今週の一枚(2017/07/17)
Essay 834:「諦念定食」的な世界観リセットのススメ
〜「ここから、ここまで」「そーゆーもんだ」の虚構性
写真は、Manly。カモメの飛んでるのがキレイだったので。
皆で舞っているような、まるで絵や舞台の一コマのような。
さすが天然というか、すごいもんだな〜、と。
皆で舞っているような、まるで絵や舞台の一コマのような。
さすが天然というか、すごいもんだな〜、と。
どうやって生きていけばいいのか?というとき、就職に有利とか、老後の安心とか、世間体がいいとか、収入が多いとか、そんなのどーでもいいから、中核にあるのは「好きなこと」をすることであり、またやってて「楽しい」って思えることをやるのがいいです。これは、浮世離れした綺麗事でも、老荘思想でも、スピ系でも、哲学的な意味で言ってるのではなく、ゴリゴリにソリッドで、実践的で、生臭いほど現実的なレベルでの話です。50キロの道を行くのだったら徒歩ではなく電車乗った方がいいよとか、自転車のチェーンが外れているからちゃんと装着したらいいよとか、そんな自明レベルの理屈です。
これは何度となく書いてきたこと、カウンセリングでも年がら年中言ってることなんですけど、今週もまた書きます。もう死ぬまで毎週これだけ書いてもいいくらいなんですけど。そのくらい言っても言っても通じてない気がする。まあ、わかりにくいというのもあるし、「頭ではわかっても、なかなか」という点もあるでしょうし、わかったけど実行しにくい、何からどう手を付ければいいのか分からんという部分もあるでしょう。だから何度も書きますが、今週はいままで触れてなかった、そもそも世界観ゼロリセットの話に焦点を絞って書きます。
この世はしんどくて、苦労するのが当たり前で、人間辛抱だ〜で苦痛に耐え忍んでこそ生計の資(お金)が得られて、それをやっていくものだという世界観があります。僕もそう思ってたことがあるけど半世紀以上生きてみてわかったのは、そんなこと無いんじゃないの?ってことです。
その世界観ってちょっとおかしい。つまんないし、事実に反する。
苦労と楽しさ
しかしながら、古今東西、苦労それ自体に意味を見出そうという発想はやまほどあります。苦労してるとエライみたいな。苦労=修行→楽しさリンク
例えば、典型例はインドのカーストとかの輪廻思想もそうかもしれない。あれはいつか輪廻の周回から解脱するために人間力を付けねばならない、そのために苦労しているのだと。苦労=得点ポイントみたいなもので、苦労するほど高得点が得られる。だから低いカーストで「修行」している人は高得点を狙ってるんだから、差別してあげて苦労を増やしてあげるのが思いやりみたいな、大雑把に言えばそういう発想だと思います。だから肉体をいじめ抜くような苦行を尊んだりもする(釈迦が若いときにやってたような)。その是非はともかく、これだって苦労それ自体に絶対価値があるわけではないのですな。最終的には解脱なり成仏なりすごーく「いいこと」、超ハッピーな状態になるためのプロセスなんだから。もう一つ、実利的な発想があります。無駄に苦労してるわけじゃないのだよ、その苦労によって人の心は鍛えられるのよ、イイコトなのよと。それは確かに一面真理で、あらゆる人間力の本質や向上過程を一言でいえば「ストレス耐性」でしょ。来る日も来る日も詰まんない練習を繰り返して超絶技巧を身につけるとか、圧倒的な恐怖感情をねじ伏せる訓練を繰り返して肝っ玉を太くするとか。技術(知識)習得=出来ないことが出来るようになる=とは、出来ないことを何度も繰り返して少しづつコツをつかんでいくプロセスですから、普通は苦痛だし詰まらん。でもそれを耐えないと上手くはならない。その意味で、ストレス耐性を増強することが上達の基本でもあり、本質でもあるでしょう。
いずれにせよ「修行」という言葉で括れると思うのですが、では一体何のために修業をするのか?
