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今週の一枚(2017/06/26)



Essay 831:セルフ・エスティームとセルフ・レスペクト


 写真は、Summer Hill
 Ashfeildの隣で、ドンコーしか停まらない地味な駅なんですけど、昔ながらの街の風情がかなりそのまま保存されていて、のんびり柔らかな空気感に癒やされてます。ENVYというカフェがお気に入りなので、定期的によく行きます。
 このクリーニング屋さんの看板も、もう年代物というか、いいなーと。

セルフ・エスティーム

セルフ・エスティームとセルフ・レスペクト

 かねがね思い、十年来書いてることでもあるのですが、日本人のセルフエスティームは先進国中ブッチ切りで低いそうです(心理学のフィールドワークをやってる研究者の方から直接聞いた)。

 セルフエスティームとは何か?をいい出したら人の数だけ議論があるでしょう。「自己肯定感」という訳語が一般に通っているようですが、まあ「自信」と言ってもいいんですけど。

 これによく似た言葉に「セルフ・レスペクト」があります。どちらも自分を尊重することに変わりはないのですが、論者によってそのニュアンスはさまざまです。ある論者によれば、レスペクトの方は「受容」(acceptance)がある。対象となるもの(この場合は「自分」)が客観的に優秀だろうがダメ人間だろうが、それとは関係なく「そのまま受け入れて尊重する」のがセルフ・レスペクトであると。例えば、何をやっても今ひとつなんだけど、「でも、頑張ってる俺」「ケナゲで可愛い私」という具合に受容する。自分の子供は、出来の良し悪しに関わらずに可愛く感じるみたいな感じかな。客観的な質にはそんなにリンクしてない。

 でも、エスティームは「良く評価する」という客観的な長所にリンクしている傾向がある。近しい言葉にエスティメイト(estimate=査定、値踏みする)があるように、その質を吟味して、その優れたところを評価するというニュアンスがあるように思います。

 このように掘り下げてると幾らでも出てきそうなので、ここでは僕なりの簡単なセルフ・エスティームの定義=「自分というのはこの程度のもんというクールで客観的な見積もり」「自分の推定性能」とします。客観的な(多くは肯定的な)自己認識ですね。

 これは勿論「虚栄心」「おプライド」とは明らかに違います。虚栄心はシークレットブーツのように「足りないものを嵩上げして見栄を張る」という心理的な偽装工作だから、セルフエスティームと虚栄心は反比例します。自分がダメだと思ってるからこそ虚勢を張らなきゃと思うわけで。また言うまでもないが「本気だせば」系のヘタレの脳内全能感や「いつか私も」シンデレラ願望などの飛躍系花畑系とも勿論違います。

 さて、セルフエスティームが低い(low self-esteem)というのは、自分の推定性能を低く見積もり過ぎていることなのですが、「謙虚でいいじゃないか」ってな具合に単純な問題ではない。結構ヤバイんじゃないかってのが今週のお題です。

日本語が出来て英語ができないわけがない


 セルフ・エスティームの高低の実例として簡単な例をぼっと出すと、英語が難しい、自分なんかにマスターできるわけがないって見上げるような絶望感で思ったりするわけですが、そこで「もう無理」と思うか、「いや、それでも可能」って思うかです。セルフ・エスティームが高いと後者になる。

 僕自身、セルフエスティームは高い方だと思います。それは「鼻持ちならない自惚れ屋」だからだって部分は大いにあるでしょう。はい、わかってますって、毎度すいませんね。でもそれを差っ引いても、なおも客観的な部分としてセルフ・エスティームはあると思います。それはどういう具合に認識されるかというと、「今の自分は全然ダメだけど」+「でも、やることやったらそこそこはいく筈」という形になります。

 僕だって、英語については苦労してます。オーストラリアに来た最初の時点で「うわあ、これは難しいわ」って打ちのめされるように思いましたし、今の自分も全然ダメだとも思うが(今この瞬間もそう思う=そこは自惚れてませんって)、しかしベースには「日本語(母国語)が喋れて英語が出来ない筈がない」とごく自然に思ってます。

