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今週の一枚(2017/07/24)



Essay 835:絶対原点

相対比較は幸福の敵

 写真は、North Sydney。カフェの中から窓越しに撮った、冬枯れのいい感じな。

 しかし、ここから暑い暑い日本に帰るのだよなー。大丈夫か?俺(笑)

ルソーの「自然に帰れ」

十代のガビーン

 十代の頃はいろいろガビーン!となることが多いのですが、僕の場合、そのなかの一つが、ルソーの「自然に帰れ」という言葉です。

 「人間不平等起源論」という本に書かれているものですが、僕の場合は最初にルソーについて書かれた岩波新書を読んで知ったものです。今から思ってもいい本だったけど、今も刊行されているのかな?あ、あったけど古書になってますねー。でも、ま、別にルソーについて書かれている本なら別になんでもいいとは思います。

 フランス革命の父、というか今僕らが常識的に思っている世界の秩序のキホンを作った一人。近代啓蒙思想家とかいて、ホッブスとかジョン・ロックとか、倫社の授業で(今は、なんなの、公民?)で出てきます。僕も最初はその夏休みの宿題かなんかで読んだんかなー(完全自由研究で)。

 んでも、コツはですねー、その主張のエッセンスを学ぼうと「しない」ことです。なぜかといえば「詰まらないから」です。面白くないんだよー。抽出して蒸留すればするほど、「個人の尊厳を原理とした社会システムの構築」というプラスチックな感じになって、味も香りもしないし、「知ってるよ、そんなの」で終わってしまいますからね。

 やっぱ、その人が、もう発狂寸前になりながらも心血注ぎまくって書いた文章やら、「声涙倶(とも)に下る」というド迫力でやった演説やら、その原文がいいのですよね。そこが美味しい。音楽の作品と同じだもん。そして、なんでこの人はこんなにムキになってるの?という生い立ちとか、流れとかが美味しい。

ルソーくんのグチャグチャ屈折

 ルソー(Jean-Jacques Rousseau)くんの場合も、人生けっこー屈折しててですね、最初から「思想界の巨人」だったわけじゃないです。生い立ちも可哀想で(まあ、当時は誰もがそんなもんだったのだろうが)、スイスのジュネーブの時計職人の家庭に生まれ、パパママはいい人だったんだけど、優しく聡明だったママはルソーを産んですぐ死んじゃう。まあ、自然にマザコンになりそうな。で、実直なパパもトラブルによって一家で夜逃げ、家族ちりぢり。どっかの教会の窮屈な寄宿舎に入れられるも、そこに40代熟女(多分S女)から日常的に折檻虐待を受けてM男君になってしまいます。さらに他の職人のもとで徒弟になるも、ここも超ブラックで殴る蹴るの日常。次第にグレてヤンキーになっていきます。でも、読書だけが唯一の救いだったという。

 まあ、でも、ルソー君ほど激しくはなくても、誰の思春期もだいたいそんなもんでしょ?すごい美しくて、思慕するものと、めちゃ汚くて醜悪なもののカクテルになってる。周囲はクソ過ぎる。でも本当に良いもの、渇望すべきものも知っている。精神は瀕死の状態になるんだけど、そこで何に救いを見出すかと。それが文学であったり、音楽であったり、サブカルであったりするのも定番。

 でもって、ルソー君は15歳で放浪生活に入ります。家出するわけですね。そこでいろいろと良き人たちに出会い、まっとーになり、やがて、、、てことですが、最初にヴァランス嬢に一目惚れ。15歳のくせに29歳のお姉さまに。ありがちな。別に結ばれはしなかったんだけど、ルソー少年にとってはガビーンだったでしょう(「この一瞥の瞬間の驚きはいかばかりだったであろう」とか回想録に書いてるくらいだし)。でもって、真面目に暮らそうとするけど、不良フリーター体質が染み込んでてなかなかうまくいかず。でも、20歳年上の優しい助任司祭さんから暖かく励まされ(「小さな義務を果たすことは英雄的行為に匹敵するほど大事」など)、やがて更生。

