今週の一枚(2016/08/22)
Essay 788:カウンセリグとか、相談とか
離婚相談の実践ノウハウ
写真はCremorneのPrmirose Park。ふと見ると犬の調教らしいことをやってて。いろんな犬がいて可愛かった。
カウセリングってなんだ
カウンセリングというともっぱら心理カウンセリングを連想します。それはそれで間違っていないのですが、それに限るものでもないです。もともと日本語でいえば「相談」で、ざくっと定義らしいことを探せば「依頼者の抱える問題・悩みなどに対し、専門的な知識や技術を用いて行われる相談援助」らしいです。幾つかのエッセンスがありそうで、
(1)依頼者がなんらかの問題や悩みを抱えていること
(2)もっぱら口頭での会話をメインにして、その問題の解決を模索すること
(3)なんらかの専門知識や技術が、その解決に役にたつこと
などでしょうか?
なにを改まって言っているのかというと、(3)専門知識要素がないと、街角で「すいません、◯◯駅はどっちですか?」と聞くような場合も「カウセリング」になってしまうからです。「駅はこっち」というのを「専門知識」と呼ぶかどうかですが、普通は呼ばないでしょう。
ただ、じゃあ「専門知識」ってなんなのよ?というと、これも微妙なんですよね。かーなり気分によって左右されるような気がするぞ。同じように、(1)悩み、(2)会話解決も怪しいものなのですよ。悩みっていうけど、本当に悩んでいるの?とか、こんなの口先でいくらいってても抜本的に解決しないんじゃないの?とか。
僕はカウンセリングらしきことをかれこれ30年ほどやってます。最初は弁護士として法律相談をして、今は留学とか渡航の相談をしている。いずれも「相談」と呼ばれてて、「カウンセリング」というかどうかは単純に言葉の問題です。その時々の言語の日常用語例に変遷によります。日本語の「(心理)カウセリング」だって、ずっと昔はそんな言葉なかったですからね。単に精神科医や臨床心理学を修めた人による「診察」「治療」とか言ってた。それがカウンセリングというカジュアルな言い方になり、それ以外にも広がり、就職相談、美容相談、不動産、労務管理、、、、専門知識が絡んだ何らかの口頭会話だったそう呼ばれるようになった。単純にコトバの流行りすたりだと思います。
究極的には「人生相談」という「何でもアリ」なところまでいくわけですが、これこそ大昔からやってたことです。宗教とか哲学とかは基本コレでしょう。武道なんかもそうかもしれない。「せ、先生!」「なんじゃ?」「お、お尋ねしたいことがあります!」とかやってたわけです。禅問答なんかもそうかも。キリスト教の懺悔なんかも。もっとも禅の「公案」(問答)は、クイズやなぞなぞみたいなもので、問いかける方が、ソモサン!と不思議な専門用語を叫び(”作麼生”)、答える方はセッパ!とこれも不思議なフレーズ(説破)で答えるわけで、これは「〜ってなーんだ?」「それは◯◯です」を特殊な言語例で言ってるだけのことです。これは悩みを専門知識で解決するカウンセリングというよりは、頭の体操、思考や発想の訓練でしょう。
さて、僕自身の経験でいうと、30年もやっていながらこういうのもナンですけど、あんまりカウンセリングをしてるって意識は実はなかったりします。あまりにも当たり前になってるから、食事や睡眠みたいにイチイチ意識しないだけかもしれませんけど、「さあ、今日もカウセリングをやるぞ」的に思ったりはしない。どう思うか?といえば、先ほどの「◯◯駅はどちらですか?」と聞かれたのでそれに答える、に近いです。単純に知ってることや解決法があったら答えるだけだという。知ってたり、わかることは答えてあげられるけど、知らないことやわからないこと(orちょっと調べたくらいではやっぱり分からないこと)は答えられないわけで、ただそれだけです。
専門知識や技術って、いったんマスターしてしまうと、自分の頭のなかでは、これは専門知識、これは日常知識ってわかれていないのですよね。「あの店の◯◯というジェラートは美味い」という知識と「契約書の最後に執行認諾文言を入れておくかどうか」という知識が同じレベルになっちゃって、要は知ってるか知らんか、関連記憶がどれだけあるかだけの話ですからねー。それに、どこからが「専門」なのかも怪しいんですよー。例えば、駅前に◯◯というスーパーがあるよというのは日常知識ではあるんだけど、これが海外になると、駅の向こうのなんたらストリート沿いに日本食材を売ってる店があるよというのは、海外在住ノウハウにおいては専門知識っぽくもなるのですよ。専門といっても、そんなカッチリしてるもんでもないですよね。
