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今週の一枚(2016/08/08)



Essay 786:Lost Faith

リオ五輪の雑感いろいろ

 写真はDarlinghurst。土地柄いかにも〜というグラフィーティー満載ビル。
 雨の合間の青空と相まって、なんかシュールな雰囲気だったので。わけのわからん夢に出てきた風景、みたいな。

盛り上がらないオリンピック

 リオのオリンピックが始まっちゃったようなんですけど、盛り上がってるんですかね?
 私個人としては、全くといっていいくらい盛り上がってなくて、昨日たまたまTVをつけたら〜つか普段はサブPCのディスプレイとして利用していたところ、たまたまリモコン操作でTVになっただけなんだけど〜、ちょうど開会式やってて、「おー、今日だったのね」と改めて思った次第です。開会式はいいですよね。世界にこんなにいろんな国があるんだーって、改めてうれしくなります。楽しそうだし、色とりどりだし、アフリカの国が入場してたんだけど(ウガンダだっけな)、軽く踊りながら歩いてて、そのダンスがえらいカッコ良かった。んでも「見た」といっても2−3分ですけど。

 なんでこんなに盛り上がらないのかなー?というと、まあ、ぶっちゃけ自分には関係ないからでしょう。じゃあ、逆に、なんでこれまでは自分の私生活には何の関係もないのに盛り上がっていたのかなー?というと、メディアに乗せられていたからでしょう。

 今回、盛り上がらない、というよりも「盛り上がりたくない」くらいに思っちゃうのは、ブラジルが経済、汚職、疫病、その他で大変なことになってて、よくそんな状態でやるよなーってこととは関係ないと思います。「それはそれ」だと。オープニングパレードでは、ぐちゃぐちゃになってるユークライン(ウクライナ)も、クーデター騒ぎがあったトルコも、結構選手たちは楽しそうで、「それはそれ」なんだろう。

 なにがイヤかというと、オリンピックのカネまみれ利権やら、メディアの胡散臭い盛り上げとか、結局誰も彼もが金儲けに利用しているだけじゃんって部分がイヤなんでしょう。いや、これまでだってそうだったし、政治性が絡むイヤらしさはモスクワとロスで東西それぞれにボイコット合戦やって見せつけられてきたんだけど、今はそれ以上に"enough is enough"(もうたくさんだ!ええ加減にせんかい)って気分があります。

 なぜ今が過去最高にイナフになってるのか?これは単独の原因ではなく、複数の要素がそれぞれにイヤ度を順調に上げてきて、現在マックス更新中だからだと思います。

失われたフェイス

フェイス(faith)という概念

 メディアに対する信用の低下、平たくいえば「信じられない」ってことですが、英語のフェイス"faith"って単語が一番近い。

 この"faith"って英単語、「信用」とか「信仰心」「忠誠心」とか意味がイマイチ捉えにくかったんだけど、映画「ジャッカル」で出てきてわかった気がする。暗殺者のブルース・ウィルスが、(犯罪に利用する)カモをゲットするため、ゲイが集うバーにいって男をナンパするんだけど、そこで相手のカモから(今度会うときはこちらから連絡するよと以前告げられていたのを受けて)「もう来てくれないかと思ったよ」と言われて、「キミは、もう少し人ってものを信じた方がいいよ」って言うのですが、そこで確か"You'd better have a little faith in people"とか言うのですね。これで、「あ、そんなニュアンスね」と腑に落ちた。なるほど!と。

 「信用」にはフェイス以外にトラスト(trust)もあるのですが、これは理性によって信頼性を判断しているニュアンスがあり、フェイスはもう少し感情的要素が強い。手を合わせて神様にお祈りするような、表層理性ではなく魂の奥底から発するような信用です。かといって、レリジャス(religious)ほど宗教一色ってわけでもない。

 トラストは、何かの具体的な対象があって、それをデーターその他を考慮した上で信じる感じ。資金運用手腕や実績を考えて信用するからトラスト・ファンド(信託)とか、この件については彼をトラストしていいだろうとか、「信頼できる業者」だったらトラストワーシィ(trustworthy)という。つまり信じるまでの前提になんらかの「査定」があるようなニュアンス。

