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今週の一枚(2017/04/10)



Essay 820:理由もなく落ち込むのはなぜ?

 自由と厭世感

 写真はGlebe Pointだけど、場所なんかどうでもいい。大事なのはペリカン!
 とっても分かりにくいと思うけど、画面中央にいます。

 ペリカン、シドニーでは普通にいるし、このエッセイでも過去も何度も出してますけど、ペリカンが飛ぶところがカッコいいんですよね。1メートルくらいデカい鳥ですから、翼広げてグライダーのように滑空するのがカッコいいのなんの。水上に着陸、離陸するんですけど、また離陸するときがめちゃくちゃカッコいいです。

 普通にいるけど、いつでも見れられるものではないので、見るとやっぱうれしいです。

理由もなく落ち込み、理由もなく回復する


 なんとなく気分が落ち込む時期があります。数時間のそれではなく数日から数週間くらい続くくらいのもの。しかも、具体的にこれといった原因が思い当たらない。クビになったとか、フラれたとか、車が壊れたとか、金が無いとか、そこらへんの具体的な理由で落ち込むのはまだ良いです。それぞれに対処法はあるし、客観を回復したら主観(気分)もまた回復する。金が無くて落ち込むなら、金が入ってきたら回復するし、車が壊れたなら修理が済めば回復する。歯が痛くて七転八倒していても治療が済めば解決する。問題は具体的な原因が思い当たらないときです。

 これは誰の話を聞いても、体験談を読んでも、普通に出てきます。「何が悪いわけでもないのに(てか万事順調なのに)」、しかし、「なんかやる気が湧かない」という、なにもかもが白けきったような気分。健康にピコンピコンと波を打っていた脳波が、ピーッとフラットになって脳死状態になるような、そんな気分、そんな時期。

 さて、ここでバッド・ニュースを先にいえば、

 なんでそうなるのか?→わかりません
 どうすれば回復するのか?→わかりません

 でもグッド・ニースもあって、

 しばらくしたら嘘のように回復する

 ってことです。

類似品にご注意を〜放火延焼パターン

 似たような、でも違う類似品がいくつもあります。
 一つは、客観に原因がある場合。クビになったとかそのへんのやつ。ただそれだけのことなんだけど、それを自分でどんどん拡大していって、焚き火の不始末が山火事を招くような場合。

 例えばジャパレスをクビになった→自分は無能である、ジャパレスには向いてないんじゃないか→飲食系に向いてないんじゃないか→(以下雪だるま式に)→そもそも接客業そのものに向いてない→仕事に向いてない→この社会に向いてない→現世そのものに向いてない→もう死んじゃおっかなー、というパターンです。

 んでも事実は、まあ多分こんなところじゃないですか?
 例えば、ジャパレスも経営厳しい。店舗の家賃はクソ高いし、食材も高騰する一方だし、そんな折にサイクロンが来やがるからますます野菜の値段があがるし、うわ今月殆ど利益出てないなー、てか赤字じゃん。おまけに地味に不景気になってるから客も少なくなってきたし、客単価も減ってるぞ。皆高い料理注文しなくなってきたもんなー。スタッフの人件費も結構キツくなってきたし、、、ところで勤務が長く頼りになる○○君が大学の長期休暇に入ったので、また来週から週5で来てくれるようになったぞ、そうすると、あの新人君なー、うーん彼も頑張っているのは分かるんだけど、いい子なんだけどなー、なんせまだ経験不足なので忙しい局面になるとなー、うーん、可哀想だけどなー。でもそんなこと言ってる場合じゃないよな。このまま貯金取り崩していっても後半年ももたないしなー、厳しいなー、あーもー店畳んで日本に帰っちゃおうかなー、でもその前にこの店幾らで売れるんだろうなー、、てな感じだと思いますよ。

 だったら、そう懇切丁寧に説明してくれればいいじゃんって思うかしらんけど、戦場のような現場でそれを期待するのは無理じゃないですかね?また、職人さんは概して口下手が多いから、気を使えば気を使うほど、却ってどう喋ったらいいのかわからなくなって、結果的にやたらブッキラボーになったり、つっけんどんになったりするもんでしょ。「あのさー、もう来週から来なくていいから」「だからクビだよクビ」「いや、ま、いろいろとな」みたいな。

