今週の一枚(2017/07/03)
Essay 832:企画の愉悦と自己実現
写真は、Circular Quay駅のホームから見たハーバーブリッジ。
企画と準備の愉悦
HPのトップページやFBで告知しておりますように、今月の下旬から来月初頭まで2週間ほど定例の一時帰省します。実家のある京都をベースに、東京、中京圏(三重)にも行きますので、この機会に直に話してみたいとか(話題はなんでもいいですよー)、オフ会なるものを見てみたい、オーストラリア経験のある人達にあれこれ聞いてみたいなどありましたら、Don't be shyです。掲示板でも、僕あての直メールでも結構ですのでご連絡くださいませ。
やあ、楽しみだな〜 \(^o^)"\
企画の愉悦
何が楽しいかって、新しい人に会えたり、旧交を温めたり、そして新しい展開に進めていくこともさることながら、オフや相談の「企画」が楽しいのですよ。文化祭でも、スポーツの試合でも、バンドのステージでもなんでも、企画・準備の段階が楽しい。本チャンも勿論楽しいんだけど、トータルのボリュームでいえば90%くらいは「企画の愉悦」が占めていると思います。おし、今週は流れのままにこのあたりの話からしましょ。展開全然考えてないけど。
「遊び」そのものよりも、遊ぶことを「考える」行為が楽しいです。その創造的プロセス。
旅行の計画でもあれこれ考えている段階が楽しいでしょ。どこ行こうかな〜、温泉いいよね〜、海いいよね〜と考えているだけで、昔経験した快楽記憶がよみがえってきて、「はああ」と追体験トリップしていい気持ちになれるし、旅行系の雑誌やらサイトをみると、またソソるような写真がたくさんあって、見てるだけで楽しい。宿決めも、お、こんな宿あるじゃん!とか宝探し的に面白いし、時刻表とにらめっこしながら旅程を組むのも完全犯罪を目論む「点と線」的に楽しい。
んでも、別の言い方をしたら、めちゃくちゃ面倒臭いことでもあります。調べたり、予約したり、埋まってるから別のところ探したり、予算オーバーしてカリカリしたり、乗り継ぎがうまくいかないから又悩んだり、かなりの仕事量ではあります。もう「おまかせ〜」で旅行代理店さんやら、下っ端に幹事を押し付けて、何も考えたくないって気持もわかります。企画準備は料理みたいなもので、「僕、食べる人」で、作る過程はノータッチ。じゃがいもの皮むきなんか面倒くさくてやってられるかって。
まあ、確かに面倒臭いといえば面倒臭いのだけど、でもねー、そこを面倒臭がってたら人生トータルで大損ぶっこくと思いますよ。いや、ほんと。そんな企画愉悦に浸ってる暇のない出張旅行だったら他人任せでもいいかしらんけど、自分で遊ぶ場合は、極力手作りが、僕はいいです。
自己実現は気持いい
だって、そうじゃん?自分で考えて自分でやるから自己実現になるんだもん。「自分」というのはこの肉体だけではなく、どっちかといえば頭の中の自我ですし、頭の中であんな事こんな事考えているモヤヤンとしたカスミのような抽象的なものが「自分」だと思う。で、そのもやっとした抽象的ななにかを、ガチッとソリッドで具体的な物体なり現象なりに結晶化させていこうとすると、あら不思議、これがめちゃくちゃ楽しいんですよねー。
脳内を現実化することは楽しい。自己実現=セルフ・リアライゼーション=self-realization=セルフをリアル化させるのは、えも言われぬ楽しさがあります。それも中途半端な楽しさではなく、極大値になれば、それを味わうためには人生棒に振ってもいい、死んでもいい!ってくらいのレベルの快楽度まで達します。そうでなければ、アーチストがあそこまで自分を追い込んで、生きるか死ぬかの瀬戸際でなにかを創造するなんてことが出来るわけがない。あそこまで出来るのは、やっぱりそれに見合った「快感」があるからでしょう。ビジネスマンがムキになって徹夜してるのも、起業家が東奔西走しているのも、革命家が命がけで動くのも、同じことです。ある程度までは義務とか仕事とかあるけど、その一線をやすやすと超えさせるのは、脳味噌が灼けつくような快楽がそこにあるからですよね。
