★↓背景画像bgmaximage★ グラデーションなどベンダープリフィックスを除去するJS★
836 ★背景デカ画像

  1.  Home
  2. 「今週の一枚Essay」目次


今週の一枚(2017/07/31)



Essay 836:推論と検証の人生シェアシステム


 写真は、京都の鞍馬。今度の京都オフ翌日のためのロケハン下見で行ってきました。丁度夕立に降られちゃったんだけど、オーストラリアには無い濡れるような(濡れてるんだけど)緑が見られました。北山杉の紋様のようなパターンといい、木々の間に立ち込める靄といい、日本昔ばなし的な風景で、あー帰ってきたーって感じ。

 日本帰省中の丁度折り返し点にいます。
 着いてから一週間弱、東京、大阪、三重の津など、既に沢山の方々にお会い出来ました。のべ人数で言えば50人くらい?ちょっと正確に勘定する気力が湧かないくらいで、本当にありがたいことです。この場を借りて(って自分のサイトなんだけど)、御礼申し上げます。でも、まだあるし。

 日々慌ただしく流れているので、なかなかまとまらないのですが、今思いを巡らせていて、「ふむ、そういうことか」と思ったことを一つ書きます。現実把握の難しさと推論の重要性です。

現実は巨大すぎて見てもわからない

 当たり前の話ですが、目の前の現実の社会ってめちゃくちゃ巨大過ぎて、ぱっと見で何かが分かるってことは中々ないんだろうなーってことです。

 例えば、今回、三重県の菰野(こもの)町というところに縁あって立ち寄りました。なにげに予習してみると、この町はいろいろな面で興味深いです。例えば、平成の大合併を経ても市ではなく町のまま残ってます。「市町村」とひとくちに言いますが、市の下に町や村があるのが多いのですが、市と同格の町や村もあります。菰野町もその一つで、三重県○○市菰野町ではなく、三重県菰野町で市がない。いろんな事情があるのでしょうが、一般に、市に吸収合併されていないのは、それだけの財政やら自治の体力・パワーがあるのでしょう。実際、昨今の日本の自治体には珍しく、人口が減っていない。それどころか一貫して増えている。それも若い世代が増えている。

 え、なんで?と思いますよね。ちょっと前に(てか常々)書いているように、日本の地方はおしなべて人口減少やシャッター街や空き家増加による衰退化、限界集落化が進んでいると言われているのに、なんでここだけ増えているの?と。どんな魔法がかけられているの?と。地元の人にちらとお聞きするに、311の東北地震からこっち移住してくる人が多いからだそうです。今でも新たに住宅地が増えていると。ほお?と思いました。彼らをひきつける何かがあるのだろうし、住民側にもそれを受け入れる素地があったのだろうと。

 WiKiレベルですが、さらに調べると、このあたり(菰野藩)というのは、江戸時代、一回も一揆がなかった珍しいエリアだそうです。よほど領主がリーズナブルな善政をしいていたのでしょう。過去にも書いた記憶がありますが、確か、江戸から明治大正にかけて、日本では5000件を優に超える一揆や暴動が起きてます。「おとなしく従順な日本人」というイメージは政策的に洗脳されたのではないかという学術論文もあるくらいで、実際にはなかなか「荒ぶる民族」だったりします。それが一度も一揆がないというのは、特筆すべきことでしょう。

 ということは?といろいろ思いを巡らせたりするのですが、実際に現地に行ってみて、その答やヒントが得られた?というと、ありていに言って「全然わからん」わけです。まあ、車でぴや〜っと流したくらいですので、何が分かるというものではないのでしょうが、もうちょっと何かとっかかりがあるかなと思ったら、普通の日本の地方都市でした。国道があって、田園やら住宅が点在して、街道沿いにお店があってという。

 そこで思ったのは、「こりゃあ、見てなにかが分かるってことは滅多に無いな」ということです。よほど慧眼の士でもない限り、「いつもと変わらぬ日常」がガーン!と眼前にそびえ立っているだけ。それはもう見上げんばかりの岩山のようなもので、こんなものが動くとか変化するとか、その兆候は何かとか、パッと見では分からんわと。

