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今週の一枚(2017/08/21)



Essay 839:Moonchild(King Crimson)

〜童話と絵本の世界

 写真は、つい数日前に撮影した三日月。

 自室の窓からチラと巨大な三日月が見えて、おお!と思ってカメラ持ってクソ寒い中出ていって。おかげいい早朝エクササイズになりました。

キング・クリムゾンと私

 今週は思っきり趣向を変えて、ひさしぶりに音楽話。キング・クリムゾンというバンドの「ムーン・チャイルド」という曲だけを書きます。クリムゾン論全般をやりだしたら、それだけで一回終わってしまうし、またそれをやる力量もないので、もうこの曲に集中します。

 とはいいつつも、挨拶程度に簡単な紹介を。キング・クリムゾンというのはメジャーなロックの黎明期(1960〜70年代)に出てきました。ビートルズとかスートンズ(Rolling Stones)、ツェッペリン(Led Zeppelin)、パープル(Deep Purple)など巨星達、未だに定期的にDVDのBOX版が昔のファン向けに出されるような時代です。もう「古典」ですね。

 その頃ロックの方向性がぶわーっと分岐して、あらゆる実験的な音楽が追求されていたのですが、その方向の急先鋒が、いわゆる「プログレ」と呼ばれる一群でした。プログレッシブ=進歩的なって意味です。イエスとかピンク・フロイドとかELPとか御三家とか五大バンドとかいわれて、その一角にひときわ玄人好みというか、難解というか、地味だけどマニアの支持率が高いのがキング・クリムゾンだった、というのが僕の印象。

 僕の世代は、これらのムーブメントのちょい後で、リアルタイムには経験してません。それはもう少し上のお兄さん達の世代。ただ、遅れてきただけに、落ち着いてまとめて系統的に聴けたというのは良かったかもしれないです。ビートルズもリアルタイムで聴いてたら理解できなかったかもしれないなー。いやリアルタイム体験もあるのですが、まだ子供の頃で(ビートルズが来日したときとか)、もう楽曲がどうのっていうよりも「奇怪な社会現象」でして、テレビで見ても観客がキャーキャーいってるだけで肝心な演奏なんか殆ど聞こえないし、客席でバタバタと女の子が失神してるシーンばっかで、なにやら新興宗教の奇妙な儀式みたいな。

 それもあって小学校の頃はわりとその種のサブカルには拒否反応が強かったです。まあ、大人の論調に洗脳されてたと思うのですね、子供なんかしょせん馬鹿だから。しかしだんだん自分の目と耳で見聞するようになって変わってきます。はじめてラジカセ買ってもらったのが中1とかそんなもんで、最初はおとなしくクラシックとか聴いてて、それがFMという「大人への窓」をゲットしました。当時(70年代)はですね、ネットも、ゲームも、携帯もなくて、子供の遊び道具といえばチャリンコと野球道具くらいで、シンプルだったのですよね。だからハマったら(他にやることがないから)没入。

 最初は、誰でも聴くようなカーペンターズやら邦楽(フォークとかニューミュージックとか言われてた頃)を経由して、やがてビートルズに行き着き、ああ、あの新興宗教みたいな不気味な存在は、実は楽曲的に非常に優秀だったのだということを知った。そしてロック知ってしまうと、もうポップスとか聴けなくなる病で、最初は苦くて嫌だったお酒も、一回その良さを知ってしまったらもうノンアルコールのジュースなんかお子様ぽくて飲めるかみたいな感じ。何がそんなに良かったのかといえば、「こんなことやっていいの?アリなの?」「こんなに世界は広かったんだ!」という衝撃でしょう。

中二病的背伸び

 今にして思えば、音楽を聴いて楽しんでいるというよりは、自分の世界を広げたい、大人になりたいって本能的なものがベースにあったのでしょうねー。実際、大して理解していたわけでもないしね。要は背伸びしたかっただけ。だけど背伸びしてると本当に背が伸びるんですよねー。思春期と呼ばれる時期における、爆発的拡大期や覚醒期だったのでしょう。ちなみにこの種の転換点はその後の人生にもやってきました。同じくらいの爆発覚醒度でいえば、オーストラリアに来たときですね。「今、起きました!」的な、それまでの人生なんか眠っていたのも同然みたいな。

