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今週の一枚(2017/04/03)



Essay 819:Focus(焦点)

 自分だけの快感のツボ探し

 写真は、Woollongong。先日、日曜日はいくら乗っても2.5ドルのOpal Cardで、意味なくウーロンゴンに行ってきました。行って帰って3時間半くらい電車に揺られて、でも現地滞在時間は1時間ちょっとという(笑)。
 セントラル駅で、適当に列車を物色して、出発時間が早そうなやつにテキトーに乗って。いやー良かったですよー。ウーロンゴンが良かったというよりも(良いんだけど)、そういう行為そのものが良かったです。「意味なく行く」ってところが楽しい。


 先週Glebe紹介をしたが、1994年にも同じGlebeに住んでいた。今のところから200メートルほど離れた地点。しかしその当時、今のようにGlebeが見えていたのかというと、全然っ!!

 まったく、もう、今から思えば当時の自分は何を見てたのか?って。全然見えてない。しかし、何もかもが新鮮だった当時、おそらくは今よりも注意力10倍増くらいだった筈だし、「見る」というだけなら、今以上に食い入るように見つめていた筈。だけど見えてない。何が違うの?ということで、今回はその話。目の前のものが全然見えてない、焦点が合ってない。

Glebe=海外

 最初にオーストラリアに来たとき、Glebeに住んでいたものの、主観的にはGlebeに住んではいなかった。
 「シドニーに住んでいる」と思ってた。
 いや、「オーストラリアに住んでいる」と思ってた。
 いやいや「海外に住んでいる」と思ってたというのが一番正確なところだろう。

 自分にとっては、Glebe=シドニー=オーストラリア=海外と全部等式で結ばれていたのだ。馬鹿じゃねーかと思うのだが、いや、ほんと、そんなもんです。

「海外」という存在

 なんせそれまで海外に行ったのは、後にも先も職場旅行の香港数泊だけ。それも強制参加で、「パスポートってなに?どっか行ったら貰えるの?」というレベル。一泊数万の日航ホテル泊まって、専属のガイドさんも雇って(日本語ベラベラの台湾のおじさん、裁判での賄賂の渡し方とか教えてもらって面白かったぞ)、それはそれはお大尽旅行。

 そんな海外体験の名にも値しないような過保護トラベルではあったものの、なにかが胚胎(はいたい)したと思う。タネが宿った。それまでも(それ以降も)、海外なんか全然興味なかったし、外国語なんか一生喋るわけないと思ってた。が、借り切りバスの周遊で、やば〜い地域(九龍城とか=当時は未だ取り壊し&再開発が行われてなかったし)の周囲とか通って、ほとんど気分はサファリのライオンバス。うわー、やべー、ここに一人で放り出されたら即死レベルだよなーと。でも、怖い反面、なんか悔しかった。俺ってそんなもん?ちょっと違うエリアに来たら、子犬のように無力なわけかよ、ダセーよなー、どんなところでもサバイブできてこそいっちょ前だろ?という気分もムクムクと。心の奥底で何かが「点火」したような気がする。

ゼロリセットの自由感

 海外に目を向けだしたのは、(これまで何度も書いているけど)全然違う分野をやってみたかったから。自分でも「まさか」と思うくらい飛距離のあるエリア。およそ想像がつかないこと。得意な分野を突き進んでいくことも大事なことなんだろうけど、そのときは「なんか違うな」と思った。100%のゼロスタートがしたかった。これまでの遺産みたいなものを利用して新スタートを切るのが何となく「卑怯」な感じがした。それじゃ意味ないじゃんと。

 でも、なんでそう思ったんだろ?
 それが自分を鍛えたり、大きくする修行手段として良いとか、視野を広げるためには、しょっぱなから最遠地に行っちゃうのが一番手っ取り早いとか、今まで必死こいて築き上げた全てのものをガソリンぶっかけて燃やすこと=死→再生サイクルを一廻しやっておかないと将来的に不安だとか、いろいろな要素が複合していた。その中に、九龍城を悠々と闊歩できるくらいになりたい(まあ、今でも無理なんだけどさ)、世間的な権威とか金でライオンバスやガイド雇ったりとか、そんな「介護器具」みたいなもんがないと一人で歩けないのは情けないとか、そういう気分もあったとは思う。

