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今週の一枚(2016/05/16)



Essay 774:悶々スキル

 価値序列の洗練、逆境の技法

 写真は、「夢に出てくる風景」みたいな感じがしたので面白いなーと思って。

 バックの空が、夕暮れなんですけど、映画の「バニラ・スカイ」のタイトルになったような感じ、朝だか夜だかわからんような幻想的な空。Vanilla Skyそのものは夜から朝で、夕刻ではないんですけど似たようなもんでしょ。日本語でいえば「薄明」「薄暮」あたりでしょうか。

 それに加えて、この何処にあるんだか、いつの時代なのかさっぱりわからん建物がいい味してます。これ、東南アジアのどっかだと言われたら、そうかーって気もするし、実は南米ボリビアの〜とか、いや実は日本の長崎の軍艦島だとか、いやいやアメリカのニューヨークの街外れで〜とか、何を言われてもそうかーって気になる。

 この時間も空間も超越してるかのような浮遊感が夢の世界っぽくて、いいなーと。

総論

 口頭ではよく言うんだけど、あらたまってエッセイでは書いてなかったというネタがありますが、今回はその一つ。

 シェアが中々決まりませんとか、ラウンドに出たけどファームがなっかなか見つかりませんとか、特に何に困っているわけではないが、現状まった〜りで「これではアカン」と思うけどこれといった打開策が浮かびませんとか、、、そういう時期によく言うのですが、その時点こそが本当は一番おいしい時期なのだ、と。主観的には最低で最悪に近い、気ばかり焦って話が全然進まない、何をやってもダメダメな、イケてなさそうな時期こそが一番大事なのであって、煎じ詰めればそれをやりにきたようなものなのだ。

 まあ、そう言われてもピンと来ないでしょう。この悪夢のようなヌカルミ(泥濘)のどこが美味しんじゃい?バカも休み休み言えって感じでしょうから、噛み砕いて書きます。


収穫期だけ見てても意味がない〜タイムラグ

 何事かを達成するとか、大事なスキルを獲得して人間力アップとかいうものごとには一連の工程があります。これって時間がかかります。短くても数日(自転車とか)、数週間とか(自動車免許とか)、数年、数十年かかります。さて、そのプロセスにおいて、どこが一番キモになるのか?です。最も多くの「力」を得られるのはどの工程か?

 少なくとも最後の収穫期ではないでしょう。大学入試だったら最後に合格発表を見に行って、自分の番号を確認して、やったー!で万歳三唱やってるのが収穫期ですが、それはそれで「合格発表を見に行くスキル」「万歳をするスキル」はあるかしらんけど、でも本質的ではない。毎日自宅で「万歳の練習」をしてたら大学に合格しましたってもんじゃないでしょ?

 収穫期というのは「結果」が出てるだけの話です。結果を認識し、喜び、達成感を味わうという大事なプロセスでもあるけど、しかし本当のスキルとは、いかにしたらその結果を出せるようになるか?でしょ。稲作に置き換えれば、最後の稲刈りとか脱穀も大事だけど、そもそもその土地に稲穂が実るようになるためには、何をどのようにすればよいか?こそが本質的なスキルになるはず。それは土地の選定、品種の選定、季節変動の理解、土地を耕してReadyにもっていき、種籾から発芽させ、苗代から田植えをし、育っていく過程で、やれ雑草を取ったり、水温やら害虫に気をつけたり、、、という様々な工程があり、これらを上手にこなせることが、稲を作るというスキルになる。

 何が言いたいか?タイムラグがあると言いたいのです。これまでの苦労が実を結んだ収穫期は、何事もトントン拍子に進んで楽しいです、面白いです、主観的にはしあわせだし、客観的にはイケてるように見えるけど、でもそんなのは合格発表で万歳しているだけの話に過ぎない。楽しいんだけど、その時点で学んでいる物事は少ない。得られるスキルは殆ど無いと言っていい。大事なのは、そういう結果を出すために悶々と努力していた日々であり、その悶々期のノウハウこそが抽象的なエッセンスとして(スキルとして)未来に再利用できる。

結果は一回的な構築性、スキルは反復再現性

 技やスキルというのものは、反復して使えるものでなければならない。一回ポッキリしか使えなかったらそれは技ではない。ゆえに、たまたまラッキーで結果が出ても反復利用できないんだったら意味がない。また、技というのは抽象的で、応用がきかなければならない。大学入試でいえば、来年も再来年も同じ大学を受験して、しかもまた同じ問題が出題されるのでなければ成功できないような技だったら意味がない。