よく武道や校則などでは「人格の陶冶(とうや)」など難しい言葉で言われています。厳しい稽古に耐え抜くことで、技を磨くと同時に高度な人格を練り上げるのだ、と。
でも、それって、ハッキリいって嘘じゃないですか。
僕も柔道やってましたが、あらゆる武道や格闘技やってる人で、本気で「人格修行」のためにやってる人なんか居ないと思いますよ。そりゃ自分が師範や教育者になったらそういう言い方になるかしらんけど、そもそも動機や、苦しい練習を耐えさせるのは、ひとえに現世利益でしょう。なんで格闘技をやるの?といえば、ぶっちゃけ喧嘩に強くなりたいから、強くなったらいじめられないから、モテるようになるからでしょう?もともと強い人の場合、どこまで強いか知りたいという好奇心やら、自分よりも強い奴にぶち当たってボコボコにされて悔しかったり憧れたりして、そこまでいきたい、カッコよくなりたいってことでしょう。そんなに「人格」とか考えてないと思いますよ。
だからといって、別に否定するつもりはないですよ。誤解しないでくださいね。
ストレス耐性がつけば効率的に上達できるようになるし、なんらかの達成感を得れば自信もつくし、ゆったりした大きな人間になれるし、その気持の余裕によって冷静な判断力もつくでしょう。人格向上は単なるお題目ではなく大きな現世利益をもたらす。それに煩悩が減るので精神的にも楽になるでしょう。いいいことづくめです。だから別に否定はしてないです。でも、それって結果的にそうなったという場合が多く、やってる最中はもっと下世話でわかりやすい動機でしょう。また人格向上が目的ならば、苦労はその手段であって、苦労それ自体に価値があるわけではないことに変わりはない。
さらに言えば、ストレス耐性や技術知識を獲得し、人間力を増強して、それで何がしたいのか?です。自分をスーパーマン化していって、それでどうするの?といえば、その先にはより大きな目的(楽しくなりたい、ハッピーになりたい)があるはずです。まあ、やってる間に、上達するのが面白くなってきて、スーパー化すること自体が「楽しさ」になったりしますけど(手段の目的化)、いずれにせよ「楽しさの過程」「楽しさの変形」に関連しての苦労ですから、苦労それ自体に意味があるわけではない。全ての苦労は何らかの「楽しさ」にリンクしてこそ意味がある。楽しさにリンクしてるからこそ頑張れるのだし、また生産性もある。
諦めちゃった世界観
諦めさせて、なぐさめる
もう一つは、日本も含めて世界中に昔からはびこっていて、封建社会を支える諦念思想があります。キミの人生のレンジは「ここから、ここまで」って先に誰かに決められて、百姓だったら一生百姓のまんまで、お武家様の気まぐれで惨殺されても文句は言えないんだよ、我慢しなきゃダメだよってのが封建思想の根本です。まあ、そんなことを押し付けられたら、自然な感情としては、、ざけんじゃねえって思うけど、当時の現実はそうだし、それに逆らっても本当に殺されちゃうし、普通には諦めるしかない。だから、その「諦め」を大前提として、ザワザワと波立つ心を抑えるための発想。それが天命であり、天命にしたがって身の程を弁(わきま)えて生きていくことこそが、正しい人の道なのだよと。それが正しいからこそ、現実にこういう世の中になってるわけじゃないか?と。そして、それでも別にいいじゃないか、限られたエリアであろうが、一生懸命生きることで幸福は得られるのだ。何も背伸びするだけが幸福になる道ではないよ。人間、生まれる時代、身分、親、容貌などの諸条件は選べないのだ。初期設定として与えられたものの中で生きていくしかないのだ。それで十分やっていけるし、「足るを知る」ことが大事なのよ、と。
これは半分本当で半分ウソでしょう。半分真理というのは、なにかを面白いと思う感情、それこそが楽しさや幸福につながるのですが、それって別に何でもいいんですよね。一生4畳半くらいの牢獄にブチこまれて、太陽も見ないで死んでいくにしても、それでも何らかの幸福を得ることは出来る。大宇宙を自由に駆け回っている宇宙人からすれば、あんなゴマ粒みたいなちっぽけな地球に一生縛り付けられて死んでいく人類は不幸の極致に見えるでしょうしね。それでもちゃんと幸福になれるんだもん。結局、面白さや楽しさとは自我の投影ですから、所与の条件って別になんでもいいんですよね(ここは難しいから別の機会に述べます)。
半分ウソというのは、そういうことが語られるときって、大概が上位階級などが既得権益を守るための理論武装や、下層階級を騙したり、あやしたりする思想として使われる場合が多いからです。政教分離の本質はここにある。宗教というのは向精神薬みたいな機能を持ちますから、多くの人の心を救います。が、同時に痴呆化をうながして権力批判を封じる、てか損をしてるのを気づかせない麻薬に悪用できる。
それで「どんな状態でも幸福になれる」論がもてはやされる。だから足るを知れ、と。どんなときも神はあなたのそばで見守ってくれているし、あの世にいったらもっと幸福になれるし、日々生きているだけでも感謝しろと。大体欲望が強すぎるからダメなんだよ。7つの大罪のように過剰な感情は悪徳であるから、トランキライザーを処方しましょうね、気持ちが落ち着いて、楽になれますよー、煩悩は捨てなさいねーって。求め過ぎる辛いんですよ、求めなければいいんですよ、むしろ与えなさい。あれこれ考えるからしんどいんですよ、何でも自分の思い通りにしようなんて僭越ですよ、Let it beであるがままにしなさいねー。
実際、階級社会で下層階級になってしまったら、そんなに「どんなところにも幸福」なんて自然には思い難いくらい過酷な生活環境になったりするわけです。苦労しながら育って、苦労とともに老いて死に、その苦労は殆ど報われない。だから人生=苦労みたいなのが偽らざる実感になるでしょう。そうなると「どんな条件でも幸福」「あるがままに」というだけでは足りない。もっと強い麻酔がいる。そこで「苦労に意味があるのだ」「人間辛抱だ」「石の上にも三年」論になるのでしょう。
日本ヴァージョンの苦労基準説の巧妙な嘘〜諦観定食
これは民族・文化・宗教によって表現方法は違うのだけど、戦後から現在にかけての日本ヴァージョンでは、世間の荒波に出て、理不尽な苦労を味わってこそ一人前の社会人であるとか、苦労してたり不幸なことが自慢のネタになったり、ハッピーさをひけらかすと総スカンを食らっていじめられるとか、もう世の中苦労して当たり前、苦労から逃れられる道はどこにもないのよ、諦めろと。残業代ゼロになっても、有給を消化できなくても、体調が悪くても、ハラスメントを受けても、そうやって生きていくことが生の確かな実感なのであって、生きるということはそういうことで、この世界はそういう具合になりたっているのだよという世界観です。でも、それ、嘘ですから。
