市場は飽和しまくっているようで、なおも発展を遂げていて、ものすごくミクロなニッチまで拾ってくる。大抵のネタはやり尽くされていますからね。職業マンガにしても、そんな仕事あるんだ?と感心するくらいです。定番人気のベタなエリア(サッカーとか、ラブコメとか、ホラーとか)は、これまで誰も考えなかった新しいアプローチや表現方法が求められるし、もう容易なことではない。それよりは、まだ未知のエリアをやった方が早い。かくして社会の隅々まで、作家さん達が必死に探してくれるわけです。こんな世界があるんだって教えてくれる。テレビ番組、アニメ、そして映画のもともとの原作がマンガであるというのはよくわかります。そういった社会の探求力というのは抜群に秀でていると思う。

 そこまではジャーナリスト/研究者/NPOも同じなんだけど、大きく違う問題が2点あります。一つは、NPOやジャーナリストの場合、「問題性」がなければ彼らの食指が動きにくいという点です。でもマンガの場合、どっかの離島の中学校で水球が流行ってるとか(例えばの話ね)、なんの社会問題性がなくてもネタや舞台になれます。情報というのは、別に社会問題になってるものだけではなく、むしろ普通の日常のありようの方が意味あったりしますからね。なるほど過疎の村での日々の暮らしはこんな感じなのかとか。

ポップでキャッチーであること

 第二に、これがデカいし今回のテーマでもあるのですが、「面白い」こと、ポップであることです。とりあえず「絵」という絶対的な飛び道具を持ってるのが強い。読むのが楽。小説なんかも同じ自由さを持ってるんだけど、マンガ読む方がずっと楽ですからね。その間口の広さ、入りやすさは最強でしょう。その上で、マンガは、読者を引きつけるため、読ませるため、売れるため、苦心惨憺してポップにしてくれてます。全然興味のなかったエリアでも、お?と人目をひくようなイラストや、あ、いいなと思わせるキャッチーな引きを作ってくれる。てか、作らないと売れないから成立しない。ここが一番違う。

 ルポでもNPOのパンフでもそうですが、ポップな面白さが乏しい。真面目にやってるだけに、そうそうくだけた感じになれないんだと思いますが、しかし、下世話なまでに、過剰なまでなポップさに徹しないと、人の目はひかないです。よく弁護士会やらでも市民への呼びかけとして小冊子やポスターを作りますけど、ちょっと漫画風のイラストを入れたりとかその程度ですからねー。ここらへんは致命的な欠点=「面白くない」という点で、「暗い人達が難しい話をしている」くらいで、読み手にストレスを与えるのよね。だから広がらないという。こちらからすれば、興味を引かないので知らないままで終わってしまう。

 マンガの場合は、テーマ的に伝えたいことよりも、そのための装飾技術でしかないキャラ造形やストーリーのほうが注目される。テーマとか難しいことを考えなくても、ストーリーだけで楽しめる。じゃあ伝わってないじゃないか、意味ないじゃないかって思われるかもしれないけど、ストーリーを読んでいけば自然と伝わるし、そういう伝わり方の方が実はずっと強い。

制約が少ない自由なメディアであること

 第三に、マンガには制約が少ない。これも強烈な長所だと思います。
 テレビとか新聞は、スポンサーや規制官庁に生殺与奪権を握られてるから、まともにモノが言えるわけがないです。もう構造的にそうだから、本質的に「メディア」の名に値しないと思うし、期待したら彼らが可哀想だと思うくらいです。しかし、マンガの長所はそこまで「目をつけられてない」。これは「しょせんマンガ」といって馬鹿にされてるくらいの方がいいんですよね。マンガごときに目くじら立てるのも大人げないくらいに思われてるし。マンガの規制は、せいぜいが児童ポルノとかそのあたりまでで、政権批判をしたからどうのってところまではまだいってない。以前紹介した「キーチVS」なんて、(架空ではあるが)政権批判どころか、駐日の米大使に総理や警視総監が呼び出しくらって、小学生のように立たされ、説教ビンタされまくったり、土下座させられてるシーンすら出てくる。

