★↓背景画像bgmaximage★ グラデーションなどベンダープリフィックスを除去するJS★
784 ★背景デカ画像

  1.  Home
  2. 「今週の一枚Essay」目次


今週の一枚(2016/07/25)



Essay 784:視野を広げる御利益=頭が良くなる

 能力差ではなく環境差、類推飛躍のジャンプ台

 写真、数日前に買い物&Walkingに行ったときのもの。Crows Nestより撮影。遠方に見えるビルがchatswood、手前のビルがSt Leanards

枕詞の御利益

 「視野を広げる」という言葉があります。
 これってワーホリや留学で海外に出るときの定番ですよね。よく和歌に出てくる枕詞(あをによし→奈良など)みたいな感じで。

 でも、いくら言い古され、人口に膾炙し、手アカがつきまくって何のインパクトも無くなったとしても、それでも視野を広げることは良いことです。英語でも、"broaden/expand/widen one's horizons(地平線を広げる、拡げる)"といいますから。

 視野を広げるのはイイコトなんだけど、あまりに無条件に良いとされ過ぎてるところもあって、ではどうして視野が広がると良いのか?という「実益」が意外と考えられてないのではないか---、と、ふと思ったので、今回はそれを。

 視野が広がる”御利益”の中で、かなり等閑視されているではないかと思われる点は、視野が広がると→「頭が良くなる」「仕事が出来る」「人生で楽が出来る」という点です。勿論全くイコールではないですよ。でも、かなり密接に関係しているし、事実上同じことじゃないか、「結局、そーゆーことだろ?」って思います。

頭が良いことの意味

作業環境の構築

 いわゆる頭が良い、知的能力が高い、勉強が出来る、、、ということの実質は何なのか?記憶力、洞察力、論理構築力、、あれこれあると思いますが、感覚的にいえば、物事がよく見えているかどうか、そのフィールドの広さ、深さ、正確さが結構キモのように思います。そして、それがよく「見える」ためには、はじめからよく見える場所にいなければならないし、見えやすい態勢や状況を整えなければならない。つまりは、「見えるための環境」をいかに用意するかです。これをさらに一般化すれば、いかにして「知的作業をしやすい環境を構築できるか?」論だと思う。

 例えば何かの作業をする場合、狭苦しい喫茶店のテーブルのような〜コーヒーと砂糖壺と水コップ置いたらもう何も置けないくらい狭い場所で作業をするのと、理科室の実験テーブルなど畳2枚分くらいある広々したところでやるのとでは、自ずと効率が違うでしょう?プラモデルを作るにしても、ケーキを作るにしても、小さな作業スペースでチマチマやってたら効率も悪いし、イライラします。作業環境って大事ですよね。

 知的思考にもこれが言えると思います。作業台が狭いとやりにくい。
 はるか昔、この世にワープロというものが出現したとき、ディスプレイに3行くらいしか表示されませんでした。初期のガラケー以下です。「画期的な大画面搭載!」とか広告で謳っている新商品でもいいとこ10行程度。今から思うと信じられないんだけど、でも当時はワープロ自体が画期的でした。僕はその3行ディスプレイでレポート用紙20枚分くらい書きましたもんねー。それはそれは大変な作業で「前の箇所では、ここはどう書いたかな?」と確認しようにも、数百行の海のなかを3行視界でスクロールして探さないといけないという。

 ワープロは知的作業をする機材環境ですけど、同じように自前の脳味噌にも、快適に脳が働けるような環境というのはあると思います。それが整っている人と、整っていない人とがいる。

短時間記憶

 知的作業における作業環境の一つは、(短時間)記憶でしょう。パソコンでもまさにRAM(メモリー=記憶)部分で、これが大きい方がサクサク動く。少ないとトロくなるし、しまいにはフリーズしたりもする。だから自作パソコンでメモリー増設は初歩的な一手だったりもします。