 結果は積み上がっていくから一回ポッキリでいい。一回合格すればもう受験しなくてもいい。ということは次は必ず違う局面になる。それに対応するためには、局面が変わっても応用できるようにエッセンスを抽出した「技」を身につけないとならない。成功体験から「難関はこうやって突破する」というエッセンスを引き出してこなくてはならない。シェア探しで良いシェアを探し当てた体験は、次にはラウンドのファーム探しに生かされねばならない。さらにそれが帰国後の就活や転職に、起業に、結婚その他の人事に生かされねばならない。それができなきゃ修行でも学習でもなく、単なる事務作業だったということになってしまう。それでは来た意味がないではないか。

 もっと言えば、エッセンスを引き出したり、その力を養うという観点からすれば、その時点で成功する必要なんかないとすら言える。特にワーホリや留学のように「結果」といっても何ら積み上がっていかない場合は尚更です。シェアやファームやバイトが見つかった、そこに住んだ、働いたという経験がそのままピカピカの金看板になったり、ただちに資格や学歴やキャリアになるわけでもないからです。

 言ってみれば全ては「練習問題」に過ぎない。そこでの結果は、スキルのエッセンス抽出工程を確かなものにするヒントや資料でしかない。不成功のまま終わったら、何が良かったのか、何が悪かったのかわかりにくいし、気分的に落ち込んでトラウマになったりする悪影響もあるから、一応成功しておいた方が頭の整理になるし、落ち込まないで済むし何かとやりやすいよね〜、という程度のものでしかない。そこがクリアできるなら、別に成功しなくてもいい。より本質に切り込めば、ここでの「成功」はいかに確かなスキルを得られたか?であり、それこそが「結果」でしょう。

 ちなみに全く積み上がらないわけじゃないですよ。英語にせよ、バイトやファーム体験にせよ、次に積み上げることは可能です。ただしそれなりに頭を使わないとならない。単に英語が多少上手くなりました、こちらでなんかの資格を取りましたっつっても、あの鎖国JAPANが両手を広げて歓待してくれるわけがない。どの業界も海外資格やキャリアなんかガン無視に近い、むしろ意地になって無視してるんじゃないかってくらい。海外で優秀な業績をあげた研究者やビジネスマンが、日本の保守的な名門組織ではむしろ疎んじられるという現実は聞いたことあるでしょ?ぬくぬく同質的にやりたいんだからさ。

 だから結果の構築性(積み上げ)いうなら、やり方を考えないといけない。「結果」というのは戦略性あってこその話であり、戦略性なき結果は無意味に近い。英語上達と志す前に、じゃあどの程度できるようになればどの程度の企業のどの部署に就職できるのか?というリサーチは最初にやっておかねばならない。逆に言えばやり方しだいであり、例えばシドニーの8回をシェアを転々とした経験をもとにして、外国人の多いスキー場で冬季限定のシェアハウス経営の会社を興すとか、WWOOF体験をもとにオーガニック農法を実践的ビジネスに転換していく経営コンサルタントを立ち上げるとか、その種の積み上げは可能であり、だからそれは戦略次第です。

無数にある分岐点

 結果が出ないまま悶々と努力していく日々が実はおいしいという話に戻ります。
 では何を悶々としているか、何に迷っているのか?といえば、選択肢や分岐点での意思決定でしょう。成功したという結果から時間を遡ってみれば、いかにも一本道を地道に歩いてきたかのように見える。稲作で最後に収穫を迎えるためには、一本道工程を黙々とこなせば良いようにも見える。しかし実際にはそうではない。要所要所で大きな分岐点や選択肢があり、細かく数えたら毎日、毎時、毎分毎秒あるとも言える。

 大きな分岐点では、そもそもこの土地で農業をやるのか?という話からあります。もうこの土地を離れて都会に出てサラリーマンになろうかなという選択肢もある。農業をやるにしても稲作でいいのか、野菜とかハーブを作るという選択肢もある。米にしても、どの品種を作ればいいのかという問題もある。冷害に強い?台風に強い?収穫量が多い?一長一短あるはずで、そこで適切な選択をしなくてはならない。さらに、苗の成長と季節変動を見越した田植えの時期は重要でしょう。「まだまだ、、、まだまだ、、、いまだ!」というタイム感はあるでしょう。細かな選択肢だったら、この程度の虫のつきかただったらまだ様子をみておいていいか、いやちょっとヤバイからもう薬を撒いたほうがいいかとか、でかい田んぼを順繰りにみていくわけなのでそのローテーションの組み方とか、今日はこのくらいにしておこうかとか。

 シンプルな道のように見えて、実際の工程では多様な選択肢に悩まされ、「どうしたらいいんだ?」と迷います。地図でみたら一本道のように見えても、実際に車を走らせてみたら「あれ?ここを曲がるの?」と交差点で迷うのと同じです。リアルにやってみたら、そんなに綺麗に分岐点が分かるってもんじゃないですよ。告別式の案内の矢印みたいなものが電柱に貼り付けてあるわけではない。実際に行ってみたら「え、本当にここなの?」と迷ったりする。

