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今週の一枚(2016/12/19)



Essay 804:みんながみんなの不幸を願っている社会

 「世の中こんなもん」であってくれないと困る心理

 写真、なんか大河ドラマみたいな、NHKかなんかのドキュメンタリー番組みたいな感じが面白かったので。撮影場所は、ノースのGordonです。

前科アリ

 いきなりシリアスな話で悪いのだが、人は(あなたは or 俺は)、他人の幸福を願っているのか、それとも他人の不幸を願っているのか?

 そんなもん、幸福を願っているに決まってるだろ、他人の不幸を願うような奴は心がひねくれている一部の奴だけだ、というのが公式見解というか、優等生的答弁なのでしょう。「まあ、確かにそういう残念な人もいるでしょうねー」という。

 それが一番波風が立たない言い方で、まあ無難なのだと思う。しかし、師走のクソ忙しいときにすまんが、敢えて波風をたててみたい。

 重ねて問うが、あなたは(俺は)、他人を不幸よりも幸福を願っているのか?
 ほんとにい?
 常に?

 ぶっちゃけ、どっちもあるのではないか。
 素直に認めようではないか、自分は、他人の不幸を願うときもあると。

 僕はありますよ。子供の頃からそういうときは常にあった。
 といっても、常にそればっかではないですよ。時々そういう気分になるときもあったと。逆に幸福を願うときもあった。しかし、常に他者の幸福だけを願っていたわけでもない。

 例えば、幼少期の頃にイジケたり、拗ねたりして、「みんな死んじゃえばいいんだ!」って思ったことはあったぞ。なんでそんな物騒なことを思ったのか直接的な原因は覚えていないが、そういう酸味のある感情、口の中に血の味が広がっていくような気分は、子供の頃からおなじみだといってもいい。

 学生時代には明確に覚えている。それまでバンドだ、デートだで遊び呆けていたのに、ある時期を境に、心を入れ替えたように(そーゆーことって本当にあるのだと身をもって知った)、毎日毎日図書館に閉館までこもって、司法試験のクソ勉強をやり始めた時期がそうだった。キャンパスでは、善男善女が楽しそうに通り抜け、華やかにさんざめいていた。こっちときたら、読んでも読んでもザルで水を掬っているかのような虚しい日々が続いており、そのあまりの対比に「ちくしょー!」と思ったもんです。

 てめーら、遊んでられるの今のうちだぞ。この残酷な社会では、力のない奴はただただ踏みにじられるだけだぞ、就職時期に右往左往し、「俺なんか所詮こんなもんか」という世間の評価を突きつけられ、子供の頃からなんとなく温めていた自分のプライドをずくずくに突き崩され、入社したら小突きまわれ、馬鹿呼ばわりされ、つまんねーゲス野郎でもそれが上司とか取引先だったら卑屈に顔色を窺い、ペコペコさせられるんだぞ。それが死ぬまで続くんだぞ。そして何十年も続くと卑屈な第二人格が作られ、その当然の反動として魂の中に真っ黒なコールタールのような憎悪が一滴、また一滴と溜まって、怨嗟のクソ溜めの中でのたうち廻るような未来が待ってるんだぞ。キサマら、わかってんのか?ヘラヘラ遊んでる場合じゃねえんだよ、この馬鹿どもがあ!

 みたいな感じね。
 なんのことはない、つい昨日まで自分だってヘラヘラ組の一員だったんだけど、いざ自分が詰まらない勉強をやってると、途端に見方がガラリと変わるね。もうドラスティックに変わるね。白黒反転するね。そして、ヘラヘラ組組員としてリアルな実感としては、別に遊び呆けているわけでも、チャラチャラやってるわけでもなく、「ああ、今月やべえし」とかそれなりに生活に苦しんだりしてるだけなんだけど、そんなことは百も承知の筈なんだけど、いざガラスの向こう側にいってしまうと、ひたすら華やかに見える。もう豪華絢爛な花吹雪のように見える。そこを闊歩する人々が、チャラチャラ星からやってきたらチャラチャラ星人のように見えるもんです。馬鹿ですよね。