そこまで極大値の快楽でなくても、一歩前に進むだけでもうほんのり楽しさが色づいてきます。
例えば、ふと部屋の模様替えを思いつく。どうもカーテンの色がイマイチだな、冬場はこの重厚な色合いも悪くないけど、夏場になると重苦しく陰鬱な感じもするな、もっと軽やかな色とか材質のものにしようかなと思う。ショッピングセンターに出かけた際に、こんなんどうかなー?うーん、ちょっと違うな、これいいけどサイズが合わないなとか探すだけでも、ほのかに楽しいでしょ?単に探すというだけで、脳内実現にむけて半歩くらい進んだ段階でなにやら盛り上がってくるものもある。それもやってるとだんだんムキになってきて、もう通販で調べたり、ネットで探し始めたらキリがなくなってくる。
あるいは、海外だ英語やらなきゃで、書店にいって参考書を見ているだけでも、なにやら物事が進んでるような気がする。そして、お、これいいじゃんとか思って一冊買うと、もうその時点で既にそこはかとない達成感らしきものを抱いたり(で、買うだけ買って読まないんだけど)。
なんか物事が進むとうれしい。別に完成しなくてもいい。頂上まで上り詰めなくても、第一歩を踏み出しただけでうれしい。それも大事なのは、自分で考えて、自分が働きかけてそうなったという因果関係の部分です。ジグソーパズルやってて、あとちょっと完成という段階まで持っていったところで、知らないうちに誰かが勝手に完成させてしまったら、何かうれしくない。
それは人類の業、進歩の根源
なんで自分の脳内のなにかが現実化するとうれしいのか?その医学的なメカニズムはわかりません。が、普遍的な現象としてはそう。そこで何らかのドーパミンだかなんだかの脳内快楽物質が分泌されるんじゃないかな。その分泌状態を、ひとは充実とも幸福とも呼ぶのでしょうが、名称はともあれ、そーゆー具合に人間は作られている。
おそらく、これが人間の創造欲求や進歩の根源なのでしょう。なんとかもっと上手くできないか、こうはできないかと思わず工夫してしまう、実現しようとトライしてしまう。頻繁に使う携帯電話には、ケースやらストラップやら自分らしいカスタマイズを施したくなる。もう性(さが)みたいなものなのでしょう。もしかして、大昔、猿から人間になる過程で、そういう工夫&創造快感を感じやすい個体と、全然感じない個体がおって、感じる個体が生き延びてホモ・サピエンスのメインストリームになったのかもしれない。そうやって営々とクリエイトなりカスタマイズしてきたからこそ、そこに進歩が生じるし、火を使ってみようとか、自分で食べられる草を栽培したらいいじゃんとか(農業の発見)があり、生き延びる確率も高まっていったのでしょう。
ま、そんな大袈裟な話はともかく、脳内になにか思いついてしまう、考えてしまう、そしてそれを実現しようと頑張ってしまうのは、それが「勤勉だから」「エライから」以上に、とにもかくにも「気持ち良い」のでしょう。まさに人類王道の快楽。
仕事=ドーパミン基準説
よく、バリバリのビジネスマンなどが言いますけど、超本気で仕事してるときって遊んでるのと同じになると。お金が儲かるとか、出世できるとか以上に、その事自体が面白くてたまらなくなりムキになってやってしまう。「本気の仕事」=「大人の遊び」って言われますけど、仕事が純化していくと遊びになっていきますよ。「遊びココロが大事」とか言われるけど、そんなちょっと付け足し的なものではなく、イチから十まで全部遊びになる。思うのですが、もし仕事しててこの純化→遊び感覚までいかなかったら、僕の定義では、それは「仕事」ではないと思いますね。