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今週の一枚(2017/02/13)



Essay 812:現状麻酔 〜「慣れ」の功罪

 

 写真は、Chippendaleの裏町のカフェ

 というわけで、事務所移転狂騒曲も、先週の炎熱40度での金土で一応峠を超えました。以後、第三フェーズの残務整理&新規模索編に入っていくのですのが、三週連続で移転話を書いても、もう飽きたでしょう?その代わり、新旧での気持ちの移り変わりが面白かったので、その点を書きます。


 要旨を先に言ってしまえば、「人はどんなものにも慣れる」ということですが、さらにここから2つのことが言えるんじゃないかなーって思います。

 人は大抵のことには慣れるから→
 (1)事前に不安だったり、始めは違和感・不快感バリバリでも、すぐに楽になる
 (2)「慣れ」によって重大な判断ミスを犯す

 以下、述べます。

新旧ココロの移動


 今回はセルフ引っ越しだったので(赤崎、田尻、新堀の各氏には改めて謝意!)、少しづつ時間をかけて移転していきました。メルクマールになったのは、生活の心臓部の冷蔵庫とベッド、仕事の心臓部のPCで、その移動時期が移転時期を決めるいう。民法物権法でいえば、所有権の移転時期は占有移転か対抗要件具備かみたいな(っつっても一部しかわからんだろうが)。

 物品がだんだん旧から新へ移動するに伴って、気持ちもまた移転していくのですね。最初の方は旧宅に親和性があるので、住み慣れた居心地の良さやら、新宅の違和感やらを感じるのですが、最後に旧宅を清掃しているときなどは、「よくまあ、こんなところでやってたよなー」とか手のひら返したように思ってしまうのですね。我ながら、その感覚が面白かったです。

 完全に新宅に重心を移した今となっては、逆にこれから旧宅に移転して、そこで活動しろと言われたら、今回以上にビビると思いますね。えー、あんなところでやっていけるのかよー?絶対ムリだよーとか思うと思う。事実は20年近くやっていけてたわけですから問題ないんですけど、でもこっちから見るとそう見えるという。

 もともとなんで旧宅の立地とあの家になったかといえば、相棒の福島とその旦那のラースと、同じくAPLACを初期の頃にやっていた方の都合4人で住むので大きな家が欲しいというのが理由でした。別にAPLACをやるためにあそこにしたわけではないです。それが部屋が余ってるからゲストルームもいいよねって話になって、さらに福島夫妻がブリスベンに去り、もうお一人も帰国されって僕だけになって盛大に部屋が余ったのでゲストルーム時代になったというのが経緯です。ああいう形態を理想にして実現したのではなく、最初に部屋ありきで、その現状を活かすためにはこういうカタチにしましょうってことです。

 だから「よくまあ、こんなところ」って思うのも、あながち変な話ではないのですね。むしろフラットにビジネス的な功罪を考えれば、ちょっとありえないだろ?ってくらいのものです。でも、「こんなところ」なりの良さを活かして、かなり細かなところまで緻密にシステムを作っていったので十分「あり」になってはいました。しかし、初期設定にかなり支配されていたことに変わりはないし、むしろあんな初期設定でもやり方しだいで十分成り立つのだといういい例証にはなるでしょう。

偉大なる「慣れ」パワー

 何が言いたいかというと、なりゆきによる難アリ環境であったとしても、それが現状として固着してしまえば、それが当たり前にもなるし、それ以外の形態は思いつかないってくらい普通の話になってしまうということです。現状というのはそれほどまでに強い。

 この心理傾向の良い点は、仮にかなり難アリ環境だとしても、それが現状だったら「慣れ」という強烈な麻酔作用があり、人は大概のことには慣れるようになっているし、大概の環境下でもハッピーになれるように作られている。だから、将来的に環境が変わって不安だという人は、そんな心配しなくてもいいよってことでもあります。そうなったらそうなったで、人はそこで生きていくために速やかにマインドセットを再構成するし、またそこでハッピーになるためのノウハウも速やかにみつけていくと。