 だからかもしれないけど、オーストラリアに行くときに、依頼者の中に芦屋のえらい金持ちの人がいて、オーストラリアに行くなら、駐日オーストラリア大使だったか大物を紹介するからとかオファーを頂いたんだけど、丁重にお断りしました。余計なことせんといて!って。その人は外国の要人とか貴族階級の人を年中自宅に招いて泊まらせて、ヨーロッパのどっかの国で勲章もらってとか、そのレベルの人だから(そういう人も日本には普通にいるのよ)、その気になったら幾らでもって感じだろうけど、でも、僕にとっては余計なお世話。だって卑怯じゃん、そんなの。てか、面白くないじゃん。マラソン大会で、自分だけチャリンコ乗るみたいな感じ。おもろないやん。そういえば、その人の息子(僕と同い年)も、大金持ちの息子のくせに、また灘高も出てるのに、一人ぼっちでアメリカ行って、土方仕事やって、バークレー音楽院に行って、世界的なミュージシャンを目指しているそうで、「やっぱ、そうだろ?」と思った。そのくらいやんなきゃ面白くないわな。

 そういう全くのゼロ挑戦がとにかく燃える。妙にこれまでの知識経験が役に立ってしまうとつまらん。それはうっすら結末を知ってる推理小説を読むような感じで、萎える。なんの予備知識もないからこそ良い。でなきゃ遊びにならんだろ。といっても別に遊びたいわけでもない。うーん、なんだろうなー、この感覚。やっぱ「気持ちの良さ」だと思う。圧倒的な気持ちよさがそこには確かにあった。それは可能な限り完全に近い自由の快感。パラシュートがついてるかどうかすら分からん状態でスカイダイビングをやるような、大空に身を投げ出す快感。「自由」というものは命がけでないと手に入れられないものだし、自由を極大にしようと思えば不安も極大になる。

 それは例えば、近未来にかなりの確率で破滅しか待っていないのを百も承知で、駆け落ちした封建時代の男女のように。深夜の路上を、追手から逃れるために手を繋いでひたひたと走っていたであろう二人は、その瞬間において世界で一番悲劇的な予兆をはらんでいる二人であるけど、同時に、世界で一番自由で幸福な二人でもあったのだろう。そのとき握りあった手の、好ましく汗ばんだ掌の感触こそが「生きる」ということだと思う。書いてて気づいたが、これ何かリアルに思い出せるというか、掌の感触を覚えている気がする。なに、これ、前世の記憶?

 長々書いたのは、当時の僕にとっての「海外」とはそんな存在だったから。別に海外旅行を繰り返して、それが嵩じて渡豪になったわけではない。全然分からないからこそ興趣が湧いたという、そんな存在。

 そんな人間がGlebeに住んで、Glebeというサバーブの特徴をあれこれ観察したり、理解できたりするわけがない。何を見ても聞いても、「おー、外国ではこうなってるんだー」と感心するだけ。フラットの部屋の鍵が無駄に3つもついているだけで「おー、やべー、さすが海外」って感動してたもん。

 つまり焦点が合ってない。またそこ(サバーブ論)に焦点を合わせる気もなかった。「外国は外国だろ?」という死ぬほど大雑把な認識しかなかったもん。「宇宙は宇宙だろ?」くらいの。

焦点と阻害要因

 焦点が合ってないことはママある。ママあるどころか、焦点が合ってるときのほうが珍しいのかもしれない。

 焦点というのは、興味関心の対象である。
 ある人に会った場合も、その人の容貌に興味の対象が集中する場合もあろうし、その人の地位、資産の有無、家柄、健康かどうか。あるいは人間性の内実を見る場合にも、優しいか、自己中か、賢いか、使えるか。その全てにフォーカスを合わせるのは難しいし、また面接やら合コンやらだったら「特殊な目的」によって出てくる事項に焦点が絞られるだろう。

 旅の途中にとある町に着く。人によって興味関心の分野は違うだろう。ある人にとっては歴史旧跡に興味を惹かれるだろうし、ある人は不動産価格に、ある人は産業構造に、ある人は商圏としての有望性に、ある人は自分が住むのに適しているかどうか、ある人は風光明媚さに。

