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今週の一枚(2016/08/01)



Essay 785:しらない間に自己暗示

恐怖心象とガラスの世界観

 写真、何度か紹介しているBar Italia。イタリア人の街ライカード(Leichhard)の老舗カフェでジェラートが美味い。
 正直いってジェラート以外は、そんなに飛び抜けて美味いってことはないのだけど、それでも長所が4つ。第一、比較的安いということ。第二に営業時間が長いこと(朝の8時〜23時まで)。これは重宝します。カフェは大体午後3時くらいで閉まってしまうので、夜にコーヒーだけ飲みたくなった時に難儀するので(開いてる店もあるけど、スタバとか論外レベルが多い)。3つめは店舗が広くカジュアルなので、気楽に居場所決めをできること。店の前歩道テラスから、コートヤードと呼ばれる裏庭まで、まるで大学の学食みたいに気分で場所を決められる。

 4つ目は、これも気分に関するのだけど、タタズマイ(佇まい)がいい。「ちょっとうらびれた本物感」というか、ビジネスやマーケ的に「作られていない」感じが好き。カッコつけてない、嘘がないというか。深川の昔からそのまんまの佇まいの”きんつば”店に座っているみたいな、うらびれてる感、シャビーな感じなんだけど、別に不潔とか手を抜いてるわけではないので(てか、それなりに飾り付けとかは一生懸命やってるんだけど)、全然不快ではない。むしろ昔からの営みが積み重なって自然とこうなりましたって、「狙ってそうしているわけではない」オーガニックな感じがいい。自然と関節がゆるんで、リラックスできる。古い江戸言葉でいえば、要するに「渋い」。消費者も進化して、渋味がわかるようになってきてますからね。僕ゴトキでさえ、こんなことを口走る世の中ですからね。「いかにも〜」という「お子ちゃま仕様」はねー、ちょっとねーという。

ちゃっちゃ〜と

 ここんところエッセイの書き方を変えています。読み手にはわからないかもしれないけど、書き手からしたらかなり画期的な。

 何が違うかというと、制限時間を設けるようになった点です。具体的には日曜日の午後とか夕方から書き始めて、翌朝締め切りにする。半日で仕上げろと。半日というか、寝る時間やら夕食その他の時間もありますから、具体的には数時間ですけど。

 以前は、土日丸々使ってたり、場合によっては一週間の半分くらいネタ探しやら推敲やらに充てて完成度をあげようとしてたこともあります。それはそれで意味あったとは思いますが、でも今は禁じ手にしました。

 なぜかというと、長いことやってるアクティビティというのは、意識的にハードルを上げてかなきゃなーと思ったのが一つ。もーね、長いことやってんだからさ、「こんなもん、数時間で仕上げちゃいな!」って自分に問いかけてみたら、「それもそうだな」と。こんな程度で手こずってようではダサいよなーと。

 もう一つは、より突き放して見えるようになった点です。ハードルを上げる事に類似しているんですけど、それなりに心血注いでやってたりするわけですが、でも、同時に「大したこっちゃねーよ」と足蹴にするような感じ。

 ここの表現が難しいんですけど、、、、えーと、なにかを大切に思うのは良いことですよ、仕事でも、友達でも、家族でもなんでも大切に思い、丁寧に、時間をかけて扱う。すごい大事。

 だ・け・ど、その大事さに酔いしれたらアカンよね。「大事なこと」やってるんだから俺の日々の生活は充実してるんだとか(そうなんだろうけどさ)、「価値あること」をやってるんだから、他の多少のことは出来なくてもいいやとか、なんか正当化とか言い訳に使い始めたりするじゃん?人間って。そしてその大事さが、今度は心理的な負担になってみたりして。義務感や価値観はそれはそれで尊いことですよ。でもそれに呑まれたらあかんでしょう。

 だから、「なんだ、こんなもん、えいっ!」って多少足蹴にするくらいでいいやと。本当に大事だったら、多少足蹴にしたって、一定レベルの水準はちゃんとキープするだろうし、いくら手を抜いても自然にそのレベルはキープできるくらいでないとダメだろう。腫れ物に触るように、金科玉条の御本尊様のように崇めてたら、それは違うだろう。神聖になっちゃダメ、神棚にあげちゃダメ、どーせ大したことやってるわけじゃないんだから。レベルは下げないけど、精神的な重要性はダイエットしていく。これ仕事でも、勉強でも、人間関係でもなんでもそうだと思うけど。