 一般に短時間記憶(メモリー)の保持量が多い人ほど、同時に複雑な思考が出来るでしょう。
 例えば、買物などで外出するとき沢山の用件があったりします。やれスーパーで晩飯の買い出しして(その中でも多数の買い出し品目がある)、コンビニで雑誌買って、スタンドで給油して、銀行行って、郵便出してきて、駅前の洋菓子屋で贈答用の詰め合わせを買って、クリーング受け取ってきて、、、って多数目あった場合、えっとー、何をどれから廻るのが一番効率的かな、位置関係でいえば最初にスーパーを済ませるのがいいんだけど、冷凍食品も買うからすぐに家に帰る必要があるし最後に廻した方がいいか、◯◯あたりは午後3時過ぎると道が混むからできれば早めに済ませておきたいし、多分途中でトイレ行きたくなるだろうから◯◯を真ん中あたりにして、、と、数多くの事柄を同時に計算しつつ最適解を導きださないといけません。こーれが難しい。てかよく忘れますよね。家に着いた途端、あー卵買うの忘れた!とか。この場合、2つまでしか覚えられない、同時に考えられない人と、5つまでなら楽勝に同時処理できる人では作業効率が違って当たり前でしょう。いわば腕が二本あるのと5本あるのとの差みたいなものです。ゆえに、短時間記憶力の強い人のほうが、結果として「頭の回転が早い」とか、賢いとか言われることが多いと思われます。

能力差ではなく作業環境の差

 これらは「作業環境が整っている方が早く&正確な仕事ができる」という当たり前の話ですが、これって「頭が良い」っていうことなの?という疑問もあります。それは単に短時間記憶力が(訓練や鍛えたりして)強いだけの話で、処理能力そのものについては関係ないのではないか?いやいやその「作業環境を整える力」こそが「頭の良さ」の本質なのだよって見方もあります。そして、僕はどっちかといえば後者で、人間の頭の良し悪しって実はそんなに差がないと思ってます。

 なにかの計算をやる場合、手ぶらで暗算をやる場合と紙に書いてやる場合とでは、紙の方が速さも正確性もずっと高いでしょう。特殊な暗算術ってありますけど、それをマスターしている(あるいは珠算が出来て頭の中に算盤を持ってる人)ならともかく、そうでない普通の人同士だったら、暗算能力の差というのはそんなに言うほど違わないんじゃないかな?少なくとも、暗算 VS 筆算(紙に書いて計算する)だったら紙優勢は動かないところでしょう。ましてや電卓持ってる人には太刀打ちできない。でもそれは「能力」の問題ではなく、単に環境の問題ではないか。つまり能力差よりも環境差の方が現実的には大きな要素を占める。

 だとすれば問題は「あとで多分面倒臭い計算をしなきゃいけなくなるだろうな」と予想して、計算用紙とペンを用意、あるいは電卓を用意するかどうかの差、環境を整える力があるかどうかでしょ?この環境を整える配慮こそが「頭の良さ」を構成する重要な一部ではないか。

 さらに作業環境を構築するのが上手だということは、同時に頭の使い方が上手だということをも意味すると思います。あとで計算作業をするにしても、「気合を入れて暗算をやる」とかいう無駄な頭の使い方はしない。多少の暗算は頑張ってできるかしらんけど、ミスも多い。飲み会のあとの精算なんか酒も入ってるからマトモに計算できるかどうかも怪しい。そこで「あ、無理だな」とあっさり諦める。自分の頭を過信しない。そんなに出来るわけないじゃんって思う。その上で、じゃあ馬鹿な自分でも間違いなく出来るように電卓持って行こうと思う。賢いとしたら、この部分ですね。そこは頑張ってとか、気合でとか、俺は頭が良いからとか思わない部分。無茶な頭の使い方はしない。もっと楽で確実なやり方を探す。



短時間記憶の環境整備 

 短時間記憶についても同じことで、いくらでも環境整備できます。「そんなに全部覚えられないだろ」「絶対なにか忘れるだろうな」と自分の頭を過信せず、その上でメモ書きすればいいです。メモだけではないです、これはどんどん応用できます。例えばあまりにも経路が複雑になってきたら、地図を書いて、その地図の上に行くべきところをマークしたり付箋を貼っておく。これだけで何をなすべきか、どうすべきかが一目瞭然になります。日常業務ではシェア探しでこれをやってます。めぼしい物件をピックアップしたあと、路線沿いに全部並べなおして、且つ通し番号を打ち、さらに地図上にその番号を書き込んでいきます。