 これを広げていくと、ローカルの地域情報にかぎらず何によらず、とにかく「見て分かる」ってことは少ないんだろうなと。当たり前の話なんだけど、やっぱ現実はサイズ的にデカいし、複雑。一メートル四方くらいの物体だったら、押したりつついたりして分かるかしらんけど、小さなエリアと言いつつも、実際に現場にいってみれば見渡す限り、地平線のその先までってスケールがあるわけで、こんなもんどうやって認識、把握せえっちゅーんじゃ?ということです。日本の人口1億人以上いますけど、皆が何考えてどうしてるの?とか、そんなもんちょっと見たくらいで分かるわけないわなと。

 例えていえば、自分の身体の健康を観察する場合、実際に見えるのは小指の爪の先っぽくらいで、そこを幾ら目を凝らして見ていても、今、リアルタイムに体内で何が起こっているのかなんか分からない。胃がんが進行していますとか、血管ボロボロで脳溢血ヤバイですとかわからん。そりゃ重篤な症状になれば爪の色も変色するかしらんけど、爪とか髪の毛は確か死亡したあとも少しは伸びるらしいから、下手すれば死んだことにさえ気づかないかもしれない。

 まあ、そんなもんなんだろうなーと。
 もちろん見て分かることも多々あるでしょうが、それとてたまたま分かりやすい現象が視界の中に生じただけのことでしょう。それを機敏に見つけ出すことの重要さは言うまでもないけど、それだけですべてがわかるってことはない。たまたま分かる場合もある、って程度だと。自分の家族が自殺するにしても、思い詰めて、いかにも明日にでも死んでしまいそうな場合もあるけど、いつもと同じ快活明朗で、まさか!って場合もあるわけですよね。わかる場合もあろうし、それは大事にすべきなのは言うまでもないが、分からない場合の方がずっと多いのだろうなーと。


 じゃあ、どうなるんだ、目の前の圧倒的な現実に目隠しされたまま、何も分からんまま生きて死んでいくのか?ある日突然、大地震が起きたり、天災が起きたりしても、何がなんだか分からんまま死んでいくしかないのか?といえば、大部分のケースにおいては、「YES」なんだろうなー。Unfortunately。今、世界で、日本で、いろんなヤバイ動きやら、面白い動きが大量にあって、なかなかおもしろい時代になっているんだけど、帰省した実家で、親が見ている30年前から何も変わっていない、もはや古典芸能レベルといってもいい、グロテスクなまでに痴呆的な番組とか見てると、こんなの見てて何かを理解せよというのは、到底ムリな相談だよなーって思ったりもします。そりゃ、わからんわと。

地味な認識メソッド〜観察・推論・仮説・検証

サイエンスとフォーマット

 では逆に、何かが分かるためにはどうしたらいいか?といえば、人類が営々と積上げてきた事実認識メソッド、つまり地味な観測を延々続けて、膨大なデーターを取って、そこに何かの意味があるのかどうか相関関数をみたり、その上で幾つか特徴的な傾向を見出し、それらを一元的に説明できるような仮設を立て、さらにそれを検証し、検証し、検証しという気が遠くなるような作業をして、帰納し、演繹し、検証しの繰り返し。すなわち「科学」です。狭い意味での理系的なる科学もそうですが、哲学や文学、宗教なども広く含めた(あれだって人文科学だしね)サイエンスです。