 これが(自分の)「性能の推定」(エスティメイト)なんですけど、とにかく一つの言語(日本語)をマスターできるだけの学習力・技術力があることは既に証明されているんだから、もうこの時点で性能的には「出来るに決まってんじゃん!」と思うわけです。だって現に「言語を使いこなす」ってことが出来てるんだもん。あとは母国語と第二言語の差、取得のための学習環境や効率の差(母国語はナチュラルに英才教育的にやるとか、24時間フルに使うという練習頻度の高さとか)でしかない。その効率差によって第二言語が劣るのは当然だし、仕方ないけど、でもそれはそれだけの話で、マスターそのものが不可能であるわけではない。素材そのものは何の問題もない。あとは学習マネジメントが下手クソかどうかだけの話です。

 だから自分だけではなく、誰であれ母国語が喋れる人だったら、マックス母国語程度には外国語だって性能的には行けるだろうと思う。これが母国語でもダメな人、例えば文盲であるとか、失語症であるとか、文章書かせてもメチャクチャだとか、そういう脳の言語機能が十分でなかったら、第二言語も難しいでしょう。

普通の人がやってることは全部自分にも可能である

 同じように、自分と同じ他の人間がやってることは、全部自分にも実現可能だと思えるかどうかです。才能一発の芸術系はともかく、普通に社会的地位やら年収なんぼやら程度のことだったら、普通に誰でも可能であり、だから自分にも可能だと思えるかどうか。

 やるかどうかの選択の問題はあるけど、可能か不可能かでいえば全くもって可能であると。自分が「普通の人間」だと思うなら(=世間の99.9%に入るか特殊な0.1%に入るかといえば前者だと思うなら)、普通の人がやってることは全部出来る筈だと素直に思えるか、当然の前提になってるか?です。ここがそう思えてないとセルフエスティームは低いと思います。あくまでも「僕の基準では」ですけど。

 で、ここが日本人は低いらしいと。そうなんかなー?と思うけど、こっち来たら「なるほどー」とも思いました。
 世界では(オーストラリアも)、いきなり銀行員やめて今日から俺はカメラマンになるんだとかやってる人がいたりするけど(実例アリ)、辞めてからカメラ買ってるくらいの超泥縄であっても、なんかかんか食える所まで持っていってるところが凄いんですよね。そりゃ壮絶な営業かけますけど、根っこにあるのは「そのくらい出来るだろ?」と最初から呑んでかかってるメンタルだと思います。あいつらセルフエスティーム高いんですよね。他の人に出来ることは全部俺にも出来ると思ってるフシがある。この世のカメラマンという職業があって従事している人がいる、それらがノーベル賞レベルの希有な天才だけが許される領域だというなら諦めもするけど、わりと普通の人もやってるっぽいから、だったら自分にも出来るだろ?という。自分の推定性能が高い。

セルフエスティームが低い弊害

 次に、セルフエスティームが低いと何かといろいろな弊害があります。とりあえずは「物事の成功率が低くなる」点であり、不幸になりやすい点です。なぜか?

初期投資の継続力

 どんなことでも最初は不慣れだから難しい。何であれ、それなりに難しいから、最初は延々と失敗が続く。ここで最初から「絶対可能」と思ってる人と「無理かも」と思ってる人とでは反応が違ってきます。

 前者は「(いつかは必ず)出来る」と思ってるので、それが中々出来ないと腹が立ってくるのですね、「なんで出来ね―んだよ!馬鹿野郎」的に。その腹立ちパワーで百回でも千回でもトライする。やっとこさ出来たら「ほらあ出来たじゃん、ざまあ見やがれ」って思う。

 ところが最初から無意識にせよ「無理だよ」と思ってる人は、ちょっと失敗が続いただけで「ほら、やっぱ無理だって」とすぐに萎える。そして無理なことをやってる徒労感が疲労感を倍加させ、早くやめて楽になりたいとか考え始める。とりあえずカッコつくやめ方はないかとか、言い訳探しを始める。

 そういえば受験や勝負事の鉄則があって、「やってる最中に負けたときの言い訳を探し始めたら負ける」と。中途リタイアしてもそうは見えない工夫とか、周囲から「仕方がないよ」「運が悪かったんだよ」って思ってもらえるような工夫を考え始めたら、「お前はもう死んでいる」状態だと。だからやってる最中はそういうことを絶対に考えてはいけない。言い訳なんか、結果が出た後に考え始めても遅くはない。だって「言い訳創造能力」はどんな人でも持ってる、こればっかりは誰でもクリエイティブになれますから、やってる最中に予習なんかせんでいいです。