一世一代のブチ切れで原点が見える

 とまあ、彼もグチャグチャだったんですよね。そのグチャグチャの体験の中から大思想が生まれてきた。今でも覚えているのですが(正確なシチュは忘れたけど)、ばっきゃろーで出奔するとき、身につけていた時計を思いっきり投げ捨てるシーンです。こんなモノ(時計)なんかもう要らない、こんなものに縛られる生活はもうやめだ、という圧倒的な開放感、自由感が、スイスかどっかの見渡す限り緑の丘陵とともに僕の頭の中で蘇ったのですね。ひゃっほー!ってルソー少年があげた雄叫びが聴こえるような気がした。「自由というのはコレだ」みたいな。

 ほんとにねー、毎日毎日、痛くて、みじめで、希望がなくて、周りはクソばっかで、ほんとにクソばっかで臨界点に達し、もう死んでもええわくらいに一世一代のブチ切れが起きた。そしてそのときに自由とは何か?が分かったんじゃないかと、そしてそれこそが「原点」なのだ。これを原点にしなきゃいけないんだ。

 それが彼のいう「自然」であり、近代人権思想のモトになった。歴史も、文化も、宗教も、伝統も、秩序もクソ食らえだと。大地があって、ただ自分がいる。それが原点だろ?と。全ての社会システムは、そこからはじめていかないといけないんだ。その個人が今よりも幸せになる良い工夫があれば、それは社会のシステムや法として採用すればいい。しかし、個人を幸せにしないシステムや法は単なるクソだからとっとと捨てろという、要するにそういうことです。近代人権思想の本質はそれ。人間ひとりよりも価値あるものはこの世に無い。

 そこからなんでこんなに世の中クソなんだ、なんで不平等なんだ?ってことで人間不平等起源論が生まれ、どうしてそうなっていったのか?のメカニズムが解析され、本来誰のものでもない大地に柵をして、これは俺のものだと宣言した最初の人こそが人類を悪しき方向に導いた。だから、もとに戻るべきだ、という話で、「自然に帰れ」というフレーズが出てきた。「自然」といっても自然愛好家とかネィチャーなそれではなく、「原点に戻ろう」ということです。そして何もかもぶち壊して原始生活がいいと言ってるわけでもない。よきシステムもあるんだけど、なんでこんなもんがあるの?というのを、原点に遡って、ちゃんと検証しようぜってことだと僕は理解します。

 ちなみに近代啓蒙思想家には、ホッブスとか、ロックとか、モテスキューとかいるけど、ルソー君が一番印象に残った(ってほど読破してるわけじゃないですよ、ほんのサワリをちょろっと程度)のは、このグチャグチャ感がイイんですよね。社会科学っていうよりは文学とかそっち系で、魂の柔らかさや儚さを感じさせてくれて。事実、彼の著作で一番有名なのは社会論ではなく「エミール」という教育書ですよね。また音楽も好きで、幼稚園で僕らがやってた「むすんでひらいて」も確かルソー君が作ったんじゃなかったのかな。なんつか、ちょっとヘタレな香ばしい感じが印象に残ったんですよね。そして「一人の少年の傷ついた魂の叫び」みたいなのが、今の人類の社会秩序の御本尊(近代人権思想)にあるってのは、結構カッコイイんじゃないか、人類もセンスいいよなーと。よく世間で言われている「リベラル(自由主義)」って概念の本質はそこにあると僕は思ってます。キレイゴトばっか言って、なんでも反対してるのがリベラルじゃないのよ。その「少年の魂」を持ってるかどうかです、僕にとってはね。

自分のなかの「絶対値」

そうだ!による重心(絶対)獲得

 それがまだ思春期(15歳かそこらの)僕には、結構ガビーンときましたね。そうだ!みたいな(笑)。
 でも、僕だけじゃなくて、人類みんな、そうだ!と思って、だからこれらの近代思想をもとにフランス革命が起き、近代憲法が制定されことで、それは今でもそう。だけど、すぐにタテマエになっちゃうのよね。だから原点に戻る、自然に帰るってのは、すごいインパクトのある発想でした。