 そのあたりの意識もあって、「こんなもなあ、ちゃっちゃっちゃ〜と書いちまいなっ!」って感じで書いてます。ここ10回くらいはそうかなあ。

 あ、あともう一つあったわ。書く前に「ネタを決めない」ということです。いやいや、決めたらアカンってことはないんだけど、決めずに書き始めるのも全然OK、てかむしろそっちがスタンダード。書き始めて、「えー、こんちまたお日柄も良く」「しかし、なんでございますねえ」って落語の出だしのマクラ部分みたいなことを書いているうちに、段々それらしきテーマが落っこちてきて、ほんじゃそれ書きますかって感じになって書いていくと。読んでる分にはわからないかもしれませんね。あとで推敲するときに「えー、こんちまた、、」部分はバッサリ削除して、「今回は◯◯について書きます」と書き換えてますから、最初からそれを書くつもりで書いているみたいに読めるでしょう。その方が読みやすいし、最初の数行で内容が把握できるから「興味ねえな」って人はそこでお引き取りいただけるわけですし。ただ制作過程はそうではないと。

 ネタを決めないのも、「手なりで適当に書いちゃいな」ってハードルでもあります。メニューを決めずに、冷蔵庫開いて「ありあわせでなんか作れ」って感じね。そんくらい出来るだろって。

 ということで、今回はこれで終わりにします、、、ってこともアリにしようかと思います。このくらいのボリュームと内容が必要だとかいうのも自分の「決め付け」ですしね、知らない間に自分で作った既成概念に自分がとらわれるというアホなことになってたりもするし。3行くらい書いて、それで終わりって回もあっていいかと(まあ、ないだろうけど)。

 総じて言えることは、自分がやってる事柄に自分で縛られないってことです。同じことを連続していると、だんだんトランス状態みたいになってきて、それが当たり前になってきて、それが楽ではあるのですが、それが制約になることもあります。発想や行動の幅が狭まってしまう。これは良くない。

 もっと一般化すれば、自分の言動って、一種の自己催眠だと思うのですよ。あ、そろそろテーマが降りてきたみたいですね。章立てして、今回はこれでいったろ。

知らない間に自己催眠

自覚というアイデンティティ洗脳


 自己行動による自己催眠=自分が言ったこと、やってることに自分が暗示や催眠にかかってしまうこと。

 そんなことあるかというと、あるある、めっちゃある。この世の殆どがそうかもしれない。

 極端な話をすれば、人を殺せ、これは正義の殺人なんだ、あいつらは殺してもいいんだと幾ら口を酸っぱくして説得しても、そうは「うん、わかった」とは言えないと思うのですよ。ましてや実際に、血しぶきが舞って、内臓がぶちまけられてって修羅場において機械的に黙々と殺すことなんかできないですよ。でもね、軍服着せて、行進させて、戦場いって銃を持たせたら、結構普通に撃ったり、殺せたりできる。いいも悪いもなくて、戦闘服着て、銃持って、森林やら平原やらを歩いているという自分の行動を、自分で否定できなくなってしまって、あとはオートマティックに流れでいってしまう。

 上の例は極端だけど、濃度を希釈していけば日常でもありますよ。例えばユニフォーム。衣装や外観というのは、アンディティティにかなり影響を与える。そういうカッコをさせれば、そういう気分になる。ビシっとフォーマルなタキシードやイブニングドレスを着せればそういう気分になり、そういう人格っぽくなる。文化祭や余興で無理やり女装させられたら目覚めちゃったって人もいるだろう。男の子だったら棒きれ一本持たせるだけで、さりげに腰がずしっと沈んで心地よい戦闘モードになってみたり。誰であれ、ピストルや日本刀持たせたら、世の中の見え方変わる。小学校の頃のフォークダンスで、たまたまペアになった女の子と手をつないで、その手の温度や妙に汗ばんだ感じやらがキッカケで微妙に意識するようになったり。

 自分が何かをした、現実にそういう状況や体験をしたことで、アイデンティティや発想が上書きされるということがよくあります。客観によって主観が変わる。むしろそちらがノーマルで、主観によって主観を変える方が難しい(そう思い込もうと自分でやっても、なかなかそう思えない)。主観を変えたかったら、まず客観を変えろ。古い日本のフレーズで「まずカタチから入れ」というのがあるけど、それにニアリーな部分はあると思います。

