今週の一枚(2016/05/01)
Essay 772:自我リンクと自我サプリ
燃焼促進剤とノーサイドの精神
写真は、Walking時に撮影したもの。
サマータイム終わったし、つるべ落としの秋の陽ですのですぐに暗くなります。
夏の夕暮れのWalkingは良かったのですが、暗くなったらイヤかもとか思ってたところ、これはこれで乙なものでした。夜の森を散歩するような、気分はちょっとケルティックな(笑)。
サマータイム終わったし、つるべ落としの秋の陽ですのですぐに暗くなります。
夏の夕暮れのWalkingは良かったのですが、暗くなったらイヤかもとか思ってたところ、これはこれで乙なものでした。夜の森を散歩するような、気分はちょっとケルティックな(笑)。
要旨
今週は、成功とアイデンティティーの関係を書きます。他人に話してて、ふと「そういえば」と思ったので。
要旨は、成功・不成功と、「(成功した)俺はスゴイ奴だ/(失敗したから)駄目なやつだ」という自己評価にリンクが張られてたりするんだけど、そんなリンク要らないんじゃないの?ということが第一。
第二に、そこにリンクを張りたがるかどうかは、セルフエスティームや自信の有無によって決まってくるんじゃないかということです。
早い話、自分に自信があるやつは、それが成功しようが失敗しようが、だから自分はスゴイとも思わないし、だから自分がダメだとも思わない傾向がある。でもセルフエスティームが低い人は、ことの成否に自分の全存在が乗ってしまって、その成就によって激しく一喜一憂する。勝てば有頂天だけど負ければキツい自己否定に苛まれる。
そこから逆算していくと、結果や勝ち負けに異様にこだわる人というのは、なんかセルフエスティームが低いんじゃなかろか、あるいは根深いコンプレックスを抱えているのではないか。
さらに言えば、自分のアイデンティティと「なにか」にリンクが張られるというのはどういうことなんだろう?論です。
なんのこっちゃ分からんだろうから、もうちょい噛み砕きます。
成功の意味
三段階査定
何事かを成し遂げること=成功、ゴール、勝利、合格、、「ココまでたどり着けばOK、やったぜ!」という物事があります。大学入試に合格したり、なにかに受賞したり、誰かとゴールイン(結婚)したり。もちろんイイコトです。夢がかなったのだから嬉しい。万歳三唱して、胴上げして、感涙にむせび泣いて下さい。そんな機会は人生にそう何度もないんだから、祝えるときはここを先途と祝えばいいです。でもね、仮にそれがダメだったからといって、それまでの努力が100%無駄になるというものでもないでしょう。勝てなかったら意味がない、合格しなければやる価値がない、とまでは言えないのではないか。
まあ、色々な場合があるとは思います。一括りにしては言う方が無理があるので、「色んな場合」をざっと分類すると、
(1)成功しなかったら無駄、負けたら全てが無意味になるという勝ち負けオンリーな物事
(2)成功しないと悔しいけど、その過程でいろいろ得るものもあったし、まるで無駄ってことはないよって物事
(3)成功するかどうかなんか実はどうでもよくて、結果を問わずちゃんと得るべきものはゲット出来ているもの
などがあるとして、では、どういう場合が1〜3に該当するか?その理由と法則性は?です。
僕が思うに、より細かな事柄〜戦術的で、事務的で手段・ダンドリ的なことは(1)になる傾向があり、逆により大局的、戦略的、人生的に意味が濃いものが(3)に向かうのではないか。
仮目標は着火剤
超巨大な願望=「天下人になる」「世界制覇」という途方もないゴール設定の場合、天下を取るために何度も命を投げ出して死にものぐるいで頑張るわけなんだけど、でも結果的に天下がとれたかどうかなんか実は本人にとってはどうでもいいじゃないかなーと思ったりします。なぜって、それが究極目的だとするなら、それに向けて日々精進したり、陰謀をめぐらしたり、あれこれ頑張っている日々そのものが充実するわけで、それでもう本当の目的は達成できてしまっていると思うからです。そりゃ「志半ばで〜」と本人は悔しいかしらんけど、だからといって全人生否定はしないと思う。「やるんじゃなかった」とは思わないんじゃないかな?人生においてデカい出来事、それが何かの手段ではなく究極の目的になるような物事って、達成することが目的というよりは、やること自体が目的でしょ。その本質はなにか?といえば、「やりたいことを思う存分やって、気持ちよく燃焼すること」だと思います。だからやりゃあいいだけです。簡単じゃん。