 さて、その爆発期に、ジンギスカンが版図を広げるようにあっちゃこっちゃ進軍して新しい世界を広げていたのですが、そしてプログレ王国までやってきた。で、予定調和的に、フロイドの「原子心母」やら、イエスの「危機」やら、一曲で20分以上の大作を聴いて、おー、なんだかわからんけど、すげーという中二病的な感動に浸って。

 キング・クリムゾンですが、まず中二病的に名前にやられましたね。なんかわからないけどカッコいい(笑)。クリムゾンって何の意味なの?で調べると「真紅」「鮮紅色」、濃く明るい赤色で、若干青みを含んで紫がかる感じ。え?色なの?「紅王」って意味わかんないけど、すげー!という(笑)。

 「とりあえずこれを聴け!」的に、クリムゾンのデビューアルバム聴いて、ガビーンとなって、、といいたいところですが、正直、最初はようわからんかったです。でも、このバンドは今でもよく分からないんですけどね。結成半世紀、現在もまだ活動してますけど(そっちの方が凄いかも)。当時何がわからなかったかというと、バンドのカラーというか「こんな感じ」というのがつかめなかったのです。イエスは、水晶時計のような精密な美しさが群を抜いていたし、ピンク・フロイドは絵画的な叙情性やドラマ性がわかりやすかった。じゃあクリムゾンは?というと、あまりにも曲調バラバラすぎて。ただ、理解は出来ないけど、衝撃はありました。この歴史的デビューアルバムについても、もうジャケットも衝撃的だわ、全5曲捨て曲なしだわ、単なる名盤というだけではなく後世の歴史を変えるくらいの傑作でしょう。

デビュー作「クリムゾン・キングの宮殿」

 一曲目の超有名な「21世紀の精神異常者」(21st Century Schizoid Man)だけだったらまだ分かった。この曲、ヘビーすぎるというか、ギターの音が過大入力で音が割れまくってるし、もう音的には気が狂ってると言ってもいい。それがヘビーなリフから、一転してフリージャズの超絶テク大会になだれこんでいって、SF的な。そうかー、そういうバンドかーと思ったら、二曲目で一本背負いを喰らいます。「風に語りて」という、まんまフォークソングみたいな、「叙情的」という言葉がこれ以上似合う曲は他に知らないというくらいの歌がくる。流麗なフルートがいいです。

 そして3曲目と5曲目(ラスト)に「エピタフ(墓碑銘)」と「クリムゾンキングの宮殿」という大作がくる。この二曲は曲想やテーマが似てて、これぞ!というくらいメロトロン爆裂な。あ、メロトロンというのは鍵盤楽器の一つで、ピアノやオルガンとシンセサイザーの過渡期みたいな時期に使われた骨董品で、フルートの音などをテープで録音しておいて、キーを叩くとスイッチが入って再生するという、めちゃ原始的なサンプリングというか。原始的な仕掛けだから作動も不安定だったりするらしいが、それだけになんかしらん不思議な迫力があるのですよ。夢幻的なオーケストラが、もももも〜って立ち上がってくるような感じ。なんともいえない空間感がある。この二曲はそれを前面フィーチャーしたもので、壮大の一言尽きるような楽曲に仕上がってます。

 多分(初期の)キング・クリムゾンってこんな感じ?をいおうとすれば、この二曲に代表されるでしょう。壮大で、悲しくて、美しい。どうも音楽、いや人間には「悲しいほど美しく感じる」という奇妙な特性があるような気がするのですが、クリムゾンの初期には、悲しさと美しさがないまぜになっており、しかもベタベタしておらず妙に乾いた達観のようなものもある。絶望も悲しみも蒸留されて、陰りのある叙情性に昇華されているような感じ。

 さらに言えば、クリムゾンには、中世ヨーロッパ独特のおどろおどろしさ、ゾッとするような怖さがベースにあるように思います。まあ、ロック系は悪魔的、中世的な装飾はつきものなのですが、しかし、それって芸とかファッションでやってるだけで別にそんなに怖くない。聖飢魔IIが怖くないように。でも、クリムゾンは恐いんですよね。その怖さをたどっていくと、中世ヨーロッパの怖さに行く着くように思います。例えば、タロットカードに描かれているな変な絵の怖さね。人間がもっている黒い深淵に引きずりこまれるような怖さ。

