今週の一枚(2016/09/05)
Essay 790:「みんなどうしてるの?」≒「洗脳して下さい」
〜「自信」「自己決定」とはなにか
写真は、なんかカレンダーの写真みたいなのが撮れたので面白くて。この種の写真に場所を言っても仕方がない気もするが、一応、Woolwichというサバーブです。Hunters Hillの隣。そこのClakes Point Reserve。
前提理論
と、まあ、挑発的なタイトルをつけてみました。もちろん全面的にそうだなんて言うつもりはありません。
何かの問題にぶち当たったとき、「他人の動向を調べる」ことは問題解決のための有力な資料収集になります。「過去の判例」みたいなもので、大体こーして、あーなっていくというスタンダードなパターンは有益な資料になるでしょう。また「みんな=多数人」がそれを採用しているということは、それ相応の合理性がそこには推測されますから、理解しておいても損はないだろう。はい、そのとおりです。
んでも、これにはカウンターをあててやる必要があります。「そうとは言えない(皆のパターンが自分の正解であるとは限らない)」場合が、多少、いや、か〜なり膨大にあるからです。
以下述べますが、その前に、「みんなは〜」について、「やりたくない事をやらされている場合」は除外します。お義理で出席する式典のご祝儀に幾ら包むの?とか、社内アンケートに答える時とか、やりたくない宿題とか。この場合はとにかくカメレオンのように周囲に同化して目立たなくなるのが主目的であるか、やりたくないから出来るだけそれに関わる時間を減らしたい(できれば宿題なんか見せてもらって丸写ししたい)場合です。本論でテーマにするのは「やりたいことをやる」場合であり、それでも周囲の動向が気になるかどうかってことです。やりたくないことの場合、心ここにアラズですから自ずと別問題。
ただし、そんなにしょっちゅう周囲が気になるのであれば、それは、取りも直さず「やりたくないことで埋め尽くされた日々」ということで、もうその時点で人生の組み立てに問題があると思います。同じように急に葬式を出すことになったとか、交通事故の事後処理をやることになったとか「やらざるを得ない場合」、滅多に遭遇しないから全然分からず、平均値的処理をめざす場合ですね。これらも除外。やりたいわけではないですから。んでも、僕個人の感覚でいえば、これらの場合であっても、周囲にとらわれず自分なりの対応をしようとしますけど。やりたくないことの場合でも、自分オリジナルなことやってたら、あとは自然にハブられたり、逆に仲間が出来たり、適正居場所に流れていくと思うもん。それでクビになるなら早いことなっておいた方がいいと僕個人は考えます。やらざるを得ない葬式でも、故人との最後の立会であるというプライベートな部分を重視したいし、事故処理も相手方との人間関係と誠意でしょうから同じこと。周囲に合わせれば波風立たず、短期的には解決になりますが、そこで「嘘」をついた分のしっぺ返しがあとでくる。不本意な方向へ流されていくリスクを考えたら、目先の波風なんか立ててよし、って思うよ。
さて、本論いきます。やりたいことをやっているのに、周囲の動向が気になる場合です。周囲を調べてそれだけで良いのか?いや、良くないだろ、ちゃんと検証する必要があるだろ、それは、、、
カウンター検証〜みんなの正解≠自分の正解
例えば、正解と多数決は違うという点です。その昔の天動説のように、圧倒的大多数が間違っているというケースもある。それもですね、いろいろな領域のいろいろな物事を正確に調べていけば行くほど、世間の常識的理解というのがいかに間違っているかびっくりするくらいです。ほとんど全部間違ってるんじゃないの?ってくらい。「〜と言われているけど」「実はそうではなかった」っていう話、いくらでも聞いたことあるでしょう?こと自分のよく知ってる領域、例えば自分の職域であったり、自分の住んでるエリアであったり、よく知ってる人など何でも良いですが、それらに関する世間のステレオタイプがいかに間違ってるかです。