 そこらへんが見えてる人と見えてない人がいるわけで、見えてる人は、ああなるほどねって飲み込みが早い。「わっかりましたあ!短い間でしたけど、すごい勉強になりました!まだしばらくシドニーにいるので、なんかあったら呼んでください」とか如才なく+サラリと+爽やかに流せます。でも、「見えてない」人は、、、えーと、下手したら死んじゃうよね、、ああ。ここが見えてるか・見えてないかは、いわゆる社会経験の差であって、だから「なんでも経験して修行せえや」という基本方針がズドンと樹立するわけです。

 このカチカチ山に自分で火を付けて延焼×自家中毒パターンは、これまで何度も書いてますし、今回のテーマとは違います。この場合は原因がハッキリしている。ただ、それを延々と自分で拡大していくから、毒素が身体中に広がって全体にどよよーんとするし、時間的にも延々と続いていくだけのこと。ただ紛らわしいのは、広がって、長引いているうちに、なんで落ち込んでるのかもとの原因を忘れちゃってる場合ですね。原因を忘れているから、「理由もなく憂鬱な気分」ぽく感じられるという。また無闇にネガ感情を拡大させているから、薄くぼんやり広がってて、それが「全身の倦怠感」みたいに、なんかやる気が起きないって症状にニアリーになる。

 見分け方は、過去に遡っていって、どこが原因かを突き止めていくことでしょう。また、その頃よりも客観状況が良くなっているかどうかという点。今回の「なんだか分からないけど」って場合は、客観状況はむしろ良い場合が多い。万事OKさ!ってはずなのに、なぜか盛り上がらない、心が湧いてこない、あれ?なんだろ、これという感じです。延焼パターンは、どこまでいっても客観起因のものですから、客観にリンクして心が浮沈するはずです。クビになってもうダメぽ、、とか思ってても、また就職口が決まって、そこがいい人ばっかで、「いやー、○○君、スジがいいねー」とか何かしら褒められてたりしたら、気分変わりますから。

類似品その2〜本質的違和感

 これは本能的、直感的に「なんか違うぞ」って違和感を抱いている場合。その違和感は、人格や価値観の奥底から発しているもので、震源地が非常に深い。深いからハッキリわからない。しかし震源地が深いだけに範囲が広く、何もかもが「違う」って感じがする。

 原因が特定できず、また全面にわたって広がっているという意味では、今回のパターンにかなり似てます。この区別は難しいのだけど、でもこのパターンの場合、「あるべき方向」が何となくわかる。こっちの方向に行けば、自分はもっと輝けるんじゃないかって方向性がなんとなくわかる。ちょうど真夜中から夜明けに向かうとき、東の空がかすかに白んでくるときのように、「あっち」というのが何となく感じられると思います。居てはいけないところにいるという感覚があり、だからあそこに行くべしという移動本能的なものもある。渡り鳥が時期が来て、そろそろ旅立ちって感じるように。

 これは日本での生活をやめて海外に行こうとか、とんでもないことを思っているときによく感じると思う。あるいは離婚、あるいは転職。「なんか違うんじゃねーか?」っていう違和感と、新たな方向への旅立ち本能。

 それに比べて、今回のパターンはそんな方向性なんか全然わからず、ただただ真下に沈んでいく。方向感がないのですね。その点で区別できると思います。

 なお、単純に新しいことにチャレンジするから未知で不慣れな環境になり、その違和感に耐えきれず、「おうちに帰りたいよ〜」と「泣きが入る」場合もありますが、これは泣きが入ってるだけのことで、論外でしょう。単に退却するだけのことです。旅立ちという、未知の日が昇ってくる方向へ進んでいく感覚ではなく、たんにシンドイから辛くなってるだけのこと。

 また、色々な方向を模索しているときに、手当たり次第にドアを開けてるようなとき、「あ、これは違うわ」ってすぐに戻る場合もあります。これも退却と言えば退却なんだけど、でも総合的に「いま、捜索中」モードに入ってるから、これもわかると思います。

 それにこの旅立ちパターンの場合は、「落ち込む」という感覚ではなく、「考え込んでいる」という感じになると思います。そんなに気分が暗くなってるわけでもない。でも何かひっかかってるから考え続けている。仕事や趣味でなにごとかを完成させたのだが(絵や作曲を完成させたとか、プロジェクト計画を立てたとか)、なんかトータルにしっくりこない。なんか違うなー、もっと素晴らしくなれる筈なんだけどな、こんなもんかな?いや、違うぞ、どこが悪いんだろうなー、という。それは憂鬱な気分ではなく、創作意欲がまだくすぶってるような感じ。それで区別出来ると思います。