 そこから自分なりの意訳が始まって、前回書いたように、この世の全てをゼロリセットしてみるようになった。朝早く起きて学校いかなきゃとか、受験があってとか、会社があってとか、そんなの全部、原点レベルでは無かった。「あった方が便利だから」あるだけの話で、そんなに便利なのか?そんなにイイモノなのか?と自分で検証して、自分で納得しないと気がすまなくなった。まあ、もともとそういう我の強い子だったんですけど、理論的支柱を得たというか、やり方が洗練されてきたというか。


 そこで今回のテーマになるのですが、自分の中で「絶対」が出来た。この地球があって俺がいて〜というド原点からみてどうかってのが絶対価値で、それ以外に意味なし、興味なしと。誰かと比べてどうとか、全体の中でこのくらいの位置にいるからとかいう「相対」は本質的にどーでもええわと。まあB型でもあるし、前々からそう思ってたんだけど、なんかそう思うことを、言い訳とか負け犬の遠吠えとか、エクスキューズ的な後ろめたさもあったんですけど、「そうだ!」による絶対獲得からは、重心が出来、重力が出来た。

 この絶対を持ってる人は、やっぱ強いというか、なにかとやりやすいなーと思います。オススメです。

相対的世界観

 でも、生まれてこの方「相対」ばっか山ほど教えられる。社会や学校、特に競争社会というのは相対の権化みたいなものですから、どうしてもそういうもんだと思いがちだけど、でもでも、実は大した根拠ないのよね。その根拠は?といえば実は無い。言えない。「そーゆーもんだ」「あるからある」くらいでしかない。少なくとも誰にでも分かるように説明されてはいないし、心からの納得を得ることが大事なことだとは思われていない。押し付けるだけ。

 本当は、人々に福音をもたらすためにそういうシステムや制度ができた。教育制度だって、教育は人を豊かに幸せにするからやるものなのだし。また競争も、頑張った人が正しく報われるという意味では良いことだし、だれかの努力を他の人が評価をするのも、励ましあいや理解という意味ではいいことです。それに競争自体にゲーム的な面白さがある。

 原点=本来誰にも指図されるいわれはない完全自由=から、こうした方がより幸福になれるという実質的な理由があってこそのシステムであり制度なんだけど、でも、そういった原点を忘れると、アンカーが外れて漂流していくようになり、やがて醜悪なものに変じる。そーゆー世の中になってるからツベコベ抜かさずやらんかいって問答無用の形になっていく。すると「え、なんで?」という素朴な疑問が生じる。でも、そんな疑問などゴリゴリと上から圧殺されてしまい、この社会に生きること=意に反したことを強制させされること=になっていく。そうなると生きるのがイヤになっていく。

漂流し、失われる絶対

 これ、僕、子供の記憶で覚えてますよ。小学校とか中学校にあがるときとか。それまでは家族や近所の友だちと遊んでるだけの世界でしたから、絶対アンカーがあったんですよ。そりゃ親からは、あれこれ強制はさせられますよ。でもそれは相手が見えるからまだマシなのです。今母親が機嫌が悪いからとか、こういうことをすると怒られるとか、確かな手触りとともに理解は出来た。この人怒らせると恐いぞ、オヤツが貰えないぞ、苦痛があるぞと。それはもう自然現象みたいなものですし、どうしようもなく実在することなんだから受け入れるしかない(いくらイヤでも雨が降るときは降るとか)。愉快では無いが理解はできる。機嫌がいいと逆に結論が出るときもあるから、希望はある(笑)。

 ところが小学校にあがったら無条件に毎日あそこに行けとか、ここに座れとか、詰まんない授業でもじっと我慢して聞けとか、「なんでだよー?」と思った。思ったけど、答はない。システムが巨大すぎて理解できない。それを当然の前提としている人が多くて、聞いても仕方がない。そしてそこで行われるのは「相対」です。身体検査で背丈を比べられ、かけっこもやらされ、テストを受けさせられて成績をつけられるにはじまって、給食を食べるのが早いとか遅いとか、遠足のおやつに誰は何を持ってきてとか。もうひたすら比べられて、その上で良い・悪いという自分への評価が下される。なんじゃ、こりゃ?です。