 その中世的恐さから人類社会のダメダメな残虐さが思弁的に抽出され、さらに現代社会における絶望が乗っかる。要するに全編通じて徹底的に絶望あるのみで、希望なんかハンパなものはない(笑)。エピタフの"Confusion will be my Epitaph"(混乱こそが私の墓碑銘になるだろう)とか。”Red"というアルバムに入ってる”Starless and Bible Black"なんか、「星(希望)が無い」わ、「バイブルは真っ黒」だわ、もうどんだけ絶望してんだ?って。だけどその絶望が深いほど、メランコリックな悲しみは深くなり、悲しみが深まるほど旋律はこの上なく美しくなる。スターレスのイントロのメロトロンは、最初聴いたときにマジに鳥肌たちました。「悲しみの海」が静かに満ち満ちてくるような「量感」があって、この感覚は類例がない。

 もう一つ、西欧中世から派生するものとして、童話や絵本のような要素、幻想的でリリカルな要素があります。それがこのムーンチャイルドです。

 ムーンチャイルドは、この大作2曲の間に、まるで「箸休め」のように挟まれているのですが、これがまた別の意味で衝撃で、「え、なに?この童謡みたいなの?」という。ほんと童謡みたいに超わかりやすく、、聴いたら一発で覚えられるメロディライン。これがあの「プログレッシブ・ロック」なのだろうか?どこが先進的で画期的なのだ?どこかに意味が隠されているのでは?うーむ、ようわからんってな感じでした。

 ただ、あれから時間が経ってみると、実はこの曲が一番すごいんじゃないかって気もするのですね。なぜなら、当時の時代背景とか、音楽的な革新性とか、そういう補強要素を一切抜きにして、純粋の楽曲の力だけでいうと、一番残るのがこのシンプルな曲だったりする。


 この曲は、音の面でも、言葉の面でもどちらも突出してるのですが、まずはサウンド面。

 

 MoonchildをYouTubeで調べるとたくさんある(原曲に合わせてどんな画像を入れるかのバリエーション)のですが、とりあえずは上のものを。一番シンプルで、且つよくできるなーと思うので。

 まずメロディラインですが、非常にシンプルです。使用音数も少なく、主旋律をギターで弾いたら1弦だけで全部弾けてしまうくらい。

 しかしシンプルで印象的なメロディを作るというのが至難の業です。嘘だと思ったら作曲してみたらいいです。物凄い才能に恵まれたプロでも、名作レベルになれば一生に一曲作れれば御の字って世界でしょ?とりあえず出来たとしても、全然面白くも良くもない。また音数を少なくすると、順列組み合わせですから、どっかしら既存の曲に似てきてしまうのですよね。逆に開き直ってよくあるパターンに落とし込めば、まあ形にはなるのですが、よくあるだけに曲としてのインパクトは薄くなる。世の中に流通している曲の99%はこれかもしれない(あとは歌詞、アレンジ、ビジュアルなどで差別化をはかる)。いやディスってるわけではなく、それだけ斬新なメロディを思いつくのは難しいって言っているのです。世界新記録を打ち立てるよりも難しいと思いますよ。

 このムーンチャイルドは、これだけ印象的なメロディなくせに、どっか聴いた感がない。もしかしたら西欧の古い民謡に似たようなのがあるのかもしれないけど、僕は知らない。まずこのオリジナリティが凄い。「風に語りて」も佳曲なんだけど、メロディの起伏がムーンチャイルドほど印象的ではない。こういうのっぺりした鼻歌ソングだったら、結構作りやすいんだけど、童謡のようにメリハリがついたメロディラインをオリジナルで作るというのは本当に難しいです。

