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今週の一枚(2016/10/17)



Essay 796:AsexualとLGBTQCA

〜性と愛とシステム

 写真は、Balmainの裏手のBrichgroveというサバーブ。ここもあまり知られてないけど、隠れ家的にイイんですよねー。
 
 ワンコが身を乗り出して、「いいなー、いいなー」「僕も僕も」と言ってるのが可愛い。
 もっともこの子も、さっきまで水に浸かってたらしく全身ずぶ濡れでしたけどね。まだ遊び足りないんだろうなー。

記事の紹介

 こちらのメディアをみていたら、Asexualという耳慣れない英単語が出てきました。

 Asexual dating: What it's like to be in a loving, sexless relationship (ABC online 2016/10/16)です。

 「Asexual」という概念は、「性的な関係や欲求を持たない」という意味らしく、パートナーのことを深く愛する気持ちはあるのだけど、性的な関係はもちたいとは思わない、そういう欲求が湧かないという。

 そういう人達が増えている、、というよりも、もともとあったものが認知されてきたって感じなのでしょうか。研究者たちがその存在を理解しようとし始めてから、まだ10年も経っていないとか書かれてますから(it was only in the last 10 years that researchers had even begun to try to understand it)、ごく最近の話なのでしょう。

 さて、LGBTQIA とあたりまえのように見出しに書かれていますが、LGBTは日本でも徐々に認知度が高まっているでしょう。レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーですが、それに加えてQIAがあります。なによ、それ?というと、、LGBTQIA glossary: Common gender and sexuality terms explainedに用語の説明がありました。

 Queerというのは複雑なニュアンスのある概念です。「奇妙な、普通ではない、風変わりな」という一般的な意味なんだけど、それに付加される意味が違う。どストレートな保守的な見地からすれば、ネガティブな意味に使われ、端的に「ヘンタイ」みたいな罵倒、差別用語として使われる。しかし、それに対抗する側からも誇りをもってポジの意味で使われる。ゲイへの差別に戦うACT-UPという団体が、自分のことを「Queer Nation」と称したり。そこから、理不尽な差別や偏見については断固として戦うという戦闘的なニュアンスが出てきます。

 このように最初はネガの意味で使われていた言葉が、カウンター的にポジに使われることは多いです。日本語の「おたく」なんかもポジの意味で使われる場合もあります。GEEKという言葉も、もとはオタク的な、一人こもって何がにディープに没頭している、ちょっとキモい奴みたいな感じだったのが、King of Geekなど、世界的に崇拝を受ける超絶技術を持ってるハッカーや、ゲーマーたちにとっては栄誉ある称号になる。「空手バカ」「釣りバカ」と同じく、もとは蔑称に近いんだけど、自分らでも胸張って誇りのあるアイデンティティとして用いる。ながなが書いたけど、Queerというのは、そういうニュアンスがあるようです。シェア広告でも、"queer friendry"とか書かれてたりするし、普通に市民権得てる言葉。

Intersex:これが難しく、両性具有とか半陰陽のように、男性と女性の両方の肉体的特徴(単に性器だけではなく、染色体とか、ホルモンとか)を備えている人のことです。この概念がほかと違うのは、本人がどう思っているかとは関係なく、単純に生物学的な見地での話である点です。これは、一般人がなんとなく考えているよりもはるかにバリエーションが多いそうです。生物学的に雌雄を決めるのは生殖器の形状だけではないし、一般に男女の生物学的差というものは無数にあるわけです。例えば、肌が白いとか、すべすべしてるとか、身体がまるみを帯びているとか、声質とか、、、厳密にいえば、ほとんど全員が両性具有かもしれない。なんらかの形で異性の特徴を備えていたりしますもんね。

 インターセックスというのは、「内なる性」ということで、自分のなかに色々な性があるということ。複雑な性的バリエーションを持っているって感じになるのかな。

 そして、今回のAsexuilを入れて、LGBTQIAになるという。もっとも、それだけではなく、Gender fluidity/gender diversity、Cisgender、Sexual fluidity、Pansexual、Heterosexism、Transphobia などの用語解説もあります。

 特にfluidityとdiversityがキモのような気がします。フルーイディティ(流動性)と、ダイバーシティ(多様性)ですが、「性的なありよう」というのは、むちゃくちゃバリエーションがあるのであって、カテゴライズしていっても到底間に合わなくなりそうなくらい、それぞれに微妙に陰影が違う。そして、同時に、それらが相手により、時期により変化していくということでもあります。この人相手には男として振る舞うけど、あの人相手になると女として振る舞うとか、昔はそうだったけど今は違うとか、そういう変化があるということです。