単に給料やお金をゲットするための「金銭収集活動」であって「仕事」ではない。ま、言葉の問題、定義の問題ではあるのだけど、少なくとも「男子一生の仕事!」とか胸張ってドヤ顔するほどのものではない。逆にお金があんまり(全然)入らなくても、本気でムキになって遊べたらそれは仕事と言ってもいいと思います。別の言い方をしたら、なにをもって仕事というかという基準に、お金が入るかどうかという「金銭基準説」が通説なんだろうけど、いや、それはムキになれるかどうか、楽しいかどうかでしょうって、ドーパミン基準説もあると思います。
だって、織田信長や坂本龍馬がやった「仕事」って、別に金銭収集活動ではないでしょ?でもってイヤイヤやらされてる感じでもないでしょ?好きこのんでハードにのめりこんでやっている。老年になってから日本全国歩きまわって地図作った伊能忠敬にせよ、狂ったように世界で一番危ないところ(南極点とか北極点とか)に行きまくった探検家のアムンゼンにせよ、80年代に3回も破産している映画監督のコッポラにせよ(後年の富は映画ではなくワイナリーで稼いだ)、そこまで著名人でなくても、なんか楽しげに活き活きと仕事してる人って、ゼニカネ論理では理解しがたいことをやってるもんです。その理解しがたい部分がめちゃくちゃツボなんですよね。楽しいの。
ただ、21世紀の先進国の不幸は、たまたま産業的に端境期に入った(画期的なブレイクスルーの新技術が尽きた)ので、伸びしろが無くなり、ちょっと前にエレファントカーブで紹介したように世界人類で一人負け状態だし、仕事それ自体が面白くなくなってしまった点でしょう。「予算は1億でも2億でも幾らでもつけてやる、思いっきりやってこい!」とかいう景気のいい話はあんまり聞かなくなってしまって、やれ失敗しないか?アラ探しされないか?とかやってたら、そりゃ遊びどころか罰ゲームみたいなもので、楽しいわけないですわ(それでも会社により、業種により、楽しくやってるところは幾らでもあるとは思うけど)。
「遊び」を思いつき、「楽しさ」を感じる技術と才能
話長くなったけど、だからこそ、なにかを企画するのは楽しい。それを実現していく一歩一歩が悦楽のステップであり、天国への階段になっている。そこを面倒臭がって他人まかせにしていたら、そしてそれが一生レベルでコンスタントに続いたら、これはもう途方もない損失だと思います。僕の価値観でいえば、生涯年収なんかどうでもよくて、生涯ドーパミン分泌総量こそが問題だと。最近面白くないなー、人生つらいなー、楽しいことないなーとお嘆きの貴兄貴姉におかれては、なぜ楽しくないのか?についてご一考されることをオススメしますし、それってもしかしたら「企画を他人に任せてる」からかもしれませんよ。
一番おいしい根幹部分
企画の最たるもの、もっともグランドスケールになるものといえば、「こういう人生が正解だ」という理想モデルです。いい学校→いい会社→安心の老後、、、なんてのも「他人の企画」でしょ?ゼロから自分で考えてそうなったんだったら別にいいけど、最初からそーゆーもんだと他人(世間)に押し付けられて、そーゆーもんだと思いこんでません?それ、ヤバイっすよ。なにがまずいって、どういう人生が自分にとって気持いいのか?というのは根幹部分であって、「一番おいしい部分」だからです。すき焼きにおける牛肉的、石狩鍋における鮭の切り身的な存在であって、それを全て他人に食われてしまっていいのか?と。すべての先入観をゼロリセットして、どういう感じに生きてるのがいいのか?実は人それぞれ、千差万別だと思いますよ。Aさんはとにかく他人にキャキャー言われたいという承認欲求の鬼だったり、Bさんはとにかく異性(同性)としっぽり潤いたいというのが終生のテーマかもしれないし、Cさんは雲のジュウザ的になーんの制約もない自由さえあればそれがサイコーだし、Dさんは役者のように局面別に自分を作り込んで「千の人生」を生きるのが楽しいと感じるかもしれないし、、、そんなもんなんぼでもある。