 ただし、何かを理解するにしても、その視点、フォーマット、全体構造の把握やら、パースペクティブは要ると思います。どっかの家の幼児が行方不明になったとしても、それをもって「神隠し」なのだというフォーマットで捉えるか、「幼児誘拐犯」ではないかという犯罪捜査的なフォーマットもあるわけです。どっかの家族の一人が家の近所で交通事故に遭いましたという事実でも、それは方角やら家相が悪いからだ、いやいや龍神様の祟りだとか、いや認知症がはじまってて注意散漫になってたからだという医学的な視点、いや乗ってた車のブレーキが経年劣化で甘くなってたという機械工学的な視点、いやあそこは前から事故が多くなんで信号を設置しないのだという交通行政的視点、いやあそこで事故が多いのはその昔に失恋した若い女性が自殺をして地縛霊化してるんだという都市伝説的な視点、、、もうなんぼでもあります。

 で、どの視点に立つのか、どれが正しいのかといえば、結局は「趣味」なんだと思います。手に余る巨大な現実を、どの方角から見たいかは本人の趣味であり、思い込みであり、洗脳であり、トラウマであり、様々な要素の複合でしょうね。かなり恣意的で、いーかげんなものだと思います。でも、そういうフォーマットや視点がないと、現実理解に踏み出せないのも事実で。であるならば、自分の中でそういうフォーマットを10も20も獲得して、プリセットしておいた方が良いのでしょう。最低でも2つか3つのフォーマットは常備しておいて、こっから見たらこう見える、あっちから見たらこう見えると複眼的に見ておくべきでしょう。

 だって、一つのフォーマットだけで突っ走っていくのはヤバイですもん。でも、それってすごい気持ちいいんですよね。昔のアメリカ映画で、パーティ帰りのティーンエイジャー達が酔っ払った勢いで、ひゃっほー!と夜の道路をぶっ飛ばしているような爽快感がある。でもそれだけにリスクは大きく、ヘタすれば大ボケ街道まっしぐらです。映画でこういうティーンエイジャー達のシーンがあると、大体において後でハンドル切り損ねて大事故起こしてたりしますが、そんな感じ(オーストラリアでも時々あり、だからこちらの免許は年が若いほど取得が難しくなっている)。

 新興宗教にせよ、社畜フォーマットにせよ、陰謀論にせよ何にせよ、一つのフォーマット「だけ」で世の中みると、ものすごーく世の中がわかった気がするのですよね。もう一点の曇りも無いってくらいクリアに、「だからこうなっているわけ」という因果の流れがわかるという。でもあまりにも分かりやすいこと、一行で全部言えちゃうようなことって、大体大間違いですよね。なんでもかんでも犬神様のタタリにしてしまえば、そりゃあ楽ですよ、全てが明快になりますよ。でもって、木に激突して全員即死みたいな結末になるとか。

 これって別に朝礼のお説教みたいに言ってるんじゃなくて、結局それ(気が遠くなるような推論&検証の積み重ね)しかないんだよなーというリアルな慨嘆です。だって世の中そうやって出来ているんだもん。

気が遠くなる積み重ね

 例えばいつも使ってるスマホで、海外にいる友達に瞬時にメッセージのやりとりができるのは何故か?そのメカニズムの全てを説明せよと言われたら出来ないでしょう?出来ますか?

 フラクリンの電気の発見、エジソンによる実用化、さらに空中に浮遊している大量の電気(電子)に、一定の方向に一定のパターンで押し出してやると、恐るべき速さで恐るべき距離をそのまま真っすぐ進んでいく(伝達される)という特性=電波というのを発見し、さらにそれをどうやれば実用化できるか、周波数の概念、それを識別するための原理と機械。一方では森羅万象を全て0/1=ON/OFFの二者択による数億レベルのフローチャートによって表現してしまうというデジタルコンピューティング技術やプログラミングの進展。他方ではそれを世界規模に管理するような途方もないスケールでのシステムづくり、それを商業ベースに載せるための工夫と行政的な管理手法。本来なら仏壇サイズに大きくなるのを数ミリに縮小するためのナノ技術、それを可能ならしめるための素材工学、、、、もう気が遠くなるくらいの、観測して、推論して、検証して、さらに一歩進めてという人々の営為の積み重ねです。それだって、いっこいっこは「多分こういうことだから(フォーマットの設定)」「だとしたらこうなるはず(推論)」の繰り返しでしょう。研究・開発・実用化・販売・普及というのはそういうことでしょう。