ステレオタイプというのは、分かりやすければ分かりやすいほど間違っている。それは超不勉強な外人さんが「JAPAN」といえば、日本列島のどこからでも富士山が眺められて、季節に関係なくいつも桜が咲き乱れていて、男は全員ニンジャで、女は全員ゲイシャだと思ってるようなもんです。これに似たような笑うべきステレオタイプはいくらでもあり、世の中そんなのばっかりであり、僕らの頭の中もまたそんなのばっかりです。言うならばガラクタばっかり詰まったガチャガチャみたいなのが世間であり、僕らですわ。そんな世間の多数決で何かを決めようというのは、ある意味では自殺行為ですらある。
そのリスクを回避しようとするなら、最初からそんな誤った先入観に引っ張られない方が良く、みんなの動向もまた知らない方が良いとも言える。じっと対象物だけを虚心坦懐に見据えて、あれこれ考えた方が正解率は高くなる。これは実際にもそうです。
カウンター検証(2)〜はじめから超マイノリティ・ゲームであること
もう一つ言おうか。自分以外の全ての人類がAを選択しても、なおも自分の正解はBである余地がある。結構ある、それも自分にとって大事なものほど自分の選択は孤立する傾向がある。だから他人の動向なんか聞いても何の意味もないどころか、正解を逸するリスクがあるので有害でもある。端的な例は結婚相手です。あなたの結婚相手をあなたは選択したけど、他の全人類は選択していません。「◯◯さんと結婚したい人」といって、「はーい」と手を上げるのは自分だけ。まあ他にも多少ライバルはいるかもしれないけど、圧倒的大多数は選択していない。だから多数決で決めたらえらいことになる。
これ↑はやや詭弁も混じってますが(笑)、でも大事な本質をも含みます。
「自分はこの世に一人しかいない」という点であり、そして「その一人の自分”だけ”を満足させれば良い」というゲームをやっているという点です。つまり最初から超々々々々マイノリティが対象になっている。
マイノリティ対象のゲームというのは、例えばオーダーメイドの服がそうです。オーダーメイドの場合、最初に自分の身体の各サイズを正確に測りますが、ここでの採寸作業とは「平均値(みんな)からどれだけ外れているか」とも言えます。抽象的な「みんな」と自分がどれだけ違うのかを正確に把握するからこそ意味がある。まあ、その差異を調べること自体が目的ではないのだが、少なくとも平均値はアテにならない/しないという前提でやっている。平均値で良いなら吊るしのスーツで良い。オーダーメードはそれをしない(平均値から敢えて外れる)ところに価値がある。さらに腕の良いテイラーならそうするように、職業によって内ポケットの広さや余裕を考え、将来的に太るかどうかの体質も考え、その他あらゆる点を考えて、たったひとりの個人(あなた)のニーズに可能な限り合わせようとする。
何が言いたいかといえば、たった一人(自分)が対象である場合には、平均値なんか調べても無駄であり、最初からその一人に焦点を据えて、徹底的に考え抜いていったほうが正解率は高くなるということです。これが商品の売り出しとかマーケティングだったら根本的に違いますよー。より多くの人に訴求するにはどうしたら良いかというマジョリティ・ゲームですからね。個々人の個性差は出来るだけ捨象して、ただただ平均値や中間値を探していくべきです。マイノリティ・ゲームとマジョリティ・ゲームとではゲームの種類が全く違うし、ゴールや方法論は正反対だと言ってもいい。
このゲームの種類は絶対に混同してはいけないし、混同するはずがないとも言える、、、のですが、これが容易に混同してしまうのが日本社会の(大多数正義主義ともいうべき)人生選択であったり、遡れば大量生産という手法が登場した19世紀以降の世界である。もっとも封建主義社会においては、この混同こそが正義だったりもしました。個人の資質や意見を100%無視して強引に社会階層に組み込み、例外を許さないこと、つまり個人の完全否定こそが秩序であり、正義でしたからね。
