今週の一枚(2016/05/09)
Essay 773:え!そうなの?〜世界観が変わるということ
その日を境に全てが変わる、この世で最高の快楽
写真は、Crows Nest。完全に地元ネタで恐縮なんですけど、長々工事していたWoolwothのビルがようやく竣工し、さっそく行ってきました。駐車場も大きくなってて。
ここの屋上駐車場が好きなんですよー。何度も紹介してますが、Crows Nestは「カラスの巣」という意味です。転じて「物見台」という意味があり、その昔はここに物見台があったのでしょう。それだけ高台にあるし、高台にあるから眺望が良い。そして空が綺麗。なんかしらんけど、Crows Nestの空は綺麗なんですよねー。色もさることながら、不思議な透明感と解放感があって。
ここの屋上駐車場が好きなんですよー。何度も紹介してますが、Crows Nestは「カラスの巣」という意味です。転じて「物見台」という意味があり、その昔はここに物見台があったのでしょう。それだけ高台にあるし、高台にあるから眺望が良い。そして空が綺麗。なんかしらんけど、Crows Nestの空は綺麗なんですよねー。色もさることながら、不思議な透明感と解放感があって。
世界観=全て
「世界観」という言葉を僕は好んでよく使います。
本当の定義(たぶん哲学的な)まで掘り下げて考えて使ってるわけではないのですが、多くの場合のキーワードになっています。今週は、ちょっと立ち止まって、この世界観の意味、そして世界観が変動することの意味を書いてみたいと思います。
世界観、めちゃ重要です。
もう、人格=世界観といってもいいくらいです。
世界観というのは、この自分をとりまく(自分をも含めて)どうなっているのかという認識です。
それは、自分は人間であり、地球という惑星に住んでいて、太陽の周囲を廻っているから四季というものがあり、自転してるから昼と夜があり、その地球の中の日本列島に生まれたことになっており(生の記憶はないから信じるほかないが)、このおじさんとおばさんが自分の両親ということになっており、自分は◯◯系が得意で、◯が大好きで、、、というあれやこれやの全てです。全記憶の体系といってもいいかも。
ゆえに世界観が変わるということは、とてつもなくデカイことです。
「え、そうなの?」で全てが変わる
例えば、それまで自分の実親だと思ってた人達が、実はそうではなかった。諸事情あって親子ということになっているが、本当は養子であって、実の親はどこにいるのかわからないということを、成長した後で聞かされたとします。「え、そうなの?」とガビーンとなるでしょう。だからといって直ちに何がどう変わるってもんでもないでしょう。しかし自分自身のアイデンティティは微妙に変わるだろうし、養親に対する見方も変化するだろうし、それまで考えなかったことも考えるようになるでしょう。それまで自分は平均値そのままの、のっぺりノーマルだと思ってたけど、意外と俺ってフクザツな生い立ちがあったのねー、そうかそうか、ふーん、まああんまり実感ないけど。でも、それまでのっぺりノーマルな人だったんだけど、これからは微妙にフクザツな人になってしまうかもしれないなーとか。
あるいは、これまで親だと思ってた人が実は他人だったということで、見方もやはり変わる。他人なのにここまで育ててくれてありがたいなーと感謝の念が新たになったりするのだけど、「ありがたいな」と思う事自体が既に「他人行儀」な発想にシフトしてたりもします。それと同時に「しょせんは他人なんだろ」というクールな感覚が秋の高原のように広がってくるかもしれない。いやいや、血のつながりなんぞナンボもんじゃい、人間関係は記憶の共同シェアの質量に比例するだろうから、実際には血がどうのって関係ないさね、これまでどおりで変わらないよねって思うけど、なんかそう自分に「言い聞かせている」ような部分が微妙にあったりして、あー、複雑な。そして、将来的に親子喧嘩するときも、それまでのようなガチな感じにいかなくて、つい微妙な遠慮しちゃったりして、あー微妙。
やっぱり何らかの意味で変わると思います。変わらないわけがないですよ。前提が変わるんですから。それが良いか悪いかという問題ではなく、自分の人格や性格もどこかしら変わっていくかしらないし、生活感やら人生の見通しなんかも、目には見えない程度に多少の影響は受けるかしらん。
主観も客観も同じ
他の例。文字通り世界に対する認識ですが、例えば中世の天動説から地動説に変化したとき。それまでは、地球というのは平べったいお皿みたいなもので、海の果てはナイアガラの滝のようになっていてって思っていたのが、球体で海の先にも未知の大陸があるんだって世界観になりました。
ここで大事なのは、別にそう思い直したからって客観的に1ミクロンも変化がないことです。そう思いはじめたら、いきなり平べったい地球が丸い球体に変化したってことは無い。もしかしたら量子力学的な並行世界ではそうなのかもしれないけど、今現在の僕らの世界観を前提にすれば、地動説に転向した瞬間に地球がゴトンと動き始めて〜ってなことは絶対無い。客観的には何も変わっていない。