また、聞かれたことを答える過程で、「それって、そーゆーことなの?」というのはいろいろ思うので、それは言います。先ほどの「◯◯駅は?」の事例でも、これが近所に実在する駅なら普通に答えれば済むわけですけど、「アメリカ駅はどこですか?」みたいなことを聞かれると、「う!」「えっとねー」って話になります。どっから話したらいいのかな〜って。あのー、アメリカって駅はないのよね、そもそも電車でアメリカに行こうという発想が間違ってて、飛行機か船で、それ以前にビザとかその種の話があって、でも、アメリカってなんなのかご存じですか?という。
これ、冗談みたいな話なんですけど、実際にはこれに近いんですよー。「学校通ったら永住権取れますか?」なんて質問もけっこうこれに近いです。「離婚したら慰謝料取れますよね?」なんて話もそう。「あ、あのですね」から話を始めないといけない。それは知らないんだから仕方ないし、教えてさしあげればいいんだけど、そもそも問題の立て方自体がちょっとおかしいんじゃないか、そういう世界観で物事見てたら、おそらく解決の方向や悩みの捉え方そのものが間違ってる可能性も大いにあるぞと。
まあ抽象的に言っててもわかりにくいで、いつものように具体的例をあげます。誰にでも比較的わかりやすい離婚でも例に取りましょうか。それも弁護士として離婚相談を受けたらこう対処するといいよというイロハを書きましょう。後輩の弁護士に実地で教えるような感じ。この種の技術って、今の自分が持ってっても宝の持ち腐れっぽいので、少しでもシェアして集合知を高めることで貢献できたらいいなと。また、断片知識が一人歩きして一知半解の「生兵法は怪我のもと」的な知識を広げるよりは、系統的に語った方がいいし。
離婚相談のノウハウ〜基礎編
法は家庭に入らず
コレは知らなきゃダメでしょうという基礎知識があります。どんなエリアの相談事にもそれはあると思う。まず、それらはちゃんと押さえる。寸分たがわず正確である必要はないけど(それは究極的には不可能だから)、大きながっしりしたフレームワークは理解しておくこと。これは物事の本質は何か論とも絡みます。離婚事件やら離婚相談やらあるのですが、なんでそんなものがあるのか不思議に思いませんか?男と女(or同性同士でも)がおって、ラブラブにやってて、いつしか別れて〜ってなんて話は、そのへんの中学生でもやってることで、普通にある話です。普通にあるから簡単な話だと言うつもりはないですよ。そこにはそれなりに大きな葛藤も苦悩も悲しみもあるでしょう。あって当然。だけど、見も知らぬどっかのオジサンやオバサンに話を聞きに行かなきゃいけないとか、会ったこともないどっかの誰か(家事審判官や裁判官)に自分らのことを決めてもらう必要もない。でも、こと離婚になると、話が大げさになる傾向がある。はい、ここで、なんで大袈裟になるの?です。本質はそれだと思う。
なぜチマタの男女のあれこれは大袈裟にならず(まあ警察沙汰になったりすることもあるが)、離婚になると大袈裟になるのか?ですが、それは簡単、恋愛や生活に「付着してくる権利義務関係がやたら多いから」です。単につきあってて、デートして、セックスしてってくらいだったら、権利義務関係は少ないです。「あの店の支払いは私が立て替えて払った」とか「先週あげたプレゼントの指輪、返してくれ」くらいのことはあるかもしれないけど、その程度。それ以上に、お金を多大に貸し付けていたとか、貢いでいたとかいうなら結婚詐欺とかそっち系の話になるかしらんけど。
でもね、結婚になってくると納豆みたいにネバネバしてきて、周囲のあらゆる権利義務関係がひっついてくるわけで、それを原状に回復しようとすると、なかなかに難しい。子供みたいに「付き合い始める前のもとの状態」がありえない存在もあるわけで。
ということで離婚事件になると、なにやらドラマ風の人間模様とかになりそうですが、本質はめっちゃドライでビジネスライクな権利義務の清算です。破産や和議、民事再生の一種くらい、納税申告や遺産分割くらいに考えておいたらいいです。人間関係のドロドロは、基本、かんけーないし。
「法は家庭に立ち入らず」という格言があります。家族内部のなんだかんだに法は無関心であり、無関心であるべき。やれ月曜のゴミ出しはお父さんでか、出掛けの玄関先でハグをしなかったとか、約束していたTDLに連れて行かなかったとかいうのも基本、全部無視です。「法」とはなにか?ですが、法ってカネかかるんですよ。選挙やって代議士決めて、議会開いて、討議して決め事作って、それで揉めたら裁判所作って裁判官が判決して、、って、全部カネかかる。税金がかかる。「税金」というとどっかの誰かのお金のようだけど、「みんなのお金」ですよー。その中には「あなたのお金」も入ってる。だからみんなのお金を使ってまでやらなきゃいけないようことを法律で決めて、カネ使ってその実行をする。だから「皆にとって利害関心のあること」に使うべきであり、関係ないことに使ってたらお金がいくらあっても足りない。そして、どっかの誰か、例えば北海道函館市にお住まいの結婚7年目の◯◯さんご夫妻の間で、花壇のチューリップを枯らせてしまった責任は旦那にあるのか奥さんにあるのかというトラブルを解決するのに、税金をつかってまでやらなアカンのか?と。