世界観と目線の差

 理由その2は世界観の差です。
 最初から全部可能と思って世の中を見るのと、無理だよってビビりながら上目遣いで世の中みるのとでは見え方が全然違いますもんね。

 その差は、発想の差、目標設定の差になります。
 最初から無理だと思ってたら、出来て当たり前の低い低〜い目標、そんなことが出来ても次につながらないような目標設定にしてしまって、だからそれが出来たところで展望はない。次に繋がらない。もちろん、「あの電柱まで」的な、無理のないクレバーな目標設定は必要ですよ。でもそれはケンケンパのように先が続いていく前提あってこそで、ケン、、で終わってたらそこで終わりでしょ。「パ」の先まで目標にするからこそ小刻みな設定が生きるのであって、自分には「この程度しか出来ないから」的な設定をしてても、先につながらない。

 そしてどこまで遠方に「パ」設定が出来るかどうかは、自分はどの程度までいけるか?というセルフエスティームに直結するでしょう。

 もう一つ、セルフ・エスティームが低いと、仮にAに到達し、次にBを攻略し、、とケンケンパ的ルートを考えたとしても、そのプロセスの吟味が甘くなる。例えば、何かの資格を得たら、もう就職はバッチリだ、一生楽勝だって思うような感じですね。そんなこと無いですよー!何かの資格を得たらたしかに次に進めるかもしれないけど、それは資格を得たからという形式的な理由ではなく、「実力があるから」という実質的な理由がメインです。次のステージでは、その高度な実力をイヤというほど発揮させられます。地区大会を勝ち抜いて全国大会の資格を得たら、次に来るのは楽勝どころか遥かにハードな現場です。一流大学を出たら就職にも苦労しないというのも、一流大学卒に期待されるだけの知的・事務処理能力があってこそであり、それが無いのに肩書だけあってもダメだし、仮にそれで入社できても、社内の優秀な連中に囲まれて地獄のような日々になるでしょう。逆に言えば、本当に優秀だったら別に肩書なんか無くてもなんとでもなる。

 セルフ・エスティームが高い人は、この階段式攻略法も、階段を登る=自分が強くなることがリアルに想定出来ます。その頃にはこのくらい楽勝に出来る自分になっているだろう、いやそうなるべく鍛えねばと思う。でもセルフ・エスティームが低いと、自分がそんな高みに登れるとは中々実感できないから、今の無能な自分でも「肩書(資格など)さえあれば」と、ダメな自分を補強するサプリメントとして考えがち。だから直近目標(資格)さえ取れば、あとは苦労しなくてもいいんだとか甘いプロセス吟味をする。そこが甘いから、実力をつけようという意識が乏しく、結果としてその資格すら取れない。セルフ・エスティームが高い人は、これまでの経験から、自分が登っていく、自分が強くなっていく姿をリアルに実感できるから、日々の訓練や勉強もリアルに出来る。そこがリアルに実感できない人は、どうしてもカタチだけになりがちで、とにかく試験だけ(カンニングでもヤマ張ってでも)クリアすればいいやってなるから、実力もつかない。

 そういった目線の差、発想の差というのはあると思います。

上達快感と楽になることがすり替わる

 理由その3は勝ち癖がついてないから上昇カーブの意味が体感的にわかってない点です。

 何事も最初は難しいけど、言葉を返せば、それは慣れればどんどん楽になることでもあります。やってりゃ技術も上達します。さて、そこから先の地点に分岐点が来ます。

 勝ち癖上昇系の人は、慣れると退屈してくるのですね。自分が成長して「視界が広がる快感」を知ってるから、それがなくなると寂しい。物足りない。でも、そうでない人は、上達快感よりも「慣れて楽になる快感」が途中ですり替わる。上達して慣れてくると、達成感よりも「楽になること」がメインになってしまって、以後より楽な方向という感じで進んでいく。そして楽になりたいんだったら簡単です。要はハードルを下げればいいだけ。