 そこでは他人の不幸を願います。もう激しく願うね。お前らなんか、くだらねー人生で苦しめばいいんだ、ふははは、もっと苦しめ、ああいい気味だ、ざまあみやがれって感じ。

 そういう記憶はあるぞ。
 だから、常に他人の幸福を願ってます、とは言えません。少なくとも「前科アリ」です。でもって、あれは若気の至りなんだ、今は違うぞ、今は立派に更生したまっとうな社会人なんだー!ってほど、自分が成長した自信は、実は無い。まあ、似たような状況になったら、また性懲りもなく似たようなことを思うんじゃないかな―という気がするぞ。ということは、過去においても激しく他人の不幸を願い、また将来においても他人の不幸を願ったりする可能性が大(少なくともゼロとは言い切れない)わけで、やっぱ有罪ですよねー。被告人にいささかの反省悔悟の情が垣間(かいま)みえると雖(いえど)も、尚も再犯の恐れは高いと言わざるをえず、よって相当法条適用のうえ、被告人を懲役○年に処するのを相当とする、て感じ。

 ところで、あなたは無罪ですか?

どういうときに思うか

 思うのだが、誰だって他人の幸福を願いたくなるときもあれば、不幸を願いたくなるときもある。常にひとつということはない。ではどういうときにそう思うのか?その法則性はあるのか?

因果応報的な正義感から

 時代劇の悪党なんかを見てると、憎々しげでムカつくわけで(そういう演技をしている役者さんが凄いのだが)、こいつら地獄におちねーかなと願うし、番組の最後の方で本当に地獄に落ちたりすると、ざまーみやがれ!ってスッとするわけです。つまり激しく他人の不幸を願っているわけなんだけど、そこには「そうなって当然」という正義の感覚があります。勧善懲悪の、「懲悪」をやってるわけで、悪を懲らしめる分にはやるほうが正義だと。

 それはまあ無邪気な感情で、いっそ微笑ましいくらいなんだけど、でもそこまできれいに善悪が分かることなど、この現実社会ではありえないです。そう思ってみたらそう見えるとか、こっちの立場からしたら相手はそう見えるとか、相対的なものですよね。

 でもって、ここが以下に述べる醜い感情のお化粧、正当化のための理念型になると思います。

嫉妬と正義と世界観

 人間の正義感のほとんどがコレだといいますね。特に、金太郎飴社会である日本人の唱える「正義」は、それが身近なものであればあるほど、突き詰めていけば単なる嫉妬感情であるという。

 さきに述べた僕のドス黒い(笑)感情もコレです。嫉妬ですね。ちくしょー、楽しそうに遊びやがって、いいなー、いいなー、俺も遊びたいよー、なんでお前らだけがーという。要は子供が拗ねてるだけですな。

 なんで○子だけがモテるのよ、私だって結構いいセンいってる筈だし、こんなに差がつく筈ないし、くやしー!という感情。なんで○○が俺より先に昇進するんだよ、大したことない奴のくせに、俺の方が仕事出来るし学歴もスペック高いし、なんでだよー、くやしー!という感情。

 この他愛のない感情をさらに腑分けしてみると、往々にして、自分(or 自分の世界観)に対する深刻な懐疑や不安があります。自分よりも同等ないし劣るはずの人間が、自分よりも優越的に扱いを受けているという事実がある。おかしい!理不尽だ!こんなことが許されて良いのでしょうか?という強烈な”正義(嫉妬)”感情が湧くんだけど、これに対する論理的な解釈は2つ。第一にそのとおり理不尽で不当なことが行われているという解釈。もう一つは、それは全く正当で、間違っているのはその前提だという解釈。つまり、「自分の方が優れている」という前提が間違っている。自分は単に自惚れていただけ、そんな大した人間ではなかった、それほど評価されているわけではないという。第一次的には不当だ!って怒るんだけど、同時に「もしかして?」と不安もよぎります。もしかしたら自分で思ってるほど自分は美しくないかも、仕事が出来るわけでもないかも、、という。

 この不安があるからさらに心は波立つ。波立つから一層ムキになる、激昂する。
 昔心理学の本で読んだけど、嫉妬というのは、自分に対する不安感情を掻き立てる点に本質があると。それは自分(自信)に対する一種の「攻撃」だとみなされ、攻撃に対しては迎撃しようという怒りエネルギーが猛然と湧く。自分の血を吸って、耐え難い痒みをもたらす蚊に対して本能的な怒りが湧くように。不安に思えば思うほど、そんなことはない!と強烈に否定したくなるし、またそこまで自分の気持を追い込んだ相手に対して強烈な憎悪も感じる。

