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今週の一枚(2017/02/27)



Essay 814:移住とオルタナ

 

 写真は、GlebeのWaterfrontエリア
 Glebeというのは意外とウォーターフロントが多く、北東部は全部海(というか川みたいなものだが)に接してます。Black Wattle BayとかRozelle Bayとか。そしてその殆どが一般に公開されていて(どっかの金持ちの私有地になってなくて)、全部歩いていけます。Walkingとワンコ散歩天国。気持ちいいすよ。

 ここ最近よく寝てます。去年から最近まで続いていた移転騒ぎの最中、特にクライマックス時には殆ど寝てるヒマが無かったのですが(次から次にやることを思いつくから眠くならなかったという感じ)、その反動というか、大いなるバランス回復というか、今はヒマさえあれば寝てるみたいな(笑)。身体が求めているのでしょう。

 もう一つ求めているのは運動で、去年の日本帰省(未遂事件)以後、そのまま移転モードになって途切れていたWalkingがまた復活してます。やっぱ気持ちいいわー。

 猫が縄張り確認パトロールをするように、Glebe周辺をせっせと歩いています。もともと23年前に住んでたところだし、また数カ月のインスペクションで大分歩き回ったつもりでいたのですが、本格的に歩きだすと「おお、こんなところがあったのね」と、まだまだ新発見があって楽しいです。

 Glebe研究&紹介はもうちょっと溜まってからじっくりやるとして、今週はまた別の話題を。
 知らない間に「移住」が微妙に流行ってるんじゃないか?って話です。

移住は流行っているのか?

昔っからあるオルタナ憧憬

 ふとしたついでに「国内移住」で検索してみたら、その種のサイトが山盛りありました。そのこと自体は不思議ではないです。そういう潮流は昔っからあります。「田舎暮らし、いいよね」という願望を語る風な、一種世捨て人的な趣味というか、人生哲学的な潮流です。さかのぼれば70年代のヒッピー・ムーブメントもそうだし、ヤマギシ会のように地方の自給自足生活をベースにした組織集団もあります。

 個人レベルでいえば、さらに大昔まで遡れるでしょう。放浪、流浪ライフというか、ノマドよりもいっちゃってるライフスタイルとして、折り目正しいエリートが全てを投げ出して全国行脚する西行法師にせよ、半ば職業的活動でもある松尾芭蕉にせよ、取り憑かれたように野原に仏像を掘り続けた円空にせよ。プチ都会の引きこもり系では、徒然草を書いた吉田兼好などもいるでしょう。

 こういうのって、一種の「オルタナ系」だと思います。メインカルチャーに対置するものとしてサブカルチャーがあるように、その時代のメインストリームのライフスタイルに対置するものとして、altanative(オルタナティブ、代替案、他の選択肢としてのもの)なもの。「もう一つのありよう」です。光があれば影があるように、どんな物事にもついてまわります。アメリカ勃興期だって、東部海岸のエリートや西南部の農場生計というメインではなく、「荒野のガンマン」になるとかいうオルタナ系はありました。

 また、メインの横の別館アネックスのように、制度化されたオルタナもありますよね。完全に別人生にしちゃうわけではないけど、いつもとは全然違った世界を体験するコース。多くは「旅(たび)」的な文脈で語られますが。例えば、「お遍路さん」とか「お伊勢参り」なんかも、単なる旅行というにはあまりにも大掛かりな、人生の一時期を画するようなイベントを限定的に(メインは維持しつつ)やります。修行僧の諸国の雲水遍歴やらも、職業的プロフェッションのカリキュラムの一環みたいな感じで組み込まれつつ、やってることは放浪ライフだったり。フーテンの寅さん的な放浪香具師ライフもあるし、「包丁一本さらしに巻いて〜」的な職業的放浪もあるし、旅から旅への旅ガラスやら、三度笠なんたらとか、東奔西走の志士やら、日本人も昔っからあっちゃこっっちゃフラフラしてたのでしょう。だからこそ全国に「街道」「旅籠」というインフラや経済も整備されていったわけだし、「可愛い子には”旅”をさせろ」というコトワザだってあるし。昔の日本の大企業内の各地転々修行のカリキュラムもその流れの一環なのかもしれません。

