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今週の一枚(2016/06/06)



Essay 777:人生カレンダーと皆同戦略

 タイマーは自分で設定しよう

 写真は、秋深しのMacquarie大学のキャンパス
 うむ、やはり大学に落ち葉の並木はよく似合うなーと。

ピンチはチャンスなのではあるが、、、

 よく「自宅(or自分のオフィス等)で物を探しているときは、整理するチャンスだと思え!」と言われます。

 ずーっと前にそのことを読んで「なるほどっ!」ポン(←膝を打つ音)と思って、以来そうしています。確かにそうなんですよね。「あー、くそ、何処にやっちゃったかなあ」とイライラして本棚や引き出しを引っ掻き回しているのですが、あれって自分の周囲の総棚卸しスキャンをやってるようなもので、「これ、もう要らんちゃう?」「なんでこんなものがココに置いてあるの?」というヒントの宝庫でもあります。この機会に目についた部分だけでも整理しておくと、あとあとの作業効率が格段に違ってきます。

 僕自身、きれい好きとかそういうタイプでは全然ないです。むしろ真逆。もう部屋中散らかり放題が普通。開き直って、「整理整頓など女子供のやることじゃい、がはは!」という頭の悪いバーバリズムで誤魔化したりする、どこにでもいる市井の中二病患者でありました。死んでしまえ〜って感じ?が、年とともに綺麗になっていきますねー。僕だけではなく、老人の部屋をイメージすると、だいたい整理されているでしょう?ぐちゃぐちゃに散乱しているのは大体ティーン・エイジャーの部屋が多く、徐々に整理されていく。なんでなんかな?やっぱ年とともに賢くなるんでしょうかねー。

 何の話かというと、災い転じて福となす、という話です。モノが見つからないという、無駄で消耗するネガティブな時間を過ごしているのだけど、視点を変えれば、絶好のチャンスでもあるわけです。こんなことでもないと中々整理なんかしないしね。ある意味では「将来への先行投資」とすら言える。

 どんな悲惨な状況でも、それで死んでしまうのでなければ、チャンスに代えられます。てか本質的には同じことですから。困っている=これまで気づかなかった問題状況がわかりやすく展開されている=問題状況を改善する絶好の機会であるということで、大病したら健康を真剣に考える機会であるし。

 とは言うものの、追い込まれてから何かするのは、一般には勝率は低いです。できれば追い込まれる前にカタを付けてしまった方がいい。災い転じて福となすというのは、既に”事件”が生じてしまってからの対応策の話。「それはそれでやりようはナンボでもあるよ」というレベルの話です。本来の戦場はそうなる前にあるはず。なんの問題も起きていない段階で、いかに将来を見通して物事を組み立てていくか。それを怠ると、なんとなく追い込まれてきて、精神的に逼迫してきて、およそ解決とはほど遠いカタチばかりの解決に走ったりもします。これが先行投資の逆で、先行逆投資というか、時限爆弾を自分でセッティングしているような話になります。今週はそのあたりの話を。


追い込まれ→アホ化パターンを避けるために

 「先んじて勝つ」という、未来を予測して、先にどんどん手を打っておいて、有利な状況を作り上げていくのが理想っちゃ理想でしょう。難しいし、これが簡単にできたら苦労はいらないんだけど。ただ、そこそこ長いこと生きてきて、それをやろうとする場合、これはタブーだなと思う点があります。

 なにかというと、
  (1)人生的なカレンダー(タイムリミットや時機)
  (2)「みんな」の存在

 この2点は頭から消去した方が良い、という点です。

 人生カレンダーというと、高校の後半になると「そろそろ受験だから」とか、大学にいくと「就活の時機だから」とか、結婚適齢期とか、出産適齢期とか、その種の話です。まあ、確かに一つの機会になるし、無視することもできないんだけど、それがモチベーションの全てになったらヤバいと思う。

 そして、「今、人生カレンダーを買うと漏れなくお洒落小鉢がついてきます」的についてくるのが、「みんな(世間)」の動向です。皆が就活にいそしみ始めると、「おお、俺もやらなきゃ」で焦ってやり始める的な態度です。

