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今週の一枚(2017/08/06)



Essay 837:聖なる虚空と聖なる阿呆


 写真は、京都鞍馬まで走る叡電。

たっぷり遊んだ夏休み

怒涛のような日本二週間も終わり、夏休みも終わりで、これアップしたら飛行機乗ります。台風大丈夫かしらん。それ以前に、これから朝までにエッセイ書けるのか?ま、やってみましょ。

 今回の帰省の感想は「よく遊んだ〜!」「夏休み」ってことですね。こんだけ遊んだ夏はなかったし、ベタな日本の夏を意識し、ベタな日本の夏を楽しんだこともなかったです。

 出てきた感想は、ベタも悪くないよなーということで、日本の花火大会なんか実は大学以来じゃないかな。線香花火なんて最後にやったのがいつのなのかも覚えていない。セミの声だって、意識的に聞いたこともあって、ミンミンゼミ、ツクツクボウシ、クマゼミ、アブラゼミ、そしてカナカナ〜のヒグラシ、全部聴いた。最終の鞍馬温泉では「露天風呂で蝉時雨」を味わってました。

 スイカも何回も食ったし(しかも全部まるごと買って、切って。浴槽や井戸で冷やすってのはやってないけど)。風鈴の音も沢山聴いたし、南部鉄の風鈴もゲットしたし(ギフトに)。温泉もはいったし、畳の上でゴロゴロ〜うたたねもやったし。皆で焼肉もやったし、クソ暑いなかビールでぶはーも何度もやったし。炎天下をとことこ歩いて買い出しいって、スーパーやコンビニに入っては、ひや〜生き返った〜もやったし。入道雲も見たし、夕焼けの茜雲も見たし、夕立もあったし、夕立のあとの一陣の涼風も。緑のドライブやら、ドライブインやら、昭和な感じの商店街の夏の昼下がりやら、、、

 もちろんまだやってないのも沢山あって、まず海入ってないでしょ、虫取りやってないでしょ、宿題も絵日記もラジオ体操もやってないのだが、これは今後の課題ね(やるのか、笑)。

 別に最初からそういうテーマでやってたわけでもないし、もっと他に新しい可能性を試してみるとか、それは前回書いたようにいろいろ考えたりしてるんだけど、それとは全然別に、「どうせやるなら、コレもやろうぜ」的な、ぽっとした思いつきや楽しみをスルーしないで、いちいち立ち止まるというか。

煮詰めない〜意味とエゴを薄める頃合い

 思い越せば、昔、日本にいるころは、炎天下にチャリをバイクを飛ばしてバイトやったり研究室で勉強したり、またクーラーなんかついになかったから汗ダラダラ流してやってたし、前職でもクライアントに会うときや法廷ではネクタイ絶対でしかもシャツは長袖オンリー(=なんかそれが礼節みたいに思ってたのよね、一部であっても他人様の人生を預かる者として)、桜が咲いても、紅葉があっても突っ走ってたし、大晦日には自主ゼミで勉強して、元旦にも事務所いって書面書いて、とにかくそのへんの風物詩的なものにきっぱり背を向けて、そんなもんカンケーねーみたいにやるのが好きだったところはあります。それと、とにかく他人と同じことするのが大嫌いだったというへそ曲がりな根性もあります(笑)。

 んでも、あれこれやって+年食って+海外生活も長くなってくると変わってきて、むしろそういう仕事とか人生プロジェクト的な営為の方がどうでも良くなってきた。比重が軽くなってきた。そのへんのことは物心ついてから、自分で決めて自分でやってきたから、もう慣れっこで、だからほっといても自動運転みたいにやっちゃうし。今だって、めんどくせーな、眠たいな、明日の荷造り何もしてないなとか思いつつ、こんなの書いてるわけだしね。まあ、出来てしまうし。ほっといてもやるんだから、どうでもいいわ、意識せんでもいいわって。

 そんなことより!って浮上してきたのが、わー空が綺麗だとか、おーこのタタズマイいいじゃんとか。この妙な居心地の悪さ、間の持たない感じが笑えてイイよねとか。例えば、列車のホームの感動の別れをやってて(同僚の転勤壮行会とか)、おー頑張れよーとか握手したりして、ひとしきり盛り上がってやってるんだけど、なっかなか列車のドアが閉まらないから、だんだん間が持たなくなって、同じことばっか馬鹿みたいに繰り返し言って、やばいこのままだと盛り下がって白けてしまうって思うから、皆も必死でテンション維持してるんだけど、それももう限界って笑える感じとかいいよね〜、あのスリリングな失速感がたまんないよね、とか。