 でもって時代はむしろそっちのボーダーレスの流動化に向かっており、昔ながらの男女主義、恋愛とセックスはカップリングしなきゃいけない主義、それからはみ出してる人達を嫌悪する症状、、、という具合に、今までの常識的地位にあったものが微妙にその地位から転落している。ヘテロ(異性)主義と共産主義みたいに「イズム(主義)」になってるし、それを嫌うのは普通だろ?というと、もう普通じゃなくて、嫌う方が「病気」呼ばわりされている(笑)。フォビア(Phobia)って「症状」ですからねー(高所恐怖症=Acrophobia、水が怖いひとはハイドロフォビア、社会恐怖症はソシオフォビア、外国人恐怖症はゼノフォビアなど数十種類あります)。


 ぽちゃっと海に浸かって水遊び。楽しそう。

何故そういう傾向にあるのか

 最初に僕自身の意見(というほど確固たるものじゃないけど)は、なんでもアリでいいじゃない?です。もともとリベラリストを通り超えてアナーキストであり、自由主義者というよりは自然主義者みたいなタチですので。だって現実にあるんだもんさ、しょーがないじゃんって。その意味ではリアリスト(現実主義者)なんですけど、僕になかでは、自然=現実なのです。てか、違うの?

 こういう傾向を、「ありえない」「けしからん」「なげかわしい」とは全然思いません。それって僕にとっては現実をトレースできてない「弱音」「泣き言」の類に感じられる。今ここにそういう現実があるなら、まずそれをちゃんと理解しなきゃ何も始まらない。自分の固定概念から少しばかり外れただけで、あれは例外とか変な人達だから除外とかいうのは、理解できないという「無能」だけではなく、理解しようとしないという「怠慢」ですらある。そうはなりたくないし、そうなったらその分だけ現実が見えなくなる。それは自分のサバイバル能力の低下につながるので、やっぱりそれは避けたい。

 しかし、「頑張って理解」ってほどのこともなく、スッと頭にも心にも馴染みますけどね。そりゃそうかなーって。
 まず、男女や性に限らず、この種のカテゴリーとか概念って、実はめちゃくちゃいい加減ですから。それは何かを超真剣に考えたことがある人なら分かると思います。だいたいどんな概念も、空に浮かぶ雲みたいなもので、遠くからみてるとクッキリ実在するかのように思えるけど、いざ自分が雲の中にはいっていったら、ただの霧みたいなとりとめもない感じだし。要は、たまたま濃度が濃いから、そこだけなんか違って見えて、なんとなく意味ありげに見えているだけってのがほとんど違うかな。

 それよりも気になるは、なんでそういう傾向にあるのか?です。
 思うに、もともとそういう性情や性質というのは大昔からあったのでしょう。それが現代になるにしたがって、徐々に現れやすくなったり、認知されやすくなった。それを「堕落」「退廃」と呼ぶか「進歩」と呼ぶかですが、それは好みであり、大した意味はないと思う。「右」と「左」の概念みたいなもので、北向いている人にとっては右は東を意味するけど、南を向いている人にとって東は左になる。同じ事を言っていても呼び名が真逆になるというのは、これもよくある話です。問題はその種の方向性の違いに敏感になってきたのはなぜか?です。

 ここで、ぽーんとすっ飛んだ結論を述べれば、それだけ豊かになってきたからじゃないでしょうか?
 いや、論証はできないんだけど、直感的にそうかなーって。なんでそう思うかというと、社会がガッチガチの概念で固めているときって(封建社会とか)、物質的に結構ヤバい時代、頑張らないと食い物がなくて死んじゃうみたいな、あるいはどっかに征服されて殺されちゃうみたいな危機感のあるときです。概念(男というのはこういうものとか、女は女らしくとか)は何故必要とされ、なぜ社会内部で強調されるのか?というと、社会をスムースに運行するためでしょう。社会全体が一つの機能的なメカとしてガンガン動かしたいからだと思う。

 概念というものは、ダンドリやマニュアルを立てるのにとても便利なものです。生産性を高めやすい。全体を簡単なタスクの小ピースに分解して、それを指示書どおりに動かしたいときには、「AになったらB」をするという形できちんと決めて置いたほうがいい。そこで「A」や「B」の意味内容をしっかり明確に決めておくと都合がいい。「頃合いを見計らって、いい感じに塩を投入」というよりも、「沸騰してから10分後」に「塩20グラム」って書いた方がいい。また、人間集団の指揮命令系統をはっきりさせたほうがいいから、AよりもBがエラいという位階を作り、制服もわかりやすく変えた方がいい。