不安モチベの最悪性

 それの何がダメなのよ?というと、その時点で既に「追い込まれている」からです。もう防戦態勢になっている。このまま何もしないと人並みの幸せはゲットできず、落ちこぼれになり、みじめったらしい人生が広がるんじゃなかろかという恐怖や不安にかられる。

 なんでもそうだけど、恐怖や不安がモチベーションなってる行動の多くは失敗すると思います。「こうなりたい」「楽しいから」という快楽がモチベーションにならないと。これは過去にさんざん書いてますが、不安モチベの何が悪いかというと、ものすごーく採算が悪いからです。だって、最大限上手くいっても「不安の解消」というゼロだもん。家が火事になりそうになって無事鎮火しましたって話であり、最高にうまくいってトントンです。最初からマイナス背負って、マイナスをいかにゼロにするかというフォーマットで物事やってたら、これはしんどいですよー。それに「最大限うまくいって」とか言ってるけど、そんなことリアルワールドにはありえないです。普通に68点とか37点になるのが関の山なのだ。仮に98点とったところで、それでも100点よりもマイナス2点であり、2点分現状よりも確実に悪くなる。そして、そのネガを終生引きずる。

 軍師的に言えば、そんな戦争しちゃダメっす。最高にうまくいってゼロだなんて、何てやりがいのない。

 人間、追い込まれると精神が逼迫してきますし、連動して頭が悪くなります。心臓がバクバクいってるときは、頭もバクバクいっててアホになると。アホになってるから気づかないんだけど、世間並になんかして、それでどうすんの?楽しいの?そもそもどう生きていきたいの?どうなったらハッピーなの?という部分がまるっぽ欠けてるからです。

 こうなればハッピー、こうなりたいなって部分は、行動における核弾頭みたいなもので超重要です。これがなかったら行動の本当の目的、ご褒美、ゴールが存在しないことになる。その代わり、「人並みに」「取り残されたくない」「不安解消」という、消極的で最高地点がゼロという、およそ成功率も達成感も低いものが目的がすり替わってしまう。そして、そのすり替えに気づかないという点が「アホ」だと言っているのです。

 もーね、そういうカタチになった時点で敗北確定と言ってもいいくらいです。追い込まれた時点でアウトだと。ブラジリアン柔術でマウント取られたようなものだと。
 正確に言えば、客観的に追い込まれというカタチだのモノがあるわけではなく、ココからココまでという写真のフレームワークのような、発想の切り取り方がよろしくないと。「受験が迫ってきた」と捉えるのではなく、「次のステージに飛躍するチャンスが来た」と思えば良い。要は発想ですわ。

 問題解決能力といいますが、その実質の半分以上は問題「発見」能力であり、問題「把握」「位置づけ」能力だと思います。どういう形で把握するか。追い込まれた形で把握しちゃうから「せめて人並みに」という漠たるゴール設定になるけど、「次のステージに飛躍」と捉えるなら、どういうステージに行きたいの?どうなりたいの?そこで何がしたいの?そもそも何処に行くと何が出来るのか知ってるの?というのが本質になるので、そこであれこれ考える事ができる。

リスクだけを単独で捉える愚かさ

 この追い込まれ阿呆パターンは、あらゆる物事に共通すると思います。専守防衛ではダメ。
 その意味でいえば、「もし◯◯が攻めてきたらどうする?」的な発想から全てが始まる防衛論や自衛隊論議もダメ。問題の建て方がスカタンだと。軍事力を軍事力としてしか考えないという視野の狭さね。問題を正しく把握するなら、地政学的にこういう位置にいるというのは動かしがたいから、それを所与の前提として考え、◯◯を含め、世界においてどのようにすれば日本の関連する人達がより豊かに人生を充実させられるか?という大きな戦略を考えなければ。◯◯に例えば中国なりロシアなりを入れるなら、あの膨大な国土とエネルギーとパワーとどう有機的に結合して、どう取り込んで、まさに合気道のように相手の力を利用して自分も豊かになれるか?でしょう。軍事力なり防衛力というのは、トータルのマネジメントのほんの一部でしかない。