 以上は、やるべきこと&道筋が比較的明瞭に見えている場合の話です。それでも、やってみたら中々に大変です。ましてややりたいことが絞り切れないとか、何をどうすればいいのか分からないのは尚更大変。

 さあ、だんだんあったまってきたので、本論いきます(ここまでは序盤)。

 この塔、というか煙突ですけど、これも夢っぽくていいです。

悶々スキルその1〜意思決定と価値序列

大変君と組手をしよう

 でもね、考えてみて欲しいのですが、「スキル」「人間力」って何よ?です。
 いろいろな言い方がありうるけど、ここでいえば、「大変なことが出来るようになる力」じゃないのですか?不可能に思えるくらい困難なことを、どこからどう見て、どう分析し、研究し、どういうチャレンジの仕方をすればいいのか、その解決法のバリエーションを豊かにすること、それこそがイコール実力向上であり、スキル獲得なのではないの?

 ゆえに、力をつけたかったら、まず「大変」君に出会わないとならない。大変君に道端でばったり出くわして、ここで会ったが百年目とばかり、うおりゃ!なんと!ならばこれはどうじゃ!まだまだあ!とか組手をやってる間にだんだんワザを覚えていきました〜というのが、スキル錬成の中核にあるのではないでしょうか?そうは思いませんか?僕はそう思うけどね。

 この大変君の一族ですけど、大きく分ければ、意思決定レベルで大変な系統、実行レベルで大変な系統があると思います。

意思決定〜わからない、迷う、悩む

 やりたいことが見つからない、分からない。あるいは色々とあるんだけど、その相互関係や何から先に手を付けるべきかがよく分からない。やり始めてしばらくすると、すぐに「これで本当にいいのか?」と疑心暗鬼にかられていたたまれなくなって立ちすくんでしまう。これらは意思決定のレベルで大変な思いをしている局面です。

 一括パックでやってるシェア探しなんかもそうですが、とりあえず2−3日もすれば、知らない所にある知らない人の家に押しかけて話をしてくるくらいの技術はすぐに身につきます。最初は超ビビるかもしれないけど、数日したら鼻歌交じりにそのくらいは出来るようになります。これで前半終了で、後半戦がキツイ。いいなーと思うところが複数出てくるはずです。そこで何処を選ぶかというところで、かなり悩むはずです。

中二病から進級する

 人によっては、そこで分からなくなるから早く決めてしまったほうがいいって意見もありますが、僕はそうは思わんね。何言ってるの?って。わからなくなっていいんですよ。「分からない」というのは、これまで見もしないで勝手に夢想していた、「ひとりよがりの予定調和」=オーストラリアにいったらこんな感じ、こんなに充実して〜って中二病的に夢見ていたアレコレが正しく破綻したという喜ばしい事態です。そんなひとりよがりの思い込み、常に現実と違って当たり前。まだ行ったこともやったことも無いことがちゃんと予想できるわけがないではないか。それはまだ見たこともない「宇宙人はこうなっている」という予想図と同じくらいアテにならない。

 「わからない」というのは、こうなったらいいな〜と勝手に考えていた「良い」と思われるモデルが複数出てきたことを意味するでしょう。ローカルのオーストラリア人の住まいに暮らそう、緑の芝生に白い家+白人家庭で〜とかいうステレオタイプのイメージが、無数にある現実によって木っ端微塵になる、あるいは無限大に広がることを意味します。話を逆にすれば分かりやすいが、日本の家にホームステイする外国人が、事前に「サザエさん」を読んできて、日本の家庭は全てサザエさんの磯野家みたいになってるんだと思いこむようなものです。そんなイメージ妄想、リアルな日本を正しく理解するという点からしたら大した意味もない(てか有害ですらある)から、一秒でも早くぶっ壊した方がいいでしょ。