ほんでも、多くの場合は、究極の目標というのは大きすぎたり、曖昧すぎたりして「火付き」が悪いです。あたかもゴロンと転がってる大きな石炭みたいなもので、ちょっとライターで炙ったくらいでは火がつかない。そこでより気分良く燃えあがるために、一応仮ゴールみたいに「なにか」を設定した方が火付きがいい。通例なんらかの「野望の象徴」のようなものを置きます。でも、あれは燃えやすくするための「着火剤」「燃焼促進剤」のようなものであって、実は本当の目的ではない。
スポーツで全国大会優勝!という目的があったりするけど、でも本当は好きなスポーツを思いっきりやって、限界ギリギリまで身体能力を発揮してエンジョイしたい=充実したいってのが本来の目的のハズ。だから日々それをやってエンジョイしていればそれでいいんだけど、でも仮目標を設定した方が「大会近いぞ、しまっていこうぜ」「おっしゃああ!」と燃えやすいです。天下統一だって、「力いっぱい突っ張っり通した人生」ってのをやるのが本来の目的であって、それを分かりやすくするために天下〜とかいう仮ゴールを設定しているに過ぎない。
結果が問われるのは、それが手段だから
逆に(1)(失敗したら何の意味もない)というのは、それが何かの手段になってる中間目的(過程)である場合が多いような気がします。上の全国大会優勝だって、優勝して有名になって、その後プロにいったり、知名度をいかしてタレントになったりという将来設計ができている場合、そこで頓挫するとそこから先の夢がポシャるから成就するかしないかってのはかなり重要になるわけです。これって、しょーもないダンドリになればなるほど結果オンリーになります。
例えば、旅行準備のために買い物に行くとします。家をでて1キロくらい歩いたところで、はたと気づく。あ、その店で使える割引券を持っていた記憶があるぞと思い出して、又えっちらおっちら1キロ歩いて家に戻って、タンスひっかきまわしてようやく見つけた所、がーん、先月で有効期限が切れていたのでした〜、まるで無駄足!って場合。これは失敗したら何の意味もないケースといっていいでしょう。
旅行→準備→買い出し→割引券という何層もあるダンドリの最下層の割引券(を取りに帰る行為)についていえば、成功するか(安く買えるか)がすべてであり、成功しなくてもエンジョイ出来たからいいかってもんでもない。なぜならダンドリにすぎないものは、それが究極目的ではないからです。
その行為の手段性が強ければ強いほど、目的を達成しなかったら何の意味もない。屋敷の奥にあるお宝をゲットするために、何重にも遮られている門の鍵を一つ、また一つとこじ開けるようなもので、そこでは鍵が開くか/開かないか、前に進めるか進めないかが全てであり、そこでコケたらもう意味がない。
なぜ手段だと成功しないとダメないのか?これは簡単。本来の目的の達成するための事務的な関門に過ぎず、そのこと自体には大した意味がないからです。ただただ本来の目的をゲットするために有効であるからこそやってるわけで、有効にならなかったらやる意味がない。ダンドリはどこまでいってもダンドリに過ぎない。来週東京から京都に新幹線でいこう、混みそうだから予め切符を買っておこうということで、最寄り駅の緑の窓口まで行ったら財布を忘れて結局買えませんでしたという場合、「駅まで足を運んだ」という行為はまるっぽ無駄になります。何のために行ったのか?と。「買いに行く」行為自体に大した意味があるわけではないです。ただの雑用、ただの手段、ただのダンドリです。
すぐ暗くなっちゃうんですよねー。
手段→目的の多重階層