 「もし◯◯があったら」とリスクを想定するのは大事なことだけど、それもこれも大きな戦略図なり計画あってこその話でしょう?そこだけポツンと孤立して考え始めたら変な方向にいく。彼女とデートの計画をたてるときに、もし途中でパンクしたらどうする?とか、ビーチでチンピラにからまれたらどうする?とか、そういったリスクや問題は想定しても良いし、対策を立ててもよい。しかし、それ「だけ」しか考えないのは阿呆でしょ。車は故障や事故があるからダメだ、公共交通機関も事故やら遅延やらあるかもしれないからダメだ、結局遠くにいくのはダメだになってしまう。チンピラその他の良からぬ人とのトラブルがあるから、それらがいそうな繁華街やリゾート地はダメだ、人の多いところはダメだ、しかし人通りの少ないところで出会ったらもっとダメだ、結局外に出るのはダメだになって、二人でひきこもっているしかない。

 結婚だって、リスクから先に入ったら、もし配偶者がDV鬼だったらどうするんだ?バクチ狂いになってしまったらどうする?浮気をしたらどうする?子供が生まれても障害をもってたらどうする、学校でいじめられたらどうする、逆に誰かをいじめ殺してしまったらどうする?不安やリスクなんか考えれば考えるだけ幾らでも出てくるのだ。それを起点にものを考えていて、より大きな絵図=「大好きな人と一緒にいて楽しく豊かな時間を紡いでいきたい」って部分がまるっぽ抜けてたら、出てくる答は常にひとつ=「何もしない方がいい」でしょう。そりゃそうだよ。素材が全部マイナスなんだから、いくら積み上げてもマイナスが増えるだけなんだもん。結局やらないのが一番いい。それが嵩じてくれば、生きていると辛いことばっかりだから、死ぬのが一番いい、自殺するのが最高の解決策だってなっていっちゃうでしょうが。

 くどいようだが、何がスカタンなのかといえば、力強い「こうなりたいなー」って快楽願望が無いことであり、それをゲットするための大きな戦略図が書けていないという点にあると思います。リスクをリスクとして「しか」考えられない時点でもう終わっていると。リスクというのは、それを上回る巨大な快楽をゲットするための障害物なのであって、そのトータルマネジメントのフォーマットなくしてモノ考えてはいけない。まず大体失敗する。てか成功しようがないではないか。マイナスばかり集めて何をどうしようというのか。

 「虎穴に入らずんば虎児を得ず」という言葉がありますが、リスクの本質はそれでしょう。親虎がいつ来るか分からない、出くわした途端に食べられてしまうようなリスクをなぜ犯すか?といえば、「虎子を得る」という目的があるからこそでしょう。それなのに、虎子を全く考えないまま虎穴に入るというフォーマットになるから「追い込まれた」感が出てくる。だからこそ親虎に出くわさず、何も起きずに五体満足に帰ってこられた良しとするみたいな「無事これ名馬」みたいな、ことなかれ発想になってしまう。

 ふう、こんだけしつこく書いたら、基本コンセプトは頭に入ったでしょう。




人生カレンダー

全自動タイマー設定

 そして、その間違ったフォーマット設定に陥りがちな原因の一つが「人生カレンダー」だ、というのが僕の(今さっき思いついた)考えです。

 中学→高校→大学→就職→結婚、、、などの人生の岐路が、あらかじめ全自動洗濯機のタイマー設定のように決められているのってどうよ?という話です。これらの岐路の本質は、「じゃあ、そろそろ次の世界にいってみようかー」ということであり、そのタイミングは人それぞれでしょう。

 現時点では、結婚に関しては完全にタイマー設定から外れたように思います。その昔は女性は中学生くらいで結婚するのが普通で、高校でママになっていた。戦後しばらくは10年くらい延長されて、20代前半が適齢期と言われ、それを過ぎたら「売れ残り」扱い。それがいまでは結婚しないという選択肢も全然アリだし、するにしてもその時期は個々人に任されている。自分なりに「そろそろかなー」と思うときにすればいいし、思わなければしなければいい。