類似品その3〜トラウマ系

 志賀直哉の「暗夜行路」に出てくる「親子の葛藤」みたいに、その人の終生のテーマになりうるような問題があります。それがあるかないか、それが何かは、人によって全然違うのでしょうが、なんかしら「根っこにかかえている問題」があるとする。それが時折、出て来るパターン。でもって、そのテーマが自分でも確知できてないとき、「理由もなく〜」的な感覚に近くなる。

 なんでそうなるの、どうしたらいいの?ですが、これは僕の手に余ります。専門的知識と経験を持ってるプロに委ねるしか無いと思います。

 今回のパターンとの違いは、それが終生のテーマであるがゆえに、同じ落ち込むにしても、どことなく「いつものあれ」的な「顔なじみ感」はあると思う。ああ、またこの気分になる、、という、過去に何度も似たような思いに因われているというデジャヴュ感(てか記憶あるんだけど)がある。でも、今回のやつは、そんな連続性、同一性はない。そこが違う。

類似品、てか複合系

 理由もなく落ち込んでるとき、その落ち込みが呼び水になって、上の各パターンが併発するときがあります。理由もなくダウナーになってるんだけど、ダウナーだからろくでもないこと、縁起でもないことばっか考えて、それで延焼パターンにいったり、泣きモードになったり、終生のテーマを呼び込んでしまったり、あるいは最後の方に方向性が見えてきたり。これらは複合パターンです。こうなるともう区別しにくいですけどね。

なぜ、そうなるのか?〜原因仮説

偶然という自然現象

 さて、どうして「わけもなく落ち込む」という状況が生じるのでしょうか?
 いや、だからー、「分からない」んだってー、「わけもなく」なんだからさ。
 「じゃあ書くなよ」ってことですが、仮説は立てられます。検証のしようもないのだけど。

 端的に言ってしまえば、ただの「偶然」なんだと僕は思います。ただ確率論的に一定周期で生じるという。

 人間の感情は変化しやすい。女心と秋の空じゃないけど、男だってコロコロ変わる。問題は、なんで気分が変わるの?です。いったいどういうメカニズムで感情が変化するのか?その力学や法則ってあるのか?

 「ある」と思います。だけど、それがあまりにも複雑過ぎてトレースも、検証もできない。
 それはお天気や海の変化のように一種の自然現象だと思う。人間だって自然の一部なんだから、地球上の自然法則に従うだろうし、そうであっても不思議ではない。

波の法則

 浜辺で波が打ち寄せるのをじっと見ていると、常に同種同量の波がやってくるわけではない。大体は似たり寄ったりなんだけど、10分に一回くらいえらく大きな波が打ち寄せてきて、濡れないように立っていた所を優に超えるくらい伸びてきて、「わ、わっ」とかいって後ずさったりしますよね。あれ、なんで生じるのか?

 波というのは、寄せてくる波と、返していく波があり、そのプラスとマイナスのエネルギーの干渉によって決まるように見えます。大きな波が来ても、それを迎え撃つように返し波があったら、そこでエネルギーが大分減殺されてしまって、浜辺につくときはしょぼくなってる。でも、たまーに、なんかのタイミングの偶然で、返し波が途切れるなり、干渉によって減衰してたりして、寄せ波のエネルギーが温存されたままやってくると、意外とするすると伸びてくる。また、海上をモーターボートが通過して別種の寄せ波を作ったり(エネルギーを付加したり)、そういう原因もあるでしょう。つまり、たまたまその場に生じていたプラマイのベクトルのエネルギーを相殺勘定して、最後に残ったものが「解」になるような感じ。

 人の感情も、これと同じような力学なんじゃないかしら?と、ふと思ったりするわけです。
 僕らは、日々、無数の「いいこと」「悪いこと」を経験し、その都度なにかしら感じているのでしょう。昨日寝苦しかったのでまだ寝不足だとか、歯磨きしようとしたら歯ブラシを床に落としてしまって、洗うんだけどなんか口に入れるのが不愉快とか、朝っぱら家の人になんか気に触ること言われてムカついたりとか、バス停ではラッキーなことにすぐにバスに乗れたとか、そんなこんなの日常の小さな感情。これに目下の長期課題のような、就職どうしよ、仕事どうしよという気分が加わる。さらに体調の上でのあれこれの快不快が重なる。また、最近彼とうまくいってない、やばいなーというプライベートなことやら、家の問題やら、貯金が貯まらない問題やら、なんやかやが重なる。でもって、今日は蒸し暑くて不愉快とか、夕焼けがキレイだったから気分がいいとか。