てか、巧妙に嘘なのよね。確かに一面真理のところはあるのですよ。この世が理不尽に満ちているのは事実。それはプールとちがって自然の海では波が起きたり、クラゲがいたりするのと同じで、それがオーガニックってもんでしょう。そこでやっていくためには、最低限泳ぐだけの基礎体力と技術、知識が必要だというのも事実。それら基礎力を増強する過程では、負荷を与えて耐性をつけ、サンプルケースを収集して学ぶという過程が不可避であるから、一定それらには意味があるという点では正しいです。
巧妙に嘘ついてるのは、いかに恵まれない環境で幸福になれたとして、あるいはいかに向上過程で不愉快なことが不可避であったとしても、だからといって既得権にあぐらをかいている「不当利得」が正当化されることはない、という点です。この世が理不尽だとして、ならば次に考えるべきは、どうすれば理不尽を減らせるか?でしょう。そして減らすためには、なぜこの理不尽は起きるのか、そのメカニズムはなにか、どうやったら修正できるかであり、そこをこそ考え、実行すべきなんだけど、そっちにいかないで、理不尽はもうどうしようもない天災みたいなもので、それをどうこうしようとは思うな、諦めろとして、逆に理不尽に耐えている姿をエライものとして称賛し、理不尽比べの不幸自慢に導いている部分が大嘘でしょう。大事な分岐点で、正解の道のところに「通行止め」と嘘の標識だされて、それを素直に信じて、地獄への一本道を選択してしまうという。
そして、最も大きな被害は、それによって自分の人生は「ここから、ここまで」と世界観が縮減されてしまうことです。これって、もう片足切断されたくらいのダメージがあると思いますよ。たまたまテストでいい点が取れないから、頭が悪いんだと「飛躍」し(テストと知的聡明さは絶対比例しない)、頭が悪いやつに一流企業など良い就職先につけず、一生、ワープア的な立場に甘んじるしかないという世界観。また、仮にそれらの社員になれたとしても社畜的扱いをされるだけであるとか。でも、社畜でイヤでカジュアルだけでやっていくとしても、その世界観を前提にする限り、社畜よりももっとひどい下男下郎、下女端女(はしため)、さらには奴隷階級になるだけでしょ。単に給与収入面が損というだけではなく、ありとあらゆる社会的局面で割を食い続ける。でもって、奴隷はどこまでいっても奴隷なのよね、無駄にあがいても腹減るだけだ〜という「諦念定食」みたいな、はい、諦定、いっちょう入りました〜と。
それクソじゃん。
もう突っ込みどころは、葡萄のようにたわわに実ってるんだけど、一番でかいのは「ここから〜ここまで」って人生のコート、グランドを自分で書いてないことです。最低限そのくらい自分で書くべきで、他人に書いてもらってるはいけない。少なくとも鵜呑みにしてはいけない。魔術も詐欺も、騙されるときは最初の一歩からもう騙されているんだわ。最初の設定を微妙に狂わされている。トランプだったら、最初からイカサマのカード(相手からは裏の数字がわかるとか)を使われているようなもの。あとは普通にやってるだけで、どんどん負けが込む。
ここで言えば、「世の中そーゆーもん」という最初の設定=世界観を狂わされているからだと思う。それは、ワーホリでやってきて、たまたま周囲の日本人全員が日本人村に固まって暮らしているし、ファームも奴隷ファームみたいなところに懲役3ヶ月のように行っているから「そーゆーもんだ」と思ってるのと同じです。
何度でも言うけど、そんなことないって!
それはやり方が悪いとか、知るべきことを知っていないとか、全体が見えてないとかいろいろあるけど、そもそも「知ろう」「良くしていこう」という意欲それ自体を根こそぎ奪われている点が一番問題だと思います。それは「そーゆーもんだ」という刷り込みです。もう刷り込まれた時点で、半分詰んでるといってもいい。
世界観の正解=「わからない」
これも半世紀以上生きて思うのですが、この世は「こーゆーもん」って思ってたことって、たいていひっくり返ります。かなり混沌としている。世界の気候みたいなもので、あるところでは灼熱の摂氏50度で、あるところではマイナス50度で、あるところでは水がありすぎて洪水氾濫に悩まされ、あるところでは砂漠化して困っている。ありえないくらい腐敗や圧政が日常化しているところもあれば、ありえないくらい透明な社会を作り上げているところもある。統一的に「こう」とは言えない。これは狭い日本社会において場面によってかなり違う。ブラックを絵に描いたような職場もあるかと思えば、かなり自由闊達にやってる職場もある。DVが虐待が慢性化している家庭もあれば、本当に仲睦まじい家庭もある。真剣に「地獄の沙汰も金次第」という金万能な局面もあれば、お金なんか大した意味をもたないところもある。専門知識技術がモノをいう場面もあれば、人間的な要素が前面にでてくる場面もある。
要するに「こう」と一括りには出来ない。それだけはどうも確かなようです。世の中を知れば知るほど、そのリアルな姿は、思った以上にもっともっと混沌としていて、なんでもアリなくらいメチャクチャで、それは同時にそのくらい自由だということでもある。
したがって、最もやってはいけない過ちは、「こーゆーもん」という発想=一つのシンプルなパターンで全てを捉えようとすることだと思う。自分の狭く小さい脳内キャパに合わせて、本来混沌として豊穣なリアルな世界を、単純化し矮小化させること、それだけはやってはいけないと僕は思う。
考えてみれば2メートルにも満たない個体が、地球の表面積・5億1000万平方キロ(陸地だけでも1.5億)の広大のエリアを理解できるわけないじゃないですか?日本の総面積なんぞ51000分の37にすぎない。大きな畳サイズの和紙に書家が字を書く。和紙が地球なら、墨痕あざやかな字の部分が陸地、日本は飛び散った墨の飛沫みたいなもん。その飛沫サイズですら知っているのか?47都道府県のうち自分の足と目で見聞した面積がどれだけあるというのか?それで何がわかるというだ。
人間の数も同じことです。人口70億ってことは、7000000000人で、そのうち自分は何人知っているのか?それぱっかしのサンプルケースで、何がわかるというのだ?メディアや教育でわかったような気にさせられているだけでしょ。自分で見聞して「なるほど、こうなっているのか」と実際に検証したものってどれだけあんの?