 オルタナ系も、メインからはじき出されてオルタナにいく場合もあれば、メインをやり尽くしたからオルタナにいく場合もあります。源氏物語などを読んでいると、登場人物はみな我先にと出家したがったり、「ああ、先にやられてしまった」とか言ってるし。晩年は俗世を嫌って閑居してってパターンは多い。ずっと前に世界史シリーズやってて「すごいな、この人」と思ったフリードリヒ大王なんかもそうで、晩年はサンスーシーにこもって芸術三昧とか。

 やっぱ誰にもオルタナへの憧れはあると思うのですよ。「ここではないどこか」的な願望、「こうではない人生」への好奇心とも憧憬ともつかぬ心理。このHPの初期の自己紹介・about usでも書いてますが、僕自身、オーストラリアに来たのは「裏番組はどうなってるの?」という好奇心が大きかったと思います。もしかして、今この時間にもっと面白い番組やってるんじゃないの?と、それが気になり出したら、どうしてもチャンネル切り替えて見てみたいという。

オルタナよりもメインな

 というわけで、オルタナ憧憬的な国内(外)移住(or放浪)は昔っからあったし珍しくもないんだけど、検索したサイトをぱらぱらと見ていると、もう「オルタナ」とかいうレベルを超えてきて、こっちがメインになるんじゃないの?ってくらい広がりつつあるのかも?と。

 【日本全国版】田舎暮らしの移住先オススメ100選などは労作で、全国各地の移住先ランキングが載ってます。単にずらっと並べただけではなく、その理由も書いてくれてます。読んでると「ふーん、そうなんだー」って面白いです。例えば、九州地方の一位は大分県竹田市らしいのですが、理由として「生活水が美味しい」「トマト農家になるための研修制度がある」「良質な温泉がある」などが挙げられています。和歌山県かつらぎ町では「子どもの医療費が無料」だったり。

 社団法人・移住交通推進機構という団体があって、これは沿革からして総務省由来の公的なものですが、全国規模で地域振興の(移住する側からすれば移住しやすさの)情報があがってました。長野県大町市では商店街の空き家店舗に500万円補助とか、石川県能美市では伝統工芸の後継者の育成に最大150万円支援とか、鳥取県日南町では農業を始めるひとに800万円助成とか、長崎県五島市で漁師に弟子入りすると月12万円支給とか。

 この種のサイトは、ほんと増えてきたな―と思います。雑誌でも年がら年中特集が組まれていたりして、こうなると、もうオルタナじゃないようにも思えます。普通にありきたりな人生選択肢としての移住です。特に、個人レベルでのイトナミと同時に、公的な働きかけや支援も多く、例えば国土交通省の白書(平成26年版)にも第1節 ヒト・モノ・カネ・情報の流れで統計データーをもとに細かく検討されています。

 とは言っても、大きな流れはまだまだ都会集中傾向が強いです。都会の人たちが先を争って地方に出ていって、都会はもぬけの空、、、なんてことは全然ない。地方や過疎の人口が増えているかというと、そうでもない。ただし、これは当たり前の話で、経済的にしんどくなれば職が多い都会に集中するのは当然の流れです(だからこそ過疎問題が起きてるわけだし)。また地方の過疎エリアの方が高齢化が進んでるから人口の自然減もあって当たり前です。そういったバイアスを計算に入れると、一定の潮流のベースみたいなものはあるのかなーという気がします。