他には、、、って、まだまだあるけど2つで十分でしょ?だから、大多数のスタンダードパターンを知るという一般的調査として「みんなは〜」を調べる有益性は否定しないけど、それだけでは大した意味もない。そこから上記のように、第一スクリニーングで「誤謬が混入している可能性」の検証を行い、第二スクリーンで「自分マイノリティへの適合性」の検証をしなければならない。しかし、第一、第二を真剣にやるならば、別に「みんなの動向」なんて最初から知らなくても構わないような気もするのですけど。
自己決定の放棄と自信の意味
さらに、これらの必須ともいえるカウンター検証過程を無意識的にもすっとばす(意識的にやろうとしていない)人は、単に正解率が下がるだけではなく、より重要な問題をはらむと思います。それは、個人にとって一番大事な「自己決定」を放棄しているという点です。そりゃそうでしょ?何の検証もしないで、皆のやってるとおり付和雷同するだけなら、自分では何も決めてないんだから自己決定を放棄していわれても仕方がないでしょ。そして自己決定をしない人というのは、別の言葉でいえば「なんでもおっしゃるとおりに致します」といってるのと同じでしょう。まあ、そういう言葉で明確に意識することは無いでしょうけど、でも事実上同じことだろ?そして、自己決定ができるかどうかは、自分の判断を信じられるかどうかに関わります。
自分の判断に、自分の財産、時間、労力、場合によっては命そのものを委ねることが出来るか?であり、さらに突き詰めていけば、「納得のいく判断を下せる自分」を信じているかどうかになるでしょう。究極的には、自分を信じられるかどうか。つまりは自信があるかどうかです。
「自信」というのは色々な意味があります。
単純に「能力的な信頼度」という意味でいえば、それはハードルの設定次第でしょう。「車を運転する自信」というのも、普通の自家用車を自分のホームタウンで運転するくらいだったら自信アリになるでしょうが、F1に参戦して優勝してこいって言われたら自信ナシでしょう。英語力でも、カフェで注文を取る程度なら自信アリでも、国際ビジネスで億単位の熾烈な交渉をやってのけることには自信ナシだったりもする。こんなのハードルの設定次第でイエスにもノーにもなります。ただ、そんな能力的な「自信」についてはここでは問題にしません。なぜなら客観的にわかりやすいし、対象が特定している分幾らでも対処のしようがあるからです。要は「自分の性能の査定」であり、その査定に基づいてとある局面における将来予測をするだけのことで、競馬の予想やスポーツ大会の下馬評と似たりよったりです。客観的なデーター収集と、その解析と当てはめというアルゴリズム(演算処理)で処理可能。
ここで漠っと「自信」というのは、自分自身に対する漠っとした自信=「自分というものをどれだけ信用してるの?」ということです。これはあまりにも抽象的なので、「これだけ〜」とか両手を広げて長さを示すわけにもいかない。なので話がそこで終わってしまいそうなんだけど、終わらせてはいけない。肝心カナメのところだから。
この微妙なニュアンスをより明確にするために、観点を変え、言葉を変えます。「自分と心中できるか?」です。自分が決めたことならば、仮に間違っていようが、仮にそれで地獄に落ちようが、まあしょうがないよねー、自分の決定につきやってやるよ、納得するよって思えるかどうかです。
多分、これ、カウンセリングなんかでも出てくると思うのですが、深層心理の奥の奥の所で自分を認めているかどうかです。自分のなかのご本尊みたいな自分。そいつが自分の世界、自分の森羅万象の絶対神であるかどうか。僕がここで「自信がない」人というのは、このご本尊がブレているか、自分で自分を信じてない人です。この究極の地点で、自分を信頼できる人と、出来ない人、これで大きく分かれるんじゃないかなー。
自分を信じている人、、、「信じる」って言葉が悪いのかもしれないけど、この世で自分以上の価値(判断基準)を見つけられないというか、自分の心からの判断や感覚、それをも優越するものってこの世にあるのか?というと、それが思いつかない人。結局のところ、最後に決めるのは自分だろ?って、なにげに普通に思える人。そして、その自分が間違ったら、それ以上のことなんか出来るわけ無いじゃんって。それが最高で、それが最善なんだから、それでもダメなら、それはもうしょうがないよねって割り切れるかどうかです。言うまでもないですが、これって自己中とか自己愛とは違いますよ。全然違う。自己中や自己愛過剰の人って、僕の感覚では、むしろ自信がない人に多いような気がする。自信の無さの裏返しとしてサプリメントとしてそれらを求めるだけちゃうかな。