決めつけた順に地獄に落ちるの法則
これまで生きてきた僕だけの経験則(ゆえに間違ってる可能性も高いが)は、大体において、「こう」と決めつけた人から順に失敗している。よりシンプルに、より小さく、より確定的に決めつけた順に地獄に落ちてる感じがします。例えば、なぜかモテない男子(女子)の場合、なぜモテないのか、なぜそのアプローチやデートがあかんのかというと、「女の子はこういうもの」という決めつけが強いからだと思う。容貌や収入なんか実は決定要因ではない。大したことないのにモテてる奴はいくらでもいるし、ましてや収入なんてマイナス(食べさせてもらっているヒモとか)がいる以上論ずるまでもない。なにがあかんかといえば、一つには「こう」と決めつけているから。その決めつけが単純で、小さくて、強いから。「こう」と決めつけること=目の前にいる個人をちゃんと見てないことにほぼ同義であり、それは一人の個人に対しては最大の侮辱ですよ。喧嘩を売ってるようなもので、そりゃ相手にされんわ。
それは就職でもビジネスでも同じことでしょう。一般解なんか無いし、仮にあったとしても固執したり、依存すべきではない。「会社/顧客というのはこういうもの」と決めつけてはいけない。商取引であろうがなんだろうが、個人と個人の付き合いである以上、相手の凹凸と陰影にフィットして柔軟に対応した方が成功率は高まる場合が多い気がする。一般的にはこうしていますが、でも聞いているとあなたの場合はちょっと違うので、ではこういうことにしましょうと、臨機応変に解決策を持ち出した方がうまくいく。
逆にほぼ間違いなく失敗できるのは(笑)、こうと強く決めつけることです。投資詐欺なんかもそうで、「絶対儲かりますから」の営業トークは、どっかしら強い決めつけがある。今世界の相場は○で動いてますからとかいう、そこが嘘なんだわ。本当はもっと複数で複雑な要因が絡み合ってるんだけど、そこを無視して、強引にシンプルなメカニズムにするのですよ。そして「夕焼けの翌日は晴れる」的なシンプルな論理に置き換え、さあ夕焼けですよ、明日晴れますよ、全財産ぶっこんで大儲けする大チャンスですよと言われて、そそのかされて、その気になって→ドカンでしょ?
手を伸ばせば触れる目の前に現実においてすらこれだけの幅があるならば、触れもできず、想像するだに気が遠くなるような広大なこの世界が、なんで「こう」と単純に分かるというのだ?わかるわけないじゃん、そんなもん。
ダイナミックレンジ〜「ここ」と「ここ」
それに加えて「ここから〜ここまで」、MIN〜MAXの幅の問題があります。実際よりもかなり狭く解釈してる場合が多い。不幸〜幸福のレンジでも違う。単純に金持ってる・持ってないの貧富差においてもそうです。わかってるようで分かってない。
最近のレポートで、日本観光立国化において、日本の5つ星ホテルが極端に少ないという点が指摘されてました。数え方によりけど、とある計算では、日本には5スターホテルが28しかない。ベトナムの26軒をかろうじて上回るけど、タイ(110軒)、メキシコ(93軒)に遠く及ばない。そして観光収入と5スターホテルの相関関数は91.1%で5スターホテルが多いほど金が儲かる(詳しくは、外国人が心底失望する「日本のホテル事情」、続編)。ゴージャス方面において日本はかなりリッチな国かと思いきや、ことホテルになったらタイの足元にも及ばない。それは一泊数十万だろうが百万だろうが気にもしないで遣う人たちの存在をそんなにリアルに見えてないということでもあるでしょう。上をみたらキリないですけど、上の発想でいえば、そもそも年収10億だろうが、年収とか給料とか他人から貰ってる時点でもう下層階級。さらに上になれば金とか資産とかそんなもんは、庭の草むしりメンテみたいなもので、そんな雑務は庭師(執事とか下の連中)にやらせておけばよく、お金とかそういう原理で生きてない層がいます。
逆に下を見れば、リストラ=失業=破産=ホームレス(or 食い逃げで刑務所)あたりがボトムだと思ってたら、ホームレスだって熾烈な競争があるわけで、ダンボールの我が家を構築できるのは成功者のエリートで、それ以下がたくさんいる。そこから先はウシジマくんの世界で、生活保護費のための家畜的存在として暴力団に囲い込まれて闇労働やら、治験や臓器移植のためにコンテナに詰め込まれて生きたままどっかに売られたりで、下には下がいくらでもある。
リスク面でも殺人で死ぬのはせいぜい年間1000人でしかない(直近になるほど低くなり2015年はなんと313人)、交通事故で死ぬのはその10倍の1万人、自殺者は3万人。つまり他殺:自殺は、ほとんど1:100で自殺が多い。将来自分が殺害されるとすれば、その犯人は99%の確率で自分自身だと。ココ重要だから手を変え品を変え比喩を使えば、今の自宅を100人の刺客に取り囲まれているとすれば、その刺客の99人は実は自分でしたというのがオチ。逆にいえば自殺さえしなかったら、もう殺人リスクは無視していいくらいに激減する。さらに言えば、ほっとけばそのくらい死にたくなる世界に生きているから気はしっかり持てよってことです。