 僕らは日常、先人たちがもたらしてくれた凄まじいばかりの恩恵に浴しているわけですが、これとて地味な作業の積上げの結果であり、逆に言えば、地味な作業を積み上げるととんでもないことまで出来てしまうということでもあります。そして、結局それっきゃないんだろうなーということでもある。それっきゃないけど、それは確かにある。信じられないほど遠い遠い道なんだけど、でも道は道としてつながっているんだと。


 以上は抽象的な感嘆、「ほー、えらいもんだ、ぶったまげたわー」という話なんですけど、ここから今回の帰省やらオフに話がかぶさってきます。

自分界隈の推論

非商業的フォーマット

 なにがつながるかというと、観測→推論→実践→検証→推論、、という循環的な前進という部分です。

 今回(も)あちこちでオフやって、いろんな人と会ってるわけですけど、でもね、これって普通に考えたら「ありえない」ですよー。だって、世間の通り相場でいえば、僕はいわゆる留学エージェントであって、それが日本で説明会を開きますとか、カウンセリングをやりますよといって応募があって面談して、、ってのは、実際にやってますし、それは全然理解できる、ありうる話です。

 でもね、オフって、もう20年近く昔にお世話した人、10年以上のメールのやりとりしてて今回初めてお会いしたとかいう人も居ます。これから来る人もいるけど、昔つながりがあったという人が多い。でもね、どこの世界に過去に利用した留学エージェントが帰国するから会おうと思うか?です。そんなの普通名前も忘れているでしょう?それどころか、一度も利用したことがない、このエッセイ駄文を読むのが好きとか、さらにその人の紹介とかそのくらいの感じの人もいます。てか多いです。

 つまり、一般的な商業フォーマットや、資本主義の視点からしたら理解しがたい現象が起きているわけですね。だから、こんなことやってますとか、外部の人に言っても、なっかなか理解してもらえない。「はあ、いいですねー」とか言ってもらえるけど、まあ分かってないだろうなーという(笑)。

 じゃあ、そのフォーマットはどうやって出来てきたのか?といえば、ここがリンクするのですが、観測→推論→実践です。もともとは、僕がお世話した方々って、一般的な確率よりもかなり高い確率でウマが合う、波長が合う場合が多いです。実際に結婚したというケースも何件かありますし。最初は、事後の微笑ましいエピソードとして受け止めていたのですが、10年くらいやってると「待てよ」と思ってきました。これだけ波長が合う確率が高いなら、相互に知り合う機会をもっと増やしたら、皆にとって有意義なんじゃないかなーと。

 なぜなら、本当に波長の合う人、会って喋って楽しいな、なにかが前に進むなって人って、そんなに居ないですよ。まあ、100人に一人くらいの比率だと思います。これは大げさにいってるんじゃなくて経験的な感覚でもあるし、人の価値観や波長パターンというのは少なく見積もっても100通りくらいはあるんじゃないの?と思うのですね。そして、波長の合う友達や仲間というのは、生きていく上において、ものすごーく役に立ちます。役に立つという打算的な表現でいうのも味気ないですけど、完全対等で、ナチュラルに構えずに、見栄も虚栄もない友達って、やっぱ宝物ですよ。社交辞令とピア・プレッシャーと空気読みだけでやってる人間関係が多い中、宝石のようなものでしょう。だもんで、単なる親睦会や同窓会以上に大きな意味があるだろうと。

 そしてそうなるチャンスがあるならば、これはセッティングしなきゃ嘘だろう。ま、そんなことしても、僕自身としては大した商業メリットもないのです。会員制にして会費を取るとか、継続的に何らかの商品をサプライし続けるとか、記念グッズを作って強引に売りつけるとかいうなら別ですけど、そんなもん無いし、する気もないし。みすみす豊かになる機会があるなら、それを見過ごすのは勿体無い、やらない手はないだろうというだけのことです。まあ、この時点で僕が資本の論理を踏み外しているんですけどね(そうか、だから儲からないのか(笑))。