 これは多くを語らなくても、皆さんもよくご存知でしょう?
 キツイ部活、激しい肉体系のバイトなど、最初は「もう逃げたろか?」って思うくらいキツく感じる。お先真っ暗感で打ちのめされるのですが、それでもイヤイヤやってると、不思議なものですぐに慣れてしまう。部活なんかでも、最初は息が続かない、喋れない、まともに立てないって体たらくなんだけど、1ヶ月もしたらヘラヘラ世間話しながらランニングとかしてて、「くっちゃべってんじゃねえ」と先輩に怒られるという。仕事も大概そうです。

 オーストラリア行きでも、行く前は、英語もろくに出来ないのにどうなっちゃうんだ〜?とか思うけど、来てしばらくしたら慣れてしまう。結構居心地が良かったりもする。ラウンドのWWOOFなどでは、自分でダム作って、自家発電してって凄いファームもあったりしますが、それも慣れてしまえばこんなに居心地がいいところはないくらいに思ったりもする(人次第だけど)。うまく馴染めている人ほど、もう最初の一週間くらいで、これまで日本で住んでいたことが遠い昔の記憶、ほとんど前世の記憶くらいに遠ざかってしまう。

40億年の進化適応パワー

 このように「慣れ」というのは絶大な効力があります。
 なんで僕らはこんな偉大なパワーをデフォルトで持っているのか?といえば、それが生物、それも進化適応型の地球生物のデフォルトだからでしょう。適応することで生き延び、進化してきた一族だからだと。

 固定状態でないとダメな生物だったら、これまでの過程でとっくの昔に絶滅してたのでしょう。暑くなろうが寒くなろうが、日照りになろうが、食糧が減ろうがなんだろうが、それでもしたたかに生きていく、殺しても死なないくらいしぶとい連中だけが地球の生存レースに勝ち残ってきたわけだし、僕らはその栄光の末裔です。地球生物40億年のスキルを持って生まれてきたと言える。だからこそ人類というのは50度の炎熱砂漠でもしっかり生きてるし、氷点下50度のツンドラ凍土にも生きている。その差100度ですよ、凄いなんてもんじゃないですよ。この奇跡の適応パワーをもってすれば、日豪の差という同じ先進国内での「微差」なんぞ取るに足らないでしょう。300キロで走れるフェラーリが40キロで走るくらいの努力で克服。小手先でちょちょいでOK!です。ましてや、同じシドニー内での引っ越しなんぞ、存在しないのも同然。

 というわけで、あなたは何となく自分が思っているレベルの100倍くらいはタフだと思ったらいいです(笑)。ある日北朝鮮の拉致されようが、奴隷船に積まれて綿花農場でこき使われようが、それでも友達は出来て、馬鹿話で笑い転げたりもするし、恋をしてドキドキしたり、なんだかんだやっていけてしまうという。むしろしんどいのは「微差」の方だと思います。同じ会社でセクションが違うとか。そして、一番しんどいのは対人関係でしょうね。これが一番しんどくて、一番慣れにくいように思います。シェアも仕事も何もかも、人で選べといいますが、本当ですよねー。その他のことはしばらくやってたら無問題になるから。

 さて、悪い点は、現状というのは、それほどまでに人の発想を支配するという点です。これはある意味、とても恐いことです。それが現状だというだけで、50%増くらいお化粧をするから、それだけ現状が素晴らしく見える。だからそれを変えていくのを怖がったり、億劫がったりする。と同時に、それを変えたら生きていけないんじゃないかってくらい視野が限定され、発想が極度に制限されてしまう点です。

現状麻酔の怖さ

 上で見たように人はどんなことにも慣れるんですけど、慣れればいいってもんじゃないってことです。慣れによって当面の苦痛は去りますが、それだけでは問題が解決したわけではない。なぜなら、それがベストなのかどうかは未検証ですからね。