 それ自体は別に良いのだが、幾つか問題をはらむ場合もあるように思う。

 一つには、邪念的な興味。Aという目的で見ているのだからAを見ていればいいのに、どっかしらBという要素が混入してきて焦点が絞りきれない場合。虚心坦懐にそれだけ見てればいいのに、先入観、偏見、イメージに引きずられてしまう場合などである。人についての類型イメージは特にそうだろう。人種的に○○人はこういう人間というイメージが強烈すぎて、なんでもその色眼鏡でみようとするとか、男だから女だからでバイアスかけてみるとか。あるいは、世評なんかもそう。「美味しいという評判の」という先入観があると、正直味は普通でもなんとなく美味しいと感じるとか、最初から「美味しがろう」と身構えて臨むとか。職場で駄目レッテル貼られている人の仕事は、普通にやってても何となく危なっかしく感じるとか(ハロー効果ですね)。

江戸情緒

 このあたりは誰でもついついやってしまうような気がする。「古都の風情が」「江戸情緒が」とかいう「発想の切り口」をつけられると、鵜の目鷹の目で古都っぽいところ、風情や情緒っぽいところを探してしまうという。分譲マンションの広告やら、旅行の釣り文句なんかもそう。

 そういえば、中学1年のとき、それまで住んでた神奈川県川崎市から東京の下町(江東区の門前仲町)に引っ越した。親父が持ってた長谷工の分譲マンションのきれいなパンフを何度も見返して、「いまなお江戸情緒あふれる〜」という宣伝文句は今でも覚えている。が、実際に住んでみたら、ただのゴミゴミした下町でしかなかった。目の前に商船大学のキャンパスがあり、隅田川の大きな河口や橋があってそれは良かったのだが、でもそれが江戸情緒なのか?というと違うだろう。確かに小さな運河が多く、木場などでは本当に丸太が川に浮かべてあったのだが、それが江戸情緒なのかというと、そうなのか?とも思う。

 で、13歳ながらも「そもそも江戸情緒ってなんだ?」と不思議に思った。これは未だに謎である。名代のきんつば屋があるとか、深川不動があるとか、そんなもん全国津々浦々にあるだろうし、別にこのエリアだけ江戸時代やってたわけでもあるまいし。そこで、毎日、銭形親分みたいな人たちが「どいたどいたあ!」と威勢よく歩いてくれたり、遊び人の金さんが横断歩道で片肌脱いでくれてたりすれば、なにがしか感じるとこはあったかもしれないけど、新興住宅造成中の多摩丘陵、その広大な空き地や原っぱで過ごしてきた身からすれば、そこは東京のやたらゴチャゴチャした町でしかなかった。それはそれで悪くはないが、およそ「情緒」とは対極にあるようなものだと思う。

 自分的にいえば、チャリ漕いで清澄庭園いって、その隣りにある図書館がお気に入りだった。江戸というよりも明治って感じの、古い石造りの洋館で、その高い天井、喋るとエコーがかかるようなホール、いつもひんやりしてる空気、階段の上の窓から斜めに差し込んでくる夕暮れの陽射し、どれも心地よかった。でも江戸情緒というのとは違う。

土地のイメージ

 その後も、いろんな地域に住んだ。京都にも住んだ(てか今も実家は京都にあり、帰省すると京都)。古都京都だあって気分は、その頃にはあまりなく、生まれて初めての一人暮らしだった高揚感が強く、どこそこのスーパーは安い!とか、あの定食屋は良い(王将も天一も全然無名だった頃)とか、その種の生活情報にしか焦点が合ってなかった。古都とか、うーん、今でもそんなに感じないです。それよりも、だだっ広い関東平野から来た身に取ってみれば、山河と町並みが合体しているところにフォーカスが合った。風水や呪法的に完璧に配置されたというが、比叡山があって、愛宕山があって、鴨川が流れてという配置の妙。それと山の稜線の美しさ。中洲の多い鴨川のぶわーっとゆるく開けている感じ。そっちに惹かれて、社寺仏閣とか人工物にはそんなにこなかった。知識不足もあるんだろうけど。