じゃあ、どういう場合にみんなに関係してくるかというと、権利義務関係が対外的に伸びてくる場合です。例えば、離婚したご夫婦の共同名義のマンションがあって、それを第三者が中古マンションとして買うような場合です。売り主の権利証も実印も全部揃ってるから安心して買ったはいいが、あとになってから、もとの奥さんからクレームがきて、あのマンションの半分は私のもので、それを離婚のドサクサで旦那が勝手に私のハンコを使って売り飛ばしたものだから、半分返せ!とか言われたら困っちゃうでしょう?離婚するのは勝手だけど、そこらへんキッチリしておいてくれよー!って思うでしょう。それが離婚事件の本質だと思う。
3つの権利義務領域
では、離婚に伴う権利義務関係の清算には何があるか?大きく3つの領域があると言われてます。一つは夫婦間の財産の帰属を整理することで、財産分与と呼ばれる。婚礼家具とか山のように持ってきたときの家具とかもあるけど、よく問題になるのは不動産ですね。特に、どっちかの親が資金援助してマンションを買ったとかいう場合、親も絡んでくるからモメるんだわ、これが。ふたつ目は子供です。権利義務という形でいえば、親権(監護権、面接交渉権、教育権などの総称)をどちらが取るかという話もありつつ、親権を持たない側が月に一回子供と会うという決め事(面接交渉権)とか。英語では、監護権をChild Custodyであり、"bitter custody battle"なんて表現で言われたりもします(親権をめぐっての熾烈な争い)。また、子供が成人に達するまでの養育費の支払いなどの問題もあります(払わないんだよなー、いくら決めても)。
ここで大事な原理は、全ては子供のため、「子の福利のため」に決められることで、どうしたらこの子にとってベストな環境が構築できるかがテーマ。親はそのためのイチ素材でしかない。この問題に関する限り、親はどちらも「加害者」として扱われ、「仲良しの両親」というかけがえのないものを失った子供への償いや賠償問題として考える。当事者はそうは思わないかもしれないけど、日本の(世界のメインストリームの)家庭裁判所や実務ではそう思うし、そう扱う。ちなみに、子供の心理学(発達心理学や教育心理学)などをおさめて、子どもたちのために働きたいという人には、家庭裁判所の調査官という仕事もありますよね。どちらが親権を取ったほうが良いのか、関係者に面接して、事実関係を調べて〜って、僕も何度か仕事でお会いしたことあります。DV夫から逃げた奥さんと子供のその後の生活を調べるため大阪から沖縄まで出張して何日も現地調査されていたりして、面白そうな仕事ではあります。責任もきついけど。
慰謝料なんかどうでもいい
三番目に出てくるのが、皆の好きな慰謝料など、婚姻とその破綻に伴うダメージの補填です。この場合、物損はそんなに問題にならないです。ドンパチ夫婦喧嘩をやってるときに、どちらかの家宝であった時価数千万の壺を割ってしまったとかいうなら別ですけど(値の張るものは財産分与の問題になるし)、カーディガンに醤油がかかってシミになったとか、そのへんの細い話は普通問題になりません。もっぱら「精神的苦痛に対する賠償=慰謝料」でしょうねー。でもね、週刊誌などで慰謝料◯億円!とかスキャンダラスに書かれるからよく知られているだけのことで、純粋に法的な意味での「慰謝料」に相当するようなものなど、リアルの離婚でなかなか払われませんって。殆ど無いんじゃないかな。離婚って、当事者の話し合いだけで終了させる協議離婚、第三者(家裁)を巻き込む調停離婚、さらにエスカレートして普通の地裁で喧嘩する裁判離婚がありますが、判決までいく強者は非常にレアです。裁判所までいかない協議離婚が約9割弱、家裁の調停(話合い)になってもそこで大半は協議離婚になって決着し、そのうちの強硬なものだけが二回戦進出で地裁にいくわけですよ。もうこの時点で95%くらいは協議離婚。さらに地裁の訴訟になったとしても、なんだかんだいって途中で和解手続きで協議離婚処理されてしまうのが殆どです。だから99%くらいは最終的に協議離婚になります。形としてはそうなる。
そしてカタチとしてそうなる場合(双方合意の上に終了)、慰謝料ってなかなか認めにくいのですね。だって、慰謝料を払うとなったら、なんか自分が悪いみたいじゃないですか?「夫婦喧嘩は犬も喰わない」と言いますが、大体が「どっちもどっち」です。それは友達の恋愛相談を聴いた人なら分かると思う(そう口に出して言うかどうかはともかく(笑))。どっちも不満だし、どっちも怒っているし、自分こそが被害者だと思ってる。そんな両者が「合意」する場合、「私が悪うございました」と言わんばかりの慰謝料なんか払わないって。払うわけないじゃん。