でもって、その根幹部分がわからんかったら、人生の組み立て自体が出来ないでしょう。だって、今目の前にボールがあるんだけど、そのボールをどうしたらいいか?これはサッカーなのか、玉入れなのか、ドッジボールなのか、それともボールの補修作業をしているのか、基本構造がわからんかったら何もわからない。今、何のために何をやっているのかもわからん。これじゃ面白くないですよ。
遊びは自分で考えるもの
そこまで根幹&哲学的でなくても、遊びというのは基本、自分で考え出すものです。そりゃ他人が始めて、その面白さと優秀さで広まった遊びもありますよ。スポーツにせよ、株式会社にせよ、将棋にせよ。でも既に存在するものでしか遊んではならないという道理もないし、法律もない。てか、将棋だろうが野球だろうが最初は誰かが考えたんですからね。自分がいちばん面白いなーと感じる遊びは、自分で考えるのが一番です。それは人類の原点でもあるし、小さな子供たちはナチュラルにそれが出来ます。子供用のおもちゃとして与えられなくても、そのへんの石ころを色別に集めたり、本を積み上げて高さを同じようにするとか、幾らでも即興で遊びを思いつくし、幾らでも遊べる。あれが原点でしょう?僕も記憶にあるだけでも結構ありますよ。小学校の下校の途上で、友達と石ころ蹴って電柱に当てる遊びとかやってたし、どっかから手頃な木片(50センチくらいの)拾ってきて、それを路上に叩きつけてバウンドしたり回転させたりして、その面白さ(おー、見事に3回転した!とか)を競ったり。
高校になってさえ、柔道部で練習サボって、柔道着丸めてボール代わりにして皆でアメフトやってたもんなー。下が畳だし、全員受け身が上手だから結構マジにぶつかってぶっ飛んだりして遊んでました。その隣では剣道部が竹刀のツバをボール(パックっていうのか)代わりにして、竹刀をスティクにアイスホッケーごっこやってましたよね。一応都内でも進学校だったんだけど。あー、でもこういう下らない遊びって偏差値高いほうがやってるかも。僕の友人は国立の高校で、デフォルトで東大行くところだったけど、皆でエッチな映画のタイトルを朗読するゲームをやってたそうな。当時新聞のどっかに映画情報が載ってて、そこに成人映画がまとめてあるんだけど、そのタイトルこそ創造性の権化のように面白いんですよね。それをシリアスな顔でどれだけ笑わずに読み上げられるか?というゲーム。ちょっとにらめっこ的な面白さがって、思いもかけず超しょーもないタイトルが出てきて「ぶぶっ!」と吹き出して負けてしまうという。これ盛り上がりますよ。今興味にまかせて調べてみたら、やっぱ秀逸ですよ。「マダムスキャンダル10秒死なせて」「七人の人妻」「肉体婚活」「風に濡れた女」「ツユだく姉妹どんぶり」とか、よくもまあ、というか、なにそれ?というか、エロは偉大ですな(笑)。これ、日本映画情報システム「成人映画」検索したら7384件もありました。あなたは、エッチなタイトル7000以上思いつきますか?
その意味でいえば、ほんとうは子供に玩具なんか要らないと思います。へたに与えたら創造性を殺す。特にゲームとかそのあたりのは、全部他人が決めちゃうから受け身になっちゃうでしょ。まあ、子供の溢れんばかりの創造性は、そのくらいでは殺されたりはしないだろうけど、でも、習い性になるというのはある。だから、玩具は創造性が枯渇した大人になってから(って違う意味になっちゃうけど(笑))。
行く着くところは消費文化の北極点みたいに、なにを食べるか、スィーツはなにがいいか、休日はどこに行くか、服は何を着るか、ぜーんぶTVや雑誌などに「教えてもらって」、自分は「買うだけ」みたいな感じになって、それ、面白いか?