 時として、強烈にアイデンティティが上書きされてしまうこともあります。例えば、1秒前まで自分はいわゆる「普通の市民」だと思っていたのが、うっかりブレーキを踏み損ねて人をはねてしまって、怖くなってひき逃げをしてしまったら、その瞬間から自分のアイデンティティは「ひき逃げ犯」「犯罪者」になるでしょう。普通の主婦やってたつもりが、なんかの二次会で酔った勢いでアヤマチを犯してしまって、一回だけとはいえ不倫しちゃって、「私はそういう女」「世間に後ろ指をさされることをしてしまった人間」というアイデンティティになるという。

 ネガではなくポジもあります。なんかの拍子に褒められたとか、昇進したとか、合格したとかいって有頂天になって、「俺は選ばれた人間なんだ」とか「勝ち組なんだ」とかいう自己暗示にかかってしまう。こういうのは気持いいから、積極的にかかるような気がするけど(笑)。

 そこまでわかりやすい例ではなく、濃度は薄いんだけど、でも毎日やってるから積み重なっていくことがあります。「慣れ」と呼ばれる現象ですが、「そういうことをしている自分」ってのにも慣れていって、段々それっぽい人間になっていってしまう。最初は友達の付き添いとか見学くらいの軽い気持ちで部活やサークルを見学にいって、流れで体験入部することになって、それが「体験」が取れて、なしくずしにメンバーになっていって、仲間として受け入れられて、皆といっしょにランニングしたり同じユニフォーム着て喜怒哀楽をともにしていると、傍からみてればレッキとした「◯◯部員」であり、次第にはそれが自分のアイデンティティなる。やがて上級生になる頃にはバリバリそうなっていて、OBになったら「伝統あるわが◯◯部は〜」なんて言っているという。

 最初は滑り止めというか、あからさまに失望丸出しで入った会社も、毎日電車に揺られて通ってれば、そーゆーもんだになっていって、上司や同僚に認められ、部下も出来て、あんなことやこんなことを一緒にやって泣いたり笑ったりしていると、「◯◯社の一員」としての「自覚が芽生えて」きますよね。でもって会社人間になってみたり、サラリーマンと呼ばれる社会人間類型にすっぽりはまっていく。

 今言ってるのは、まさにこの「自覚が芽生える」部分で、それって言葉を変えれば、新しいアイデンティティが出来ることであり、自分の過去の行動によって自分が規定され、縛られ、知らない間に洗脳されているってことでもあると思います。「洗脳」ってのは言い過ぎかもしれないけど、でも、それに近い部分はあるよなー。

とても巨大なパーソナリティ

 あ、「自覚」について書きましたが、別に自覚そのものが悪いわけじゃないですよ。例えば、社会人としての自覚とか、プロの◯◯としての自覚というのはあっていいです。それはすぐれた現実認識ですから。もう脳内世界で遊んでるんじゃないのだよ、現実の中にいるのだよ、君の一言や、あなたの一挙手一投足で他人の人生が狂ってしまうこともあるのだよというしっかりした現状認識。車の運転をしているときと同じく、どんなに眠たかろうが、どんなに気分が悪かろうが、最低限の安全注意義務は果たさなければ、人を殺めることだってある、今この瞬間に誰かの人生を壊してしまう立場にある、それだけはわきまえろというリアリティの認識。それをもって「自覚」というのは大いにありうることです。僕もそれを称揚こそすれ、貶める気はない。

 問題はその自覚が、その人のパーソナリティを覆い尽くしてしまうことです。単なる立場の認識、◯◯ということが自分に期待され、自分の動きによって◯◯という影響を周囲に与えるのだという客観状況の認識を超えて、自分はそういう人間だという主観認識に侵食していく部分です、それは余計なことだと。

 どんな重要な責務であろうと、どんなに華やかなスターであろうが、どんな極悪非道な罪を犯そうが、人間ひとりのパーソナリティというのは、それよりも遥かに遥かに巨大だと僕は思います。仮にあなたが、世界連邦の大統領になろうが、キリストのような存在になろうが、それでもあなたのパーソナリティは、そんな「小さな」役割を超えて尚もデカいと。それは別に人に自慢できるようなことでなくても、足の爪を切るのが面倒くさいのでいつも靴下に穴ばっかり開けているとか、柿の種が大好きで幾らでも食えるとか、いい年こいて夜にトイレに行くのが未だに怖いとか、◯◯という公園にいくと今でも思い出すことがあるとか、めちゃくちゃ負けず嫌いだとか、お釣りがあってるかどうかの検算が面倒臭いからやらないとか、、、、なんぼでもある。