もし払うとしたら、相手に新しい恋人が出来て、一刻も早く一緒になりたいから、カネで時間を買うみたいな場合。慰謝料でもなんでも払ってやるから早く自由にしてくれって場合くらいかな。あるいは、相手がすごく反省タイプか自罰タイプで「自分が悪かったんです」となんでもひっかぶりたい人。でもこういう場合って、対立ポイントが少ないから、そもそも問題になりにくいんだけど。
ガチに対立している場合、リアルにどういう話になるかというと、「手切れ金」なら叩きつけてやってもいいけど、「慰謝料」だったら死んでも払わん!ってな感じになるのよね。でもカネはカネですからねー。で、この手の話を聞くのはこれで1125回目ですよって感じの裁判官や弁護士や調停委員が「はいはい」てな感じで言うわけです。「いかがでしょう、どちらがいいか悪いかとか言ってても埒が開きませんし、私共も男女関係の深いところまでは立ち入れませんし、わかりません。どちらも真情をおっしゃっているのは痛いほどわかるのですけどね、こればっかりは立場の違いというのがやはり大きくて。ただ、まあここで双方新しい人生をスタートさせるにあたって、金銭的に幾分かは余裕のある方が他方に対して「解決金」という形で支払うというのは?まあ、変な言い方ですけど、あらたな旅立ちに対するご祝儀というか、餞別みたいな感じで。まあ縁あってご一緒になっていたわけだし、最後くらい綺麗に、、、」とかなんかとか説得するわけですね。だから示談書とか和解条項を起案してこいと言われた新米弁護士が「慰謝料は〜」とか書いて持っていくと、クシャクシャにされてゴミ箱直行とか(笑)。
判決までたどり着く猛者も数%ですがいます。でも、実際の判決例とかみてると、慰謝料が出ても10万円とか涙がチョチョ切れるような感じで、慰謝料ゼロなんて判決もゴロゴロあります。突っ張れば突っ張るほど額は安くなる傾向があります。双方ニコニコ円満離婚なんか場合の方が高かったりする。だって、どっちがどっちって言えないんだもん。かなり露骨にそうだった場合(激しいDVで骨折など緊急入院が過去に何度もあるとか)ならともかく、浮気や不倫程度ではねー。
慰謝料の根拠となる損害賠償の根拠はもっぱら民放709条の不法行為ですが、その成立要件=加害行為の存在立証、損害立証、因果関係の立証、故意過失立証を全部を厳密に突き詰めていった場合、相手の不貞行為(浮気)が発生するより前に既に婚姻は破綻していたというケースが多く(だから浮気に走る)、そうなると因果関係がないと判断されがち。そしてガチ法廷になったら、自分の側の問題点を火が出るように猛攻されるわけです。やれ、だらしがない〜買ってきても冷蔵庫に置きっぱなしで腐らせてしまうとか、ゴミの分別をちゃんとしない、子供に対して放任ないし過干渉だとか、浪費癖が激しく、虚栄心が強いから無駄な出費が多いとか、ヒステリーが激しいとか、セックスに非協力的だとか。
人間って手前勝手だから自分のポイントばっか勘定しますが、法廷は戦場だからビシバシ自分も被弾するわけですよ。それもあることないこと。相手方の準備書面なんか自分の依頼者に読ませたくないですもん。ヘタに読ませたら血管ブチ切れて死ぬんじゃないかって感じだし、法廷で本人尋問で攻撃されて半狂乱になったりされたら滅茶苦茶心証悪いですもん。「このように原告は、すぐに感情が暴発しヒステリーになりがちであって、これでは理性的な話し合いなど到底望むべくもない」って言われちゃう。「慰謝料?は、ご冗談でしょう?」と。
最悪なのは実は自分も浮気してましたってケースで、相手方から、隠し玉みたいに最後の最後で証拠とともにそれを持ちだされたらたまらんですよ。総じて、依頼者は本当のこと言いませんから。自分に都合のいいことしか言わない。言ったとしても半値八掛け二割引くらいに過小に言う。だもんで法廷後の打ち合わせで憮然とした弁護士が「なんで言ってくれなかったんですか?」「だって、あれは関係ないし、、、」とかになるわけです。裁判所近くの喫茶店でお昼前とか午後3時くらい(証人尋問が終わった頃)の気まずそうな二人連れがいたら、それかもしれないです。ま、でも、そのあたりは推測で補充しておくのが弁護士の腕であって、ケチな人ほど他人をケチと罵るという投射心理からいって、相手が浮気してるとそればっか言う人は、実は自分もひそかにやってたり、未遂の一つや2つはしてたりするかもと疑った方がいいです。少なくとも、それも含めて戦略立てたほうがいい。