 同じ白書では
「統計データにより地方への人の流れの傾向を全国的に読み取ることは困難であるが、経済一辺倒の豊かさではなく、自然や地域との触れあいを大切にする生き方も求められており、田園回帰と呼ばれるように、地域を志向し地域を大切にしたいという若者も増えてきているとの指摘がある。内閣府が実施した世論調査では、確かに若い世代の田園回帰の意識の高まりが現れている。都市住民の農山漁村地域への定住願望についての調査によると、2005年調査に比べ2014年調査では、30代の農山漁村への定住願望が17.0%から32.7%へ、40代では15.9%から35.0%へと伸びている(図表2-1-5)。」
ということで、が30-40歳台で「田舎もいいよねー」という人が10年間でほぼ2倍(100%増)になっている。

 とはいいつつも、
「ただし、2014年の同調査では、農山漁村への定住願望が「ある」、「どちらかというとある」とした者のうち、すぐにでも農山漁村地域に定住したいと考える者の割合は60代、70歳以上で高い値を示しているものの、30代で4.0%、40代で1.3%、5年以内に定住したい者を含めてもそれぞれ10.0%、5.3%と必ずしも差し迫った願望にはなっていない(図表2-1-6)。」ということで、「そうはいっても実現はねー」
という夢物語で終わってる様子も窺われます。

 だもんで、今は願望とか夢レベルが先行して広がりつつ、少しづつ官民挙げて実行しつつあるって段階なのでしょうね。こういうトレンドって、一定のクリティカルなポイントを超えるとドーンと増えるのが常ですから、日本社会の現実味のある将来像のひとつして念頭において良いのかもしれません。僕が前々からいってるセーフハウス構想も、別にそんなに荒唐無稽な話をしてるわけではないのだよ、と。

なぜ移住なのか?

知らない間に

 「知らない間に」と書いたのは、静かに広がってるという意味の他に、僕自身の立ち位置があります。日本でも三大都市圏に住んで、転居回数も多かったし、20年以上前にオーストラリアにやってきたし、今でも海外移住関係のサポートとか話とか日常的にやってるから、いわば渦中にいるというか、台風の目的なところにいるから、外界でどうなってるのか意外とよくわからないって部分もあります。

 自分自身の社会的な立ち位置GPSの自己認識は、あくまでも「変わった人」的なポジション。学校でマイナーな部活やサークル(ガバディ部とか、ホーミーのサークルとか)をやってるくらいの感じです。マニアックなことを、マニアックな人達と一緒に楽しんでて、メインストリームは「離れて遠くに思うもの」って感じ。大学時代にガチに司法試験やってるとか、高校時代に世間的にはマイナーなロックを聴き込んでたときに似てます。思えば常にそんな番外地的なところにいたような気もするぞ。居心地いいんだよね、番外地。ところがいつの間にかメインストリームがこっちに寄ってきて、ちょっとびっくりという。知らない間にヘビメタが流行ってるとか聞いて、え、そうなの?みたいな。

外部環境の変化

 本当にそんなトレンドがあるのだしたら、まあ、わからんでもないです。だってメインストリームのライフスタイル像がかなりボロボロですからね。これまでのエッセイでさんざん書いてるので省略しますけど、サラリーマンの絶滅危惧種化とか、先進国の衰亡とか、大きな目でいえば「歴史の必然」に近いので、メインがしょぼくなるのも当然でしょう。

 あと、ちょっと舐めてたきらいがあったAIの進化ですけど、これハンパなさそうです。いつかまとめてエッセイにしたいなと思いつつまとめきれないでいますが、ディープラーニングとか発想が変わってきて、かなり人間に近くなっているようです。ヤバいです。ここ最近、Google翻訳が飛躍的に向上したとか言われてるでしょ。ニューラルネットワークとか、インターリングアルとか、ちらと調べただけだけど、なるほどねと思った。