何も変わっていないのだけど、自分の頭の中では、まさに神による天地創造かハルマゲドンみたいな大変化が起きてるわけですよね。そして、もし本当に客観的にそういう途方もない変化が起きた場合と、単に頭の中身が変わっただけの場合とを比べてみると、主観的には全く同じだという点も注目すべきです。
「目をつぶれば世界はなくなる」という言葉があります。主観の絶対性を言っているものですが、自分が認識できる範囲はしょせん主観でしかないのですから、ある意味では本当にそう(主観が絶対)なんですよね。今ここで自分が死んでしまって無に帰するのも、全宇宙が消滅するのも、自分にとってみれば同じことです。
結局人は、自分の主観世界から外に出ることは出来ませんから、主観世界でのあれこれが全てです。その全てである主観世界を書き換えるということは、客観的な世界のあり方が変わるのと同じだけのインパクトがあり、究極的にいえば人間はその違いを認識することができないです(ここらへんになると哲学の世界に入ってしまうのですが)。ちょっと例は違うんですけど、なんかの拍子に幻覚が見えるようになり、空に飛行機が飛んでいるのが見えたとします。しかし、本当にそこに飛行機が飛んでいるのか、あるいはそれは単なる幻覚なのか、見え方が全く同じだったとしたら、それを確かめようもないです。
僕自身は、霊能力とかクスリにしたくても全然無いので、いわゆる幽霊のたぐいは一度も見たことがないし、その種の霊感も鈍感度100%です。一度、人魂らしきものを見たような気がする程度で、あとは「虫の知らせ」なんか一度も感じたことないし、下駄の鼻緒が切れたこともないです(下駄なんか穿かないけどけど)。でも、人によってはその種の感度の高い人がいます。僕の大阪時代の知人は、子供の頃から、勝手に障子や窓が目の前で開いたり閉まったりして、あまりにも自然だから自動ドアみたいな感じで、そーゆーもんだと思ってたそうです。幽霊とかそういうのは見えないんだけど、不思議なことが普通に起きて、あんまり普通だから普通だと思っていたという。そういう人はそういう世界観になるでしょう。学校で教えてくれる物理科学法則以外のなんらかの法則なりがこの世にはあるという世界観。
これ、ある日を境に、見えないものが見えてきたら、やっぱり世界観変わると思いますよ。祖先の霊とか知らない人が普通にそこらへんにブラブラ歩いてて、「よ」とか片手をあげて挨拶されて、それが日常になったら、死後の世界らしきものはあるんだなあって世界観になるでしょう。そうなると、今現在の生き方も微妙に変わってくるかもしれない。あんまり悪いことして地獄に落ちちゃったりしたら悲惨だよなあ、やっぱ真面目にやろうかとか、こんだけ四六時中見てられたら変なこともできないよなって考え方になったり。
その日を境に全てが変わる〜全般性と永続性
世界観が変わる場合、最大のポイントはその効果が絶大だということです。パチンコで買って大儲け〜とか、テストでいい点がとれました〜、契約ゲットしました〜とかいう一過性のものではないです。それらは賞味期限のようなタイムリミットがついてますから、時間がたてば効果は薄まります。しかし、世界観はそうではない。一回変わったら、何から何まで変わるし、その変化は、次に世界観のアップデートまで死ぬまで続きます。
ずっと前にウチに来られた方で、生魚が食べられないという方が居ました。苦手というより全然食べられない、と。その方がおられる間に、他の知人と寿司を食べに行く機会があったのですが、その方も同席しました。生魚はダメだけどそういう席は好きだし、卵とかウナギとかなら食べれるしってことで。わいわい食べてたのですが、そこのお寿司があまりに美味しそうに見えたのか「ちょっと試してもいいですか?」と恐る恐る口に入れたら、「おいしい!」と。え、なに、これ?美味しいじゃないですか、全然食べられる〜、もう一個貰っても、あ、いや私も頼みます、、てな感じで満腹になりました。そこでしみじみ、あー、こんなに美味いんだったら、もっと昔から食べておきゃよかった!くっそー、損した!って。でも、ま、老衰で死ぬ寸前にそれに気づくよりも、20代に気づいたほうがまだ傷は全然浅いじゃんって慰めてましたが。
この人の場合、ダメだと思ってた生魚がいけるようになったというだけのことなんですけど、この効果は何か別の事情がない限り(病気その他や体質変更とか)一生持続します。そして、そして食べられるようになったら、あらゆるところに影響が出てきます。なにしろ忘年会でも海鮮系はちょっとなーとか、旅行でも海辺にいっても仕方ないしなーとか、あれこれ制約があって避けていたのが、むしろ好んでいくようになるわけですよ。