 アレをやらなくても、コレが成功しなくても、頑張らなくても、今この時点で、けっこう面白いもの、楽しいものはいくらでもあって、まずはそれを賞味しよう。そりゃプロジェクト的なものも大事だし、頑張ることも大事なんだけど、そんなテーマ性って常になければならんものでもないし、意味とかも別にいらなくて、存在してることそのこと自体を愛でるというか。ほかにも、今コレが流行ってます、新しいライフスタイルの提案です、今ちまたで話題の○○とか、どうでもいいじゃん、そんなこと。なんかしら意味づけしないと死ぬの?今全然流行ってないからこそやるとかいうのもアリなんだろうし、そういう意識すら小賢しいというか中二的というか。

 このあたりの発想は、別に目新しいものでもなくて、昔から言われていたものです。いろんな表現の仕方があって、「足るを知る」であるとか、「平凡こそが幸福だ」とかありますよね。それはそうなんだけど、そう言ってしまうと違うような気もする。それって副作用があって、自分の覇気の無さ、エネルギーの枯渇、怠慢の言い訳だったり、奴隷的従順さへの洗脳とか、そういう裏地もあったりして、それが嫌いなんですよね。また、敢えてここで立ち止まって 花鳥風月を愛でる洗練された心が〜とかいうと、カッコつけてるというエグみがでてきて、それもなーという。存在そのものを愛でるってことも、「今を生きる」とか大上段に言ってしまうと、大上段過ぎるだろうって過剰感があるし、微妙なところなんですよね。

 感じとしては、ぱっと思いついて、思いついたまま、それ以上深く煮詰めないってところが大事かと。しかし、それが大事とか頭で思ったらぶち壊しなんですよね。考えたら死刑みたいな。いや、これがけっこう難しくて、思考性や意味性を漂白していくのって、なかなか難しいですよ。エゴを薄めていくことでもあるし。それも長いことやってると(やってるというほど意識的なものでもないが)、なんとなくいい頃合いになってきて、それが今回、いいチューニングになってきたかなって感じです。カンドコロとしては、ちょっと意識的にアホの子になるような感じ。

分解過程

 僕もいきなり何かを悟ったってことはなくて、多分分岐点になったのは37歳くらい。「僕の心を取り戻すために」という長いエッセイをシドニー雑記帳に書いた頃です。人生の折り返し点を通過する音が聞こえて(ほんとにカシャッて音が聞こえたような気がした。はいここからは死までの距離が近くなるよと)、やりたいことはやり尽くした感覚があって、これからはそういうプロジェクト主義みたいなのはダメだなー、気分が乗らないなって思った。じゃあどうするか?っていうと、無自覚にやっていた日常の起臥寝食、日々の退屈に感じられていた営みについて、もう少し自覚的に、もう少し丁寧に生きてみようかと。派手派手しいイベントをぶち上げてスポットライト的なことではなく、それをやるくらいのエネルギーを使って普通のことをやってみようと。なんとなくそれが面白そうに感じたし、次の地平を開くような気もしたのですね。

 スーパーソニック・スペシャル・アルティメイト・ギャラテクティカ・歯みがき、みたいな感じ。やってることは普通の歯みがき。なんだ、それ?言ってるだけじゃんって思うでしょ?そうだよ。そして他のプロジェクトも結局「言ってるだけ」なんだよなーって思った。弁護士やっててわかったけど、うんざりするほど地味な行為の積上げで、後世の判例になるような事件をやりましたとか、記者会見やりました、大きな事件(公害とか冤罪30年闘争)であっても、ココの局面では泣きたくなるくらい地味な行為。東へ西へ走り回って活躍してます〜というのは、ダイジェストな言い方であって、リアルには、腹減ったな〜、あの駅前のカレー食いたいな、列車の時間大丈夫かなーとか思いながら、カウンターでカレー食ってるだけですからねー。全然普通じゃん。