いくつかのコツ
でも、いきなり自分で考えよう!とかいっても、どっから手を付けていいのかわからんという人もいるかもしれません。いるのかな?いや、いるんだろうなー。食べ物でも最近これが流行ってて〜とか言う人いるからなー。詰まらん仕事ならともかく、食いもんまで他人に指示されてて面白いのかなー?とか思うのだけど。基本楽しさセンサーの感度でしょうね。なんとなく面白みを感じるという。ここで注意すべきはアンチョコ見ちゃダメってことです。ヒマだな〜というのは、恰好な楽しさ感度開発局面なんだけど、そこですぐに答を探すみたいに他人の言ってること見ちゃダメ。ヒマだからってネットやっちゃダメ。ほんの数分でもいいんだけど、我慢して自分で考えてみるといいすよ。もしそこで真っ白なまんま、何も思い浮かばなかったら、かーなり重症だと思うぞ、
第二に、楽しさというのは、最初すごーく淡いですよ。色がついてるかついてないか、かなり注意しないとわからない。よく喫茶店や美容室で待ってる間、積み上げられている雑誌のなかから面白そうな一冊を取り出すでしょうが、そのときAという雑誌よりもBという雑誌の方が面白そうに思ったその差分くらい。かなりの微差だと思いますが、そのくらいの感度で面白さというのは感じます。最初からドカーンと面白いことはマレで、多くはやってる間に興が乗ってきたり、なにか面白いツボをさらに発見したりするものだと思います。つまり、最初の楽しさは非常に淡いので感度鋭敏にしないとダメよということであり、だんだん時間とともに楽しさが広がってくるというタイムラグもあるから、それも頭に入れておかないとダメよと。
第三に、快楽ストックとバリエーションの多さです。「こういうのは、こうやってひねると面白い」といういくつかのパターンがあって、それをどれだけ知ってるかです。こういうところは夕暮れがキレイとか、こういうスチュエーションで楽しむと良いとか。伝統的にもいろいろ開発されてますよね。例えば雪見酒とか。同じ飲むにしても、こういう飲み方をすると風流だね、気分いいねとか。あるいは、流しそうめんとか、あんな馬鹿馬鹿しいの誰が考えたんだ?って思うけど、楽しく成立している。わんこそばなんかもそうですね。ただ飲んだり食ったりするだけなんだけど、でも、ちょっとひねると興趣が増すというパターンは沢山あって、それをどれだけ知ってるかというストックです。
えーと、ほかにも色々あるけど、今回はこんなところで。
オフ企画
というわけで冒頭に戻りますが、いつも僕の帰省オフのスレは延々長くなります。最終的な実施要項だけ書けば良さそうなものなんですけど(それは冒頭にまとめたり、別URLで作ったりするけど)、あーでもないとか企画段階から全部掲示板でやるのは、この楽しさを共有したいからですね。なによりも自分自身が楽しいというのがあります。場所探しも楽しい。知らない所を色々調べたり、Google Viewで見てみたり、こういうのもいいなーとか、シュミレートしてみたり。考えてるだけでもう予行練習的に何度でも遊べる。またその過程で勉強になる、見聞が広がるって副産物もあります。