 さらに適当に自分なりの理解を書けば(かなり間違ってる可能性はあるからそのつもりで読んで)、これまでは最初に膨大なデーターをコンピュータに読み込ませて、そのデーターを当てはめさせて実行させていた。でも、それでは全然ダメだと。そんなデーター・原理→あてはめ的な方法でやっても、世間では原則と同じくらい例外の数があるからスカタンのまんまだと。AIにも限界あるよねって話になりがち(僕もそう思ってた)。でも、最初のデーターや原則で処理するのではなく、現場でとにかくやらせてみて、失敗させて、その失敗経験や現場経験をメモリーとして蓄積させていくという方法。人間がものごとを学ぶ方法そのまんまをやれば、ナチュラルに学べるという。最初にプログラミングをしてそれをコンピューターで走らせるのではなく、コンピューターにプログラミングを修正させて精度をあげていくと。これが出来たら(結構出来てるみたいなんだけど)、もうかなりの分野で人間要らないでしょ。これが恐いのは、高度に知的専門的職業、これまで勝ち組だったと言われていた職業ほどヤバいという点です。

 それはともかく、政治(国内も国際も)、何が正しくて何がどうなのか方向感や位置感もつかみにくくなってるし、メインがメインであり続けるために必要な、ガッチリした石垣のような土台そのものが揺れているのでしょう。メインがしょぼくなれば、相対的にオルタナが太くなるのは当たり前でしょう。でもってオルタナが太くなると、オルタナって決まった道筋があるわけではなく極度に細分化されていくから、もう全体が見えなくなるという流れ。

オルタナは全体像が見えない

 このパターンは、日本の流行歌なんかもそうだと思います。その昔は、歌謡曲というジャンルがバーンとあって、もうそれきゃないってくらい輝いてて、クラスの中のひとりか二人くらいが趣味的に半グレてストーンズを聴いているみたいな構図がありました。今の50-60代の青春時代はそうじゃないかな。バンドブームの80年代、その次の小室つんく時代もまだベストテンとかありました。でも段々分散していって、今、ベストテンみたいな歌謡番組ってどのくらい存在感があるの?てかまだあるの?って。メインが衰亡して、オルタナ的なインディーズや相対的にマイナーな世界に広がっていくわけだけど、そうなると各自の趣味によって限りなく細分化されていくから、もう全体なんか全然見えなくなっていく。

 類似のパターンでは、これも入るのかな?と思うけど、キリスト教のカトリック(旧派)とプロテスタント(新派)です。カトリックは原理はしっかりしてて、もう一子相伝のように神の代理人たる「正当伝承者(ローマ法王)」がおって、それだけです。だからメインが非常に明確にわかった。明確にわかるだけに主導権争い(なんたら公会議で○○は異端扱いになったとか)、お家騒動(法王が何人も同時存在する南北朝みたいな時代)もわかりやすかった。ところがプロテスタントは、神=法王(専任媒介仲介業者)=人(一般消費者)という図式が崩れ、神=人という直接取り引きになり、聖職者はアドバイザーというかコンサル的位置になるので、パターンが無限にありえるようになった。だからプロテスタントの全体像は、今はもう誰もわからんのじゃないかな。

 それと同じように、これから先の世界もそうなっていくのかもしれませんね。その昔は、ベストテンを知っていることがクラスの社交界の必須の知識だったのが、そんなの誰も気にしなくなるという。そこでのパラダイムシフトは、旧体制においては「皆はどうしてる?」が最大の基準であり、多数派=正義であったのが変わる点でしょう。旧来のメインがコケて分散すると、ベストテン的な何が流行ってる(皆はどうしてる)的な発想は何の役にも立たず、問われるのは「自分は何が好きなの?」であり、それだけになる。

 これを図式的にいえば、正解が(自分の)外界にあるパラダイムと、正解が自分の中にあるパラダイムですね。そんな感じなんかしらね。僕などは、生まれてこの方ずっと後者ばっかりやってたような気がするから、そのあたりの外界の変動というのは、今ひとつピンとこないのですけど、そうなんですかねー。