 逆に言えば、人間の個性をまるっぽ無視した方が効率的だということでもあります。軍隊とか会社とか、キリキリとフル回転して機動的に動くべき社会においては、人の個性やパステルトーンにうつろいゆく心模様なんか気にしてたら能率悪くて仕方がない。個性なんかゴリゴリ押しつぶして、君は桂馬、君は香車って役割機能にしたほうが良く、また全ての出来事は一義明白な概念的な記述をした方が良い。生徒ひとりづつの細かな個性の差に応じて丁寧に教育してたら、到底1年でカリキュラムは終わらないし、どんなに人間的にクソな奴でも、どんなに人道的に問題ある命令であっても、上司は上司、命令は命令って決めつけておかないと、思った通り集団は作動しません。

 概念そのものは、このような機能主義や全体メカ主義にただちに直結はしません。しかし、概念の硬直性や、それの社会全体による決めつけ、押しつけは、その傾向があるでしょう。

 男は一義的に男であり、全ての男はプラスチックのように同じであり、女もまた一義的に女であるべきであり、女の共通属性は全ての女が共有すべきであり、、って発想は、なんで必要とされたのか?といえば、やっぱ社会全体が一つの秩序のもと整然と動いていくことが好ましかったからでしょう。じゃあ、整然と動くなんで好ましいか?といえば、その方が生存確率が高かったからでしょう。それだけ食うに困っていたとも言える。まあうがった見方をすれば、そういう人口秩序の上位カーストにいる連中にとっては、それが崩れて自由になってもらったら自分らの地位もヤバいわけですから、懸命に幼少期から洗脳しようとはするでしょうし。


 逆に、そのあたりの概念がゆるんできたとするなら、それは何を意味するかといえば、そこまでのように機能一辺倒で社会をキリキリと動かさなくても、十分食っていけるよ、十分幸せになれるよって認識が(現実も)広まっていったからだと思います。そこまで一糸乱れないように社会が動かなくても、それぞれが思い思いにテキトーにやってるだけでも、十分廻っていくと。実際廻ってますしね。

 そして衣食住の最低限のニーズを満たした後は、幸福の内容は、フィジカルなものからメンタルへ、精神的な幸福へと向かいます。自分というものをもっと大切にしていこうって志向になるでしょう。そういった大きな傾向の中で、自分と向き合い、自分を大切にするなかで幸福を育んでいこう、、という流れにおいては、今まで感じてた違和感、押し殺していた違和感も、やっぱりちゃんと解決しようとなって当然でしょう。

 そして、それはごく一部の人のケアや人権って意味にとどまらず、全ての人に共通する問題だよって具合に認識が広まってきたのでしょう。我こそは「正常」「ストレート」と思ってるかもしれないけど、精密にみていけば、誰にでもそこらへんの「ゆらぎ」みたいなものはあるわけだし、それがあってこその個性だし、そんなにジェンダーを金科玉条のように報じ奉らなくてもいいんじゃないの?と。もっといえば、根拠も曖昧な決めつけみたいな概念に、自分を殺してまで当てはめようと頑張る必要はないんじゃないの?と。

 そういう意味では、イイコトであり、進歩だと思いますよ。
 北朝鮮みたいに「男たるもの〜」とか硬直的な概念主義や機能主義って、量が多くて力が強いのが正義みたいな恐竜的正義っぽいし、端的にウザいし、状況に合っていない。かといって、男女ジェンダーに関わる美徳の全てを否定するわけではないです。男性的美徳である、思い切りの良さとか、バキバキした決断力や実行力、自分の細かい利害よりも大局的な正義や筋や人情を重んじる部分、いわゆる「男気」的なものは、それが男性的だから尊いのではなく、そのこと自体が美徳として尊い。なにもジェンダーをからませる必要はない。優しくて思いやりの深い美徳も、別に女性性をからませる必要もないでしょ。実際、最近では、女性に対しても「男前」とか「男気」とか使うなど用語が「乱れて」いるけど、あれは乱れているのではなく、もともと男にリンクさせているのが間違ってるんじゃないのかな。でもって、リアルな問題としていえば、ウジウジ悩むのは男性の方が多いし。



 海からあがってきて、定番の全身ブルブル。

Asexual〜性欲と恋愛

 Asexualな人って、ある意味全員がそうかも。愛情と性欲は、ときとしてタッグを組むことがあるけど、そうではない場合も多いとは思います。プラトニック・ラブは、なんか本当はやりたいんだけどストイックに我慢している、そのストイシズムが美しいみたいなニュアンスがあるからちょっとAsexualとは違うと思いますが、いわゆるセックスレス夫婦にせよ、いわゆる草食系にしても、類似する(てかそのもの)でしょう。