 でもね、儲かるか儲からないかで動きたくはない、せっかく儲かるシステムを捨てて外国くんだりまで行って、そのフォーマットで動いてどうすると(というか、もともと弁護士って男気商売で、手持ち案件の半分は赤字でしたから実はそんなに違和感なかったのですけど)。それよりも、面白いか・面白くないかだけで動くこと、そんな無茶苦茶なフォーマットで人がどれだけ生存出来るのかやってみたい、というのが人生かけた遊びというかゲームみたいなものですので、個人的なフォーマットでいえば保守本流ど真ん中でもあります。

推論と実践

 それはさておき、最初はお世話した人だけでクローズドな掲示板を作り、さらに進展して起業とかビジネス話とかいうレベルになると別館に、、って感じでやってました。が、こうやっていくとどんどん狭くなるなー、もっと広く外部に開かれていかないとダメちゃう?ってことで、卒業生かどうかというメルクマールを時間をかけて薄めていく作業に移ります。単にエッセイ読んでますとか、そんなんでも全然OKという。これはこれで観測・推論がありました。別にオーストラリアにやってきて、僕のところで一括パックやらなくても、同じ体臭、同じ価値観というのはキープできるんじゃないかと。カチッととした形式的基準があった方が楽は楽なんだけど、広がっていかないなら勿体無い。そして形式基準よりも、実質基準、それも「実質って何よ?」と言われたら、よくわからない曖昧な共通属性みたいなもの、それって現実に通用するんじゃないかと。

 じゃやってみましょでやっていったら、果たしてその通りで、卒業生であるかどうか、あるいはオーストラリアに行ったことすら無いという人であっても、雰囲気全然変わらない、違和感なしってのが、オフを繰り返すうちにわかってきて、今ではもう誰も気にしないという。

 そして、単に会って良い時間を過ごしたってだけではなく、もっともっと実益のある方向、物心両面にわたる互恵的なものって出来ないか?と。実際にそれも出来てきて、例えば今年になってからでも、仲間内でオーストラリアに移住目的で頑張ってるご家族からの資金要請に応じて、数百万レベルの援助申し出があったり、うち一回も会ったことがないという人も結構いたり。あるいは、海外滞在のあと帰国し、再就職やら起業についてのコラボレーションが現実に出来てみたりとか。なんせ人間的波長というベーシックな部分ができているから、あとは話が早いという。

他のフォーマットとの結合

 他方、もう一つの推論フォーマットもあります。
 それはここで何度も述べている、空き家再利用とかセーフハウスとかいう流れです。今回の会場のひとつもそれで、最初は卒業生の方の法律相談というか、相続物件の手続きとかその種の話だったんですけど、たまたまその近所に仲間内の方がいて、、ってことでいろいろ話が出てきて、今回は、合宿オフの会場として利用させていただこうと。かなり充実したお家でを格安で貸していただいて、一人一泊千円というありえない値段でやってと。テンポラリーな実験みたいなものですが、ああ、そういうことって本当に出来るんだって、推論、仮説、実証が出来たという意味では大きかったなーと。さらにこれを発展させて、貸していただいた方にもどうしたらもっと実り豊かにして恩返し出来るかとか、一歩現実に進めば、また展望もアイディアもでてくるし。

 これなんか抽象的、一般的なメディアの記事やら日本の趨勢という知識なんですけど、それを手持ちの現実にコネクトしてみると、なるほどこういう化学反応になるのかーという。だとしたら、、、です。

 さらに発展させていけば、わりと誰に聞いても周囲に相続遊休物件とかあったりするし、それを単純に貸すという口コミ不動産みたいにする手もあるなー。またその地においてノウハウを積上げて、その地における就職であるとか、起業支援であるとか、地元人脈の活用であるとか、それを幾つも充実させていけば、ノマド的な転々をお好みの仲間にはやりやすいかなとーとかね。なんせ全然何もないところに一人で行くよりは、仲間起点で始めていけるのは何倍も効率的ですからね。