でも、自殺以上にもっと恐怖の数字があって、行方不明者は(死んでるかどうかすらわからない)年間8万人もいます。これは受理件数であり、その後多くは所在が判明してますから(青少年の家出とか)額面通りの数字ではない。しかし同時に、そもそもそんな届け出がない(心配して届け出てくれる身近の人がいない)ケースもかなりあるわけです。だから本当に恐怖の数字は「わからない」のですわ。闇から闇だったらもう統計もなにもあがってこない。ちなみに僕がセーフハウスだなんだ言うのは、そのあたりの闇世界が、前職の関係で他の人よりもリアルに感じられているからって部分もあります。オーストラリアはまだそんなことないけど、日本って怖い国だよ。
もっとも金さえあればいいのかっていうと、世の中そんなに甘くなくて、金もってるからこそ狙われるというリスク値もあがるんですよね。誘拐とか強盗とかもあるし、詐欺やら家族騒動やら紛争の火種ですらある。そして最強にして最凶な国家からも狙われる(相続税やら富裕層囲い込み)。かたや必死に勉強して高学歴になって、高収入になればいいかというと、先週やったようなAIとかで狙い撃ちされる。高収入ってのは同時に「人件費がかさむ」という意味でもありますからね。下っ端をカットしても知れているけど(だからこき使ったほうがいい)、高給取りをカットするとかなり儲かりますから。
これがいわゆるダイナミックレンジで、単純に金ある・ないだけの基軸でもこれだけレンジが広いし、また実際に動いている原理は複雑です。でもって、基準というのは金だけであるはずもなく、生き甲斐があるか、幸福か、人間関係が充実しているか、自分のだけのプライベートな時空間がどれだけ満たされているか、変化に対応できる柔軟なセッティングになってるか、しがらみが多いか、肉体健康が充実してるか破綻してるか、精神健康がどうか、、、もう無限にバリエーションがあります。
これら宇宙空間のように途方もなく広い、どっちが上でどっちが下かもわからない無重力空間のような世界で、いったい何を知ってるというとか?はっきりいって何も知らないに等しい。本やネットで聞きかじっても、実際にそうなってみたら予想してたのとは天地の差があるわけで、その意味でいっても何も知らないに等しい。こんなお寒い認識で「ここから〜ここまで」とか「そーゆーもんだ」とか、よく言えたなーって気がします。
時間的バリエーション
これまで述べたのは、リアルタイムの一点での話ですが、時代をズラしたらもっと混沌としてきます。今どうかすると100歳生きてしまう時代ですが(百歳以上が去年の9/15時点で6万5000人もいる)、百年スパンで世の中どう変わるか?例えば1964年は東京オリンピックやってた年ですが、その百年前には何をやっていたのか?新撰組が「池田屋の変」とかやってた時期です。ナマ沖田とか土方が本当に刀びゅんびゅん振っていた。それから百年、徳川がひっくり返り、薩長が権力を握り、武士という階層が消滅し、着物から洋服になり、1000年以上続いた髷という風俗が消え、馬や飛脚は全滅して電車と車が走り、日清、日露戦争があり、インドネシアからインド洋まで舞台に大戦争をして原爆食らって降伏し、復興し、テレビや冷蔵庫が常備され、オリンピックを開催するとこまできました。これで100年です。
「これからこういう時代になる」というのを、当時の歴史の最先端にいただろう沖田や土方が予想できたか?ましてや一般庶民が想像できたか?絶対に無理でしょう。そして世の中の変化は加速度ついて変わっている。ならばこれから100年、想像もつかないくらいに変わるでしょうよ。それこそ「絶対予想できるわけがない」ってレベルで変わる。「あの頃はまだ”国”というのがあって、日本とか呼んでたんですよね」「へえ、物知りですね」とか言ってるかもしれんのよね。だって、池田屋の頃の「国」というのは、土佐とか越前とかあのくらいが「国」であり、それが風土記や万葉集のころから千年以上続いた日本の純粋な「国」概念です。全部ひっくるめて〜なんてのは、たかだか19世紀以降のテンポラリーの発想に過ぎない。
世界観はわからなくて良い
以上の次第で、「ここからここまで」「こーゆーもんだ」という世界観は、まず間違ってると思っていい。そんな決めつけ、あっさりひっくり返される。せっせと老後の年金の計算をしてたら、その翌日には食中毒にあたって死んでるかもしれないし、土砂崩れや地震で家が崩壊しているかもしれない。それと同じ確率、同じ飛距離で、とんでもないラッキーが訪れてくるかもしれない。避難所で震えていたら、そこで生涯の伴侶や、終生の友と出会えるかもしれん。だって、人口1.2億いるということは、1.2億回の出産ドラマがあったということであり、それに至るだけの出会いと愛があったということでしょう?大都会にうじゃうじゃいる人間の数だけそうだというなら、そんな出会い、あったら奇跡ではなく、無い方が奇跡なのだ。本当に「あったら奇跡」だったら今頃東京都の人口は5人くらいになってるって。これはもうレンジが狭いというよりも、レンジ自体が全く正しくないと言っていい。どうしたらそんなに間違えられるんだ?ってくらい。