 風呂屋のペンキ絵の富士山のようなのっぺりイメージがぶっ壊れたあとに登場するのは、万華鏡のように色とりどりで楽しい現実です。早くそれを見たらいい。

 例えばシェアにおいても、同年代の留学生同志で部活の合宿みたいにワイワイやってる感じもいいな。でも、ポーランドあたりから来てリタイアしたじっちゃんと二人暮らしで、ワシがこの国に来た頃はねーとか色んな話をするのもいいな(ちなみに僕の二軒目の家はこれに近く、サムおじさんという大家さんが隣に住んでて、ヒトラーの生体験アリというマルタ人で、家賃を持って行くたびに色んな話を聞かせてもらってそれが超良かったです=このエッセイの前身のシドニー雑記帳あたりにも書いてます)。あるいは、役者さんとかアート系の人達、ちょっとヘンテコだけどめちゃくちゃ個性的な連中に揉まれるのもいいな。あるいは、母子家庭や父子家庭みたいに生活大変だけど親子でいつも仲が良くてって感じも心温まっていいなとか、タイ人の家庭で大家族的なアットホームな感じが居心地いいなとか。「いいな」と思う価値観や、その態様は、本当に無限にあるんだな、これが「世界」なんだな、幸せのカタチは一つではないのだ、というのを知る貴重なキッカケです。そのキッカケを経て人は中二病から中三病くらいには進級できます。それを迷ったらダメとばかりに忌避するのは、大事な学びの機会を失うという実損がある。

 大体ですねー、シェアを決めにオーストラリアに来たわけじゃないでしょ?そんな不動産の買い付けの出張みたいな話じゃなかったはず。いろいろなものを見聞きして、視野を広げて、一回り大きな人間になりたかったんじゃないの?一回り大きくなったら、それまでの服(狭い価値観や小さな中二病的予定調和)が入らなくなって当然だし、わからなくなって当然ですよ。だから分からなくなることは、いいことです。わかってちゃダメって言いたいくらいだ。

 そこでは多様な価値観が頭のなかでせめぎあうでしょう。せめぎあってるからこそ分からなくなるんだし、迷いもする。ラウンドに出ても、そろそろガシっと稼いで〜とか思う一方、金稼ぎに来たわけじゃないだろ?そんなロボットみたいなピッキングマシンになってて来た意味あんの?とか、やっぱ人と出会わないと〜とか思った次の瞬間には、いやいや人生観変わるくらいの超雄大な大自然にまだ接してないぞとか、あ、でも英語の勉強も大事だよねとか、、、もうトイレ行って帰ってくる度に考えが変わっているくらいコロコロ変転するでしょう。

 それが問題か?といえば、それでいいです。そういう複数ある欲求が同時に乱立している場合、どのような感じで考えていけば良いのか?それこそが学ぶべき最大の本課程だと思うからです。もう死ぬほど迷って、吐き気するくらい悩めばいいです(笑)。

一番役に立つのは迷ってる時期

 だって、思いっきり役に立つのはその吐き気がしている部分ですよー。あれをしました、これを見ましたっていっても人生レベルでみれば「思い出エピソード」の一つだし、多少稼げましたとかいっても、年に2万ドルって凄くみえるけど日本円にすれば年収180万円くらいで、はっきりって貧困レベルです。なにを色めき立つことがある?です。人生レベルに意味のある「稼ぎ」というのは数千万から億単位で、確かにそのくらいあると人生変わるかしらんけど、数百万くらいだったら意味ないっす。すぐ使っちゃうよ。ワープア10年やっても2000万くらいはいくんだから。そんな中で死ぬまで通用する重宝スキルがあり、それは「迷った時のやりかた」です。

 これからだって死ぬほど迷うのだ。転職するにせよ、結婚するにせよ、出産の時期にせよ、ワーク・ライフ・バランスをどうするかって問題は常に付きまとう。そんなに全てが美しく調和することなんかまず無いから、「バランスを取る」というのは、リアルな生活感情でいえば「断腸の思いで何かを諦める」のと同義だったりもするわけですよ。1日は24時間しかないし、身体は一つしか無いし、全てを同時に満たすことは出来ない。どれもこれもやりたいんだけど、それでもさらに何を優先させ、何を劣後させるか。あるいは、ミックスさせるにしても、何をどう配合するか。その配合レシピーを時間とともに変化させるか、させないか。もう考えどころは山盛りあります。

中核リンク

 この種の意思決定スキルは、自分はどう生きていきたいかという根幹命題とダイレクトにリンクしてますし、逆に言えばなかなか曖昧で考えにくい自分の最重要核心部分を考える恰好なキッカケにもなります。

 いろいろ考えて、動いて、過ごしているうちに、「ああ、やっぱり俺は〜」と何かがわかるかもしれない。
 ああ、結局私は、自分で全部決めたい人で、自由に決めれたら結果はあんまり気にしない、だから決めれるかどうかこそがポイント、その自由の純度を上げていくことが自分にとって一番大事なんだと思うかもしれない。

 あるいは、その自由意思や決定過程よりも、何かに没頭している感じ、息を止めてプールを潜水しているような、ちょっと苦しくて、でも充実してて、水中だから外界の音が聞こえなくなって、そのシンとした感じが好きなんだってのが分かるかもしれない。