 一方、オーストラリアはオーストラリアで、永住権までこぎつけた仲間が増えてくるほど、動きやすくなっていくでしょう。仕事の紹介にせよなんにせよ。あんまりまだ真面目に考えてないけど、前にも書いたように、シェアハウスの経営&管理人の持ち回りなんかもあるでしょう。日本にいて永住権は年齢的、状況的に無理だけど、なんらかのカタチでオーストラリアや海外に拠点がほしいと。ぶらっと行って知ってるひとが迎えてくれて、ホテルとか取らなくても生活できる場があってというなら、資金提供して4BRくらいの家を借りて、うち3部屋をシェアに出して家賃分くらいは回収できるようにする。そのシェア広告やら日常管理に一人置いておいて、それはワーホリさんやら留学ビザで来てる仲間を充てる。シドニーだったら僕もサポートできるし。でもって、その人は管理人室ということで一室貰い、ほとんど無料ないし格安で住めると。これだけでも大きいと思いますよー。あとは個人の才覚でシェア運営をするし、また次の人にその座を渡すと。日本のスポンサーの方は、来るとなったら、一室あけてもらってそこに住むとか。まあ、改良すればもっといろんな動き方はあると思いますが。

 ほかにもオージーの旦那さんの転勤でカントリーサイドに移転された日本人女性がいて、そこはシドニーからそれほど離れていないけど2回目ワーホリ取れるエリアであるとか、天文観測には最適の地であるとか、カントリーステイができないかとか。あと、その方は婚活狙って、実際に成功してるので、それを婚活講座としてスカイプやYouTubeで講座開いて商品化できないか?と。いやこれは結構マジな話で、今ココで第一章から十章まで作れと言われたら出来ますよ。そんなロマン一辺倒ってことはなく、真面目な話としてアリでしょう。出会いとか恋愛編なんか全体の3割くらいであって、そのあとはビザ申請におけるデファクト論。なぜデファクトが多いのか、移民局に申請する場合の注意点や補助資料の作成方法(めちゃくちゃ沢山あるよね)、さらに日本の親御さんとの関係、相手の義父母と親族との付き合い方、戸籍の入籍方法やら、結婚式のあげかた、結婚中の仕事探しやら。最初の出会い編だけでも、こっちの恋愛マナーであるとか、不真面目な相手を見抜くためのポイントであるとか、シリアスに知っておかねばならない事柄って沢山あると思いますから、単なる個人体験から汎用性のあるノウハウに昇格させていけば、知的財産権としての実質は十分にあると思いますね。

ライフスタイルや生計パッケージのシェア

 総じていえば、一人の個人的な体験やノウハウを、共有シェアできるシステムにしちゃえないか?ということです。僕がやってることなんかまさにソレで、自分が最初来たときにココで困った、コケた、あとから考えたらあそこでああしておけばよかった、無駄にビビって損したってことが山ほどあるので、一括パックはその集大成です。最初にこれだけやっておけば、普通の1年分を1週間に圧縮インストールできるぞって思ってるからやってるわけですよ。ならば、ほかのことだってそうだろうし、僕でなくても誰でも出来るだろう。そのやり方と共有シェア方法です。

 日本であれ、オーストラリアであれ、その他のエリアであれ、ここで住むためのノウハウ、そしてその地で生計を立てる、そんな一生の仕事とかすごいのじゃなくて、当面の生活費が稼げるくらいのカジュアルジョブのシステムを作っておく。誰かが最初にやって、そのノウハウをマニュアルにしてまとめ、次の人に渡す。