自信のある人(自分の判断が究極基準になりうる人)の場合、愛とかセルフィッシュとかそんなウェットな感じではなく、もっとカラッと乾いて、淡々としている気がします。この自分と呼ばれる肉体と人生の最高管理責任者が自分なんだから、まあ自分の持ち場であり、管轄であるから、やるっきゃないでしょーくらいの感じ。仕事や職人っぽい感じ。ぱんと両掌を打って、こすりあわせながら、「さーて、どうしたろうかなー」って年季の入った職人さんが手順を考えているような感じね。
洗脳親和性
以上の次第で、本質的に自信のある人は、最後は自分の判断だから、他人の意見や動向も適当にカッコでくくって「参考資料」の棚の上においておける。それを金科玉条のバイブルみたいにしない。盲従しない。「皆さん、そうしてらっしゃいます」と言われても、「ふーん、そうなんだー」くらい。「でも、ちょっと俺のたあ、違うなあ」とか言って、ボリボリ頭を掻きながら、考えている。こういう人は洗脳されにくいです。自分で決めることに自信があり、自分で決める検証過程がかなり透明で、ゼロから組み立てていく傾向があるから、騙されにくくもある。
ここで、そんなこといっても、この世の全てがそんなに自分で決められるわけないだろ?専門科の意見も無視するのかよ?それは傲慢を超えてアホだろ?ってツッコミがあると思います。ちゃうやん。対象があまりにも専門的で能力的に決められない時は、それに代わって「人」を査定して決定するでしょ。つまり、自分の能力外の専門的なことを頼む場合には、その専門家が、専門技術者として、そして人間として信用できるかどうか、それを自分の目で判断して決めるという形にシフトするだけのことでしょう。自己決定の対象が人物選定になるだけの話やん。
そこでは、有名だから、広告を沢山出してるから、他の人も沢山頼んでいるから、そこらへんの事情はオミットします。なぜって、だからこそヤバイとも言えますからね。大手だったら安心とかいう側面はあるでしょう。確かに。でも、大手だからこそ、巧妙なやり方で搾取してるかもしれないし、トータルのシステムで騙してくるかもしれないのですよ。それはレストランでも、資本が大きく、店舗が大きい方が美味しいのか、コスパいいのか、良心的なのか?といえば、そんなことないでしょ。もしそうなら、マクドナルドあたりが日本で一番美味しくて良心的な店になっちゃうけど、それで合ってるの?
自分の味覚にある程度自信のある人だったら、世間の評判なんかあんまり気にしないですよね。むしろ誰も知らずにひっそり常連客ばかりでやってる市井の小さなおばちゃんの店みたいなのに宝石的価値を見出したりする。かといって有名店を敵視するわけでもない。フラットに見れるでしょ?それは、音楽でも小説でもマンガでもなんでも同じで、自分の味覚を信じられるひとは、世間の評判なんかどうでもいいじゃん。導入部として「流行ってるんだ?ふーん」で手に取るかしらんけど、あくまで判断は純粋に自分の判断でやるでしょ?「自信がある」ってそういうことですわ。
ここまでが前半。前提の基礎原理を耕しておきました。後半で一気に応用とあてはめをします。
洗脳のメカニズム
「洗脳」って流行ってますけど、「こう考えてもらうと都合がいい」というアレです。これは何でもあります。政治だろうが、マーケティングだろうが、新興宗教だろうが。いくつかの共通属性をあげてみると、
(1)価値観の上書きをするが、そのためにまず世界観の上書きをする傾向がある
(2)集団処理が多い
のニ点です(考えればいくらでも出てくるがキリがないので)。
世界観と価値観の上書き