 これ対し、フェイスは具体的な対象は問わず、まるごとその人やものを信じる感じ。なんかもう無条件に大切に思うというか、「信じる」とすら意識せずに頭からそーゆーもんだと思い込んでるような。

 ”faith of god”(神への信仰心)が典型的だけど、別に神様に限らない。何事かを「大切に思う気持」ってくらい漠然としてて、例えば「家族」「配偶者」というものにフェイスがあるというのは、それを大事な価値あるものだと考え、やや盲目的なまでにそれに従うというニュアンスになる。絶対浮気はしない!とか、家族の時間をなによりも優先するとかいうのは、それらにフェイスがあるから。フェイスの対象は何でもありうる。日本でも沢山あって、それは「仁義」とか「友達」とか「武士道」とか「義理」などにも言えるし、「自然」やら「世間」やら「仕事」にも言えるでしょう。例えば、日本人というのは、神や宗教へのフェイスは弱いが、仕事とか世間というものに対するフェイスは、他の国の人よりもちょと強いのかもしれないとかね。

 フェイスには「忠誠(心)」という訳語もあるんだけど、忠誠といってしまうと上下関係や身分ぽいニュアンスが出てきてしまって、ちょっと違ってくるのですよ。ドンピシャの日本語がないんだけど、知っておくと非常に便利な概念です。辞書には出てこないかしらんけど、僕の感じで一番近い日本語は「大切」かなあ?


 このうらびれたパレードのような地味な派手さはなんなんだろう。現実的なようで非現実的で、

失われたフェイス

 で、オリンピックについていえば、オリンピックというイベントとマスメディア、その両者に対するフェイスが、ここんところ落ちてますよってことです。

 まあ、マスメディアへのフェイスは70年代くらいから長期低落傾向にあったわけで、今に始まったことではないですけど、ここ数年の大本営も真っ青みたいな歪曲ぶりはスゴイですからねー。もっともオリンピック報道に関しては、政治や経済に関するほどひどくはない。取ってもいない金メダルを取った取ったと報道するようなことはさすがに無いでしょう。政治経済ではコレをやりますからね。安全でもないのに安全だとか言ったり、景気が激悪なんだけど「回復基調」とか言ったり。その昔、ボロ負けしてきゃーっと逃げてるだけなんだけど「戦略的撤退」とか言ったり、見渡す限り焼け野原にされても「損害軽微」という。なんでもそうだけど、10対ゼロで阪神がボロ負けしても、大スポは阪神「惜敗」といい、1対ゼロで辛勝しても「圧勝」と書くようなものですわ。昔っから嘘ばっか。まあ「嘘も芸のうち」って感じよね。

 その意味で「もう慣れっこ」っちゃ慣れっこですわ。だから、ここで嫌気がさしているのは、信憑性云々ではなく、メディアミックスと呼ばれる全体の構造だと思います。メディアミックスというのは昔からあるマーケティングの方法論ですが、とある商品を売るために宣伝広告をするわけです。でもそれだけは足りないので、世間の注目が集まるように、そういうブームを人為的に作ってしまえと。例えば、「釣り」を流行らそうと思ったら、釣りの面白さをフィーチャーしたTVドラマや映画を作らせて、それを膨大な広告費で宣伝して、人気のある芸能人などにインタビューで「最近、釣りに凝ってましてね」と答えさせて、今釣りが一番お洒落であるとばかりに雑誌で大々的に特集を組ませ、渋谷とか銀座あたりに新しいコンセプトの釣り道具屋を開店させ、それをまたメディアに取材させ、さりげにドラマの舞台にしたりして、、、と畳み掛けるように何層にも厚く塗りたくって、皆を洗脳して大金叩いて買わせて、皆でがっぽり儲けましょうと。ある程度仕掛けたら、あとは勝手に廻りますからね。特に日本のように猫も杓子も系の人達は踊らせやすい。