さらに穿ったことを言えば、その種の好きキライが激しいと、やっぱ自己認識やアイデンティティにも微妙に影響すると思うのですよ。自分というのは、ちょっと「取扱注意」的な人間であって、もしかしたら気づかないけどどっかにまた地雷があるんじゃないかと、おっかなびっくり的な生き方をしてたのが、なんでもいける、バンバンいけるぞ、なんでもこい、オールマイティだという方向に変わると、発想も性格も、ひいては人格すらも積極方面に進路が変わるかしらん。ま、そんなバコーン!と変わるもんじゃないでしょうけど、やっぱ知らないところで何らかの影響はあると思います。
自己認識
世界観の半分は自己認識だと思います。自分というのは「こういう人」だという意識ですね。でも、これって単なる思い込みに過ぎない場合が多いです。僕自身の経験で言えば(昔もここで書きましたが)、ダメと言われてたものを全部ひっくり返す過程が、物心ついてから25歳くらいまでの軌跡でありました。「どろろ時代」って自分で呼んでますけど、手塚治虫の漫画「どろろ」に出てくる百鬼丸の設定です。生まれたときに妖怪に身体の48箇所を持って行かれた百鬼丸が、(義足義眼のサイボーグ状態で)一匹倒すごとに眼が復活したり、足が生えてきたりする物語です。それと同じで、失われた自信を奪回していく旅です。やれ運動がダメだとか言われたら柔道で黒帯取って「ほら、出来るじゃん、ざまあみろ」みたいにリベンジし、勉強も文章も音楽も図画も才能のカケラもない最低レベル扱いだったのが、全部リベンジしました。「一匹残らず」くらいにやった記憶がある。一生モテるわけがない!とか思ってたけど、モテ期も来たし。
世界観をひっくり返す愉悦
出来ないと思い込んでいたことが出来るようになったときというのは、こんなに気分のいいことはないです。昨日まで乗れなかった自転車が乗れるようになった「奇跡の瞬間」です。こんなうれしいことはない。「出来ない俺」が「出来る俺」になったとき、こんなにも世界の見え方が変わるのか?と、それがビックリでした。それが世界観をひっくり返す喜びです。ひとつ2つやってコツをつかめば、あとはカンドコロがわかるから同じことです。「アホみたいに練習したら、大抵のことはできるようになる」という新しい世界観においては、一事が万事なんでもそうで、だから全然知らない領域、苦手っぽい領域でも物怖じしないでいけるようになります。去年クラスで最低だったとしても、1年飽きずにぼそぼそ続けてたら、翌年にはクラスで1−2番にはなれる。中2の頃生まれて始めて鉄棒の懸垂というのをやらされて、屈辱のゼロ回だったのですが、マンションの屋上の物干し台にぶら下がったりしていること1年足らずで、翌年には11回出来るようになってて、クラスで2番でした(一番は逃したんだが)。「なんだ、こんなんでいいんだ!」というのは大きな発見でしたね。今から思えば、「世界観を変えるコツ」「自己認識を変える方法」を自然に見つけてしまったという感じです。
それが大きな財産になってて、絶対無理だろそんなの、死ぬ気か?みたいな難関試験でも、「やってりゃ絶対いける」という鉄板の自信はありましたもん。「やる」ということに関しては、それまでの蓄積でノウハウも自信あったし。前職では、医療過誤にせよ、著作権にせよ、「なんじゃこりゃ〜」と頭蓋骨が陥没しそうなくらい全く!意味がわからん専門書を読んで理解しないといけないのですが、それでも「やれば絶対出来る」と思えるし、実際出来たし。海外なんか間違っても行くわけがない、英語なんか一生喋るわけがない、自分にとって一番遠い世界だと思ってた海外も(だからこそ来たのだが)、出来無いわけがないだろ?そこに人が住んでる以上、俺にも住めないハズがないって思えたし。このHPも日本にインターネットが普及し始めた頃から、まずパソコンを買う所からはじめて、英語の解説と格闘しながら学んで、HTML文法も独学で勉強して作ったものですけど(てかWEBデザイナーなんて職業自体がその時点では存在しなかった)、それでも「出来ないわけがない」とは思ってた。実際出来たし。
もし、あの頃に「やってりゃそのうち」的な方法論に気づいてなかったら、つまり世界観や自己認識を変える方法と自信を得てなかったら、おそらくは何においても懸垂ゼロ回的なトホホ状態で、今頃は、日本でリストラされたり、下流老人確定になってるか、既にホームレスになってるかしてたかもしれません。まあ、それはそれなりの味わいもあるのかもしれないけど、今まで見てきた風景も、人間関係も、経験も全部得られなかったわけでしょうから、それはかなり厳しいなーとは思います。
井戸の底から山頂まで這い上がるメソッド