 因数分解だか原子分解していくと、特別も普通もないのですよ。要は「言ってるだけ」が入るかどうか。自分の思い入れなり、意味付けなり、ストーリーなりが入るかどうかの差です。思い入れたら入れた分だけ価値が出てくる。それは行為そのものの客観的価値ではなく、主観的価値であり、その主観が外部に投影されているに過ぎない。だから思いれたらなんでも価値あるように思う。しかし、同時に行為そのものも面白いし、独自の価値がある。自分の子供が他人の子供よりも可愛く感じる。他人の子供だって可愛いものは可愛いけど、自分の子供だともっと可愛い。なんで可愛いのか、なんで愛するのかといえば「自分の」という関連性やストーリーがあるからで、ならばそれは子供を愛しているというよりは自分を愛しているだけではないか。それは別にそれでいい。思い入れってそういうものであり、それこそが価値の源泉ですから。

 ならばどんなものでも思い入れをまぶしたら面白くなる。これさえかけたらゴハンが進むフリカケみたいなもの。どんな対象、どんな行為であっても自分なりの思い入れたら価値が出てくる。普通の日常動作であっても、それなりの思いで臨めば価値が出てくる。そして、同時に、そんな思い入れとは関係なく、客観は客観で価値はあるなと。自分の子供だから可愛いとかやってるうちに、自分の〜という部分が段々薄れていって、純粋にその子自身を愛するように。10年たってあれは病院の手違いで、実は本当の子は別にいますと言わ押しつけれても、その子への愛着はさほど変わらなくなるように。

 つまり行為や事実の原子レベルでの等価性があり、さらに価値を生み出す主観的要素(思い入れ)を分離抽出する。そのうえで、思い入れという主観に頼らない、客観的な行為や事実のそのものの面白さとか、風情とかを感じるようになった、、、まあ、そんな自覚的なプロセスを経たわけではないですけど、過程としていえばそんな感じです。

 時間を掛けてやってるうちに段々コツが分かってきました〜って感じです。今回、夏の風物詩大集合って趣でやったわけですけど、そんなノスタルジー快感はなかったですから。思い出して、おおコレコレとかいって、過去の自分の記憶と照合させて、その合致具合を喜ぶというのはノスタルジー(懐古趣味)ですけど、それはあんまり無かった。かき氷食べたときも、「懐かしいなあ」的なものよりは、純粋にスィーツとしてそのもの自体を楽しめたと思う。逆に言えば、ベタでありながら、ベタという記号処理をしなくなってきたわけで、そうすると広がりますよねー。ベタだけど、ベタじゃなかった、なにかしら新鮮だった。

 これは僕個人の内面の軌跡でありつつも社会全体の軌跡でもあると思います。日本に限らず世界的にそういう時代になってきたと思いますよ。だって言ってる意味、なんとなくわかるでしょう?20年前に同じようなこと書いたときは、わかりにくかったように思うけど、今は普通に話が通じるし、若い人ほどそうかな。TV番組がつまらんのは、昔風の意味付けや思い入れに頼ってて、感動の押しつけ的になってる部分がウザい。オリンピックでもワールドカップでも、とにかく日本が勝てばいいんだ勝ちゃあって一面的な物の見方は減ってると僕は思います。どの国であれ、素敵なプレーはちゃんと理解し賞賛しようと思うし、日本が負けたら全部ダメだとも思わないし、そもそも勝ち負けだけにこだわっているのが暑苦しいし、醜くすら感じる。そういう人、多くなってるんじゃないかなー?だから、僕がそう感じたというよりも、全体にそういう流れになってるとも思います。そんな気分にさせるような全体の構造なんだろうなって。これが科学技術がブレイクしてて、普通に皆が火星に別荘持ってて、修学旅行はタイムマシンで戦国時代に行きます〜とかいうと、きゃーきゃーやって、こんな枯れた内省的な方向にはいかんだろうしね。

 以上は、ちょっと真面目なプロセスの話でした。

聖なる虚空、聖なるアホ 

 なんでもそうだと思うのですけど、中心の御本尊におわしますのは、実はカラッポだったり、実はアホアホなものだったり。「聖なる(虚)空」と僕がよく呼んでるやつですけど、真ん中なんもないのよね〜、その何もないのがいいんだよね〜という。

