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今週の一枚(2017/03/06)



Essay 815:エッセイ書きの悩みとリアル

 

 写真は、WavertonのBrennan Park。
 木がでかいというただそれだけで何か嬉しくなっちゃいますね。

 今週は何を書こうかなー。あんまりネタが思いつきません。まあ、20年以上連綿と毎週やってることなんで、書こうと思ったら何とでも書けるんだけど、でもどっちの方向にどう書けばいいのか迷いはあります。毎週迷ってるし、これまでもずっと悩んでましたし、これからもそうでしょう。ということで、その迷ってる部分を書きましょか。

求められていること

 オーストラリア・シドニーを基軸にしたサイトですから、読者が何となく期待しているネタやベクトルもそっち系のことでしょう。海外生活や永住権のノウハウなんぞを書くと大体ツボみたいでアクセスも反応も良いみたいです。

 だったらそれを毎週書けばいいようなものなんだけど、それもねー、なんかねーって気もします。読者の期待に応えてこそなんぼ!って力強いスタンスもあるし、ビジネスでやってんだったら販売促進になるようなことを書けばいいんだよって話もあるんでしょうけど、でも、なんかひっかかるんです。

 なにがひっかかるかというと、「読みたいことを読んで」「知りたいことを知って」それでいいの?という点です。

本物の実務情報は「ない」 or パーソナルすぎる件

 ソリッドな実務情報は本編HPに書いてあるし、また細かなことはケースバイケースになるから個別にメールやらカウンセリングした方がいいです。

 身も蓋もないことをぶっちゃけてしまえば、本当に本当のソリッドな実務情報(永住権のとり方とか、就職先の探し方とか)って、究極的には「ない」と思うのですよ。常に現場の最前線に身をおいておられる方なら、あるいは同意していただけるかもしれませんが、本当のリアルというのは、いつだって「やってみないとわからない」というのが本質にあると思います。明日の天気だって、天気予報を聞いたところで本当にそうなるかどうかは明日になってみないとわからない。時刻表やフライト情報だって実際に飛んでみないとわからない。想定外の出来事は常に起きますし、むしろ想定外の出来事(思わぬ出会いとか)によって物事が成就するというのが殆どだと思います。

 ということは、情報といっても、大雑把な外部環境やら輪郭でしかない。頭の中でなんとなくイメージするとき、そのイメージのキャンバスになる下地の色や柄であったり、背景の風景でしかないでしょう。それ以上細かなことになってくると、一般論で語っていても仕方がないです。いかに具体的で詳細な個別情報があったとしても、過去にそういうことがあっただけの話であり、だから将来もそうなるとは言えない。シドニー空港の検疫検査で別室に連れて行かれて根掘り葉掘り聞かれましたとか、全部没収されましたとか、罰金60万円取られましたとかいう都市伝説まがいの話をいくら積み上げても、必ずそうなるというものではない。というよりも、実際には「え、検疫検査なんかあったっけ?」と気づかないくらいフリーパスが殆どだと思います。

 それは「日本の会社に就職するとこうなる」という話と同じで、そんなもん会社により、人により、千差万別であり、いくら個別情報を積み上げてみても、自分の未来がそうなるという保証はどこにもないです。ということはオーストラリアの職場では?というのも同じことであり、ましてや「海外の就職」なんてだだっぴろいカテゴリーで語るのは無茶な話でしょう。

 本気でリアルに未来予測をして、そのための戦略を立てるというのであれば、そういう背景事情よりも、本人の性格とかキャラの方が重要な決定因子になっていくでしょう。大体はそうなるかもしれないけど、でもあなたの場合はちょっと微妙かもとか、一般には難しいんだけど、でもあなただったら多分大丈夫だよとか。

 自分に関する情報というのは、自分という素材を正確にインプットしてやらないと意味がない。病気の検査を受けるのと同じで、自分の身体という素材を提供してこその「未来予測に関する所見=情報」が得られるわけで、一般的に「こういう病気がある」とか調べていても仕方がない。だもんで、本当に意味のある情報というのは、つねに個別的で、パーソナルなものだと思います。