 弁護士時代に皆がやっていたのは、人間関係が入り組んできたり(遺産相続とか)、推理小説みたいに時系列がややこしくなってきたら、もうソラで考えるのは無理だということで、巨大な紙にデカデカと書いていきます。それをじっと見てると「あれ?」と思わぬところに気が付いたりする。よく刑事ドラマでお馴染みの図では、捜査本部の大きなホワイトボードで被害者や被疑者など人物関係をそこに書いておいて、それをじっと睨んで考える。短時間記憶には限界ありますから、ちゃんと書くことです。頭の良さ=記憶力と勘違いしている向きもありますが、記憶力なんかそう重要ではないです。なぜなら代替手段(メモなど)が幾らでもあるからです。

 同じ理屈で、グラフや表があるのでしょう。単に数値の羅列を言われてもピンとこなくても、グラフにしてみるとハッキリなにかが見えきたりもするでしょう。このように、短時間記憶が苦手がどうのとかいっても、一定レベルを超えると(すぐに超えるが)誰だって覚えきれなくなるわけですから、なんらかの対処はしなきゃいけない。それをコマメにやるかどうかでしょう。それが環境構築能力であり、こんなものは上手いか下手かの問題であり、生来の能力差ではない。

技術という万人の魔法

 ものごとが上手下手のレベルになってきたら、これは「技術」ですから「練習」でかなり変わってきます。要するに「鍛えれば向上する」わけですからね。このエッセイでもやたら技術論を書いてますが、僕は技術オタクなのかもしれない。でもね、技術というのは、出来ないことが出来るようになる(ほぼ)唯一の道であり、それは生まれながらの差(家柄とか容貌とか)に左右されにくく、万人に開かれた魔法の道だからです。魔法といっても結果的にそう見えるだけのことで、一つ一つの過程は当たり前のことを当たり前に積み上げるだけです。だから誰にでも出来る。ゆえに、何かの事柄を技術論にまで分解できたら、もう勝ったも同然、あとは淡々とやるだけです。つまり上手下手問題→技術問題→やるかやらないか問題→やればいいじゃん=誰でも出来るということです。

 や、本当にそう思いますよー。料理の上手下手もそうで、プロはともかく一般レベルにおいては、味付けのカンとか茹で上げる時のタイム感とか才能的な部分もあるけど、実際の料理の殆どが手順とダンドリであり、いかにそれを丁寧に実行できるかの「環境整備事業」に尽きると思います。卵の殻を片手で割るなどどーでもいいこと。僕も経験あるけど、下手なやつほど小手先で済ませようとして、台所の狭苦しいスペースで、切ったり、パン粉付けたり、揚げたりしてるから手狭すぎて効率悪くなって、イライラするのも相まって、一つ一つの仕事が超雑になっていく。挙句の果てにボウルひっくり返して床にぶちまけてムンクの叫び状態になるという(なりました)。

 ここで声を大にしていいたいのは、下手な奴ほどこの環境整備を舐めている、ダンドリをスムースにする労力・技術を舐めきっている。上手い人ほどここは舐めない。何事も上手な人ほど、最初に面倒臭がらずに周囲を片付けて、十分な作業スペースを確保するところから入る。グッドニュースは、これは習い覚えることが出来るということです。出来ない人でも出来るようになる道がちゃんとある。持って生まれた差は少ない。

 何度でもいいますが、技術向上=鍛える/練習という観点でいえば、格闘技がそうであるように、生まれながらの身体能力が同じでも、日々の鍛え方が違えば結果は雲泥の差になる。毎日ジョギングしてる人の方が運動不足の人よりもよく走れるとか、毎日運転している人の方がペーパーよりも車庫入れは上手いというのと同じことです。