 岐阜に住んだときは、先入観ゼロに近かったので、それが良かった。長良川と金華山と街という、「山+川+町」の三位一体がここにもあった。ちなみに学生時代恋人に会いにせっせと通った福井も、足羽山+九頭竜川+町の三位一体であったし、考えてみれば、日本の地方都市は大体がこの構造を取っているのではあるまいか。

 先入観が無くてよかったのが岐阜ならば、先入観だけしかなかった法隆寺や斑鳩も良かった。そのころ聖徳太子にハマって調べまくって、自分なりにイメージをまとめて、せっせと小説もどきを書いていた。そのゆかりの地である斑鳩は、もう溢れんばかりの先入観で、そこしかフォーカスが合ってなかったから、それがよかった。今でいうなら聖地巡礼である。平安時代よりもさらに上代である飛鳥時代、まだ日本書紀や古事記すら書かれていなかった頃、およそ日本史上もっとも開かれたダイナミックなマルチカルチャル社会を築いていたという突き抜けた自由な感じが好きだった。あの頃の日本が一番好きで、以後時代が下るにつれ詰まらない国になっていくような気がする。

先入観・イメージに騙される

 一番イメージに騙されたのは音楽かもしれない。最初にガビーンとくる初期接触はいい。そのあと聴き広げていく過程で、どっかしら「勉強過程」みたいな時期になる。ロックの古典とか、これだけは聴いておけとか、歴史的名盤とか、ジャズとかクラシックなんかもそうだけど。ジミヘンとかさ、なんか「凄い」って言わないといけないような、わからないとカッコ悪いかのような。そのあたり焦点が濁る。大枚はたいて二枚組を買ったけど、全然面白くなかった。正直かったるかった。ギターが上手くなるにつれ、「ああ、やっぱすげえな」ってのは分かるし、その革命性や天才性を疑う気はない。でも、あれってリアルタイムにムーブメントに参加しないと本当のところは分からないだろうなーとも思う。初見で「すげえ」と思ったのは、ウッドストックの記録映画でみたアメリカ国歌で「音楽ってあそこまで壊していいんだ?」「壊し方のカッコよさ」という点、あとワウとビブラートをきかせまくったVoodoo Childのイントロの呪術的な感じくらい。

 Xのギタリスト故Hideのインタビューで、必死にお小遣い貯めてZEPの三枚目を買ったとき、どかーんとハードなのが来るだろうなと期待満面だったのに、なんか全然ハードじゃないので肩透かし食らって焦ってきて、これから凄い曲が来るんだとそれでも希望を繋いで聴いて。でもB面になったらさらに悪夢のような全編アコースティック満載になってるから、もう泣きそうになってきて、それでも必死に「いや、これがいいんだ!これが新しいんだ!これがカッコいいんだ」と懸命に思い込もうとして、でもどうしてもそう思えなくてって思い出話を語っていたけど、わかるわー。

 リアルタイムで参加できたのは、ジミヘンの次の革命家であるヴァン・ヘイレンで、夜にFM聴いてたら、いきなりバコーンと耳に入ってきた。あれはもう「一秒で世界観が変わった」衝撃で。「こんな音、この世にあるのか?」とそれが衝撃。それまでのハードロックって、どっかしら音が籠もってて、ハードになればなるほど、もももも〜!と音が陰にこもるところがあって、そーゆーものだったのが、青空みたいにスッコーンと抜けきった「爽やかなハードさ」、爽やかでありつつも、これまでのどんな音よりも獰猛でパワフルで、そんなものがこの世にありうるとは夢にも思ってなかった。一枚目が出た途端、いきなり世界のギターヒーローになったというのも分かる。今ではそんな音はありふれていて、てかヴァンヘイレン以降、それがスタンダードになっていったので逆にわからないと思う。だから後の世代がこれを読んで聴いてみても、別に何とも思わないとは思う。

 音楽はけっこう「勉強=予備知識から先に入る」したので、この種の「そうかなあ?」は多かったですね。ああ、もしかして、その種の体験が多かったから「アテにならない」というのが叩き込まれたのかもしれない。なにか新しいものに接するときはできるだけ前評判はカットしよう、さもないと度の合わないメガネをかけさせられているみたいで焦点がボケるし、ボケてるあいだに快感ポイント(焦点)を見逃すリスクもある。

