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今週の一枚(2016/06/20)



Essay 779:雨天閑談〜困ったときは猫に訊け

 
 理想としての小学生と"敢えて放置"の非完璧主義

 写真は、Summee HillのENVYというCafe
 紹介は、FBのココ
 今週書こうと思ってたトピックがあるのですが、頭のなかでこねくり回している間に自分で飽きてしまいました(笑)。それだけよく練れているんだから書けば良いのだけど、なんとなく気乗りがしないので、今週はマッサラ出たとこ勝負でいきます。なんも考えてないけど、あと2時間くらいでどれだけ書けるか?というアドリブ一発で。


雨ばっか

 今、これを書いているのが日曜日の夕方なのですが、今日は終日雨でした。もうざんざん降り。2週間ほど前も延々大雨が続いて、えらい騒ぎになっておりましたが、またかよーという感じ。

 この火曜日(21日)は、日本では夏至、冬夏ひっくりかえる南半球のこちらでは冬至になります。日が一番短くなる日で、4時54分に日没、朝の7時に日の出です。もう日は短いわ、雨は降るわで、サマータイム時期とは真逆のどよよんデーであります。なんか気分が晴れないよーという。

 そういえばなんかしらんけど日曜日になると雨が降ってるような気がしますね。2週間前もそうだったような。アウトドア民族のオージーにとって、日曜が雨というのはかなりツライのではないかと推測されます。スポーツの試合なんかも順延だろうし。そういう時はおとなしく家でテレビでも見てるんじゃないかとおもいきや、それでは気が腐るからが、近所のショッピングセンターにどっと押し寄せたりします。

 先日も、(よせばいいのに)近所のChatswoodというところのショッピングセンターに行ってしまって、えらい目にあいました。もう駐車場が満杯で。というか駐車場に行くまでの道が既に大渋滞になっていて、今更横に抜けるわけもいかず、じっとガマンでノロノロ運転。地上5階も6階もある駐車棟で、大体ルーフトップ(屋上)に行くまでにどっか停まれるのだけど、そんな雰囲気まるでなし。仕方なしに屋上まであがっても車の海。ようやく見つけたのはいいけど、土砂降りだから車から出た瞬間にずぶ濡れになる。ドアを開ける前に傘を半開き状態でレディにして、すわっと飛び出し、ばーっと走る。ゲリラ兵士のように。それでも結構濡れてしまいました。

 降りてからがまた難儀で、こちらって排水がショボいから、ちょっと大雨が降るとすぐに溢れかえって洪水気味になるのですよ。駐車場内の人が通る歩道も外から横なぐりの雨が吹き込んで池みたいになってて、抜き足差し足という泥棒ウォーキングで歩くわ、階段棟の中は密閉されているはずなのに上の階から溢れかえった雨水がざーっと滝のように落ちてくるという。なんか、この光景見覚えあるなーと思ったら、爆撃を食らった潜水艦とか沈み始めたタイタニックのようなイメージですね。えらいもんです。



 写真ではうまく写ってないけど、手すりの切れ目あたり、上から滝のように水が落ちてました。


 数日後Walikingしたときの風景。根こそぎ〜って感じでぶっ倒れている木。もう台風みたいなもんでした。


 何の話をしているかというと、ただの世間話です。なんの教訓も、なんの含意もない、ふつーの世間話。お天気話は世間話の定番ですからねー。話題に詰まったら天気の話をしておけば間が持つという。


 しかしですね、ほとんど全身被弾みたいに濡れながらも、そこまでしてまでショッピングセンターに行きたいのか?と、僕はオージー諸君に問いかけたいのですが(自分も行ってるのだが)、まあ、行きたいんでしょうねえ。彼らの行動パターンやメンタリティというのは、ある意味では子供みたいなもので、自分が小学生だった頃を思い出すと大体当たっているのではないかと思われます。

 つまり、せっかくの日曜日、朝から雨、雨、雨!ってときに、小学生の自分ならどう思ったか?やっぱり、「つまんないよー!」と思ってたんじゃないかな。家にいたって代わり映えしないし、楽しくないよー、お外に行きたいよー、雨に濡れるくらいなんだよーって。遠足だって、雨天中止とかいわれるとめちゃくちゃ不満だったもんなー。えー、出来るじゃん!あのへんの空、青空がのぞいてるじゃん、やれば出来るじゃんって。