 セックスレスなんか、個人差はあるけど年とともに減っていくのが普通でしょ。80歳すぎても毎日汗を流して〜ってお盛んなご夫婦もいらっしゃるでしょうけど、やがて(そこは個人差だが)、「盆と正月だけ」とか「たまにはサービス」みたいな感じになるのが一般ちゃいますかね。誰かの本に、ロシアでは50歳過ぎても週に8回セックスしないと離婚されてしまう(日曜は二回)とか書かれてたけど、ほんまかいなと思います。とりわけ性的に淡白な日本人の場合(だからこそ逆説的に刺激を強くしないといけないので性風俗が発達するのだと思うが)、そんなに毎日「かかってきなさい」状態ではないと思いますぜ。

 私見によると、性欲というのは本来非日常なもので、特に播種本能に支配されている男性の場合、出来るだけいろんな畑に種をまいた方が良いので、常に新しいもの、物珍しいものに発情すると言われます。ほんとかどうかわからんけど、なんとなく頷ける話です。3つの自然欲求のうち睡眠は「飽きる」ということがないです。寝すぎたときは別ですが、適量な睡眠は毎日やってても死ぬまで飽きない。食欲も、あまりにも同じものばっかりだったら飽きるかしらんけど、主食は頻繁に繰り返しても、まあ飽きない。しかし、性欲、そのなかでもその対象の好みについては飽きますよね。だからエロ本によAVにせよ、産業として成り立つわけで、飽きなかったら好みの一人が見つかったらもうそれで終わってもいいわけでしょ。でも毎週のように入れ代わり立ち代わり人を替えて「消費」したがるのは、やっぱ飽きるからでしょう。新鮮で非日常でないと成立しにくいからなんだと思う。もしそうだとしたら、限りなく日常になる夫婦生活と性欲が両立するのは根本的に無理があるようにも思います。しばらく一緒にいると「家族」になっちゃうしなー。

 もっとも、セックス=性欲発散ではないです。ここがややこしいところだけど、単に肉体的に気持ちいいからやってるだけという部分もあるだろうが、しかし、愛情的な一体感とか抱擁の安らぎとか、そういう精神的な部分も大きい。だからセックスそのものは大げさだからやらないけど、手を繋いで歩いたり、添い寝をしたり、膝枕したりというスキンシップや好まれたりもする。


 別の観点もあります。選択肢が非常に限られているときは、セックス=夫婦だけが唯一の道だったでしょう。なんせネットもない、エロ本もない、テレビもない、なんにもない。また、男性からみた刺激的な異性の姿(ヌードとか)を見る機会も普通全然無いとなったら、愛し合ってからやるセックスだけが唯一の道でしょう。だから頑張る。それは分かる。しかし、今は、あふれんばかりの情報があるし、選択肢なんか無限にある。そうなると個々人の発情ポイントも微妙に違うことがわかってくる。単純に人の好みだけではなく、脚フェチだの制服フェチだのツボが違う。そしてその針の頭のような細かい志向ですら、ネットで結構手に入ってしまう。でもって、好きな素材に囲まれて、自由気ままにオナニーした方が気持ちいいってことはあるでしょう。これがセックスになると、相手に気を使い、ダンドリに気を使い、ピンポイントにツボをついてくれるわけでもないから、かなり大雑把で面倒な作業に感じられるわけで、あまりその気になれない人がいても当然でしょう。ご馳走といえば、卵焼きとカレーだった戦後の一時期だったら、それを出しておけばエブリワンハッピーだったんだけど、無限に選択肢があり、その選択肢を毎日ふんだんに楽しんでいるなら、そうでもない。

 でも思うのは、性欲と愛情がなんで二人三脚しなきゃいけないのよ、てかしてるのよ?です。
 愛の無いセックスなんか山ほどあるし、風俗なんか基本そうだし、一応普通の合意セックスだったとしても、微妙に心はすれ違ってたりして。そうなると、愛とセックスは二人三脚で〜というのは、「世界平和」みたいなスローガンとか理想に過ぎない、、とまで言ってしまったら大袈裟でしょうが、必ずしも常に現実と一致しているわけではないと思います。