 頭の良さ(使い方が上手になる)もこれと同じでしょう。てか、どうして頭だけが違うのよ?知的能力にも生来的な個性差はあるだろうけど、それって格闘のプロになるとか、マラソンの大会で上位入賞するとかそのくらいのハイレベルでの話であって、リアルな日常生活や仕事においては、日々走ってる奴の方が断然強いという程度のレンジ差で尽きてしまうでしょう。そんな人間国宝みたいな、神に寵愛された天才のみがなしうる超絶技巧のレベルの仕事なんか、普通は誰もしてないですよ。この世の99%の皆さんは、誰でも頑張ればできるようなことを、頑張って出来るようになってるだけでしょ。

 以上、ここまでは、能力差とか大袈裟に考えすぎ、それは持って生まれたものもあるけど、その実態は作業環境をいかによく整えるかどうか、それに自覚的であるか、環境整備に手間暇使ってるかどうかの差でしかないってことを言ってます。



視野の広さと頭の良さの関係

頭が良い必要がない

 さて、ここでやっと「視野が広い」が出てくるのですが、これも知的作業環境(能力)の一環として出てきます。幾つかの効用機能がありますが、まずは、物事の理解が早く、深く、正確になるということ。平面的にしか分らなかったことが立体的に分かるようになり、さらにその触感や、匂い、細かなニュアンスまで推測できるようになる点です。

 これらが正確&リアルに把握できればできるほど、殆ど頭使わなくても理解できると思います。それはもう頭が良いというよりも、「頭が良い必要がない」って感じ。どんな馬鹿でもわかるわって。それが分からないのは、その対象についてよく知らないから、ピンとこないから、推測もできないからでしょう。

 また具体例を。生まれて一回も寿司を食ったことがない外国人が寿司を理解しようと貴方にいろいろ聞きます。そして珍妙な押し問答になったりします。「寿司は巻くものですね」「それは巻き寿司ですね、他にもバッテラなどの押し寿司や、寿司といえば握り寿司がメインでしょう」「え、巻いて、押して、握るのですか?ライスがカチカチに固まってしまいますよ」「いや、だから全部一緒にやるわけじゃなくて、それぞれ別の種類の、、」「同じ料理なのに、押したり、握ったり違うのですか?それらを同じ料理としてカテゴライズするのは分類として問題がありますね」「いやだから、、」「握るんだったらオニギリがありますから、オニギリの一種として分類すべきです」「いや、それは酢飯とか酢を入れているかどうかという別の観点もあって」「酢っぱかったら全てお寿司ですか?あれは”酢の物”とかいうものじゃないんですか?」とか。

 この種の珍問答は幾らでも作れますが、モノを知らない、経験してない、つまり「視野が狭い」というのはそーゆーことだと。そもそも食べたことも、見たこともない人に説明するのが無理なんですわ。でも寿司を寿司としてちゃんと理解している僕らが、その理解を得るために何か努力をしましたか?してないですよね。また寿司を理解するのに頭の良さなんか不要でしょう?理解するのに、頭が良い必要なんかないですよ。

 何の話かといえば、いわゆる「お勉強」とかいうのもこれと同じだという話です。僕らが中高大学でやってる勉強だって、世間に出たこともないガキンチョが、わかったふりしてなんかやってるだけのことです。視野なんて教室と部活とゲーセンとコンビニくらいしか無い子供に、大人の世界のガチな営みの機微なんかわかるわけないです。だから難しく感じるんだと。外人が寿司を理解しようとしてるのと似てると。ここで暴論を吐けば、義務教育から上(高校以上)は、被選挙権みたいに25歳以上にならないと入学できないくらいにしたら効率的だと思いますよ。

銀行の与信業務と資金需要

 視野と知的能力について、もう少し掘り下げて例示します。
 小学校の公民から、僕は「銀行」というのがなんで存在しているのかよく分らなかったのです。そりゃお金を預かってくれて、好きなときに引き出せて、あると便利だというのはわかりますよ。でもそれだけの理解だったら、要するに駅や美術館の鞄の預かり所とか、コインロッカーとあんまり変わらないのですよ。「預託機能」ですよね。