 これは世界観に対する不安でもあります。皆が遊んでいるときに、自分だけ詰まらない勉強をしているとします。将来のことを考えたらそれは正しい選択であり、たとえ今詰まらない思いをしていたとしても人生トータルでいえば圧倒的に自分の勝ちなんだという世界観があります。が、もし間違ってたらどうしよう?とも思うのだよね。もしかしてまるっきり無駄な苦労をしているだけではないかと。

 そこでその不安を打ち消すべく、その世界観を補強強化しようとします。今ここで必死こいて受験勉強をやってるとするなら、「この世のは学歴社会なのだ」という世界観を強化しようとします。そうであってくれないと、この努力は何なんだ?ってことになりますからね、そこはもう必死に。逆に、勉強方面がサッパわやや〜ってなってたら、「勉強だけが人生ではない」「いまどき学歴社会なんかねーよ」という世界観に傾いていく。

 中二病といわれる症状はコレだと思いますね。だいたい「この世界は〜」と極端に大掛かりな舞台装置をもってきてせっせと正当化し、理論武装するという。まあ、僕も含めて人類は全員中二病ですから、人の世界観なんか、不可避的にこの種のご都合主義というか、自分がその立場だから世界もそうあってくれないと困るというポジショントーク的な要素を含むと思います。イソップ物語の酸っぱい葡萄のように、ジャンプしてもとれなかった葡萄は酸っぱくなくてはならない。正社員になりたくもなれなかった人にとっては、正社員とはすなわち社畜的人格破壊をされた廃人同様の存在であってくれないと困るし、上司や同僚の理不尽に歯を食いしばって頑張ってる人にとっては、気ままに会社を辞めたり、気楽に(その人からはそう見える)海外なんぞに行ってる奴らは、人生舐めてる奴らであり、いずれは地獄に堕ちなければならない。

 そうだそうだ、そうに決まってるじゃないか、あいつら皆地獄行きだー、わはははは、ざまあみやがれ、、、ということで、かくして「他人の不幸を願う」という状況が一丁あがりです。

その他

 他にも沢山ありますよね。
 もっと単純な憎悪と報復感情。例えば、車を運転してたら、無茶な暴走車が割り込んできてヒヤリとさせられたばかりか、激しくクラクションを鳴らされ、罵倒され、中指まで立てられたら、ムカつきますよね。で、こう思う。こういう暴走運転をしているような馬鹿は、いずれはロクな死に方しないぞ、いつかは事故って死にゃあいいんだ。これはもう単純な報復憎悪です。場合によっては、不幸を願うなんてぬるい態度では飽き足らず、積極的に自分から動いてボコりまくって地獄を見せたろうかって思う。ま、これは単純。

 微妙に厄介なのが「教育的配慮」です。出来の悪い新入社員や後輩に、あれこれ注意やアドバイスをしたら、「説教うぜえ」「なに?その上から目線?」とか小馬鹿にしきった態度悪悪だった場合です。とりあえずムカつきます。これは上の報復憎悪と同じなんだけど、同時に、「今に痛い目にあえば、こいつもわかるだろう」という教育的な視点もあります。全然ムカついてなかったとしても、口で言ってもわからない奴は、実際そういう場面に遭遇して学ぶしかないよなという。でも、これって単純憎悪と教育とが混ぜこぜになりますよね。ここでは、他人の不幸を願っているんだけど、それはムカついているからそうなのか、本人の為の「お灸」的にそう思うのか。

他人の幸福を願う場合

 他人の幸福を願う?けっ、そんな場合なんかねーよ、あるって奴らは偽善者だよって吐き捨てるように言う人もいるかしらんけど、人は自分の身が安泰ならば、基本そんなに邪悪じゃないと思いますよー。時代劇の悪代官を憎々しく思うということは、裏を返せば悪党の被害にあった無辜の人々の幸せを願ってることでもあるでしょう。フランダースの犬を見て、なんて可哀想なんだと涙したり、みにくいアヒルの子を読んで、最後に美しい白鳥になったところで「よかったね」と素朴に思うもんでしょ。

 そうでなかったらドラマ理論なんかありえないし、ハリウッド映画が世界的にマーケティング分析して「ウケるストーリー作り」をすることなんか出来ないでしょうよ。皆が心底他人の不幸を望んでいたら、登場人物が一人残らず不幸に苦しむような映画しか作られないはず。実際はその逆で、ハッピーエンドの方がやっぱりウケる。他人事ながら、「よかったよかった」で終わりたいんだわ、その方が気持ちがいいのは確かだもん。