メルボルン

 誰に聴いても同じような感想を言うようなものって、なにかしたら騙されているんじゃないか、洗脳されているんじゃないかって気がします。例えば、メルボルンの場合、ヨーロピアンの香りが〜、オシャレで〜、カフェが〜とかそういう文脈で語られる場合が多いのですが、本当にそうなのかなー。そういう先入観から入ってるから、そう見えてるだけとか。

 まあ、僕自身、行ったときはそういう先入観で、それらしき感覚を探して、感じて、満足してって方向もあったんだけど、でも、正直、ヨーロピアンの香りとかそのあたりの感覚は全然わかんなかったなー。ヨーロッパ行ったことないからわかんないし。単に古い建物があるというなら、ただそれだけの話で。それは社寺が多いから京都=古都というのと同じで、リアルな感じとしてはそれとは違う。名刹は古都のイメージを醸し出すというよりは、ただのニギニギしい観光地で、観光バスが並んでるだけのやかましいエリアでしかないし。カフェがどうのというのも、そりゃ美味しい店も不味い店もどこにでもあるだろって思うし。

 それよりも、チンチン電車が我が物顔で走ってるし、昔の商店の佇まいとか、三丁目の夕日的な昭和な感じがしたし、それが良かったです。ヨーロッパかどうかは知らんけど、日本の昔の地方都市みたいな、昭和40年代的な部分。今はどうなってるかしらんけど。あと、レンタカーで周囲を走り回った感覚でいえば、日本の地方都市で堅実な公務員をやってるような確かな生活感を感じた。坂の多いシドニーからしたらまっ平らなのが特徴的で、生活幸福的な真っ平ら感があって、暮らすにはいいだろうなーとは思ったかな。よく語られる気温や天候も、正直いえばシドニーと全く同じとしか思わなかったし、今でもそう思う。シドニーだって、日によって全然違うし、今年と去年とではまた結構違うし、そんなもんどっちも10年くらい住んで比較してみないと分からんよ、と思う。札幌と那覇を比べるなら1日でわかるけど、静岡と和歌山を比べるようなもんだから、なかなか分からん。

感性と対象物の対話

 それが何であれ、そのもの独自の良さというのがあるんだろうし、それは生まれてから育んできた自分だけの感性と対象物との共同作業によって成立する化学変化みたいなもので、一律には言えない。自分なりの良さ、というのは発見するもの、感じるものだと思います。だから、あんまり先入観とか予備知識は入れないほうがいいように思う。出来ればなんも期待しない方がいい。もっとも、期待がなければそもそもそこに行かないわけで、そこが難しいところ。その意味でいえば、これまでの旅行のなかで、一番おもしろかったのは、やっぱり出張とかそのあたりです。そこに行く必然性が期待以外の部分にあって、仕方なしに行くような場合。期待(先入観)がないから、どこにいっても面白いのですね。なにか予め与えられた「課題」を抱えて、それらしきものを探してってプロセスがカットされるから、ダイレクトに自分と対象物とか対話できて、それがいい。

 食べ物なんかもそうですね。これはこう味わえ、ここがいいとかいうのもあるんだけど、分かったようで分からんものも結構あります。先日、手打ちうどんを食べて美味しかったのですが、うどんの「腰」とかいうのも、分かったような分からんような概念です。麺の弾力性なのかもしれないけど、弾力性があればいいのか、なければいいのか、その加減。弾力性だけあればいいならゴム噛んでればいいわけで、そういうことでも無いだろうし。大体、弾力的な食感をなんで「腰」という身体部分を表す言語表現をするのか、そこがどうにも腑に落ちない部分もある。先日のうどんは、確かに快感をもたらすものなんだけど、この快感はなんだろう?と探してて、やっぱ口中にある「好ましい異物感、存在感」かなーと。ジャズで言えばサックスのぶっとい音みたいな、どうしようもなく存在する感。太いうどんの異物感が好ましく、それが大蛇のようにのたくっているのが気持ちいい。歯の噛力とうどんの抵抗感とのせめぎあいの中で、なんか命が宿ったみたいに、のたくるのですが、そののたくり方の生きている感じがいいよなー。そのグニグニ感を「腰」と呼ぶかどうかはわからんけどね。僕なら「大蛇感」と呼ぶけどなー、なんか気持ち悪いけど(笑)。でも、先日のはヤマタノオロチの生命を食ってるみたいな快感がありました。