 1日生きているだけでも、少なく見積もっても数十、多ければ数百の細かい感情誘発要因があるでしょう。大体は、快不快のプラマイが似たような感じで打ち消し合ったり、上書きしあったりして、「ここからここまで」くらいのレンジに収まっているのでしょう。

 が、なんかの偶然で、やたら好感情ばかりが累積していって、なんかしらんけど気分がいいときもあれば、イヤなことが超過しまくって、不安で視界が暗くなったり、イライラが嵩じて怒鳴りつけたくなるくらいピリピリしたりもする。それがさらに数年スパンで、どえらい波が生じてみたりもする、のではないか。

お天気複雑系

 お天気も同じだと思います。なぜ今日は晴れて、なぜ昨日は雨が降ったの?といえば、そこに雨雲があったからだってことなんでしょうけど、では何故その時点にそこに雨雲があったのか?というとわからない。偶然といえば偶然だし、必然といえば必然です。

 大体ですね、地球の構成要素は大体同じ(宇宙から巨大隕石が落ちてきて増えたとかいうことでも無い限り)、そして同じ周期で自転し、同じ周期で太陽の周りを公転しているのだから、毎年の天気なんか常に同じになっても良さそうなものです。4月10日は晴れのち曇り、100年前も1000年後も同じになってもいい。でも毎年違う。それは天気を決定づける要因があまりも多数あり、且つそれらの要素が変わるからでしょう。太陽の日光といっても黒点活動が変化してるわけだから、常に同量のエネルギーがきているわけでもない。なぜ今、この雲があそこにあるのか?といえば、それは太陽の陽射しの熱量エネルギーがこのくらいで、地表にたまたま含まれていた水分がこのくらいで、だから蒸発する水分がこのくらいで、そこを偏西風やら、季節風やら複数の原因によってあっちこっちに流され、水蒸気がどっかの空中でこのくらい冷やされて水滴になったり、結合したり、そして雨が降る。

 雨だって、あなたの額にあたった一粒の雨が、なぜこの時間にこの場所に落下してきたのか、厳密にいえば必然のメカニズムがあるはず。地上500メートルくらいの上空にあった水滴が、上昇気流と、風と、そして重力加速度のあらゆる力学的足し算引き算の末、落下してくる。その際、例えば127メートル36センチ北北西に流されて、地表1メートル60センチの地点に達したとき、たまたまバイト先に急ぐあなたの顔にあたった、、ということなのでしょう。

 神様の視点で全てを明らかにすれば、なぜこの水滴がここに?という因果関係は解明できると思います。でも僕らは神様ではないので、そんなの複雑すぎてわからない。大雑把なメカニズムや論理はわかるけど、個別具体的に「この一滴は?」とやられたらお手上げです。

複雑極まる感情

 人間の気分もまた同じことだと思います。フラレた→落ち込んだとか、恋人が出来た→ハッピーとか、大雑把には言えますし、外れてはいないでしょう。でもリアルに、なぜこの瞬間にこういう気分になるの?とかなると、もうわからんよ。なぜ、この日に限ってラーメンを食べたくなったのかとか、なぜそのとき昔のアルバムを眺める気になったのか?とか、人間の意思決定は不可思議です。もーわからん。表層的な原因もあり、肉体的な原因もあり、深層心理やトラウマもある。大脳生理学的には、人間の「意識」「思考」「感情」は、膨大な記憶情報のシナプス処理パターンであり、複数情報の相互干渉や連想誘発や優越劣後のパターンとか言われるのかしらんのだけど(いやテキトーだけど)、なんでそういう処理をするの?その際俎上に乗せられた記憶情報は何なの?どの記憶とどの記憶がどういう芋づる的な連想鎖でつながっているの?なぜそれが選ばれたの?とかいうと、もうわからん。