 ゆとり教育で順番をつけないとか、やたら非難されがちですけど、僕は一定理解しますし、支持もしますよ。そもそも相対比較なんか何のためにやるのよ?その原点をしっかり説明できるなら良いけど、それも出来ず、考えたこともなく、頭から「そーゆーもんだ」と決めてかかってるような言い分には、納得できんスよ。

 ま、ここでの話は教育論ではなく、育つにあたって段々と絶対を忘れさせるようになっているシステムのあり方です。あるいはそのシステムを動かしている人々の、重力も絶対もない価値観・世界観です。マトリクスみたいな気持ち悪さです。ああ、ここらへんで絶対を忘れてしまうから、僕らは漂流し、そして意に反したことを強制させられる=人生の真実=みたいな感じになっちゃうんかなーと。

システム再検証

 何度も書いてますが、僕が司法試験を志したのは、自由業になると思う存分昼寝ができるから、というヘタレな理由が一番デカいのですが、同時に、無条件に強制してきて自分の「絶対」を壊そうとする強大な敵/システム、その敵の最たるものが法律だと思ったからです。そこから逃げるのではなく、いや逃げるためにもそいつを使いこなした方がいいだろうと。猛獣が恐いなら、猛獣使いになってしまえって発想ですね。

 クソ勉強して、実務について、世の中のあんなこともこんなことも体験して知って、、とやってるうちに、びっくりすることがありました。なにかというと、この世の殆ど多くのシステムや法律って、ルソー君的な原点からちゃんと検証できるし、正しく「福音をもたらすための仕掛け」として作られているんだってことです。これは意外でしたねー、もっと非人間的で鬼畜なものだと思ってたんだけど。でも、考えてみれば当たり前で、作った先人たちは、僕と同じように(てか、僕なんかよりも遥かに)ルソー君の世界を理解してて、そこから心血注いで作ってるからです。作る時点においては、「人をしあわせにするため」という原点がちゃんとある。また仕掛け的にもけっこうよく出来ている。昨今なにかとクソな日本のシステムであってすら、80点あげられるくらい制度そのものは善意に基づき、まあまあ出来てる。もちろん20点分ダメダメなところはあるんだけど、そんなゼロ点とかいうことはない。

 じゃ何がダメなのといえば、現場の運用であったり、恣意的な解釈であったり、サッカーの試合でレフリー買収するようなこと、パワーゲーム的な利権の争奪戦だったり、そして当然の権利を顔色窺って主張することなく腐らせてしまう意気地なしなところとかです。まあここ10年くらいは法律やシステムそのものが劣化してますけどね。秘密保護法やら共謀罪やら、これまで厳重にセキュリティシステム作ってた(なぜそうすべきか原点レベルから全部説明できる)のをバンバン解除するような一連のものもそうですが、ほとんど知られてないけど「種子法」が廃止されたり。これって、結局、外資系種苗会社(モンサント→今はバイエルに吸収合併されてる)の進出のためにライバル(都道府県の種子研究と安価な一般公開)を潰すためでしょ?それ自体が疑問なんだけど、さらにアメリカTPPやらないって明言してるのに、まだやってるという。なんのために?もーね悪いことする能力すらも劣化してるのか?って感じだけど、まあ、そっから先は色々な解釈あるよね。

人の問題〜自分がハッピーになること

 でも、大雑把にいって、システムの問題もさることながら、「人」の問題が一番大きなーという気がします。じゃ、「人」の何が問題なの?といえば、一つには「他人にしあわせをうれしく思えるか」じゃないすかね?これ、嬉しく思えない人が多くなったら、どんないいシステム作っても無駄ですわ。例えば、困った人を皆で助け合おうというシステム(究極的には国家とはそのためにあるのだが)を作っても、それを利用する人がいたら、「甘ったれるな」「皆に助けてもらってるくせに」とかそういう物言いや視線を向けたらあかんでしょ。手を差し伸べておいて、相手が手をつかもうとしたら「甘ったれるな」と突き放すというのって、人としてどうなのよ?