 ひとつひとつはしょーもないこと、他人にとってはまるで無価値のことではあるのだけど、でもその人にとっては、すごく大事なことだと思う。そういう事柄の集積体が、その人そのものであり、その人の本当のパーソナリティというのだと。だから、人を百人殺して死刑になるのが当然のような人物であっても、尚もその人に優しいところはありうるだろうし、その優しさは極めて限定された範囲ではあろうが、その限りでは本物だろう。

領空侵犯〜そんな約束はしとらんぞ

 僕自身、その意識は非常に強いタイプかもしれない。他人から◯◯というレッテルを貼られるのが大嫌い、というか、それらしき立場に自分を置くのも居心地が悪い。それは遡れば、5歳かそこらの幼児のころ、親戚の家にいくから「きちんとした格好」ということで半ズボンにタイツなどを穿かされて、非常に違和感を抱いた頃からそうでした。中学に入って、初めて詰め襟というものを着た時、カラーのプラスチックが首に食い込んで非常に不愉快で、なんでこんなものを着なければならないのか?という動物的な怒りを感じた。

 中学生をやれとか、高校生をやれとか、社会人をやれとか、弁護士らしくやれとか、夫らしくとか、日本人がどうとか、もうなんでもかんでも「しゃらくせえやい!」って、全部拒否!って感じ。あなたが僕に対して、どんなレッテルを貼ろうが、なんと呼ぼうが、それはあなたの自由だ。アホでもボケでもロクデナシでも好きに呼べば良い。あなたにはその権利(他人を好きなように呼ぶ権利)はある。しかし、僕がそれに従う義務はない。時と場合によって、いろいろな名称で呼ばれ、いろいろなカテゴライズをされる。やれ、あるときは「国民」と呼ばれ、あるときは「親族」と呼ばれ、「視聴者」と呼ばれ、「消費者」と呼ばれ、「業者」と呼ばれ、その種類は無限にある。勝手に呼べばいいさね。でも僕が誰かの期待に応えなければならない義務はないよ。

 期待に応える義務がある場合というのは、暗黙にでも契約が成立している場合、約束が取り交わされた場合だけだと。全体にそういうシステムで動いている場合、特段に異議を唱えず、またそれらしき表示もせぬまま、そのシステムの参加者のような言動を行ったら、そのシステムのしきたりには従うという合意がある。食堂で先に食券を買えというシステムであり、そこで食いたいと思ったら食券を買うし、並べというなら並ぶ。暗黙であれ合意してるからだ。キオスクでガムをくれといってガムを手渡されたら、その料金を払う。俺は「くれ」と言ったのであって「買う」とは一言も言ってないぞ、だからこれは贈与であって売買ではなく、代金支払債務は俺にはない!などとくだらない屁理屈はこねない。他人に誤解を招くような言動をすれば、その責任は第一的には自分にある。そのくらいはわきまえている。

 でも、それをこえて「そんな約束はしとらんぞ」という場合には、従わない。もう平然と無視する。それで何だかんだ言われたら、おし戦闘開始だ、仕事の時間だ。戦うのが面倒臭かったり、みすみす負けそうだったら泣き寝入りするけど(笑)。でも、そのあたり、戦うにせよ、泣き寝入りにせよ、ここからここまでという境界線は意識していたいし、自然にそう意識してしまう。

 なんでこんな話をムキになって書いているかというと、勝手に自分のパーソナリティの領域まで土足で入ってこられて、勝手に塗りつぶされるのが嫌いだからです。社会的な立場として、機能として、社会通念上、期待される部分、暗黙に約束した部分についてはキッチリやります。プロの自負にかけてやる。ショートを守ればショートとして期待されるだけの働きは全力でやるし、ゴールキーパーをやるならば下手なりに全力を尽くす。だが、それ以上の部分については一線を引くぞ。勝手なイメージで束縛しないで欲しい。てか、束縛されることは全然無いから、勝手にアテが外れたとしても逆恨みしないで欲しいと。

