今週の一枚(2017/08/14)
Essay 838:増やす自信、減らす自信
取扱注意のスペックの毒物劇物性
写真は、つい一昨日撮った近所の公園(Glebe)。こういうの見ると、あー帰ってきたって実感します。
既に春の日差しで汗ばむほど(夜は未だ寒いが)。目を開けてられないくらい陽射しが強く、ガソリン給油するみたいに物理的にパワーを入れてもらってる気がします。
既に春の日差しで汗ばむほど(夜は未だ寒いが)。目を開けてられないくらい陽射しが強く、ガソリン給油するみたいに物理的にパワーを入れてもらってる気がします。
ちょっと前にFBで書いた話の延長をします。長くなるので、あそこには書けなかったこと。
それは、「自信」ってなんだ?話ですが、武器と自信の関係です。
いつものAB論分類でいえば、自信Aと自信Bみたいなものがあるのかもしれない。
このように手にしている武器が強力になればなるほど強くなっていく自信を自信Aとしましょう。装備型自信、武器型自信、そしてスペック型自信です。
僕らが生まれ育っていく過程、もしかしたら死ぬまで、このスペック型自信(=安心)の獲得過程とも言えます。徒手空拳では何にもできない無力な自分がおり、それを何とかするために、勉強して知識や技術を、そして社会へのパスポートとしてよりよい学歴を、より難関な資格を、より尊敬されそうな職を、より大きな権威や権力を身につけようとする。
装備を重厚にすることで、自分という存在を確かめ、誇らしげに思う自尊心を養い、自信がついてくるという。自信Aパターンです。
これは分かりやすいと思います。
分かり易いもなにも 僕らの日々の生活・人生の殆ど全てがこのスペック獲得競争になったりしがちですよね。入試にせよ、就活にせよ。あるいはファッションであれ、日々の話題のストックであれ、スペック換算され、ポイント計算されたりもします。○○を知っている俺はカッコいいとか、ブランド品を着こなしている私はとか、彼氏彼女がいるから、結婚してるから、子育てしてるから、品川区に住んでるから、アウディに乗ってるから、勝ち組だとかなんとか。なんでもかんでもスペック・ポイント換算して、「あなたの現在の持ち点は○点です」ってマイレージみたいな。
分かりやすいっちゃこれくらい分かり易いものはないです。そのわかり易さの上に一喜一憂して一生が終わっていくならば、それはそれで幸せな人生とも言えます。
ここで何も、そういうポイント換算方式の生き方が、人としてどうよ?チャラいとか、浅いとか、ディスる気はないです。確かにそうは思うし、そういう人とはあんまり友だちになれそうもないなーとは思うけど、それは僕の好みであって正邪の判断ではない。そーゆー価値観の人が、そーゆー人生をゴキゲンに過ごしていくのを邪魔する権利は自分には無いと思うから。
でも、そもそもそれって成立するのか?という根本的な疑問があります。人道的な正否や美醜ではなく、戦略的に成り立つのか?という、ドライでメカニカルな構造論としてです。そんなに上手くはいかんだろ?という点です。
現職においては、留学やワーホリの目的や人生相談なんぞでも頻繁に出てきます。やれスペックがないから自信に乏しく、セルフエスティームも低くなり、そこが低いから大きな戦略を立てられない。自分の「敷地」をあまりにも狭く設定しているから、長期的に積み上げていく発想が弱いとか。あるいは、実際の就職とかお金稼ぎには全くといっていいくらい実効性のない「資格」を求めてみたりとか。逆に、スペックは手に入れられるんだけど、無駄にスペックばっかり増えて、全然ポイント還元ができない(幸せになれない)悩み。オーストラリアのクレジットカードやフライバイ(Colesなどのポイントカード)みたいなもので、ポイントが溜まってそろそろ景品に変えようかと思っても、ろくに欲しい商品がない的な。はたまたどんなにスペックを積み上げても、その本質的な逃げ水構造から無間地獄に陥るとか。
逆に、どうも見てると、非スペック的なものの方が実質的に良い場合も多々あります。例えば、名家のお嬢様が名もない出入りの職人と恋に落ち、だけどお父様は激怒!二人で手に手をとって駆け落ちして、知らない町で二人で細腕繁盛記という明治大正ロマン的なパターンって意外と多いし、持ちが良い。
まあ、同スペックで上手くいってる場合も多々あるし、スペック差が亀裂を招く場合もまたありますから、一概にはいいません。しかし、人間関係であれ、職であれ、非スペック的な結合の方が、結合力が強い気がする。友だち関係なんかが一番分かりやすいかもしれないけど、同じレベルの学校や職場の友だちもいいんだけど、小中時代の地元の友人や幼馴染のように、大人になってからの社会階層がまるで違ってしまっても、それでも仲がいいケースもありますよね。大人になった後でも、非スペック的な世界で出会う場合もあります。それこそ海外在住同士、ワーホリ同士でお互い苦労している中で出会ったら、日本での立場が違っててもあんまり関係なかったりもしますし、戦場における戦友なんかもそうかもしれない。国際結婚でもそれぞれの本国におけるスペック位置なんかあまり関係ない、というよりも理解できないとか。国に帰ったらいろいろカーストやら宗教やらでシガラミがあるんだよーとか言われても、いまいちピンとこないとか。
極論を言えば、一番の友だちはペットの犬とか猫だって人もいるでしょう。でも犬とか猫ってもう完全にスペックを超越してますよね。ウチのタローは○○大卒で〜なんてことはない。関係ない。非スペック的な結合の方が意外と強いという極端な例。
もっとも、だからといってスペックやその獲得を全否定する気は毛頭ないです。あれはあれでいいのよね。でも常にそれだけで成立するか?と言われたらNOと言わざるをえないし、それなりの構造的な問題もあると思います。だから「ご利用は計画的に」「健康のために吸い過ぎに注意しましょう」みたいな一定のルールやら節度やらはあるだろうし、その構造はなんなのか、それを次に考えてみます。
相対比較によって価値が生じるスペック、、、殆どのものがそうだと思いますが、相対地獄、無間地獄が出てきます。これはもう構造的にそうなのだ。例えば、僕らの時代では、どっかの法学部で司法試験をガチで狙っているというだけで、もう尊敬の対象(あるいは変人のレッテル)でした。なんせ関関同立レベルでも法学部100人いたら受かるのは一人いるかどうか、それも現役(四回生まで)だったらほぼゼロ。日本中の法学部でいえば、合格者ゼロ、それも創立以来ゼロって学部の方が多かったと思います。だからガチでやるというだけで、すげー存在だったわけですな。でも、研究室とかに入ると全員がそれだし、苦節10年の古豪の野武士みたいなのがゴロゴロしてるわけですから、下っ端も下っ端になるわけです。そしていよいよ合格すると、大学内では神の如き尊敬を受けるわけで、一瞬我が世の春を謳歌するわけですが、司法研修所にいったら全員が合格者。そしてその中で、あいつは出来るとか、出来ないとかいう相対評価が始まるわけです。それでもまだヒヨコ同士の可愛い比較に過ぎません。これが実務に入ると全世代の中に放り込まれるわけで、歴代の綺羅星のような天才秀才がゴロゴロいるわけです。この人の書いた教科書や論文で勉強しましたって人がライバルになる。その中で、あいつは出来る、こいつは無能と、無慈悲にバッサバッサ切られるわけですよ。実力社会ってそんな修羅の世界で、無能な奴に人権はないですからねー。そこでの卑小感というか「小物感」は凄いもので、生まれてこの方こんなに自分が吹けば飛ぶような小物だと思えたことはないってことになります。