 テレビ局なんか広告収入が100%だし、新聞社の収入も大半は広告だから、間違ってもスポンサー(日本の有名企業と経団連など)に逆らうわけにはいかない。でもマンガは、単行本はもとより、マンガ雑誌にしても、収入の大部分は純粋に販売売上でしょう。そんなに気兼ね忖度しなきゃいけないスポンサーも少ない。また、マンガの場合、発表するチャネルがわりと多い(漫画誌の数はTVチャネルよりもずっと多い)。

制作費の安さ〜誰にでもできること

 マンガの制約のなさは、予算面と人材面でもずば抜けてます。

 映画はまたテレビ等とは違ったスポンサーをゲットしてくるし、収益構造も微妙に違うので、わりと問題作も作れるんだけど、問題は金と人手がかかりすぎることです。とにかく映画は作るのが大変すぎる。その点、漫画がいいのは、制作費が破格に安い点です。紙代とか、ペン代とか、スクリーントーンとか高いんですけど、それにしたって映画の制作費からしたら数万分の1くらいじゃないですかね?そこらへんの小学生のお年玉くらいで出来てしまう。だから誰でも発信者になれる。これがデカい。

 と同時に、人手もかからない。基本漫画家一人、自分ひとりいればいい。カメラマンも、照明さんも、道具さんも要らない。まあ、アシスタントさんを雇ってるところもあるけど、それでも完全な問屋制家内工業で出来てしまいます。「東京壊滅!」シーンを、CGで作ったり、ロケやってたら数億円かかるけど、マンガ描くだけだったらほとんど無料同然で出来る。シーンの質を高めたかったら、自分の画力を上げればいい。だから本当にその気になったら誰でも出来るってところがずば抜けた長所なのですよね。一般市民が情報の発信者になれる。

 さらに情報の摂取が楽です。一つは流通。そんなに必死になって探し回らなくても、マンガ雑誌だったらコンビニにあるし、単行本なら本屋にあるし、コミック喫茶もあるし、ネットでも無料マンガは普通に転がっている。第二に読みやすい。必死になって活字を追わなくても、ぱっと見たら分かってしまうし、分かるように描かねばならない。情報を摂取する側としては非常に楽ちんなメディアです。

売れなくてもいい!という絶対領域

 そしてマンガには「売れなくてもいい」という資本主義原理を逸脱した「絶対領域」があります。
 商業誌でメジャーに売れなくても、それでも描く人は多い。発表の機会はコミケもあるし、ネットに出してもいいし(お絵かきサイトがあるし)、仲間内で見せあってもいいし。

 これはあらゆるサブカルに共通する難攻不落の陣地です。ロックや劇団もそうで、この種のサブカルは商業ベースを超えたところにむしろ本拠地があります。その本拠地には、一銭にもならないけど、でもやるという人々が膨大におって、むしろ数からいえばそっちの方が99%を占めるくらいです。ごく一部がプロになれるというだけ。

 そこでは放送倫理も出版規制もクソもなく、100%完全自由に表現できる。売るために偽装、詐欺をするという資本主義の歪んだ力学に支配されることも少ない。

 ほとんど「友だち同士の私語」くらいのレベルから、アマチュア→セミプロ→プロ→大作家→世界的に誰でも知ってる作品まで(ドラゴンボールとか)、全部が領土です。どのあたりのポジションでどう活動するかは、運や才能にも規定されるけど、基本その人の自由。別にプロでメシ食っていくだけが成功の唯一の基準でもないしね。

 アマ/プロの世界は、別にマンガだけではなくどこでもありますが、マンガが一番ボーダーレスでしょう。家庭菜園をやってたらプロの農家になってました、趣味で釣りやってたら漁師になってしまったというケースも少ないけど、マンガではありうる。要は面白かったらいい。資本主義の原理から逸脱しているくせに、資本主義とこれくらい相性のいい領域も少ない。質が全て。質の良さが売上に反映され、商業的成功につながる。実力=金の等式が成り立ちやすい。