このように物事には何重にも手段・目的の階層構造があります。そもそも何のために京都に行くの?といえば、例えば結婚を考えている相手のご両親にご挨拶にいくからだと。じゃなんでご両親に会うの?といえば、自分らが結婚するにあたっては、やはりご親族など周囲の人々に承諾と祝福をいただきたい、その方が何かと心地の良い結婚生活が出来そうだから、という「付帯状況の整備作業」に過ぎない。じゃあなんでその人と結婚するの?といえば、そうした方が自分の人生や生活がより豊かに満たされそうな気がするからであり、じゃあなんで生活を豊かにしたいの?といえば、、多分、そのあたりが最終目的ですよね。それが「お屋敷のお宝」です。それに至るまでに必要な鍵を開けていかねばならない。何重とある条件(資金とか式次第とか)をクリアしていくダンドリ作業があり、そのなかの一環がご両親への仁義切りであり、そのための京都行きであり、新幹線であり、切符であり、座席確保のための予約作業であるという、第八次下請けみたいなことでしかない。このような下部のダンドリは成功するかしないかが全てです。できなかったらまるで無駄です。「やるんじゃなかった」です。この例でいえば予約を取るところまではいいんだけど、財布を持たずに駅まで行ったという行為が無駄であると。わざわざ足を運んで行く以上は切符をゲットできなかったら意味がない。
ココ大事なので何度も繰り返しますが、成功/失敗が明確な意味を持つのは、それが下部のダンドリだからであり、下っ端になるほどそうだと。どうもそういう傾向にあるんじゃないか。
結婚の例でいえば、上位階層にくる目的は、好きな人と一緒に暮らしたいとか、生活を豊かにしたいということであり、それ自体に基本、失敗なんかないと思いますよ。そのためにあれこれやる一連の過程も、一緒に暮らし始めてガンガンぶつかるあれこれも、やりたいことをやるという意味では本望達成だし、甘くトロけるだけが「豊かさ」の内実であるわけでもないし、それが最終的にどうなろうが、人生史の1ページを刻むことに間違いはないわけだし。
同じように、例えばサッカー部の県大会優勝や音楽やマンガなどでプロデビューを果たすことが大きな目標になっていたところ、仮に大会開催が中止になったりダメだったとしても、だったら最初からサッカーなんかやるんじゃなかったとか、バンドなんかやってて損したとは思わないでしょ。サッカーや音楽をやる喜びそれ自体はなんら失われていないんだもん。ただ、それがあるとより燃えられるという「燃焼促進剤が不発だった」というだけの話にすぎない。
ほんとの意味での失敗なんかない
つねづね思うんですけどねー、この世に本当の意味で「失敗」なんかあんの?と。なぜなら重要なことぼど、単にやるだけでいいわけですからねー。結果なんかどうでもいい。てか「結果」なんか本来観念できない。それらしきものがあるのだけど、あれはただの燃焼促進剤って場合が多い。
結婚だって、要は日々が豊かに充実すればいいわけです。真剣に人を愛するという営みがあり、毎日の生活により魂を込めるような感じになればいいわけで、それには好きな人がおってアレコレやってればいい、ただ真剣にやればいい。でも結婚という社会フォーマットにあてはめると、より真剣になるかしらんし、自分らの営みが色々と「可視化」出来るからやるわけで、だから結婚それ自体も手段っちゃ手段です。胃のレントゲンを取るためにバリウムを飲むように、可視化しやすいからでしかない。自分が気持ちよく充実し、より人間世界の深いところを学んで、味わって、なんだかんだやってればいいわけでしょ。
目的が純粋であればあるほど、成功とか失敗という概念はぶっ飛ぶと思います。そーゆー問題ではなくなる。旅行が好きな人は、知らない土地の知らない時空間でちょっと不思議な気持ちになれたらいいわけです。てか、そんな具合に言葉にしてすら思わないでしょう。「次はどこにいこうかな」でネットや地図を見るのが楽しい、考えるだけで楽しい、家の戸締まりして付近のバス停で待ってる時も楽しい、よく知ってる駅の、でも日頃使わないからよく知らないホームで待つのが楽しい、電車が動きはじめたら楽しい、どこで駅弁を買うか決めるのも楽しい、目的地に着いたら楽しい、、、どこを切っても楽しいはずですよ。そういうものごとに「失敗」とかあんの?釣りだって、結果的に全然釣れなかったとしても、じゃあ行くんじゃなかった、釣りなんかやめればよかったとは思わんでしょうに。
(クロスリファレンスで何度も重複させますが)、逆に成功失敗が大きな意味を持つこと、失敗したら何の意味もないことって、要するに下っ端のダンドリ、雑魚工程に過ぎないわけで、そんな細かいことどうでもいいじゃん。それほど巨大ななにかが起きたわけではないでしょう。クーポン券が有効期限切れてました、財布忘れて二度足になりましたって程度。割引券が使えないのは悔しいけど、その程度。