相手が自分の思い通りになってもらうためには、価値観をちょっぴり変えてもらわないとならない。全然買う気のない消費者に買う気になってもらうためには、それにお金を出す価値があると思ってもらう(価値観を変えてもらう)必要がある。そして、その価値観を変えるためには、前提となる世界観を変えてもらう必要がある。そのためには、「今、実は世の中こうなってるんですよー」とかいう部分から攻めていくという点です。相手の世界観の改築作業の際に、もっともらしい統計資料などを(選択的に、恣意的に、アンバランスに)出して説得力を増強したりするわけですね。例えば、◯◯大学合格者の95%が某参考書や某予備校を利用!とかいうのがそれです。よく考えたら、どうしてそんな数字が正確にはじき出せるのか、国勢調査以上の精密な調査なんかいつやってるんだ?って気もしますね。でも、数字やグラフがプリントされると、なんとなく「グラフは嘘つかない」と思い込んでるから騙される。でもって、さらに論理的な問題もあって、これは受験時代僕らがよく冗談で言ってたのですが、「合格者の95%が利用」してたとしても、「不合格者の98%」も利用してたとしたら、利用しない方が合格率が高くなることにならない?とかね。だから反対の数字を出さないで、それだけ出しても片手落ちなんですわね。また回答が複数選択可だったら、確かにその参考書は95%なんだけど、ライバル社の参考書が97%ってこともありうるわけです。さらに「利用した」といっても、単に買ったとか持っている程度かもしれない。本気でそれをメインに勉強したかどうか、その「利用」の定義を明確にし、さらにその調査方法を明確にしてもらわないと、そんな数字、鵜呑みに出来ませんねって話なんですけど。
でも、まあ、普通そこまで考えませんよね。で「ほほう」とか聞いてしまうと、「合格者の圧倒的大多数がこの参考を読んで勉強しているという世界」が現出されるわけです。「そうか、世界はそうなっていたのか」と世界観を上書きされてしまう。そこまできたら、その参考書の価値が増大し、金銭的支出の痛みを超えて、おし買った!になる。
霊感商法も同じで、最近肩こりが激しいのも、娘の縁談が破談したのも、お父ちゃんが左遷されたのも、息子が引きこもり始めたのも、みんな◯◯がいけないんだ、霊障があるからだ、方角が悪いからだ、etcと世界観を上書きされてしまい、それを一気に除去するなら、120万円の特別な霊気をこめた壺も安いものではないかって判断に傾くと。
さて、その際の世界観/価値観の上書き作業なんですけど、「みんなは〜」とすぐに聞きたがる人=自分の判断にイマイチ自信が持ててない人というのは、これはたやすいと思いますよ。「みんな、そうしてますよ」と言えばいいわけですし、それらしい資料を作って見せればいいもんね。逆に、常に自分の頭を通して判断している人というのは、先ほどの音楽や味覚と同じでフラットな感覚を持ってますから、「え、なんで?」「あ、その部分、よくわかんない」ってひっかかりにくいです。全ての過程で自分の納得を求めるから、論理的、感覚的なワープが少ない。「なんかよく分からないけど、みんながやってるなら、それでいいんでしょう」という飛躍をしない。だから、みんなは〜とかいってるのは、洗脳して下さいと言わんばかりだし、常に、相当に汚染洗脳されてるんじゃないか?と疑われるわけです。その世界観、その価値観、どっから来たの?本当に自分がゼロから組み上げたものなの?なんか自分のほんとうの感覚にズレたりしてない?って。
でも、僕らはかなりの部分、既に洗脳されていると思いますよ。「流行」なんてのもそうで、人類史的な傾向というなら分かる(川など交通の要所に集落や文明が発達するとか)、社会経済の潮流(トレンド)というのもわかる(都市型居住形態が一般化していくとか)、でもね、今年の服の色とか形とか、そんなもんそもそも「流行る」の?個人の勝手だろ。それに今年って、今年ですよー、まだ始まって数ヶ月しか経ってないですよー、いつそんな流行なんか生じたの?てか流行ってから着るなら常にシーズン的にタイムラグが起きなきゃおかしいんじゃないの?シーズンが始まる前になんで流行るの?それって、新連載マンガの広告に、いまだかつて誰一人読んでないのに「人気爆発!」とか書くのと同じで、超ありえないんですけどーってことです。最近ではネタバレしまくって、もう開き直って、節分みたいな儀式や行事と同じような感じで受け入れられてますけどね。つまり「信じるものではなく、そういうことにして興趣を楽しむもの」と。ここは余談。