 慣れてくると、先入観的な「ここが良い」的なものは、最初に一旦全部潰しておいて、自分なりに感じるようにします。直前にリセットボタン押して、頭真っ白にして。どこかに行く場合も、誰かと会う場合も。「自分なりの良さ」「快感のツボ」ってのは絶対どっかにあって、それが誰にも理解できないものであっても、そんなの構わないし。その良いという感覚を突き詰めたり、言語化する作業は昔からやってたから、それが意外と財産になってる部分もあるのかもねーと思う。オリジナルな感覚を表現するには既成の言葉では全然足りないから、その都度自分で言葉を作ってしまうとか。

 もっとも、矛盾するようだけど、一方では「騙されてみるもんだ」というのもありますね。そのときはピンとこなくても、30年経ってから、ようやくその凄味や良さがわかってきたというのもありますから。ネタを仕込んでおいて、それを賞味できるようになるまで熟成させると。この場合、熟成させるのは自分の方なんだけど。

焦点の法則

 こうしてみると幾つかのパターンがあるように思う。

(1)他人から言われた先入観、先駆情報は、大体がフォーカスを合わせるにあたって無駄か有害な場合が多い

(2)ぜーんぜん先入観がなく、目の前のものをそのまんま見て、琴線に触れるかどうかで見ていくとフォーカスは合いやすい(自分の好きなものを見つけやすい)

(3)自分で勝手に作った先入観は、非常に強烈なので、先入観=フォーカスになる。しかし、それはそれで「思い入れ100%」で楽しい。楽しいけど、客観的にはほとんど何も見えてはいない。僕が、Glebe=海外だった頃のように。

(4)フォーカスは、ある程度しっかりした前提知識がないと合わないものも多い。それだけにしっかり学んで深めていくとフォーカスがクッキリ合って深いところまで鑑賞できるので楽しい。

マルチフォーカス

 (4)の知識とフォーカスの関係は、場数を踏んでいくと深まっていって楽しいし、またビジネス的機能的にも使えるようになる。例えば、プロと呼ばれる専門家は一度に複数のフォーカスを合わせられるマルチフォーカスをもっている。医者の診察も、患者の主訴だけにとらわれることなく全身状態を診て、全く別の病根を発見したりする。弁護士が依頼者の話を聞いて事件を組み立てるときも、主訴だけではなく、「そういう問題じゃないだろ?」と別の視点で組み立てられなければならない。鳴り物入りの新人投手をコーチや監督が見るときも、ピッチャーとしてよりも野手や打者としての才能を見出したりもする。同時に十数ポイントのフォーカスが合っているのだと思う。

 「人を見る目」というのは、「独創性があるから前途は有望だが、それだけに独善的でもあるのでチーム作業には向いていないかも、しかし人の言うことはよく聞く素直さはあるし、またへんなプライドには囚われない柔軟性があるから、その点はフォローできるよな、よし、採用だ」てな感じでやってるのだと思う。トンボのように複眼なのだと思う。これはモノを見る目でもあり、目利きの条件でもあるだろう。

消えるフォーカスと通俗概念

 ところで、経験を積むにつれてフォーカスが出てきて、より正確に焦点が定まるようになり、さらに進むと今度はフォーカスそのものが無くなる話。例えば女の子とまだ一度も付き合ったことがない人の場合、女の子とはこういうものという無茶苦茶な先入観がある。それを人は理想とも呼び、煩悩とも呼び、あるいは偏見とも呼ぶ。ところが一人と付き合うと、その子が全女性の代表になる。何を見ても聞いても「女の子はこうなんだ」と新たな発見をする。ところが、二人目になると差が出てくる。共通するところもあるが、違うところも多い。そこで、この部分は女性共通の属性で、この部分は人としての個性という形で分離してくる。それが増えてくるにつれ、女の子とつきあうのではなく、特定の個性をもった○○さんと付き合うようになる。さらに歳月は流れ、付き合うわけではないが数百数千人の女性と接する(仕事とか仲間とか)ようになると、あまりにもサンプルが多くなりすぎて、全てに共通する最大公約数がなくなってくる。女の子とはこういうもの、という属性が、だんだん見えなくなってくるし、また気にしなくなる。ここにおいて女の子というフォーカスは薄くなっていき、場合によっては消えていく。