 なんにせよ群雄割拠の戦国時代みたいに多様な価値が乱立しているなかで、一番強いやつは誰か?です、一番大切なものは何か。それはバトルロイヤルでガンガン戦わせてみるのが一番てっとり早い。悩むというのは、この激戦状態なのであって、自分の中の価値観の優先順位を真剣に考えている状態だと言ってもいいです。悪いことではないよ。

反復記憶強化と濾過過程

 でも考えても考えてもわからないんだーって意見もあるでしょう。考えてわかるようなことなのか?という疑問もあるでしょう。でも、まったく無駄ってことはないはずですし、考えれば考えただけのことはあります。

 自分自身の意思決定を振り返ってみると、何かが決まっていくというのは、多分以下のようなことだと思います。将来の生活保障やら、自分の趣味やら活動やら、恋人との結婚やら、親の面倒やら、仕事の状況やら、、、、複数考えるべき価値観があり、それらをマトリクスのリーグ戦でやるわけですね。次の試合は、「職業的野心」 VS 「平和な結婚生活」です。カーン!ゴングが鳴りました、睨み合う両雄。ああっとここで「趣味」がリングに乱入してきた!「結婚」に襲いかかって蹴りを飛ばしています、おーっと、赤コーナーから「親」も乱入してきました!後ろから「趣味」を羽交い締めにして、、、とばかりに無茶苦茶な状況になってるわけです。

 人間の短時間記憶のユニットは7つだっけ?限られているから、多くの物事を同時に考えられない。考えているうちに最初の部分を忘れてしまって、あれ、なんでこんなこと考えているんだ?って帰れなくなる。でもね、それでも何度も何度も考えていくうちに、鉄板の部分が出てきます。ココはいつも出てくるなーという登場頻度の高い部分です。あまりにも何度も考えているから、そこはもう確定というか、考えなくてもよくなる。短時間記憶(RAM)から長時間記憶(ROM)に保存されるから、その分だけ考えるエリアが減り、楽になる。そうこうしているうちに、、と繰り返していくと、だんだん整理されてくる。全ての価値観の対立状況が頭に入ってきて、あらゆる変化パターンも覚えてしまう。

 これは知らない街に引っ越した後、だんだんその地区の道を覚えたり、全体の土地勘がわかってくる過程と同じです。最初は駅までの道しか知らない。それも一番最初は地図見てうろうろしてたのが、2−3回往復したら覚えてしまう。次に変化パターンで商店街に行くにはこっちで、ここに近道があって、、、と増えていく。そのうち、ああ、この小道を進むとココに出るのかというのもわかってくる。ジグソーパズルが完成していくように、部分と部分が飛び飛びにあったものが徐々につながって地続きになり、全体が見えてくる。物事が「わかる」「理解する」というのはそういうことだと思います。

 だから考えることは無駄ではない。何度も何度も対戦させているうちに、だんだん何かがわかってきますから。ある程度わかるには、そうだなー、10年くらいはかかるんじゃないですか?そのくらい自分の中の欲求というのは数が多いし、その欲求自体を自分が正確に理解しているわけでもない。まだ自分では認識してない欲求もあるし。いろんなことを経験して、「あ、いいなー、これ!」とか、逆に「一回やったらそれでいいや」ってなったり、そういうことを繰り返して、自分のなかの欲望の質量を正確に測定していく作業も入りますからね。いろいろ考えて、やってみて、また考えて、やってみて、、、で、ざっと10年くらいやってたら、なんとなく立体的にカタチになっていくんじゃないでしょうかね。

中核価値と手順の洗練

 さらに言えば(あまり詳細になると稿を改めるべきなので簡単に)、意思決定には(1)中核的価値観を見出す部分と、(2)複数ある価値観を全て達成するためにその時間的な優先順位〜何から先にやって何を後にした方が全体に最速にいけるかの見極め〜の部分に別れます。

 本質を掘り下げるパートと、作業手順を洗練させていくパートですね。
 それぞれに練習して、練度を高めていくといいです。そのためには、七転八倒して悩みなはれ、迷いなはれ。あー、わからん!えっとー、だからAをするのが一番なんだけど、でもBも捨てがたく、同時にBをしないとAに辿りつけないという構造にもなってるし、片やCをやらないとお金も貯まらないから何も始められないわけで、だからー、Aを睨みつけながらとりあえずCをやりつつ、直近目的はBを目指しつつ、しかし本当はAだから、A的な風味で何をするにもその方向で末端をトリムしたらいいのかな?えー、そうか?あれ?とかやっててください。


 リアルにはこう見えています。最初はビルのガラス窓に夕焼けが映ってるのが面白いなーくらいの感じだったんですけど。

悶々スキルその2〜実行レベルでの果実

 以上は、考える、悩むという意思決定(価値観の精査)の話でした。
 次に、そこはもうクリアして、やりたいこともはっきりしてるんだけど、その実行が難しい、なかなか上手くいかない、どうしたらいいんだー!?という実行レベルでのスキルがあります。