それが手段である以上、代替性もある
それにそれが手段性を持つということは、イコール「代替性がある」ってことでもあります。財布を忘れたからといってもう二度と切符を買えないとか、永遠に京都に行けないとかいうわけでもない。また買いに行けばいいだけの話です。それに予約せずにぶっつけで自由席に乗っても座れるかもしれないし、座れなかったとしても別に死ぬわけでもない。新幹線で行かなきゃだめってもんでもないし、飛行機でもあるし、クルマもバスもある。その日を逃したら相手の親が死んでしまうってこともないでしょう。だからなんぼでも代替手段はあるわけです。関門の鍵が開かなかったというよりは、ジャラジャラ持ってる鍵束の最初の一つの鍵がたまたま合わなかったくらいのものでしょう。仮にどの鍵もダメで、どうやっても鍵が開かなかったとしても、だったら力づくで蹴り開けたり、丸太で突っ込んで破壊したり、爆破したり、関門をよじ登ったり、迂回したり、なんぼでも方法はある。ダンドリに失敗すると、一瞬絶望的な気分になりますけど、別に大した物事が起きてるわけでもないです。それが手段である限り、大抵のことはリカバー可能でしょう。それが究極目的であるならば、代替性はないですよ。代替性が無いからこそ究極なのであって。でもそれが究極目的であるならば、やりはじめた瞬間に(いや、それを妄想しはじめた瞬間から)「成功」しちゃうんだから、およそ失敗なんかありえない。あるとしたら燃焼促進剤が発火しなかった程度ですわ。逆に成功しないと意味がないのは、こまっけーダンドリや手段であり、それが細かい手段である以上、大抵は他の手段もありえます。
というか、代替手段が無いなんてことはありえないです。究極部分というのは、ぼややんとした「充実」「幸福」などの抽象概念や生理感覚そのものですから、とある山の頂点みたいなもの(てか山そのもの)で、そこに至るルートは360度自由にあります。空から舞い降りたり、地中からもぐっていったりという立体的な動きも含めれば、360度(平面)×360度(立体)で12万9600通りのアプローチの仕方がある。もう無限にあるのだ。その中のある特定の角度の、さらに細分化された一工程がポシャってるだけの話ですから、二次的三次的な補正ルートはあろうし、迂回もできようし、それがダメなら角度変えればゼロから構築できるわけですし。
以上が前段。以下本論。
なぜ自我リンクするのか
パキンと割り切るノーサイド
欧米には「ノーサイド」という概念があります。試合の最中はもうガチガチに「殺すぞ、この野郎」くらいの殺気立ったファイトプレーを見せるんだけど、ピーと笛がなって試合終了になったら、もう敵味方(サイド)は消滅し、「あー、面白かった」「いやあ、今日はよく遊んだわ」という和やかムードになるってアレです。この発想のベースにあるのは、個々の試合や大会なんか燃焼促進剤に過ぎないってパキン!とした割り切りです。試合というカタチを取ったほうが燃えやすいからやってるだけという。要はスポーツやって楽しめばいいのであって、勝ち負けはどうでもいい。でも、やる限り、やってる間は勝ち負けにこだわる。とことんこだわる。燃焼するためにやってるんだから、燃焼しなきゃね。でも、終わったらもとに戻るだけの話。理屈は通ってるし、理屈だけではなく感情的にもそう思えばすっと通る。
でも、いつもそんなに爽やかに物事が運ぶわけでもない。なかにはものすごーく勝ち負けにこだわる人もいます。どうかすると自分自身の勝負ではなく、他人の勝負事(贔屓の野球チームとか)の勝ち負けですら物凄く一喜一憂する人もいます。さらに、どっかで誰かがやってることに「わが校や県の名誉」がかかったり、あまつさえ「国威」なんぞがリンクしてしまったりもします。なんなの、それ?って感じですが、結構普通にあります。
また、物事が成功したか失敗したかによって、自分の評価が決まってしまう人もいます。エリート学校に合格したから自分はエリートなのだと思ったり、落ちたから負け組なのだと思ったり。これも、自分が受験するならまだしも、自分の子供など他人の成否にアイデンティティが乗っかったりする場合もあります。
なんじゃそりゃ?って僕は思うのだけど、そんな奇妙奇天烈なことが、わりと常識のようにまかり通ってしまっているのは何故なのか?