このように井戸の底から這い上がってきて、そのまま山に登ってしまいましたって感じだから、僕自身に劣等感も優越感もあんまりないです。いやどっちもあるけど、どっちもあるから意味がなくなるというか、エレベーターみたいに可変式だから、自分でも優越してるのか劣等してるのかよう分からんし、どうでも良くなってしまう。いわばエレベーターガールの人に「いつも何階でお仕事されているんですか?」と聞くようなものです。今やってる一括パックや、その後の卒業生相手に起業あれこれとかやってるのは、井戸から這い上がる技術の応用です。そのへんは6歳くらいからずっとやってるので、得意なんです。淡々とやってりゃ、大抵の人は大抵のことが出来るようになります。才能が意味を持つのは、県の代表くらいになってから先のレベルで、そのくらいまでは誰でも出来る。
問題は「淡々」なんですよね。これが難しい。一日のストロークをこのくらいに刻んでおいて、1日にひとつはご褒美があるようなセッティングにしておいて〜とか、あそことあそこにハーケン打って支点確保しておいて、身体をせりあげたら、ほらもう見え方変わってるでしょ?という。昨日決死の覚悟でやってたことが今日は楽勝になっているという、その種の魔法はあるのであって、そのプログラミングが難しいです。てか、慣れたら魔法でも何でもないし、クライマーが岸壁をしばらくみて攻略ルートが見えてくるのと同じように見えてくるはずです。少しでも登ると、その分だけ見え方が変わる、見え方が変われば自信もつく。自信がつけば欲もでる。それをモチベーションという。仰ぎ見るようなものが同じ目の高さになり、次には見下ろすようになる。「高度を勝ち取る」というのはそういうことでしょう。
思い込みが成長を阻害する
世界観というのは、結局のところ思い込みです。世界は思い込みで出来ている。そして、自分自身もまた思い込みで出来ている。取るにたらない微少な、経験と呼ぶのも愚かしい破片のような記憶で、「これは自分に向いてない」とか「思い込む」ところから、全ての不幸と悩みが始まるのだと思います。前職時代も含めて毎週のように「はじめまして」「お久しぶり」とか人に会ってるので、自然と他人の引き出しはよく見えるようになります。そりゃサンプルケースが数千とか数万のオーダーに乗ってきたら、どんな馬鹿でも多少は何かを学びますよ。毎日海に入ってれば嫌でも泳ぎが上手くなるのと同じで。いつも思うのは、「なんだ引き出しあるのに全然開けてないじゃん」ってのが多すぎです。もったいないです。すべては思い込みです。なんか知らんけどネガ封印してて、犯罪現場の警察の立ち入り禁止のテープみたいなのが張られてて、近づこうともしない。
逆に、「あー、この人は問題なく伸びるなー」と思える人は、その種の思い込みが少ない人です。自分について決め打ちしてない人。自分はこういう人だと強く思っていない人。これからいくらでも自分は変わっていくだろうし、変わって当然と、ごく自然に思えている人、こういう人は伸びますよね。
何故伸びるのか?ちょい話はそれるのですけど、思い込みって先入観や偏見ですから視界を曇らします。見えるべきものが見えなくなる。苦手だと思ってたスポーツでも、一瞬だけ好プレーをすることがあるんだけど、それを見逃す。コーチでも目の確かな人は、「お前、それもう一回やってみろ」とやらせてみて、気づきますよね。技術もないし、不慣れだから全然ダメなのは当然なんだけど、ボールを追いかけるカン、どの地点に落ちてくるかという判断はやたら鋭いから、筋はいいぞ、才能あるぞと。ただ練習不足で脚力がないから追いつけないとか、フォームができてないから追い付いてもその後がダメだったりするんだけど、そんなのは練習すれば済むだけのことで、素材がいいぞと。
それをコーチに言われるのではなく、自分で気づけるかどうかですよね。でも、最初からダメだという先入観があったら、そこに気がつかない。上達したり、未来につながるドアがあるのに、そこをスルーしてしまう。だから伸びない。でも先入観のないひとは、「へへへ、今のは良かったなー、あれもう一回できないかなー」「おかしいなー、さっき出来たんだけどなー、何が違うのかな」とか楽しみながら研究し、工夫していってモノにしていってしまう。
不安定=変化=成長
ちょっと前に書いたEssay 737:官兵衛メソッドとリンクするのですが、要は変化に敏感に気づくかどうかだと思います。それは昨日よりも今日の方が爪が伸びたぞというような、非常に微細な差異なんだけど、それに気づき、それを励みに思い、それに面白さを感じるかどうか。さらに言えば、見ようとするかどうかでしょう。そして、なぜそこまで目を凝らして見ようとするのか?といえば、その根底にあるのは、変化することを楽しいこと、快いことだと思ってるか、不愉快なことだと思ってるかという違いに行き着くのかもしれません。伸びる人って、常に自分が変化していくのに慣れてます。昨日自分はこうだったとしても、明日になったらどうなってるか分からんというのが自然に思える。言葉を変えていえば、足元がグラグラしてるような不安定な状態に強いし、どっちつかずの不安にも慣れている。てか、その不安定なのが好きだという。海と船が好きだから船酔いしない、みたいな。