何をいいたいかというと、一つの優越感なり自信を得るためにスペックを一つ獲得すると、もれなく2つの劣等感と欠落感を得られますよってことです。上に行けば行くほどミジメさ全開です。あー、学部の頃にピヨピヨさえずっていた平和な時代が懐かしいわーって。これはどんな世界でも同じだと思いますよ。難関突破すればするほど、いかに自分が取るに足らない凡庸な雑魚キャラなのか思い知らされるだけ。スペックを上げると自信がつきますか?つきませんよー、逆にどんどん自信がなくなりますよーという皮肉な話です。
これねー、比較の問題でやってる以上、もう構造的にどうしようもないんですよね。比較論でいく以上、上には上があるわけで、最頂点に立たないとダメです。しかし多分、最頂点にたったとしても、今度は歴史的に比較されてしまい、究極的には歴代人類の最頂点にでも立たないとダメ。こんなの無理。
そんなこといっても一般庶民からみたら雲の上でしょうとか言うかしらんけど、その頃になったら下見てどうとか思えないですよ。何の慰めにもならん。そもそも後述の理由でそれが「下」とも思えないしね。それより何より、その世界に入ったら、日常の99%はそういうバケモノみたいな連中と付き合うわけですよね。多少の喧嘩自慢がヤンキー校や暴力団に入りましたみたいなもので、そこでは下っぱのパシリ。日常生活ではそれが殆どなんです。弁護士なんかまだ独立自営だからまだマシだけど、これがお医者さんで大きな大学病院の組織とかにはいったら、大変だろうなー、俺はやりたくないなーって思っちゃいますね。官僚で出世しても、政治家になっても、大物がゴロゴロいるんだから、そいつらの前に引き出されたら無力な米つきバッタでしょ?彼らが地位とかに執着するのもわからんではないですよ。だって、一般世間の人たちよりもミジメな気持ちや屈辱感は何倍も味わってるんだから、モトを取らなきゃ死んでも死にきれないだろうなー。
金持ちになったらなったら、上には上がいるしね。1億もったら、付き合うのは2億、10億持ってる連中だし。玉の輿に乗ったら乗ったで、つきあうのは玉の輿ではない本家本元の令嬢あがりの連中だしね。
そうなると、古い話で恐縮ですが、「巨人の星」で星飛雄馬がいっとき野球人形だとかオズマに言われてガーンとなって、野球以外に取り柄がないダメ人間かのように劣等感に苛まれて、馬鹿にみたいに遊び狂ったりするという痛い話になるわけですわ。
早い話、ガリ勉ばっかやってると点数はよくても、今度はガリ勉だという自分のあり方が強烈な劣等感になるんですよねー。頑張って勉強してずば抜けた成績を取るのはいいんだけど、横では同年代の連中が楽しそうに遊んでるわけです。ふん、なんだチャラチャラしやがって、馬鹿だね、将来のことも考えず遊んでるからやがて奴隷階級に落ちていくんだ、先の見えない奴らは度し難いよねー、ふん、とか思うけど、でも本当は羨ましいし、そうやってリア充ライフを楽しんでいるのに劣等感を抱くのよね。でもって勉強してると抑圧悶々としてきて、一層それが誇大妄想みたいになってくる。本当のリアルは、そんな誰もが楽しくやってるわけではなく、誰もがそれなりに悩んだり困ったりしてるんだけど、悶々妄想がひどくなるから、自分以外の人々が全員、毎日、セックスやりまくりの酒池肉林ライフを送ってるかのように思う。あー、畜生、でも俺なんかダサイからそこに行っても笑いものになるだけで、立ち直れないくらい傷つくんだろうなとか思ってさらに悶々は加速するという。
まあ冗談めかして書いてますけど、似たり寄ったりだと思いますよ。僕だってそう思ったもん。俺は人として重大な欠落があるとか(まあ、それは正しいかも)、一生一人前にはなれないんだとか。でも、学部の1−2年のときは、バンドやったり、下宿で飲んだり騒いだり、彼女だっていたしデートもしてたし、別にそんな何もないわけでもなかったんだけど、そうであってさえ、いざ自分が図書館にこもって勉強やりだしたら、周囲がそう見えるのよね。不思議ですよね、アホですよね。
何の話かというと、一つの専門性に埋没すると一般性に対して大いなる喪失感を抱くのですよ。誰もがそうなるとは言わないけど、でもそういうパターンは多い。「逃がした魚は大きい」というけど、自分が得られなかった物事については、実物大の3倍くらい大きく感じるわけですよ。若い頃から気楽な放浪生活で、海外にも50カ国行きました〜て人は、さぞやマイペースで自信満々かと思いきや、真面目に大学いって真面目に就職してる人たちに対して、どっかしら後ろめたい、どっかしら劣等感を抱いたりもするでしょう。
で、先程「後述の」と書きましたが、それなりのスペックを得て、下々から見たら雲の上みたいになったとしても、それが雲の上とは思えないし、他の人が「下」とも思えないのですよ。すごい高い山の頂点に立ってる孤高の存在〜とか思っていながら、同時に、すごい深い井戸の底に落ちているような気もするのですよ。まあ、もう、到底普通の人達のゼネラルで広範な知識、技術には太刀打ちできんわー、○○しか取り柄がないわー、半端な人間なんだーみたいに思えたりもするわけです。
厳しい受験を終えて入学したら反動で遊び呆けるとか、苛烈な仕事をしてるから逆に趣味に没頭したくなるとか、不倫やら風俗に燃えるとかありますけど、あれもストレス解消とか色々言われつつも(そうなんだろうけど)、一つには自分が一つの狭い形に押し込められるのに対する動物的な反発感情なのかもしれないです。なんか自分がグニャリとした変な形に固定されそうで、服に変なシワがついてしまうのを嫌うように、もっと全方位に開かれた十全なものになりたいという潜在欲求。主婦の火遊び不倫やら売春やらも、それがしたいというよりは、一つの形に押し込められる本能的な忌避感みたいなものがベースにあるような気がします。それがどんな形で出てくるかによって、拍手されたり後ろ指さされたりはするだろうけど、構造は同じだと。
その意味で、海外に来られるのはいい機会だと思いますね。これまであんまり語られなかったことだけど、押し込められ偏った自分になっていくことへのリカバーというか、人間的に得ておくべき「他の領域」全般を満遍なく得られますからね。現代の分業社会では、仕事も生活も狭いコクピットに座って高度な操作をするような感じになりがちだから、外に出てフリーな環境で、今晩のメシを作るためにスーパーで買い物かご片手にしてみたり、近所付き合いとかしてみたり、日頃やってなかった本やら映画やら見るとか、どっか行くとか、誰かと暮らしたり揉めたり、そこでいちいち「あー、俺って全然ダメだわー」と気づいて、そして十全たる自然球形になっていくという。