 これも何度も引用している江戸小咄があって、怠け者の与太郎がおっかさんに叱られてて、お前は毎日遊び呆けてて勉強しなさいって。勉強するとなんかいいことあるのかい?そりゃいい学校いけるじゃないか。いい学校いくとなんか いいことあるのかい?そりゃいい会社に入れるじゃないか。いい会社に入るといいことあるのかい?そりゃお金が沢山入るじゃないか。お金が沢山はいるといいことあるのかい?お金があったら毎日寝て暮らせるじゃないか。だから、おいら今寝てるんだよ、という。知ってる人も多いと思いますが。

 笑えるんだけど、笑えない部分もあって、結局そうだよなーと。
 途方もない刻苦勉励と苛烈な戦いに勝ち抜いて、結局いまいる場所に戻ってくるだけだと。それは僕自身、必死に勉強して弁護士になって、収入ン十倍くらいになっても、結局、自分の部屋は何も変わらない、自分のプライベートに着てるものも髪型も変わらん。てか変えたくない。たまーの休み、宝石のように貴重な安息の時間に何やってるの?といえば、ベッドに寝転んで、アイス食って、漫画読んでるだけだもんなー。それが一番幸せだもんなー。小学生の頃となんも変わってないなー。必死こいてギター練習したり、おおーとか思いながら音楽聴いたり、なんか高校生の時と同じじだよなーと。まあ、母親相手に交渉やら媚びやらしなくてもアイスがゲットできるという「権力」「財力」は手中に収めたけど、そのくらいだなーと。それって別に受からなくても、大人になったら普通に出来るじゃないのかなー。

 「なーんだ」みたいに思いましたね。「悟った」とカッコつけて言ってもいいけど、これは自分自身の体験で思うのが大事なんでしょう。理屈で説明されても感銘力がないしね。でもね、じゃあ今までの努力は無駄だったのか、この苛烈な日々は無意味なのかというと、別にそうは思わないし、虚無感や徒労感に打ちのめされるってことはないです。いや、そこまでくる過程がゲーム的に面白かったから、あれはあれでいいの。満足なの。誰に強制されたわけでもないし、自分が好きでやったことに後悔は起きない。おもしろかったなーと、それはそれでOK。

 必死に山登りして、山頂で食べるオニギリは美味しいって言いますよね。それは同感なんだけど、よくよく考えてみるともうちょっと構造は複雑なんだと思う。山頂で食べようが、麓で食べようが、オニギリの美味感は実は同じだと思うのですよ。ただ達成快感とか、自己実現快感がそれに付与されている、、、てか別個に存在して、それが二重奏になってるからダブル役満みたいになってるだけだろうと。それが証拠に、いくら山頂で食べるオニギリが美味いといっても、不味いオニギリはやっぱり不味いと思うのよね。リックの中に入れてて登山中の猛暑でいっちゃってて、食べる頃には腐ってたら、やっぱり美味いとは思わないんじゃないの?と

A型アホ快楽とB型ゲーム快楽

 これは誰でも同じじゃないかな。
 中心部分の幸福像、究極の理想状態って、要するに与太郎的に寝っ転がってポテチ食ってるような他愛のない、アホアホなもんじゃないかと。そして、それとは別系統に、チャンプになるとか、何事かを成し遂げるとか、その種のゲーム快感=ゲームの達成によって満たされる自己実現快感があると。この与太郎的A型快感(究極幸福)と、ゲーム達成的B型快感がある。そして、BはAの手段性をもつから皆騙される、というか混乱するんじゃないか。つまり、より心おきなく、余裕しゃくしゃくでポテチを食べるためには、経済的安定があったり、社会的ななにかがあったりするわけで、それの前提を整備するために頑張って仕事して、社会的地位を高めてって部分があると。それはB型快感によって鼓舞されるわけですな。心配なくポテチを食べるために世界の覇王になると。そういう手段=目的の関係性はある。あるから意味ありげに騙されるんだけど、よく考えると目的と手段が釣り合ってないのよね。たかがその程度の目的(アイスやポテチ)を達成するために、あそこまで膨大な努力をしなきゃいけないもんでもないでしょう。てか、コスパ千倍くらい悪いよ。