 直近過去を振り返って、これは仕掛けてブームにしたな、これはオーガニックな自然発生的なものだなとか、いろいろ分類してみると面白いですよ。この種の仕掛けは、あざといっちゃあざといし、詐欺っちゃ詐欺なんだけど、まあそんなに目くじら立てることもあるまいよって感じだし、バブルの頃(資金が潤沢にあった頃)に一応出尽くした感があって、今はもう「まだやってんのか」って感じですらあります。それどころか貧すれば鈍するみたいに、だんだん目論見が露骨になって、ブームもお仕着せがましくなってきて、うんざり感が強まってきました。2年前のワールドカップの空疎なお祭り騒ぎと、結果論的に手のひら返しで可哀想な本田選手を叩いたりでげんなりした人もいたかと思います(僕もそう)。

 そしてオリンピックだけど、日本だけの問題ではなく、オリンピックというカネまみれの腐敗の構造そのものが世界的に明らかになってきて、昔みたいに純粋に喜べなくなった。昔は皆が純粋だったというよりも、頭が悪かったというか(笑)、まだそこまであざとい仕掛けを思いつかなったのでしょう。もっぱら国威発揚的な、敗戦とか経済ダメぽでコンプレックスに打ちひしがれている国民を励ますという効用もあるにはあったのでしょう。もちろんその頃から利権話はあっただろうし、今よりもドギツかったかもしれないけど、トータルでいえばプラスがマイナスを上回った感じもする。札幌冬季オリンピックなんか、結構皆さん(僕も)無邪気に喜んでましたけどねー。でも、長野の頃になったら、当時の長野県知事が人間的にアレだったとか、西武の国土開発のエグいやり方とか、濁ったニュアンスがちらほらしてきたような気がします。

 でもって、招致国決定のための接待攻勢やら札束爆撃でだんだん世界中がうんざりしてきている。それに輪をかけて、来るべき東京オリンピックは、その決定から現在にいたるまで胡散臭さ満載ですよね。アンダーコントロールの世界史に残る大嘘はつくわ、ロゴはパクるわ、設計はパクるわ、聖火台は無いわ、要するに利権さえゲットすればあとはどうでもいいというのが露骨過ぎて、にもかかわらず(だからこそ、と言うべきか)予算だけ無駄に数倍増えまくっているという。でもって利権争いの内ゲバで負けると猪瀬君みたいにスキャンダルにまみれ、舛添君も多分そうかも。うんざりですわ。

 にもかかわらず、メディアでは「頑張れ、ニッポン」的な報道がなされているのでしょう。そりゃまあ、クソ高い放映権買わされているんだから、やるしかないよなー。といっても、ここ10年以上日本のメディアはマトモに見る気がしないのでリアルには分からないけど、くさやの干物よりも臭い感じになってるのでしょう。胡散臭いを通り越えて、おぞましい気すらします。触るとかぶれる漆の木、みたいな。

 ということで、メディアに対するフェイスが失われてます。今ではメディアが報道していることを批判的に検討するという段階を越えてます。つまり、一応その報道自体は受け入れつつも、でもどっかしら偏ってるんじゃないかとチェックするというレベルではない。メディアが書いているというだけで、もうマイナス。人に例えれば、Aさんの話は大体あたってるけど、時々先走ったり、話を盛ったりするからなーってレベルではない。おい、またホラッチョのBが何か言ってるぞ、どうせまた嘘だろ?聴くだけ時間の無駄だろ、てか、なんで今頃そんなこと言い出すんだよ、なんか話を逸らしたいんじゃないの?じゃあ、何を隠しているんだ?という感じで、以前はメディア=解答だったのが、今ではメディア=出題問題みたいになっている。はいここで問題です、この報道のどこに虚偽があるでしょうか、あるいはこの報道を敢えて行う隠された意図はなんでしょうか?という。クイズの時間みたいな。

 そうは言っても、まだテレビや新聞にフェイスを抱いている人がマジョリティなのでしょう。98%くらいはそうかも。うっすら疑惑を感じてるいるくらいだったら過半数を超えているかと思うけど、なんだかんだいってそれでもテレビを見てしまう人(でもって知らない間に影響されちゃう人)でいえば9割は軽く超えるかも。現時点で、テレビを見る人というのは、素朴な実感でいえば、未だに縄文時代の竪穴式住居に住んでいる人、とまで言ったら言い過ぎだけど(笑)。