 日本では今頃厳冬期から徐々に春めいて来る頃だと思いますが、例えば、温風エアコンも、床暖房も、コタツも、ヒーターも全部揃ってる家に住みながら、全ての暖房設備をオフにして、氷点下の冷たい部屋の中で震えながら寝ているとします。そして、こう言うのですわ、「いや、慣れたらなんとかなりますよー」って。そりゃそうですよ。昔はそんな暖房なかったし、隙間風吹き込むあばら家みたいなところで、着物一枚に布団ひっかぶって生きてたんですからね。全然可能です。でも、そういう話じゃないだろ?ってことです。暖房つけたらいいじゃん!って。

 自分の人生をもっと豊かに、楽しくすることが出来る選択肢がいくらでもあり、且つ、それも手を伸ばせばすぐに届くくらいの実現可能な距離にありながら、「慣れ」てしまうと、それに気づかなくなる。慣れによって発想が狭く固定してしまう。これ、恐ろしいまでに馬鹿馬鹿しいです。

 でも、この過ち、誰でもやってしまいます。もうしょうがないよねーってくらい誰でも間違える。
 だから放置していいんだってことじゃなくて、だからこそ意識的にならないと。

慣れとカルチャーと洗脳

 どんな人、どんな民族にもこの過ちはあります。それをカルチャーだ、文化だ、伝統遺産だとかいって有難がったりもする。「慣れ洗脳」の無いよそ者から見ると、なんて無駄な苦労をしている人たちなんだって不思議に思えるのだけど、本人たちは大真面目にやっている。

 思うに「先人の知恵」「昔からの伝統」というのは、黎明期においては切れば血が出るくらいゴリッゴリにソリッドな合理性や実戦性があったのだと思います。ぱっと見には理不尽極まるように思えても、よくよくやってみると、なるほどね、たしかにそれが一番理に適ってるわという凄まじいまでの理の精神があったのではないかと。

 例えば、イスラム教では4人まで妻帯できることになってますが、あれも単にスケベハーレムを作りたいからやってるのではなく、生活保護的な側面を色濃く持つそうです。聞きかじりですが、始祖のマホメットの時代は戦国時代のようなもので、戦乱につぐ戦乱で、マホメットというのは釈迦やキリストのような人物ではなく、織田信長や曹操のような人だったらしい。そこでは戦争でどんどん兵士が死に、未亡人が大量に出現するから、彼女らの生活を守るために残った男たちが分担して責任を負うという一種の社会保障が原型らしいです。だから絶対に平等に接しないとならないというハーレムらしからぬ厳格な掟がある。総じてイスラム教というのは、戦国国家を成り立たせるための武家諸法度や民法や刑法みたいな無味乾燥な規律が多く、まさに「法」です。またスピリチャルでファンタジーな要素や、哲学的な要素は少ない。偶像崇拝禁止も徹底してて、イスラム建築といえばアルハンブラ宮殿のように幾何学的なモザイク模様が多い。

 イスラム教は、キリスト教と違って布教をしません。現存する集団を規律するための法なのですから、それを外部に輸出する必要もないし、他に広めてもあんまり意味がない。それは日本が日本民法を他国に広めたいとは思わないのと同じことなのでしょう。カルチャーじゃないんですよね。機能的な決め事でしかない。このように合理的なイスラムであっても、それを政府洗脳ために政治利用する場合もあるし、ファナティック(狂信的)な人々を先導するためにも使える。一種の「悪用」だと僕は思うけど、そういう洗脳利用の場合は「掟絶対!」になる(思考を停止させないと洗脳しにくいし)。女性に対する無駄に差別的な扱いもそうです。でもイスラム全部がそうなってるわけではなく、例えばインドネシアなんかバリ以外ほとんどイスラム教ですけど、ブルカとかその種の衣装はそれほど普及してなさそうだし、ファッション的にも自由っぽいです。