 思うに中学の義務教育くらいまではお仕着せタイマーでもいいだろうし、だからこそ義務教育と言われる。義務教育といえば、よく誤解されがちなんだけど、学校にいくという子供の義務ではなく、子供を学校に通わせてあげるという親や国家社会の義務です。今の世の中に出て行くのに、足し算引き算も知らない、漢字も書けないままじゃマズイだろ、誰か教えてやれよ、どんな子供でも最低限そのくらいは教えてもらう権利があるようにしようよってことです。

 でも高校から先は、今の結婚と同じように本人の自由意志、自由なタイム感でやらせてやるのが一番いいとは思います。それを味噌もクソも一緒くたにして、◯歳になったらピーと鳴ってアレをしなくちゃ、◯歳になったらサイレンが鳴ってコレをしなくちゃってことになってるから、時間という大河に流されて、あるポイントになったら強制的に何かを選ばされるし、頑張らさせられる。特にこれといった特殊な意向がなければ、偏差値的に行ける高校が決まり、行ける大学が決まり、ひいては入れる会社も決まる。

 そのタイマー設定に合わせて自分の人生を作っていくというのもアリだし、そのあたりのタイム調整が上手な人はいます。でも、多くはなんで大学に行きたいの?なぜ今なの?といえば、「そういうタイマー設定だから」「そういうことになってるから」って感じでしょう。パチンコでもコンビニでも、そこに行きたいから行くわけなんだけど、もっと人生的に巨大な出来事になると、パチンコほどの自主性もないまま、行きたくなくても「時間だから」で行くという。

 あのー、思うんですけどねー、それで人生楽しくなったらそっちの方が不思議というか、奇跡というか。

主体性破壊システム

 いずれにせよ「やりたくてやるわけではない」「やらざるを得ない」という形になった時点で、もう追い込まれ状態であり、そうなった人の症状としての知能低下現象が起きて、前述の最高でゼロのクソ目的にすり替えてしまい、その愚劣さにも気づかないというアホアホ状態に陥ると。虎子もなにも考えずに、単におっかなびっくり虎穴に入るだけという無駄なリスクを犯すわけですな。

 人生カレンダーというのは、この「追い込まれ→阿呆化」という現象を毎年大量に生産しているという意味で罪深いと思いますよ。それの何がアカンのかといえば、人々から人生のイニシアチブを奪い、その人の主体性を破壊するからです。

 人生の幸福とは、何か自分が心から感じる「あそこに行きたい」「こうなりたい」ってサムシングがあって、それを少しづつ実現していく過程にあると思います(もっと多種多様であるがここではシンプルに)。その「〜したい」という願望は、それを願う主体あってこそです。主体がなければ願望もないし、ゴール設定もない。そして、ここはかなり大事なことだから、時間をかけて悩めばいい。40−50歳くらいまでに見えてくればいいくらいに僕は思ってます。そんなに簡単に見つかってたまるかってくらい(笑)。

 食事どきに何食べたい?って聞かれた時に、カツ丼!って即答できる場合はマレであり、通常あれこれ考える。うーん、そんなにお腹すいてないしなー、ダイエットしなきゃだしなー、脂っこいのはちょっとねー、でもアレはちょっと食べてみたいかなーってあれこれ考える筈。そこで「なにか軽いものを」って大きな方向性が定まり、より具体的なコレという一品が決まる。面倒臭かったり、忙しかったら昼飯抜きって場合もあるし、気がつけば深夜、うわ腹減った〜という場合もある。それを、時間がきたらチャイムが鳴って、こっちの気分お構いなしに、ゴハンですよ!でメニューが渡され、じっと周囲から見つめられながら、「ほら、早よ決めんかい、はよせえ、時間が終わってしまうぞ、食べないままだと地獄に落ちるぞ、ほらもう時間がないぞ、この優柔不断なグズが、だからお前はダメなんだ」とせっつかれたら、主体性なんか木端微塵に原子分解してしまっても不思議ではない。