 なんでこんなに印象的で、わかりやすくて、落ち着いて聴いてられる安定感があるんだろう?と考えてみたら、これって、ポーンと高いところに蹴っとばして、最高点からゆらゆらと落下してくるメロディラインなのですね。何を言ってるかというと、メロディの冒頭、call the moonchild〜って部分ですが、こーざ(E/ミ)→むーん(A/ラ)→ちゃーい(E/1オクターブ高いミ)と一気に1オクターブあがる。ラグビーのパントのように、最初のボールを高く高く蹴る。このメロディがあまり類例がないくらい強引で印象的。普通、いきなりこんなに上げないですよ。しょっぱなからサビがくるみたいな。でもって、ルート音に5度の二種類(ルートはオクターブ差で2つ)しかなく、ルートと5度だったら人間にとってもっとも安定感のある音の並びだから聴いてて安らげる。ココで科学的な理屈を言えば、音=周波数のキッチリ整数倍の周波数(音程)がドレミファの12音周期律で、なかでも3度と5度の波動共鳴性は強く=だからハモりに使われる。

 で、むーんちゃー↑って一気に頂点まで持ってきてからは、あとは落下傘が落ちてくるようにゆっくり音程を下げていく。ゆっくり降りてくる旋律というのは、これもまた人の心に気持ちいいんですよね。

 曲が分かりやすいという点で言えば、この曲にはAメロとBメロしかないんです。普通、AとBがセットになって二回繰り返して、展開部にCがきて、そしてサビのD(あるいは発展C)がくるという曲構成なんだけど、ムーンチャイルドはAとBの繰り返しを2セットやって終わりという、めっちゃシンプル。Bメロも最初に上げて、後半でゆっくり下ろすパターンも同じ。これをこのゆっくりテンポでやられると気持ちいいんですよー。ラジオ体操の深呼吸のような感じになって、聴いてて呼吸が楽になるような。聴いているうちに、曲に呼吸を合わせるようになりますよ。

 そして、そのシンプルなメロディを支える伴奏部分なんだけど、譜面をそのままピアノで弾いた作品があったのが、あげておきます。すごいわかりやすいです。ただ原曲よりも繰り返しが多いので、ちょっと飽きるんだけど(回数って大事よねー)。


 これで聞くと、主旋律に気を取られすぎないので、曲の骨格がよくわかると思います。A(ラ)→G(ソ)→G♭(orF#=半音下がり)→F(ファ)という黄金の下降進行の繰り返し。これは本当によくあるパターンです。これだけだったらここまで名曲にならないんだけど、印象的な主旋律が全体を引き上げるという構造になってるのでしょう。あと、シンプルな和音の下降進行なんだけど、微妙に装飾音がついてくるので、陰影が掘られていく。

 サウンド的にいえば、YouTubeの音にはちょっと不満があって、本当はもっとギターが出てくるんですけどね。マンドリンみたいなややトレモロがかって、かすれて。静かな海が、月の光に照らされてるような、一種のテカリのある音作りをしてるんだけど、YouTubeではそのあたりがちょっと不満。

 あとハイファットとトトトトだけで押さえているドラムとか、そっと寄り添うような、自然に吹いている風のようなたたずまいのフルートだかメロトロンだかの職人芸とか、僕もよく理解できてはいないです。ただ、これだけメロディが良くてシンプルな原曲があったら、演奏者的にはめちゃくちゃいじくりたくなる筈で、それをよく抑えているなーと思います。

 実はこの曲、本当は12分くらいある長い曲なんだけど、最初の2分半くらいのメインメロディー(今回紹介している部分)のあとに延々とフリージャズというか、現代音楽みたいに難解なんだか、意味不明なんだかってパートが続きます。そのあたりはやっぱりわからないし、要らないんじゃないの?って気もします。現に、You TubeなどでMoonchildをUPしている人も殆どが後半分をカットしてます。このあたりが分かるようになったら面白いんだろうけど、まだまだ修行が足りないです。

言葉

 この曲、また歌詞がいいんですよ。
 僕としては、歌詞がこの曲の魅力の半分くらい占めて気がします。本当にきれいな英語で、うっとり、ほれぼれしますね。


Call her moonchild
Dancing in the shallows of a river
Lonely moonchild
Dreaming in the shadows of the willow

Talking to the trees of the cobweb strange
Sleeping on the steps of a fountain
Waving silver wands to the night-birds song
Waiting for the sun on the mountain

She's a moonchild
Gathering the flowers in a garden
Lovely moonchild
Drifting on the echoes of the hours

Sailing on the wind in a milk white gown
Dropping circle stones on a sun dial
Playing hide and seek with the ghosts of dawn
Waiting for a smile from a sun child