 他の領域もそうなんだろうけど、でも資本主義的に歪み、さらに資本主義とは違う部分でさらに激しく歪むでしょ?同じカルチャー領域でも、「お芸術」として成り立ってる分野(僕に言わせれば「堕落」している分野)は、メシが食えるようになるためには、強力な独占組織の引きがないとダメ。絵画でも日展・二科展に選ばれるためには芸大の教授の覚えがめでたくて〜とかさ、クラシックも結局は芸大と桐朋でしょ、医者が東大と慶大であるように。スポーツに打ち込んでも日体協やら各エリアの組織のジジー連中が仕切ってる。そこではもうオリンピックもそうだけど、ドス汚い利権ビジネスじゃんかよ。全然実力(&ユーザーの支持)と収入が比例しないことになっている。さらに政府が絡むともっと汚穢度が高まる。

 マンガやロックは、世間様から馬鹿にされて、軽蔑されているのがお似合いで、そこが格好の馬鹿よけシールドになってます。蚊取り線香みたいなもので。マンガといったら、未だにジブリやディズニーくらいしか思いつかないお芸術志向の人=頭のクソ固い連中の権力がはびこってない。これがはびこるようになったらマンガも終わりですわ。利権につながるから、政府や業界団体が「一級漫画士」とか資格をつくりましょう、規制をつくりましょう、資格がなければ商業誌に掲載されないことにしましょう。そして漫画家養成スクールをどんどん作って、授業料数百万ぼったくって儲けましょう。裏口で口聞いてまた儲けましょう。そして商業誌も政府から認可を受けないと発行できないことにしましょう。裏でまた羊羹が乱れ飛ぶから笑いがとまりまへんな、おぬしも相当なワルじゃのうって世界になるもんさ。でもって商業誌に紹介するエージェントビジネスがはびこって、新人作家の可愛い女の子は担当者から枕営業を強いられてってさ。それが今の社会じゃん?違う?

 マンガは、それらからはかなりの程度自由です。なんでか?なんで利権ビジネスにしにくいのか?といえば、これも簡単ですわね。消費者が賢いからです。もうあらゆる領域で一番消費者が賢いんじゃないかな。だって、僕のように子供の頃からマンガ読みまくってきてる人は多い。国民のかなりの数が、相当のレベルで読み込んでいて、審美眼が高い。他の領域は、例えば文学でも、古典芸能でも、絵画彫刻でもなんでも、国民の審美眼が低い(興味ないし、面白くないしね)。だから芥川賞なんかが権威を持ち、これを取るととりあえず売れる。マンガにも賞はたくさんあるけど、賞を取ったから読もうって人は少ない。それは消費者が自分の眼力や感性を信じているから。かつての大作家や漫画界の大御所みたいなものが激賞しようがボロカスけなそうが、そんなの屁とも思わない。消費者の力が弱いところは、この種の権威付けメーカーみたいなおっさん達がメシの種にして稼ぐようになるけど、消費者が強いところは腐敗は起きにくい。だから資本主義を健全にしたかったら、消費者が賢く強くなる以外にないのだとも思いますわ。

 ゆえにマンガと資本主義は相性がいい。でも相性がいい資本主義ですら、マンガは別に絶対に必要とはしてないし、それに依存し、隷属することも少ない。このくらい自由度の高いメディアや領域は少ないんじゃないですかね?