 しかし世の中世知辛くなって、誰も彼もがキツキツになってきたら余裕もなくなり、俺だって我慢してるのに、なんでてめーが?とそこに不満を感じたりもするだろう。また、自分が苦しんでるのに、横でハッピーそうな人がいたら、畜生、地獄に落ちろみたいに思ったりもするわね。要するに、自分がハッピーじゃなかったら、この世に存在するハッピーは全部敵になるよねー。でもって、死ね死ね団的に、みんな死にゃあいいんだ、地獄に落ちればいいんだ、魔界の紅蓮の炎で、このクソみたいな世の中を焼き尽くせばいいんだ、ぎゃははは!的な方向にいくという。これ、極端なようでいて、誰でもそういうところあるよ。そんなもんスよ、人間。

 この世で一番大事なことはまず自分がハッピーであるかどうかだし、そこがコケるとヤバいです。世界を無理心中させようとするもんね。だから、経済的に荒廃してきて、夢も希望もなくなって、第三世界が年中内戦やって憎み合って共倒れみたいなことやってたりするわけでしょ。多分、高等数学でアルゴリズムとか作れるんじゃないかなー。その社会でこれこれこれだけ不幸な人が n人いると、社会全体は Y値だけ劣化荒廃するという。

 オーストラリアに来て感じた(学んだ)デカイことの一つに、ここでは誰でもハッピーであるのが当たり前で、ハッピーであるのが当然の権利で、その人のハッピーのために周囲は頑張らないといけない。てか、アンハッピーな人がいるのが気になって仕方がないという。でもそれ以上に、自分自身がハッピーであることが「義務」であるという点。一人前の社会人としての当然の身だしなみみたいな。確かにそうなのですよ、ハッピーな人が増えたらほっといても良い社会になっていくのだわ。どんな社会も、悪い点は改められ、さらに改良が重ねられ、自然治癒みたいに良くなっていくのだわ。

 したがって、自分がこの世界に貢献できることは何かといえば、まず自分がハッピーになることだと思います。そこは多少自己中でも我儘でもいいから、まずは自分がハッピーになると。そうすると、自分も自然と「いい人」になったりしますからね。自己中の償いや埋め合わせはあとで幾らでもできる。でも自分がアンハッピーだったら自然と他人も仲間にしたがるし、自分が病原体みたいな存在になってしまって迷惑です。他人の看病する前に、まず自分の風邪を直せよってことです。感染すばっかになるから。逆に言えば、いくら金持ってハッピーそうに見えても、そいつがイヤな奴だったら、実はそいつはそんなにハッピーじゃないぞ。おとぎ話みたいな論理だけど、長いこと生きてたら、だんだんとマジにそうかも?って確信になっていってます。

相対ではなく絶対で

相対比較は幸福をスポイルする法則

 そして、そしてです、ここで冒頭のテーマとリンクするのだけど、自分がハッピーになるには「絶対」を持ってると良いです。なければダメか?というと、それは分からんけど、少なくとも自分なりの絶対を持ってる方が、ずっとずっとハッピーになりやすい。なぜか?「相対」が消えるからです。絶対が強ければ強いほど、他人と比べなくなる。意味ないもん。

 絶対といってもそんな難しい話じゃなくて、自分がレストランで何注文するかとか、暇なときにどんな本や漫画読むかとか、どんなエッチ系が好きかとか、それが「絶対」です。読みたいから読む、面白いから読む。楽しいかどうか、それだけでしょ?自分が夢中になってなんか読んでるとき、食ってるとき、周囲の他の人が何を読んでるかとかそんなに気にならないでしょう。そういう「相対」に大した意味づけをしなくなるでしょ?