 もっと言えばですねー、愛情一般と男女間の恋愛感情って、そんなに違うの?という点もあります。親と子供の愛情とかさ、友情とかさ、そりゃ確かに違うけど、それほど決定的かなーと。それは生殖本能という本能が自然の形で素直に出ていた頃(他に雑音があんまりなかった頃)であれば、生殖という一つの目的にむけて自然がプログラミングした流れに乗っていくので、美しくも狂おしい感情ドライブがかかって、いわゆる恋愛物語になります。それはそれで全然いいです。だけど、昔読んだ「愛はなぜ4年で終わるのか」という本に書いてあったけど、古今東西の記録を丹念に調べていったら、大体4年くらいしかラブラブ期は持たないらしい。多分それがDNA的プラグラミングだからではないかと。生殖が目的で子供が3−4歳になる頃には部族で育てるのが普通だったから、それで「はい、プロジェクト終了です、おつかさまでしたー」的解散になってもいい。あとはもう寿命的に死ぬだけでしたし。

 本当の自然の姿を再現しようとするなら、ネットも情報もクソもなにもなくして、恋愛セックス以外に全く何もなくて、しかも、20歳過ぎたら寿命がきて死ぬくらいのライフスタイルでないと本来の姿にならないのでしょう。ところが、自然の初期設定に反して、どんどん長生きするわ、性風俗という生殖と快楽を分離する罰当たりなことを覚えるわ(娼婦が最古の職業なんて言われているくらいだから大昔から邪道をいってたわけね)、あまつさえ避妊具とか開発しちゃうわ、どんどんアンチ自然にひた走っているここ数千年の人類のトレンドです。自然に背を向けて、散々やりたい放題やってきて、今更何を言うかって気もします。

 ちなみに近親相姦がタブーになってるのはどの民族もそうなんだけど、わざわざタブーにするってことは、やっぱり欲情する人が常にいるってことでしょう。誰も絶対にやらないんだったらタブーにする必要もないよね。でも、普通そんな感情は湧かない。なんでなんかなー。湧く人は湧くみたいだし、そういうジャンルの作品は、エロ系から芸術系まで幅広くあるし。僕が思うに、湧かないのは、それだけ優れた倫理観に裏打ちされている、、わけではないよ。単に毎日見慣れているし、性的ファンタジーを掻き立てるような美的要素を、日常生活のエロもクソも無いような姿でぶち壊されているからだと思います。そしてそれは夫婦がセックスレスになる軌跡とよく似てるのではないか。


法的にいえば

 今オーストラリアで同性婚を認めるかどうかで政治課題となってますが、日本の場合、憲法24条だったかな、「両性の本質的平等なんたら」とか書かれてて、一応ヘテロが前提です。ま、当時、そこまで深く考えて作ったわけじゃないでしょうけどね。

 ところで、なんで結婚について法律が定める必要があるのか?です。籍を入れるとかいうけど、なんでそんな制度が要るの?という根源的な部分です。それがわが民族の淳風美俗だからであるというのは不正解でしょう。淳風美俗→だから法律に制定っていうなら、なんで「お盆」が国民の祝日になってないのですか?なんで節分のやりかたとか、七五三を制定してないの?習俗、慣習と法律は違う。それに、いちいち法律に定めて強制しなきゃ廃れてしまうようなものだったら、最初っからその程度のものだったってことでしょう。なにか良きシキタリがあって、それを守ろうとするなら、あくまでも人々のスポンテニアス(自発的)な意思と行動しかないでしょう。「コンサートが終了したら遅滞なく拍手をもってアンコールを求めなければならない」なんて法律で決めたら意味が無いのだ。

 だから人々が勝手に恋して、ロマンチックなムードであれこれやろうとも、そんなの法律は関知しない。それは正しい。価値が無いとか興味がないということではなく、尊重するからこそ関与しないのだ。事実、普通の恋愛については法は一切関わらない。ちなみに論理的には、離婚で慰謝料を求めることが出来るならば、普通の恋愛が破局しても慰謝料は認められるべきであるけど、そんな話はついぞ無い(結婚詐欺などの特殊な事例は別だが)。

 では結婚という法システムは何か?です。何のためにあるのか。概ね3つあると思います。
 一つは民法の財産法のレベル。権利義務関係の整理のためにそうした方がいいからです。一種の疑似法人格みたいな、権利能力なき社団のような、組合のような、、、経済的に1ユニットとして勘定した方が簡明でもあるし、実情に即しているからです。もっとも現行民法の取り決め(同姓、同居義務、貞操、成年擬制、夫婦間契約取消権)などは、あんまり実情に即してるとはいい難いですけどね。せいぜい夫婦財産制の共有推定と日常家事債務くらいかな。夫婦で買ったものは、どちらのものというよりも共有であり(そうでないと、スーパーで買った醤油や卵一個づつどちらの所有物か明確にしなくてはならなくなる)、妻が頼んだ宅配ピザが届けられたら、夫は知らんぞと言いながらも、それは内部の事情でしょってことで、支払い義務を負うとかですか。ただ、まあ、このあたりはほとんど形骸化してる部分はありますね。民法のなかでも財産法においては夫婦の意味は乏しいようにも思います。