東京はですねー、成田夕方着でそっから直行。クソ寒いシドニーからいきなり夏の夕暮れ、ああ、ビールが美味そうだ。クソ暑いんだろうけど。皆も仕事だろうし、近づかないと予定も見えないだろうし、だとしたら人数も決めきれないだろうし、だからとっかスペース借りたほうがいいかなーとか。Airbnbの一棟貸しなんてのもあるのだけど、都心には少ない。ちょっと離れるとあるんですけどねー。
翌日は昼すぎまでいるので、それはそれでまた。前回(無念の病欠だったが)、上野公園前のロッテリアあたりに開放フードコートで三々五々集まって成行きでやったのだけど、ほとんど初対面なのに、なぜか一発でわかったそうだし。これ面白いんですよねー、過去の経験でも、初対面待ち合わせなんか数限りなく(数百回とかいうレベルで)やったけど、すぐ分かりますよね。あ、あの人だと。なんかオーラが違うんですよ。オーストラリアゆかりの人というか、なんでもいいけど、同好の士、同じ方面を考えている人というのはどっかしら波長同調するみたいで。あるいは、どっかしら浮世離れしてるんかしらんけど、カメレオンみたいに背景に溶け込んでしまわないでキャラが立ってる。
7末の三重(津)は、セーフハウスの実験調査みたいな感じで、空いているお家を貸していただいて、泊りがけて。花火やろうぜとか言ってたら、ちょうど予定している日のあたり(7/29)は地元で花火大会があるそうで、いや、日本の花火大会久しぶりだわ。近所の塾経営の方とコラボしたり、時空間のキャンバスにゆとりがあるから、あれこれ考えるのが楽しいです。焼肉とビールとかいいな、でも、油系だとお部屋がいたむからよろしくないかな、御当地名物とかなんかあんのかなー。前に津地裁に20-30回くらい通ってたんですが、印象としては道が広くて風通しがよさげな街でしたけどねー。
関西は、京都の町家宿を始めた方のところをお借りしてあれこれ企画したり、あるいは神戸までカツオのタタキの美味しい店を訪ねたり。まだ3週間あるから、たっぷり考えて遊べそうだし、遊びます。東京の夜の会場とかでも、「奥多摩まで行けるんじゃないの?だー、時間的に全然無理だー」とか馬鹿馬鹿しいプランでも真面目に調べたりして遊んでます。前回だって結局いけてないんだけど、さんざん考えまくって練りまくったから、実感的には参加したかのように思えてるし(これボケたら記憶が混濁するんだろうなー、何言ってんだよ、俺参加したよ!とか言い張ったりしそうだな)。
もちろん一対一で会うのも多く、そのときもご都合をお聞きして、どうすれば面白いか毎回考えますよね。単に京都で会って話すにしても湯豆腐食ったり、大文字登ったり、錦市場を見学したり、せっかく来たんだからこれはどう?みたいな。ひとりひとりカスタマイズするのが楽しい。
そんないちいち面倒くさくないか?って聞かれたりもするけど、楽しいことは基本面倒くさくないよ。むしろ手間暇がかかるほうが楽しい。美味しいご飯を食べるのと同じです。目も舌もうっとりするような素敵な料理を、ただ面倒くさいからといって、あなたはミキサーにかけて宇宙流動食みたいにして食べたいですか?手間暇かけるからイイんじゃないですかー。お椀の蓋とったりとか、自分の加減で鍋に材料ぶち込んだりとか、あさつきともみじおろしの分量を調整したりとか、そういう作業って面倒くさいですか?