 そして主体性がなくなった時点で、幸福製造(設定)能力が自分から失われるわけです。いわばもう「勝ちはない」状態になって、あとはいかに負けを減らすかというトホホなフォーマットに書き換えられる。そこまでいったら、あとは屠殺処理コンベアみたいなもので、言われるまま右にいったり、左にいったり、「おあずけ」「待て」と言われたら従順に待つように調教され、給料出ないのに残業しろと言われたらやってしまう。年休という権利がありながらも実際取れない、しかも取らないように相互監視するという。これって羊の群れより簡単ね。リアルな羊さんは恐いシェパードがワンワン吠えるから従うけど、ここでは羊相互で監視してくれるんだから、飼い主としてこんな楽ちんなことはない。こんな楽ばっかしてたら上のマネージメント能力が上昇することはない、そして他の農場(外国の企業)に経営能力で負けてしまう。外国の高官に「上にいくほど馬鹿が来る」と言われてしまう。

 まーね、人生カレンダーの全てがクソだというつもりはありませんよ。あれはあれでスタンダードの標準例みたいな参考価値はあります。ラーメンのパッケージに印刷されている写真のようなもので、盛り付けの参考例みたいなもの、ファッション雑誌のコーディネイト例みたいなもんでしょう。そのくらいには価値はある。でも金科玉条ではない。盛り付け例を食い入る様に見つめて、半切りゆで卵は絶対にラーメンのこの位置になくてはならない!みたいに思い込む必要はない。

 なんで日本社会では、こんな年齢タイマー設定が粛々と作動しているのか?を話しだしたら長くなるし、おおよそ見当もつくでしょ?だからそこは割愛。ただ、これまでもそうだったけど、これからはいっそうタイマー設定に乗ってるだけでは、上手く人生マネージできなくなるだろうなーとだけ書いておきます。



皆同戦略の愚劣さ

カレンダーのB面

 で、人生カレンダーのタイマー設定にレコードのB面のように当然にくっついてくるのが、「皆はどうしている」か基準です。これがまた輪をかけてよろしくないね。

 もともとやりたくてやってるわけではない人生カレンダーイベントですから、やってる本人に「こうなりたい!」という強いゴール設定や目的イメージがあるわけでもないし、快楽に対する切実な渇望があるわけでもない。もしそれがあるなら、自分の願望そのものがエンジンにも羅針盤にもなるから、他人なんかどうでもいい。競馬でどの馬に賭けるかを決める場合、皆はどうしているのかはオッズにも関わるから重要であり、また一番人気がどの馬かという事前情報も豊富に出回るけど、「みんなと同じになりたい」とは思わない。絶対に思わない。思うのは「当てて儲けたい!」だけです。皆と同じになるために競馬にいくわけではない。

 つまり「皆と同じに」というのは、競馬の馬券買いほどの主体性もない、何の願望も展望もない、出来ればやらないで済ませられたら最高なんだけどなーという、税金の支払いとか、痛そうな予防注射くらいにしか思ってない。もっといえば願望やチャンスどころか、単なる「災難」「不幸」くらいにしか思ってない。そしてその災難は、「皆から落伍してミジメな人生になること」だったりするから、そこでは当然に皆の動向が非常に気になる。振り付けを覚えないまま、皆で集団ダンスを踊らされているようなもので、周囲の人が右手をあげたら右手を、左足を出したら左足をって感じでシャドウイングするだけみたいになる。

不本意なことをやってるときは皆が気になる法則

 逆にいえばね、「皆」が気になるときって、やりたいことをやってない時だと思っていいんじゃないかな。本当に食いたいものを食べるとき、例えば自分の一番気に入ってる近所の贔屓のラーメン屋で食べるときは、その時の気分で自分の好きなように食べるでしょう。自分が一番美味しく感じられるように、楽しめるように食べるでしょう。今日はいきなりチャーシューから攻めたい気分なんだよねーとかいって。そこで皆の動向なんか気にならない。でも、日頃いかない一人5万円くらいの超高級レストランとかに行く羽目になったら、周囲が気になる、めちゃくちゃ気になる。自分だけなにか作法を間違って大恥かいているんじゃないかと思う。そういうときって、その種のちょっと上流な雰囲気を味わってみたいとかいうのはあるかしらんけど、多くは無理やり肩の凝る席に引きずり出されたりしている場合(お見合いとか接待とか)が多く、別にやりたくてやってるわけではない。ましてや、出てくる食べ物それ自体が目的なわけではない。てか何が出てくるのかメニューを見てもよう分からんってな感じでしょう。