ポップとディープ

 派生して少し。マンガ村に生まれて、ロック町で育ったような僕にとって、ポップ VS ディープというのは常に永遠の課題でした。

 自分の言いたいことを突き詰めて、ディープに、正確に表現しようとすればするほど、ポップさが失われるのですよ。わかりにくく、とっつきにくくなる。どっかのマニアが気色悪いマニアックなことをしているって感じなる。活動場面も、その昔でいう「アングラ(アンダーグラウンド)」。次の世代でいう「インディーズ(インディペンデント=商業的大組織にディペンド(依存)しないで独立した、という意味)」ですね。

 これだと限られた人達が限られた秘密のミサをやるような感じで終わってしまう。そればっかではちょっとマズイんじゃないの。もっと広くみんなに伝わるようなやり方でないと。つまりポップでないと、と。じゃあどうすんの?で皆討ち死にするという(笑)。もっとポップな曲を作らなきゃで、作ってみたリもするんだけど、これがまた当時流行ってるものの劣化コピーのように寒いものになってみたり、メンバーに「ばかやろー、こんなの演れるか」とボロカス言われたり。

 当時の音楽仲間とも言ってたけど、ポップって馬鹿にするけど、いざやるとなったらメチャクチャ難しいわー、もしかしてディープを極めるよりも難しいかも?と。曲でも、キャッチーなイントロ、誰でもすぐに歌えるわかりやすいメロディライン、聞いてて元気がでるようなポジティブな歌詞、なんのことはない後日「J-POP」と呼ばれるような方程式です。それはわかってるけど、それを作るのは結構センスがいるから難しい。その上、同じパターンを恥ずかしげもなくやり続けるメンタルというか、金のためには魂捨てる的な、なんのために音楽やってんの?的な根源的な葛藤もあって。

 そのJ-POP方程式を恥ずかしげもなく極めて×やり続けたのがコムロとつんくですけど、そのあとその美味しい部分、利権ビジネス化したものは、芸能界の竹中平蔵みたいな秋元康のAKB路線になってると僕は思ってます。でも、当時の葛藤はすごいもんで、だから有名ミュージシャンも、鬱憤ばらしのようにおちょくった曲をやってたりしました。奥田民生のユニコーンがひっそり出している「PTA/光のネットワーク」は抱腹絶倒で、小室のまんまパクリなんだけど、あの電子音ピコピコのダンサブルな音に「僕らはみんな弱虫〜」という超ヘタレな歌詞が乗るという。それは「こんなの真似すんの簡単だよ」「よく恥ずかしげもなく出来るよな?」という痛烈な皮肉なんだけど。真島昌利氏もソロアルバムの最後のボーナストラックで、Xへの皮肉で「ですメタル」というのを作ってる。歌詞は「です。でした。でしょう」だけ、だから「ですメタル」。

 でもね、ポップとディープの相克というのは本当に難しいんですよね、ここは、永遠の課題といってもいい。ロックがロックしてりゃ勝手に輝いてた60-70年代は楽なもので、80年代以降、どこもおしなべて苦労します。とにかく興味のない人に振り向いて貰うにはどうしたらいいか?で、昔はKISSのようにメイクしたり火を吹けば良いくらいだったのが、そんな程度じゃダメになる。そうなると炎上商法みたいに、一発芸で笑いをとるとか。筋肉少女帯が「元祖高木ブー伝説」というお笑い曲で世に出るとか(しかしあの曲、涙が出るくらいめちゃディープなんだが)、金ピカお洒落軽薄の80年代(バブルの前夜)でヘビメタやビジュアル系はひたすら嘲笑の対象でしかなかった時代に、あえて笑いものになりXのメンバー全員があの衣裳で元気がでるTVの運動会に出て全国の笑いものになったり、ほんと涙ぐましいまでの戦略と努力でやっていた。

 そんな連中のいる町の片隅で育ってきた僕からしたら、弁護士会やらNPOやら市民運動やらの「真面目なことをやってるなら地味でも許される」的なノリではあかんと思ってました。ポップを舐めてんじゃねえって、それだったらいつまでたっても秘密の穴蔵から出れんわと。

 だがしかし、時代は流れて〜、変わって〜、今はむしろその秘密の穴蔵の時代なのかなって気もします。なんせ商業的成功というのが段々色あせてきて、資本主義そのものが世界中から懐疑の目で見られるようになり、だんだんなりふり構わず利権ビジネスの汚いところを裸にさせられていっているので、別にもう商業的に成功しなくてもいいかもねーって気分が絶賛蔓延中でしょ?まあ、メシは食わなきゃいけないけど、それはもうそこそこでいいやって。だから、時代はポップ絶対王朝みたいなものから、群雄割拠のディープ主義みたいなものにシフトしつつあるのかもしれません。