ほんとに知りたいこと、知るべきこと

知らない権利

 知る権利という概念はあるけど、知らない権利もあるのではないか。詰まらんことを耳に吹きこまないでもらう権利。

 もっと言えば、受動的な世界観を強制されない権利。いまこの世界/社会はこうなっているんだよ〜と、僕らは何となく知ってますけど、本当かよ?です。もっと他に知るべきことがあるんじゃないのか、その見え方って偏ってないか?と。その昔は、新聞やテレビのニュースや解説をみるのが、一人前の社会人の知的条件だったりしたんだけど、今はその逆かもしれないです。前は、この世に生起するさまざまな現象のうち、これは知っておいた方が良いということをメディア側が取捨選択し、編集し、公平な視点で報道し、わかりやすく解説するっていう社会の木鐸(=指導者)という本来のジャーナリズムを発揮してたと言われています。本当にそうだったのかどうかは検証の余地があるから「言われていた」と書いておきますが、まあ、ある程度はそれらしきことをしてたとは思う。

 でも、まあ、長じるにつれ社会の実相や諸相を見聞する機会が増え、それによって見え方も変わってきたし、今も日々変わってます。今思うのは、自分においても、けっこう刷り込まれている部分が多いなーということです。例えば、日本を出るまでは、国際とか世界という概念イコール米国だったりしたわけです。全部とは言わないけど7割くらいがアメリカで、あとの3割がヨーロッパや中国やロシアその他。でも、こっちにきて、つまり間違っても世界の桧舞台になりそうもないオーストラリアに来て、いろんな民族と一緒にバスに揺られたり、カフェに座ってたりすると、アメリカの存在って別にそんなに大きくないなーとも思います。

 いや実際、政治や経済の構造でいえば、かなり大きな影響力を占めるのですけど、でも見方をちょっとズラしたら、別に政治と経済で世の中が回ってるわけでもないのですよね。例えば、高校時代に部活やったり、趣味でがびーん発見があったり、恋をしたりして、すったもんだやったりするわけですけど、そういった個々人の人生のリアルにおいて、政治と経済ってどんな影響力を持っているのか?という、これは見方一つだと思いますよ。そりゃ、政治がダメで自分の住んでる地域が戦場になったら高校生活もクソもないわけだし、経済がダメになって親が失業したら高校中退して働きに出るとか、そこまで極端でなくても読まされている教科書の内容が変わるとか、補助金減らされて校舎がボロいままだとか、その意味でいえば、なにからなにまで政治と経済に支配されてはいるでしょう。しかし、ひとりの人間の生活実感としては、そんなもん外的環境=お天気とか地震とかストで電車が止まったとか=に過ぎず、それほどの比重は占めない。

 それと同じで、アメリカの影響力というのは、一面ではものすごく大きいけど、他面においては限りなくゼロに近い。そりゃハリウッドとか音楽とかアップルなどはアメリカ発だけど、あれは国というよりも企業の話だし、それもまた環境にすぎない。個人レベルで大事なのは、そんなことじゃなくて、最近親とうまくいってないとか、◯◯に熱中しているとか、将来の自分がよく見えないとかそういうことで、活動レベルではもうすぐ県大会だからしまっていこうぜとか、来週のコンペは気合が入るぜとか、今月またピンチだぜとか、そういうことです。

 そんなことが世界のあちこちで70億人分やってるわけで、そういった膨大でリアルな生活質量を考えて見た場合、メディア先生の説いておられる「国際情勢」とやらに、いったいどれほどの価値があるのだろうか?ゼロではないですよ、もちろん。でも100ではないよ。もしかしたら、いいとこ2か3くらいかもしれない。

DIY世界観

 なんか偏ってんじゃない?違うんじゃない?もっと、自分にとって知る必要のあることってあるんじゃないの?って気分は前からあって、いっぺん、もうゼロから自分で作りなおしたほうがいいんじゃないかとも思います。