聖なる空
上で述べてきたことを当てはめてみると、・好きでやってることではない、究極目的ではない。もしそうならやってるだけで満足&充実する筈であるし、またそこに自我の浮沈がリンクすることはない(てか自我そのものだし)。
・ということは、なにかの「手段」としてやっていると思われる。
という推測ができます。
旅行をしたい=知らないところでちょっと不思議な気持ちになって楽しみたい=場合、旅行にまつわることをやっていればそれだけで楽しいし、燃える。そこには成功とか不成功という概念が入り込む余地はあまりない。旅のことを考えてワクワクし始めたらもう目標(いい気分になる)は達成しつつあるわけで。推理小説を読み始めて、作品の最後の方の謎解きと大団円にさしかかって、ドキドキしながらページをめくっているときは、読書の醍醐味を存分に味わっているわけで、もうこの時点で目的は達している。
こういう目的そのものについては「失敗」なんかありえないというのは上に繰り返したところです。仮にあるとしたら、わくわくして旅をしてみたら、電車の中に財布を忘れて大騒動になって楽しむどころではなくなったとか、行ってみたらあんまり面白いところではなくてガッカリしたとかくらいでしょうか。読書では、読んでる最中にテーブルの醤油をこぼして続きが判読不能になってしまって「あ”ー!」となるとか、しょーもない謎解きで肩透かしを食らって、期待はずれでムカつく〜とかくらいでしょう。でも、それ「失敗」なのか?それもこれも含めての醍醐味だと思うし、仮に失敗だとしても結果的に面白くないのは自分の責任じゃないし、そんなものを選んだ選択責任があるんだっつってもやってみないとわからないし。まあ、財布と醤油は自分のせいかもしれんけど、本筋と関係ないし。
そして、そこでなにかを感じたとしても、こんなに楽しい思いをしている私はエライとか、結果的にしょーもなかったから、もう俺は生きている価値がないとか、そんな自我リンクはしないでしょう?読んでたマンガが面白かったら、「あー面白かった」と思うだけであり、「だから俺はイケてる」とかは思わない。その物事に対して純粋に向かっているほど、失敗とか、アイデンティティとかは関係なくなるし、自我リンクは生じない。というよりも、純粋に楽しんでる瞬間瞬間こそが、自我の幸福な顕現であり、自我そのものとも言える。自我というのは、あまりにも中心にあって、あまりにもドンピシャに本体そのものになると、逆に意識されなくなる。台風の目のような、「聖なる空」みたいになって、そこには純粋な感情(楽しい!とか)があるだけだと思います。
誰でもそうだと思うが、僕の人生の目的は、この「聖なる空」においてピュアな感情そのものになることであり、換言すれば真ん中に入っていって自我が消えるくらい楽しく感じることです。自己実現とかいうけど、本当に自己がピュアに実現しちゃえば、自己なんか消える。そんなことを考えている間は、まだピュアさが足りない。どっかしら不純だと思う。さらに付言&極論すればアイデンティティすら別に要らないとも思う。アイデンティティって、大脳の中の無数の記憶の連続性というか、辻褄合わせの物語というか、まあ、ここまでいくとディープに哲学的になってくるので、このくらいで。
自我リンクを張るのは、それは究極ではないから
だもんで、自我がリンクしちゃってるってことは、だからそれは究極ではないんだろうなー、なにかの手段としてやってるだけなんだろうなーって思うわけです。プロのスポーツ選手になったり、金メダルをとって知名度抜群になって、いずれ参議院かなんかに出馬して、比例区で当選して、先生と呼ばれる上流なライフにしたい、お金ウハウハになりたいとか俗な野望があって、それが最終目的だとする。そこから逆算していって、選挙に通るくらい有名にならねば→その為にはオリンピックに出るとかしなくては→その為にこの時点で全国大会で優勝くらいしなくては→こんな地区予選で苦戦してる場合じゃないんだよ、と階層構造があって、そこで敗退したりしたら、それは落ち込むでしょう。激しく一喜一憂するでしょう。