 位階人臣を極めってくらい大出世して、日本のドンになって、じゃあ何をするの?というと、何もしない人もいるわけですよ。とにかく激務、とにかくプライベートタイムゼロになってしまって、自分の時間なんか全然ないってなるし。それでもやるのは、B型ゲーム快感が面白いからでしょう。天下布武をして、迷妄の中世から新しい近世の扉を開け広げるという歴史的大偉業を成し遂げたとしても、本人的にはゲーム的に面白くムキになってるだけだと思います。もちろん崇高な使命感や人道的な衝動もあるでしょう。それが原点になってることも多々あるでしょう。でも、それでも日々の努力を継続できるのは、少しづつ物事が進んでいく快感があってこそだと思います。

 そんな歴史的偉人レベルではなく、もっと凡庸でもっと普通のエリートさんの場合だって、プライベートの聖域においてなにをするの?といえば、恋人や家族と親しむとか、仲間と馬鹿騒ぎするとか、趣味とかその種の健全なものから、汚職と賄賂で私財を蓄えたとしても、やることといえば金の力で女の子囲ったり、ホスト行ったりとか、リアルになにをするのっていえば、別に誰でもやってるよはアホアホな痴態だったりするわけでしょー。与太郎と同じじゃん。

 直に聞いた話ですけど、政財界の実力者が通うと言われる祇園の芸姑さんのお座敷で何やってるのかというと、幼稚園のお遊戯のようなジャンケン(箸拳)だったり、座っただけでン十万円という銀座や新地の超高級クラブでは、ママに「優しく叱ってもらう」という甘酸っぱいひとときだという。もうエラすぎちゃって叱ってくれる人がいない=甘えさせてくれる人がいないからねー。日本の男性エリート社会はマザコン社会ですからねー。嘘だと思う?だったらこの疑問に答えてほしいんだけど、なんで飲み屋の女性経営者、女性現場マネージャーのことを「ママ」と言うの?ママって「母親」の意味ですよ。おかしくない?ヘンでしょう?しかもサブマネージャーのことを「チイママ」とかいうじゃん。小さいママだからチイママって、これ幼児言葉じゃん。幼児退行してるじゃん。だから、自称保守とか右翼とかいう人の中に、日本の女性は貞淑であるべきで、良妻賢母の理想はこうでって言うんだけど、それってマザコンの母親像のまんまじゃん。だから夫婦別姓とかに感情的に反発するんでしょ。そんなもん保守でも右翼でもないし、いい年ぶっこいて未だにオシメの取れないとっちゃん坊やだろって思うわ。こんなクソジジーが権力得るケースが多いから、なにかというと情緒過多な社会組織になるんじゃない?情緒的に四方から支えられて無いと不安だという心理が原点にあると思うぞ。まあ、ゆうたら「甘えんぼ」なんでしょーねー。

 話逸れたけど、要するにあんだけ努力して、時には権謀術数の限りを尽くして、こっそり人も何人か殺しちゃったりして、そこまでして、どうなりたいの?といえば、ママのお膝の上で、僕ちゃん頑張ったでしょ?褒めてほしいな〜、頭ナデナデしてほしいな〜とかさ、そんなことだったりするわけでしょ。まだ女狂いでトチ狂ってた老境の秀吉の方がマシで、それでも聚楽第とか花見とかスケールのデカイ遊びをやってたし、文化にそれなりの寄与もしたもんね。

 ことほど左様に中心部分はアホであり、空であり、他愛のないものなのだと思います。そして、それで良いのだと。

 段々分かってきたのですが(と自分で思ってるだけなんだろうけど)、もともと自然状態では20歳かそこらが寿命であるホモ・サピエンス、人類ですからねー、そんなに大それた快楽幸福を得るような脳内システムになってないんだと思います。しょせん、寝っ転がってアイス食って漫画読んでりゃいいくらいの、それが生物学的な「器」なんだろうと。それで別にいいんだってことです。

 だとしたら、そんなに大汗かいて死ぬほど根性カマしてなんだかんだやらなくたって、いともたやすくゴールに到達できるし、実に簡単にハッピーになれる。というよりも、そもそも今立ってる場所がゴールなんだよ、幸福なのよ、いい加減気づきなさいよってことです。