 中二病の頃は馬鹿だから英語なんかわからなかったけど、こっちに来てからふと歌詞を見つけて読んでガビーンとなりました。

 なにがって、このあふれんばかりの詩情。
 何がツボなのか?というと、小さな子供の頃に読んだ絵本や童話の世界で、そんな感覚すっかり忘れてたよって部分。

 まず「ムーンチャイルド」って何?誰?ってことですが、"she"って言ってるから女性で、まあエンゼルのような小さない女の子なんだろうなーって思われます。おそらくは、月の光の擬人化だと思われるのだけど、このお話の全体=「月の子が、太陽の子を待っている」という発想がすごいなー、よくそんなこと思いつくなと。

 夜明け前、月が傾く未明の頃。なにもかもが死に絶えたような静謐な世界で、ただただ月の光だけがそこかしこに射していて、それがまるで「月の娘」が無邪気に遊び回ってるかのように思えるって詩情。その娘は何を待ってるのかといえば、やがて山の上に登ってくる太陽の子(たぶん男の子)と微笑みを交わすのを心待ちにしている。

 そこには寓話性もないし、なにかの比喩とかアナロジーとか、これにかこつけて風刺をするとか、教訓めかしたことを言うとか、そういう部分が一切なくて、純粋の月光の世界の夢幻性を歌っている。

 それを歌詞で表現するわけですけど、これ、難しいですよー。そのまま解説的に描写したらぶち壊しのドッチラケですからね。庭や森や川のせせらぎ、カメラがどんどん動いていくように視点を移しつつ、そこで無邪気に戯れている月の娘の姿を描いていく。そういうコンセプトが出来たとしても。今度は言葉選びが難しい。

 「浅いせせらぎで踊り」「柳の木の影で夢を見る」「夜の鳥の歌声に、銀の指揮棒を振り廻し」「噴水の階段のところでうたたねをし」「庭の花を摘み集め」「ミルクホワイトのガウンをまとい風に乗る」「日時計の文字盤に石を置いて歩く」など。

 特に凄いなと思ったのは、
 Drifting on the echoes of the hours
 Talking to the trees of the cobweb strange
 Playing hide and seek with the ghosts of dawn
 で、無理に日本語訳にすると意味がなくなっちゃうようなデリケートな部分ですが、「時の残響のなかを漂い」「蜘蛛の巣の不思議について木々と語り合い」「夜明けの霊達とかくれんぼをする」ってことだけど、文章の意味そのものよりも、言葉がもってる広がりや波紋をぶつけあって膨らませていくところが感覚がポイントでしょう。

 「echoes of the hours」って、「時間のエコー」というとわかりにくいんだけど、英語原文からだったらなんとなく意味は分かる。特に未明の静かな時間帯というのは、時があるようで無いようで、その静かな世界に時間が溶けて、滲んでいくような感じがする。それは時の刻みを感じているのか、あるいは時の残響がこだましてるだけなのか、そういう淡い淡い時間感覚というのはわかる。そこをドリフト(漂流)するというのもまた分かる。

 「ghosts of dawn」=夜明けの幽霊っていってしまうと違うと思うのだが、夜明け前って、一瞬この世ではなくなるよなときってあるでしょ。あまりにも静かで、なにもかもがひっそり沈んでるなか、この世ならざるもの、、というか、本来のこの世界の姿が浮上してくるような感じ。そして、そこかしこで霊的なもの、妖精のようなもの達が見えてくる。そして、彼らとかくれんぼをする。なんという叙情的なイメージ。

 そして、そんな妖精チックな月の娘が、”Waiting for a smile from a sun child”と待ち望んでいるわけで、この最後の最後にサン・チャイルドが出てくるところで、うわーと思ってしまいました。やられたーと(笑)。


 でも、なんでこんな童話や絵本のような世界がクるんだろう?何がそんなにいいんだろう?と不思議にも思います。これは、年を取ったほうがキますね。20代の頃とか、まだそんなに思わなかった。

 思うに、多分死期が迫ってきてるからじゃないかな?いや持病で死ぬとかじゃなくて、だんだんまた大地に還っていくわけで、その準備というか。小さな子供って、ある意味では大人よりもはるかに死の世界に近いと思うですよ。ついさっきまでこの世にいなかったんだから。どれだけ何を覚えているのか知らないけど、僕らがギトギトと脂ぎった固定観念で世界を塗りたくる前、まだ本当の世界の姿が何の先入観もなく見えていたと思うのです。だから絵本とか童話世界とか、大人の濁った視界よりも、はるかに澄明に見えてたし、すっと入り込めたと思う。