あるいは何かの拍子に、「叔父さんがスペインで工場やってて来ないかって言われてるんだけど、キミも一緒に来ないか」って話があるかもしれんです。そんな夢物語〜って言うけど、だからそれがレンジが狭いって。今この瞬間にも日本以外の世界に散らばってる日本人は130万人もいると言われてます(去年の10月時点で131万7078人)。130万人って結構な数ですよ。京都市(147万)とさいたま市(126万)の間くらいで、あなたの友人で京都市やさいたま市に住んでる人がいるくらい、あるいは自分がそれらの都市に住むくらいの確率ですから、そんなに「夢物語」じゃないのよ。人口1.2億に130万人だったら百人に一人以上。毎日一人出会ったとしても1年間に3人は出会うくらい。いわば「普通」の話です。そして130万人海外に住んでるんだとしたら、130万回はその種の「行かないか?」「行こう!」という話やらドラマがあったということですよ。そんな荒唐無稽なことじゃないよ。
ということでオススメするのは、とりあえず「そーゆーもん」という世界観を一回ゼロリセットするといいです。じゃあ、ゼロにしてその後どうするの?といえば、別に「わからない」ままでも問題ないです。真実わからなかったら、「わからない」にしておくのが最も正しい。
もちろん、この世には電車が走ってるとか、こういう法律があるとか、そこらへんのノウハウは知っておいていいですよ。そのへんの客観知識は再利用できます。が、それとて確定的にしないほうがいい。電車だって10年後には廃線になってるかしらんし、法律だって一応あるだけで全然守られてないケースも多々ある(残業手当とかさ)。「一応」という程度に止めておくのが賢明。知っておいたほうが有利なことは多々あるから、それはサイエンスの最先端にせよ、世界経済の動向やメカニズムにせよ、世界政治の流れにせよ、文化教養にせよ、なんでも知っておいて損はないです。でも、それらを決めつけるのではなく、浮かせておくと。そーゆーもんだ、ではなく「そーゆーこともある」程度に。
そしてこの世はこういうもんだということを知らなくても実は、全然困らんです。人類の歴史を見てると、単純な絶対値でいえば、「地球が丸い」「地動説」という常識レベルのことを知らない時代の方が圧倒的に長いのだ。地球は平べったくて、その先には大瀑布になってる世界の終わりがあって、全体が亀さんに乗っていて、いや象さんが正解ってことを多くの人が思ってた。多分、あの世で世論調査をしたら99%の人が天動説を支持するんじゃないかな。そんなもん、そんなもん。
でね、じゃあその人達は世界観が間違っていて、あるいは知らなくて、それで幸福になれなかったのか?といえば、ぜーんぜん関係ないじゃん。別にそんなこと知らなくても、人は十分に幸福にたりうる。人の喜怒哀楽の感情、その感情の結節点たる幸福感情、それは10万年前とそんなに変わってないでしょ。
ひと一人、あなた一人、幸せになるためには、そんなに何もかも全部わかってないとならない、ということはない。そりゃ知ってる方が何かと便利、何かと都合が良い場面は多いですよ。でも、そんなの下位の事務レベルの話であって、もっと上位階層の本質的な部分は、全然別の原理で動いてます。それに「わかった」とかいってもかなり限られた局面の話だし、結局のところ、本当は分からんのだしね。
だもんで問題は、まず「こーゆーもん」という誤った全体把握をし、その上で「ここから〜ここまで」という自分の人生レンジをさらに誤謬の自乗のように(通常はありえないくらい狭く)設定し、それで絶望したり、やる気が無くなったりという、愚かさもここに極まれり的なパターンです。そして99人の刺客=自分に攻撃されて死んだり、死なないまでも傷を負ったり、怪我はしなくても不安でドキドキしたりってパターン。自分を苦しめている最大の敵は、大抵において自分だという。
何度も言うが、この世界は、どうも思ってるよりももっとメチャクチャな、なんでもアリのサプライズボックスのようなものです。それは混沌であるゆえに、豊饒なのだ。
で、冒頭の話に戻りますが、全体の精密な世界地図をゲットし、それで成功ルートを確定し、それしかないって方法論はやめたらいいよと思います。やっても大抵は裏切られますから。奨学金数百万の負債を抱えて、社会人をマイナスでスタートしたりね。そういう外在基準説というか、まず外界を設定し、そこから自分の生き方やありようを決めていくという、最初に外部ありきみたいな発想ではなく、逆に主観基準説で、まず自分はどうなりたいの?どうしたいの?どうなったらハッピーなの?を徹底的に考えて、感じて、それで進んでいったほうが間違いが少ない。だって結局いくら考えても外界はわからんもん。わかったと思っても嘘だもん。仮にそれが真実だとしても、ちょっと時間がたったらすぐに変わるもん。右往左往しているうちに、はい、時間でーす、で死んじゃうよ。馬鹿馬鹿しいじゃん。
でね、最後に一番大事なことを言います。
世界が混沌だ、分からんわー、考えるだけ無駄だとか言われても困るでしょ。不安でしょ。やっぱ全体が分かってないと不安だよね?なにをどうしたらいいのか分からん、こうすれば成功する、こうやれば大丈夫ってのを教えてくれ〜とか思ったりしません?