 そういえば日本人とか◯◯人かいう意味不明な概念についても同じことで、国籍法所定の日本国籍を持ってるっぽいし、日本という社会のシステムの恩恵に浴している(インフラなりなんなり)ので、その対価として当然なすべきことはする。納税義務が発生すれば払うし、交通法規は守るし、選挙になったら投票もする。だが、それを超えて、「日本人なら当然◯◯と思え」「そう感じるのが当然」みたいな、そうでないなら非国民だみたいなことを言われたりしたら「馬鹿野郎」といってブチ切れます。もう居合抜刀術のようにばさっと斬ります。そんなもん勝手に俺におしつけるんじゃねーよ。そう思うのは勝手だが、他人におしつける時点で返り討ちを覚悟しなさいね。俺は俺だし、あんたの指図は受けねーよ。

ガラスの世界観

期待するのが好きな人達

 ここまで書いたら分かると思いますが、日本社会では勝手に期待したり/されたりするのが割りと多いですね。それ自体が法律みたいに強制規範として認められ、それを破ると社会的サンクション(制裁)を受ける。まず主観(勝手な期待)が先行し、その主観によって客観(罪と罰)が創造される。これって「光あれと言うと、光が生じた」という主観が客観を創造する世界、まるで量子力学みたいな世界じゃないか。すげえ。

 なんつか、誰もが誰もに本来の役割や約束を超えた部分を期待しますよね。プロのスポーツ選手だったら金払っても見たいと思わせるだけの商品(華麗なプレイ)を提供すればいいだけなんだろうけど、なんらかのお行儀の悪い振る舞いがあったら、それで制裁を受ける。なんでも人格が立派でないとならないという。まあ小学校の教師が、実はペドフェリアだったりしたら、それは本来の職能部分に疑問を感じさせるだろうから問題だとは思いますよ。でもねー、どっかの誰かが不倫しようがなんだろうが、そんなんどーでもいいじゃんって思いますケド。

 なんでそんなに皆さん、他人に期待するの?これも芸能人だったらまだしも芸のウチでメシの種とか有名税とか、そういったパーソナリティ商売をしてるのだから仕方がないだろって暗黙の合意部分だって理屈はあるかもしれないけど、ド無名の一般人にも期待するじゃん。不倫とか浮気とか後ろ指とか。そんな人格者ばっかりじゃないことは、自分だってそうじゃないんだから、自明の理でしょうに。何をそんなにムキになって期待すんの?

 それとはまたタイプが違うんだけど、よくあるのが「親の期待」というもの。親から過剰に期待されて「良い子」であることが責務になって、それがアイデンティティになって、でも大体ハタチ過ぎたくらいで、ひでぶっ!と爆発したりしますよね。三年殺しという伝説のワザがあるけど、二〇年殺しって感じ。あれも、なんでそんなに他人(子供)に期待するの?また、子供もなにをそんなに馬鹿正直に真に受けてるの?という、もっとチャランポランに「まあ、皆さん、いろいろ思うところはあるでしょうからねー、はっはー」とかやってりゃいいのに、でも真面目で心優しい人なのでしょう。それだけにお気の毒で。

他者に「あるべき姿」を強制するのはなぜなの?

 僕、これ、「ガラスの世界観」とネーミングしました。
 この世の全て、この世の人々すべてが「あるべき姿」になってないと崩壊してしまう、ガラスのように脆い世界観って意味です。日本人ならこうあるべきとか、政治家だったらこう、女はすべからく良妻賢母でとかさー、かくあるべしって他人をカッパシ型にはめる。もうジオラマのドイツ兵みたいな、ひな祭りの五人囃子みたいな、あるべきカタチ、あるべき人格像に現実が符合してないとダメだという、そうなってないと激怒するという、なんなの、そのアホみたいに薄っぺらい世界観は?