 でも20-40歳くらいのバリバリやってる頃は、人為的なあれこれで夢中だから忘れてしまう。でも、年食ってくると、若い頃に重要に思えていた事柄も、別にそんなに大したことではないってのが分かるようになる。だんだん固定観念の呪縛が解けてくる。それと同時に、「もうすぐ、あそこに帰るんだなー」というなんとはなしの準備みたいなものを心と身体がやりはじめるのかな。だから、より子供的な感覚に戻ってきて、絵本的な世界に感銘を受けるようにもなるのかもしれません。

 それは芸術的に高度だから、幻想的で夢幻的だからというよりも、むしろ真逆な理由。こっちの方がよりリアルだから、です。本当の世界って、こういうもんだろ?ってなんとなく分かる気がするので、より惹かれるのかもしれません。

ビジュアル

 この曲に全く欠落しているものがあります。ビジュアルです。音楽なんだから当たり前なんですけど。

 アート三大要素、サウンド、言葉に並んでビジュアルが来るのですが、この原曲をもとに世界の人達がYouTubeで絵をくっつけて作品化しています。

 まず、この歌詞世界を忠実に描いているのが、次の作品です。なぜか静止画像がアルバムジャケットになってますけど、本来の絵は手描きのいかにも絵本という絵です。



 次↓は、原曲だけではなく、カバーして自分らの世界を作ってます。Alifieという、たぶんフランスのバンドだと思いますが、まだまだ無名でほとんど検索しても出てきません。でも、ビジュアルも音もいいですよ。多分に冗長なきらいはあるけど、がんばれ〜って感じ。


 次↓は、日本の方の作品のようです。メイン部分だけではなく完全12分全部載せてくれてます。最初のボーカルの部分は、ヴォカロイドではなく"AquesTone”というフリーのソフトを使っているそうです。




 そういえば、”バッファロー66”というアメリカのB級(だと思うよ、人気はあるみたいだが)映画がありますが、ボーリング場で、突如ヒロインがムーン・チャイルドをバックにタップダンスを踊るという、そこにどういう意味があるのか?というすごいシーンがありました。YouTubeにもあります



漫画紹介


 やあ、やっと漫画紹介が出来る。

[大塚英志×樹生ナト] とでんか


 大塚英志さんって、昔から雑誌の編集やサブカル方面で論評とかやっておられる方で、今調べたらどっかの教授にまでなっておられるようです。もともとインテリさんなんだけど、食うためにあれこれ編集作業やらやっていううちに、現場のカルチャーやビジネスについて精通するようになり、地べたから這い上がってきたような現場感あふれる評論は面白いです。宮台真司さんなんかも現場性が強いと言われるけど、でもアカデミズムの中では変わり種な程度で、軸足はアカデミックですよね。だから理論的にキャッチーなものをまとめあげるのは上手なんだけど、理論が先行している気がする。大塚さんなどの現場評論は、現場に軸足があるだけに、理論的にスッキリまとめあげられないんだけど、それだけに断片断片が鋭いように思います。もっと評価されていい人だと思いますけどね、池上彰氏よりも鋭いことを言ってるんだから(てか、鋭いことを言わないで、全体の10%くらいにとどめておくのが池上さんの凄さなんかも)。

 この作品は、純粋の漫画作品としていうなら、ちょい疑問が残ります。難しすぎるし、ストーリーの展開と収集のつけかたがこなれてないし、細かくて面白いギャグが散りばめられているんだけど、整理されきってないというか。民俗学や社会学の仮説サスペンスっていう意味では「宗像教授シリーズ」と同じ系統かもしれないんだけど、漫画的なくすぐりが多すぎて逆にわかりにくくなってる気がします。

 メインテーマは「都市伝説」ですけど、これと国家規模での洗脳(民意や世論の形成過程論)、それとネットやグーグルの検索システムとが絡み合ってます。陰謀論とすれすれなんだけど、このくらいまでなら十分ありえると思います。時代的には今から数年から10年ほど古いので、連載当時はリアルタイムだった橋下現象も今なら冷静に見えるかもしれないです。