 だもんで人目が気になるという時点で、もう敗北確定、チーンです。だってやりたいことやってないんだもん。やりたくないことやっててハッピーになれる道理がない。まあ、最初はイヤイヤだけど、やってみたらハマってということもよくあるから、必ずしも絶対ダメとは言わないですよ。でも、やりたいことを叶えることが幸福だの快楽だのいうことの本質だとすれば、やりたいことをやってないという時点でもうダメじゃないですか。絶対にゴールできないゲームをやっている、サッカーでいえば相手チームのゴールだけが存在しないコートで試合してるようなもので、それでは得点のあげようがないではないか。

 ともあれ、人生カレンダーのタイマー設定で、「時間が来たから」という理由だけで、やりたくもないことをやらされている場合、その本質的なモチベーションは「落伍したくない」という防衛的なものになる。そして「落伍するかどうか」がポイントになるならば、そのボーダーラインはまさに「皆=平均人=世間」ということになりがち。ゆえに、人生カレンダーと皆基準説は、ここにおいて凄まじいまでの整合性、あたかも麻薬取引の割符がぴったり合うかのように、二核融合を果たすのであ〜る、と。




みんな基準説がダメな理由

 んでも「皆」なんか基準にしちゃダメだよー。その理由は沢山あります。

 片端からあげていくと、

(1)皆と自分は違う。自分の欲望のサイズやカタチにぴったりフィットしたものごとがより気持ち良いという意味では、幸福とは服選びに似てる。ならば自分にフィットするかどうかだけで端的に決めれば良い。目的は自分が幸福になることで、皆が幸福になることではない。あなたが骨の髄まで世界平和を希求する博愛主義者だというのなら話は別だが。

(2)「皆と同じ」の何が良いのか?といえば、落ちこぼれたくない、笑われたくないであり、さらにポジにいえば、仲間が欲しい、認めてほしい、自分の尊厳をちゃんとレスペクトして欲しいということに尽きると思われる。しかし、ある人が仲間なり親友なりになるのは、何もかも同じでなければならないわけではない。むしろ真逆で、全て違うんだけどでも仲が良い場合は幾らでもあるし、そっちの方が多い。大事なのは人間性や価値観のある一点が共通であればいい(いわゆる「話が分かる」という一点)。ステイタスや状況の同一性など大した要素にはならない。また、カタチだけ皆と合わせようと汲々としているカメレオンみたいな人に、独立して認めうる人格とか尊厳があるのか?又あるとしても、それを尊敬したいと思うか?

(3)「皆同戦略」を、社会的ヒエラルキーで落伍しないためのものとして捉えるなら、むしろ皆と同じになることは自殺行為ですらある。なぜなら、自然界でも人間界でも、真の勝者は一握りであり、裾野に大多数の人間がひしめきあうというピラミッド構成を取る。そこでマジョリティになるということは、自ずとピラミッドの土台の一番損で割を食っているパートを目指すという意味で自殺行為である。ましてやAIやロボットなどで普通に出来る仕事はどんどん消滅し、一部の異能の才だけを珍重する傾向=雑魚キャラ冬の時代に向かうとすれば尚更である。