要するにそれはスポーツやりたくてやってるのではなく、スポーツはあくまで手段。議員先生&左ウチワ←知名度獲得のための手段にすぎない。手段であるがゆえに、それが果たされないと意味がない。失敗したら目論見は潰えるから失望する。これはわかります。わかるんだけど現実味ないなー。だってコスパ悪すぎだもん。そんな全国レベルで有名になるとか、世界レベルで覇を競うまでには、どれだけ血の滲むような苦労をしなきゃいけないか。それだけのエネルギーを注いで、最終地点が与党の頭数揃えのタレント議員かよ?そんなの権力においても、実収入においても、ひいては純粋快楽(燃焼快感)においてもはるかに劣るでしょう。だから普通そうは考えないと思うよ。プロレスの新弟子で血の小便でしごかれている間に「いずれは議員に」なんて思わないでしょ。そのころは単に「強くなりたい」一心でしょう。そんな長距離なダンドリ階層なんか、普通ありえないと思う。一段落過ぎたら、また新しいゲームが始まるという連作集みたいなもんだと思う。初期の願望どおり強くなれたら、今度はメインを張りたい、人気が欲しい、客を呼べるレスラーになりたいという新しいチャレンジが始まり、それも出来たら、今度は新団体立ち上げてスポンサーを見つけてという新しい戦いが始まり、次は後進の育成とか社会の普及とかパブリックな方向にいき、そのあとに選挙とかが出てくるもんだと思いますよ。
最初からてっぺんまで全て見えているという超長距離射程の場合というのは、社会の歪みなどで散々理不尽な苦労をさせられてきた人が、畜生、死にものぐるいで出世してこの国の権力をのっとって、このクソみたいな社会を変えてやる、リベンジしてやるというくらいでしょう。それなら分かる。でもそういう手段目的が明瞭に見えている場合は、手段の代替性もよく見えている筈だから、いちいち失敗とかいって落ち込むはずもないと思います。権力方面がなかなか進まないなら、スポンサーを見つけてイベントをしかけるんだとか、NPO方面でいくんだとか、誰かと組んでこういう流れをつくるんだとか、やれることは幾らでもあるし、幾らでも思いつける筈です。真剣にロングレンジを狙っているなら、四六時中考えている筈だし。選挙に落ちても次があるし、大体その程度のことで落ち込んでるくらいなら挑戦する資質もないし、最初からそんな大それた野心を抱かないでしょう。大それた野心を抱ける器のある人は、それ相応のメンタルは持ってるでしょう。持ってるからこそ「大それた」ことを考えられるわけですし。
こうしてツラツラ考えていくと、本気でやってることに関しては、ある時点での勝負や成功・不成功にそこまで自我がリンクすることはないと思うのですよ。本体目的でやってるんだったらやること自体が成功だし、中々うまくいかないのも楽しさの一形態でしかない。また、手段としてやってる場合でも、目標がしっかりしとったらそんなに自我リンクや落ち込みはないと思う。
だとすれば、妙な感じで自我リンクができていて、それが妙な感じで手段性を帯びている場合だろうと。
自我サプリ
で、引っ張ってきた結論をいうと、自信がなかったり、セルフエスティームが低いんだろうなーってことです。あ、自信とセルフエスティームは別物ですけど、ここでは一緒くたにして論じます(本論じゃないし)。自分が自分であることに、なんかしら不安感があるとか、欠落感があるんじゃないかなー。自分が自分であるだけでは、生きて世間を渡っていくのに必要な程度の誇りや自尊心が持てないのかも。だから自我を補強するサプリメントみたいなものが欲しいんじゃないかな。
異様に勝ち負けにこだわる人、成功したらどうとか過度に思い患う人、他人の行動に自分の浮沈がリンクしてしまう人というのは、「なんか」無いと自我が赤字なんでしょうね。その種の「補助収入」みたいなものがないと、生きてても負けてる感がある。あるいは、延長自我というか、自我が際限なく延長していく人、自己愛が異常に強い人もそう。自分そのものだけではなく、自分の家とかクルマとか、自分の家族とか、母校とか、故郷とか、我が社とか母国とか、、どんどん広がっていって、なんか自分が関係したらそれが素晴らしくないとダメ、それを非難されたら侮辱のように感じてキレるという。