 二つ目は子供です。社会の新メンバーを迎えるにあたって、ちゃんと育ってもらう必要があるので第一次的養育責任を両親に負わせる。その責任の所在をはっきりさせるために、婚姻という制度があるのだと。ただし、これも出生届けを出す段階で養育権者(義務者)として明確にすれば足りるのであり、むしろその方が良いとも言えます。なぜなら、婚姻届を出していない場合、通常、母親は特定しやすいけど、父親が不明のままになりがちで、子供の利益にならない。この場合、世間的には夫婦として暮らし単に届けだけが無い場合(内縁)と、全く同居しておらず、一過性の関係でしかない場合もありますが、いずれにせよ、そんなことは生まれてくる子供にとっては関係ない話です。生まれながらに不平等があるのは仕方ないとはいえ、出来るだけその格差を縮小することが望まれるところ、婚姻届(システム)と子供の養育義務とはリンクさせないほうがむしろ良いと言える。

 この親子関係は、相続においても出てきます。これもねー、農業経済や武家封建社会とかだったら家=会社=生産ユニットでしたから、家制度の意味は十分にあったけど、今となっては、なんで血縁関係があったら財産が承継されるの?という形で逆に疑問にすら思ったりもします。介護が必要なときは子供は冷淡知らんぷりで、いざ逝去したらサメのように権利主張してくる構図というのは、よくある話なんだけど、でもそれって「いいこと」なの?というと悪いことであるかのように思う。本人が使い切れなかった資産は、第一次的には遺言で全て処理し(遺言ですら処理できない部分=遺留分すら認めず)、第二次的には相続財団として管理人を選任し、その資産の存在する地区でもっとも貧困な層10%に平等に配分して格差是正に務める方が今の時代は合理的ではないかって気もします。相続なんか、当たり前のようだけど、実は別に全然当たり前ではなく、多くの利害を見据えて最適解を出すべき問題ではある。

 とりわけ介護が長くなった場合、長男の嫁が必死に介護しているけど、嫁は姻族だから相続権がないし、旦那がすでに他界していた場合(正確にいえば被相続人(義父母)よりも先に配偶者が他界して、且つ子供もいなかった場合)、結局そのお嫁さんは無一文で家を追い出されることになるわけですけど、それって正義なのか?という疑問はありますな。これ重大な問題で、今日も毎日どっかで問題が起きているでしょう。法律は寄与分とか、特別縁故者という救済規定を設けてますが、でも使えません。なぜなら寄与分は自分が相続人でなければダメだし(相続分以上の権利主張を認めるもの)、特別縁故者は相続人がゼロの場合にしか当てはまらないからです。これ前々から法の不備だと思ってたんだけど、まだ改正してないのか?戦争ごっこなんかどうでもいいから、こういうところをキチンとやってほしいですな。

 あー、11月に帰省する際に、京都で仲間と勉強会やりますけど、今後20年のサバイバル戦略として、不動産活用とか、介護行政とかそのあたりの業界事情をエクスチェンジしようかって趣旨ですが、そこでも多分この問題は出てくるかと。今は先行き不透明だし、資産は高齢層に偏在していることから、ゴールドラッシュみたいに相続財産をアテにする熾烈な争いが行われると思われるところ、その種の防衛はして置かれた方がいいかも。この嫁さんの事例でいえば、義父母に遺言を書いてもらえばいいんだけど、それでは弱いです。遺言というのは常に新しいものが古いものを上書きするから、いかに公正証書遺言で立派なものをつくっても、死ぬ直前にほかの誰かにそそのかされて適当に作った自筆証書遺言があったら、そっちが優先しちゃいます。認知症とあいまって、その種のあれこれは当然予想されますからねー。だから一番いいのは、義父母と養子縁組しておくことです。そうすれば相続人になれるし、相続税の控除枠も広がるし。ただし、実際にそれが出来るかどうかは、そこの人間関係次第でしょうねー。