 例えば、最近残業が多い、夜遅く一人で帰ることが多いんだけど、夜道が不安だという場合、知りたいことは駅裏のいつものルートの治安の実際だと思う。当たり前すぎていちいちマスコミには載らないんだけど、先週は何件痴漢の報告があったとか、その手口はどうとか、何曜日が多いとか、そういうことこそ知りたい。超有名だけど会ったこともないし、多分一生会わないだろうどっかの芸能人が覚せい剤で捕まったとか、そういうことじゃない。そんなの単にランチタイムの世間話のネタでしかなく、世間話のネタなんかわざわざメディアに提供してもらう必要なんかない。でも、世間ではもうそれ一色の報道になって、皆その話をして、それが社会人として知っておくべきこと、「社会でリアルタイムに生じている事象なのだ」とか言われてもねー、そうかよ?って思うぞ。

 そんなくだらないことで世間像なり社会像、ひいては自分の世界観を作らないでほしいわ、余計なこと吹き込まれると自分の世界観のバランスが悪くなる。今話題になってるポケモンGOがどうしたとかいうのも、あんなことが「知るべきこと」なのかい?僕は全然キョーミないし、海外でも〜とか言われるけど、シドニーでやってる人なんか一人も見たことないぞ。どこにいけばやってるのかも知らないし、別に知りたくもない。てかね、そもそもポケモンとかで貴重な脳細胞の無駄遣いをさせないでほしい。ただでさえ頭悪いんだから、これ以上余計な負担はかけないでください。

 僕が知りたいのはリアルな世界のありようです。例えば、カザフスタンでヘビメタバンドをやってプロを目指している連中って、どこで練習してるの?貸しスタジオとかあんの?ギター何を使ってるの?とか、文化祭でやるともっと高校生らしいのやれとか怒られるの?てか文化祭とかあんの?とか、そんなことです。世界をありのままに見たいんだわ。バリバリのイスラム教国とか言われてても、本当かよ?って思うし、信心深い高齢者は「最近の若いもんは信心が足らん」とか文句言ってるのかとか、熱心にやってるように見える宗教儀式(ラマダンとか)も、僕らの法事みたいに、イヤイヤ参加させられてる奴とかいるんじゃないのか?説教の最中に退屈でスマホとかやってるんじゃないのか?それが発覚してスマホ没収されたりしてるんじゃないのか?です。

 だもんで、日本ないし世界のメディアが「今、世界はこうなっている!」と大々的に報道したとしても、「ふーん?」と思うようになりました。信じない。911のテロだって、あれが真実か陰謀かはともかく、たかが旅客機がビルにぶつかっただけだろ?という見方だって出来るわけですよ。それどころじゃないくらいドンパチやってるエリアは地球にいくらでもあるし、そもそもアメリカだって空爆何万回もやってるわけでしょう?旅客機がぶつかるのと、軍事用飛行機が意図的に爆撃するのとでは後者の方がはるかに悪質だし、ヤバいでしょう。それが1回対何万回だったら、報道比率も911の何万倍も報道しなきゃバランスが悪いでしょうが。それがバランス悪いと感じない時点で、もう狂ってるじゃんか、と。受動的に世界観を作らされている。

 911で貿易センターが崩壊したといっても、これを別の国から見てたら、あるいは神やら宇宙人やら人間以外の他の動物からみてたら、それほど大事件なのかい?って見方もアリだと思うのですよ。あんなの「些細な出来事」というものの見方もあるんじゃないか。それを、当然のように空前絶後の大事件として仕立てあげるのは、何らかの思惑あってのことだろうし、メディアもしっかりその片棒担いでいるだろう。そして、その疑惑を暴く諸論があるわけですが、それとてそれが大事件であるというフレームワークからは逃れられていない。陰謀論ですら、思考のフォーマットがメディアで与えられたものだったりする。

 こういったリアルな世界観は、メディアによってだけでは形成されにくい。もちろん世界には(日本にも)優秀なジャーナリストは沢山いるし、地道な調査をまとめた労作ルポを上梓したりもしています。頭下がるし、レスペクトもします。でも、ジャーナリスティックな価値がゼロだとしても、尚も自分にとっては意味があることは多い。てか、そんなのばっかでしょう。片思い中の人は、あの人が私にことをどう思っているのか?という情報は、宇宙一個分くらいの重要な価値を持つでしょうが、ジャーナリスティック的には無価値です。