ある種の完成形としての小学生

 思い起こせば、小学生の頃はやたら行動的でしたよね。僕らの頃の男子のデフォルトは野球で、誰も彼もがグローブとバットを持ってて、新しいグローブなんかお年玉で買った日には、うれしくて抱いて寝たもんなー。下手なくせに。でもって、メンテ用の皮革油なんかをせっせと塗ったりして、テカテカ光るとそれがまた嬉しくて。下手なくせに。でもって、近所の子供とキャッチボールやりたくて、雨が降っても、小雨くらいだったら「このくらい大丈夫!」でずぶ濡れになりながらもキャッチボールやって、そのずぶ濡れ状態でまた「激闘甲子園!延長戦の末に、、」と勝手にドラマ仕立てにして又酔いしれたりしてたのを覚えている。なんか異様にアクティブなんですけど。ドラッグでもやっていたのか?ってくらいの。

 オーストラリアに来てから小学校時代のころをやたらよく思い出すというのは、折りに触れて書いてますが、最近ではあの頃が人間としてのひとつの完成形ではないかという気すらしています。生命力が横溢してて、原っぱが一つあれば、あるいは学校帰りの普通の道路であってさえ、ディズニーランドに匹敵するくらい、楽しいことが満ち満ちていた。なんぼでも楽しいことは思いつけた。遊びのアイディアだったら、汲めどもつきぬ泉のようにこんこんと湧き出ていた。

 特に夏休みの最初の日、というか終業式の日なんか、通信簿という有罪判決書を手渡されるわけで、そこだけが玉に瑕なんだけど、それを抜かせばもう天国。もううれし過ぎて死んじゃうんじゃないかってくらい嬉しかったもんなー。明日から何しよう、あれしよう、これしよう、わーどうしよー!という。学校いかなくていいというだけで、なんであれほどまでに嬉しかったんだろう。ただ普通に生きてるだけで歓喜に満ち満ちていた。僕がエッセイでよく書く「絶対的な幸福」ってやつです。

 それがだんだん年を取るにつれて、社会に毒されて、コマーシャリズムに洗脳されて、生命力がしょぼくなってくる。楽しいことを自分で思いつけない。テレビや、ネットや、雑誌やら流行やらで「楽しいことを教えてもらう」という感じになってくる。もーねー、楽しいことを教えてもらわないとならない時点でもう終わってるというか、半分死体みたいなもんだと思いますわ。もっと言えば、生きてるだけでハッピーで楽しくなかったら、もう病気だと思うもん。

 オーストラリアに来てそれを思い出したし、それ以前に日本に居る頃から「なんか変だぞ」「絶対おかしい」とは思ってた。繰り返しになるから詳しくは書かないけど、楽しくなるために金が必要という時点で「ヤバい!」と思ってましたよ。金が必要ということは、商品を買うということで、誰かが仕組んだ楽しいシステムを買ってるだけの話、つまりは自分で楽しさを創造できてないことで、そこがヤバいと。これはハッキリとそういう言葉で認識しました。あー、俺、壊れてるかもと。「人として」どうというもっと以前に、「生物として」とアカンぞと。

困ったときは猫に訊け

 「困ったときは猫に訊け!」という意味なしフレーズを思いついて、よく使って遊んでましたが、ほんと自分は犬猫以下だなー、ニャンコ先生だなーと。彼らの快楽に対する貪欲さ、手間暇を惜しまない誠実さは学ぶに値します。人が寝てるのにお構い無くベッドに上がり込んできて、眠くて邪魔臭さがってる飼い主なんか気にせもせず、自分が気持よく寝れる位置を、納得がいくまで何度も何度もやりなおしてセッティングする。他人の目など気にせず、気持ち良いことに関しては絶対に妥協しない。美味しいものを食べてるときは無条件で機嫌よさげだけど、食べられるかどうかについては、超真剣にクンクン嗅いで入念に確かめる。リスク管理と幸福実現がこのうえない形で融合し、まさに攻防一如。

 俺は彼らほど真剣に生きているのか?というと、あかん完全に負けてるなー、ダメだなーと思ったもんです。まずメシを全身全霊で食ってない、という時点でもう不合格。なんか義務的な、仕方がないから食ってる的な。マズローの欲求5段階説をとくまでもなく、食欲とか睡眠欲、性欲はもっとも原始的な欲求であって、社会的な他者認知とか、自己実現とかは、全て基本が出来てからの話でしょう。メシに気合が入ってないとか、よく眠れないとかいう時点で、もう基礎からやり直すべきだと。イノチを舐めとんのか?と。そりゃ仕事が忙しいとか、家計の収支がとかいろいろあるけど、本末転倒だろうと。仕事をとるか、メシをとるかでいえば、断然メシを取るべきで、そんなもん即答も即答、1秒以上答えるのに時間がかかったらもう失格だろと。