 その意味で、性善説か性悪説かでいえば性善説なのかな。もちろん悪に傾く場合も多々あるんだけど、それはそうなるべき理由(嫉妬や不安など)がある場合でしょう。もし善悪いずれの働きかけが全くない、完全プラマイゼロ状態だったらどうか?でいえば、やや善に傾くように思います。

 自分の家族とかでもない、全く利害関係のない第三者であっても、その人が笑ってるところを見るのと、泣いてるところを見るのとでは、前者の方が気持ちが良くはないですか?僕はそうですけどね、あなたは違うのか?報道写真などで、内戦の激化している地帯で泣き叫んでる幼子の写真はインパクトがあります。なんでインパクトがあるのか?といえば、そんな情景は見たくないからであり、そんな状況は望ましくないからでしょう。それが報道価値を持つのは、これでいいのか?という問いかけがあるからこそでしょう。もし泣き叫ぶ人々がいても何の問題もなく、それどころか心が洗われるようにいい気持ちになれるんだったら、それは報道写真ではなく、ただの癒やしや娯楽写真だってことになりますけど、そんなの見ても癒やされないよ。

 癒やしでいえば、人間に限らず動物でもなんでもそうで、だからこそ「なごみ」「ゆるキャラ」などの癒し系が出てくるんじゃないんですかね。この種のほのぼのキャラは、総じて幸せそうです。すやすやと気持ちよさそうに寝ている子猫とか、うれしそうに木の実を齧ってるリスを見るのと、無残に食い殺されたり、飼い主に虐待されている動物を見るのとでどっちが好きか、気持ち良いか?といえば、多くの人は幸せそうな動物を見るほうが好きなんじゃないですか?ほらー、やっぱこの世界は幸せで満ちていたほうが気持ちいいんじゃないか。

みんながみんなの不幸を願う社会 

不幸=正義=礼儀

 自然状態では結構ナイスな人々であるのに、なぜか、この世は、皆が皆の不幸を願っているかに思えるときもあります。

 よく半分冗談半分本気で比較文化論的に言うのですが、オーストラリアでは皆が幸福であろうとすると同時に、幸福であることが個人の義務でもある社会で、日本は皆が不幸であることが礼儀である社会だと。

 ずっと前に「大変度数」というエッセイを書きましたが、日本では「大変」な思いをしていればしているほど「エラい」と評価される。大変度が高い=価値が高いと。「○○さんは大変なご苦労をされて今日の地位を〜」とか賞賛するし、「いや、そっちもイロイロ大変なんだなー」と和解的な理解を示してみたり。大変=つらい思いをしている=不幸=正義、みたいな。

 長期休暇で海外旅行などにいったあとの職場で、オーストラリアの場合、その旅行がいかに楽しかったかを熱心に語り、それを皆が聞きたがり、幸福をシェアするって感じだといいます。週末やホリデーの話は大好きで、そこでいかに幸福になれたかを皆に話すことは礼儀ですらある(だからうるさく聞かれる)。でも、日本の職場で、休暇中の旅行が素晴らしいとか吹聴してたら、「け、いい気になりやがって」「てめえの休暇中、こっちがどれだけ苦労したと思ってんだ」という反発を食らう場合が往々にして多い。だから「どうだった?」と聞かれても、不幸っぽく答えて、皆を感情を逆撫でしないのが大人の礼節であり、正しい保身行動だと。「いやあ、もう、飛行機は遅れるわ、機内では赤ん坊が泣き叫んで一睡もできないわ、ホテルはクソだわ、ツアーはぼったくりだわ、メシはまずいわ、ろくな土産物屋もないわ、あってもクソほど高いわ、もう”大変”だったんだよねー」とげっそり憔悴した表情でいうのがオトナですね。そして、それを聞いた周囲の人々は「やれやれ海外旅行なんかそんなもんだよ、そんなもんに高い金払って行くなんで金をドブに捨ててるようなもんだね、まだ涼しい社内で仕事して稼いで居るほうがなんぼかマシってもんさ」と確認して、ほっとして、波風は立たず、かくして世界人類は今日もクソ平和にすごしていくのでした〜って。