スケボーやスノボみたいなもので、移動が容易なものは大地との摩擦係数が少ないから、とっても不安定です。立ってるだけでグラグラしてて危ないったらありゃしない。しかし、そのグラグラがあるからこそ、徒歩よりも遥かにスムースに移動出来るわけで、安定をとるか変化(移動)を取るかです。
ここでちょっと揺れただけで、もう気持ち悪くなったり、怖くなって安定した大地=予定調和に逃げ込もうとする人は、だから変化(成長)が生じにくい。変化がキライだし、変化を見ようとしないから気づかない。実力養成でも起業ビジネスでもなんでもそうですけど、「夜明け前が一番暗い」という傾向はあります。ブレイクスルーの直前によく訪れる真空地帯、暗くて寒くて無重力という居たたまれないような時期があったりするんですけど、そこがクリアできずに辞めてしまう。だから伸びないんじゃないかな。上手な人はそこを乗りきれるバランス感覚があります。それは立体的なバランスもあるし、時間的なバランス感覚もあります。料理でいえば「このくらい味を染み込ませようとしたら、このくらい時間がかかる」というカンドコロであり、「このくらいの技術を習得するにはこのくらいの時間がかかる」という感覚であり、ひいてはビジネスでも「次第に口コミで広がって、ぼつぼつとお客さんが来て、リピーター増えてってなるにはこのくらいかかる」という感覚です。
安定志向というのは、実はバランス感覚が悪いんだと思います。バランスが悪いから動かないものに絶えずつかまってないとならない。ちょっとでも動こうとするとコケてしまう。そういえば、「ブレない」「初志貫徹」「岩の上にも三年」とかいう一行広告みたいなフレーズを金科玉条みたいにしている人、ブレることが悪いみたいに思い込んでる人もヤバいかもしれない。「ブレない」というのは「成長しない」ってことかもしれんもん。真実はどっちも必要で、変わらなければならないし、変わってもいけない。その見極めこそがバランスであり、そこをワンフレーズ・ポリティクスというキャッチフレーズ一発的な信条でやってたら無理ってもんでしょ。ブレーキばっか踏んでアクセル踏まないんだから進まないよ。
成長しやすい人はバランスが良いし、バランスが良いから変化に強いし、変化自体が快楽でもある。だから美味しいものとマズイものを的確に見極める変化グルメのように舌が肥えてくるから、自然とバランスもよくなる。相乗作用ですね。変化が好きで、変化を楽しんでる人と、変化を楽しめず、どうかしたら吐き気こらえたり、不安で発狂しそうになってる人でははじめから勝負にならない。理の必然でしょう。
ツンデレ的な外界認識
さて、自己認識の以外のもう半分は、外界の認識です。「生魚は実は食べられる」「そして美味しい」という認識などです。これも面白いですよね。地域でも、業界でも、人間でも、遠く離れてなんとなく思ってるイメージって、まず大体は間違ってますよね。一見華やかで流行の先端をいってるように見るような業界でも、一歩中に入ったら、めちゃくちゃ封建体質で体育会系バリバリでってのはよくあるし。一見気難しく見える人でも、実は不器用なだけで本当はすごく可愛かったりして。ツンデレみたいなもんですね。
僕ら人間は自惚れが強いので「そんなの知ってるよー」とか、すーぐ「わかった気」になりたがる生き物だと思います。でも、それって大体は間違ってるのよね。アホやねん。でもアホだというのは祝福すべきことであって、それだけ伸びしろがまだある。マズイと思い込んでいたものが、実は美味しかった!なんてことも多々ある。
シドニーは食に関しては楽しめる都市で、僕もメシが美味いから永住しようと思ったクチです。最初の頃、あれこれ「生まれて初めて」のものを食べては、おおー!と思ってました。インドカレーのマンゴーチキンなんか、「カレーがマンゴー?甘いの?気色悪〜」とか思ったのですが、食べてみたら、あまりに美味しさにひっくり返りました。おー、やべー、これを知らずに(食わずに)死んでたら、死んでも死にきれんかったわ〜、成仏できんわ〜と。
その中でも、知ってたつもりで全然知らんかった〜!と打ちのめされるような体験は最高です。日本に居る頃、地酒の師匠みたいな人にあれこれ教えてもらって、ガーンガーンと除夜の鐘のように鳴りまくって、なにこれ?これが日本酒なの?じゃあ、今まで飲んでた日本酒って、あれは何なの?コーヒーと紅茶どころか、コーヒーと味噌汁くらい違うではないか、そうかー、そうだったのかー、いやー知らんかったわーという。