 ハッキリ言っちゃえば、僕らは、報道される価値のない事象の中で生きているわけです。自分ないし直近周囲がメディアの注目を浴びるなんてことは、死ぬまでに一度あるかないかでしょう。てか普通ないよ。せいぜい自分の通ってた学校でいじめによる自殺があって、週刊誌や新聞が取材に来て、、くらいじゃない?それか、勤めている会社で汚職があったとか、その種の関係くらいでしょう。だからといって自分が当事者でなければ、それほどのことはないし、あっても日常からしたらハレの非日常だし、またそこで報道されている興味本位のあれこれが事態を正確に伝えているかどうかも怪しい。じゃあ、何のためにやってんのよ?そんなガラクタジャンクばっかで自分の世界観が構築されてしまっていいのかよ?って思う。

 結局、優秀なジャーナリズムはそれはそれとして大事なことだと思うけど、それだけで自分の世界を作ってはいかんのだろう。そして、それをフォローするのは、その数倍、数百倍の質量をもつ、ジャーナリスティック的には無価値な事実であり、その経験だと思います。その意味でいえば、正しく世界を知りたいなら、国際情勢を勉強するのもさることながら、旅をするのが一番手っ取り早いのかもしれない。それも商業主義に乗せられて、名所旧跡を巡るのではなく、地元の人が普通に行くスーパーや売店に入って、同じようなものを食って、ローカルの人の生活実感やその考え方や波長にシンクロさせていくことの方が意味あると思います。

 僕も最初にオーストラリアにやってきて、且つ海外体験がほぼゼロだったこともあいまって、それまで漠然と思っていた海外のあれこれについては「ほとんど全部嘘だったのね」というのにガビーンとなったもんです。海外では食事中に絶対に食器の音を立てないとか、立ててるじゃん。見ると聴くとは大違いですわ。今でも、毎週のようにやってくる人達に、「オーストラリアは◯◯って書いてありましたけど」と質問されて、「そんなのどこに書いてあったの?」「めっちゃ初耳」ってことがよくあります。別に嘘というつもりは無いが、すごーく限られた局面における限られた事象であって一般化するのは無理がある。それは例えば日本にホームステイしたオージーが、たまたまその家が超敬虔な創価学会員で、毎朝ナンミョーと勤行やってて、「日本人は全員これをやっている」と思ってしまうのと同じ。

 ま、いずれにせよ、地球と自分のサイズを比べてみれば、また70億人という気が遠くなるような数を考えてみれば、ウィルスのような存在である自分に、その全てが過不足なく理解できるわけがないです。絶対、ヘンテコな世界観を作っているに決まってます。でも、ヘンテコであろうが、偏見バリバリであろうが、自前のものを作りたい。自分で触れて、体験して、考えたもので作りたい。その上で他人の意見や報道や学術研究は大いに参考にしますけど、でもあくまで参考。それを子供の頃からの洗脳マシンみたいなテレビその他によって、頭から「こういうもの」って思わされてしまうのは、いい加減やめにしたいなーってことです。

ありのままのオリンピック

世界は毎日集っている

 さて、オリンピックの話に戻りますけど、なんの前提も先入観もなしに考えると、別にそんなにスポーツやってるわけでもない自分からしたら、スポーツ大会そのものにそんなに興味もないです。誰が一等賞を取ったということも同じく。それは中学校の頃、他のクラスの誰か知らない奴が、県の絵画コンクールで入賞したとかいうくらいの距離のある話。

 ただ、世界の人達が平和に一同に会するのはいいもんだよねーって思います。でも、だったら国連の各委員会の活動をリアルタイムで24時間流してくれていてもいいわけですし、世界大会は別にオリンピックだけではない。ほかにもいくらでもある。毎日世界中の何十箇所でなんたら世界大会がおこなれているのだ。

 一方、選手にとっては事実上一生に一度の晴れの舞台であり、そこでの健闘を期待したり、応援するのは人として当然だろというのは一応わかります。が、異論もある。「他人の努力を応援しろ」というのであれば、就活や入試会場に向かう受験生全員応援してやりたいですよ、彼らの営みがオリンピックよりも価値が低いとは僕は思わない。