 そうは言っても、ポップの有用性は忘れてはならず、その種の技術は技術で今なお有用だとは思います。

 以下、恒例のマンガ紹介コーナーですが、ここまで読んでくれたら、以下はケーススタディみたいな感じになるかと思います。

漫画紹介


[井上智徳] COPPELION コッペリオン


 原発がメルトダウンして東京は人が住めないエリアになったという設定で描かれたこの漫画、いかにも〜って思うかもしれないけど、2008年にヤングマガジンで連載が始まっています。つまり2011年の東北地震の3年前に既に問題提起されていた、という事実に注目すべきかと。一部の人を除いて、誰もそんなこと考えもしなかった時代に、こういう構想を練り続け、時代が作品に追いついたあとにおいても、なおも軸がブレずに連載を続けて完成させている、その先見性と構築性は素直に凄いと思います。

 この漫画、26巻まであって、アニメ化もされてるけど一般的にはそんなに知名度高くない。僕もたまたま知ったくらいです。でも、この作品のなかに、原発をとりまく問題状況はかなり指摘されているのですね。でも話題にならないという。ならば僕がここで話題にします。いいよ、これ。

 設定と展開は、、なんか羨ましくなってしまうような「もう一つの日本・世界」です。せめてこのくらい日本も開けてくれていたらと。初期設定で、原発が東京(お台場)にある。福島や敦賀など危険は地方に押し付けて、美味しいところだけいただくという卑怯なことはやめようと国や財界や都民が決断したという。民法に「危険負担」という概念がありますが、「利益の帰するところ、危険もまた帰する」というクソ当たり前の原理なんだけど、このレベルですでに夢物語になっているのが悲しい。で、その東京原発で大事故が起きて、東京は廃墟に。しかし、自衛官など関係者の決死の努力で石棺化には成功してます(これも羨ましいなー)。

 それから20年、SF的に飛躍するのですが、遺伝子操作の試行錯誤の末に放射能に抵抗力をもつ個体が作られ、今なお東京の残留する人々を救出する部隊が編成される。

 でもって、ここがポップさ全開で、「萌え」のくすぐり要素なんだけど、主人公達がなぜかチャーミングな制服の女子高生だったりするわけです(笑)。このシリアスな話に、制服JK出しておけばウケるだろう的なポップさを強引に合体させ、さらに放射能抵抗だけではなく種々の超能力的なエスパー対決のスペクタクル活劇要素も入れていく。どんどんハリウッド的に荒唐無稽になっていくんだけど、この凄まじいゴッチャ煮設定をどう料理して読ませるかがクリエーターの腕の見せどころです。

 でもって、僕の意見としてはゴッチャ煮を上手に料理してます。萌え的なJKなんだけど、萌えだけで全然終わってない。大人たちの腐ったご都合主義で歪められた社会、その影響を受けて子供たちもまだ歪むんだけど、同時に若さがゆえの透明で強靭な感性は健在であり、それが大人たちに広がっていき、ついには世界を救うという、これまたおとぎ話っぽいんだけど、でも結局そういうことだと思うよ。過去の歴史もそうだったんだし。若さが尊いのではなく、「しがらみが少ない人間が一番素直に物が見えるし、行動できる」という一般則どおりの話で。

 その過程で、あらゆる問題点が戯画的に出てきます。まずは世界的な原発産業(日本の原発ムラなど田舎の支部に過ぎない)の利権構造、各国家間のエゴ。このあたりコスプレ的な国際会議でいかにもマンガなんだけど(フランスがルパンの格好してるとか)、でも分かりやすい。なんでも軍事介入して話をよけいにややこしくするだけの糞アメリカとか。