 自分の幸福を話すことは、ともすれば、「調子コいてる」とみなされる。素敵な彼氏の素敵なエピソードを話すのは、「け、いい年ぶっこいてノロけてんじゃねーぞ」「やれやれ日頃モテない奴が、ちょっといい思いをすると舞い上がっちゃって、うるさくてしょうがねーや」「どうせ遊ばれてんだろ?可哀想に」という反発を食らう。それを避けるために、表面的には愚痴っぽくコーティングして「イヤになっちゃうのよねー」とかやったところで、アメリカの軍事衛星のように鋭く、的確に「け、結局はノロケだろうが」と見抜かれるのが落ちです。

 したがって、日本社会で良好な人間関係を育もうと思ったら、適度に不幸であるのは必要です。真実不幸であるかどうかはともかく、それなりのハードシップを体験し、今もなお一定「つらい思い」をしていることを、さりげなくアピールするなり、わからせることが大事です。

 まあ、それはいいです。良くはないけど、知ってるでしょ、そんなことは。
 問題は、なんでそうなのか?です。なぜ、皆が皆の不幸を願うかような状況になってしまうのか?
 同時に、なんでオーストラリアでは、その度合が薄いのか(絶無とは言わないけど、程度は薄い)?

 以下、仮説を幾つか述べます。

理不尽標準設定〜世の中こんなもんよ設定

 これが一番デカいと思いますが、日本とオーストラリアの両方で暮らしてみての違いは、日本だと絶えず理不尽にワリを食ってる感があるけど、オーストラリアではそんなに理不尽な目にあってる気がしない点です。いや、仕事のいい加減さとか、役所の対応とかみてたら、オーストラリアの方がずっと理不尽な苦労をさせられるんだけど、そういうミクロの話ではなく、社会全体としてワリを食ってるかどうかです。

 そりゃオーストラリアで暮らすのは超「大変」かしらんけど、でも理不尽な苦労だとは思えないのですね。永住権も大変ではあるけど、一定の基準をクリアすれば差別なくくれるし、またそのハードル設定も、受け入れ側の状況を考えれば納得できる。俺がやっても多分そうなるってくらい妥当なものです。やたら福祉にぶら下がられたら国庫はパンクするから、こっちでちゃんと職を得て税金払えるくらいの実力を見せてくださいってのは当然だろうし、生きていく以上、それなりの語学力を求められるのは当然でしょう。大変だけど理不尽ではない。また、永住権とったら、参政権以外はすべて国民と同等の権利をくれるというのも気前良すぎないか?と逆に心配になるくらいです。老齢・障害年金も、失業保険も、健康保険も、全部税金から出るから毎月取られもしないし、加入期間がどうとかいう問題もない。「もれなくついてくる」くらいです。また、英語がヘタな人が苦労しないように、あらゆる行政にフリーの通訳サービスがあり、それも世界何十という言語に対応している。理不尽どころか、ちょっともらいすぎな気がするくらい。

 一方、個々の人間的な当たりの良し悪し、噛合せの良し悪しは、そんなもんは世界中どこいっても同じだと思います。人に個性というものがあり、相性というものがある以上、そんなものは同じだろうと。問題は、彼らの日々の生活態度や世界観を形作る社会全体のシステムです。どっかの強くて、エラくて、悪い奴らが結託して、弱い人々の生き血を啜って大儲けして、しかもそれを是正する方法がない、というシステム的欠損があるかないか。

 オーストラリアだって、その種の癒着はあるけど日本ほどではない。その理由はいくつかあるが、一つは流動性の高さ。1年間で国民の5人に一人は転職をする(5年たったら総取り替え)、二大政党制だから10年もたてば政権が変わり、政権が変わると公務員の上級職は全部クビになり、あらたな行政機構が作られ(てか任期中でも目まぐるしく行政機構が改廃される)って社会では、皆が同じところに留まってないから癒着しにくい。

社会への要求水準の高さと個人の戦闘能力の高さ

 第二に、これが一番大きいと思うが、ひとりひとりの社会への要求水準が日本よりも高く、且つ個人としての行動力や戦闘能力が高い。そしてそれを再生産するシステムができている。日々の生活のなかで、「こんなことがあっていいのか?」「おかしいだろ?」となったら、一人であっても声をあげる。それがたとえティーン・エイジャーの女子高生であろうとも、一人でプラカードを持って街角に立つ。そしてそれを冷やかすのではなく、支援する人の方がずっと多い。