 日本の神道の本質は、僕が勝手に思うに「衛生管理」だと思います。日本の土着宗教ってごちゃごちゃしててようわからんのですが、山の神とか海の神とか八百万とかいうのと、アマテラス以来の神道とは一応別だと思う。1万年以上続いてきた日本の歴史の大部分は縄文時代のもので、あの頃は稲作も少なくもっぱら採集生活をしてたから、森や海が神様になっても不思議ではないです。何処の国でも最初は自然が神様になるし。アイヌなんかもそうですし。でもって、稲作、特に水田耕作という東南アジア系の農耕スタイルが入ってきてから、集団活動や和の重要性(チームワーク)が課題になった。同時に、年がら年中水びたし状態になってるので、日本住血吸虫病など害虫や寄生虫、細菌などの疫病が課題になったのかもしれない。でもって、神道の神主さんがやってるのは、「お祓い」です。ケガレを忌避して、清浄であることを第一義にする。それって宗教というよりも「整理整頓」「安全第一」みたいな工場や現場のルールに近いと思うのですが、だからそれがソリッドな合理性なのでしょう。泥や地面に接していると感染する恐れがある、ケガレ(リスク)を避けるために、例えば床を地面から高く離した高床式建築構造になったりもする(正倉院なんかもそう)。

 それらソリッドな合理性に比べると、日本書紀で語られている神道はかなり政治利用(悪用)が強く、もうこの時点で胡散臭くなってて、ましてや明治維新後の薩長の都合で祭り上げられた国家神道は、強国プロシアの皇帝っぽい感じを出しましょうとか邪道っぽくて、遠いご先祖様が日々の生活の中で少しづつ学んで教えにしていったというソリッドな部分は少ないように思います。

 思うのですけど、どんな風習や伝統、しきたりでも、「なんでそうなの?」と聞いて明確な答がないもの(それが伝統なのだとか、ご先祖様代々〜とかだけ)は、もうその時点で嘘くせえなとか僕は思っちゃいます。生まれて物心ついてからそればっかだから、慣れてしまって、なんとなくそういうもんだと思いこんでるだけの思考停止じゃんって。どんな風習でもそれが受け継がれてきたからには、それなりの理由があるだろうし、それがあるのか無いのか、それが何なのかは知りたいですねー。

日常のおけるノウハウ

 さて、日常的な慣れの話に戻りますが、僕らの周囲にも「慣れ」によるスーパーパワーでクリアしてることは沢山あるし、それによってミスっていることも沢山あるでしょう。というよりも、そんなことばっかりでしょう。

 日本における満員の通勤電車なんかもそうです。あれって世界的にも見ても、ちょっとありえないくらいの苦痛を伴うと思いますし、実は日本的に見ても「ありえない」とすら言えます。僕自身、高校三年間は、乗車率200%強の地獄の東西線で苦労させられましたが、それ以外は全人生においても司法修習(東京修習)時代の8ヶ月しかないです。あれは三大都市圏の、9-5時勤務の通勤者(の一部)だけの話で、それ以外のエリアではそんなにキツくない。地方にいったら自動車通勤が普通ですし(マイカーでないと行けないし)。

 しかし、高校三年間は他に選択肢がない以上、我慢するしかなかったです。我慢するしかないものをあれこれ嘆いても辛さが一層身に染みるだけだから考えない。でもって慣れてもきます。だからといって平気になったとか、好きになったとかいうことは無く、あいかわらずイヤなんだけど、我慢することに慣れてきたという程度に過ぎなかったです。慣れの偉大なパワーをもってしてもこれなんですから、よっぽど辛いんでしょうね〜。

 それから数年後、また満員電車を体験する羽目になったのですが、それも東西線よりもずっとマシな常磐線〜千代田線でありながら、それでも強烈に「ヤダ!」と思いましたもん。京都での自由な大学生活が、高校時代の慣れ麻酔をゼロリセットしてしまったので、新鮮な気持ちで強烈にイヤだと思ったもんです。これがイヤだから自由業の弁護士を目指したのに、もう東京で弁護士やるって選択肢は無いなと思いました。

 漠然とぽっと思うんですけど、3ヶ月やって慣れないようなことだったら、もう止めた方がいいんじゃない?って気がしますね。慣れによる麻酔が効かないんですから、相当なもんですよ。そして慣れによる視野狭窄や固定観念を外してフラットに考えてみれば、やっぱありえないような物事だったりする。