 だとしたら、なおさらエッセイなんぞで面白おかしく「そうかー、なるほどねー」みたいに知ったことって、その場はそれなりにわかった気になれて良いかもしれないけど、でも、本当に意味あんの?って気もするのですよ。まあ、その程度にしか期待されていないんだから、その程度のことを書いておけばいいんだよって見解もあるんでしょうけど、しかしなー、最初から「しょせんその程度」って上限を区切ってしまうのって、やってて楽しくないじゃん。

期待という名の精神的ドラッグ

 で、ここでまた背が立たなくなるくらい深い話になって恐縮ですが、「知りたいこと」「読みたいこと」って、既に答を知っているような場合が多いんじゃないか?期待されている結末へと続く一連の安定的なお話で、どこまでいっても予定調和の範囲から逸脱しないもの。あるいは真剣に必要とはされていないこと。

 なぜそんなことを言うかというと、本当にリアルに現実を左右する「知りたいこと」というのは、それがリアルに切実であるだけに、むしろ「知りたくない!」という拒否反応が強かったりするじゃないですか?例えば、大学入試の合否の結果なんか、すごく知りたいけど、不合格だった絶望可能性もセットで漏れなくついてくるから恐い。意中の人に告白したあと、その返事がかえってきたときも恐いでしょう。医療でも、余命なんたらという可能性もある検査の結果を聞くのは恐い。恐いけど、知りたい、知りたいけど、でも凄く恐い。

 なんで恐いか?といえば、それが切実に現実を左右する力を持ってるからでしょう?つまり現実に影響力のある情報というのは、現実がもっている苦さや怖さをそっくりそのまま反映するから怖く感じる。少なくとも、お気楽に読めない。ある意味、当然の話です。

 ならば、暇潰しのようにお気楽なノリで読むような場合って何なのよ?といえば、それほど現実に影響がないと思ってるからでしょう。もちろんゼロではないけど、そこまで切実ではない。

 じゃあ、そんなに現実に影響がないような話をなぜ読むのか?なぜ読みたいと思い、面白いと思うのか?といえば、読んでちょっといい気持ちになれるという何らか快感が予想されるからだと思います。あなたが阪神ファンだとして、阪神万歳的なメディアでの記事を読むときは、「今年の阪神は一味ちがう」「猛虎打線復活」みたいに読んでいい気分になれそうだから読むのだと思う。

 だから、それは「情報」が欲しいのではなく「快感」が欲しいだけでしょう。よく言いますよね、人は自分が見たいものだけを見て、知りたいものだけを知ろうとすると。

 日本や世界であれこれ言われているポピュリズムやナショナリズム、日本すげーとか白人エラいとかいう言説も、気持ちいいからやってるのであって、理性的に現象を解析し自分のリアルな明日を造っていこうって感じじゃない。政治経済のシリアスな、そして暗い話の多くも、こんなに状況がシビアなんだから自分がイケてなくても無理ないよという慰めとして読まれてる場合が多いと思う。「人生に行き詰まると暗いニュースに詳しくなるの法則」として語られているものですが、天下国家を床屋政談してるヒマがあったら、今月の家計をどうしのげばいいか電卓叩いていたほうが現実的には意味がある。でもそれをやってるとマジに暗くなるから、明るくなるサプリメントとしてその種の話が求められる。地引網的に自分も含めて持ち上げてくれる民族や出身地域や性別やらの集団系の話、あるいは鬱憤ばらしに自分よりも弱いやつ(報復されるリスクのない人)を叩いてエセ正義感に浸るとか。一種の娯楽であり、精神的なドラッグだと思います。

 あるいはファンタジーです。こうやって成功しました、これをやれば人生開けます的な話。まだしも現実的ではあるんだけど、致命的に夢見心地なところがあるから(「彼女をその気にさせる5つの法則」とかさ)、そのギャップが現実においては本当に致命的になる。大体、多くのハウツー系はこれだと思います。先日もちょっと話に出ましたが、英語の勉強でも「聞いているだけで〜」系のやつとか。だいたい「〜だけ」と努力を限定する(努力しなくても良さげで楽ちんな)時点でもうダメでしょ。本気でやる気がない、片手間で済めばいいな〜という逃げ腰浮き腰ビビリ腰だから、何やってもモノになるわけないじゃん。そんなこと世間の荒波を何年も生きてるんだからとっくに知ってるだろうに。だからファンタジーなんですよね。ちょっと努力すればなんとかなるくらいだったら、もうやってるって。それじゃダメだから問題なんでしょうに。