 ここは本当にしんどいですよね。
 ビジネスなんかでも悩みます。起業や自営はもとより、会社で何かのプロジェクトを任されたときも同じ問題に出くわすでしょう。よし、これでいこう!と思ってやったのだけど、ぜーんぜんパッとしない。待てど暮らせど結果が出ない。客がこないぞー、売れないぞー、今月も赤字だぞ、もう貯金ないぞ、このままいけば再来月に死刑執行で破産しちゃうぞ、どうすればいいんだー!?って状況です。

 あなたが自営や自由業を選ぶならば、この恐怖とストレスからは一生逃げられないと腹をくくって下さい。それが自由の対価なのだから。もっとも、自営だけがそうなのではなく、なんだってそうなんですけどね。漁師で暮らすにしても、ある時期を境に海底火山やら地殻変動やらワケのわからない理由でぱったり魚がこなくなるときもあろうし、農業やってても気候の変化は常にある。サラリーマンも、上司は選べないし、会社の浮沈は自分ではいかんともしがたい。ただ、自営の場合は、自分で操縦桿を握っている実感が強いし、操縦席からの視界もクリアなので、特にそう感じるだけのことです。

 いずれにせよ、うまくいかない、おかしいな、こんなはずではないのにな、何が悪いんだろう、どうすればいいんだろう?ってときは絶対あると思います。そこでめちゃくちゃ考えるわけです。と同時に、あの手この手を繰り出すわけです。

信長のジタバタメソッド

 小学校の時に読んだ小説で印象に残ってる部分があります。以前黒田官兵衛のことを書いたときと同じく、司馬遼太郎の「国盗り物語」の一節なんですが(あれ、面白いですよねー、小6で夢中になったし)、信長が四面楚歌になって、絶望的な状況に陥ってるときの話です。明智光秀の視点で書かれているのですが、そのとき信長は少しも焦らず泰然自若として、、、ではなく、めちゃくちゃイライラしている。そして、周囲を叱り飛ばして、およそ考えうるどんな策でも実行している。絶えずセカセカと歩きまわり、それはないだろうという下策であろうが、なんだろうが、思いついたらどんどんやらせる。古今出てくる名将英雄の姿とは程遠く、とにかく懸命にジタバタしているというシーンです。で、初雪が降ってきたある日、光秀が呼ばれて言ったら、信長は「見ろ、雪が降っている」「お前のもっともらしい顔が役に立つときが来た」「急いで京にのぼれ」と暗号みたいな指示をだされる、、、という話だったと記憶してます。

 最後の謎解きは、雪が降ってるから、雪国越前から出張ってる朝倉軍は雪の中に孤立するかもしれないぞ、だからその危機を救うために自己顕示欲の強い足利義昭将軍を動かして暫定和睦の顔役にしたてて、この包囲網を破らせ、危地を脱しようという戦略だったと思ったけど違ったかな。ま、それはともかく、大事なのは、見栄も外聞無く、どんなしょーもない手であろうが、ありったけの力で考え、思いついたら即実行というジタバタ行為です。「はあー、そうやるんか」と思ったもんです。

 そんなことを知ったところで小学生には活用の機会もないのですが、しかし意識に深く刻印されていたようで、その後あれこれの場面で、このエピソードは頻繁に自分の脳裏に再現され、大いに役に立ちました。どんなしょーもない手でもやる、ありったけやる、考えうることは全部やる、ものすごーく往生際悪く、潔くもなく、とにかくジタバタする、と。

 これ効きますよ。少なくとも僕の半生においてはかなり有効でした。大体コレで解決しますね。むろんそれでもダメだった時もありますが、しかし最善は尽くしたと後で振り返ってもそう思える。とにかくジタバタするってことですけど、その核心部分は、カッコつけてる場合ではないぞ、もう不格好で見苦しいくらい、ミジメったらしいくらいやらないとダメだって部分です。あまりのしょーもなさに、周囲から軽蔑され、嘲笑されるくらいやらなきゃ危地は脱せないという、その腹くくりです。

現実逃避を禁じる

 危地や逆境になると、あまりにも辛いから現実逃避したくなるんですよ。白馬の王子さまが駆けつけてくれないかなーとか、一夜明けたらあれは夢でしたとか、いきなり相手がニコニコして冗談だよっていってくれないかなーとか、そんな夢想をするようになる。さらに、だんだん逃避距離も長くなってきて、もういいじゃん、そんなことは、それよりも、、とか違うことを懸命に考えたり、他のことに没頭したり。でもって、気がついた時には後ろからばっさり斬られて絶命、という。最悪な。