 もっともこのご時世で相続財産なんかどれだけアテになるのか微妙だと思います。餓狼のような国家がお腹を空かせて待ってますし、徴税権というスーパーな武器がありますからねー。ツマミが幾つかあって、相続税率をあげる、控除額を引き下げる、さらに資産の評価をあげるという方法があります。相続不動産の価格は、固定資産評価証明の額によって決まり、それは「総務大臣が定めた固定資産評価基準に基づいて市町村が個別の土地・不動産に対して策定した評価額」です。以下面倒な手続きがあるのですが(公示地価の70%とか、公示地価は国土交通省が決めるとか)、これだって売っても300万しかならないような空き家や更地を3億円とか評価されたら、それを基準に相続税払うことになるわけですわね。アテにしてた相続財産なんか一瞬にしてパー、それどころか必死に相続放棄しないと税金で破産しちゃうよ。そんな無茶苦茶な例はないでしょうけど、微妙に高めに設定すればそれだけ税収もあがる(相続分が減る)ので、行政が頑張る動機にはなるよね。では、この固定資産評価額に異議がある場合はどうしたらいいでしょうか?固定資産評価審査委員会に審査を申し出をすることができます。ただし固定資産税の納税通知書の交付を受けた日後60日以内にやらないとパーです。その委員会の決定に不服があるときは、さらに取り消しの訴えという行政事件訴訟を起こすことができます。まず一般には全然知られてないでしょうけど。だから行政書士の勉強しろって言ってる所以でもあります。直には役に立たなくてもカンが良くなるから(なんか救済措置が有るはずだとピンとくるから)。


 第三に出てくるのが、相続とかぶるけど行政など社会システムの関係。例えば年金やら税金の計算やらです。控除があるとか、◯号受給者になれるとか、その種のものです。もう長くなるから一行だけにしておく。

 で、話戻すと、嫁さんですら相続で冷淡に扱われている現状で、LGBTQIAだったら相続権はあるのかといったら限りなくゼロに近いと思う。その他の年金などの社会システムにおいても、同じくこぼれ落ちてしまうでしょう。同性婚を認めるかどうかというのは、そういう社会的なシステムとの整合性をはかるという意味が大きいと思われます。

 もーね、結婚とかいわないで「ラブ(ライフ)ユニット」みたいな感じで登録制にしたらいいかもしらんですな。「当事者間における持続性ある愛情を基盤とした生活共同関係」と抽象的に定義して、ここに登録したら、従来の結婚制度における配偶者と同じ扱いにするという具合に。

 法律やシステムというのは、信号機の赤や青みたいな純粋機能的な存在であって、人倫の正しいあり方を示す教育的なものではないです。そのときどきの人々の普通の感情に大きく支配されるとは思うけど、人々を「導く」なんて偉そうなものではないです。

昔も今も未来も自由だった

   あー、結構書いてしまった。長くなるから執筆時間をギリギリまで遅らせて、最近では日曜の晩御飯食べてからの数時間に限定してるんだけど、それでも書いちゃうなー。どうしたもんだか。

 ジェンダーとか婚姻とかもっと自由なもんだと思います。人類の歴史によれば、ありとあらゆる形態があったようだし。通婚とか、略奪婚とか。それ自体が乱交パーティーみたいな「群婚」というのもあるし、ポリガミーっていうのだけど、別に二人に限らなくてもいいんじゃないの?三角関係があるならそっくりそのまま1ユニットにしちゃったら?三人婚とか、今世界でも徐々に認められつつあるから。

 浮気とか不倫とか(芸能商業的に)騒いでいるけど、一夫一婦制というのは人類のなかでもわりと珍しい形態なんかもしれないですよ。源氏物語なんか不倫乱倫の極致だし(でも雅やかで美しい)、昔の大名とか豪族、天皇も、血筋を絶やさず、多くの子孫を作るのが仕事みたいなものだから、生産ユニットはいくらあっても良い。


 ちょっと話は逸れるけど、同時に二人を好きなることはあるか?なんて「ある」に決まってんじゃん。だって、遍歴的に学生時代は◯さんが好きで、社会人になったら◯さんと付き合ってて、、って、それぞれに真剣にやってたりするでしょ。つまりタイムラグがあるなら複数あってもいいわけでしょ。一生に一回だけしかチャンスがないってわけではない。状況が熟すれば幾らでも真剣な恋は生じると。同時存在さえしなければいいと。でも、時期をずらして複数存在するなら、同時に存在することもありうるでしょう。一人にぞっこんだったら、他の人に気を取られることなんかないって状況は確かにある。でも、気を取られる状況もある。だって、今の世の中マルチタスクでないと生きていけないじゃん。いくらラブラブでも定時が来たら出社しなきゃいけないし、あれもこれもやるでしょ。頭切り替えるでしょ。