そもそもなんでスペックを上げたいのか?といえば、ぶっちゃけた話、「馬鹿にされたくない」「すげーって言われたい」という子供のような感情でしょ?それか、親とか周囲に「巨人の星になるんだ」みたいに頭ごなしに命令されてすれが刷り込まれたとかさ。
本当にやりたいことをやって幸せになってるときって、あんまスペックがどうのとか思わんもん。子供が無心でお絵かきしているときとき、好きで好きでどうしようもない人と一緒に歩いているときとか、だから偉いとか、だから恥ずかしいとかそんなこと思わんもん。相対比較もクソもないでしょうしね。
だからスペックが気になるというのは、どっかしら手段性があり、例えばなにか不愉快の状況(誰かに馬鹿にされる、親に怒られる)から逃れるために、その手段としてスペックをゲットするという一種の「対症療法」だと思うのですよ。雨が降ってて濡れると不愉快だから、傘(スペック)をゲットするという構造。冒頭の事例で、ジャングルで不安だから、武器を増やしていくのも同じことです。武器が好きだから増やしてるのではなく、襲われたくないから、不快な目にあいたくないから、そうなる不安があるから、対抗手段としてスペック(武器)を得ましょうという。
でもそれって、本来の自分の姿とは全く関係ないですよね。「傘をさしてる俺」というのがアイデンティティになるわけもない。たまたま雨が降ってるからそうしているだけの話でしょ。でも、愚かなことに、傘がアイデンティティになりがち。もともとは「降りかかる火の粉は払う」ためにやってたんだけど、「火の粉を払ってる私」がアイデンティティになってしまう。これが問題ですよね。
ニートだと肩身が狭いとか、恥ずかしいとか、親がうるさいとかいう「火の粉」があって、それを振り払うために仕事を得たり、それもキツい正社員になったりするわけだけど、それって火の粉を払う作業なだけでしょ。そして火の粉を払ってるだけで自己が充実したり、幸せになったりするってもんでもないでしょう。
そりゃ、やったらたまたま面白かったってことはあるでしょう。それで自分が充実したり、達成感や生きがいを感じることはあるでしょう。でも、それはたまたまであって、本質ではない。いや、前回書いたように、それが生きがいなり燃焼なりになるのは、自我の没入度合に比例するのであって、対象なんか何でもいいのだ、やってりゃそのうち面白くなるよって意味では本質なのかもしれない。いや、実際そうだよ、何でもいいのだ。でもね、やっぱそれって結果オーライというか、だったら最初からそう言えよって気もします。
これまで日本社会で語られ、正しいとされてきた生き方は、コレでしょ?まず、恥ずかしいとか世間体が悪いとか普通じゃないとか「火の粉」をばーっと浴びせて、まるで江戸時代の拷問の「蓑踊り」のように蓑を着せて火をつけて焦らせる。その上で、なんでもいいからやれって脅迫して、やらせて、な、ほらやってりゃ面白くなるだろ?これで君も立派な社会人だーってやり方、おかしくないか。
津々浦々でそんなことばっかやってたらどうなるか?人心が荒廃するでしょうよ。なんでもいいからガムシャラにやってる奴が一人前とされ、それに「え?」と戸惑ったりする人は総じてゴミ扱いしてネガ地獄に叩き落とし、一方頑張ってる人も本質的な無目的な頑張りだけだから、いつかは泳ぎ疲れてしまう。逆にそういうことに疑問を感じずガンガンいく奴もいるし、上にあがるだろうが、そうなると火の粉を払う技術が上手いだけ、スペック(金とか地位とか)を得るのが上手いだけどの奴が権力を握り、金さえあれば、地位さえあれば何してもいいんだって話になって、ルールも道理も踏みにじるようになる。
何がおかしいの?というと、最初に「火の粉ありき」みたいな設定がおかしい。そんな強迫観念に満ち満ちた世界観がまず間違ってる。スペックが無いと生きてるだけで恥ずかしいような気分にさせるという初期設定そのものが変だと思いますよ。
そりゃこの世には「火の粉」はありますよ。酸素がないと死ぬとか、水や食料やカロリーを摂取無いとダメだとかありますよ。でも、そういう物理的な初期設定なら納得できる。話が具体的だし、問答無用で生理的に理解できるからね。でも、抽象的で観念的な火の粉は、それが抽象的であるだけに解決しにくい。てか、そんなの単に「お約束」のルールに過ぎない。けん玉が上手だったらエリートだとか、逆立ちしてラーメン完食できたら賞賛されるとかいうルールでしょ。しかも、お約束といいながら、自分は約束した記憶はないんだから、一方的な押し付けでしかない。それでもまだルールが合理性を持てばいいけど、その合理性についての釈然とした説明もない。言われたとおりにやってりゃいいんだだったら、マトモな人間だったらムカつきますよ。
すまん、ついムキになってしまった(笑)。これは僕が十代の頃に思ったことだから、感情が蘇るのよね。ざけんじゃねーよって。だもんで、僕自身は、こういった押し付けとか理由ナシの強制とか全部ひっくるめて「火の粉」として捉えて、自分にとっての害悪だと認定し、それを振り払うための戦略はどうしたらいいか、という形で整理しました。極論すればこの社会そのものが自分にとっての害悪だという。前にも書いたが、全世界を敵に廻したゲリラ活動をやるっきゃないべと。が、そこまで我が強くて、へそ曲がりではない人々、多くの素直で善良な人達は、害悪としての火の粉認定ではなく、それが人の道だとか、道義的なものとか誤解しちゃう。そこから色々問題が生じるような気がしますです。
野獣が出てきて銃で撃って勝ちました。今度はより弱い武器、例えばナイフを振り回して取っ組み合ってやっつけましたとなったら、銃で勝ったときよりも自信がつきますよね。スペックを落としても出来たという自信。それが、今度は石ころひとつでやって、最後には素手でやっても出来たとなったら、かなり自信はつきます。スペックに頼らなくても出来たという自信はかなり強いし、より本物の自信になる。
より強度の装備を身につけることで生じる自信Aと、より弱い装備で生じる自信Bはかなり対極的です。Bの方がより本物だというのは、より自分に近いからです。自信Aは、自分が弱いと思ってるから(自信がないから)、より強度の装備を求めるわけで、装備スペックが強ければ強いほど、それだけ生身の自分に自信がないことにほかならない。ある意味、自信Aを増やせば増やすほど、自信Bは相対的に減ってくるという反比例の関係に立つのかもしれません。
さきほど、あるスペックを得るために専門領域に没頭すればするほど、自分が偏ってくる気がする、一般人の方がずっと偉いかのように見えてくるのと構造は同じだと思います。スペックが高まるほど「スペックが無ければ何も出来ない無力な自分」みたいな感覚が反射的に生じるのでしょう。剣を振り回しているうちにはいいんだけど、なんかの拍子で剣が折れたりしたら、途端に心細くなるという。自分が大きなダンプを運転してるときは、一般車両が雑魚に見えたりするが、車から降りて喧嘩するとかになったら心細くなる。大企業にいて自信があったのが、いざやめてただのオッサンになったら途端に無力な存在に感じるようなものです。