 そうでもしないと世界が崩壊するの?でも、崩壊してないよ、現実には。
 そんなさ、理想の人格像を100%体現している人なんか、そうそう居ないよ。いや皆無といってもいいかも。みーんな、どっかしら嘘つきだしさー、どっかでは卑怯で裏切り者だしさー、場合によってはヘタレそのものだし、年中行事のように誰かの期待を裏切りまくってるしさー。そんなもんでしょ?愛すべき我らがピープルは。そんなダメダメなのが集まって、それでもなんとかかんとか帳尻合わせて、見てみないふりをしたり気付かなかったふりをしたりして、「自分のかけた迷惑は、他人への優しさで埋め合わせる」みたいな感じでやってるわけじゃん。そういう世界を、僕は悪くはないな、けっこー素敵だなって思うのですよ。嫌いじゃない。そりゃ自嘲をも含めて「あーあ」とか思うことも一再ならずあるけれど、でも、顔がほころんでくる瞬間も、これはこれで結構ある。なんだかんだいって、いい世界じゃん。ダメダメなところもご愛嬌だって。

結局人が怖いの?好きじゃないの?

 それを突き詰めてって、分子とか原子レベルくらいギリギリ究極まで分解していくと、結局、人を信じているか/いないか、人が好きか/嫌いかってところまでいくんじゃないかしらん。最終的に水素原子が1つか2つか、プラス電子かマイナス電子かみたいな。

 根っこのところで、人間ってけっこう大したもんだよ、意外と捨てたもんじゃないよ、いいもんだよって思ってるかどうか。もしそこで肯定的に思えるなら、人を「律する」ってことを相対的にしない方向に行くと思う。自然状態でもそこそこイケるって思うから。別の言い方をしたら、かくあるべしという規範や理想をそんなに強く押し付けようとはしないと。でも、そこで根っこの部分で信じられない、結局はケダモノなんだって恐怖や不信感がベースにあるのならば、猛獣みたいなものだから、事あるごとに縛ろう、抑えよう、理想を示してその型にはめようと思うでしょう。

 そして、なんでそんなに人間を信じられないの?怖がるの?といえば、これまでの体験で、人と関わって「良い思い」をした度合いが低いからなのかな。過去のデーター(記憶)において、他人から不快な思いをさせられたケースが多く、良い思いをさせてもらった率が低かったら、そりゃ他人は怖いもの、世界は恐ろしいところ、だから野獣のような人間は厳しく調教しなければならない、それが自分が心地よく生きていくための前提条件だって感じになっても不思議ではない。獰猛なケダモノたちに囲まれていると思えば、頑丈な檻に入れて安心したいと思うでしょう。でも、逆に、周囲の人間が、可愛らしいリスやウサギやニャンコや熊さんだと思えば、檻なんか作らないで一緒に遊ぼうよって思うでしょう。その差かな。

 考えてみれば当たり前の話で、人はハッピーでゴキゲンでいれば、自由闊達になるし、他者に対しても「よかよか、苦しゅうないぞ」と鷹揚になる。でも、自分がアンハッピーになると、他者に対して厳しく当たるようになる。自分がラブラブ状態だったりすると、与謝野晶子のように「今宵逢う人みな美しき」と思える。でも自分だけドツボってると、「け、チャラチャラしてんじゃねーぞー」とか思う。よく都市の雑踏の片隅で、喚き散らしてるおっさんとかいるけど、あんな感じ。これが原理で、やたら教条主義、やたら全体主義でファシズムっぽくなるのは、その応用変形でしょうね。

余談〜法哲学の話

 ちょっと余談です。今回の話は、法哲学も絡んでます。

 これのどこが?と思うかもしれないけど、たとえば今の話だったら、法律や決まり事が多いのは、その部族や社会にとって恥であるという考え方があります。あれをするな、これをしたら死刑とかいちいち箸の上げ下ろしまで細かく決めるってことは、それだけ人を信じられない、信じてはいけない、あいつら(=自分ら)は目を離したら悪いことをするだろうって前提が暗黙にあるからでしょう?そこを信じられるのならば、そこまで細かく決める必要はない。(ありえないけど)究極の理想社会、人間性の高みにまで上り詰めた社会は法律など必要がない。どんどん削ぎ落としていって、ついには漢の高祖の「法三章=殺すな、傷つけるな、盗むな」の3つだけで良く、さらには「(罪を犯した)人は、自らの名誉にかけて自殺することが出来る」という一条のみで良いという。

 これは荒唐無稽だとか、形而上学的な思考遊戯ではなく、現実にもある。うまくいっている企業、学校、サークル、集団、家族、なんでもそうだけど、うまくいってる所ほど自由でしょ?これといったキマリがあるわけでもないし、キマリがあっても行事的なそれだったり、交通整理的なものにとどまる。ダメになっていくにしたがって、なんだかんだ規則が増える。特に禁止規範という罰則系が増える。逆に言えば、規則や罰則が増えだした時点で、その集団社会はもう下り坂であると思ってもいい。そしてそれは罰則を増やすことによっては、まず解決しない。むしろ悪化する。ビジネスだってそう。しっくり噛み合っていて、生産性の高い取引関係では、大体が信頼関係か口約束で済んでいる。仰々しく契約書なんか巻かない。夫婦関係でも、約束事が多いほどキッチリしていて良い、というものでもないでしょう?