 でも、簡単なようで、これってある意味では難しいですよ。だって、成功する「だけ」じゃダメだと言ってるんだから。試験に合格しました、エリートと呼ばれるようになりました、大富豪になりました、永住権とりました、なんだかんだで達成しても、それはあなたの幸福感を全くといっていいくらい保証しないよ、実は全然関係ありませんでしたーとなるのがオチだろうと。もちろんB型的達成感はありますよ。でも、それとA型は関係ない。それはもう、あなたの出身校が甲子園に出場することと、アフリカのどっかの国で内戦が始まることが関係ないくらい関係ない。それがどこまでトコトン分かるか、身にしみて、腹の底からわかるかでしょう。

C型駆除

 そこで「気づく」「心の底から納得する」ためには、もう一つあって、これがC型とも呼ぶべき「駆除」です。津で高校生君たちにもちょこっと言ったけど、難しい大学に入ったり、なんか難しいことやり遂げるのは、別にゲーム快感以外には大したことないよって気づくことの第一歩になるだろうし、それ以上に劣等感を無くすことに意味があると。

 なんだかんだ言って、せっかくの幸せをぶち壊しにするのは、劣等感とか欠落感とかいうネガ感情だと思います。例えば、夏の夜に友達と線香花火やってるとき、線香花火きれいだし、スリリングだし、物悲しい情緒をかきたてるし、なかなかのスグレモノで、アートとしてもよく出来ると思うのですよ。だからそれを純粋に賞味してればいいんだけど、そうならない。「入試も就活も失敗し、彼女もおらず、線香花火をやってる俺」と考えると悲しくなるんだよねー。でも何もかも成功して、彼女がいて、それでやってる線香花火もあるわけで、それと線香花火に美しさに変わりはあるのか?といえば何もない。要するに挫折感とかネガ感情が、せっかくの美や幸福をぶち壊しにする。仕方ないのかもしれなけど、馬鹿馬鹿しいし、もったいない。

 それに、成功して彼女がいて線香花火やっててハッピーかというと、そういう状況にあるときは、また何かに急き立てられるようにやってたりするから、「のんびり線香花火なんかやっとる場合かあ!」とか思っちゃったりするんだわ。こうしてる間にもライバル達は〜とか。いやいや、やっとる場合なんですよ。どうせそんな大した生き物でもなんだからさー、他愛なく喜んでりゃいいんだって。でもなんか思っちゃう。思うことでまた幸福をスポイルする。だもんで、何のために勉強するの、頑張るの?といわれたら、それがゲーム快感でなければ(快感あるときはそういう疑問は起きないけど)、その種の劣等感や強迫観念を減らすためだと思います。とりあえずやってしまえば、「あ、カンケーないのね」ってのが分かるから。納得するから。そうすれば劣等感も、無駄な渇望も消えるし。消えていくほどに今手にしている幸せが味わえるようになるし。

 幸せなんか多少アホになるくらいじゃないと分からんし、味わえない。また、幸せな人というのは、概してはたから見てたらアホに見えるもんです。「幸せなやっちゃな〜」って馬鹿にしたように言いますけど、でも、あれほんとだよな。幸福絶頂期の新婚ラブラブカップルなんかもそうかと思うけど、その幸福時点で何をやってるの?といえば、「はい、あーんして」とかやってたりするわけで、もう見てらんないわけでしょ。それでいいのだと思いますです。僕らは一生懸命勉強して、努力して、東奔西走して、あれこれ戦略かまして、頑張って〜、頑張って〜、そして立派なアホになるのだと。まあ、別に頑張らんでもアホにはなれるんだけど、一応儀式というか手続として頑張ったほうが自然にアホになりやすいと(C型駆除ができるからね)。

 さてさて、ここで冒頭の部分に回帰してシメるんだけど、だからベタな日本の夏を堪能して、楽しんで、賞味して、あーもーハッピーだらけで困っちゃうなーというアホアホハッピーな帰省タイムでございましたということです。

 僕はこれでクソ寒いシドニーに戻りますが、日本の皆さんはまだ楽しい日本の夏が続きますので、せいぜいアホになって楽しんでください。
 、、と、ちょっと短いけど、このくらいにしておきましょうか。他にもメールの返事とか、FBとかあるし。


→予定タイトル一覧

いかにも夏休み的な入道雲

夏といえばコレでしょう。しかし値段が高くなっててびっくりしたけど。


「企業努力」という言葉が浮かんだ。大阪キタのお初天神。

京都御所





 文責:田村



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