だから本当のことをいったら、自信Aがある程度いったら、今度は自信Bをやりたくなるようにも思います。少なくとも僕はそうでしたけどね。あんな日本におって先生とか呼ばれ続けて、なんだかんだ年数経たら、どんどん保守的というかスペック=自分みたいになっていきそうで、それがヤバイなと思った。なんでヤバイかといえば、うーん、なんだろうな、そんなの自分じゃねーよというか、そんな自分は好きじゃないというか、変になっちゃいそうで。だもんで、それまでの肩書も資格も一切通用しないところ、自分以外の一切の属性のないところで何かやって自信Bをつけないとおかしくなりそうな気もしました。
かといって、ずっと同じ仕事やポジションにいる人が虚空のスペックにしがみついているだけとか不遜なことを言うつもりは毛頭ないです。またそれは事実と異なる。スペックがありながらもスペックに頼らず、スペックを使いこなしていい仕事してる人、それでも人間として円満な人は沢山いますし、知ってます。ただ、自分の場合、なんかの巡り合わせだと思うけど、バランス悪いなー、ここままじゃダメだなーと思ったというだけのことです。
ちなみに今はどうかというと、自信AもBもどうでもいいですけどね。なんかもうどーでも良くなってきて、自信?ねーよそんなもん、って感じです。やりたいことはやりたいからやるし、やらなきゃいけないことはやらなきゃいけないからやるし、どっちにしろ「やる」だけのことで、そこに自信とか別に関係ないかなー、結論に差はないし。ただ、「自信がないからやらない」というのは減ってきたかも。減ってきたというよりも「ありえない」って感じ。だって、やりたいか(意欲) or やるべきか(必要性)で決まるわけであって、そんなの自信とは関係ないもんね。自信がなくてもやりたかったらやればいいし、自信がなくてもやらねばならないことはやるしかないでしょ?あんまカンケーないよなーってのが、段々経験とともに根付いてきたという感じです。事実そうだし。
ただ、そんなふうに思えるのは、ある程度数こなしてからの話でしょうね。理屈でわかるもんでもないし。
ただし、繰り返しになりますが、長期使用をしてると中毒になる劇薬ですから、ほどほどに。まあ、短期的なニトロエンジンみたいな爆発力として利用して、その勢いでスペックを得て、そこそこ達成感なり自慢感情を満たしたら、とっとと次にいったらいいです。感じとしては、スペックなんぞ「しょせんは馬鹿な世間へのコケオドシ」くらいに割り切っておかれたらいいかと。あとは前回も言ったけど、純然たるゲームとして楽しむだけ。
その場合は、逆に自信Bから先に入った方が早いです。あなたが30歳までだったらとりあえずワーホリで来いとか、その種のことで、自信Aに関する属性情報が一切無意味になる環境、自分以外に何もない環境でやるといいです。そこではA情報が消えますから、純粋にB自信がつきます。Bがついたらね、もうAなんか要らないもん。まあ「コケオドシ(金看板)」的に、なんかあった方が商売上有利とかあるかしらんけど、それでも装飾レベルだなー。もともとAなんか着火剤くらいの利用法しかないんだからさ。
この感覚がわかりにくいから、話を逆にします。インドで高カーストだったC君がオーストラリアや日本にやってきて、俺はカーストが高いんだからとか言ってても、知らねーよそんなの、うざいよ、それより早く金返せよって話になるでしょ?本国では大事な自信Aになり、重要な属性情報だけど、国が違ったら、そんなもん知ったこっちゃねーよです。逆に、カンボジアから来たD君は、地元では有名な大学を落ちました、ああ俺はなんてダメな奴なんだとネガループ満載です。でも、それも知ったこっちゃねーよ、カンボジアの進学校なんか興味ねーよで、おーいD君、今度飲み会あっからお前も来いよ、だってお前と一緒にいるとなんか楽しいんだよね、良い奴じゃん、こないだも皆の洗濯物取り込んでおいてくれただろ、ありがとなー、うれしかったぜーってな感じで受け入れられるわけですよ。一個の人間としてちゃんと評価される、受け入れられるってことがどれだけ自信になるか、それは純粋な自信Bになりますから、それが満たされていけば、Aなんかどうでもいいです。知ったこっちゃねーよって。
あー、今回こそ漫画紹介を復活させようと思ってたんですけど、なんぼなんでも長すぎるのでまたカットします。次回こそ。あれからまた溜まって溜まって、、、(笑)
文責:田村
それは、「自信」ってなんだ?話ですが、武器と自信の関係です。
いつものAB論分類でいえば、自信Aと自信Bみたいなものがあるのかもしれない。
自信Aとスペック主義
自分が今、恐ろしい猛獣のいるかもしれないジャングルにいるとします。いつ襲われるかわからない。不安です。そこで、手頃な石を見つけました。襲われそうになったときこの石を投げたりすれば多少の役には立つかもしれない。ちょっとだけ不安は和らぎます。次に、小ぶりのナイフをみつけました。取っ組み合いになってもこれさえあれば、なんとかなるかもしれない。不安はもう少しやわらぎます。さらにズッシリした大きな剣をみつけました。お、これはいいぞ。ちょっと希望の光が見えてきました。そして小型ピストルと弾薬が、マグナム大口径の銃が、ウェビザーのライフルが、火炎放射器が、バズーカ砲が、戦車が、戦闘ヘリが、、、と装備を重厚にすればするほど不安は薄らぎますし、自信もついてきます。このように手にしている武器が強力になればなるほど強くなっていく自信を自信Aとしましょう。装備型自信、武器型自信、そしてスペック型自信です。
僕らが生まれ育っていく過程、もしかしたら死ぬまで、このスペック型自信(=安心)の獲得過程とも言えます。徒手空拳では何にもできない無力な自分がおり、それを何とかするために、勉強して知識や技術を、そして社会へのパスポートとしてよりよい学歴を、より難関な資格を、より尊敬されそうな職を、より大きな権威や権力を身につけようとする。
装備を重厚にすることで、自分という存在を確かめ、誇らしげに思う自尊心を養い、自信がついてくるという。自信Aパターンです。
これは分かりやすいと思います。
分かり易いもなにも 僕らの日々の生活・人生の殆ど全てがこのスペック獲得競争になったりしがちですよね。入試にせよ、就活にせよ。あるいはファッションであれ、日々の話題のストックであれ、スペック換算され、ポイント計算されたりもします。○○を知っている俺はカッコいいとか、ブランド品を着こなしている私はとか、彼氏彼女がいるから、結婚してるから、子育てしてるから、品川区に住んでるから、アウディに乗ってるから、勝ち組だとかなんとか。なんでもかんでもスペック・ポイント換算して、「あなたの現在の持ち点は○点です」ってマイレージみたいな。
分かりやすいっちゃこれくらい分かり易いものはないです。そのわかり易さの上に一喜一憂して一生が終わっていくならば、それはそれで幸せな人生とも言えます。
ここで何も、そういうポイント換算方式の生き方が、人としてどうよ?チャラいとか、浅いとか、ディスる気はないです。確かにそうは思うし、そういう人とはあんまり友だちになれそうもないなーとは思うけど、それは僕の好みであって正邪の判断ではない。そーゆー価値観の人が、そーゆー人生をゴキゲンに過ごしていくのを邪魔する権利は自分には無いと思うから。