漫画紹介
[原泰久] キングダム KINGDOM
これも超有名ですよね。でもほんとに面白いです。今リアルタイムに連載されているものの中では一番じゃないかなー?ってくらいの傑作だと思います。
中国史の戦国時代、秦の始皇帝とその家臣の飛信の話です。時代的には「項羽と劉邦」のちょっと前。秦の始皇帝が中華統一(紀元前221年)をしたもののその死去によってまた世が乱れ、項羽と劉邦が覇を競い、最後に残った劉邦が漢を作る。その漢(前漢・後漢)と延々つづいて衰亡してまた世が乱れた頃の話が「三国志」の時代(180年頃 - 280年頃)になります。かなり古い時代の話です。秦の統一以前はあまり題材になっておらず、僕も不勉強であまり知らんかったので(「墨攻」「奇貨居くべし」を読んだくらいかなー、あと前に紹介した「達人伝」はそれよりもちょい前)、秦の六将とか趙の三大天とかも初耳で面白かったです。
この作品の特長ですが、まずはストーリー。歴史もののストーリーなんか既に史実として定まってるのでアレンジの幅も狭そうなものなのですが、この作品は、フィクションを膨らませつつも、そのストーリーテリングが抜群に上手です。三国志とか信長・秀吉など史実的に有名な時代なら、読者もある程度の基礎知識があるけど、馴染みの少ない始皇帝の初期なんか、ゼロから読者に説明しないといけないわけで、その苦労は察するに余りあります。が、ものすごーく分かりやすく描けてます。なんでこうなるの?が一読してすっと頭に入る。その説明のダンドリが上手。あまりにも上手だから自然に読めてしまって、そこの技術や凄味がわかりにくいんだけど、かーなり複雑な話をよくぞここまでって。説明って、何をどの順番に言えば一番理解しやすいか?という論理的先後関係がかなり大事で、プレゼン系の仕事をしている人はさんざん現場で叩き込まれるでしょうが(それが英語の言語スピーキング能力、コミュ力につながる)、その意味でもこのマンガ、参考になりまっせ。
そして、なぜわかりやすいか?といえば、一つにはキャラ造形の凄さです。わりとシンプルな絵柄なんだけど、登場人物の個性と絵柄が際立っていて、誰かと誰かがごっちゃになるということが少ない。また一人ひとりの背景の物語が丁寧に描かれてるから存在感が違う。また、キャラの性格と見た目の合致率とか、長い物語でありながら人格のブレが少ないとか、そういう点もあるでしょう。主人公である信とか政(始皇帝)は当然にせよ、副長の羌かい(漢字がでない)、ライバルの李牧、メンターである王騎、廉頗やひょう公、桓騎などの将軍クラスにせよ、呂不韋や昌平君など文官にせよ、間違えようがないくらいにキャラが立ってます。
もう一つは政治、戦略・戦術の説明がしっかりなされてて、且つわかりやすい。なぜここでこの城を取らないといけないかとか、なぜ各国はこういう動きになるのかとか、そのあたりがびしっと書かれている。個人レベルの人間ドラマだけではなく、大局観もわかるから読みやすい。かといって説明一辺倒では当然なく、メインにくるのは人間ドラマです。これも飛信隊のいかにも少年マンガ的な爽やかな熱血ぶりというトーンと、戦場を行き交う将軍クラスの論理、そして政が語る「高邁」と形容しても良いくらいの政治思想や人間哲学、羌かいの暗殺一族の世界、、といくつかのレベルでの人間ドラマが並行して走っているのですね。それが入り混じっているから、ワンパーンにならないで、奥行きの深い読み味を出してます。
あとはマンガ的なデフォルメ(誇張)がいい具合に効果を出してます。迫力を出すときは実際の縮尺を無視して巨大に描いたりとか、豪傑の鉾の一振りで十数人がぶっ飛ぶという誇張にせよ、そんなわけないだろ?というツッコミもあるんだけど、「やりすぎ」ではない。別につっこむまでもないかって絶妙なレベルに抑えられてます。これってやりすぎると白けてしまうんだよね。