ほんでも自己愛が異様に強くて、異様に拡散してる人ってのは、コアが弱いからだと僕は思う。自分が気持よく自分である人、いい感じでワガママかまして、それに伴うバックラッシュも受け止められて、飄々と自分は自分で充足している人だったらそうはならない。スナフキンみたいに、どっか景色な綺麗なところでギター弾いてたらそれだけで自我が円満に実現しちゃったり、いたいけなムーミンに真剣に話したりして、そこで真剣に話すということそれだけで何かが成就してしまう人だったら、自己愛の強さもいらないし、拡散する必要もないですから。
ということで、自我サプリを常時服用している人達の最終目的は、多分、自己の尊厳や自尊心だろうし、平たくいえば「もっと自分を好きになりたい」んだろうなー。逆説的な言い方をすれば、自分大好き系というか、自己愛が強い人って、実は根っこの部分で自分を愛せないからそうなってるんじゃないかしらん?本当に自分がしっくりきてて、バランスよく自分が自分である人って、好きもキライも考えないと思う。それって「酸素が好き」みたいな感じで、絶対必要なんだけどでも改まって意識はしない。する必要もないし。「満たされているものは意識しないの法則」ですわ。歯の存在を意識するのは虫歯になったときだけ。
そういう人達にとって、自分がなにかを成し遂げることも、イケてる風に装うことも、全部「手段」なのでしょう。なにかに「成功」することで、「だから俺はすごい」と思いたい。それが最終目標。だからこそ、失敗したら激しく落ち込む。好きでやってること、それが手段でない場合は、失敗しても、「畜生、なかなか上手くいかねーなー」で髪を掻きむしるかしらんけど、それもこれも醍醐味ですから。なかなか傑作と呼ばれるような作品が作れないとかさ。そんなに簡単にできるわけがないことは百も承知だし、だからこそ面白いわけだし。
サプリ要求パターン
自我サプリを求めてしまう痛い事例は、いくつかのパターンに分けられると思います。(1)経験の絶対数が足りないからフラフラしてる場合。
若い人に普通に多いのだが、経験値が少ないから、自分が自分であることに中々確信が持てない。コレでいいの?と絶えず不安だから、どうしても周囲が気になる。そして、経験値が少ないから、簡単に騙される(笑)。「イマドキ、このくらい常識だよ」とか言われたり、せせら笑われると他愛もなく「え、そうなの?」と洗脳されちゃう。そして、自分を成り立たせるものを必死に求めるという、いたいけなパターン。まあ、これは年とともに(順調にバランス良く、だけど)経験数が増えれば自然治癒します。知識も経験値も増やしていった大人は、そう簡単には騙されませんから。スナフキンもムーミンパパも騙されない。スノークはちょっとヤバイかな(笑)。でも、経験や知識のバランスが崩れてたら治癒はせんだろうなー。
(2)根強いコンプレックスがある場合
それがなぜ生じたのかはカウンセリングやら年齢遡行しないとわからんけど、なんかあって自分は不完全だ、ダメなんだって意識が最初から強い場合。常に欠落感があるから、麻薬中毒のように強烈にサプリを求めるでしょう。KKKやネオナチみたいな白人優越主義なんて典型的だけど、大体が落ちこぼれ的なポジションにいて鬱屈してるから、少しでも誇れること、たまたま白人に生まれたというそれだけでも徹底的に利用する。あの種のことって、単にその人種に生まれるとか、その場所に生まれればいいから手間いらずですからね。このように自分で努力して獲得したもの(実績とか偉業とか)では無いこと(たまたま生まれたとか)が世界観の基準になってる人って、かなり根深いんだろうなーって思いますね。