 そもそも感情/気分といっても、その正確な内容がよくわからない。「落ち込む」という表現もアバウト過ぎるでしょう。落ち込むってどういう気持ちなのか?悲しいだけ?虚しい?胸が締め付けられるような透明な肉体生理感?それはそれは複雑な混合物だと思う。また、別れて悲しい筈なんだけど、どこかしら「ホッとしてる」部分もあったり、でもそれを認めてしまうのは人としてどうよ?って罪悪感もあるから「”悲しい”ことにしましょう」ってポリティカリー・コレクトネスみたいな部分もあったり。恋人出来てハッピー!といっても、実はそんなに喜んでない自分もいたり、微妙にうんざりもしてたり、不安もあったり、本当にこれでいいの?という懐疑的な気分もあったり、ま、こんなもんでしょという諦めもあったり、精密に解剖していったらかなり複雑。

 はい、話がだんだん複雑になってきましたね。整理します。ここまでは、人の感情というものは、波や天気のように、数え切れないくらい多くの要因の相互作用によって出来ているんじゃないかってことを言ってます。「一筋縄ではいかんわ」と。そういう「気分の複雑系」を、「ありがた迷惑」「嬉し恥ずかし」、あるいは五月病や燃え尽き症候群、マリッジブルーやマタニティブルーのように命名してくれたらまだしもいいけど、名前がついていない複雑極まる感情は他にも山ほどあるでしょう。というか、殆ど全ての感情が、なんともケッタイな複合物だと思いますよ。そんな一色それだけ塗りつぶし!って感情なんか滅多にないと思う。

確率的異常

 天気にせよ、波にせよ、幾ら無数の要素の総合によって決まるとはいえ、だいたい「ここからここまで」という標準的な範囲があると思います。サイコロ転がして奇数が出るか、偶数が出るかも、きちんとオルタネイトに奇数偶数と代わりばんこに出るわけではないにせよ、偶数が100回連続出ることはない。いいとこ7−8回くらい続いたらまた奇数になってって感じでしょう。ところが、一定の確率で偶数ばっか10回連続で出ることもある。一定の確率って、このくらいは中学生の数学ですよね、2の10乗分の1の確率です。1024ですね。

 10回連続というのは滅多に起きず、その意味では異常なんだけど、でも確率的にはありえない話ではない。だいたい1000回やったら1回はそういうときもくるということです。むしろ来ないほうが異常。

 これを僕らの気分に置き換えてみましょう。ネガポジ確率が半々だとしても、ネガが5回連続で続くこともある。その確率は2の5乗だから2-4-8-16-32で、32回に1回くらいの割合でそういうこともある。1日単位で考えれば、だいたい1ヶ月に一回くらい5回連続の軽いドツボがあるだろう。7回連続の中ドツボは128日に一回だから4ヶ月に一回、学生時代になぞらえれば「一学期に一回くらい」の感じね。さらに8-9回連続が256日〜512日だから「1−2年に一度」、そして10回連続の重ドツボは「3年に一回」くらいくると。麻雀で役満をあがるくらいの頻度と確率かな。

 まあ、そんな算術的にいくわけないけど、ものの考え方そのものはわかると思います。

 天気でも、ある時期になると赤道付近で台風が生じる。赤道付近は連日営業みたいなもので珍しくなんともない。それが対流と貿易風の影響で北上するのも普通の話なのだが、さらに偏西風のいたずらで日本に向かってくることが年に何度かある。これ、偶然でしょう。たまたま偶数が連続したとかそのあたりの確率的な条件の不均等分布によって、日本を直撃するものもあれば、こないやつも、それていくやつもある。さらに、直撃する台風のうち、もともと巨大に生じたか、and/or 初期の勢力が偶然の事情であまり減衰されていないやつが、大型台風になって、各地に被害をもたらす。これが大体年に1回から3回くらいくる。ところが、十数年、あるいは数十年に一回くらいの割合で伊勢湾台風みたいに超弩級のやつが生じる。偶数が12回連続で出ましたみたいな感じなんだろうな。

 同じように、1日のうちに何度かネガな気分になり、何度かポジになる。週に3日くらいはネガ優勢の日もあり、月単位では、年単位ではとスパンを長くするほど、デカイやつ、まれな偶然が入ってくる。