 長くなりましたが、「読者の期待に応える」というと聞こえはいいけど、その「期待」とやらの実態は何なのか?上に書いたような、娯楽的で予定調和的な茶番というか、そういうのはちょっとね、という気がする。SNSでもネットでも似たような傾向はあって、「青年の主張」「愛は地球を救う」的な王道のフォーマットがあって、それが安心のフォーマットで、大変だけど頑張ってま〜す的な、とにかく最後はポジで締める的な。あるいは見てくれ綺麗なフォトとか動物とか、ちょっと「お」と思うサムシングとか。でも、何度も言うけど、そんなことやってるよりも今月の家計のための電卓叩いてた方が、本当のリアル世界には意味あると思うのですけどね。

 だから、電卓以上にリアルに意味のあることを書きたいのですよ。そういう王道系になってたとしても絶対どっかでは外したいし、予定「不」調和にしたい。てか、現実そのものがそうなんだから、リアルにトレースしていけばそうなる。ドラマツルギーのような王道パターンとは、必ずやどっかズレているし、そのズレこそがかけがえのない個性だからそれは大事にしたいし、そこは結構気を使って書いてます。また、期待に応えているようで、内容的には「え、そうなの?」「ああ、そういう見方もあるのか」という調和を破綻させるような部分は入れたい。てか自然に入りますけど。ただ、まあ、読み手があくまでもフォーマット的な読み方をしてたら、それまでですけど、しかしそれは僕の管轄ではない。

現実逃避賛歌

 あ、ここで誤解されそうなので書いておくと、ちょっといい気分という「慰安成分」だって、その意味においてはリアルに意味はありますよ。否定はしてないです。自分の実人生に1ミクロンも関係ない贔屓の球団の自慢をすることも、ファンタジーに浸って瞳孔キラキラになろうとも、別に批判する気はないです。

 だいたい毎日の食べ物だって、生命維持&栄養補給というソリッドな機能面だけでやってるわけじゃないですからね。栄養ゼロだけど摂取したいとか、むしろ身体に良くないかもだけど美味しいから食べたいとか、そういう非生産的な快感というのは確かにこの世に沢山あって、それは否定しないし、僕自身、そういうのが好きです。もっといえば、幸福=非生産的な一時的快楽の集積とすら言えるかもしれないのですよ。幸せであるためには生産的である必要はない、というか、むしろ非生産的であった方がより幸せになれるというか。

 なんかすごい逆説を言ってるみたいだけど、経験的にもそうでしょう?自分が一番楽しかったと思う時期を思い出して、そのとき何をしてどうなったときに一番楽しかったか?というと、友達と馬鹿やってるときとか、とにかくくだらなーい、意味がなーい、生産性なぞ薬にしたくも無いようなときが、純粋に楽しかったりするもんでしょ?ピンポンダッシュ的な。温泉宿でムキになって汗だくになってやってる卓球的な。だもんで、非生産性の大切さ、価値というのは、僕自身わかってるつもりだし、むしろ熱烈な擁護者かもしれない。

 でもね、それは非生産的であることを百も承知でやってるときです。わかっててやってる場合。
 それをなんか意味ありげな、身体によさげな、「おためごかし」的な誤魔化し金粉をまぶしてる部分が、なんかちょっと気持ち悪く、そういうちょい気持ち悪いニーズに気持ち悪く応えている自分という図が、トータルで気持ち悪いというか、滑稽というか。なんかひっかかるんですよ。

 現実なんか大抵苦々しいものだったりするから、誰でも現実から逃避したいです。トイレに入って排泄するのは、まごうことなき人間の真実であり、人生の真実の一局面ではあるのだが、だからといって朝から晩までトイレに籠もっていなきゃいけないことはないし、トイレの中もできるだけ「現実」から目を背けられるように芳香剤があったり、キレイな装飾があったりするものです。現実だからエラいってもんでもないのよ。現実なんかウ○コみたいなもので、しげしげと観察したいようなものではない。自分の欠点、自分のダメなところ、自分の薄暗そうな未来像、どれもこれもリアルにじっと見つめたくはない、できれば逃避したいよ、誰でもそうだろうし、僕でもそう。