よくチマタやネットでは、慰謝料を多くもらうことが離婚闘争の勝利の道筋!みたいに言ってるけど、これも一種の専門領域のポピュリズムだと思いますわ。今の日本の司法&普通の市民の離婚で、慰謝料なんかマックス300万かそこらでしょう。それもよくよく見ると慰謝料という名目では出てなかったり、実質は財産分与だったり、養育費の先払いだったりするわけですよ。それを素人が「慰謝料」だと総称して思い込んでるだけって気がします。慰謝料がっぽり取れるのが有能な弁護士だなんて馬鹿も休み休み言えって気もしますね。
慰謝料=どっちが悪いか論=私はこんなに可哀想論というのは、感情的にわかりやすいからそっちに走りやすい。でもね、どっちが悪いかなんか他人(裁判官)全然キョーミないから。てかうんざりしてますから、こういうのって、被害者面して得々と言い立てる人間って、第三者からみると憎々しげに見えるから戦術的にも却って損だし。かといってサメザメ泣いてるだけだど、今度は見ててイライラしてくるし。だからそんな感情戦略はダメっす。感情エネルギーで行動し、立案し、他人の感情を喚起させようという戦略がクソだと。気持はわかるけど、それは飲み屋で親友に言え。
ことゼニカネでいうなら、財産分与のほうがよっぽど額が大きいです。慰謝料数百万なんて不動産登記の印紙代でチャラってこともあるのですよ。所有権移転登記の申請は不動産の価額の1000分の20で、不動産の価額というのは固定資産評価証明の評価額で、さらに不動産の価格というのは、公示価格と実勢価格と路線価と評価額とかあって、一物一価どころか一物四価という魑魅魍魎の世界なんだわ。そして実際に財産分与をするときに共有持分の更正登記とかやるわけで、その費用はどっちが出すかとなったら、単にそれだけで100万円以上違ってきたりもするわけですよ。どっちが悪いかとか、興信所つかって証拠集めしてるヒマがあったら、評価額調べろ、予想される手続き費用を調べろ、近所の不動産屋いって売ったら幾らになるか聴いておけです。それを前提に財産分与の要求目録を作ってぶつける方が、場合によってははるかに有効だったりもします。
逆に、相手方が賢かったら、慰謝料は言い値で200万払ってあげるから、その代わり不動産の処理は頼むよとか言われて安請負すると、その処理費用とかローン組み換えの負担とか総合損は500万円くらいになったりするわけですよ。相手の方が一枚も二枚も上手。そこを、感情炸裂!→慰謝料がっぽりという、DQN的な思考法でいたらダメっす。これから一人で世間の荒波渡っていくわけなんだから、そんなことくらい考えたら分かるだろうし、分かるくらいに賢くないと、この先も大損街道をひた走ることになる。
広範な世間知こそ資源になる
えーと、何がいいたいかというと、カウンセリングを受けるときには当たり前のことだけど、そのエリアの基礎知識はちゃんと整えておけと。それも系統だって理解していないとダメです。たまたまの実例をいくら見聞していても、なんでそうなっているの?どういう法体系と行政システムになって、どういう文化風土があって、それらの力学によってこういう具合に物事が決まっていくという全体の構造が分かるかどうかです。日本の(世界でも大体そうだが)離婚実務で、親権は大体女性が取り、慰謝料その他の金銭は男性が払う傾向があるのは、男優先社会であることの裏返しでしょう。男の方が就職その他で有利だし、同じ労力才能でより多くの富をゲットできる傾向にある。その分だけ仕事の奴隷にならざるをえない社会プレッシャーがきついから、子供にとって大切なスキンシップや身近な存在でありつづけるのが難しい。だから監護能力に疑問をもたれる。またその後独立して別々の人生を送るにしても、男の方が有利だから、所得の再配分という社会的格差是正の見地から何らかの給付(慰謝料と呼ぶかどうかはともかく)が求められるってことだと思います。江戸の仇を長崎で討つってコトバがあるけど、ここになにかの不公平があれば、他方の不公平で埋め合わせてバランスを取るという、そこには大きな社会正義があり、それをマクロで捉えられないと。
そういうマクロの視点もさることながら、同時に、やれ不動産の登記はこうでとか、登記費用と登録免許税は別物で、前者は司法書士さんへの手数料報酬で後者は税金だとか、◯年まで住宅取得減税措置があるかとか、そのあたりの広範な社会システムに対する知識が必要でしょう。僕が誰彼かまわず起業しろとか、行政書士取れとか言ってるのは、そういう視点でものをみて、そういう知識を増やしていかないと、普通の離婚や恋愛相談ひとつ出来ないからです。単に、「そう、大変ね」とか相槌打つだけならいいけど(てか、それはそれで心理療法的な難しい世界があって、迂闊に相槌を打つべきではない論とかもある)、それ以外のひろい相談事の場合、現実にこの世になにごとかを実行する場合、とりあえず困るのがそういった世間知だからです。このあたりを全然知らんかったら、パスポートを持たずに国際線に乗ろうとするようなもので、船出したとたんに湾内で沈没しちゃうぞ。