 銀行の本当の存在意義がわかるためには、「与信業務」というのを知らないといけない。他人を信頼してお金を貸す行動ですけど、そこで貸しつけて利息を得て、それが銀行の収入になるということの意味です。ひとつは取りはぐれたら損しますから、ちゃんと返せるかどうかの審査技術がいりますし、それでもダメだった時の担保権の設定業務などもあります。他にも、一般の貸出業務ではなく、機関投資家としての投資行為などもあります。でも、このへんになってくると、もう子供はおろか大人でも今ひとつよく理解できない人も出てくるでしょう。

 それ以上に、子供心に分らなかったのは「銀行からお金を借りる」ということです。なんで借りるの?借りなきゃいけないくらいお金がないなら我慢すればいいじゃんって素朴に思った。そこは住宅ローンとか「ローン」がついて、なんとなく普通ぽくコーティングされてるけど、要するに「金がないから借金をする」「借金をしてモノを買う」ことに違いはない。来月の小遣いを前借りしようとしても、ダメです!って言われ、お金を借りてまで使うんじゃありませんって説教されているのに、なんで皆それをやってるの?と。

 要はビジネスと資本の関係ですけど、ビジネスというのは「お金儲けシステムの構築」だといえます。こーやって、あーなって、そしてお金が儲かるのでした〜というシステムを作ると。「こうすれば儲かる」というパターンを自分で考え、実現すること。別にそんな新規なシステムでなくても、既存のラーメン屋さんでも引っ越し屋さんでもなんでもいいです。まず技術を身につける。客が呼べるだけの美味しいラーメンを作る技術。それには仕入れの知識やら店舗や人材管理の知識技術も入ります。あるいは引越屋をやるだけのノウハウを得る。その上で自分でやるわけですけど、そのためには資本が要る。テナント借りて、権利金や保証金払って、インテリア内装をやって、什器備品をリースして、広告打って、しめて1000万円かかると。でも自己資金は貯めてきた300万しかない。あとの700万は借りて、月々の売上300万で儲けが70万で、うち返済分を35万だとすれば元本だけなら20回で返済できる。利息もふくめて30回、2年半くらいやってれば借金はなくなるし、そっから先は全部儲けだと、よし、やってみよ〜と。これを自分でやってみたら、なぜ人々が銀行からお金を借りるという行動に出るのかよくわかるでしょう。

 こうすれば儲かるという将来の見通しがある、でもそれを実行するにはモトデがいる、それを貯めているといつになるのかわからないし、早くても3年後になるだろう。だったら先にお金を借りて今日からでもスタートさせてしまえば、3年後には借金も完済できて、自分のビジネスも廻っているという状態になる。コツコツ貯めて3年後にようやく始めるよりも、こっちの方が全然得ではないか、つまりお金を借りたほうが得ではないかってことです。そこで資金需要というのが出てきて、銀行という商売が成立する。



融通手形の抗弁

 もっと分からないのは商業的な資金繰りのリアルです。これは大学法学部に入った時にもそうで、手形小切手法とかやるわけですけど、その一番大本の部分、「なんで手形なんてモノがこの世にあるの?」と。これねー、リアルに理解するためには、自分で商売やってみないと分からんかもしれんです。身にしみて「ああ、なるほど」と理解するためには。

 90日とか120日とかクソ長い支払期限(サイト)の約束手形がなんで必要とされるのか、ニコニコ現金払いじゃダメなのか?というと、ダメだからです。建築関係とかサイトが長いですが、建築というのは非常に額が大きくなるので、よほど金が余ってない限り関係者は誰もが自己資金で廻せないです。数千万の家を建てるにしても、最初に幾ら、棟上げまでいったら幾らという出来高払いが多い。でも現場は今日からでも整地作業やら土木工事が始まるわけで、それらを自分でやるにしても資材費用がかかるし、下請けに出すにしても費用がかかる。後から代金が入ってくるにしても、それらの費用を先に払ってあげないといけない。タイムラグが生じるわけです。それを埋め合わせる方法、自分が支払うのは未来なんだけど、相手は払ってもらったのとほぼ同じ利益を得るといういいとこ取りの方法はないか?で考案されたのが約束手形で、手形を振り出す自分は、120日サイトだったら120日後に銀行口座に決済代金を積んでおけばいい。一方手形の受取人は、この手形を「割引」(一種の売却)という形で利息は差し引かれるけど即時現金化することが出来るし、あるいはその手形を金券同様に自分の他の支払いに使うことも出来る。