 この信長のジタバタメソッドは、現実逃避を厳しく禁じる点で意味がありました。なあなあで済ませない。まあ、そこまで悲惨なことにはなるまいよとか、ウチが倒産するわけないよ、危ないけど本当に地震なんかおきっこないよ、起きても何故か自分だけは助かるんだよとかいう、いい加減で手前勝手な現実逃避を禁止する。何の解決にもならない問題の先送りをしない。本当の意味で「必死」になるためのいい滑走路になったと思います。

 で、この話がなんなのか?といえば、そういう経験が大きく役に立つという話です。どうすればいいんだーってときに、あれこれやってみる、悩んで悩んで、やっては失敗、やっては失敗を繰り返し、それでもめげずにまた次の手を考える。そういう経験というのは、すごーく大事です。もう人生のスキルのうちでベスト10は確実、メダルもいけるかもってくらい大事なスキルだと思う。

ジタバタ以外にも沢山方法はある

 もちろんジタバタ以外にも多くの方法があります。逆にジタバタせずに、ただただ黙々と練習をしていれば良いって場合もあります。活路を見出すために、自己アピールのやり方を洗練させるという方法もあります。自己アピール、日本人には難しいですからねー。僕もそこは常に悩む。全然言わないのが奥床しくてナイスだなって思っても、それじゃ誰も何もわからないわけで意味が無いなと。かといって、自分からカリスマ〜とか言ってしまうのもこっ恥ずかしいし、上客が逃げてしまいそうな恐怖もあるし、そのあたりのさじ加減というのはすごーく難しいです。かといってあんまり巧妙にやりすぎると、そのあざとさが鼻につくとか。

 あるいは他人をどう使うか?というワザもあります。一本どっこでやっていくんじゃ、誰の力も借りん!というのは威勢としてはいいけど、実際それでは無理です。だからといっておんぶに抱っこの他力本願も良くない。でもギブ&テイクのドライな感じに固執してても難しい。他人の助力を得なければならないし、求めすぎてもいけない。どういう場合が良くて、どういう場合がダメなのか。これは経験を積み重ねて、「なるほどねー」と見識を深めていくしかないです。

 またジタバタ(試行錯誤)においても、そのやり方があります。端から順番に順列組み合わせのしらみつぶし方式でいくのか、感性一発でつまみ食い方式でいくのか。量的な問題(ナンバーキーの組み合わせがわからなくなったとか)だったら順列組み合わせが結局一番早いけど、質的な問題(ひらめきを要求される創造的局面)では、そんな単調作業にしてしまったら右脳が眠ってしまうからダメだとか(いや、だからいいって人もいるでしょうし)。

 あるいは広げるのか絞り込むのかという問題もあります。なかなか売れないから商品レンジを増やすのか、それともより専門性を高めるのか。普通の食べ物屋さんを経営してて売上がぱっとしないときに、レンジを広げて軽く一杯飲めるような居酒屋的な部分にも広げていくのか、それとももうオムライス一本や丼ものだけという具合に絞り込んで差別化をはかるのか。悩みますよ、ここは。

 似たようなパターンに、全てのことを満遍なくやっていく幕の内弁当方式でいくのか、一つのことに特化していくのか、はたまた行き当たりばったりでやるのか。

 さらにファジーな領域でいえば、「運の呼び込み方」なんて微妙な領域もあります。呼びこむというか、運というのは帆掛け舟における風みたいなもので、強く吹くときもあればベタ凪のときもあり、逆風も順風もある。その見極めですね。長いことやってると、あー今は何をやってもダメダメ期だな、おお、これはもしかしてイケイケ期に入ってきたかな?とかいうのもあります。

 あとはお金でも、金が無いときほどお金を使えという法則が世間(事業者とか常に勝負してる人達の間で)よく言われていて、金がないから縮こまって貯めこんでしまうと運「気」が停滞するから、バンバン使って流れをよくしろという。なんか嘘くさい話なんですけどね、僕も嘘くせーとか思ってたんだけど、でもホントっぽいですよ。理屈を作れば、多分、展望がないときは動いて動いて活路を見出すしかない。どれだけ動けたかが成功率を高める。しかし金金いってビビってると動きが乏しくなって、それだけ成功率が下がる。気が滅入ってくると動きがとまってくるのですね。ボクシングでいえば「足が止まった」状態になって、あとはサンドバックです。それではあかんから動くと。もともと節約というのは展望があるときにやるべき戦略です。展望がないときは展望を開くのがメインに来るはずで、そこで節約してても抜本的な対処にならない、多少節約したところで減るものは減るから遅かれ早かれであり、無意味な先送りでしかない。