さらに、なんでそこまでプロフェッショナルな相談の準備をしろというのかというと、このお先真っ暗っぽい日本(世界も)において、個人としての人生戦略を立てる上で非常に有用であることが一つ。もう一つは、こういう自分の知識経験をもとに生業(なりわい)にする業態が広くなっていくんじゃないかなと予想するからです。知価社会化の流れは今更止められないし、AIの広がりに対抗するには、より先に進んでいくことです。AI化(事前にプラグラミング化)しきれないくらい千変万化する柔軟なカウンセリング、コンサル系が柱になるだろうと。自給自足村的な回帰も大きな流れにはなってますけど、でもあれも、自給自足をする労働力そのものがキモなのではなく、今の世の中でそれを実現するための無数に存在する現場のノウハウという「知価」にこそ価値があると思うのですよ。立地選定にはここに気をつけろ、行政や地元の住人と仲良くなる方法とか、素人でも失敗しないで進んでいくステップづくりとか、結局は知価ノウハウだと。
離婚相談の応用・実践編
ここで止めてもいいけど、もうちょいリアルに実践的なノウハウも書いておきましょう。クライアントの「悩み」
悩みをカテゴライズするのは難しいです。悩みと呼ばれる心の中のあれこれは、もっとも原型に近い状態でいえば、青空の向こうに見るからに不吉な黒雲が湧き上がってる感じだったり、どっかで空間がぐにゃりと曲がってて微かに嘔吐感を催すような気持の悪さだったり、心臓やこめかみがズキンズキンと音を立てている動物的な生々しい感覚だったりすると思います。それがリアルな実体。「◯◯相談」の◯◯部分は、この問題に対してクライアントが「この方向で解決すべきなんだろうな」と思ってカテゴライズしたものです。それは医療と同じで、お腹が痛いから内科にいって、目が痛いから眼科に行こうくらいの感じ。だけど、その解決方向カテゴライズが正しいという保証はないです。けっこうな確率で間違ってると思います。目が痛いのは結果であって原因ではないよ、本当の原因は◯◯で、その結果の一つとして視神経にきたり、目の裏側あたりの血管が膨張して神経に触れてそれで痛みを感じてるだけだとか。
だから離婚相談でやってこられたとしても、よくよくお話を聞いていると、これ、離婚が問題なのではないのでは?ということがママあります。なかには朗らかなパターンもありますよ。「最近ちょっと困ってて、、」と相手方への不満を述べ始めるのですが、じゃあ離婚したいのかというと、そこまでは踏み切れない。そのうち、「ああ見えて、いいところもあるんですよ」とか言い出して、結局はノロケだったりするという(笑)。
いや、あるって、そういうこと。流石に料金払って弁護士相談までしてノロけることは無いだろうけど、無料の相談とか、あるいは友達同士の相談くらいだったらよくあるでしょ?「もう別れようかとも思うんだけど」とか言うんだけど、いざ「早く別れちゃいなさいよ、そんな男」とか言われると、「いや、でも」となぜか相手の弁護に回って、結局は、「あんないい人、離しちゃダメよ」「文句言ったらバチが当たるよ」と言ってもらいたいという。でも不満もあるからちょっとだけ言って解消して、で、でも別れるなんてありえないよねって順当なところに落とす作業を手伝って欲しいと。「背中を押す」という言い方があるけど、背中押されたくないんだよね、胸を押されたいというか、ちゃんと反対して欲しいというか。背中のジッパーが下がってるから、ちょっと上げてくださいみたいな。まあ、こういう可愛い相談事はいいですよね。聞いててアホらしくもなるけど(笑)、まあ牧歌的な話ですわ。
依存性
笑ってられないのは離婚以上に深刻な場合です。例えば依存性が強すぎるとか。「君の全てを受け止めてあげる」というのは殺し文句でイイんですけど、あんまり真に受けちゃダメよ、というか。実際にもそうやって頑張って受け止めようとする人はいます。てか、大抵のカップルの場合、そうやって双方頑張るとは思うのですよ。自分にのしかかる相手の体重、それを幸福の重さと感じる幸福な瞬間もありますから。でも、そんなの永遠には続かない。やっぱ疲れてくるし、いい加減にしてくれって気分にもなるし。それが人間の普通でしょ。大抵の夫婦は「あれ?」でアテが外れたとか期待ハズレ感を折々に感じては、寂しく思ったりもしつつも、しゃーないな、これは自分でやるっきゃないかでやったりする。そして二人のバランスが微妙に修正され(良くも悪くも)、そうやってお互いに成長していくもんだと思います。それを諦めや妥協と呼ぶか、成長や高め合いと呼ぶかは視点設定ひとつ。んでも、依存性がキツイ人の場合、この修正が上手くいかず、共倒れになってしまう場合もあります。