イタリア人の街で本格的なピザを食べたときも、ピザってそういう食べ物だったのかと感動しました。それまではドミノ・ピザ的な、なんでも沢山具が乗ってて、全部載せてから焼くというものだと思ってたのですが、洗練されてくるにつれて具が少なくなってくる。それに焼き上がってから具をのせる系も多いのがわかってきます。さらに、それまでは薄地のカリカリしたのが美味しいとか思ってたんですけど、ぽってり厚地のものも美味しいことが判明。カリカリだけが芸じゃないのよと。厚地のものはモチモチした食感がいいし、何よりもドウ(生地)それ自体が美味しい。いい小麦粉(セモリナ粉か)を使ってるんだろうけど、水のレシピー、こね方、寝かせ方、伸ばし方、焼き方、シンプルな工程なんだけど、それらが優れているんでしょうねー。デザート担当のパティシエのように、ピザ職人は独立した部署らしく、今日はピザ職人がお休みだからピザは出来ませんって言われたこともあったくらいで、難しい専門技術職なのでしょう。
同じ粉系の食べ物であるうどんとの対比でいえばわかりやすいかと思いますが、基本は素うどんであり、素うどんがマズイ店は、あとは何をやってもダメなのと同じ。素うどんは具で誤魔化せないから、つゆの良し悪し、うどんの打ち方、ゆで方の良しあしがストレートに出ますし、その部分こそがうどん本体の美味しさですから。ピザも同じように、ドウはうどん本体に対応するわけですから、シコシコした歯ざわりとか食感が大事だし、ドウ自体の味が良くなかったらダメだと。ドウを味わい、逸品のチーズの味を楽しみ、そして個別の具とのハーモニーを味わう。どーんというオーケストラではなく、弦楽四重奏曲みたいな感じ。そういうのを食べて、なるほどー!と思ったもんです。そういえば、寿司にも素巻というのがあるらしく、具を一切いれないシャリだけの海苔巻きです。寿司米のうまさ、海苔のうまさ、そして絶妙な巻き方の三拍子揃ってたら、それだけでも十分美味しく食べられるはずだと。そのベーシックが出来てこその具であると。同じことなんでしょうね。てか、食べ物に限らず、なんでもそうなのかもしれない。素うどんみたいな基礎だけで勝負できなきゃダメで、具やトッピングに走ったらあかんと。
同じように、10年以上住んで初めてフランスパンが美味いと思えたり、ラビオリの美味さをやっと理解したり、「え、そうなの?」ということが時々あります。めったにないけど。でも、それがあった日は嬉しいですねー。感動です。だって、「そうか、そうか、そうだったのかー!」ということで、この先死ぬまでそれを楽しめるわけでしょう?これまでは無知蒙昧な馬鹿だったから知らずに楽しめなかったことが、一歩「開眼」したら後は一生楽しめるわけで、すごいことですよ。この「ピザとはこういうもの」という世界観がひっくり返されるような日は、すごく嬉しいですし、強いてお金で換算すれば宝くじで10万円あたったくらいの感じ。ここ、100万円でもいいんだけど、そこまで言っちゃうと微妙にリアリティないし、1万円ではあからさまに少ないし、まあ10万円貰っちゃうくらいの嬉しさかなって。
別に食べ物だけじゃないですよ。
暗くて陰鬱なイメージが強かった日本海も、実際に行ってみたら青の色が綺麗でびっくりしました。太平洋も綺麗なんだけど、それは「青」って漢字が似合い、日本海は「蒼」が似合う。
仕事でも、それまでなんかイヤだな、楽しめないなって思ってたことでも、実はこういう喜びがあったんだ!と発見したときはうれしいですよね。そうかー、この仕事はこういう仕事だったんだーって、ベテランと呼ばれるようになってから改めて発見したり。
人物についてもそうで、愛想が悪いから苦手だなーと思ってたけど、よく考えると判断を誤ったことは一度もないし、いい加減なことで他人を非難しているのを聞いたことがない。つきあいでも仕事でも公正そのもので、自己中やエコヒイキなど歪みがほとんどない。もしかして単にお世辞が言えないだけで、実はすごくいい人なんじゃないかなって気づいたり。そういえば、お世辞と誠実さが両立しなくても不思議ではないし、「巧言令色鮮し仁」というのは、なるほどこういうことかと。
世界観は毎日変わる〜その変え方が大事
ゼロリセットの快感
子供のころに、ベルヌの「地底旅行」とか「海底二万里」などの古典SFや冒険物語を読んだ方も多いと思います。あれ、ワクワクしますよねー。ワンピースなんかもそうだけど、冒険ものって面白いです。でも、何が面白いのか?「冒険」というのは、「危険を冒す」ということで、そのスリリングなヒリヒリ感が楽しいのかなと思ってた時期があります。確かにそれもあるんだけど、それは本質ではないなと思うようになりました。あれは「世界観が変わる」のが楽しいんじゃないかと。地底旅行でも、地面の下はこうなっていたのかー!知らんかった、おおー!という世界観が新規に作られ、塗り替えられていくのが楽しい。世界観がリアルに書き換えられるということは生きていく根本がリアルに変わっていくことでもあり、それまで知らなかった世界が開けるから、「今明らかになる衝撃の真実!」という金曜スペシャル的な興奮がある。