 ルールは大事だけど、ルールを決めずにやっていけるかどうかはもっと大事。決めるにしても、最小限に抑えるべき。なぜなら、決めるということは、それだけ人を信じていないことであり、「信じられていない」というのは無意識か深層心理か、あるいは表層心理かもしれないが、なんらかの形で伝わる。いい気分ではないだろうし、それが好影響を与えるとは思えない。僕がやってる一括パックでも、口約束(メール約束)一発だけでやってます。申込料も契約金もなにも取らないし、単に日取りと空港の時間を伝えるだけでやっている。それで1000人を優に超えるくらいやってきたけど、空港まで迎えに行ってすっぽかされたことは一度もない。FAQでも書いたけど、あけっぴろげに信じられたら、人は却って裏切らない。また、細かく規定すればするほど、今度は逆に「決めてないことだったら何をやってもいい」というおかしな発想も出てくるし、自分でモノを考えないようになる。むしろポンと丸投げされて、どうするのも君の自由だ、だけどそれで何をしたかによって君の人間性はハッキリ出るだろうし、そう思われるだろうねって言われた方が真剣にやる。

 もう一つ、法哲学に絡んでくるのは、先ほどいった暗黙の合意です。法律をなぜ守らねばならないのか?という古典的議論があって、それは社会契約説や民主主義の原理からいって、自分が(間接代表によって)決めたことだからだ、人は自分の自由意志による決断に責任を負うべきだからという原理的説明がなされます。しかし、生まれた時から既にある法律、選挙権が与えられる前に出来た法律はこれでは説明がつかない。俺の知らない間に勝手に決められたものであるから、俺は守る必要はないと言えてしまう。それでも守るべきって理論構成をしようと思ったら、どうすべきか?それは「追認」という理屈を使います。既に存在するシステムやルールを、後からそれに同意すると。それを受け入れる旨の暗黙の行動があれば、後からそれを認証したことになるからだと。詭弁のようでいて、でも実際そうだと思います。黙示の合意とも言われますが、電車にのるときはこうするとか、映画館に入るときは切符を買うとか、現存するシステムに後から入る場合は、そのシステムを認証したもいのとするという。

 ちなみに、現存する法律が気に食わない、俺はそれを守らないぞといっても、いいとこ取りはダメなんで(それが出来るなら何でも出来る)、やるなら日本の法体系からまるっぽ外れるって話になるでしょう。嫌なら出てけってことです。もし日本にいながら、法体系から外れたいなら仮に殺されても文句は言えない。法の保護の対象にもならないから、路傍の石ころと同じ扱いになる。石ころ蹴っても犯罪にならないように、あなたを蹴っても犯罪にはならない。

 ま、これは理屈が先走ってる部分もありますが、でも実際問題、この種の追完擬制(後から同意したものと見なすこと)をやっていかないと、人が生まれる度に同じ法律を延々と決め続けないといけないので現実的ではない。同じように、地下鉄乗る度に、旅客運送約款(駅長室に飾ってあったりする)を全文しっかり読んで、署名捺印すべしとかやってるのも現実的ではない。また、地下鉄は俺を運ぶ義務はあるけど、俺は料金を支払い義務はないなんていいとこ取りは出来ない。さらに知らない間に決められた法律だとしても、あとでそれを変更する権利と可能性はある。そんなの自分の一存だけで変えられないというなら、仮にそれを決めるときに存在したとしても自分の影響力はその程度なんだから、同じことだと。

まとめ 

 ほ、数時間の割には結構書いてしまった。行き着くところまで行ったっぽいので、今度は道を遡ろう。

 ガラスの世界観が脆いのは、それは世界観が脆いのではなく、それを紡ぎだすその人の魂部分が脆いからだと思います。他人を信じられない、すぐに傷つく、すぐに壊れてしまう自分、だから怖い。怖さを和らげるためには、なにもかも自分の思うとおりであってくれないと安心できない。魂の本質部分がマイナス電子になってるというか(比喩は超テキトーだが)、そこが弱っちーから、あとは因果の流れでそうなっていくんだと。