でも、そもそもそれって成立するのか?という根本的な疑問があります。人道的な正否や美醜ではなく、戦略的に成り立つのか?という、ドライでメカニカルな構造論としてです。そんなに上手くはいかんだろ?という点です。
スペックだけで上手くいくのか?という疑問
事実、うまくいってない例をよく見てきてるからです。前職でやってたときも、離婚だの破産だの人生の膿を出すような局面では、こういうスペックが大した役には立ってない。それどころかスペックが災いを引き寄せたり、スペックそのものが問題の根源だったりもします。例えば、スペックに惹かれて結婚したけど人間的な波長が全然合わないから破綻しましたとか、スペックに惹かれて玉の輿に乗った奥さんの浪費癖が激しすぎて生活破綻、離婚や破産ってケースもあります。高スペックが災いして遺産分割で骨肉の争いをするのは世の常ですし、スペックにまつわる犯罪も多い。なんかトータルで見てると、プラスよりもマイナスの方が大きいんじゃないか?これって禁断の果実や麻薬みたいなもので、そのときは気持ちいいけど、あとで身を滅ぶすんじゃないの?と。現職においては、留学やワーホリの目的や人生相談なんぞでも頻繁に出てきます。やれスペックがないから自信に乏しく、セルフエスティームも低くなり、そこが低いから大きな戦略を立てられない。自分の「敷地」をあまりにも狭く設定しているから、長期的に積み上げていく発想が弱いとか。あるいは、実際の就職とかお金稼ぎには全くといっていいくらい実効性のない「資格」を求めてみたりとか。逆に、スペックは手に入れられるんだけど、無駄にスペックばっかり増えて、全然ポイント還元ができない(幸せになれない)悩み。オーストラリアのクレジットカードやフライバイ(Colesなどのポイントカード)みたいなもので、ポイントが溜まってそろそろ景品に変えようかと思っても、ろくに欲しい商品がない的な。はたまたどんなにスペックを積み上げても、その本質的な逃げ水構造から無間地獄に陥るとか。
逆に、どうも見てると、非スペック的なものの方が実質的に良い場合も多々あります。例えば、名家のお嬢様が名もない出入りの職人と恋に落ち、だけどお父様は激怒!二人で手に手をとって駆け落ちして、知らない町で二人で細腕繁盛記という明治大正ロマン的なパターンって意外と多いし、持ちが良い。
まあ、同スペックで上手くいってる場合も多々あるし、スペック差が亀裂を招く場合もまたありますから、一概にはいいません。しかし、人間関係であれ、職であれ、非スペック的な結合の方が、結合力が強い気がする。友だち関係なんかが一番分かりやすいかもしれないけど、同じレベルの学校や職場の友だちもいいんだけど、小中時代の地元の友人や幼馴染のように、大人になってからの社会階層がまるで違ってしまっても、それでも仲がいいケースもありますよね。大人になった後でも、非スペック的な世界で出会う場合もあります。それこそ海外在住同士、ワーホリ同士でお互い苦労している中で出会ったら、日本での立場が違っててもあんまり関係なかったりもしますし、戦場における戦友なんかもそうかもしれない。国際結婚でもそれぞれの本国におけるスペック位置なんかあまり関係ない、というよりも理解できないとか。国に帰ったらいろいろカーストやら宗教やらでシガラミがあるんだよーとか言われても、いまいちピンとこないとか。
極論を言えば、一番の友だちはペットの犬とか猫だって人もいるでしょう。でも犬とか猫ってもう完全にスペックを超越してますよね。ウチのタローは○○大卒で〜なんてことはない。関係ない。非スペック的な結合の方が意外と強いという極端な例。
もっとも、だからといってスペックやその獲得を全否定する気は毛頭ないです。あれはあれでいいのよね。でも常にそれだけで成立するか?と言われたらNOと言わざるをえないし、それなりの構造的な問題もあると思います。だから「ご利用は計画的に」「健康のために吸い過ぎに注意しましょう」みたいな一定のルールやら節度やらはあるだろうし、その構造はなんなのか、それを次に考えてみます。
スペック主義の構造的問題
相対構造と逃げ水構造
多くのスペックは、相対比較の構造を取ると思います。例えば、一流大学卒というスペックを得る場合、それが「一流」であるというために、二流、三流があるわけで、あくまで比較の問題です。比較して初めてスペックの価値がでる。今では「正社員」ということに、一種のブランドやスペック価値が出てきたりしますが、その昔はそんなもん無かったです。なぜって全員が正社員だったからです。パートやバイトくんはいたけど、派遣という存在がなかった。では、その頃は全員が正社員というスペックで自信に満ち溢れていたか?というと、そうではない。スペック価値そのものが存在しなかったので、リアルタイムの実感としていえば「しがないサラリーマン」でしかなかった。相対比較によって価値が生じるスペック、、、殆どのものがそうだと思いますが、相対地獄、無間地獄が出てきます。これはもう構造的にそうなのだ。例えば、僕らの時代では、どっかの法学部で司法試験をガチで狙っているというだけで、もう尊敬の対象(あるいは変人のレッテル)でした。なんせ関関同立レベルでも法学部100人いたら受かるのは一人いるかどうか、それも現役(四回生まで)だったらほぼゼロ。日本中の法学部でいえば、合格者ゼロ、それも創立以来ゼロって学部の方が多かったと思います。だからガチでやるというだけで、すげー存在だったわけですな。でも、研究室とかに入ると全員がそれだし、苦節10年の古豪の野武士みたいなのがゴロゴロしてるわけですから、下っ端も下っ端になるわけです。そしていよいよ合格すると、大学内では神の如き尊敬を受けるわけで、一瞬我が世の春を謳歌するわけですが、司法研修所にいったら全員が合格者。そしてその中で、あいつは出来るとか、出来ないとかいう相対評価が始まるわけです。それでもまだヒヨコ同士の可愛い比較に過ぎません。これが実務に入ると全世代の中に放り込まれるわけで、歴代の綺羅星のような天才秀才がゴロゴロいるわけです。この人の書いた教科書や論文で勉強しましたって人がライバルになる。その中で、あいつは出来る、こいつは無能と、無慈悲にバッサバッサ切られるわけですよ。実力社会ってそんな修羅の世界で、無能な奴に人権はないですからねー。そこでの卑小感というか「小物感」は凄いもので、生まれてこの方こんなに自分が吹けば飛ぶような小物だと思えたことはないってことになります。
何をいいたいかというと、一つの優越感なり自信を得るためにスペックを一つ獲得すると、もれなく2つの劣等感と欠落感を得られますよってことです。上に行けば行くほどミジメさ全開です。あー、学部の頃にピヨピヨさえずっていた平和な時代が懐かしいわーって。これはどんな世界でも同じだと思いますよ。難関突破すればするほど、いかに自分が取るに足らない凡庸な雑魚キャラなのか思い知らされるだけ。スペックを上げると自信がつきますか?つきませんよー、逆にどんどん自信がなくなりますよーという皮肉な話です。