 一方、「世の中こんなもんだよ」というシニカルな態度、社会はクソで当たり前で、それをいちいち目くじらたてて怒るのは馬鹿かコドモだよって態度は、一見、オトナな態度のようでいながら、屈服した負け犬大人の態度でしょ。要するにそれを直せる見込みもない、異議申し立てをするだけのパワーもない、知識もない、根性もないだけだろ。世の中こんなもんだ→だから文句を言わずに従えになってる社会と、こんなもんじゃないぞ、ムカつくぞ、何がなんでも変えたる!と思う人が多い社会とでは、やっぱ違うと思います。

 そしてそのためには、ベーシックに喧嘩上等的なカルチャーが必要だし、子供の頃から心底納得できなかったらYESと言うな、断固戦えと親が教えないといけないし、親がそれを教えられるようになるためには、先祖伝来に延々戦ってこないとダメだと思いますね。日本でもちゃんと戦ってる人は沢山いるし、戦わない周囲というハンディキャップを背負ってるから尚更しんどいんだけど、そういう人は、やっぱそうなるだけの環境はあったと思います。戦うなんてしんどいこと、相当なパワーが無いとできないですもん。僕らは弁護士だったし、戦うのが商売だからいいし、実際にも国やら大企業やら相手に喧嘩してましたけど、楽ではないですよ。てか瞬殺されても仕方がないって絶対窮地から話がはじまるし。弁護士になったとき、当然、冤罪事件で30年戦いましたって話は知ってるわけだし、それをいずれは自分もやるかもしれないというのは覚悟しますよ。だから無意識的にも30年戦えるだけのパワーは体内に蓄積しようと思いますわ。それはもう職業的な条件ですらある。逆に言えば、そういった「なにか」がないと、そこまで思えないですわ。面倒くさいし、多少損するくらいなら、まあいいかってなるよね。

 そんなこんなもあって、こっちでは、それほどヒドイ社会に住んでる気がしない。それほど損をしている、ワリを食っている、理不尽なものを押し付けられている気がしない。

 だから?だから何なの?というと、だから、他人を不幸を願わない。

諦めているフリ

「世の中こんなもん」であってくれないと立つ瀬がない心理

 他人の不幸を願うのは、まずもって自分が不幸だと感じるからでしょう。それも納得のできる不幸ではなく(てか、それは不幸とは言わないかしらんけど)、納得できない全体構造があって、それの犠牲になってて、プラマイ勘定でいえば常にマイナスであるという認識がある。これは理性的な認識というよりも、感情的な怒りとして感じられるでしょう。でも、その怒りに方向性が与えられたら、それはそれで燃えるわけだけど(戦っている、良い方向に向かっている、自分は正しいことをしている)、その闘争すらも否定され、チャンスを与えられず、てか自ら戦端を開く方法も知らず、そういう気にすらなれないとしたら、そこでの感情は「諦念」になるでしょう。あきらめ、ですね。しょうがないよ、世の中こんなもんだよ、なにをやっても無駄なんだよという。だから、理不尽に馬鹿にされ、搾取され、踏みつけられてもじっと我慢してるしかないんだよ、ときには、まあ、いいこともあるしさ、という人生観であり、世界観になる。

 でも、そこで踏みつけられたいろいろな大事なもの(自尊心やら、良心やら)は消えてなくなることはないから、常に一定の負荷が心にかかる。それはちょうど奥歯がかすかにジクジク痛むような。常に一定限度は不愉快であるから、つまらない常駐ソフトがCPUやメモリーをドカ喰いしているようなもので、精神エネルギーは常に費消されている。だからキレるのが早いし、他人を鷹揚に許せなくもなる。

 それでもかろうじて平衡を保っているのは、「世の中こんなもん」という認識が真理であること、そこでじっと不愉快に我慢することが最適行動であるという認識でしょう。なにをどうやっても結局そうするのがベストだからと思ってるからこそ、それに耐えられる。

 しかし、その世界観を揺るがせるような出来事は許せなくなる。だってこんなに我慢しているのがまるっぽ無駄だったら、それこそ馬鹿やヘタレの証明だったら立つ瀬ないですもんねー。そして、それは自分に立場が似ている人、些細で日常的であればあるほど、その不安は掻き立てられるから、さきに見たように強烈な嫉妬感情にかきたてられ、激しく非難するようになる。