(4)「皆」は実在しない。平均人という名前の実在人はいないし、「皆」という名前の集団はいない。そこに投影されるのは、自分の脳内世界観であり、自分が他人や社会をどう見るかのスクリーンで上映されている投射でしかない。自分に劣等感が強ければ、そこが解消されないかぎり、皆は高みから見下ろす存在であり続けるだろうから、永遠に叶わぬ夢とも言える。また、自分の思惑一つでいくらでも皆の内容やレベルが変わるのであるから、自分の馬鹿さを増幅する危険な仕掛けにもなる。俺サマ系の自惚れ屋である場合、その人が観念する「皆」は「愚かな大衆」だったりする。要するに自分が自惚れやすいように勝手に他人を馬鹿だの阿呆だのと決めつけて悦に入ってるだけであって、馬鹿増幅装置というのはそういう意味。

 だいたいにおいて「皆〜」という人に限って、皆をちゃんと見ていない。世間は狭いわ、視野は狭いわ、目の前の人をちゃんと見てないわ。もしちゃんと見ることができたら、人はそれぞれかけがえのない個性を持ち、決して他に代替できない悩みと立場を持ち、それぞれに生きているのが見える筈。見えたのなら、そこに何らかの人間的共感という一本の糸がつながっているのが見えもするだろう、それを手繰り寄せて人と繋がっていくことも、その温かさを知ることも出来る。それを、「二本足で歩いてたらみな同じ」とばかりに他者を一緒くたにしている時点でもう見えていない。結局は、脳内の蜃気楼をゴールに設定するという愚かなことになり、それが蜃気楼であるがゆえに満たされはしないし、仮に満たされたとしても、そのときは馬鹿増幅である。いずれにせよ良いことはない。

(5)世界人口の70人に一人というマイノリティの日本、それも同年齢、同エリア、同じようなステイタスの周囲の連中をもって「世間」「皆」とか観念すること自体が噴飯物である。そんな超マイナーなミクロ社会で「皆」とかいって何の意味があるのだ。グローバリズムはかつては理念であったが、やがて実現可能な先進的な経営戦略になり、さらに一般に浸透してトレンドになり、今から将来にかけてはただのインフラになる。そんな時代のこの先50年戦略で、高校の同窓生に毛が生えた程度のひろがりの人間関係で人生が完結するかのような前提でものを考えていても仕方がない。もし結果的にそういう50年になったとしたら、それは世界から取り残されていることにもなり、自分ら自身が世界の八つ墓村状態というか、「驚異!アマゾンの裸族」的に、よその国の水曜スペシャル的なTV番組で取材されるような存在になるということでもある。それでいいのか。一般に厳しい同質性を求め同調圧力が強い社会は、北朝鮮のように閉ざされた社会であり、それは辺境の孤族、田舎モンのメンタリティである。

 それらが全て分かった上で、一種の宿命論としてやっているなら全然アリだが、そうではない筈。周囲を気にして同調しようというのは、自分という特殊な存在を、周囲の人々と交流しうる、より普遍的で、より互換性の高いものにヴァージョンアップしようというのが本来の目的だろう。同調=チューニングというのはそういうことだが、同じチューニングを合わせるならより広い世界、より多くの人々に合わせた方が効率は良いし、本来の目的に叶うところ、そんな特殊なニッチ社会に同調したら勿体ないだろう。



まとめ 

 言いたいことの20%くらいしか書いてないけど、今回はこのへんで。すでに長いし。

 このあと何がくるか、ちょっとだけ書いておくと、なんでそんなタイマー設定「ごとき」にアタフタしてしまうのか?です。そうなるにはそうなるだけの理由が絶対あるはずで、思うに成長過程で、時間をかけてゆっくりと強烈な自我が溶かされていってしまうからでしょう。