 逆にいえば、相対がはいってくると、どんなことも面白くなくなる場合が多い。せっかくお寿司を食べて、美味しいな〜、幸せだな〜とか思ってるときに、周囲の人は全員特上を食べて、自分だけがレギュラー並だったら、ああ、なんて俺は貧困で、なんてみじめなだろうとか思ったりして、そこで寿司の美味はかなり減殺される。ばっかばかしいにも程があるって。食ってるものは同じなのに、相対比較とか持ち出すと純粋な美味快感・純粋ハッピーが歪んでしまうじゃないか。

 本来望むべきものを得て、これでハッピーになれる!ってだけの条件が揃った。だったら素直に喜んでいればいいものを、よせばいいのに周囲と比較したりすると、無駄に欲しくなったり、無駄に凹んだりする。1億稼げるようになったら、3億も10億も稼げる奴らが視野に入ってきて、無駄にあそこまでとか思う。遣うヒマもないまま銭ゲバに走って、家族を失い、友だちを失い、最後は手が後ろに廻る。忙しくてまだ全然使ってないのにね。馬鹿じゃん。

 ちょっと前に書いたセルフエスティームもそうです。自分にとっての自信や自己査定は、自分が生きたいようなライフスタイルを実現するのに必要な限度あればそれでいい。それ以上は無駄なんだから欲しがらなくても良いのだ。でもA地点まで達したら、B地点やC地点が見えるし、その人らに比べたら明らかに劣ってるから、また落ち込む。こんなの永遠の逃げ水で、絶対に満足することが出来ないし、その劣等感から逃れることは不可能。そういう構造に自分自身がしているから。

 このように相対は、僕らの幸福感をめちゃくちゃにする毒素がある。
 そして、なぜ相対に振り回されるのか?といえば、それは絶対が無いから or 弱いからでしょう。絶対的な自分の原点とは、すなわちゴール設定でもあります。ここまでいけばOKだという設定で、これが無かったら逃げ水地獄に落ちる可能性が高い。歯止めもストッパーもないしね。それに、そもそも何のために何をやってるのか?ということすらわからなくなる。やたら偏差値が高ければ良いとか、やたら有名だったら良いとか。なぜ良いの?何が良いの?というと、良く分からないという。でもそんな良くわからないものに、人は容易に一生を浪費したりして、ジジババになってから初めて「意味なかったかも」とか思う。そういうのやりたい?

 相対比較や競争をやっても良いのは、それを「遊戯」としてやる場合だけだと思います。あとは個別の下位レベルの戦術(商業的に成功するために他社比較をやるとか)くらいです。一番大きいのは「遊びとして」です。一番になりたいゲーム。これはこれで面白い。スポーツでも勝負事でもなんでも、エキサイティングに盛り上がるのはこれがあるからです。でも、別にそれってやらなきゃ死ぬってもんでもないし、絶対必須でもない。優勝を狙うとか、金メダルを取るんだとか、天下無双になるんだとか全身全霊で没頭したりもするけど、それとて、究極のゴールは「自我の燃焼快感」でしょう。金メダル取れればいいとかいっても、自分以外のライバルが弱すぎて、あっさり取れてしまったらあんまおもしろくないはずですよ。要するに、「面白いから」やってるだけのことで、最終目的は「おもしろさ」であって、比較ではない。比較するとより面白さが増すからやってるだけの話ですからね。だもんで、競争で盛り上がるときは、パキーンと割り切るのがクレバーな処世だと思います。

絶対獲得法その1

 でも自分なりの絶対って何か分からんぞって人の場合、いっちゃん簡単な判別法をいいます。もし、人類が絶滅して、なぜか自分ひとりだけ生き残ったら(人がいなくなるだけで自然や設備は丸々残ってるとして)、そういう世界であなたは何がしたいか?です。そのとき、何を求めるか?です。出来るだけリアルに想像してみて、ずっとずっと日課のように考え続けてみたら、徐々に絶対感覚が養われると思います。

 僕の場合は、なんか気持ちいいのがいいな〜ってそのくらいですけど(笑)。居場所にしても、絶妙に気持ちいい風がよく吹く丘の上とか?すかっと眺めが良くて〜、緑が自分好みの色合いで〜、丘の斜面の角度はこのくらいで芝スキーが楽しく出来るくらいで〜とかね。自然がいいとかいっても、自然だったら何でもいいわけじゃないのですよ。というよりも、この世界の自然の大半は不愉快だと思いますよ。自然の極致である宇宙空間なんか即死しちゃうし、大海原のど真ん中とか心細くて死にそうだし。自分好みのレシピーね。