 まあ若気の至りは、馬鹿気の至りで、仕事が忙しくてメシなんか食ってるヒマないよーみたいなことを誇らしげに言っていた愚かな時代もありました。ボロボロになるまで働くのがカッコいいみたいな。まあ、それなりに充実感はあるし、それで何ほどかの成果もあったので全否定するつもりはないですけど、でもね、それもこれも生き物としての基本を健やかに満たしてこその話だろうと思うのです。もしそれが出来ないなら、一つにはプロとしての技量が未熟であり猛省すべきである。あんな徹夜するまで追い込まれるというのは、それだけ仕事が遅いということである。もっと上達すべき。もう一つは、ワーク・ライフ・バランス(そんな言葉25年前にはなかったが)のマネジメントが下手クソすぎるわけで、それも猛省すべき。そもそも、それを問題だと思わない時点で、お前、ちょっと人格崩壊してこいってな感じで、自分に駄目出ししてました。

 そういう問題意識でこっちに来たわけですから、そのあたりには敏感になるもので、オージーの小学生感性ぶりには感心したものです。すげーな、こいつらと。スポーツ大好き、アウトドア大好きとかいうのも、主義主張でやってるとか、流行ってるからとかではなく、小学生の頃の「身体を動かすと気持ちがいい」「お外は気持ちがいい」ということを守っているだけのことだと思うのですよ。いや「守っている」という意識すらないのだろう。僕らのように、なんかこましゃくれて、薄らいでいないだけのことだと思う。誰だって身体を動かせば気持ちいいし、外は気持ちいいです。別に健康のためとかゴタク並べて頭で納得なんかする必要はない。「気持ち良さ」という原点さえしっかり鮮明にあれば、あとは自ずと行動も決まる。


 で、何の話かというと、洪水で地方では人死すら出ているような大雨にもメゲずに、大渋滞を引き起こしてまでショッピングセンターに押しかけているオージー連中を見てて、相変わらずだなあというか、やってるなあっていうか、なにほどかの肯定的な得心をえたのであったということです。

価値相剋

 天気の世間話でも喋ってるとなんか出てくるもんで、さらに続きます。思弁的にこねくり回すいつもの粘土遊びみたいなものですが、規範衝突や価値相剋の話です。正義と正義がぶつかったとき、どうするの?ということで、一方が他方を打ち負かすのか、それともしっかり話し合って緻密な和解条項を作るのか、それともお互いに意識しつつも知らんぷりするのか。

 例えば、便利という正義があります。正義っていうのも変かな(笑)、まあ便利であることはイイコトであるというなんかしらの価値観ですね。確かにそれは一面真理で、谷底までヒーハー言いながら水汲んでくるよりも、蛇口ひねったら清潔な飲水がじゃばじゃば出てくる方がいいです。んでも、便利にしすぎちゃうとどっかで何かが失われるかもしれない。質量保存の法則やらアイソスタシーみたいに、どっかが凸になると、どっかが凹になる。

 SFの未来世界みたいに何もかもが超便利になって、ボタンひとつで全てやってくれる、いやボタンすら押す必要がなく脳内でそう思えば、微妙な脳波の変化を的確に捉えて実行してくれる。お風呂!と思うと自動的に湯船に湯が注がれ、コーヒーと思うと勝手に入れてくれてロボットが持ってきてくれると。さて、そこで失われるものはなにか?ですが、とりあえずは健康でしょうね。運動不足で成人病になりそう。

 次に失われるのは生きがいというか、生きているザラザラした実感みたいなものだと思います。あれこれ苦労して、やっとの思いで成し遂げるからこそ達成感もあり、生きがいもある。何もかもがスムースに実現してしまったら、なんかあんまり面白くなさそうです。そこで、達成幸福を得るための苦労は苦労で、また別途考案されるわけですね。例えばゲームであったり、例えばスポーツであったり。なっかなか思ったとおりにいかない、うぬ、くそ、今度こそ!で苦労しながら達成していくという遊びがある。

 あれ?とか思うのですよ。一方で金払って苦労を除去して楽をして、他方でまた金払って苦労を買っているという。結局、苦労したいの、したくないの、どっちなの?と。遊びは明らかに苦労派ですよね。パズルなんか典型的だけど、むむむと油汗流して難問にチャレンジするわけですが、「便利」「楽」にしたかったら、最初から解答を見たらいいわけです。一番カンタンで、一番楽です。てか、最初からそんなパズルやらなきゃいいわけです。でも、それじゃ意味がない。