話を極端にすればわかりやすいかな。例えば、ある朝ふと空をみたら、宇宙人の円盤の大編隊が空を覆っていたとします。あわててテレビをつけたら、どの番組もそればっかやってて、人類がいままで体験したことのない新しいページに突入していると叫んでる。えらいこっちゃー!って、友達に電話しても通じず、やっと通じても、えらいこっちゃー!をユニゾンでハモってるだけの話でラチがあかない。メディアもネットも基本同じで、結局何もわからない。落ち着きを失って、意味なく立ったり座ったり、コーヒー入れて飲んだり。さしあたってどうなるのか、今日は仕事あるのかなー、出勤したら何事もなかったように皆営業に出たり、パソコンいじってるのかなー、それはないだろーって思うのだけど、じゃあどうなるの?というとわからない。
相変わらず円盤の大編隊は空を覆い尽くしているけど、何の変化もない。いきなり攻撃しかけてくるかもしれないから、逃げた方がいいんだろうけど、でもこんな状態でどこに逃げるの?とりあえず、水は貯めておいたほうがいいかな、あ、携帯も充電しておこう、、、てか、そんな瑣末な準備でどうなるというのだ、あーもー分からん、全然分からんという状態。
長々書いたのは、一番わかり易い世界観の変わり方です。極端な例ね。恐いけどワクワクするでしょう?なんでワクワクするのかな?と掘り下げていくと、昨日までのやり方や知識、旧来の世界観では対処できないのが明白だからです。ということは、これまで積み上げてきたあれこれも消滅してしまうって恐怖もあるんだけど、同時にこれまでの世界観で煮詰まっていたものも全部チャラになる。ゼロリセットの快感があるわけです。学校や会社がつまらん、人生がつまらん、煮詰まってますって状態で(誰でもどっかは煮詰まってる筈だし)、会社が火災で全焼しちゃいましたっていうと、げげ!と思うけど、不思議に気持ちいい解放感もある。不謹慎だと思われるから口が裂けても言わないけど、心のどっかで「やったぜ!」とかトキメいている自分がいたりする。
これは全面書き換えの事例ですけど、些細なことでも世界観が変わるというのは、その限りでゼロリセットになるのですね。誰だって、どっかしら煮詰まってて、うーん、将来の展望が微妙だなー、できりゃココだけやり直したいけどなーというのがあったりします。リセットかけたい。転職するとか、田舎に行くとか、海外に行くとかいうのも、かなり全面に近いリセットですよね。誰かが書いてたけど、日本人が海外に行くのは、経済的な理由による難民ではなく(最近はそうでもないが)、もっと精神的な難民であると。なんか煮詰まる、展望がないことはないがワクワクしない、もっと青空がみえるような展開にもっていきたい。そのためには、これまで書いたように自分自身や周囲の物事を丁寧にひっくり返していけばいいんだけど、世界観というか周囲の世界そのものを総とっかえしちゃえば話が早いぞってことだと思います。高校デビューみたいに、ゼロからやってみるんだと。
そういうことは日常でも多々あります。宇宙人ほど荒唐無稽でなくて、且つ分かりやすい例では、「新しい恋」なんてのもあります。それも何となく流れでつきあってますとか、事務処理みたいな香りのするやつではなく、本物のやつ。あれはもう、その日を境に全てが変わりますから。直前に別れた相手のことでウジウジやってたのも、どうでも良くなっちゃうし、会社の退社時間が待ち遠しい、今度の休みが待ち遠しい。どこ行こうかなー、何着て行こうかなーとかウキウキするし、同じような日常生活を送っているんだけど、もう全部が違う。大好きな人がいる世界といない世界とでは、同じ地球とは思えないくらい違う。
世界も人生も自分自身も、要するに思い込み一つですから、どう思い込むか?で殆ど全てが決まってしまう。「え?そうだったの?」と出来事が一つあると、BEFORE/AFTERみたいに何かが変わる。それも全面的に。不可逆的に。永続的に。
世界観がネガに変わる場合
以上は、意図的にポジティブに変わった場合を書いてきました。素敵な方向に世界が書き換えられる方向です。しかし、良い悪いなんか評価ひとつですから、同じくらいの確率で世界観が悪化することもあります。えー、なんだよ、話が違うじゃないかよ、えー、そんな人だったのかーとか、うわー、失敗したーとかいくらでもあるでしょう。それで人によっては落ち込んだり、生きる気力を無くしたりするわけです。
上がるのが楽しい分、下がるのは苦痛でしょう。長くなったので簡単に留めておきますが、上がるとか下がるとか、こんなのは今書いたように評価一つです。「下がった」「ダメになった」というものの捉え方をしている時点でもうダメぽでしょう。実際には、世界観がより正確になった、より客観的事実にフィットするようになっただけのことです。主観が客観に近づくにつれ、一般に成功率はあがりますから、別に悪いことではない。
ちょっと前に通学中の児童達を殺すという通り魔的な殺人があれこれ起きて、世情騒然って感じになりましたが、あの犯人像は、これまで優等生でやってきた人が壁にぶつかって、煮詰まってってパターンが多かったように記憶してます。世界観変わっちゃったんだろう。それまでイケてると思ってた俺が、実は意外にも大したことがなかった、ヘタレでしたという、ごくありふれた話なんだけど、その変化がキツかったんでしょう。中二病から卒業しそこねたって感じかな。