 でもって、凝り性ってこともあって、なんか自分の営みが蓄積していく遊び道具が欲しいなと。ギターがそうなんですけど、他にも。別に、あそこにトンネルを掘る!でもいいんだけど、なんかテキトーな遊び道具が欲しい。でも、まあ、それはその場になってみたら、なんだかんだ自然に思いつくだろうから、別にいいか。さらに、人関係では、絶滅したはずの人類なんだけど、もしそこでまた誰かに出会うなら、こんな感じの友だちがいいなとか。人と接していて、どういう感じがいいのかな?ここまでくると重いな、でもこれだけだと味気ないなとか。

 そんな感じね。サイコーに気持ちいいのはどんな感じ?ってこと。
 それ以上、具体的にしちゃダメですよ〜。研究職がいいとか、具体的にしないこと。生臭くなって純度が下がるからね。

 でもって、絶対だけでは世の中渡っていけません。それだけだったらただの夢想家、ただのデイ・ドリーマーじゃん。そっからそれを実現するために大計画が実行されるわけで、まず大戦略を構築し、その上で中小戦略を分割し、さらに戦術レベルに落としてっって実務過程になります。人生の99.9%はこれやってるんだけど、でも最終目的がわかっているのといないのとでは全然違う。戦略戦術部門では、嫌いな相対の世界だから、それなりに勝ち抜かないとならないとか、差別化してどうのとか、そこは頑張りますよ。でも、それは競争や相対自体に価値があるわけではない。「しょーもない手続」としてあるだけの話ですから。だから仮にそれがダメだったとしても、小さな作戦が失敗しただけのことで、大局に影響はない。仮に受験に落ちようが、なんだろうが、それはそれだけの話です。

絶対獲得法その2

 あと、全然次元は違う方法論だけど、相対が無意味になるくらい、思いっきり極端な地点まで行ってしまえです。例えば、僕の場合は、比較する対象がいません。日本で弁護士資格持って、実務経験もそこそこあって、でもオーストラリアに永住してもう20年以上なんて奴、僕の知る限り、日本でも自分だけです。そうなるとね、比較したくても比較の対象がいないのですわ。だから、自分に取ってみたら、相対なんか「青春の思い出」くらい遥か過去の話なのですよ。懐かしいな〜って(笑)。

 でも、年取ると誰でもそうですけどね。最初は雛の養殖場みたいに自分と同類ばっかのところに押し込められているから、相対相対、また相対って世界だけど、だんだん就職しました、転勤しました、結婚&離婚しました、、ってやってるとうちに、気づいたら自分と同じ奴なんかいなくなってる。遠足の帰り道、じゃあ僕はこっちだからで段々人が減って、最後は自分だけって感じ。

 別に全人生的にそうである必要はないですよ。ほんの一つの趣味でもいい。趣味のなかの一つでもいい。音楽が趣味なんだけど、ジャズが好きで、そのなかでも誰も知らないようなマイナーなミュージシャンが好きでってなった時点で、相対は消えます。その意味でいえば、観客動員数10人というライブハウスとか、地下アイドルとかはいいですよね。相対が無意味化しますからね。そういうのを持ってる人は、その限りにおいては絶対的にハッピーだと思いますよ。


 実は、今この時点で誰でも「絶対」は持ってるはずですよ。持ってないと生きていけないもん。服一つ選べないでしょ?だから既に持ってる。なにも、持ってないものをこれから探してゲットしろって話ではなく、既に持ってるものを確認しろってことですので、そんなに難しくないとは思いますよ。今、その手にぶら下げてる袋に、何が入ってるの?と。



漫画紹介



[南勝久] ザ・ファブル
 この漫画、かなりユニークです。設定としては「殺し屋」で、こんなの100年以上前から世界の東西でさんざんやり尽くされてきたネタなんですけど、この作品はちょっと類例が思いつかないくらいユニークです。すごいな、よくこんな設定&ストーリーを思いつくなー。