 便利=正義だとしても、便利にしたら意味がないものも多い。なんで意味がないのかというと、興趣を削ぐから、つまり面白くないからです。ここにおいて、価値相剋としては、便利さ vs 面白さという2つの正義が対立するわけです。便利にしちゃうと苦労(=面白さの元みたいなモノ)を殺してしまう。

 そこでその対立をどう解消するかですが、今あるのは、生活必要事項についてはなんであれ便利優勢で、遊びに関しては不便(面白さ)優勢にしている。お互いナワバリのようなものを設けて、それぞれ共存共栄しているってことですけど、そうなのか?本当にそれでいいのか?って疑問もあります。

 そんなさー、一方で手間暇かけて金かけて便利にして、その挙句につまんなくなったり、運動不足になったりするから、今度はせっせと遊びで苦労して、フィットネスジムで汗かいて苦労してって、なんかトータルで無駄が多くないか?とりあえず無駄に金がかかり過ぎないか?と。だったら最初からそんなに便利にしすぎないで、敢えて不便なまま放置して、適当に苦労するくらいでいいんじゃないか。谷底まで水汲みはさすがにツライから改善するとしても、庭先にある井戸のポンプをがちゃがちゃ汲むくらいの便利さでもいいんじゃないかとか。

 つまり便利と面白さという対立価値については、完全専用領域(ナワバリ)でイケイケにするのではなく、同じ敷地でここからここまでと折衷・妥協していったほうがいいんじゃないかと。

やり過ぎない〜敢えて残置する非完璧主義

 以上が考え方の原型ですが、以後、これの応用になります。
 キモは、一つの正義、一つの価値観一本でやり過ぎてしまわないこと、だと思います。一つの価値観だけで全てを塗りつぶすことは出来ない、それをやってしまうと必ずやどっかでバックラッシュがあるよという観点から、一つの価値観を実現するにしても完璧にはやらない。やろうと思えば100%完璧にできるのだけど、敢えて不完全のままにしておく。

 このあたりのレシピー比率というのは、ある意味、永遠の課題みたいなもので、どんな領域でも専門家が頭を悩ませるところだと思います。

 例えば教育なんかもそうでしょう。あまり教えすぎてもイケナイという。確かに完璧にわかりやすく理解させることは可能なんだけど、他人言われて理解したとしても、その理解はやっぱり甘いし浅い。本人があれこれ苦労して、場合によっては死ぬような思いで何事かを掴み取るような過程を経ないと本当の意味では身につかないということはあるでしょう。職業上の技術なんかこの種のものが多いでしょうし、一般の子供への教え方でも、その種の発想はあるでしょう。自分で考えさせるというプロセスを大事にすると。「教える」という概念には、「敢えて教えない」という真逆の要素をも含むということですね。

 同じように何もかも完全にやってあげちゃうと、過保護になったり、依存癖がつくので好ましくない。どっかで線を引いて、ケースバイケースで、敢えて無慈悲に突き放すということをしないと、バランスが崩れるってのもあるでしょう。

 そして先程の小学生感性や成長ということについていえば、ある部分は大人として成長させ、ある部分は敢えて子供のままに残置させる。乱開発して自然を殺すようなことはしない、という発想もアリだと思います。あまりにも緻密に作りこんでしまうと、野生のワイルドさや猛々しい生命力が失われる。「角を矯めて牛を殺す」ことになる。

 そうは言いながらも、個別具体的な局面で、「ここは不完全のまま放置!」って判断&実行するのは、それなりに哲学も勇気も要ると思います。なにしろその気になったら完璧に出来てしまうにもかかわらず、それを「敢えてやらない」というのは、ツライですよ。完全にできる能力がありながらも、意図的に「いい加減にほったらかす」なんて、かなりフラストレーションが溜まりそうで、なかなか出来ることじゃないですよ。より広い視野と深い考察がないと。

 僕ら日本人の特性なのかもしれないけど、この種の放置プレイをするのに後ろ髪を引っ張るのは、「凝り性」という傾向かもしれません。なんせ細かいところまで完璧に作りこむのが好きですから。それが作品や製品の高度な完成度を誇り、競争優位性をもたらす部分もあるのだけど、過去にも何度か書いたように無駄に高コスト社会になる要因でもあります。大脳の作業性興奮はよく書きますが、一旦その気になったらトコトンやってしまうという脳の生理ですが、やってるうちにムキになってきて、生産性やら効率やらガン無視して、もう完璧のための完璧を目指すようになる。完全美に取り憑かれてしまう。こういう性質を持ってると、「あえて放置」というのは心理的に難しいでしょうねー。