 この領域は僕も(誰でも?)興味あるところで、なんか今の日本社会が嘘臭いんですよねー。本当にそうなの?という。それはメディアの腐敗とか、支持率の捏造操作とかそんな可愛いレベルではなく、もっと根本的なところ、人類痴呆化計画というか、モノを考えさせないように巧妙にプログラミングさせ(れ)ている感があって。昔っから疑問だったんですけど、石原慎太郎とか、なんであんなに人気あるのか?その後の橋下、安倍、今の小池百合子にしても、5秒も考えたらわかりそうなものなのに、なんで?って。よく「賞味期限が切れた」とかいうけど、なにそれ?本気で言ってんの?という。そういう問題なのかよって。つまり論理的正誤ではなく、感覚的快不快が優越してるし、優越してることに疑問すら持たなくなってる。自分の親に対して賞味期限とかいうか?って。

 民俗学や社会学のあれこれの知識、特ダネとかじゃなくて、その世界では当たり前に言われている理論や検証が漫画のあちこちに出てきて面白いですよ。勉強にもなるし。都市伝説も、意図的に広められたり、噂やデマが広がる速度やパターンを検証して、大衆操作に使おうとか。ゲッペルス的な方法論は昔からやられているし、満州事変や関東軍が意識的にやってたとしても、陰謀というよりは、研究熱心・職務熱心とすら言えるくらい。昨今のネットでの工作員(政府からお金もらって世論形成の書き込みをする一群の存在)なんか常識レベルで知っておくべきだし、むしろそれをやらなかったら政府の方が怠慢なくらいで(笑)。でも、今はもうグーグルの立ち位置とか、検索アルゴリズムのいじくりかたとか、検索順位を操作することでどういう世論誘導(誤導)が出来るか、そのアルゴリズムはなにかって時代に来てると思います。西欧の世界でも、グーグルやFBへの締め付けが厳しくなってきてるし、いつ転んでも(既に転んでても)おかしくないでしょうねー。

 ということで今日はいつもよりも〜で、断片的に面白そうな部分を抜書きしてみました。ご興味のあるむきはどうぞ。僕としては、民俗学の父である柳田国男が、自分でモノを考えることが出来る国民を作るのが悲願であり、やっと普通選挙になったと思ったら感情にまかせて投票する人々をみて絶望したってくだりが初耳で面白かったです。



[城平京×片瀬茶柴] 虚構推理


 もうひとつ、都市伝説といえばこの作品でしょう。城平京さんの小説をコミカライズしたものです。

 絵柄がすごい少女漫画チックに可愛らしいし、ラブコメ的なキャラ造形や言葉のやりとりなんかも可愛らしいんだけど、ベーシックにあるのは、人々の噂の恐さです。ネット上で都市伝説はこうやって作られていく、だからそれを逆転させて消滅させるにはこうするという、推理小説ばりの高度な知的ゲームになだれこんでいきます。後半は「デスノート」の世界ですねー。

 メルヘンチックな設定が、妖怪や妖精の住む異世界とこの世の橋渡しのお姫様としてスカウトされた少女(その代償として片目片足を失う)、不老不死執念に取り憑かれた家に生まれ、代々の人体実験の末についに不老不死になってしまった青年というもの。現実と異形世界をとりむすぶチャネルが、人々の集合無意識のような想念であり、それが臨界量を超えると実体化して妖怪化するという「理屈」ですね。だからお姫様が、ネットにおける無責任な噂が徐々に一点に収縮されて怪物的なものを実体化させてしまうのに戦うという流れになります。まあ、でも、そんなに真剣に理解しなくてもいいです(笑)。おはなしとしてはそうだということで、それよりも、きれいな絵柄のラブコメチックなほのぼの感と、あとは脳味噌振り絞る知的ゲームをエンジョイすればよいかと。

→予定タイトル一覧





我ながらきれいに撮れたなーと思いきや、上辺の電線が邪魔だったりして。これさえなければ、、、難しいですよねー



これ、実物の三日月はもっともっと大きく見えてるんですよー、でも写真にすると小さくなっちゃう。望遠を使うと視界が狭くなっちゃうし、どうすんのかな。







 文責:田村



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