これねー、比較の問題でやってる以上、もう構造的にどうしようもないんですよね。比較論でいく以上、上には上があるわけで、最頂点に立たないとダメです。しかし多分、最頂点にたったとしても、今度は歴史的に比較されてしまい、究極的には歴代人類の最頂点にでも立たないとダメ。こんなの無理。
そんなこといっても一般庶民からみたら雲の上でしょうとか言うかしらんけど、その頃になったら下見てどうとか思えないですよ。何の慰めにもならん。そもそも後述の理由でそれが「下」とも思えないしね。それより何より、その世界に入ったら、日常の99%はそういうバケモノみたいな連中と付き合うわけですよね。多少の喧嘩自慢がヤンキー校や暴力団に入りましたみたいなもので、そこでは下っぱのパシリ。日常生活ではそれが殆どなんです。弁護士なんかまだ独立自営だからまだマシだけど、これがお医者さんで大きな大学病院の組織とかにはいったら、大変だろうなー、俺はやりたくないなーって思っちゃいますね。官僚で出世しても、政治家になっても、大物がゴロゴロいるんだから、そいつらの前に引き出されたら無力な米つきバッタでしょ?彼らが地位とかに執着するのもわからんではないですよ。だって、一般世間の人たちよりもミジメな気持ちや屈辱感は何倍も味わってるんだから、モトを取らなきゃ死んでも死にきれないだろうなー。
金持ちになったらなったら、上には上がいるしね。1億もったら、付き合うのは2億、10億持ってる連中だし。玉の輿に乗ったら乗ったで、つきあうのは玉の輿ではない本家本元の令嬢あがりの連中だしね。
専門性の欠落感
とあるスペックを水準以上に極めようとすると、そこにエネルギーを集中するから、他の領域については一般人以下になってしまったりします。高校くらいまでの子供レベルだったら、スポーツ万能成績優秀という「ピッチャーで四番」みたいなオールマイティが存在しうるけど、一定以上のスペック水準になったらそんなの通用しない。プロ野球にピッチャーで四番なんて化物が存在しないのと同じことで、一定期間、狭い領域のなかで鬼のように打ち込まないとダメです。だから、他の領域がお留守になる。そうなると、古い話で恐縮ですが、「巨人の星」で星飛雄馬がいっとき野球人形だとかオズマに言われてガーンとなって、野球以外に取り柄がないダメ人間かのように劣等感に苛まれて、馬鹿にみたいに遊び狂ったりするという痛い話になるわけですわ。
早い話、ガリ勉ばっかやってると点数はよくても、今度はガリ勉だという自分のあり方が強烈な劣等感になるんですよねー。頑張って勉強してずば抜けた成績を取るのはいいんだけど、横では同年代の連中が楽しそうに遊んでるわけです。ふん、なんだチャラチャラしやがって、馬鹿だね、将来のことも考えず遊んでるからやがて奴隷階級に落ちていくんだ、先の見えない奴らは度し難いよねー、ふん、とか思うけど、でも本当は羨ましいし、そうやってリア充ライフを楽しんでいるのに劣等感を抱くのよね。でもって勉強してると抑圧悶々としてきて、一層それが誇大妄想みたいになってくる。本当のリアルは、そんな誰もが楽しくやってるわけではなく、誰もがそれなりに悩んだり困ったりしてるんだけど、悶々妄想がひどくなるから、自分以外の人々が全員、毎日、セックスやりまくりの酒池肉林ライフを送ってるかのように思う。あー、畜生、でも俺なんかダサイからそこに行っても笑いものになるだけで、立ち直れないくらい傷つくんだろうなとか思ってさらに悶々は加速するという。
まあ冗談めかして書いてますけど、似たり寄ったりだと思いますよ。僕だってそう思ったもん。俺は人として重大な欠落があるとか(まあ、それは正しいかも)、一生一人前にはなれないんだとか。でも、学部の1−2年のときは、バンドやったり、下宿で飲んだり騒いだり、彼女だっていたしデートもしてたし、別にそんな何もないわけでもなかったんだけど、そうであってさえ、いざ自分が図書館にこもって勉強やりだしたら、周囲がそう見えるのよね。不思議ですよね、アホですよね。
何の話かというと、一つの専門性に埋没すると一般性に対して大いなる喪失感を抱くのですよ。誰もがそうなるとは言わないけど、でもそういうパターンは多い。「逃がした魚は大きい」というけど、自分が得られなかった物事については、実物大の3倍くらい大きく感じるわけですよ。若い頃から気楽な放浪生活で、海外にも50カ国行きました〜て人は、さぞやマイペースで自信満々かと思いきや、真面目に大学いって真面目に就職してる人たちに対して、どっかしら後ろめたい、どっかしら劣等感を抱いたりもするでしょう。
で、先程「後述の」と書きましたが、それなりのスペックを得て、下々から見たら雲の上みたいになったとしても、それが雲の上とは思えないし、他の人が「下」とも思えないのですよ。すごい高い山の頂点に立ってる孤高の存在〜とか思っていながら、同時に、すごい深い井戸の底に落ちているような気もするのですよ。まあ、もう、到底普通の人達のゼネラルで広範な知識、技術には太刀打ちできんわー、○○しか取り柄がないわー、半端な人間なんだーみたいに思えたりもするわけです。
偏ることへの本能的反発
そして又、それが単なる気の迷いではない部分が悩ましいところです。一つの領域に打ち込む以上、他がおろそかになるのは事実だし、実際それで「偏った」ものの見方や、人間になってしまうのも事実だと思います。大きな円を描くような、円満でゼネラルなものにはならない。僕が永住権取ってからのしばらくは、車の修理やら、家の修繕やら、買い出しやら、自分でカレイを五枚におろしたり(ケーキまで作ったもんな)、全然やってなかったPCの基礎やら、別に特技にもメシの種にもならないことをせっせと3年くらいやってたのは、このゼネラル願望があったからだと思います。そもそもオーストラリアにやってきたのも、そういった部分はあると思う。厳しい受験を終えて入学したら反動で遊び呆けるとか、苛烈な仕事をしてるから逆に趣味に没頭したくなるとか、不倫やら風俗に燃えるとかありますけど、あれもストレス解消とか色々言われつつも(そうなんだろうけど)、一つには自分が一つの狭い形に押し込められるのに対する動物的な反発感情なのかもしれないです。なんか自分がグニャリとした変な形に固定されそうで、服に変なシワがついてしまうのを嫌うように、もっと全方位に開かれた十全なものになりたいという潜在欲求。主婦の火遊び不倫やら売春やらも、それがしたいというよりは、一つの形に押し込められる本能的な忌避感みたいなものがベースにあるような気がします。それがどんな形で出てくるかによって、拍手されたり後ろ指さされたりはするだろうけど、構造は同じだと。
その意味で、海外に来られるのはいい機会だと思いますね。これまであんまり語られなかったことだけど、押し込められ偏った自分になっていくことへのリカバーというか、人間的に得ておくべき「他の領域」全般を満遍なく得られますからね。現代の分業社会では、仕事も生活も狭いコクピットに座って高度な操作をするような感じになりがちだから、外に出てフリーな環境で、今晩のメシを作るためにスーパーで買い物かご片手にしてみたり、近所付き合いとかしてみたり、日頃やってなかった本やら映画やら見るとか、どっか行くとか、誰かと暮らしたり揉めたり、そこでいちいち「あー、俺って全然ダメだわー」と気づいて、そして十全たる自然球形になっていくという。