あまりにも依存性が強い人の相手をしていて、一から十まで全部世話をしてると、だんだんと介護みたいな感じ、コトバ悪く言えば家畜の世話をしているような感じになるかもしれない。もう義務化、仕事化してきて、二人分の業務を果たさないとならないからクソ忙しいわ、だから効率的に回していかないとならないわ、スーパードライのビジネスライクになっていくわで、「はい、◯時になったらゴハン食べて〜」てな感じになったり。食べたくないとか面倒なこと言わないで、予定もあるんだから、食べてもらわないと後がつかえていて、しょうがないなあ、じゃあここに置いておくから、はあ、やれやれ、、とかそんな感じ。介護や幼児の虐待の土壌って、もしかしたらこういう部分にあるのかもしれない。
つまりインタラクティブにならないで、完全に一方通行になってしまうこと。そうなると仕事的な感じになって、やること自体に新鮮な緊張感も喜びも失われてきて、だんだんと面倒くさい雑務処理になっていく。仕事量が慢性的にオーバーフローしているときは、慢性的にイライラすることになるから、これ以上負担を増やされると動物的な憎悪が湧く。なんで自分ばっかりこんな働かないといけないんだ、まるで奴隷みたいじゃないかという不満もでてくる。自分は奴隷で、相手は家畜、ウィナーはいない。Win-Winどころか、Lose-Loseで最悪じゃん、いつまでこんな生活続くの?死ぬまで?はああ、、、てな感じなって、ああ、それでも人生は続く。そして続いていく中で次のドラマが生まれる。外で魅力的な人に出会ったりして、ああ、いいなこんな緊張感のある会話、こんなトキメキ久しぶりだわ〜、ああ、どんどん心が惹かれていく〜とかね。あるいは、なんでこんなことも出来ないんだ!と相手に対してブチ切れて、ついつい言い過ぎたり、やり過ぎたりする。
離婚という話になるのはこの後のステージです。長い物語、現在まで114巻発売中という「はじめの一歩」みたいな超長期連載マンガなんだけど、その近刊5巻くらいから話が始まる。一応形のうえでは、相手の不倫によって離婚したいとか、DVだとか、レスペクトされてない、モノみたいに扱われて蔑視されているのが耐えられないとか言うのだけど、じゃあ離婚しますかという話になると、いや、それは、、、と妙に口ごもる。
オノレは一体どうしたいんじゃあ〜!?って思うけど、これ、離婚が問題なのかどうか。ほんとのテーマはそこではないな。こんだけ依存性が強かったら、仮に離婚に成功して一人になっても生きていけるのか?という疑問がある。だいたい女性側の離婚をやる場合、大事なのは離婚後の新生活をどう成り立たせるかであり、それが80%を占めると思う。まずそれをキッチリ成り立つように調査し、準備を整え(子供の転校や、場合によっては住民票を移動させないで入学できるかを学校に打診することを含む)、離婚そのものは、そのための軍資金稼ぎのプロジェクトに過ぎないくらいに置いたほうがいい。人生は長いし、まだまだ続くのだから、そのあとどうする?が大事。優秀で、良心的な弁護士だったら、そこまで考えると思いますよ。
で、依存性が強かったら、相手を失うことは死を意味するくらいの恐怖だったりもするわけです。だから相手に従うしかない、その従順さがこちらには屈辱と不遇感を生み、相手には重荷と侮蔑を生むという悪循環が生じる。じゃあ解決は?といえば、あんたがしっかりするしかないでしょう?ってなる。しかし、しっかりしろと言われた途端にシャキッとしっかりするくらいなら最初から問題になってないです。そんなことは重々承知だったりするわけで、だからこそ根が深い。
そうなるとその依存性はどっから来るの?という話になる。話している分には、しっかりしてるし、そんなに何かが欠けているわけでもない、普通の一般の仕事くらいだったら十分こなせるだろうに、また別に怠惰なわけでもない。スペック的には何の問題もないのになぜ?となり、ここから先は僕のカミさんやら、心理カウンセラーの領域になりますな。なんかどっかに理由があるのでしょう。以前「弱さの罪」で書いたけど、弱さの問題は、弱くもないのに弱いと思い込んでいる錯覚にあるのだと。真剣に弱かったら(身体に障害があるとか)、逆にそれが起点になって強くなったりもするんだけど。依存性というのは、常に松葉杖をついているようなもので、本当はあるし、歩けるけど、片足が無いと思い込んでる。無いと思い込んでる限り、松葉杖は永久に必要であり、依存性は永久に治らない。難しいところですよねー。でも、これ誰でも(僕でも)、知らないうちに無いと思い込んでるところってあると思いますよ。
実務とはなにか〜消費者が賢くなるのが一番早い