 つまり、ある程度ハードルを超えた時点で、もっとハードルを上げたくなってくる人と、下げたくなる人がいるということですな。でも、ほっといたら人は下げます。大学入試を終えたら勉強しなくなるように。海外生活も同じことです。緊張感バリバリで海外に出てきて、最初はテンパりまくってあれこれトライして、でもそれだけに世界はぐわっと急速に広がって、いろいろと成長もします。が、しばらくしたら落ち着きます。同じ状態が24-48時間以上続いただけで、あの「まったりした日常」菌が繁殖しはじますから。すっかり気分も落ち着いて、さてこのあと更にハードな(その分新しいものを獲得できる)方向にいかないで、この楽ちんな感じを維持拡大=いかに効率的に楽をするかになって、やれもっと近い所に住めば朝もゆっくり寝てられるとか、やれある程度日本語環境があった方が何かあったときに楽だとか、そっち方面に進んでいってしまうという。そういう意味での「楽」(不慣れな異文化環境を減らして、馴染みのある母国環境を増やす)をするのが目的ならば、最初から来なきゃよかったんだけどね。

 その分水嶺=「楽になりたい」という自然の摂理(笑)を上書きするのは、達成快感と視野拡大や自分増強快感だと思います。達成や成長快感というのは、単に楽になる快感の何倍も強烈ですからねー。これを知ってる人は、楽=退屈と感じる(快感が少なくて詰まらない)。楽器でも、ある難しい曲が弾きこなせるようになったら、もっと難しい曲を弾きたくなるし、あるいは難しさの質を深めていったりもする。同じレベルで同じことやってたってつまんないですよね。

 そんでもってセルフエスティームの高い人は、「もっと面白い遊び」を求める傾向がある。なんせ、やればなんでも出来ると思ってるからね。だからハードルを上げようとする。ゲームみたいなもので、1面クリアしたらもっとハードな2面を求める。そりゃそのまま死ぬまで一面だけやってれば「楽」なんですけど、それは退屈に感じるのと同じ。ゲームは誰でもそうだと思うのですが、それは1面クリアした人は、大体において「自分は2面でも(1面ほど楽ではないが、それでも)いい勝負できるはず」と、それに関しては高いセルフエスティームを持ってるからだと思います。

その他、およそあらゆるネガなこと

 その他、もう沢山あります。およそネガなことは全部って言いたくなるくらい。
 なにかの論稿では、セルフエスティームが低いと「物が増える」という弊害が書かれてました。自分に自信がないから、ブランド品とか高級車とか物によって自分を支えようとする。だから物が増えると。まあ、これは「お金がかかる」と言い換えてもいいですし、お金がかかることばっかやってると「貧困になる」という因果関係もあるでしょう。以前紹介した「闇金ウシジマくん」でも、自信がないからグループに所属しようと思うし、そのグループ全員がまた自信がないからブランドとか流行の品に頼ろうとするから、そのグループで馬鹿にされないためには途方もなくお金がかかることになり、借金地獄に陥ってしまうという。

 そしてまた自分に自信がもてないから、自分オリジナルな健やかな価値観を作りにくくなる。価値観なんか単なる「好き嫌い」なんだから、可能・不可能とかいう問題ではないんだけど、自分の好き嫌いを自分で否定してしまうから、結局、自分なりの自然な価値感や考え方というものを育む機会がなくなる。あるいは、自分の自信の無さを刺激するようなことを嫌うという形に歪んでくる。例えば、プロポーションに自信がないから体型があらわになる水着的スチュを嫌い、ひいては海関係が全部嫌いになるとか(本当は海が大好きだったのに)。対人関係に自信がないからパーティその他人が沢山集まる場を嫌うようになるとか。

 自分の価値観が健やかに育てられなくなると、他人の考えやらに依存するようになり、どっかで読んだようなことばっか喋って軽蔑されるとか、洗脳されやすいとか、騙されやすいとかいうのもあるでしょう。

 余談ですが、そういえば時々「騙された」が口癖になってる人っているけど、思うにセルフエスティーム低い人じゃないかなー。僕は今まで「騙された」と思ったことあんまり無いですけどね。いや客観的には結構騙されたり煮え湯飲まされたりしてるんでしょうけど、どんな意思決定でも最後は自分の決断でやったと思ってるから、結果が良くなくても、それなりには納得しますけど(見る目が無かったとか、今後の課題になるなーとか、どうやったら次は防げるだろうかその方法の立案とか)。つまり他人の意見によって自分の意見を決めるってことがあんまり無い、、、ていうか、そういうことが「出来ない」んですよね。我が強いせいかもしれないけど、我を殺せない。もちろん相手に合わせて不本意な選択はしますよ、そういうことは多いですよ。でも、それもそう決めたのは自分であり我ですからね。他人は動機づけにはなっても直接の原因にはならない。まあ同じことなんだろうけど、頭の中の消化方法違うというか。