 自分だって毎月こんなに苦労しているのに、生活保護もらってのうのうと暮らしている(そう見える)奴は許せない、この根性なしが、この怠け者が、おまえらなんか社会のダニだ、死んでしまえって思う。でも、本来ならばその数百倍の怒りで、そもそもそういう貧富格差が生じ、それも不当で不正なやりかたで格差が生じ、それを直す気が全然ないという全体のシステムに向かうべきなんだけど、そっちには向かない。その代わり、自分と同列な人間で、ちょっとズルいことをしている(ように感じられる)奴に激しい嫉妬と憎悪が「正義」の名のもとに語られるという。

 いやあ、馬鹿は骨までしゃぶられるといいますが、かくして優秀で悪辣な支配者の思う壺にはまるという(笑)。奴隷同士争わせるのが一番いいですからねー。昔っからの支配方法ですよね。奴隷の間で微妙に派閥抗争が生じるように仕向けるとか、嫉妬が生じるように理不尽な優遇措置を敢えて行うとかすると、奴隷制度そのものへの怒りは減り、その代わり激しく同族同士いがみあう。なんて効率的な、なんてコスパの良い支配方法。さらにボーナス特典もありますぜ。そのいがみ合いの結果、あの奴隷は反乱を企ててますぜ、あいつはボスの悪口を言ってましたよという、「ご注進情報」(チクリ)が苦労せずしてあがってくるから、スパイを送り込む手間も省ける。はっはっは、もう笑いがとまりまへんなー。

アラ探しは恥ずかしいこと

 かくして皆が皆の不幸を願う社会が現出される。
 道路の合流地点でも、「絶対に!」入れてやるもんかと意地クソになって他車の侵入を阻もうとする。ネットでも、なんだかんだ言いがかりのような、チンピラの因縁のような非難をし、炎上する。ほっほっほと艶然とほほえみながらも、誰それは厚化粧だの、若作りだの、似合ってないだの、安物だの、低学歴だから必死なのよねだの、イヤミったらしい言いかただの、なんだかんだ難癖を付ける。

 あのー、他人のアラ探しをするというのは、僕が思うに、ゴミ箱を漁るとか、女湯をのぞくとかと同じくらい、人間的に恥ずかしい行為じゃないのか。

 他人の不幸を願うのは、単に自分が幸福ではないからでしょ。なんで幸福じゃないの?きれいな水を安心して飲めてさ、街歩いてたらいきなり背後から撲殺される恐れも少なくてさ、その気になったら古今東西の名作名著を無料同然に鑑賞できる立場にあってさ、なんで幸福じゃないのー?

 多分、幸福になる手順がわからなくなってるから、あるいはその手順に大きなミスがあるからだと思います。

 その「大きなミス」のど典型は、諦めることは何の解決にもなってない、ってことです。

 「世の中こんなもんさ」で心底納得できたら、他人の幸福だって祝福できるはずだよ。だってそれで納得してんだもん。そこを祝福できない、不幸であってくれないと困ると思うのはなんでよ?やっぱ諦め切れてないからじゃん?正真正銘諦め切れていたらな、「鳥のように自由に空をとぶのは諦めた」「タイムマシンで時間旅行をするのは諦めた」ように、いちいちそうは思わないし、心に波風はたたないはずよね。そこで強風波浪注意報のように波風が立つのはなぜなのか?っていえば、心の底では諦めきれてないからだと思うぞ。違うか?

本当は諦めきれてない

 だったら正直になればいいじゃん、諦めきれないって思えよ。
 で、諦めないならどうするか?だけど、今からでも戦え、です。ここで大事なのは、別に「勝て」といってるわけではないのよ。戦えといってるだけであってね。でも、戦うと決めたら、心は楽になるよ。なんでそんなに心ざわざわしてるかといえば、無理やり押し殺しているからでしょ?諦めるというのは無かったことにすること、本当は沸騰しているようなパワーがあるのに、それを無視しているから、そこがやり場のない感じになるんだと思いますわ。

 でもって戦うといっても具体的な誰かに対してなくてもいいし、横断幕はりめぐらせてコブシを突き上げることでなくてもいいっす。今はボロ負けなんけど、畜生、今に見てろよって思えばいい。毎日ボコられて屈服させられているけど、夜な夜な腕立てやったりスクワットやることだって「戦う」ことでもある。それで直ちにどうなるもんでもないし、多分まあそんなことしても最終的には勝てないけど、次にはつながる。ラスボスには勝てないまでも、末端チンピラには勝てるかもしれない。そこまでいけば、認めてくれて仲間になってくれるやつも出てくるかもしれない。腕立て一回やれば、一回分だけこのミジメな状況から離脱できる、前にボートは進む、その進んだ感が意外といい感じで、気持ちよくて、怨念も多少は消えるのだ。