 これらの理屈は大学や教科書で教わりますが、実際にはピンときませんわ。やってないもん。これもバイト先やら、実家がやってるやらで、社長さんが「明日になったら◯◯の入金があるから、そしたら一番であんたのところに払うから、頼むわ、もう一日だけ待ってくれんか?」とやってるのを見てると、「資金繰りとは何か」がわかると思います。ましてや、歯車が狂って、アテにしていた入金がない、今度は相手から泣いて頼まれたとか、連鎖倒産食らったとか、夜逃げしたとか、そういう修羅場を体験するといっそう切実にわかるでしょう。そういう実感が増えるにつれ、つまりは視野が広くなるにつれ、物事の理解がより正確に、立体的にリアルになる。「融通手形」という一見普通の手形のように見えながら、実は借金であり、それを相互に振り出し合う「書合手形」があります。それら基礎知識を理解した上で、手形法17条の「抗弁切断」が出てきて、さらに『甲は、乙に融通目的から約束手形を振り出し交付し、乙は丙に、丙は丁に裏書譲渡した後、丙は再度丁から裏書譲渡を受けた。この場合に手形法上生じる問題点について論ぜよ』なんて問題をやるわけですね。大学の授業では、ハタチそこそこの若造がいきなりコレをやるわけで、そりゃわかるわけないですよ。そりゃ「難しい」ですよ。

 でもその「難しさ」は、理論そのものが複雑なのではなく、外人さんの寿司と同じくピンとくるかこないか、そういう現場を知ってるかどうか、物事の実相をどれだけ広く見聞してきてるかによります。内容的な純粋な難易度でいえば、「後出しジャンケンは許されるか?許されないとすればなぜか?」という程度のレベルですよー。

 

類推という飛躍のためのジャンプ台

 実地で体験すれば、別に頭なんか使わなくてもかなり正確に、ニュアンスも含めて丸っぽ理解することができるってことですが、だからといって森羅万象の全てを実体験することは千年あっても不可能でしょう。そもそも世界史なんか、タイムマシンもないのにどうやって体験するのよ?って話もあるでしょう。それは無理ですよね。

 でも人間には類推能力というのがあります。ドンピシャで同じでなくとも、似たような体験をしていたら何となく感覚はわかる。この「似てるからわかる」というファジーで直感的な把握力というのは、人間の脳のすごい武器らしいですね。相似連想力とでもいうのか、誰かの顔写真みて「タコみたい」とかいって笑ったりするけど、そういう発想の飛び道具みたいな機能というのは人工知能では難しいと聞いたことがあります。確かに。何もかもデジタルに処理する手法では、「どこがタコやねん!」ってことになるでしょう。

 この連想理解力を使えば、必ずしも直接体験しなくても、かなり応用がききますし、連想のジャンプ台になりうる素材が多ければ多いほど、より多くの物事を理解しやすくなる。この素材を集めること、それがすなわち「視野を広げる」ことだと思います。

歴史=人間という素材理解と洞察力

 例えば歴史にしても、とある政権が一定維持されたと思ったら、ある時期を境にガラガラと崩壊していくわけですが、なぜそうなるか?のニュアンスです。ある場合は君主の暴君ぶりに下の連中がうんざりしたってこともあるでしょうし、綱紀が緩んで不正が横行したとかいう場合もあるでしょう。このあたりの人間集団のニュアンスというのは、バイト先の店長が超暴君だったりすると、多少はわかるような気がします。たまんねーよなって感じで皆ムカつく。じゃあ皆で立ち上がって抗議すればいいじゃないかって話になるけど、バカヤロー、そんなこと言える雰囲気じゃないんだよ!ってのもある。この「雰囲気」をバイト先なり部活などで実体感すると、ああ、だからこの時期の連中はビビりまくってたんだなーってのも想像がつく。そんな中で、「◯◯の乱」とか起きるわけですけど、ああよっぽどなんかあったんだよなーというのも推測できる。また、人類の歴史は嫉妬の歴史というか、「ちくしょー、なんであいつが!」って気分は誰にでもあって、それがもとでイザコザが起きる。