 あと、自分なりの強固な価値観がないと他者依存をするから他人の視線が気になるということにもなるでしょう。他人の視線と自分の価値観とは反比例の関係に立つ。自分の価値観が弱いほど、他人の視線圧力が強くなる。逆に自分の道がハッキリ確信できている人、その道をパリダカのラリーのように砂塵をまきあげて爆走している人は、他人がどう思うかなんか殆ど眼中になくなる。でもって、「他人の視線」「他人の後ろ指」というのは、実のところは実在せず、多くの場合は自分の脳内で作り上げたものでしょう。そしてどう脳内で作り上げるかというと、自分が心の底で抱いているコンプレックスが擬人化したもの=世間の目だと思います。自分が○○に自信がなかったら、世間の皆は自分の○○に着目してあざ笑っているかのように思う。たまたまその日、左右の靴下を間違えて穿いてきてしまった場合(右が紺で、左が黒とか)、皆がそこに注目しているかのように思う。最近太ってきたことが気になると、世間の視線が自分の腹部に集まってるように感じる。しかしリアルには、誰だってそんな他人のことを気にしてる余裕なんかないですわ。ということは?価値観が弱い→他人の視線が気になる→自分の劣等感が増強されることになり、ひいては自分の劣等感によって人生を誤るかもしれない(馬鹿にされたくない一心でお金を浪費して破産とか)。

 そして、以上の弊害が累積していく、、、えーと、初期の努力が続かないから何をやってもモノにならなくて、目線が近すぎるから実現しても次に続かない目標ばっかやって、成長快感が弱いから途中で楽になろうとして成長が停まり、物や他人に依存するから金がかかってビンボーになりがちで、騙されたと思いがちで、自分なりの価値観も出来てないからすぐに他人に影響されて、でもって自分の劣等感に自分が歪まされて、、、もう踏んだり蹴ったりですよね。最後は生活破綻なり鬱になったりするかもしれない。

 必ずそうなるってもんでもないけど、いずれにせよバカバカしい話です。これが蜂に刺されて痛いですとか、土砂崩れで家が崩壊しましたとかいうなら、自分以外にはっきりと原因があり、何が起きたか明瞭にわかるし、事後処理もしやすい。が、こればっかりは本来外部的に存在しない理由、自分の内部にある何らかの欠損感や自分のセッティングのミスだけが原因です。「あらゆる失敗は自滅である」という言葉がありますが、まさに。でも、こんな馬鹿馬鹿しいことはないですよ。真実お金がないので破産するのはしょうがないけど、(本当はあるのに)お金が無いと「思いこんで」破産するようなものです。そそっかしいにもほどがある。

セルフ・レスペクト=受容と固定

 こういったセルフ・エスティームの問題がタテ糸だとしたら、横にはセルフ・レスペクトがクロスするように思います。

 セルフ・レスペクトは、冒頭に書いたように、自分の出来・不出来に関わらず、自分を受容することです。これはこれで大事な考えで、あれがダメだろうが、これが出来なかろうが、そこに人が存在するというだけで、それはとてつもなく素晴らしいことであり、尊重すべきだという発想です。めっちゃ大事。

 セルフ・エスティームとは微妙に次元(方向)が違う発想なんだけど、しかし両者が絡んでくるとややこしい。

高エスティームの人のセルフ・レスペクト

 まずセルフ・エスティームが高い人のセルフ・レスペクトですけど、これどうなるのかな?人それぞれって気もする。エスティームが高いと、レスペクトも高くなるって比例関係は意外と無いような気がしますね。「自分にはこの程度は出来るだろう」というエスティーム(自己評価)が高くても、それが必ずしもレスペクト(自己受容)につながるとも言いきれないような。例えば、そのくらい出来ても大した価値もないわって考え方もあります。むしろ大した価値のある人間でもないんだから、せめて性能を良くするくらいしか使いみちがないだろって。