 マイナス系の人が多い集団だと、あれしろとか、これをしちゃダメとかやたら決まり事が多くなるし、他人に対しても「〜らしく」という制約を多く求めるようになるんじゃないかしらん。

 そして、そういう「あるべき形」が沢山あるということは(制服とか、行進とか、行事とか、らしい振る舞いとか)が、それを強制的にでもやらされている人々に、客観現実による強力な催眠効果で、また新しいアイデンティティを与えるようになる。やらされているうちに、自分はこういう人間なんだって暗示をかけてしまう。そして、本当にそういう人間になってしまう。

 そして、本来あった巨大なパーソナリティを忘れてしまう。パーソナリティの重要性(どってことないその人だけのキャラやら生活の癖やら)について意識しなくなる。挙句、本来自分はこういう人間だったんだよなーって、就職以前、なんか始める以前のbeforeの自分を忘れてしまう。で、サイズの合わない制服を延々着させられているうちに、窮屈さも限界になって、うきゃーとなったり、なんだかなーになったり。

 ここまでは分かりやすいんだけど、今回書いているのは、自分の好きにやってるようなことであってさえ、この催眠効果はあるんだなーって自戒です。「継続は力なり」で、続けることは大事なことです。続けていけば、大抵のことはなんとかなるし、多くの願望は実現するでしょ。が、続けるにしても、シーケンサーのトランス効果みたいなものを発揮させたらダメだと。その麻酔効果で、学習する苦痛を麻痺させるというメリットは勿論あるんだけど(毎日やってると慣れてしんどくなくなる)、それも程度の問題で、あまりにも麻酔が効き過ぎると、こんどは帰ってこれなくなる。なにかを夢中になって必死にやってるとしても、なおも自分にはあり余りほどのそれ以外のパーソナリティはあり、その部分は大事にしておかないとなーと、ふと思った次第です。

 ちなみに、今現在の僕自身のアイデンティティは何なのかというと、「無い」にしたいです。これはまた別の話で、店広げたら収拾つかなくなるんだけど(笑)、長いこと生きてると、そして真剣に考えれば考える程、「自我」なんて「錯覚ちゃう?」って気がするのですねえ。そんなもんあんの?と。じゃあ、今ここでこれを書いたり考えてる自分は何なの?といえば、そういう「現象」。雲のような、虹のような、朝露のような、渓流のせせらぎのどっかで束の間できた小さな渦とか、パチンと消えるシャボン玉みたいな部分とか、そういう現象だろ?と。それに自我とか言われてもねー、困っちゃうな(笑)。ましてやアイデンティティとか言われてもね。局面局面でベストを尽くしてたらそれでいいんじゃない?もっと改善の余地があったらやるし、ああ、こうしたらいいんだって気づいたらそうすればいい。かなり哲学的な話ですね。

 まあ遅かれ早かれ死にますからね、あなたもそうだけど。死んで「大地に還る」とかいうけど、何らかの形でデ・コンポーズして、この世界に拡散するんだろうから、その準備というか。「もうすぐ中学ですからね」みたいな感じで、世界に還る心構えというか。根がセッカチなのか、早めに準備と(笑)。でもって、もし拡散するなら、そのアイデンティティはなんなのかといえば、世界=俺みたいな感じ?とりあえず日本人かオーストラリア人かという細かくもくだらない話には「地球人」っつって蹴っ飛ばしているけど、いやそれも甘えな、自分=地球くらいかな、自分=大宇宙とまで言ってしまうと、ちょっと言い過ぎちゃう?って気もするし。ま、ここまで言っちゃうと付いてこれないでしょうし、付いてきてくれなくていいです。他人に言うような話でもないよなとも思うし(書いてるけど)。ほんでも気の持ち方としては気分ええよー。きれいな海を見たら「あ、あれ、俺」と思う(海=自分)と、親しみも湧くしね。なんかうれしい。他人をみても、誰を見ても、「あれも俺」と思えば、腹も立たないというか(笑)。なんかすごい変な気分がするんだけど、その変さがね、なかなか面白いよ。笑えてくる。



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 この晩は軽く済ませたかったので、フォカッシャとパニーニを







 文責:田村




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