 もともと人は同時に幾つものことを好きになれます。寿司も好きだが焼肉も好きだとか、スキーも好きだが読書も好きだとか、テイストが違っていたらいくらでも同時存在できます。ギタリストはギターを何本も(人によっては何十本も)持ってますけど、それぞれに違うからそれぞれに可愛いと思う。その識別が出来る限り、人は同時にいくらでも受け入れられる。Aさんにぞっこん惚れてたとしても、だからといって愛猫への愛情が色褪せることはないし、ケーキへの愛着が薄れることもない。余裕で両立するのだ。そして、同じ人間、同じ恋愛といっても、経験者だったら分かると思うが、Aさんとつきあってるときの時空間テイストと、Bさんのそれとは全く違ったりするわけですな。

 だから両立しちゃう。ただし、世間的に一人に決めないと何かとややこしいから強引に一人にするわけだけど、それで万事上手く収まっているかというと、実は全然収まってない。いつまでも未練たらたらで想い続けたり、一人に決定する過程で壮絶なバトルが展開され、そこでは死傷事件すら起きる。同時に二人以上なんか「ありえない」という人は、実際にそうなってみたら分かりますって。また真実ありえなかったら、こうも人の世の悩みが生じるわけがないし、恋愛の詩歌芸術ドラマもない。


 一方では、出来る限り多元的に両立することが義務付けられる場合もある。人の上に立つとか教職になるときに、「ひとりだけ」とかやり始めたらエコヒイキしろといってるのと同じになる。それと恋愛は違うのだけど、では何が違うの?ギリギリと詰め切っていって、さあ何が違う?人がなにかを価値あるものと思いし、それを大切にする気持ちに変わりはないだろう。まあ、こんなうだうだ屁理屈こねることもなく、昔っからご先祖さん達は、人数の壁もジェンダーの壁も軽々と乗り越えていたわけですよ。

 歌舞伎の女形にせよ、宝塚の男装にせよ異性をやってみたいって試みは普通にあるし。同性交渉は昔の武士にとってはたしなみですらあったし、その種の隠語やスラングはどこの国にも死ぬほどあって、そのくらい普遍的なものだとも言える。古いマンガ(アニメ)で恐縮だけど、手塚治虫の「リボンの騎士」も、サファイア王子が男なんだか女なんだかふわふわ浮遊している、それこそインターセクシャルな感覚がドキドキ感を醸し出していたわけだし。なんだかんだいってトランスジェンダーは面白いのだと思います。つまらんかったら、こんなに連綿と続けられてないって。

 総じていえば、そのあたりのボーダーが曖昧になって、流動的になっていくのは、それは放恣放逸や無軌道な遊興というネガティブなものというよりは、それだけ皆が自分というものを大事にしようとしているからじゃないのかな。もっと切実で真剣なものでしょう。自分の中にある疑問や感情を押し殺さなくなったというか。逆にいえば、それだけ世間でノーマルとか普通と呼ばれているものの規範性や株が下がっているというか。

 それにはそうなるだけの社会経済的背景があるのでしょうし、広げていけば、今から未来にかけて、社会という巨大なシステムは要らないのではないか、なんでも多数決で決めることは良いことなのか?という疑問もあるのでしょう。それなりに必要ではあるんだろうけど、なにからなにまで画一的に決めたシステムを動かして個人の人生がその上に乗っかるパターンはもう無理だろうなーと薄々感じてるんじゃないのか。インターネットのように、道路法規のように、環境としての透明で合理的な取り決めやインフラが要るだろうけど、それは最低限でよく、そっから先は個々人の自由にさせて良いという流れがあるのだと思います。餓死する人がないように生産流通分配システムはいるだろうけど、おやつは毎日3時に食べよなんてことまで決めてほしくないねと。そういう決め事が崩壊したり、減ってきてるんだと思いますよ。

 だってさ、それまで当たり前だったシステムがどんどんなし崩しになってるじゃないですか。「学校にいく」「結婚する」「子供をつくる」「就職して働く」一昔前は疑問の余地なく当然だったことが、徐々に全員参加じゃなくなってきているし、場合によっては過半数がもうやらなくなってる。そして、やってよかったなー、充実するなー、安心できるなーってだけの実質を社会の側が提供しきれていないのも事実でしょう。そういう大きな流れと、このセックス、ジェンダー、システムの問題は無関係ではないと思います。社会がアテにならないなら、自分でやるしかないし、自分なりに最適化を施していくしかないってことじゃないすかね。

 あー、あとアニマとアニムスとかいうユングの概念なんかも面白いから話そうかと思ったけど、キリがないので。








 文責:田村




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