 変な考え方に聞こえるかもしれないけど、エスティームの高い人って、往々にして自分をそんな大切にしてないというか、うーん、なんというのかな、そんな自分を猫可愛がりしない気もする。なんかマシンみたいに突き放して思ってる所があって、 「ほれ、もっと頑張れ、そのくらい出来るだろ」と情け容赦なく自分をコキ使えるような。逆に自分をわりと手荒に扱えるからこそ、無茶な努力もできるし、努力に伴う苦痛にも無頓着でいられて、それゆえにギリギリの能力最大限のところまで査定できるし、そのとおり自分の潜在能力を引き出せるのかもしれません。

 まあ、自分自身そういう傾向があるからかもしれないけど、昔から「自分を大事にする」とかそのあたりの言い方にピンとこないのですね。なんか自分自身が価値の主体であるということが今ひとつ腑に落ちなくて、自分は自分であって当たり前で、それ以上自分について考えないというか、そこまで自分に興味がないというか。まあ、自分なんかが生きててもよろしいんでしょうか?みたいにも考えないから、その程度には自己尊重・受容してるんでしょうけど。でも価値があるから受容するというよりは、自分が「あるんだから仕方がない」くらいの感じ。エスティームが高いのも、エライと思ってるからそうなるのではなく、エスティームが高い分だけ遊べる領域が広いから、その方が面白いからって理由がメインですね。

 エスティームが高くて、レスペクトも高い人もいるんだろうけど、どういう人かというと実はあんまり思い浮かばない。周囲にもそんな実例らしき人間がおらんかったような。北斗の拳に出てくるユダ様みたいな人?(笑)うーん。けっこう周囲に能力が高く、エスティーム高そうな人も多かったけど、そういう人ほど自分を追い込んで、酷使してたもんな。よく、睡眠時間も惜しんで創作に打ち込むアーチストとかいるけど、「ここまで出来るはず」というエスティームは高いんだろうけど(だからやる気にもなるんだろうけど)、その分、自分の健康やら幸福やらはろくすっぽ考えずに酷使してるようなイメージがあります。イメージだけで、それ以上検証してるわけではないけど。

低エスティームとセルフ・レスペクト

 一方エスティームが低い人は、せめてセルフ・レスペクトは高くあるべきだとは思います。何にもできない俺って自己査定であったとしても、いやだからこそ、そんなことに関係なく自分は存在価値があると思うべき。でないと、もう、やってられないと思うし。また、それ以上にその認識は正しいと思うから。つまり優秀・無能というのは、単純にメカニカルな性能レベルの話であって、それと価値の話は全然違う。可愛いペットも、可愛い赤ちゃんも無能といえば無能なんだけど、その可愛さや価値は能力とは全く関係ないもんね。

 ただし、セルフ・レスペクトが、正しい自己受容にとどまらず、エスティームの低い自分を固定してしまう恐さもあるんじゃないかと思いました。「あるがままの自分を受け入れる」というと、すごい良いことのように聞こえるし、また実際良いことなんだろうけど、本当は100まで出来るのに20しか出来ないと思いこんでる低エスティームの自己認識を「あるがままの自分」として受け入れてしまう=低エスティームのまま固定してしまう危うさをはらむんじゃないかって。

 ここは本当に微妙で、ほんと難しいんだけど、自分を受容することと自分を固定してしまうことは、別の話なんだけど、ついつゴッチャになりそうです。本当の意味で受容できたら、どんなになろうが自分は自分って承認できるわけで、固定にはつながらず、むしろ変化の自由を促進するとも言えるんだけど、固定する場合が多そうな気がする。例えば、「ダメな自分」という低いエスティームのまま受容すると、「なんて可哀想な私」という自己憐憫につながっていって、またそれって結構気持ちいいですからハマってしまいそうです。そこはヤバイっす。妙に気持ち良かったりするだけに、心の阿片窟状態になりそうで、そこが恐い。。


漫画紹介


[橘賢一x貴家悠] テラフォーマーズ

 超有名だからご存知かと思いますが、これは最初の10巻くらいまではメチャクチャ面白いです。が、それ以降は、、、後述しますね。

 まず面白い点ですが、設定がユニークです。未来において火星を人間が住めるような星に環境変化させるために、なんとゴキブリを火星に大量に放ち、その活動によって大気の組成などを変化させていこうという。よくそんなこと思いつくなーという設定。