ほんでも思うのですが、大体においてネガとポジがあったら、ポジが勝つと思います。一般には逆に思われているけど、そうじゃないと思う。なぜなら、一回でいいから本当に美味しいピザを食べたり、綺麗な日本海を見たりしたら、あとは全敗でもその記憶は失われませんから。ポジ1勝、ネガ100敗でも、ポジが残る。「なかなか本物に出会えないんですけどねー」とブツクサ文句はいうだろうけど希望は絶対捨てない。なんとしても、またあれを食べてみたいと、見てみたい、あの快感をもう一度と思うよ。
人は一度覚えた快楽を絶対に手放さないの法則
これは陳腐なガンバレ応援歌風に言ってるのではなく、希望を捨てちゃダメだよ系でもなく、厳然たる事実だからです。いっそサイエンティフィックと言いたいくらいの(笑)。それは「生物の快楽原則」です。人は(生き物は)「一度覚えた快楽は絶対に手放さないの法則」です。なんかネガ変化があってどどーん落ち込んで、それでもう立ち上がれない系の人というのは、僕に言わせれば、本当の快楽をまだ知らないだけだと思います。本当の快楽を知ってしまったら、殺されても死なないくらいに「生きる希望」、というか身も蓋もない言い方をすれば「快楽への執着」が湧きますから、そうそう諦めるハズがないです。
むしろ問題は快楽執着が強すぎることで、これがあるから万引きや盗癖はなかなか直らない、ドラッグ常習癖は改まらないとか、常にダイエットに失敗しているとか(甘味快楽が断ち切れない)、妙な言い方をすれば、生きる希望がありすぎるから問題だという(笑)。
落ち込んでも、そこはぐっと歯を食いしばって耐え切って〜頑張って〜ってストレス耐性的な方法論では無理がある場合もあります。かたやスポーツ選手とか異様にストレス耐性が強い人がいます。僕もコツコツと同じようなことを続けるストレス耐性はあります。だから分かるんだけど、あれって多くの場合はストレス耐性じゃないですよ。まあ、言葉の問題だけど、「苦痛を我慢できる」ということ「だけ」じゃないです。あそこで我慢できるのは、もっと楽しいことがあるのを知ってるからです。キツイ練習に耐えられるのも、壁を乗り越えて上手になったときに、宇宙が大爆発したような圧倒的な快感を知ってるからです。もうエンドルフィン出まくり、スパーク白熱!って感じの快楽ってありますから。あれをもう一回味わいたいんですよ。
ギャンブルでも、釣りでもゲームでもスポーツでも仕事でも、長く続いている人、だから上手になってる人って、どっかでこのスパーク快楽に脳味噌をジューッと焼かれている、クッキリ刻印されている筈です。だから頑張れる。というよりも頑張るという意識も、苦痛に耐えてって意識も薄いと思う。漫画を読みふけっているとき、一生懸命頑張って読書って感じに思わないのといっしょ。それもこれもひっくるめて楽しい。
快楽玉と探す愉悦
話を世界観に戻してリンクさせますが、世界観は思い込み一つですが、その思い込みの中核にあるのは何か?原子の中の原子核みたいなものはなにか?といえば、快楽だと思います。もう小さな手のひらサイズの、いやもっと小さくて仁丹みたいなサイズの、この小さな「快楽玉」みたいなものを持ってるか持ってないかです。世界観を素敵な方向に変えていく営みは、鵜の目鷹の目でこの快楽玉を探す作業でしょう。やたらビー玉集めてる子供のように、あ、これも綺麗、あ、ここにもあったと。それはもうどんな些細なことでも構わない。しょーもないことでも、それでも人は生きていける。
さらに何をするもの面倒臭がりな、ものぐさ太郎なあなたに朗報をいえば、オートマティックな自動航行システムがあります。快楽を探すこと自体を快楽にしてしまえばいい。探す作業そのものが楽しいという具合に頭のなかのプラグラミングを書き換えておけばいいです。それは音楽大好きな人が、中古レコード屋であれこれ漁っているのが楽しいのと同じで、探すこと自体が楽しいですから。探している最中には本番の音は全然鳴ってないんですけど、それでも楽しい。手前の状況で既に楽しくなっている。快楽の前戯みたいなものです。文化祭当日よりも、文化祭の準備をやってる日々が楽しい。
ということで「探す快楽」というものがあるということを大脳皮質にプログラミングしておいてください。てか、これを読んだ時点で既にインストールされたはずです。あとは使ってないと忘れてしまうので、しんどいときは意識的に思い出すといいです。ひたすらツライのを我慢〜とかやってても、しんどすぎるし、効率悪いです。苦痛に打ち勝てるのは、それを上廻る快楽であり、それを探すと。その方がよっぽど精神的苦痛が少なく、より迅速にクリア出来ますから。それが井戸の底から這い上がっていくテクニック(の一つ)だと思います。
遠くに見えるのが、ここ1−2年でやたら高層ビルが林立したChatswood
文責:田村