 で、それがどうした?といえば、だから、これが「わけもなく」の原因やメカニズムじゃないのか?と。

 それをバイオリズムと呼ぶかどうかは論者の自由ですが、一定の周期で、なんかやる気がおきない、何もかもが虚しく思えたり、パワー枯渇する時期があるとするなら、そのメカニズムはただの偶然だろう、と。「理由もなく」というぐらい直接的な原因が思い当たらないんだから、細かな大量の原因があるのだろう。細かすぎて、そして多すぎて、それがなんだかわからないんだけど、でもそれらが作用してるのだろう。そんなに集まることがあるのか?といえば、偶数が10回連続出ることもあるように、後の語り草になるような大型台風が何年かに一回来るのと同じように、そういうこともありうると。

 だから、なぜそうなるかはわからない。でも現象としてあるなら、それは偶然でしょうと。その偶然を避ける方法はあるのか、そうなってから対処の方法はあるのかといえば、それは「無い」です。なぜなら原因が細かすぎて、またどこがどう複雑に結びついているのかわからないから。

 そして、別に対処しなくてもいいです。なぜなら一定期間過ぎたら、嘘のように回復するからです。

 なんでそんなに回復するか?といえば、そんなの当たり前じゃないですか。だって「滅多にない」「まれな偶然」なんでしょ。レアなんでしょ?レアなことが長続きするわけないもん。長続きしたら、それはレアではない。だから、時間がたつにつれて、集積していたネガ小要因が薄らいだり、消えたりしていって、台風が徐々にパワーを失って熱帯低気圧になるように減ってくるから。偶然が重なることはあるが、重なり続けることはない。だから、ほっとけばいい。

 客観的に悪いことが重なるのは、ちょっと前に書いた「呪われた日々」のように来ます。大体1年に1回くらいはくるよね。慣れてくれば、「あー、来たかー、面倒くせえな」てなもんで嵐が通り過ぎるのを待てばいいです。これが主観面にも起こりうるということです。あー、ややこしい偶然が重なっとるなー、まあ、ほっとけ、しばらくしたら治るわという。

関連補論〜自由と厭世感

ラウンド中によく生じる理由

 この「理由もなく〜」は、ワーホリさんのラウンド中によく生じるようです。コンスタントにこの種の話はよく聞きます。直近にも複数回聞きましたし、同じようなことばっか話してる気がするので、ここでまとめてエッセイにしようと思ったくらいで。ところで、なぜラウンド中によく起きるのか?何か理由があるのだろうか?

 うーん、多分ね、非常に義務性の少ない日々、ひらたく言えば「やりたいことだけやってる日々」だからだと思います。

 こんなに自由な環境は滅多にないですもんね。日本で仕事してたら、義務としがらみにガンジガラメになって、基本「やりたいくないこと」「やらねばならないこと」をやる時間が多い。それが理由で落ち込むことも多いかしらんけど、それはまだ原因がはっきりしている。そして、皮肉なことに、その義務性があるからこそ理由不明の落ち込みを防いでいる部分もあると思います。防いでいるというか、気づかないというか。

 義務性に拘束されているときは、その義務性が日々を進める原動力になります。不快な原動力であるにせよ、とりあえず起きるし、動くし、なんかするし。そしてやっててて血やら何やらの循環が良くなると、生理的快感が気分を引っ張り上げることもある。否が応でも動かざるを得ないから、それによって救われている(誤魔化している)部分もある。

 ところが、ラウンド旅のように、やりたいことをやってる日々というのは、「やる気」やモチベーションだけが日々を進める推進力になるわけです。なんの義理も義務もないですからねー。2回目ワーホリの権利をとるんだという間はまだ義務性があるからそれが機関車になってくれるけど、それも終わったら、純粋に自分のやる気モチベーションだけしか原動力がない。

 ところが、そんなにいつもいつもやる気満々なんてことはないですよ。大体、やる気とかいうのも、瞬間の高揚のようなものですから、それほど長々と初期衝動が同じボルテージで続くわけがない。日により、時により、やる気が途切れるときもある。そこへもってきて、周期的なネガ偶然の集積で落ち込む。でもって、義務でやらねばならないことが少ないから、それが誤魔化せないのですねー。なんでこんなことやってんだろ?とシラフになるというか、白けてしまったらもう原動力がない。動かないからますます良くない。何やっても面白くなくなるという。