対症療法的な無関係性
スペックを上げることと幸せになることは違う。次元が違う。でも、ともすればスペック=自分=アイデンティティになりがちで、それが地獄の一丁目になったりもします。そもそもなんでスペックを上げたいのか?といえば、ぶっちゃけた話、「馬鹿にされたくない」「すげーって言われたい」という子供のような感情でしょ?それか、親とか周囲に「巨人の星になるんだ」みたいに頭ごなしに命令されてすれが刷り込まれたとかさ。
本当にやりたいことをやって幸せになってるときって、あんまスペックがどうのとか思わんもん。子供が無心でお絵かきしているときとき、好きで好きでどうしようもない人と一緒に歩いているときとか、だから偉いとか、だから恥ずかしいとかそんなこと思わんもん。相対比較もクソもないでしょうしね。
だからスペックが気になるというのは、どっかしら手段性があり、例えばなにか不愉快の状況(誰かに馬鹿にされる、親に怒られる)から逃れるために、その手段としてスペックをゲットするという一種の「対症療法」だと思うのですよ。雨が降ってて濡れると不愉快だから、傘(スペック)をゲットするという構造。冒頭の事例で、ジャングルで不安だから、武器を増やしていくのも同じことです。武器が好きだから増やしてるのではなく、襲われたくないから、不快な目にあいたくないから、そうなる不安があるから、対抗手段としてスペック(武器)を得ましょうという。
でもそれって、本来の自分の姿とは全く関係ないですよね。「傘をさしてる俺」というのがアイデンティティになるわけもない。たまたま雨が降ってるからそうしているだけの話でしょ。でも、愚かなことに、傘がアイデンティティになりがち。もともとは「降りかかる火の粉は払う」ためにやってたんだけど、「火の粉を払ってる私」がアイデンティティになってしまう。これが問題ですよね。
ニートだと肩身が狭いとか、恥ずかしいとか、親がうるさいとかいう「火の粉」があって、それを振り払うために仕事を得たり、それもキツい正社員になったりするわけだけど、それって火の粉を払う作業なだけでしょ。そして火の粉を払ってるだけで自己が充実したり、幸せになったりするってもんでもないでしょう。
そりゃ、やったらたまたま面白かったってことはあるでしょう。それで自分が充実したり、達成感や生きがいを感じることはあるでしょう。でも、それはたまたまであって、本質ではない。いや、前回書いたように、それが生きがいなり燃焼なりになるのは、自我の没入度合に比例するのであって、対象なんか何でもいいのだ、やってりゃそのうち面白くなるよって意味では本質なのかもしれない。いや、実際そうだよ、何でもいいのだ。でもね、やっぱそれって結果オーライというか、だったら最初からそう言えよって気もします。
これまで日本社会で語られ、正しいとされてきた生き方は、コレでしょ?まず、恥ずかしいとか世間体が悪いとか普通じゃないとか「火の粉」をばーっと浴びせて、まるで江戸時代の拷問の「蓑踊り」のように蓑を着せて火をつけて焦らせる。その上で、なんでもいいからやれって脅迫して、やらせて、な、ほらやってりゃ面白くなるだろ?これで君も立派な社会人だーってやり方、おかしくないか。
津々浦々でそんなことばっかやってたらどうなるか?人心が荒廃するでしょうよ。なんでもいいからガムシャラにやってる奴が一人前とされ、それに「え?」と戸惑ったりする人は総じてゴミ扱いしてネガ地獄に叩き落とし、一方頑張ってる人も本質的な無目的な頑張りだけだから、いつかは泳ぎ疲れてしまう。逆にそういうことに疑問を感じずガンガンいく奴もいるし、上にあがるだろうが、そうなると火の粉を払う技術が上手いだけ、スペック(金とか地位とか)を得るのが上手いだけどの奴が権力を握り、金さえあれば、地位さえあれば何してもいいんだって話になって、ルールも道理も踏みにじるようになる。
何がおかしいの?というと、最初に「火の粉ありき」みたいな設定がおかしい。そんな強迫観念に満ち満ちた世界観がまず間違ってる。スペックが無いと生きてるだけで恥ずかしいような気分にさせるという初期設定そのものが変だと思いますよ。
そりゃこの世には「火の粉」はありますよ。酸素がないと死ぬとか、水や食料やカロリーを摂取無いとダメだとかありますよ。でも、そういう物理的な初期設定なら納得できる。話が具体的だし、問答無用で生理的に理解できるからね。でも、抽象的で観念的な火の粉は、それが抽象的であるだけに解決しにくい。てか、そんなの単に「お約束」のルールに過ぎない。けん玉が上手だったらエリートだとか、逆立ちしてラーメン完食できたら賞賛されるとかいうルールでしょ。しかも、お約束といいながら、自分は約束した記憶はないんだから、一方的な押し付けでしかない。それでもまだルールが合理性を持てばいいけど、その合理性についての釈然とした説明もない。言われたとおりにやってりゃいいんだだったら、マトモな人間だったらムカつきますよ。
すまん、ついムキになってしまった(笑)。これは僕が十代の頃に思ったことだから、感情が蘇るのよね。ざけんじゃねーよって。だもんで、僕自身は、こういった押し付けとか理由ナシの強制とか全部ひっくるめて「火の粉」として捉えて、自分にとっての害悪だと認定し、それを振り払うための戦略はどうしたらいいか、という形で整理しました。極論すればこの社会そのものが自分にとっての害悪だという。前にも書いたが、全世界を敵に廻したゲリラ活動をやるっきゃないべと。が、そこまで我が強くて、へそ曲がりではない人々、多くの素直で善良な人達は、害悪としての火の粉認定ではなく、それが人の道だとか、道義的なものとか誤解しちゃう。そこから色々問題が生じるような気がしますです。
自信Bとスペックの利用方法
さて、話は戻って自信Aに対置されるところの自信Bですが、スペックを落としていって得られる自信です。こっちの方が本物じゃないかという話です。野獣が出てきて銃で撃って勝ちました。今度はより弱い武器、例えばナイフを振り回して取っ組み合ってやっつけましたとなったら、銃で勝ったときよりも自信がつきますよね。スペックを落としても出来たという自信。それが、今度は石ころひとつでやって、最後には素手でやっても出来たとなったら、かなり自信はつきます。スペックに頼らなくても出来たという自信はかなり強いし、より本物の自信になる。
より強度の装備を身につけることで生じる自信Aと、より弱い装備で生じる自信Bはかなり対極的です。Bの方がより本物だというのは、より自分に近いからです。自信Aは、自分が弱いと思ってるから(自信がないから)、より強度の装備を求めるわけで、装備スペックが強ければ強いほど、それだけ生身の自分に自信がないことにほかならない。ある意味、自信Aを増やせば増やすほど、自信Bは相対的に減ってくるという反比例の関係に立つのかもしれません。