いきなり満点一択の馬鹿戦略

 喧嘩や勝負事がヘタな人、勉強がヘタな奴には共通する特徴があって、「いきなり百点を狙う」「百点以外の目標設定をしない」という、絶対にやってはいけないミスを平気でやる。英語だって、ダメダメかペラペラかという地獄と天国の二極分化しかない。阿呆か?今がダメダメだということは、これまでもダメダメだということであって、要するにヘタクソなんだわ。そのヘタクソが、こともあろうに最初から満点一択という目標ってなんなんよ?とりあえず1点取れよ。話はそこからだろう。最終目標はあくまで世界最高峰でいいよね。そこはでっかくね。でも、個々の営みにおいては、1ミリでも、1ミクロンでも前に進んだかどうかですわ。何をやっても成功するやつと、何をやっても成功しない奴の差は、おそらくはこの一点、今自分が前に進んだその一歩を正確に査定できるかどうかだと思う。千里の道を一歩づゝ埋めていって千里歩ききる奴は、その一歩一歩の意味をちゃんと見出し、その一歩にちゃんと喜びを見出してる。その視力があり、その感度があり、それを理解できるだけの大局観もある。だから一歩の意味が理解できる。だから続けられる。

 これまでモテなかった人も同じミスを犯すね。モテない奴にかぎって、理想が高すぎ。ありえないくらい高すぎ。超絶的美人かイケメンが、ありえないくらい自分に忠誠を尽くしてくれるとか、それオンリーの一択を願ってるという。馬鹿か、てめえ、です。かといって妥協しろって言ってるんじゃないのよ、妥協とか言ってる段階でまだ馬鹿だから。それは妥協ではないのよね、選択肢を広げろと言ってるだけだし、この世界に無限に満ちている「良さ」「素晴らしさ」をちゃんと理解しろといってるだけですわ。絶望するやつは、要するに希望の見つけ方がヘタなだけ、目の前にいくらでも転がっているのに、見えない、見ようとしない、見ても理解できない。

 最後に、「世の中こんなもんよ」と思ってる貴兄に何度でも言うけど、ちげーよ。世の中「こんなもん」じゃないよ。だってこの地球にハッピーではちきれんばかりの奴って山ほどいるぞ、沢山いるぞ。少なくとも、全部黒く塗りつぶされているわけではないぞ。だから、「こんなもん」という認識が黒一色だとするならば、それは客観的事実に整合しないから、虚偽である。間違ってんだよ。嘘抱きしめて何してんだよ。

 そして黒一色でないならば、時と場合とやり方によっては白も「ありうる」ということであり、あとは自分がその白になればいいだけじゃん。そして、そのやり方を研究すればいい。てかね、研究もクソも、王道が一番近道なんですけどねー。

 よく僕もやるんだけど、メイン通りが渋滞なので裏道を抜けていこうとすると、同じようなことを考えてる他の車がワンサというから、行く先々で詰まってて、しかも大通りとの交差点では、向こうがメインでこっちが小道だから、信号バランスも10対1くらいにこっちが短く、延々1分以上待ったと思ったら、こっちの道路は1−2台しか進めない。どうかしたら先頭車両が左折しようにも詰まってて左折できないから一台もいけず。なんだかんだで遥かに時間がかかってしまうってことはよくある話です。そこを巧みに裏道の裏道をすりぬけてゴール!って人もいるだろうけど、だからその人はもう何度も成功して知り尽くしているわけですわ。全てに精通しているからこそ事務作業のように勝てる。ところがまだ一回も勝ったことのないような奴が、そんな真似できるわけないでしょ。ここでもいきなり満点一択という馬鹿な戦略を立てるから失敗するわけで。ミラクルな方法?ねーよそんなもん、自宅で高収入?だから無いってそんなもん。いい加減気づけよって話です。

 じゃあ、問題は何が自分にとっての王道なのか、1ミリでも進んだらうれしく思えるのかです。そこは必死こいて考えていいところで、それやりだしたら、他人の不幸なんか願ってるヒマはないと思いますけどね。忙しくて、それどころじゃないもん。



 あーもう沈んじゃう〜という時点での壮麗な夕焼け



 空の広がりが気持ちいいです


 太陽大きいし、SFチックな


 露出を変えると全部飛んじゃうんだけど、これはこれで墨絵みたいな




 文責:田村




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