 例えばどこかの空き家を比較的低廉でお借りしたとしても、現地で何をやるの?どうやって生計立てるの?って問題があるわけで、それを先行者が開発しておく。本腰入れて一生住むなら納得できる仕事がいいんだろうけど、当面の生活費だけならカジュアルジョブでいい。そこでこの近所のコンビニだったら幾らでどうとか、さらに地元のお知り合いの方を紹介してもらって、あそこで倉庫の品出しを週2で手伝ったらいくらもらえるとか、ただししっかりした紹介者がないとダメとか、開拓し、ノウハウをまとめておく。同時にその地に住むなら、これがいいよ、あれがいいよという楽しみ方も蓄積させる。人脈も広げておく。そして次の人が来たら、当面はスーパーバイザーとして必要に応じてスカイプとかメールなどでリアルタムで助言する。仲間内で聞く分にはフランクに聞けるし、ほぼ絶対といっていいくらい嘘はつかないだろうし(つく必要もないし)。別に統一的なパターンである必要はなく、現場に応じてカスタマイズも工夫もすればいいし。

 そうやって代々洗練され、アップデートされってやり方が少しづつ増えてきたら、とりあえず3ヶ月Aに住んで、次にBに住んでってことが出来るようになる。日本の山に住んだり海辺に住んだり、外国のあちこちに滞在したり、そうこうしてれば見聞も広がるし、アイディアも湧くし、実戦力もつくと。

 それやってなんか良いことあるの?といえば、あるでしょ?普通の人生の何倍ものバリエーションで楽しめるでしょう。全然違うところで全然違う生活するのって、単純に面白いですよ。海外生活楽しんできた人、ラウンド満喫してきた人ならわかると思うけど。と同時に、固定化の恐怖から逃れられる。「一生これかよー」ってのがなくなる。気が向いたら、全然違うところで来世ライフみたいなことも出来ると。まあ、もともと誰でもそんなこと出来るし、居住移転・職業選択の自由は憲法上保証されてるんだから、今でもやりゃあいいだけです。でも、リスクとロスが多い。やっぱ知ってるか・知らないかってのはメチャクチャ重要で、知らないと無駄な迂回を延々やったりするし、その過程で心が折れたりもするし、それが恐くて最初からやらなかったりもするし。ちょっと知ってればいい、ちょっとコネが張られていればいい、それだけで全然違うってことは世の中多いです。そしてそれはシェアしうる。ならば?です。

 これは別に、楽して儲かるとか、ズルをするメソッドではないです。適正な対価を得るために適正な労働や営為をするのは当然の話。ただし、それすら最初はおぼつかない。歯車が噛み合わず、むなしく空転し続けたりする。それは辛いし、メゲそうだから、そのあたりのリスクとロスを減らしていけば、かなりスムースにできるのではないかなーと。このあたりは推論なんですけどね。また推論をもとに何かの形でやってみて、検証して、さらに展開ってやっていきたいです。ま、それやったからって儲からないんですけどね。でも、面白そうだ。いわゆるノマド的なってことになるかしらんのだけど、別にその言葉になんの感銘も受けないのだけど、ただそれって一人で全部セッティングするのは大変だべ。お金もかかるし。だったら寄ってたかって皆で骨組みつくってシェアした方が早いじゃんってことです。大汗かいて私道作るのも大事だけど、共通する部分は公道やら、入会地にみたいにしてしまえばいいじゃんって。

 でも、ま、一番大きな福音は、孤独じゃないってことかもしれんです。気楽に、構えずに弱音を吐ける仲間がいて、「おう、だったら俺がやったるわ」ってやったりやってもらったりで、その居心地感は悪くはなかろうと。


 編み物をするように、バラバラに点在するなにかをコネクトし、編み込んでいくと、なんか出来ていきそうな気がします。フォーマットと、観測・推論・実行・検証の繰り返しによって。


時間がないので、今週の漫画紹介はおやすみします。

 
→予定タイトル一覧

鞍馬寺の山門前



山門から振り返る。扉写真もここから撮りました。

のんびりした風景

バスの離合もできないくらいの細い街道

ヘチマかと思ったら、苦瓜ですかねー?




 文責:田村



★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
★→APLaCのトップに戻る
★→APLACのFacebook Page