でもここまで来るとですね、離婚相談とか離婚実務なのか?ってことになります。依存性は例えばの話で、他にもいろいろなパターンがあります。たとえば親との関係とか。これも自分と自分の親の関係(子供時代からの抑圧呪縛とか)、あるいは相手と相手の親との関係(マザコン、ファザコン)とか。意外と嫁姑は問題にならない。仲悪くて当たり前みたいな、子供の麻疹みたいな、想定されるから対応策もある。しかし想定外のケース、例えば女のマザコン、男のファザコンなんかはキツイですよ。母と娘が異様に仲良さそうなのは要注意とかいうけど、「姉妹と間違われるんですよ〜」とか嬉しそうに言ってる場合、母親のほうが精神的に成熟してなかったりして、常識的な話ができなかったりする。毎日、嫁さんの母親から職場に電話かかってきて、昨日のセックスは手抜きだったとか、もっと前戯に時間をかけろとか説教されるという、たまらんでしょう?そういう実例もあります(ほんとにあったのよ)。それを毎日母親に言う娘も娘だが、それを相手の職場に電話かけてくる母親も母親で、いやー、人間って本当に面白いですねって。
だもんで、一口に離婚といっても、離婚実務処理を進めていっていいの?そういう問題なの?という。だから、そこは本人と話し合いますよね。そうなの?と。でもって、そういう「そうなの?」系の相談ですが、実は多いです。その場合、誠実に実務処理をやればやるほど、逆に儲からないというパラドックスが生じます。深く立ちいらず、離婚のベルトコンベアのルーチンに載せて、はいはい〜で処理していって、はい一丁あがりっ!って済ませた方が報酬は入ってきます。儲かるね。そのあと離婚した当の本人が路頭に迷って子どもと無理心中しようとが知ったこっちゃないもんね〜ってやってた方が楽だし、カネは入るのですよ。でもなーと思うから、いいの?本当に離婚して?とか入り口部分であれこれ話になったりするのですね。
冒頭の話に戻りますが、心理カウンセラーの方は純粋にお話で完結します。だからこそ難しいともいえます。他の相談領域は、法律相談にせよ留学にせよ家の建て替えにせよ、そのあとの実務処理が待ってます。美容師さんが「今日はどうされますか〜?」と聞くようなもので、そのカウンセリングは処理方針の策定という意味があり、その後に実技が続く。だから営業というレベルでいうなら、なんでもかんでも実行させたほうがいいんですよね。実行させなかったらただの相談レベルで終わるし、それに多少のカウンセリング料が入るといっても微々たるものだしね。だから、そこをキッチリやってる人、良心的な職人さん、専門技術者ほど、逆に儲からないのですわ。安易に実行させないから。
医療事件のボランティアなんかでも賢い患者になれというポリシーになっていったりしました。世の中よくしようと思ったら、良心的な職業人を増やすことであり、それには消費者が賢くなるのが一番早いです。医療でも、良心的に頑張ってるお医者さんは実は沢山いますよ。でも、報われているかというと微妙なんですよね。極論かもしれないけど、生活習慣病なんか「身から出た錆」「自業自得」ですからね、これに対応するには、「死ぬほど痛い目にあって思い知る」か「お説教」しかないわけですよ。前者にいくまえに何とかして後者で済ませようとすれば、説教ばっかになるのですよ。それをうざがって、早く薬出せよ、検査しろよとかいって、被曝ばりばりの無駄な検査してもらって、薬ごっちゃりもらって安心しているような馬鹿な消費者ばっかりだったら、社会の水準は下がる。
そしてまた、良心的な職業人が人間的にナイスに見えるかというと必ずしもそうではないのが難しいところで、やたら厳し目に見えたり、ぶっきらぼうだったりもする。逆に非良心的で儲け主義のところは、腹くくってそれやってるだけあって、それはそれは広告も対応もナイスだったりするわけです。そこを賢く見極められるかどうか。また、値段が高いのが非良心的で、安いのが良心的ってもんでもないのですよ。
カウンセリングをやるときに、最初に、そして最後まで問題になり続けるのは、この種の啓蒙作業だと思います。依頼者に、この問題を解決できる、その解決が理解でき、実行できるくらい賢くなってもらわないとならない。専門的すぎて知らなくても良い領域も多々あるけど、最低限これだけは知って、実行してくれいってレベルがあるわけで、それを手を変え、品を変え、言葉を変え、比喩を変えてどう理解してもらうか、どう高めるかということで、一種の教育産業的な側面も持ちます。
今は世の中がどんどん複雑になって、金太郎飴的に一つわかれば全部同じって社会じゃなくなってきている。だからこそキメ細やかな相談事の重要性が高まるでしょう。それが商売として成り立つかどうかは、また別の話なんだけど、そういうスキルは誰でも磨いておいて良いだろうと思います。
文責:田村