 そうなると完全自由が裏目に出て、引っ張り上げてくれる義務がないから、とっかかりがなくなる。ヤバイとか焦りだしたら、ますます気にする。もともと「ネガ感情の偶然の集積」といっても、その一個一個は、「なんのために生きてるんだろう」「自分が存在する意味」とかいう「考えても仕方のないこと」系が多い。この種の疑問に対する本質的な答は無い。でも対処法はある。他の強烈な感情をぶつけて上書きしてしまうことです。ゆーたら誤魔化すってことですよね(笑)。ある程度日常が忙しいと、適当になんかイベントがあって、笑って忘れてしまう。前にも紹介したけど、奥田民生の歌詞で「簡単簡単ベリーグー、今日も1日が終わった、朝方ちょっと腹立った、夕方めちゃくちゃ笑った、これがいつもの僕のことだよ」というのがありますが、ほんとそう。眠い午前中は不愉快ピークで、なにもかもがメランコリック、でも放課後になると友達と馬鹿話やって、ゲーセンでハイスコア出して、くっだらないこと言って大笑いしてるから、人は今日も生きてられるのよね。こんな仕事しててもしょうがないよなーとか思いつつ、仕事帰りのビールがやたら美味いから、そこで思考が止まってしまう。

巨大な空虚と厭世感 

 ところで、やりたい事を好き勝手に自営でやってる僕の場合はどうしているかというと、まあ、特にこれといった対処法はないんですけど、でも、救いになる言葉は小学生の頃に見つけてました。これも何度か紹介したと思うのだけど、司馬遼太郎の「国盗り物語」の一節です。この小説の前半は斎藤道三を描いているのですが、あの人物は一介の油売りから国主までのしあがった野望の権化のような人ですけど、そうであっても「巨大な事業欲をもつ者は、同時に巨大な厭世感をも持つ」とかいう一節があったのですね。国盗りの途中で、八方塞がりになったときに、「あーもー、やめやめ!」って全て投げ出して、頭を丸めて出家し、身一つになって美濃の国を出て行くくだりです(出家=道に入る=ことが3回ある〜幼少期の寺時代と死んで成仏するときで2回カウントし、今回のを合わせて合計3回目だから「道三」という)。それまで十数年、心血注いでやってきたことを、こうも簡単に諦められるものか?というと、巨大な厭世感があるから出来てしまうという。

 そうなのか?!と思いましたねー。目からウロコとまでは思わなかったけど、すごい印象に残った。だって矛盾してるじゃないですか。人の十倍くらい「〜したい!」という強烈すぎる慾望を持ってる人だったら、「こんな世の中、生きてたってしょうがねーよなー」「なーんもやる気せんわ」という厭世感なんかあるわけないでしょうに。思いっきり矛盾してるんだけど、でも、「ああ、そういうものなのかもね」と12歳くらいのガキの癖に何となく分かる気がした。

 苛烈な慾望を持ってる人、そしてそれを激しく実行している人というのは、同時に、巨大な空虚を抱えているんだろう。何をやってもどうせ無駄、意味ねーよ、俺は空っぽだよ、なーんもないよって感覚。でも、その虚空が巨大だからこそ、真空地帯に空気が流れ込むようになにかしら満ちてくるのだと思う。だから、気違いじみた努力で何かを成し遂げたとしても、意外と恬淡としてて、惜しげもなく捨てちゃったりする。リングの上では超ギラギラしてるのに、リングから降りたら、あんなのただのヒマツブシ〜とか思ってるという。

 ま、そこらへんは分かったような分からんような感じだろうけど、ただこれは覚えておいていいと思うのですが、やる気やら、楽しさやら、充実感と、空虚感や厭世観は矛盾しないということ。

 めちゃくちゃ盛り上がっているカラオケで、一人で静かなトイレに入ると、ふと我に返ってシラフになって、「ああ、明日早いし、もう帰らなきゃな」とか思うんだけど、また部屋に戻って仲間達と一緒になると、そんなことも忘れてはしゃいでしまうという経験、ありませんか?それに似てて、あるときは、おおおお!と盛り上がっているんだけど、次の瞬間には、くっだらねーことやってんな、意味ねーなーとかも思ってるという。

 でも、僕の感覚でいえば、それ(虚しくなること)って悪いことじゃないよ。てか、その方が自然、そんなもんちゃう?