 ほかには〜、、、って無限にありますよ、こんな方法論。いろいろやれば「なるほどー」とどんどん学べます。

 だから、なかなか仕事がありません、何をやっても空回りです、もう万策尽きました、どうしていいのかわかりませんって体験はするべしだし、ワーホリなどの場合、究極的には「それをしに来た」といっても過言ではないと思う。なぜなら、そこでの体験が、日本に持って帰れる、そして将来的にもっとも役に立つスキルになるからです。


まとめ

 以上のことから、物事が進まなくて焦ってるとか、どうしたらいいのか分からずに悩む時期というのは、とても収穫率が高いと思います。それは決して無駄な時間でもないし、無意味な日々を過ごしているわけでもないし、だからダメだと決めつけてはいけない。それどころか、むしろ今こそ、宝箱に手を突っ込んでいる最中なのだと自覚すべきだと思う。

 それをきちんと経験して身体と脳味噌に刻み込むからこそ、物事の理解が進み、技倆は冴え渡り、やがては収穫期にちゃんと収穫できるようになる。事前にあれこれのダンドリが組めるようになる。

 最後にちょっとだけ、その1:意思決定(価値決定)部分と、その2:実行=逆境脱出部門について補足しておきます。

 その1の意思決定パートにおいては、とにかく迷うくらいサンプルケースを集めることです。迷うというのは価値と価値が衝突することであり、衝突しはじめてなんぼです。一個しかなかったら衝突もしないから、スイスイ進むんだけど、それでは予定調和の中二病のまま卒業してしまうことになる。それはマズイあるね。だから、「え、そんなのもあるの?」「うわー、困った、超迷うわ」ってくらい、どうしようかなーと悩むような局面に持っていくことです。

特に生まれて初めてという未知のエリアに突入するときは、不安だから早く楽になりたい、安心したいと思って、サンプルケースもなにもなく、最初に見つけたものにしがみついてしまう傾向があります。でも、それ、「地獄へようこそ」です。常に最初の一発目にベストがくるならばそれでもいいけど、そんな法則はない。だから就活でもなんでも何個か内定をもらってからゆっくり考え、じっくり悩んで価値序列を並べ替え行為を行い、それで全部ダメならさらに探すくらいでもいいです。入ってもすぐにチェンジできるような、こちらのバイトだったらリサーチ活動として入るのもアリですが、日本の新卒就活のように最初の一発目の弾が結構重みを持つときは、悩めるくらい数を集めるのが大事で、これを怠ると、単なる百人一首の坊主めくりみたい感じで人生が決まってしまう。そこまで強心臓のギャンブラーはいないぞってくらい凄いことをしてしまう。僕だったら怖くてようやらんわ。

 これまで生きてきて、その1パートを怠ってきたかどうかのリトマス試験紙は、何のために生きてるの?どうなりたいの?夢はなあに?系の質問に、ある程度答えられるかどうです。もし、大して答えられなかったら、それは価値序列をちゃんと考えてこなかった疑いが強い。さらに、なんで考えなかったの?といえば、とにかく不安だから早く安心したくて、しっかりしてる(っぽい)ものにしがみついてきただけ、つまりは「不安(恐怖)に人生を支配されている」という疑いが濃い。そんなんじゃ生きてて楽しくないんじゃない?いつ先生に指名されるかとビクビクしながらクラスに出ている学校時代みたいなことが一生続いていってええんかい?という。


 その2の逆境部門で補足するとしたら、これは一種の持久走だと思うといいよってことです。しんどいから全力疾走的にやってしまうのだけど、そうするとすぐに息があがって苦しくなって、繰り出せる手も限られてしまう。必死にはやるんだけど、短距離走的にぶわーっといかないことが大事。ついつい早く終わらせたい一心でそうなりがちなんだけど、それをやるとマズイですよ。なぜなら、それで成功する保証はないし(てか、大体ダメだし)、そうなったときに落胆の度合いが激しすぎる。でもってもう立ち上がれないくらい疲労してしまう。

 これも結局同じことですよね。なんにせよ「早く楽になりたい」「恐いから早く終わらせてしまいたい」というモチベーション=恐怖に支配されている系でやるとロクなことにならない。おそらくは、一生レベルでもっとも大量の苦労を背負うことになるでしょう。皮肉といえばこんな皮肉なことはない。だもんで、マラソンのようにスタミナ配分を考えること。よく百連敗覚悟でやるといいよとか僕は言うのですが、その意味は、持久走なんだからバテたら終わりだということです。あとこんなにやることがあると最初から思ってたら、歩幅も小刻みに淡々と進むようになりますから。

 あとはえーと、なんぼでもあるけど、いい加減このくらいにしておきましょう。








 文責:田村




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