4年に一度じゃないよ

 一方、世界の桧舞台で4年に一度、、、という部分ですが、実は意外とそうじゃないんじゃないかって気もしてます。というのはシドニーオリンピックのときに、知り合いの知り合いくらいの関係で出場選手の方がうちに遊びにきて、試合も見に行ったのですが、そこで彼らの生の感じを多少見聞する機会がありました。そこでは、世界のトップクラスの連中はもう顔なじみで、高校時代の友達みたいな感じでフランクにやってて、オリンピックが終わったら来月は◯◯で◯◯大会があるから行かなきゃって感じで、年がら年中なんかやってるんですよね。だから彼らにしてみたら、一連の活動のなかの一つに過ぎない。バンドでいえば、日々のライブハウスやコンサートの連続のなかで、たまたまある日はコンテストだったくらいの感じ。

 だから4年に一度の〜!って力が入ってるのは当の本人ではなく外野であり、それもそれに半端ないお金がかかってるメディアとか関連産業の人達じゃないのか?買わせるため、売りつけるために、すごーくドラマチックに仕立てて、感動満載にしてるんじゃないのか?って気がします。

 なんとなく腑に落ちるのは、僕も弁護士時代、メディアに注目された事件もやりました。記者会見もやったことがあります。だから、ここ一番の法廷とか、勝負の〜とかもあるんですけど、やってる本人からしたら、めちゃくちゃ数ある日常の仕事の一件に過ぎません。その法廷が終わったら、その足で別の打ち合わせに出向いたり、別の階の別の法廷に行ったりするわけで、そこでの力の入れようは均等です。別に有名な事件だけに力こぶが入って、それだけ富士山のように突出しているわけでもなんでもないんです。全然同じなんです。たまたま事案の性質上、メディアの注目を集めたというだけの話で、それ以上でもそれ以下でもない。だから、オリンピックも、やってる本人たちからしたら、そんなもんなんかもねーって気がします。でもそれじゃドラマとして熱くならないから、4年後の◯◯を目指して〜って言うでしょう。僕が思うに、実際には、そんな4年後だけとか、オリンピックだけとかは見てないだろうし、無数にある目の前の試合やら、調整やら、練習やらを一生懸命やってるだけだと思います。

 もっともオリンピックで金メダル取れば、その後の人生の就職などで断然有利になったりもするでしょうけど、そんなのは他人の老後の設計や、キャリアプランの話であって、第三者が気にすることでもないし、また気にしないのが礼儀でしょ?

下手な方がリアルに面白い

 あとオリンピックでいえば、シドニーの時に、ぜーんぜん知らなかった競技を見ました。近代五種とか、バトミントンとか、アーチェリーとか。面白かったですよー。アーチェリーは韓国がずば抜けて強いとか、バドミントンはインドネシアが強いとか、全然知らんかったもんね。見てて面白かった。近代五種の乗馬競技とかもすごい面白い。でもね、その面白さは、別にオリンピックだから面白いわけでもなんでもなくて、その競技そのものが面白いのですよね。つまりは、河原の土手で他人の草野球見てて面白いという話と同じことなんです。知らなかったことを知る楽しみ、他人がなんか一生懸命やってるのを見る楽しみです。だから、別にオリンピックである必要もないと。スポーツ大会や試合は、年がら年中世界各地でやってるわけで、それをもっと見ればいいだけのことなんだなーってのはわかった。

 それにそのものの醍醐味や難しさを素人が実感するためには、むしろ普通よりもちょい上手いくらいのレベル、オリンピックからみたら話にならないビギナーに毛が生えたくらいのレベルのほうが参考になります。あまりにもトップレベルだけ見てると、なんかすごすぎてしまって、逆に自然になってしまって、あんまり感動はない。多分、ヘタクソな連中の普通の人の普通のプレイを散々見て目を慣らしてから、出場選手のプレイをみたら感動すると思います。