で、このパターンの特徴としては、第一に、他のグループを貶めるとか、他者を悪しざまに言うことで相対的な優越性を確保しようとする行動傾向があると思います。異様に他人を非難する人というのは、そのケがあるのでしょう。「相対」ってすごく分かりやすいですからね。でも相対論法に固執している時点で、つまり「絶対自信がない」という時点で、もうアカンと思います。第二に、「立ってるものは親でも使え」的に、自分を盛り上げるような材料になるものだったら何でも使う傾向です。A国の選手が金メダルを取りました→だからA国はスゴイ→A国に(たまたま)生まれた俺もスゴイという、ロングレンジで、ツッコミ処満載な思考パターンになる。
ちなみに国威発揚とかもそうで、大体発展途上国とかガチガチの独裁国(でも貧しい)の場合、金メダル取ったら、国家的ヒーローになって、一生富裕層で国が面倒をみるくらいの厚遇になる。国全体にコンプレックスが強いんでしょう。逆にアメリカみたいに毎回100個単位でメダル取るような国では、メダルを取っても、後日コーチとして就活するのに有利であるとかそのくらいのことでしかない。オーストラリアも、人口比あたりのメダル率は異様に高い。シドニーオリンピックでは人口2000万(日本の6分の1)でありながら50個もメダル取ってるし。だからステイ先にいったら、無造作にメダルが飾られてたりして。でも、オーストラリアってコンプレックス少ないから(無いことはないが)、メダル取る取らないよりも、世界の桧舞台で思う存分遊べてよかったね〜って感じだし、他人の幸福をシェアして自分も喜ぶくらいの感じ。異常なまでのスポーツ国家なんだけど、だからこそというべきか、スポーツをスポーツとして純粋にエンジョイしてて、それをなにかに手段にしようとかあんまり思わない。現世利益や手段性があるとしたら、やっぱコーチとか、そのくらいかなあ。
ということで、ネオナチ君とか愛国ウヨ系とかどこの国にもいるんだけど、あれって軍事問題や国際政治を論じているようで、実は全然論じてないんだと思います。プロでやってる人達は(軍事産業系とか、支持母体とか、出版系とか、暴力団の恐喝手段とか)、あれはもう「産業」ですから、「ポジション・トーク」として色々言いますわね。それは仕事だからね。お仕事、お疲れ様っす。で、やっても一銭も儲からないアマの人達の場合、あれは自己表現のためのコラージュとしてそういうデザインにしているだけ(新聞記事の活字をTシャツのデザインにするような)だと思います。正しく翻訳すれば、「もっと自分を愛したいよー!」という魂の叫びであり、愛を求めて彷徨しているんだと僕は思ってます。まあ頑張ってください、他人の迷惑にならない程度に。
(3)手段の目的化というよくあるカン違い
これは普通に誰でもあります。本来楽しくて野球やってる筈なんだけど、試合に勝つとか、レギュラーになるとか、その過程でのあれこれが究極目標みたいになってしまう場合。大学受験でも、資格試験でも、社内の出世でも、ついつい頑張ってるとカン違いしてしまう。
でも、そんなの単にカン違いなだけだから、指パッチンで魔法は解けるんじゃない?「自分はレギュラーになるためにこの世に生まれてきたのかな?」と自問自答すれば解けるでしょ。「取り返しのつかない一回性」って言葉があるけど、一回ポッキリしかチャンスはない、「次はない」という吉岡の一の太刀みたいな。人生がまさにそうで、それほどまでに貴重な資源を、そんなことに使っちゃっていいのかな〜?という。どっかの誰かが名門と呼んでいる、どっかの誰かが勝手に作ったガッコや会社に入るのが、そんなに大事なことなんかい?それをするために生まれてきたのかと。
他にもいろいろあります。商売というのは他人に欠落感を与えて、そこに付け込んで売るというテクニックがあるから、それに乗っちゃうとかね。流行なんてのも大体そうだし、霊感商法なんてのもそうでしょ。それと他には、、、って、いくらでも出てきそうだから、このくらいで。
〆で言うなら、自我リンクなんか張るな!というのが僕の意見です。バランス良くいけてたら、リンクなんか張る必要ないはずですから。逆にいえば、そこにリンクが張られていたら、それは蜘蛛の巣が張られているのと同じで(まさにWEBね)、メンテが不十分だなー、自我のお掃除が行き届いてないよってことだと思います。
SFみたいな〜、でも花札みたいな〜
文責:田村