 現実というのは、常に何らかの精神的苦痛を伴う。というよりも、現実の苦痛を麻痺させるために、人間の精神はあるといっても良いくらいかも。あるいはもっと広げて、人間の作ってきた文化や宗教というのは現実逃避の所産と言えなくもない。しょーもない現実を束の間忘れさせてくれるとか、その苦痛を和らげてくれるとか。狭い部屋でも大きな鏡をおくと広く見えますよみたいに、狭いんだけど狭く感じないような一連の工夫が文化だったりするわけだし、人間の精神の偉大な融通無碍だったりするわけでしょう。どうにも誤魔化しようがなくなったら来世という増築をしたり、天国に行けますよ的な慰謝をして、トータルで帳尻合うようにしたり。それを一概に悪いことだとは僕は思わないし、むしろ懸命に快くあろうとするいじらしさ、愛らしさ、ひいては畏敬すら感じます。

 ただ、トイレの芳香剤が、それがトイレの芳香剤であるという立ち居位置を誠実に守ってる程度には、どんな話をしたり書いたりするときも守っていたいな、って思うのです。だから、毎日クソっぽいので現実逃避したいです、オーストラリアの素敵な感じを語って、僕をぽよよ〜んとさせてくださいってリクエストがきたら、全力で応えます。なんぼでも、ぽよよ〜ん話を書いてあげる。それも嘘ではないという範囲で。

 そうではなくリアルに現実的な話を求めますというなら、情け容赦なく書きますし、書いてます。書いてるからこそ信用も生まれるんだろうし、本当にリアルな戦略も生まれるのだと思いますしね。

 何が言いたいかというと、ベクトルです。あなたは、リアルに近づきたいの?それともリアルから逃げたいの?という方向性(ベクトル)です。逃げるのも全然アリですよ。でも逃げてるという自覚は最低限必要だろうと。でないとややこしいことになります。一見リアルに近づいているようでいて、実は逃げてるというのがアカンだろと。予定調和の何が嫌いかというと、予定も調和も、自分の脳内の話であって、リアルではないからです。脳内の気持ちいい筋書きにあわせてリアルを捻じ曲げてしまうところに不健康なものを感じる。また、戦術論や戦略論でいっても、予定調和「外」のところに人生の重要なキーポイントがあるのが常なわけで、それを見過ごす方法論はヤバいと思うのです。

 でもって、逆説のさらに逆説いえば、現実は確かに苦く、しかも海外現実はハンパないですから、とりあえずボコられて、木っ端微塵になって、原子分解レベルまでいったりするんだけど、そっからが面白いんですよ。粉々になった自分が、また再構成されていって、現実に適応したヴァージョンアップした自分になっていくダイナミズムがめっちゃくちゃ面白いです。でもって、原子再構成でありながらも、旧ヴァージョンの自分との類似点は確かにあって、そこでまた何がどうなろうが「自分は自分」ということを再確認します。そしてその再確認する部分が、それまで何となく自分の本質と思ってた部分とは全然違ってたりするのが面白いんですよね。で、ああ、俺はこういう人間だったんだ、でもそれ実は知ってたわ、知らないふりしてたけど、知ってました、そうでした!って。これは海外に限らず、仕事だろうが、結婚だろうが、「現実」というものが常にもっている破壊成分だと思います。自分を壊して再構成させてくれる。だから現実は、苦いんだけど面白い。ちょっとヤバめの火遊びみたいな。

 もーね、これより面白い遊びはこの世にないと思いますから、その一点だけでも買いですね、うだうだ言っとらんと、とっととやらんかい、来んしゃい〜って感じ。それが本当に伝えたいところなんだけど、しかし、予定調和的な読者のニーズに沿うかというと、沿わないだろうし、そもそも分からんでしょう。

 大体ですねー、お話とか、情報とか、聞いて理解できるような事なんか大したことないですよ。聞いても全然わからん、想像もつかんってことこそがやる価値があることで。しかし、そう言ってしまうとエッセイなんか書いてて意味あるのか?って話になって(笑)、そこが迷いどころですね。理解できなきゃ意味がないんだけど、理解できたら意味がないという。




 ちょっと遠くからみるとこんな感じ


 この公園、以前にも紹介したことあります。最近ではコレかな。


 文責:田村




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