 人間ってそんな立派なもんじゃないな、かなりヘタレだし、増長するととんでもないレベルまでいくな、恨みや嫉妬は怖いよな、でも捨てたもんでもないよな、こういう人達もいるし、そういう感情もわかるわーって体験が増えるほどに、歴史の「なんでそうなるの?」がより身近に感じられるようになるでしょう。特に歴史系はそうですけど、省略して簡潔に書けば書くほど感情移入できないからわかりにくくなる。薄い本が簡単そうにみえるのは大間違いで、分からなかったら超分厚い本を読んだ方が早いです。それは、ものすごーく面白いマンガでも、単行本の「前巻までのあらすじ」がぜーんぜん面白くないのと一緒です。

 この現場のリアルな雰囲気や、人間的な感情共鳴が出来るほど、頭なんか良くある必要はない。すっと分かる。これを別の言葉でいうと『洞察力』とかいうのでしょう。年をとると記憶力(特に固有名詞など)は落ちますが、洞察力は逆に増強するといいます。だから年齢を理由に「わからない」というのは言い訳なんだろうけど(世間で最高権力を持って切り回しているのはジジババだし)、年とともに類推ジャンプ台が増えますから、「ははあ、多分、こういうことだろ?」とちょっと聞いただけでリアルな実体が推測できるようになる。これは肉体年齢や歴数年齢ではなく、精神年齢であり、経験年齢でしょう。馬齢を重ねるという言い方がありますが、年をとっても経験数が少なかったり、領域が偏っていたりしたら洞察力はやっぱり低いでしょう。




採点官の心理を読む

 それとは別に全然違った視点もあります。これは試験対策になるんだけど、自分で塾の教師のバイトをやるなどすると、よく見えてくるものがあります。僕も後輩の指導で必死こいて模擬試験の問題を作ったり採点したりしましたが、自分で問題作るとなると物凄い制約があるのがわかります。よく「出るところなんか決まってる」とかいいますが、確かにそうならざるを得ない。なぜなら試験というのは客観的に差が出ないとダメです。だからああも言える、こうも言える、諸説入り乱れて〜ってところは出題しにくい。サロン的に議論するには超面白いテーマなんだけど、面白すぎて出題には不向き。誰が解いても正解は(2)みたいに明快でなければ。かといって、誰が見ても明らかだったら誰も間違えないわけで、それでは試験にならない。でも誰もわからないんだったら意味がない。そしてレベルに応じて難易度を散らしていかないとならない。90点取れる人にはわかるけど80点の人にはわからない問題や、20点にはわからないけど30点にはわかるという問題を適切に配置しないといけない。そこから逆算していけば、とある問題をみても、こういう方向に考えていくと解決しなくなるからそれは違うなとかあたりがつく。

 現国なんかこの推理力で大体点が取れたりしますよね。よく出来ている小説で清水義範氏の「国語問題必勝法」という短編小説がありますが、ほんとそのとおりだと思います。もともと文学のように「感じ方はその人の自由」というアート系の題材で、正解・不正解を客観的につけようというのが無理なんですけど、それを敢えてやるならどうなるか?です。読解力問題でも「筆者の記述に最も合致するものはどれか」と出ますけど、大体ひっかけ問題で出るのは、「そこまでは明確に言ってない」という推論部分です。これが不正解。例えば桃太郎の話を読ませて、「鬼を退治するためには犬や猿などとのチームワークが大事であること」「鬼のような悪は必ず滅びること」「桃太郎のような勇気がこの世を良くしていくのだということ」とか選択肢があったりするのですが、だいたいそれって不正解です。そこまでは言ってないですから。では正解は?というと、「キビ団子をあげることで動物を仲間にした」というクソ詰まらない選択肢だったりするのですね。確かにそれが「もっとも記述に合致」してるからです。だからこの種の問題を解くときは、一瞬そうだと思うけど、「いや、そこまでは言ってないだろ?」と微妙にブレーキをかけられるかどうかがキモになる。