もう10年以上連載してて46巻にもなり、TVアニメも二回放映されているんだけど、そしてまだまだ話は序盤〜中盤でしかないという前途遼遠さでありながら、全然ダレない。10年以上テンションを維持しているのは凄いです。てか、むしろ最初の数巻が一番話としては浅くて子供たちの冒険話みたいなんだけど、どんどん重厚に壮大になっている。でも、初期の少年的な清涼感は一貫して失われていない。重厚になりつつも、爽やかであり続けるのって、言うのは簡単だけどいざ作るとなると難しいと思いますよ。
とまあ、べた褒めになってしまうのだけど、実際ケチのつけようがないのですね。あるとしたら、むしろ主人公の信のリアリティでしょうかね。魅力的なキャラでぐいぐい引っ張ってくれるんだけど、あの体躯とキャラデザで、あの戦闘能力というのは、他のバケモノ級の猛将達に比べると、ちょっと微妙なところはあります。まあ、そこは熱気でクリアって感じで、別に欠点というほどでもないのですが。
史実に加えられたフィクション部分が多いのですが、それが冗長に流れず、むしろ丁寧な解説として機能してて、読みやすさにつながってます。そして読んでてゾクゾクする、ページを捲るのももどかしいって名シーンも多いです。政と呂不韋が人間の本質論と政治論を戦わせるあたり、あるいは政と燕王が法治主義を説いているあたりは、現代にもまんま通用する政治哲学として面白かったです。貨幣の発明が、他人との数量的比較を容易にさせ、結果として人間の我欲を増長させてしまったなど、よくぞここまで踏み込んで書いたな、これこそ2017年の現代世界で語られるべきことだなとか。羌かいの敵討ちとトランス状態になる暗殺剣は、まんまフィクションなんだけど、こういう殺陣は今までなかった斬新な表現だし。合従軍が作られ着々と秦に攻め込んでくるという緊迫感の盛り上げ方やら、政が一般市民に演説するシーンであるとか語りだしたら止まらないってな具合にコンスタントに見どころがでてきます。
[笠原真樹] 群青戦記
同じ歴史ものですがこれは日本史、戦国時代。信長とか秀吉の時代です。
その時代に、安土城があったあたりの高校生が学校の建物ごとタイムスリップしてしまうという設定。戦国時代にタイムスリップという設定は、往年の戦国自衛隊という映画のほか結構あるのですが、これはちょっと毛色が違います。
まずタイムスリップする人々が高校生メインであること、それもスポーツの名門校でありエリートアスリートの集団であるという特異性です。確かにそのくらいの身体能力がないと戦国時代でサバイバルといっても苦しいものがありますので、なるほどの設定です。また、主人公はアーチェリー部だったので弓の名手になるとか、ロッククライミング部が石垣をよじ登るとか、部活の特技がそのまま戦国時代に活かされるという。
次に面白いのが史実が塗り替えられていってしまうことです。主人公たち高校生はなんとしても現代に戻りたい。そのためには史実が変わってしまったら、帰るべき現代も変わってしまって帰れなくなるというタイムパラドックス的要素が入ります。もう一つ興味深いのは、戦国武将のキャラデザインがけっこうイメージと違うことです。信長などイメージ通りなのもありますが、まず最初に出てくる秀吉が妙にさわやかなイケメンで剣豪であるとか、エリート官僚のイメージの強い石田三成が野性味あふれているとか、あれ?と思うような設定になってて、でも読んでるうちに違和感がなくなっていきます。
主人公の西野君は現代においては、ウジウジ系の少年だったのだけど、だんだん強くなって、皆のリーダーになっていきます。彼がまた、歴史オタクなのが設定の妙で、どこまで知ってるんだ?ってくらい詳しい。それがサバイバルの一助になっている。これは彼の成長物語でもあります。
荒唐無稽な設定ながらも、それ以外はけっこうリアルで、高校生たちがなぜか全員無事というご都合主義もなくて、わりと有力なサブキャラであっても戦場で死んでいったりします。実際にこうなったら、多分こんな感じになるのかなーというリアルさはあります。まあ、本当にどうなるかは分かりませんから、何がリアルなのかもわからんのだけど。
設定一発で終わってしまいそうなマンガでありながら、うまいこと史実をもとにしつつ話を進めていて、キワモノになってないです。
この階段、めちゃ急なんですよねー。こっちの階段一般にそうだけど。
文責:田村