 ユニークといっても、主人公が実はアフリカの黒魔術の、、とかそういう分かりやすいものではないです。殺しの修羅場以外の普通の日常シーンが多く、またそれが大阪の漫才ドラマのような、まったりした空気感で続いている。限りなく「日常」なんです。僕らの日本の日常生活をそのまま描いてるようなリアルな空気感のなかで、敵役になるワルが描かれる。ことさら恐そうにデフォルメして描いてないだけに、市井の暴力や犯罪の恐ろしさやメカニズムが迫ってきてそこはゾッとします。

 そういったワル達を、主人公は楽勝に子供扱いにできるくらい突出して強いのですが、しかし凶悪なわけではない。それどころか、僕らの日常生活以上に天然にのほほんとしている。人を殺すという能力は天才的であり、既に70人くらい殺しているんだけど、別に仕事だからやってるだけで、特に罪悪感もストレスも気負いもない(もっぱら犯罪組織間の抗争がメインで、一般人は対象にしてないっぽいのもあるが)。「1年ほど休業してほとぼりをさませ」というボスの命令で、知らない大阪にやってきて市民として暮すという日常設定もあるんだけど、そんな設定が無用なくらい、普通の人。いや、普通以上に、時給800円の仕事でも一生懸命やるし、困ってる人をみたら助けてしまうし、悪いことや意地悪は全然しないし、大好きなお笑い芸人のテレビをみるのが楽しみで、広告に釣られてせっせとグッズを買ってしまう。さらに描いたイラストが職場で採用されるのだけど、子供が描いたみたいな味のある絵を描く、でもってすごい猫舌。




 なんだこれ?と思ったのですが、だんだんつながってくるのです。ボスの殺し屋は物凄く賢いのでしょう。人間の持ってる天然の野性を極大まで引き出す。素質のある子供をそうやって育てたら、誰もかなわないような危機察知能力、瞬間的な判断能力、機転、そして身体能力がつくと。だから主人公が子供のような人格であってもうなづけるわけで、特に、猫舌はご愛嬌の設定かと思いきやちゃんと意味があったりする。山の中で何を食べて良いのか、毒があるかどうか、全神経を舌先に集中して食べるから、いやでも神経が過敏になって猫舌になったという。そういった全体像が、巻を追うごとにだんだんと明らかになっていきます。特に、自主トレと称して近郊の山に篭もるシーンが面白く、想定外だらけの世界でいかにその場のものを使っていかにサバイブするかと。ああ、これ、ワーホリのラウンドと同じことだなーと。

 一方同じように拾われて育てられた美形の女性もいて、いちおう妹という設定になってるんだけど、この人がまた妙な味をしていて、主人公である相棒(だが恋愛感情はお互いにもってない)があまりにも人間離れして強すぎるから、男性の趣味もダメダメな見栄やら、ヘナチョコな実像ぶりを愛するという偏った趣味になるという。

 ワルの側も、最近のシリーズでは、世間の過保護の風潮をせっせと助長するビジネスをやる。万が一にも子供に怪我をさせないようにと、公園のブランコの下にマットを置くなど世間に提唱したりする。本性は、小学生さらって幼児売春やらせたり、人を殺すのを屁とも思わないのだけど、そういうことをする。その意味は、15年かけて過保護の子供を育ててカモにするためだという遠大な計画。どんどん過保護に育てて、危機管理能力も判断力もない子供を大人に育ててから骨までしゃぶる。トラブルにひっかけ、世間体と子供可愛さのバカ親に巨額の賠償金を払わせたりして、あとはあっさり生き埋めにして殺すと。それらの一味と、主人公がどういう偶然か絡み合ってきて、悪魔のような狡猾な犯罪者と、天然野性の殺し屋が相まみえるというのがリアルタイムのところです。


 長くなったので、今日は一本だけにしておこう。


 
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いかにも寒そうな。





といっても、陽射しは強いですから、晴れたらポカポカしてるのですけどね〜。




 文責:田村



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