オルタナ道 

 でも、国内・海外の移住系のサイト(ほんと山ほどあるのね)を見てて、ふと違和感を覚えるものもありました。

 それは何かというと、オルタナやってるのにフォーマットがメインのままという点です。それはオルタナになってないぞというか。

 オルタナばっかやってた僕の発想でいえば(それが正しいわけでも全然ないし、他人に勧める気もないが)、オルタナって外部に正解を求めるものではないのですよね。移住先として人気の自治体、人気の国はどこ?って、まんまベストテンの発想じゃないですか。皆どうしてるの?みたいな。

 そりゃ確かに多くの人が選ぶのは、それ相応の理由あってのことで、そこにはなにか学ぶべき貴重なものはあるでしょう。それを学んだり、参考にするのは全然いいです。でもそればっかりだったら、結局、結果=成功を求めてやるというフォーマットのまんまでしょう?成功するにはどれが一番良いか、やりやすいか、可能性が高いかという発想です。でも、それオルタナじゃないよ。

 メインのパラダイムというのは結果だと思います。望ましい結果を至るために一番有望で王道なのはどれかという。でも、オルタナは、そこから外れているわけだけから、パラダイムは結果ではない。それをやること自体に価値があるという発想です。結果的にダメでも、極論すれば地獄に落ちてもいい(良くはないけど)、とにかくそれに惹かれて、それをやってみたいというのがオルタナでしょ。好きか嫌いか、やってみたいか/みたくないか、ただそれだけです。

 ベストテンを聞くのは、クラスで仲間はずれになりたくないという「結果」を求めての話です。別にその曲が好きかどうかはどうでもよくて、要はクラス内成功(結果)が大事。でもオルタナ系は、最初っから仲間はずれに決まってるから、そんな結果は求めない。その曲が好きかどうか、ガビーンとくるかどうか、ただそれだけでしょ。

 今の社会のメインコースも同じことで、いい大学〜いい会社というのも、別にそれほど勉強が好きなわけでもないし、それほどサラリーマンライフや仕事を愛しているわけでもない。ただただ安定した生計という結果に至る手段としての話です。でも、移住系はオルタナだから、その種の結果を期待したらしんどいです。僕自身、オーストラリアに来たのも、別に成功を求めていたわけではないですもん。てか、徒手空拳でオーストラリアにやってきて、永住権のなんたるかも知らないで(こっち来てから知ったもんな)、なにが「成功」かなんか考えもしなかったし、考えようにも見当もつかなかった。まあ「楽しい日々だといいなあ」くらいの牧歌的な(笑)。ただただ「やりたい」だけです。もっといえば「成功」とか観念できないことがしたかったというか。

 でも「やりたいことをやる」というのが本体だから、もうやり始めた瞬間にゴールに達してるのですよね。いきなりエクスタシーというか(笑)。つか企画段階でもう何度も達しているというか。楽しいんですよ。でもって、そういうタイプの人の方が、結果的にもうまくいくんじゃないかなー。現地にいって、踏んだり蹴ったり的な目に合うわけですけど、それもこれもひっくるめて、大きくエンジョイしてるからです。いわば山登りがしたくて、山に登って、途中の坂道がきつくてひーひーいってるようなもので、それがきついからといって、止めれば良かったとは思わんよ。海外に行って、今日一日なんもしてなくても、見慣れぬ異国の街角を歩いてるだけ、そこの空の下でそこの空気を吸ってるだけで、得るべきものは得ているって気分にはなる。何を得てるんだろうな、自由とか開放感とか、そういう生理的に快感をもたらしてくれる時空間なのかな。その気持ちよさがあったら、もういいやって。

 という意味では、オルタナ的な方向がメイン化するというのは、ある種の根本矛盾も引き起こすと思います。メイン的な、成功目的・客観結果主導のフォーマットで、オルタナ的に極めてパーソナルな行為をするわけですからね。そこではパラダイム衝突というか、根っこのドグマ規範が2つあって喧嘩するから、わけわからんことになるかもしれません。そうなっちゃうとしんどいだろうなーって、ふと思ったという話でした。










 真正面に見えるのがフィッシュマーケット


 シドニー大学レガッタ部のみなさん(近くにボートハウスがある)


 文責:田村




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