さきほど、あるスペックを得るために専門領域に没頭すればするほど、自分が偏ってくる気がする、一般人の方がずっと偉いかのように見えてくるのと構造は同じだと思います。スペックが高まるほど「スペックが無ければ何も出来ない無力な自分」みたいな感覚が反射的に生じるのでしょう。剣を振り回しているうちにはいいんだけど、なんかの拍子で剣が折れたりしたら、途端に心細くなるという。自分が大きなダンプを運転してるときは、一般車両が雑魚に見えたりするが、車から降りて喧嘩するとかになったら心細くなる。大企業にいて自信があったのが、いざやめてただのオッサンになったら途端に無力な存在に感じるようなものです。
だから本当のことをいったら、自信Aがある程度いったら、今度は自信Bをやりたくなるようにも思います。少なくとも僕はそうでしたけどね。あんな日本におって先生とか呼ばれ続けて、なんだかんだ年数経たら、どんどん保守的というかスペック=自分みたいになっていきそうで、それがヤバイなと思った。なんでヤバイかといえば、うーん、なんだろうな、そんなの自分じゃねーよというか、そんな自分は好きじゃないというか、変になっちゃいそうで。だもんで、それまでの肩書も資格も一切通用しないところ、自分以外の一切の属性のないところで何かやって自信Bをつけないとおかしくなりそうな気もしました。
かといって、ずっと同じ仕事やポジションにいる人が虚空のスペックにしがみついているだけとか不遜なことを言うつもりは毛頭ないです。またそれは事実と異なる。スペックがありながらもスペックに頼らず、スペックを使いこなしていい仕事してる人、それでも人間として円満な人は沢山いますし、知ってます。ただ、自分の場合、なんかの巡り合わせだと思うけど、バランス悪いなー、ここままじゃダメだなーと思ったというだけのことです。
ちなみに今はどうかというと、自信AもBもどうでもいいですけどね。なんかもうどーでも良くなってきて、自信?ねーよそんなもん、って感じです。やりたいことはやりたいからやるし、やらなきゃいけないことはやらなきゃいけないからやるし、どっちにしろ「やる」だけのことで、そこに自信とか別に関係ないかなー、結論に差はないし。ただ、「自信がないからやらない」というのは減ってきたかも。減ってきたというよりも「ありえない」って感じ。だって、やりたいか(意欲) or やるべきか(必要性)で決まるわけであって、そんなの自信とは関係ないもんね。自信がなくてもやりたかったらやればいいし、自信がなくてもやらねばならないことはやるしかないでしょ?あんまカンケーないよなーってのが、段々経験とともに根付いてきたという感じです。事実そうだし。
ただ、そんなふうに思えるのは、ある程度数こなしてからの話でしょうね。理屈でわかるもんでもないし。
自信AとBの利用法
自信Aのスペック型の利用法ですが、上にも述べましたが、あんまりこれにこだわってるとイイコト無いです。ほどほどの「節度のある利用」が求められると思います。起爆剤としての自信Aの限定利用
具体的には、とりあえずこれって分かりやすいし、怒られない、褒められる、自慢できるというこれ又分かりやすくも下世話な感情にリンクしてますから、着火剤や起爆剤としては非常に使えます。試験であろうが、資格であろうが、就活であろうが、使えます。ただし、繰り返しになりますが、長期使用をしてると中毒になる劇薬ですから、ほどほどに。まあ、短期的なニトロエンジンみたいな爆発力として利用して、その勢いでスペックを得て、そこそこ達成感なり自慢感情を満たしたら、とっとと次にいったらいいです。感じとしては、スペックなんぞ「しょせんは馬鹿な世間へのコケオドシ」くらいに割り切っておかれたらいいかと。あとは前回も言ったけど、純然たるゲームとして楽しむだけ。
自信Aを自信Bに変換すること
次に、自信Aを得たら、そこからエッセンスを抽出して自信Bに転換する作業が大事だと思います。これちょっと微妙に複雑なんですけど、「Aである私」に自信を感じるのではなく、「Aを得ることが出来た私」に文脈を変えるのです。例えば難関校を突破しても、「エリートになった俺」という捉え方をすると将来苦労しますから(前述)、「俺でもやればできるんだ」という形に思う。初期のころは割りとそうでしょうから、その感覚を忘れないことです。そうすると自信Aが自信Bになります。別の言い方をしたら、結果ではなく過程だと。結果に安住するのではなく、切り立った崖をよじ登ることが出来たというプロセス部分に注目し、そこだけ切り取って自信にするといいです。わかるかなー、まあ、わかると思いますけど。自信Aをすっ飛ばして自信Bから入る方法
次に、未だ自信Aを得た気になれない人の場合。本当は結構得てると思うんだけど、自分の中ではカウントされてない人、と言い換えてもいいけど。こういうパターンの場合、何もなし得ていない俺というネガ認識になりがちで、それってほっとくと「どうせ何をやってもダメだろ」が潜在意識になって、本当にダメになるように行動したりするから、もう大変。苦労するために生きてるだけみたいな割の悪い話になって、もう雪崩の下の斜面にいるようなもんで、おーい、そこにいると危険だぞーです。早急に離脱すべし。じゃどうやって?ってことだけど、どんな小さなことでもとりあえず自信Aを得て、それをBに転換して、あとは雪だるま式にってことになります。が、そんなことが出来るくらいだったら、最初からネガループになってないよって話もありますよね。その場合は、逆に自信Bから先に入った方が早いです。あなたが30歳までだったらとりあえずワーホリで来いとか、その種のことで、自信Aに関する属性情報が一切無意味になる環境、自分以外に何もない環境でやるといいです。そこではA情報が消えますから、純粋にB自信がつきます。Bがついたらね、もうAなんか要らないもん。まあ「コケオドシ(金看板)」的に、なんかあった方が商売上有利とかあるかしらんけど、それでも装飾レベルだなー。もともとAなんか着火剤くらいの利用法しかないんだからさ。
この感覚がわかりにくいから、話を逆にします。インドで高カーストだったC君がオーストラリアや日本にやってきて、俺はカーストが高いんだからとか言ってても、知らねーよそんなの、うざいよ、それより早く金返せよって話になるでしょ?本国では大事な自信Aになり、重要な属性情報だけど、国が違ったら、そんなもん知ったこっちゃねーよです。逆に、カンボジアから来たD君は、地元では有名な大学を落ちました、ああ俺はなんてダメな奴なんだとネガループ満載です。でも、それも知ったこっちゃねーよ、カンボジアの進学校なんか興味ねーよで、おーいD君、今度飲み会あっからお前も来いよ、だってお前と一緒にいるとなんか楽しいんだよね、良い奴じゃん、こないだも皆の洗濯物取り込んでおいてくれただろ、ありがとなー、うれしかったぜーってな感じで受け入れられるわけですよ。一個の人間としてちゃんと評価される、受け入れられるってことがどれだけ自信になるか、それは純粋な自信Bになりますから、それが満たされていけば、Aなんかどうでもいいです。知ったこっちゃねーよって。
あー、今回こそ漫画紹介を復活させようと思ってたんですけど、なんぼなんでも長すぎるのでまたカットします。次回こそ。あれからまた溜まって溜まって、、、(笑)
これはまた別の場所(近くだけど)で、既にジャスミンが咲こうとしてます。
文責:田村