 同じように、来た当初はオーストラリア人は〜とか思ってたけど、サンプルケースが増えてくるにつれ、全てにオージーに共通する属性がだんだん無くなってくる。もう「人それぞれ」としか言えなくなってくる。

 それでも話の流れや、何とはなしの観念として「オージーは」というが、正確に言えば半分は都市伝説みたいな、ただの社会通念でしかなくなる。それは日本国内で「大阪人は〜」とか、「金持ちは〜」「最近の新入社員は〜」とか言ってるのと同じで、サンプルが増えてきたら、要はただの個性差でしかなく、個性差を超えるほど強烈な法則性があるわけでもないなというのも分かる。でも、一応の会話では、不正確なんだけど、「そういうことにしておけ」的に話を続ける。こういう概念は、実は非常に多いように思う。正確に言えばそうじゃないんだけど、いちいち説明するのも面倒臭いし、話の腰を折るようでナンなので、とりあえず通俗的な一般論にしたがっておけ、という感じ。

フォーカス自由の原則

 対象物のどこにフォーカスを当てるかはあなたの自由である。
 ただ、その当て方一つ、絞り方ひとつで、人生の幸福(快感)の総量が決まってくるような気がして、そこは結構こわいところでもある。

 他人や権威の受け売りや、商業広告は非常に強力なフォーカス作用があるけど、たぶん、あなたの快感のツボはもっと他のところにあると思う。なにに快感を感じるかはあなたの絶対的自由であって(それが他を害しない限り)、もっともっとその自由を謳歌するといいんじゃないかなーとも思う。

 全く聞いたことがないような表現でその良さを語る人は、多分、自分のフォーカスをみつけた人だと思う。何言ってるのかよくわからない、本人しか分からないような感じが良い。また、そこまで言語化できるほど言語能力が高くない人の場合、「なんだかよくわからないけどサイコー」と寝言のようなことを口走るが、それはサイコーである証拠でもある。以前、「曖昧で漠然としているものは常に正しい」というエッセイで書いたのと同じことである。

 大体経験的に言うと、そのツボは、なにか突拍子もないところ、事前には全く予想してなかったところだったりする。通勤の利便性を考えてマンション探しをしていたのに、最後に決めたのは不便なところ。でも、家の裏手の川の感じが好きだったから決めたりもする。そういう決め方はだいたいにおいて正しい。正しいという表現が合ってるかどうか微妙だが、そこで満たされたときを過ごす比率は高くなるんじゃないかと思う。

 自分が何を求めているのか、自分が何を心地よいと感じるかは、やってみないとわからない。人は常に変わるし、毎分毎秒新しい刺激を受けてなにかが変わっていく。対象物に、常に最新の自分をぶつけて、対話して、そこでじゅっと煙が出るか、色が赤く変わるか、どんな化学反応があるか、それはわからない。だからやる価値がある。その意味でいえば、自分はこういう人間だという決めつけこそが、幸福フォーカスの最大の阻害要因なのかもしれない。



いいなー、列車の旅。この、転轍機のところで線路がグニャリとなってるところが好き。


絵に描いたような白い灯台。出来過ぎ感がいいすね


街の背後にそびえるマウント・ケイラ。ここからの眺望が凄いんだけど、しかし車がないと駄目なので諦め。でもこの感じ、神戸の鵯越みたいだなー。


ふと入った中華料理屋(西安料理専門店)で、"Xi'an Burger"という意味不明なものを注文したらこれが出てきた。肉まんのタコスみたいな、なるほどこれが「西安バーガー」かあと。美味しかったですよー。


メシ食いながら窓外を眺める。この地方都市の風情がいいです。「なんで、俺、こんなところに居るんだろ?」感は、僕の快感ツボ・ランキングでも上位にランクインしてます。


 文責:田村



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