集団処理〜マジョリティゲーム
次に集団処理です。大量の人数を同じフォーマットで処理できたら効率いいよねって話です。「量」がものをいう世界、政治なんかもそうだし、商売なんかもまさにそうです。これはマジョリティゲームの典型で、いかにして、一人でも多くの人を巻き込むことが出来るか、とある方向に思ってもらうか、です。ここまで書いたら後はもう書かなくてもわかるとは思いますが、一応。
商売でもそうですが、同じフォーマットで多くの顧客をゲットした方が、単品コストは安くなります。「お客様、一人ひとりの個性に応じて」なんてのを、本気で100%実践してたら、途方もない手間暇コストがかかる。同じ型紙で何百万個も製造して、一気に売りさばいた方が良いに決まってます。政治でも同じことで、ひとりひとりの国民のニーズを聞いていたら収拾がつかなくなってきます。
めちゃくちゃ忙しい居酒屋とか海の家で、10人グループが全員違うものを注文した場合、あまりにも煩瑣なので、「すいません、できればご注文をまとめていただけると、、」ということですわ。やってらんないんですよね。まとめてもらった方が、提供する側としては非常に都合が良い場合が多い。
だったらどうする?です。知らないうちに、考える方向を誘導してしまえばいいってことです。それを「洗脳」と呼ぶかどうかはコトバの問題でしかないけど、「他者の意識決定になんらかの誘導・干渉を行うこと」「それに影響されて、まんまとその通りに思ってしまうこと」ですね。
さらに、そう思ってくれるためにはどうしたらいいか?ですが、上の基礎理論の応用でいえば、まず世界観を上書きし、価値観を上書きすれば良いってことです。そこで重要な役割をはたすのが、電通などの広告代理店であり、メディアミックスとか社会心理学の粋を尽くして、サブリミナル効果やらハロー効果やら何でもかんでも利用して、「今、世の中はこうなってます」「これが世間の実情です」って報道し、さりげに知らせ、意識に浸透させていけばいい。Aという商品を売りたかったら、Aという商品をつかっていることがカッコいいライフスタイルであるかのような、あるいは誰もが使っているという具合に世界観を修正し、価値観を変えてやればいい。簡単ですわね。
例えば「ニュース」なんてのがそうで、「ニュース」と呼ばれている情報体系の胡散臭さ、嘘くささは日に日にメッキが剥がれていますよね。僕も子供の頃から「そうなの?」と漠然と疑問で、長じてからはもっと懐疑的になり、さらにここ10年くらいで格段に質が堕ちたこともあって、今ではギャグのネタみたいな感じ、てかほとんど見なくなりました。根本的な疑問というのは、例えば日本のニュースなら、今リアルタイムに1億2000万人が現実に生活しているわけで、それらの一日あたりの事実情報というのは天文学的に膨大なわけです。そんなものから、これを知るべきという優先度の高いものをわずか30分かそこら、わずか数ページの紙面におさめるなんてことが、本当に可能なのか?です。そんなの観点や価値観で無限にバリエーションが出てくるのではないのか?さらに問題なのが、その優先順位は誰がつけているのか、それは正しいのか、それが正しかったという検証作業が行われる制度的保証はあるのか?というといずれも不明である点です。こんないい加減な与太話、信じろという方が無茶ですわ。いや、それぞれの事実はニュアンスの差こそあれ、それらしき事実はあるのでしょうが、問題は大海の一滴のような事実の選び方です。
どこの誰が離婚したとか、こんな残虐な事件があったとか、そんな話に興味があるなら裁判所に傍聴に行けばいいです。マスコミに出てないもっともっと面白い事件がいくらでもあるから。また、政治においても、出来の悪い学芸会みたいな表舞台のドタバタなんかどうでもいいです。一切報道しなくていい。どうせあいつらに何を決める権力もないし。それを実質決めて実行しているのは専門集団である官僚であり、専門集団である業界ですもん。僕の価値観で言えば、今の僕らが知るべきは、それらのシステムが正常に稼働しているかどうかであり、思っきり正常に稼働してないと思われるところ、どこがどのように異常なのか(既得権サークルの密室で決まったり、わけのわからない利権の争奪戦があったり)、その異常を修正するには何をどうしたら良いかです。でもそういう話は、かなり突っ込んだ専門的な資料をあたらないと出てこない。