 強烈な自我、「これが好き!」という価値観なり趣味嗜好というのは、生来どんな人間にもあるはずです。若いほど、生命力が強いほど、それは強い。赤ん坊はちょっと気に食わなかったら火がついたように泣きわめく。あのくらい強烈な拒否反応なり好悪を、自然に人間は持っている。そのクソ我儘な願望を適当にコントロールすることを成長とか大人になるとか言うのだけど、それはそれで必要。だけどやり過ぎると「角を矯めて牛を殺す」になる。自我そのものが摩耗してくる。大体10歳になる前くらいだったら、わりとふんだんに天然自我は持っている。だから好悪は激しいし、好きなことだったら無限の創造力でいくらでも遊んでいられる。やりたいことなんか何も考えずに幾らでも出てくる。原っぱが一個あるだけで無限に遊べる。が、あれこれ「角を矯める」圧力が高まり、自我が不安定になるローティーンの頃から破壊と侵食が始まり、周囲に同調する中で喜びを見出すようになる。既に不安モチベが始まってるから、喜びというよりも安心感に近いと思う。と同時に、自前で快楽や幸福を見つけたり作ったりする能力が鈍る。あとは悪循環。自前で幸福を生産できないから、それを他人から与えてもらう、教えてもらうという幸福乞食みたいに成り下がる。そこまで下準備が出来てから、タイマー設定でベルが鳴る、従わされる、またベルが鳴る、従う、徐々にベルが鳴るだけで唾液が出てくるパブロフの犬になるというシステムだと思います。誰かの陰謀とかいうよりも、自然とそうなったんだと思うけど。

 この自我摩耗のパブロフ化を免れられる人も一定割合でいます。いわゆる我の強い人々だけど、別に我が強いのではなく、摩耗度合いが低かったからだと思う。なぜ免れられたのか?ここが一番おもしろい下りなんだけど、多くは環境と偶然でしょう。そう言ってしまったら身も蓋もないけど(笑)。たぶんね、それまでの半生で絶対少数になった経験が必ずどっかにあると思う。みにくいアヒルの子みたいに仲間はずれにされたり、一人だけ浮いたり孤立したり、異物的な疎外感をいだいたことがあると。それはリアルタイムには辛いかもしれないけど、自我は保存されやすい。要するに「被曝が少ない」という当たり前の話なんだけどね。それに加えて「強力な援軍」の存在です。それが多くの場合ロックだったりサブカルだったりするわけですよね。何となく悶々としてて、納得出来ない、でも負けそうってときに、自分が思ってたことを「ばかやろー!」って激しい音と共に言ってくれると救われる。あるいは自分の存在をあるがままに認めてくれる大人とか仲間の存在です。

 ただし、単に子供のまんまの保存だけだったら、いくつになってもガキのまんまってことになるので、どっかで厳しい成長過程は学べばならない。まあ、どの道いってもどっかで自然に学ぶのですが。漫画家になるような人は、子供の頃からヒマさえあれば絵ばっかり描いてたはずで、それが昂じていく過程で自然とマジョリティから距離を置くようになるでしょう。そして、その道を進むプロセスで、強烈な世間の掟(上には上がいるとか、売れないとか)を学ぶと。このように好きなものに導かれるようにして自然と大多数から離れた小道を歩き出すと、自我はわりと温存されたままだし、またその行程であれこれ学ぶんだろうなーってことです。不幸にしてそれに出くわさなかったら、これから出くわすわけだから別に絶望する必要はなく、期待してればいいんだけど、待ってる間に侵食されちゃうとアウトだよねーって話です。

 ちなみに自分自身でいえば、子供の頃から引っ越しが多かったので、同調もクソもそんなものありえないってメンタルが自然に出来たし、親自身がころころ起業で仕事変えてたし、そーゆーもんだと思ってた。だからタイマー設定もわりと無視できた、というか何度も話しているけどこのままいったらヤバいという忌避感も強かった。で、自分でタイマー設定をするわけで、これも何度も述べてますが、とりあえず40歳で死ぬという一定の刻限を決めて、一番ウザウザ言われず我儘通せる環境構築という基本戦略テーマが出てきて、その具体策として司法試験が出て、一次試験免除という特典が欲しいから大学に行くという戦術が出てきて、あれは合格平均28歳で、俺は馬鹿だから35歳にしておこう、そのあと研修いって実務ちょっとやったところでタイムアウト、お、これでいいじゃん、よし、それいこー!ってな感じでした。で、40歳になっても死ななかった、あれ?どうしたもんかで、また切り直すわけですけど、もう二回目はタイマーいらんです。でも、ビギナーレベルでは、自分でタイマー設定するといいですよ。


 









 文責:田村




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