 次に、そのゴキブリが異様に進化してしまう点です。もう黒光りする巨人みたいな人間型になっていて、しかもやたら強く、賢くなっている。このあたりデザインで苦労したと思うのですね。ゴキブリなんだけど、そのまんまのフォルムだったら嫌悪感のほうが強くて読んで貰えない。そこで人間化させるという。どうしてこれがゴキブリなのかよくわからんってくらいに。なんかゴキというよりも、パンチパーマに小さな丸サングラスをかけて日焼けサロンとジムに通ってるマッチョなお兄ちゃんという感じ、ぱっと見、僕の高校時代のクラスメートのA君になんか似てるという(笑)。ところでゴキ人たちがしゃべってる「じょうじ」って何なの?

 でもって火星を探索にきた人類は、超人化したスーパーゴキ人達にボロカスに殺されちゃうので、対抗策としてゴキの異様な進化を真似て、人類のDNAに他の動物の超強力な武器特性のDNAを配合させるという画期的な手術を行い、人為的に超人達が作られます。ここは仮面ライダーと同じパターン。ただ仮面ライダーがバッタだけなのに対し、ここでは人によって大量に違った動物・昆虫が出てくる。「そんなすげー昆虫っていたのか?」と目からウロコ的な新知識満載。ここが面白いのですね。なぜなに動物・昆虫百科みたいな、子供の頃に図鑑とか見入ってた頃を思い出します。また。最近の科学の進歩はすごいもんだなということで、どうしてこの虫はこういうことが出来るのか?など生物学的ウンチクが満載、しかも楽しい。

 でもって世界各国のお国柄を背負った超人たちがグループ組んで頑張るのですが、そのあたりはサイボーグ009のノリですね。つまり仮面ライダーとサイボーグ009の美味しいところをベースにしつつ、最近の自然科学知識が山盛り乗っかる。さらにその上に、世界各国で生まれ育った超人たちの過去や想いがフラッシュバックして人間ドラマを織りなし、且つ、戦闘シーンや格闘シーンも斬新です。いやー、戦・格シーンって、大抵なものはもう表現されてて、その上に新しい表現を生み出すというのはクリエーターとしては至難の業だと思うのですが、この作品はなかなか健闘しています。



 このくらい出揃えばかなりお腹いっぱいになるので、それ以上複雑にせず10巻くらいでやめておけばよかったと思われるのですが、折からの出版不況、人気のある漫画はとにかく延命させるのでしょうか、「実は○○だったのでしたー!」という後出しジャンケンみたいな設定変更が延々と続き、いくらDNA手術をしてるという設定とはいえ、こうもメインキャラが死んでは生き返りを繰り返されると、話はどんどん「リングにかけろ」的な冗長さになっていきます。いい加減にしろ、と。

 また、世界各国の思惑やら陰謀が複雑にはりめぐらされて、ストーリーも複雑になる一方、、、てか、もう覚えられないし、なんで今こういうことになってるのかすらわからなくなり、ついには分かろうとする意欲も失せてくるという。せっかくの凄い漫画なのになー、もったいないなーと思います。でも、最初の方はめっちゃ面白いのでオススメです。


 
[一色登希彦×小松左京] 日本沈没

 小松左京の日本沈没、大流行したときにリアルタイムで読みました。1973年にこれだけのSFを書いているということで小松左京の巨人ぶりがわかるのですが(個人的には対作品になってる「こちらニッポン」の方が好みだが)、2回映画化され、2回ラジオドラマ化され、テレビドラマ一回、さらに漫画化も2回されており、この作品は2006年からの2回目の漫画化です(ちなみに一回目は「ゴルゴ13」のさいとうたかをが描いてます)。

 これだけ続くと、「またかよー」的なうんざり感もあり、もうどんだけ一つのネタで稼ぐんだよー、DVDのBOX版みたいな商法うざいよーとか思ってたんですけど、でも、この漫画、良かったです。