比喩的にいえば、今皆が住んでる家屋が火事になって、煙が侵入してきているのに、それには気づいてもらいたくないから、話題そらしのように、やれお兄ちゃんが味噌汁飲むときズルズル音を立てるのは下品だとか、お父さんがテレビ見てる時オナラをするのをやめてほしいとか、そういうことを熱く論争している、、みたいな感じね。それを「ニュース」とか「論壇」とかがやっているという。超くだらないんですけど。
いろんな意味で洗脳されたくなかったら、「いま話題の〜」「ブーム」というのを全部否定したらいいです。「いーや、全然話題になってませんけど」って。実際話題になってないじゃん。
マジョリティ戦略を有効にしようと思えば、そういう風に思ってもらえばいいわけで、遡ればそう思ってしまうような世界観を上書きしてやればいいわけです。でもって、さらに進んでいけば、いちいちトピックごとにそれをやってるのは面倒臭いから、「そういう人格」になってもらったらゼネラルに手間いらずだから、そういう教育をしましょう。疑問を持たせない、理不尽な押しつけでも、感覚が麻痺して当たり前に思ってしまうような人間になってもらいましょーってことです。実際、それはかなりの程度成功してますよね。
さて、そういう洗脳電波が乱れ飛んでいる、まるで放射能嵐の宇宙空間のような世界において、これらの集団処理に馴染みやすい人と馴染みにくい人がいるわけです。言うまでもなく、自信がないひと、自己決定が苦手な人は親和性があります。てか、洗脳してくださいって言わんばかり、てかほとんどそう言ってるに等しいです。
ま、ね、自分でもの考えるのは面倒臭いですからねー、全ての責任を自分でひっかぶるのも鬱陶しい話ですもんねー、もっと楽したいよねーってことで、皆のいうとおり羊の群の一頭になっちゃえば考えなくていいから楽だよねー、たとえ集団の行き先で毛を刈られようとも、屠殺されてお肉になって売られちゃおうとも、そんな先の話はわからんもんねー、誰もそんなこと「話題」にしてないもんねーと。
でも、自分で考えて決めることを面倒臭いとは感じない人もいます。むしろそれが気持ち良い、楽しいと。あるいは自分のことなのに自分で決めさせてもらえないとムカつく人。それは、あたかもラーメン屋に食べにいって、他の人に「お前は今日は味噌ラーメンを食え」と言われているもので、「なんで、味噌なんですか」と聞いても、「つべこべ言うな」「言われたとおりにしろ」って言われてしまう。そういう状況に腹が立つタイプの人。僕もそのタイプで、世間のニュースやネットやらで、これを知っておけ、ここで感動しろみたいな感じでいられると、味噌ラーメンレベルに腹が立つ。うるせーって思う。そういえば「つべこべ言うな」「言われたとおりにしろ」って耳に馴染むな、今まで多数回言われてきたからでしょうけど、そんな人を馬鹿にしたセリフがよく登場する社会はクソでしょー。英語でそんなこと言われた記憶はないけどな、警察に捕まったり刑務所や軍隊にでも入らないとおよそ言われないセリフでしょう。
踏み込み
さて、最後に実践的な日常レベルでの感想を言います。自信がある人は楽ですし、得ですよ。生きるコスパもいいでしょう。なぜなら武道でいうところの「踏み込み」が甘くなくて、しっかりしてるから。踏み込みが甘いと、十分な体重が乗ってないから打撃に効果が無い。それは剣道でも空手でもそうでしょう。そして人間関係でもそう。人間関係の踏み込みというのは、自分の意見や希望をハッキリ言えるってことです。ここ、別に迷ってても、分からなくても構わないです。ただ、そこで「自分で決めたい」という意思が感じられる場合、その人の言葉のひとつひとつが「有効な打撃」になるのですよ。打撃っつっても比喩であって本当に攻撃するわけじゃないですよ(わかるよね)。ズシッとしたものがあるから、受けていて気持いいです。だからこっちも自然と真面目になれるし、いいやりとりが出来る。