 でも、その時点では、慣れ呪縛にかかってバランスが悪くなってるから、「そーゆーもんだフィルター」がかかってて、世の中そんなもんだ、仕方ないんだよ、誰でもやってることなんだよ、これが普通なんだよって思ってしまい、そこから先の打開策が思いつかない。「誰でもやってる」って、そりゃあなた、その場所にいれば周囲は全員同じことやってますよ。それは北朝鮮いけば全員マンセーしてるのと同じ、とある地方にいけばほぼ全員地元のチームのファンであるのと同じことで、その種の「偏差」は絶対ある。ちょっと離れたらそんなの誰もやってないって。でもそれが見えなくなっている。

 これからオーストラリアに来る人でも、上手くやっていけるか不安って人は多いでしょう。大なり小なり全員がそうかもしれない、でも、ノープロブレムですよ。偉大な慣れパワーがありますから、なんでこんな簡単なことにビビってたんだって思うでしょう。てか、その頃にはそんな不安感は忘れているでしょう。そりゃ大変は大変ですよー、苦労するっちゃ苦労しますよー、でも僕から見れば、あの満員電車ほど辛いことはないですね。足元にも及びませんね。

 でもって、今度は日本に帰ることがありえないような選択に思えてくるでしょう。えー、そんなこと出来るのだろうか?ってまた思うでしょう。でも大丈夫。帰ってしまえば帰ってしまったで、偉大な慣れパワーが(以下同文)。

 だからそのへんの目先の快不快なんかどうでもいいんですよ。なんとかなるから。でも、いつまで経っても慣れないこと、むしろやればやるほど辛くなるようなことは覚えておいていいです。多分、かなり核心的な部分で向いてないことかもしれませんしね。

 そして、環境を変えて慣れ呪縛が外れると、それまで見えなかったことが見えてきます。知らないうちにそーゆーもんだと思い込んでることが、徐々に魔法が切れてきて、別にそう考えることもないじゃん?って。例えば、死ぬまで生計のダンドリがついていて、それが当たり前で、そんな先々不安定な人生なんかありえないって思い込んでいたものも変わってくるかもしれない。この激動の時代に、数十年先まで予測可能であり、且つその通りになっていくことなんか、まあ無いですわ。あるわけがない。社会の変化というものが非常に少ない封建社会のような時代ならいざしらず、明治維新後の日本においても、そんなこと一度もなかったですよね。年金だって、今年金貰って逃げ切りセーフ世代は、若いときは戦争でしたもん。安定もクソもない時代ですから。でも団塊世代くらいになるともう微妙にヤバいです。団塊の頃だって日本はグラグラ沸騰してて不安定でしたもん。僕らの世代くらいでようやく安定日本になったのですが、だからこそ「安定」という言葉が日本人のフェバリットになったのですが(それ以前は言うだけ虚しいから考えもしなかったでしょう)、その代わりもう不透明すぎますもん。

 じゃあ不安定でもいいのか?明日は明日の風が吹く〜、ケセラセラ〜でいいのか?というと、別にそんな何も考えていないわけじゃないです。てか安定志向の人の数倍は考えているんじゃないかな。それは例えば、車で自動航行で目的地に着くのと、手動で自分でハンドル握ってるのとの違いくらいです。手動のほうが全然楽ですよー。だって、自動で決められてしまってたら面白くない以上にリスキーですもん。例えば、目的地を○駅と設定したとしても刻々と状況は変わるわけですよ。駅前で火災が起きたので立入禁止になってるとか、大渋滞が起きているとかになれば、手動ならば即座に目的地を変えられます。要は電車に乗れればいいんだから、一駅隣に行こうとか、抜け道を考えるとか。これが自動航行だったら、アホみたいに火災のど真ん中に突進んしていって火だるまになるだけでしょう?大企業といえども将来性が無いようなところにいたら、いずれは火だるまですよね。

 だから日本にいたときに考えていた「安定」というのは、実は安定でもなんでもなくて、ただの「固定」に過ぎないんだ、前提条件が一つ変わっただけでガラガラと崩壊するリスクを背負ってのことなのだと、そんな感じに考えが変わるかもしれません。

 とかなんとか書いてたら、結構いい時間になってしまった。そろそろあげます。









 文責:田村




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