 ちゃんとリメイクされている。それも時代を40年ズラしたというだけではなく、日本が沈没するメカニズム(マントル対流説)そのものを変更しています。そんなことまでする必要はなかったと思うのですが、しかし、面白い。素直に思い込んでいたマントル対流説が、あれって二次元的な図表説明の便宜のためにシンプルに過ぎるんじゃない?本当の現実は3次元なんだから、もっと複雑になるはずじゃないの?という指摘や、ウェゲラーの大陸移動説が実は誤りで、実は「印象(記憶)移動=海の波のように水そのものが移動するのではなく、波の”形”が伝播してくだけ」なのだというのも、なるほどーと思ってしまった。エスカレーターのような単純な移動ではなく、複数のマントル円錐が回転していくというエネルギー伝達なので、日本は沈没するというよりは、ねじ切られるように寸断されていくという。京都タワーが円運動的に引きずりこまれてねじ切られるシーンは印象的です。

 第二にテーマ性が更新されていること。原作は、小松左京本人の説明によれば、日本人とは何かを考えてみる場合、不可分にくっついている日本列島というものを一旦除去して考えた方がわかりやすいという思考実験として、じゃあ沈没させてみますかで作ったらしいのですが(どっかでそう読んだ記憶がある)、だからテーマは日本が沈没することではなく、日本人が故郷を失いさまよえるユダヤ人化する設定で日本人の本質を書くと。この作品もそこは同じなんだけど、原作よりもはるかに現実の世相を反映していて2006年に連載されたとは思えないくらいリアルに今ですね。日本が閉塞しまくって、日本人も人として劣化してて、そのあたりのダメさ加減はあれこれ描かれています。なにか重大なことが起きてもオストリッチ的にしらんぷりして「日常」に逃げ込もうとするところとか、慢性ストレスと我慢の限界ですぐ切れるとか、あくまでも他人にやってもらおうという依存性とか、やってくれないで拗ねる幼児性、さらにより弱い人をいたぶることで鬱憤ばらしをしようとするとか、すぐに死ねとか殺せとか乱暴な解決しか思いつかない知性の劣化とか、状況がしんどいとすぐ諦めてしまい、人間らしい反応を失うというメンタルの弱さとか、、、

 主人公の小野寺くんもそういう思いを持って日々生きてるんですけど、でも、目の前にいい人たちもいるし、また助けを求めてる人がいたら盲目的に助けてしまうレスキュー部隊の人々に感化されていきます。天才的な操縦能力をもちつつも、でも人間嫌いだった青年が、奮起して頑張るんだけど、目の前で親友が自分の身代わりで死んでしまうことで人格が崩壊して擬似的な記憶喪失になり、さまようんだけど、まだ復活して〜という、転んでは起き上がり的な人間ドラマが続きます。

 終章において、世界各国に受け入れられる難民日本人の扱いをめぐっての新しい提案は、フィクションでありながら、なるほどねとは思いました。だもんで、超有名な原作をベースにしつつも、そのプレッシャーに負けてないし、また原作に媚びること無く大胆に新しい作品を作ってる点で読み応えがありました。




→予定タイトル一覧

以前、某雑誌から「世界のミルクバー」のオーストラリア版を頼まれたことがあって探し廻ったのですが、サマーヒルにありました。10年以上前の話ですけど、今でもあります。


駅前の短い商店街 ゆるーい空気感が良い。

こっちの八百屋さんって原色の色とりどりでキレイですよね。花も扱ってる店もあるから尚更ですけど。


古い郵便局。最近、多くの郵便局は売られてしまってますが、ここもレストランになってます。

イタリア人の街ライカードの近くということもあり、イタリア料理屋が多く、また日曜日などはイタリア人的な大人数会食とかやってます


なんか面白い壁画があったので


ENVYのケーキ。カフェ紹介はFBの初期の方でやってますが、コートヤードの雰囲気が良いのと、あとケーキが絶品。日本的な生クリーム系のケーキ(いちごショートみたいな)は無く、apple and dateとか、persian loveとか、greek coconut cakeとか、middle eastern orange cakeとか耳慣れない地味なケーキが多いのですが、全部ひとあたり食べましたが、全部美味しいです。オプションのアイスクリームはつけるべし。
 もともとケイタリングやってるDeli Cafeなんで、質が高いのはわかるのですが、通って数年、全然味が落ちないし、一回も裏切られたことがないのでオススメです。



 文責:田村