 ここでそんなの国語の問題なのか?ただのトンチ問題じゃないかと思う人は理解が浅いと思いますよ。「読解力」ってそういうもんでしょう。実際の仕事だってそうですもん。人は自分が思ってる方向に勝手に延長線を引きがちです。そう思って読むからそう読めるって部分が多い。だから仕事のプレゼンや説得をしようとして、「この統計資料でも分かるように」と決定的な補強証拠としてバーンと出したりするんだけど、クライアントから「この資料からどうしてそういう結論になるのかね?」「◯◯と見れば、真逆の結論も出せるんじゃないかね?」とか指摘されてドカーン爆死するわけです。他人の文章や言葉を、自分の都合の良いように我田引水しないこと、あくまで書かれていることの意味内容の範囲はここまでと正確に見きれることが、読解力だと言うのだと。もっと言えば、勝手な思い込みをする人は実務では使えませんもんね。

 こういった解法のテクニックというのがあって、それは受験技術ではあるんだけど、(採点官の)人間心理の推測からも出来る。これを応用すれば、上司が部下を評価するときとか、入社試験でどう見ているかというもある程度わかる。また、役所と交渉するときも、こういう話の持って行き方をすれば向こうも拒否しにくいとか、そのあたりが読めるようになる。

まとめ

 長くなってきたのでそろそろ止めますが、ベースとなる体験や、その体験の領土の広さ(視野の広さ)があるほど、推論するためのジャンプ台が沢山あるということで、ヒントが増える。だから、結果的に頭が良いかのように見えるし、現実的にも頭が良いのと同じ結論になりうる。ここまでわかればあとは同じで、そうやって体験・視野→ヒント・ジャンプ台→推論→正解という率が増えれば増えるほど、物事楽になっていきます。いわゆる「仕事がデキる」というのも、このヒントを豊富にもってるかどうかで決まる部分が多いです。そして、仕事がデキるようになれば、より少ない努力でより稼げるようになる(まあ、便利使いされて却って消耗する場合もあるが)と。

 頭が良いというのは、このヒントが少なかったり、推論や連想の飛距離が長くても、それでもポーンと正確に飛べるかどうかでしょう。ジャンプ力があるかどうか。でも、ジャンプ力を鍛えることもさることながら、ジャンプ台になる飛び石を沢山置いておいた方がより効率的でしょ?視野を広げるというのはそういうことだと思います。

間接投資

 いろいろな体験をして視野を広げるというのは、一種の「間接投資」です。直接なにかの役に立つものではないではない。だから即効性は無い。でも、直接役に立つ、即効性のあるものって、その分使用レンジが異様に狭いんですな。例えば、ある問題を解くときに、最高に即効性があるものはなにかといえば、その問題の解答集でしょう。それを見ればドンピシャにわかる。わかるんだけど、それはとある問題の正解が◯であるというだけしかわからず、そして普通全く同じ問題は二度と出ないということを考えると、そんなことを知っても将来的には全く役に立たない。将来的に役にたたないなら、やるだけ無駄です。

 ということで、時間と労力に余裕があるかぎり、直接投資よりも間接投資をした方が長い目で見れば得だと思います。現実レベルで間接投資とは何かといえば、いろいろな経験であり、そして広範な雑学でしょう。仕事がデキる人とか、頭が良い、あいつは切れると言われている人って、大体において物識りですよね。なんでそんなこと知ってるの?ってこと、なんの役にも立たなそうなことをことを知っている。広範な雑学が、その人の視野を広げて、あらゆる事象にステップストーンを予め敷かせて、それをケンケンパをするように飛んできて、正解に達するってことだと思います。「スジがいい」「外さない」というのも、大体それでしょう。










 文責:田村




★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
★→APLaCのトップに戻る
★→APLACのFacebook Page