これが遠くから逃げ腰で、手だけ伸ばして当ててくるような人の場合、そんなの相対すれば(メールでも)、一発でわかりますから、なんだかなーってやる気が減退するのです。ドン!と踏み込んでこない。なにかあったら、すぐにぴゃーって逃げようって感じで、真摯さがないからマトモにやりとりする気にならない。
これは今の仕事よりも、前職の方がよりシリアスにわかるのですが、弁護士の賢い利用の仕方でいうなら、この人はと思う人がいたら、ドンと全て預けてしまった方がいいです。「一件、すべてお願いします」と全身をぶつけてくるように踏み込んで来る人には、こちらも全力で応えようとしますから。そこを、なんか見比べて〜とか、値踏みするような感じで、いつまで経っても踏み込んで来ない人は、まあ、そんなに力は入りませんよね。向こうが小手先なら、こっちも小手先ですわ。でもって、どっかの社長さんとか、それなりに自分で切り開いてやっていけている人ほど、この踏み込みが強いです。それだけ自分の決定に自信があるんだと思う。自己決定が結果的に吉になるという自信はないだろうけど、自分で決めていけばいいんだってことには自信がある。それらの自信、踏み込みの強さと、現実の人生実現度の高さとは、かなり正比例しているなーというのが、現場の一線の感覚です。それは今も変わってません。やっぱ伸びる人は踏み込みが違うなーという。
よく「警戒心が強い人」って居ますけど、あれ、損ですよ(笑)。健康な警戒心はもちろん必要ですよ、ただ過剰になったら意味ないなって。なぜなら、警戒心だけでは一ミリも前に進めないからです。ブレーキだけあってアクセルのないクルマみたいなものです。でもって、警戒心ばかり強い人というのは、結局のところ自己決定に慣れてないんだと思う。自己決定に慣れている人は、どのポイントとどのポイントがOKだったらGO!という部分が無意識的にもできている、やり慣れている。「おし、じゃ、こうしよ!」と。ところが自己決定に慣れてないと決め手に欠けるから永遠に逡巡する。
なんでそうなるかというと、自分の決定に心中する腹くくりが出来てないんでしょうね。自分が決めたことなら地獄に落ちてもしょうがないよねって思えてない。そこに自信がない。いやいやいくら自分で決めたからといって地獄は嫌ですよっていっても、じゃあ他人が決めたことで地獄に落ちるのはもっとイヤでしょ?そして確実に天国にいける方法は?といえば、そんなもんねーよ。未来は常に不確定なのだ、確実なんかない。その中で、どこを根拠にして生きていくの?といったら、結局自分しかいないでしょ?って思える人か、そうでないか。
ちゅーかね、誰だって他人の手で地獄にいくなら、せめて自分で決めたいですよ。全員とは言わないけど、大方はそうでしょう。だとしたら、そこで自己決定の踏ん切りがつかないというのは、結局はありもしない天国確実をまだ探しているということであり、そんなもん無いなんてことは普通の知性があったら普通にわかるから、結局のところ、この過酷な現実社会に正面切って相対する腹括りがまだ出来てないってことなのかもしれません。早い話が、現実にメンチ切って臨んでいく根性がないってことなんかなー。泣いても笑ってもこれっきゃないんだよ、だからいくっきゃねーんだよって、誰もがどっかで腹を決めますが、それがまだ出来てないという。だからそれを誤魔化すために、永遠の情報収集をし、永遠に比較検討をすると。
それがなんとなく全身オーラで陽炎のように立ち上っているから、ある程度上のレベルの人(それなりに世の中わかってて、実際に動かせる人)からマトモに相手にされなくなり(時間の無駄だし)、自分の未来を導いてくれる人を自分から遠ざける。結果として自分の進むべき道を自分で閉ざしていってしまう、だから損だよ、って。といって何でもかんでも盲信しろってわけじゃないですよ(わかるよね)。「決める」ということに慣れておくといいよってことです。この自分の最高責任者はほかならぬ自分なんだから、大将が「どうしよ、どうしよ、ねえ、どうしたらいいと思う?」とかヘロヘロだったら、勝てる戦も勝てないでしょ。ドン!と構えんしゃいって。
文責:田村