 そして一番の悪党は実はオーストラリアだ、というのも新鮮な指摘です。そうなのよね、オーストラリアは原発ないんだけど、イノセントか?というと、ウラニウム輸出して儲けているプチ死の商人的な顔もあるのですよ。ウラン燃料で原発やればプルトニウムが出来るし、プルトニウムさえ持ってれば爆弾にするのは簡単だし、要はエネルギー輸出に名を借りた兵器輸出なのだという点とか。ね、結構鋭い指摘もなされてます。

 さらに原発の売り込みと核廃棄物の引き受けのアフターケア問題があります。今世界で欲しいのは原発技術ではなくゴミ捨て場であり、それを引き受けてくれる(押し付けてられる)場所をポイントになっている点。ソマリアなんか、もう完全に国家崩壊して多くの人が苦しんでいるんだから、正義と人権をうたうアメリカだったらとっとと出てってなんとかしろよと思うけど、全然いかないね。なんで?といえば、ソマリアの豊かな漁場は、ヨーロッパの核廃棄物のゴミ捨て場になってて、ヘタに主権国家が出来てしまったら、不法投棄ができないから困るんじゃないの?憶測を逞しくすれば、次の時代の日本がそのソマリアみたいになって、世界の核のゴミの夢の島のような利用のされかたをするかも、と。もうこれだけ汚染されちゃったらしょうがないでしょ?みたいなノリで。だから何にもしない/させないという説もあります。

 そういった背景事情(ゴミ捨て場がない)のなか、日本政府が原発売り込み同時に廃棄物の引き受けも申し出ているとかいう話もありますな。でもって今なお、日本国内の廃棄場所を、政府が一生懸命検討しているとか(経産省、高レベル放射性廃棄物の最終処分場候補地となり得る地域を示した「科学的特性マップ」を公表」でググると出てくるよ、つい先々月の話だけど)。


 一方、過去に受けた恨みから人類滅亡を試みる勢力もいます。例えば政治家だけ一足先に避難しているなか、何も知らされず石棺化をやり死んでいった自衛官達。例えば、主人公たちと同じ立ち位置なんだけど、DNA実験の際に失敗作として怪物にさせられたり、人生めちゃくちゃにされた人達。彼からしてみたら、のうのうと生き残ってる人間どもに生きる資格がないということで、主人公達に敵対します。


 シリアスに語ろうと思えばいくらでも語れる題材をわかりやすく説明しながら、しかし、メインには冒険活劇友情物語にしてて、それがとってつけた感がないので、しっくりきている。大人たちも汚い連中ばかりではなく、一生懸命やってる人達もいる。自衛官の国木田師団長もそうだし、人間的にダメダメな夏目総理(しかしどこか憎めないで良心は残っている)、その冷酷な懐刀でありつつも熱い思いは忘れていない鴎外長官、そして廃墟東京の109で自分らだけで必死に生き延びて暮らしてきた残留都民達は、まさに下町人情物語の世界で、「親方」とか出てくるもんな。

 結果的に萌えJK達も、さわやかな部活みたいなノリになって、汚いものと清涼なものが一進一退でせめぎあっていくという構造になってて、シラけさせもせず、暗くなりすぎもせず、絶妙なバランスでストーリーを進めていきます。このあたりの腕力はクリエイターとしてすごいなーと思います。そりゃケチつけようと思えばあるけど、だったらお前やってみ、ですよ。

 絵と雰囲気は、ドラゴンボール×AKIRA風味なんだけど、鳥山明や大友克洋のように画力で読ませる系ではない。しかし、十分に伝わってくる絵です。このストーリーならこの絵が合ってると思う。これ以上妙に写実的だったりしたら、ストーリー全編を清浄化していく要素に欠けるだろうし、これ以上デフォルメがすぎるとシリアスな成分が希薄化するような気もしますね。


 最後の方がファンタジーになるのだけど、シガラミの少ない若い感性が世界を変え、核の問題は廃棄物の問題であると焦点を据えて一つの解決法を提案しています。


 今週は以上、おつかれさま。
 以下、扉写真の続き。

→予定タイトル一覧






反対側は海(入江)です。気持ちいい空間ですよん。




 文責:田村



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