不安感すらも刷り込み
でもね、これも長生きしてわかったんだけど、その不安感もまた刷り込まれたものですよ。不安でないといけないような、不安と感じるのが当然であるかのような、そんな気分に仕向けられているだけだと思う。本当は実は不安になってないのだ。知らないから、わからないから、だからなんだというのだ?だって、ちょっと前まで世界の人々は、世界がどんだけ広くて、どういう事情になってるかなんか全然知らんかったのよ。ましてや世界の果てがどうなってるか?なんて、どうせ一生行きっこないような場所なんだからどうでもいいのよ、興味ないわってのが正直なところでしょう。あなたの日常において、土星と木星の順番がどっちがどっちか知らなくても支障はないでしょう。今、土星の輪っかのなかで何が起きているのか?とか別に知りたくもないだろうし、知らないから不安になることもないでしょう。大昔に世界は亀の上にあって、端っこがナイアガラの滝になってて、、とか、いくらなんでもそれは嘘だろって話がまかり通っていたのは、そもそも皆興味なかったからだと思いますわ。興味がなければ不安もない。
動物だって世界経済のこと全然知らんけど、かんけーなくそれぞれの生を全うしている。そして人間も、赤ちゃん、幼児、少年時代、そんな複雑な大人の世界なんか知らんけど、だからそれが不安にはならない。あんだけ何もしらなくて、なんで天真爛漫に笑ってられるのか?です。あれだけ無力で、大人がその気になったら、今この場で殺されるかもしれないのに、それでもきゃっきゃ遊んでられるのは、なぜか?です。自分だって昔はそうだっただよね。
そんなの、自分にとって本当に必要な範囲でのみ知っておいたらいい。分からなかったら正直に&正確に「わからない」という前提で冷静にコトを進めればいい。それができるなら、そんなに不安に苛まれることはないだろう。また何もかも知る必要はないし、本当は興味もないだろう。
なんでそんな茫漠たる不安になるのか?これね、多分、やりたくないことやらされているから、だと思いますよ。本来やりたくないんだから、出来るだけ省エネしたい、出来るだけ被害の少ない楽なルートを知りたいという減点方式。だからそれが分からないと、近未来に激しい苦痛を受けるかもしれない、ひどい目に遭うかもしれない、それが恐怖で、それが不安。だから何でもいいからわかった気になりたい、これでいいんだ、これがベストなんだとお墨付きを貰いたいって心理になるのだと。
でも、そもそも最初の一歩でもう騙されているよなー。生きてるのは、やりたくないことをやるためではなく、やりたいことをやるためでしょ?ゲームのルール、攻撃と守備を間違って刷り込まれている。バッターボックスに入るのは点を取るためなのに、空振り一回したら1失点するかのように思い込まされている。そりゃあ恐いよ、それじゃ不安でしょうよ。でも違うって。
でもね、やりたいことがない人は、結局、やりたくないことを義務的にこなしていくだけの日々になります。何の展望も、なんの夢もなくね。そら詰まらんわ。でもって不安に苛まれ、不安から逃れられるためには○をしろ、○をやれと言われてその通りやって、いざとなったらご破算だったり。踏んだり蹴ったりだよな。なにがあかんのって、攻撃すべきときに攻撃してないだもん、点取ってないんだもん。
逆にやりたいことが薄ぼんやりでも見えてたら、話は全然違うですよ。そのやりたいことをやるためにはどうしたらいいか?って骨格がクリアに見えてくるから。その範囲で研究したり調べたりすればいいし、わからないならわからないで浮かせておける。難しい冬山登山でも、山の天気は変わりやすいから「わからない」として、わからないなりにどっちに転んでもいいように準備をするでしょ。不安は多少はあるかしらんけど、なんであれソリッドな実務として処理できる。そこに不安はないし、不安という感情の海で溺死するということにはならない。
この混沌とした無重力のような世界に、重力を発生させ、天地を確定し、方角を作るのは、ほかでもない自分自身であり、その根源になるのはやりたいことであり、なにをもって「やりたい」と思うかは、楽しい!と感じられるかどうかの感情世界です。ということで冒頭の結論に戻るわけです。好きなこと、楽しいことを突き詰める方がより「現実的」な方法論になるのだと。そんな「苦痛最小化法」みたいな守備だけやってる野球みたいなことやっちゃ損だよ。
漫画紹介
[松原 利光 ] リクドウ
あしたのジョーや、はじめの一歩との共通属性が豊富にあるベタなボクシング漫画です。主人公が恵まれた生い立ちではなくアンダーグラウンドとの接点を持ってるという点では「あしたのジョー的」であるし、その代わりお調子者で陽気な矢吹丈タイプではなく、真面目で我慢強い一歩タイプだという点。そして、巻が進むに連れ、キャラの立ったライバル達が出てくるところは定番です。
しかし、一方では、数多のボクシング漫画と異なる強烈な個性もあります。それは主人公が「可愛い」という点です。借金に負われたお父さんが首をくくるのを間近に見てた幼児時代、後釜に入った幼児虐待のクソ男をお母さんを守るために正当防衛的に殺してしまった少年時代、さらに孤児院で優しくしてくれた先生がゴロツキに襲われても助けてあげられなかったことなどの経験から、主人公のリクには「大切な物(女の人)を守る」というただその一点にボクシングをやる意味、ひいては生きていく意味が収斂されています。