 戦国末期に千利休や丿貫あたりが言ってた「わび、さび」というのは、私見によればこのアンチテーゼ(対立命題)かジンテーゼ(昇華命題)だったのではないかと。まあ素人考えですけど、完璧に作りこみ過ぎると面白くなくなっちゃうよね、野趣がないよね、自然の素朴な肌触りが失われるよね、なんか大事なものが抜け落ちるよね、だからテキトーでいいんだよ、たとえそれが不完全で不便であったとしても、そうなる過程が自然でいい感じのするものだったら、それはそのまま大事に残置させておけばいいんだよ、、、あたりの発想じゃないかと。連載漫画の「へうげもの」あたりを読んでても思うのですが。

 でも、これ死ぬほど難しいと思いますよ。自然の趣きとかさ、敢えてやり過ぎないとかいっても、そこに何らかの人智やら計算やら配慮があるわけで、「緻密に作りこんでる」という意味では、さらにディープに作りこんでいるわけですよ。そこに意図がもつ人工性や、計算しているイヤらしさやら、「あざとさ」が出てきてしまったらぶち壊しなわけでしょう?この加減がスーパー難しいだろうなーと。

 でね、一方では「数寄」「婆娑羅」とか、後年の歌舞伎に通じるギミックばりばりの意図性丸出しの子供じみた「奇を衒う」のもアリだとされているわけですよ。「素」が良いのか、「奇」が良いのか。まるで真逆じゃん。そこで、それを昇華させるものとして、そこでの意図に子供のような無邪気さや自然さがあったらOKだという。でも、それを突き詰めていくと、難解なアート論になったり哲学になったりしていって、その難解さや衒学趣味が既にイヤらしくなったりして、もう大変。

 いずれにせよ、この「意識的に意識しないようにする」みたいな絶対矛盾が難しいわけです。この絶対矛盾を突き詰めていくと、「やる価値」「やらない価値」の価値相剋になっていくのだと思います。

 で、そろそろマトメてもいいかな、てかこんな世間話にマトメもなにもあるわけないけど、実践的な心構えでいうと、一つの価値観だけで猫まっしぐら的にGO!って突っ走ってしまうのはいかがなものか?と。常に、対立する価値観があることを念頭に、やり過ぎない。達成快感があるにもかかわらず、寸止め地獄にしておくと(笑)。

 これって何にでも応用が効きますよねー。
 極端な話、ナンパだってそうだと思うのですよ。下心がありすぎるのは勿論ダメっす。だけど下心が全然ないのも「いい友達」を量産するだけで不毛だと。この下心の出し具合、まさに「ダシ=出汁」ですけど、その加減が難しい。背景や抽象空気としてはイヤらしいんだけど、前景や具象としては爽やか君でなければならないとかさ、あるじゃん?

 部下の教育なんかでも、親切な部分と不親切な部分がいい加減に入り混じってるくらいがいいんだけど、そのレシピーたるや超難しい。料理の味加減でも、付け過ぎたら調味料の味しかしないし、自然の味だけだと薄くて物足りない、どこで線をひくかとか。対人関係でも、適当に突っ込みどころを残しておいた方がいい、完璧くんは今ひとつ敬遠されるとか。なんでもそうです。

 そんで、今思うのは、これって個別の局面でいちいち計算して「このくらい」とか中々出来るものではないよなーということです。まあ調理や教育のようなプロフェッショナルな技術体系としては極めることができるかしらんけど、日常一般についていちいちそんなこと考えてられないって。そうなると、もう人格レベルの問題かなと。つまり、「いい感じにいい加減な人」がいいんだろうなー、目指すのはそこだなーと(笑)。いやいや、目指すものなのか?とか(笑)。

 そのあたりで悩んだら、やっぱ猫に訊いてみるのがいいですよ。愛想がいいんだか悪いんだか、無邪気なんだか姑息なんだか、異様に執拗かと思えばケロリと忘れたり、常に突っ込みどころを残しているし、計算してるんだかしてないんだか全然わからないし、その配合レシピーがすげえなって。


 雨ばっか降ってるわけじゃないよということで、小春日和ののんびり写真をあげておきます。冒頭写真と同じく、ENVYにて。


 寒くなるとホットチョコレートがいいですよね。白いのはホワイトチョコレートです。ケーキはストロベリー・チーズケーキ。











 文責:田村




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