 そういえば、シドニーのときも、女子マラソンを見に行ったんですけど(高橋尚子が優勝したとき)、トップランナーレベルになると淡々と走ってて、「あー、走ってるなー」くらいのことで凄さがよくわからない。でも、中継車では絶対映らない下位ランナーとかも現場では見えるのですが、それがもう鬼気迫るというか、半分歩いてるくらいなんだけど、ものすごい緊迫感があったのです。もう「交通事故の現場を見ちゃった」くらいのインパクトで、おいいい加減やめさせてやれよ、この人死んじゃうよ、なんとかしろよ、痛々しすぎるよって。それでわかった。ああ、こんなに激しいことをやってるんだーって。

 音楽もそうですけど、巧すぎるプロばっか見てるとわからんすよ。下手な素人バンドを沢山見るほうが面白いです。リアルに音楽が分かる。モニターしょぼくて自分の音すら聞こえないようなステージで、全員がリズムを合わせて一曲をやるというクソ当たり前のことさえ、それがどれだけ難易度が高いことなのかがよくわかるから。

 オリンピックの水泳なんかでも、テレビで見る限り、別にただ泳いでるだけですからねー。何がスゴイのかよくわからんです。これが、一人か二人「普通人代表」で、普通の人だとこんなもんって比較のために泳いでくれるといいんですけど。まあ、そんな噛ませ犬みたいな役目は誰もやりたくないでしょうけどね(笑)。


 これで終わるつもりだったけど、もう1パラグラフくらいまとめっぽいのを入れたらいいかな。別にまとめもないんだけど、別に僕がこう書いたからといって、盛り上がらないのが良識ある市民のありようだなんて思う必要はないです。来週になったら僕も盛り上がってるかもしれないしね。

 でも、これにこんなお祭り騒ぎするなら、普通の日本大会(全国大会)もっとやってもいいじゃんって思います。前にもちょっと書いたけど、国体なんかもう「え、まだやってるの?」レベルの知名度だしね。2016年の今年はどこでやるか知ってますか?「希望郷いわて大会」というらしいです。10月からです。

 それかインターハイとかさ。柔道の金鷲旗とか。昔からマンガ読んでて不思議だったのだが、「キャプテン」でも「ドカベン」でも普通の地区大会に実況中継とかあるのよね。あんなのどこでやってるの?スラムダンクでも地区大会だけでどんだけ大変かよくわかるし、それが全国大会ともなると凄まじいレベルなんだろうなーと。そして、さっきと重複するけど、そのくらいのレベルの方が見てて面白いのですよね。もっとガンガンやればいいのにと。

 まあ、間違ってもそんなに視聴率取れないでしょうけどね。でも「明るい農村」とか「宗教の時間」とか、レアでコアなんだけどそれでもやってる番組、素材ゴロンと転がすだけの番組のほうが面白いです。押し付けがないから。素材だけだから、ワイドショーみたいに料理して食べやすくしてくれてないから、消化しにくいんだろうけど、でもその料理の仕方が、ダサいし、下手だし、味付けクソだし、添加物とか毒物入ってそうだし、いらんわって話です。

 とはいっても、電波有限、テレビ局の数も決まっているのにそんなの出来るわけないでしょう。でも電波無限だもん。携帯電話の周波数だって世界で何十億本あると思っているのだ。なんでテレビだけNHKと民放数局だけなのだ。ま、それが利権ってもんですよね。でもって、視聴率やら広告費を稼ぐというビジネスモデルそれ自体もう古いんじゃないの〜という気もしますな。ま、そのあたりは別の話です。

 ただ思うのは、面白いもんなんか何もオリンピックなんて世界最高峰をみなくたって、そのへんに普通にいくらでも転がってるんじゃないの?と。むしろ、あそこまで最高峰になってしまうと逆に面白さが分かりにくいから効率悪いんじゃないか、とか。まあ、みなで同じ話題になって、かりそめの連帯感に浸りたいなら別にいいけど、ふーん、かりそめでも、ニセモノでもいいんだー?って思っちゃいますけど。でも、ま、それはまた別の話。



 青空とのコントラストがシュール


 これもまた、夢に出てくるような路地風景 






 文責:田村




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