そのガラスのように透明で脆いハートを懸命に守っていくこと、そのためにはどんなハードな練習にも弱音一つはかないこと、それらのキャラは一貫してます。必死に涙をこらえている少年のような美しさがそこにはあり、それがベビーフィエスの造形と相まって可愛いのですね。殆ど表情も変えず、寡黙で、いたいけで、ケナゲで。「一歩」のようなギャグも殆どなくてシリアス一辺倒なんだけど、全編にわたって魂の緊迫感のようなものがある。それが、血生臭く暴力的なボクシング漫画ながらも、なにか侵すべからざる独特の清らかさがあり、そこが最大の魅力だと思います。
そのリクに絶妙に絡んでくるナイスな脇役が所沢さんで、もともと天才ボクサーだったのが事故でリタイア、身を持ち崩してヤクザの用心棒のようになったいた彼ですが、リクの人生のトラウマ的転換点の局面に偶然居合わせ、リクにボクシングを教えます。以後、要所要所で現れてアドバイスし、彼の出身ジムも紹介し、陰にリクを支えます。リクにとっては、あこがれの人であり、導いてくれるメンター的な存在。あと、ジムの会長が、定番ですけど丹下段平や一歩の会長のように名トレーナーである点。
[南條範夫×山口貴由] シグルイ
この漫画はですねー、最初表紙をみたときは、思いっきりホモ漫画かと思いました。いや、ストーリー的にも内容的にも全然違う、純然たる武士道漫画、チャンバラ物語です。にも関わらず、執拗に、不必要なほど出てくる男性の筋骨隆々たる裸体描写はなんなんだ?まあ女性の裸体も出てきますけど。それと、日本刀で斬ったあとの臓物の描写とかね、昭和のエログロロマン的な、昔のSM雑誌のイラストみたいな(知らんか)、なんか偏ってるなあ〜という。
あーもうこれダメって思いきや、ストーリーは面白いのですよね。読みだしたら止まらない感じで、起伏が上手。そしてこれぞ武士というくらい、非人間的なまでにキリキリ窮め尽くした世界が展開され、その超絶的な剣技にせよ、主人公たちの武士としての端然たるたたずまいにせよ、もう美しいくらいです。
そして思ったのですが、これってこの漫画がそういう傾いた趣味を持ってるのではなく、もともと当時の封建社会や武家社会というのがそういう傾向を持っていて、それを忠実に描写しようとしているからなのかなー?と。奇しくもこの作品の最初の方に書かれているけど、封建社会というのは、少数のサディストと大多数のマゾヒストによって構成されていると。徳川忠長が暴君として出てくるのだけど、周囲にいる女性や小姓、家臣にいたるまで、ほとんど趣味で嬲り殺しにしている。単に、残虐冷血なシリアルキラーでしかないんだけど、それでも将軍様の弟だということですべて許されるという超理不尽(最後は将軍から切腹させられるけど)。それをじっと耐えるしかない武士達。まずここが相当歪んでますよね。そういう世界なんだと。それを賛美するのではなく、かなり批判的に描いているんじゃないかな。
あと全編を漂う肉体性、エロ性、ホモセクシャルを連想させる点も、ストイックな男社会のある種の形ではあるのでしょう。刑務所内みたいに、大きなところで抑圧されていると歪んでくるのかな〜。天然にLGBTだったら別にどってことないのに、そうじゃなくてもそう仕向けられていくみたいな感じ。実際、昔の日本のホモ系のグラビアとか、なぜか褌ひとつの筋骨隆々みたいな感じだし、なんとなく右翼的、軍隊的、応援団とか体育会系的なものとホモ的なるものは親近性があるような気がする。あのストイックな世界との同じ町内にいるような。ちょっと前に読んだ誰かのコラムに、日本のサラリーマン社会、男社会というのは基本ホモ&マゾの価値観であるとかありました。すごいこと言うなーとか思いつつも、まあ、そういう部分も無くはないなって。
これだけのストーリーならば、池上遼一とか小島剛夕あたりに描かせたら、立派な武芸帳になったんでしょうけど、敢えてこういうキワモノ的な仕上げにしている気がするし、それは日本の男社会のある種の歪みに対する批評的なものかもしれない。タイトルのシグルイは、「死狂い」という武士のバイブル「葉隠」からの引用ですが、極端にストイックな美意識ゆえに非人間的になっている世界。ある視点からみれば、人間の奇跡のような、この上なく崇高な世界なんだけど、視点を変えたら、とっても馬鹿馬鹿しいことをやっているという。
ただ、そんな中で、歪んだ沼に咲いた可憐な蓮の花のように、主人公の男女が最後にハッピーエンドになっていくのは救いです。封建的で非人間的な倫理に洗脳されまくっているのではあるけど、だからこそ逆に純粋な形で昇華しているという。ラストの方は、武家の倫理から、普通の男女のナチュラルな世界へ脱皮していくメタファーみたいなものかなー。
そもそも主人公である二人の剣客こそは武士の極限を極めつつも、強烈な武士社会へのアンチテーゼなのだと思う。伊良子清玄は下層の生まれから這い上がるために剣を磨き、いずれは人間を差別するこの階級世界そのものを否定するのが野望の本質であった。藤木源之助は、武家倫理の権化のような人物だったのだが、それが極め尽くされていくなから、武家倫理の非人間性にその身を引き裂かれ、一回死んで、徐々に一人の人間として再生していくかのように見えます。けっこうテーマは深いんですよね。
「航空力学」って言葉を思い出してしまった。
これはちょっとボケてしまった。
文責:田村