 そして、自由にやりたいことをやって生きていこうとするなら、この種の空虚感や厭世観にたじろいではいけない。むしろそれらと友達になること、そっちが原点くらいに。この巨大な空虚を身近に感じているからこそ、なんかしないと間が持たないなーとか思う。穴が巨大であるほど、埋めるものも巨大でなければならない。ちょっとやそっとじゃ埋まらんもんね。また、あまりも広大で真っ白なキャンバスがあるようなもので、これだけデカイ白いキャンバスがあるなら、なんか描かかなきゃ嘘だよなーとか。事業欲とか、結構そのあたりが原点だったりするんじゃないかなー。

 歴史つながりでいえば、信長愛唱の敦盛「夢幻のごとくなり」(人生なんか夢や幻みたいなもんさ)とか、幕末の天才児高杉晋作の辞世の句が「面白くなきもこの世を面白く〜」(詰まらないこの世を面白くやるには)なんてのこの系譜だと思います。ベースにあるのは強烈な無常観(どうせすぐ死んじゃうんだろ?)とか、厭世感(この世なんかクソで当たり前)だと思います。なんというのか、そこのレベルで腹括ってるから、あとはもう怖いものなし、なんでも出来るみたいな感じ。

濃度の薄さに慣れること。

 さらに関連するけど、やる気モチベ一本でやる場合、実際の90%は面白くも楽しくもない時間だということは漠然とでも思ってたらいいかも。

 やりたい事をやるというのは、「やる」という部分にポイントがあるというよりは、シガラミ・義務系ライフが持っている「不本意なことをやらされる」ことが「ない」という点、やらないで済むって点にむしろポイントがあると思います。「ない」が基調だから、リアルな触感としてはむしろ透明なんですよ。そりゃ最初は解放感でドーンと楽しいんだけど、すぐにそれが当たり前になって慣れる。あんまり感じなくなります。でもそれでいいと思う。贅沢な話ですよ。

 喉元過ぎれば熱さを忘れるっていいますけど、自分の人格を歪ませ壊していく不本意な圧力って実際に普通にありますからね。そこからフリーになれるというだけで、どれだけありがたいことか。そこさえ一本押さえておけば、あとは、ほにゃらら〜って何となく生きていていいんだと思います。なにやら充実っぽいカタチにしようとか、っぽい系に囚われるのは、要するにカッコつけでしょ?他人からどう見えるか的な。でもそれがよくすり替えられる。それこそが理想の姿であるかのように錯覚して、そうなってないと焦るという。なんか盛り上がらないなー、どっか虚しいなーというのを、なにやら大問題のように錯覚してしまう。そして迷宮に入る。でも、そんなに厭世感を忌み嫌ってはいけないと思うよ。その空虚、そのブラックホールみたいな存在は、むしろやる気の根源だったりもするのだから。

 シガラミ系・義務系の日常は、それが心楽しいことでは無いのだけど、密度や濃度は高い。てか濃すぎるくらい、毎日あれこれに追いまくられて忙しい。忙しいから妙に充実もするし、激しく身体や心を動かすことは、スポーツ的にそれだけで既になんらかの快感ももたらします。ヒマは確かに潰れるのですよねー。

 ところがやりたいことを自由にやる人生というのは、可もなく不可もなくってパステルトーンの時間がやたら多いのですよ。イメージ的には、めちゃくちゃ充実しているように思われるかもしれないけど、そんなことないよ。忙しいときって、大体において雑務で忙しいんだわ。どーでもいいようなことで忙しいだけ。利益なき繁忙みたいな。嘘だと思ったら、自分で店をもって開店してごらんよ、最初は全然客なんか来ないから。毎日ヒマだよ〜。あるいはぶらり一人旅やってごらんなさいな、荒野のガンマンみたいに。基本、旅=待つことってくらい、とにかく待つよね。空港で待って、駅舎で待って、ホームで待って、バス停で待って、乗ったら乗ったで延々シートに座ってで到着を待って、ぼけーーっと待ってる時間が長いから。自由というのは、濃度が薄いんですよね。もちろん濃いときもあるんだけど、トータルで言えば薄いときが多い。

 それをもって、充実してないぞ、ヤバイぞ、なんか間違ってるのかもとか取り乱したり、焦ったりしたらあかんと思います。それでいいのだ。それがどれだけ素敵なことなのかは、またガンジガラメになって足首に鉄球をつけられたらよく分かると思います。でも分かった頃には手遅れだったりして(笑)。







 文責:田村



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