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今週の一枚(2016/04/18)



Essay 770:修羅(1%)の独白


 写真は、Randwickの落陽


 熊本方面で群発地震があって大変なんですけど、スルーします。あの辺りには個人的に知っている人も沢山いるので非常に気にはなっているんだけど、だが、スルーします。なぜなら、福島地震のときに書いたことと同じことですが、具体的に何かの役に立てるなら格別、そうでないなら自分の「持ち場」でパワー・ノーマルをやるしかない。それが廻り回って一番のサポートになると思うからです。まあ、こんな駄文が何かの足しになるとは思いにくいのだけど。

 もう一点。ああ、寒いだろうな、喉が渇いただろうな、居ても立ってもいられない、でも何もできない、何の役にも立たない俺、何かの役に立たせてくれよ、という今の気持を胸に刻み込みます。決して忘れないように。そしてその気持は、今なお大変な思いをされている福島の方々、そしてメジャーな災害ではないけれど、交通事故で一家の大黒柱を失って困窮しておられる方々、介護で疲れ果てている方々にも等しく。さらに、そこまで困窮してはいないけど、バイト首になったとか、英語がのびないとか、道に迷ったとか、、、全ての他者への優しさという形でバッテリーチャージしよう。それだけ自分の世界観に厚みをもたせ、それだけ瞬間瞬間の行動律を研ぎ澄ませようと。


 さて、ちょっと前から、なんとなく続いてるような、続いてないような話の流れで今週も書きます。よく言われている「1%が99%を〜」って議論についてです。ただし、普通とは違った視点で。

 普通は、大多数を犠牲にして一握りの者がいい思いをしているという状況の問題性、つまり不公平で、理不尽な搾取的な構造が問題になります。「こんなことが許されて良いのでしょうか?」的な。

 でも、ちょっと見方を変えて「なぜ1%が99%を支配できるのか?」という形では問題にされませんよね。
 不思議だと思いませんか。1%なんか数からいえば超マイナーであり、シカトされたり、差別されたりしてもいいくらいの数的な勢力です。それがどうして99%の上に君臨できるのか?どういうメカニズムと力学で、そういう不思議な現象が起きるのか、です。

 それは「そーゆークソシステムになっているからだ」というのが一般的な答でしょうが、では、そのクソみたいなシステムはいつ誰が作ったのか?です。何故それが作れたのか、そのパワーはどこから来るのか?です。だから結局は同じ問題に帰着する。

 この疑問に対する大胆な「仮説」は、1%の奴は他の99%よりも「強い」から、それ相応の努力をしてそれだけの「力」を得ているからだという説です。頭数的には少数だけど、実力的にはむしろ多数であり、力あるものが弱いものを支配するのは自然の摂理であり、それは「不当に」支配しているのではなく、「正当に」支配しているのだ、という。

 要は「それだけのことはやっているから」ということですね。

 今週はちょっと「芸風」を変えて、これらのことを1%の側の論理として、やや戯曲的、漫画的に表現してみます。

修羅の独白(その1)

 好む好まざるとに関わらず、この世には弱肉強食的な力学がある。それが素晴らしいとは言わないが、事実の問題としてそれはある。自然界もそうだ。優れた者が劣っている者よりも優越的な地位を得るのは、あらゆる競争や試験においてはむしろ正義であるし、そのために相応の努力をすることは賞賛されこそすれ、非難される筋合いはない。

 私は1%の側にいるかと思うが、私に言わせれば、99%の人々はその理解が甘いと言わざるをえない。頭では誰でもわかっていることだろうが、骨身にしみて理解してない。又、いかに理解していても実行に移さなければ何の意味もない。さらに実行したとしてもキチンと結果を出さねば現実に努力が実ったことにはならない。

 なぜだかは知らぬが、私はそれを子供の頃から自然と理解し、実行し、結果を出してきた。そんなことは当たり前のことだと思ってきたが、どうやら世間では当たり前ではないらしい。もちろん、それが出来たのは生まれながらの資質とか、環境において恵まれていたという点もあるだろう。それは承知している。だから己の力だけで成り上がったと自惚れる気持ちはさらさらない。ただし、そんな初期設定だけで1%になれるほど世の中甘くもない。やはりそれなりの行為と努力は求められるのだ。プロのスポーツ選手を見てもわかるように、あり余るほどの天稟に恵まれながら、しかし彼らの練習は人間離れしてハードである。

 私から見たら世間の人々の方が遥かに不思議だ。大したことをやりもせず、辛いことを避けて楽ばかり求めていたら何も得られないのは火を見るより明らかだろう。なのに何もしない。最初から何も求めず、無欲恬淡として生きるのであれば、それはそれで一つのリスペクトすべき生き方だと私も思う。しかし、彼らはそれほど独創的で無欲な生き方をしているわけではない。見たところ平均的に欲望もあるようだし、自分の身を守るためには他者を犠牲にすることでも行う。つまり欲望部分では私と変わらない。

 違うのはやるかやらないかである。彼らは、みすみすダメになるのがわかりながらも、しかし、やらない。私からしたら、その方が信じられない。夏休みの宿題はいずれはやらねばならないことだと分かっているのに遊び呆けて、最後には地獄をみている。それで懲りたかと思うと、毎年やっている。信じがたいまでの学習能力のなさだ。私はそんな愚かなことはしない、いずれ必要なものならやる、それも最も苦痛の少ない時期に、苦痛の少ない方法でやるだけだ。そしてやると決めたら本当にやる。やると決めてやり遂げられなかったことは今まで一度もない。

 そんな世間の人々ばかり99人束になってやってきても、私は絶対に勝てると思う。大口を叩いているようで恐縮なのだが、負ける気がしないのだ。というのはそもそも戦いにならないからだ。42キロのマラソンを走るなら、私はそれなりに準備もするし、ペース配分を守るが、彼らは最初から全力で飛ばして1キロもしないうちに勝手に脱落していってくれる。だから勝負にもならないのだ。

 あるいは仮にジャングルの中で99人と戦ったとしよう。それでも負ける気がしない。なぜなら私は、地形を見て大きなプランニングをし、細かな罠をしかけ、99人をしっかりと殺せるだけの戦略を立てるだろうから。人を殺すのは気が進まないし、できれば避けたいのだが、99人に命を狙われているとあっては選択の余地はない。私は、相手が最後の一人になるまで、ただ淡々と殺し続けるだろう。その自信はある。今までだってそうやって生きてきたから。

 なぜそんなに私が強いのかって?私が強いわけではない。彼らが本気で戦っていないからだ。彼らは数で圧倒的に多数だというだけで安心し、まさか自分が命のやり取りをするとは真剣に覚悟していない。ただダンゴのような集団の、そのダンゴ性に安心しているだけだ。「皆と同じ」というだけの根拠もない安心感に浸ろうとしている人達、つまり実力の30%も出そうとしない人々の鼻を明かすのは、赤子の手をひねるように易しい。ぐるりと長駆回りこみ、最後尾の奴、一番端にいる奴から順々に片付ければいいし、どこかでパニックに陥らせ一方向に走らせ、まとめて崖に転落させる方法もある。私はそんな方法だったら同時に幾らでも思いつくし、いざ現場に出れば、それを実行することに躊躇いはない。淡々と仕事をこなすことは私の最も得意とすることだ。ただ、それもこれも彼らがマジョリティであることに安閑としてくれているからだ。これが一対一の戦いであったならば、私も勝率は正しく5割になるだろう。


修羅の独白(その2)

 この世界で勝ち上がっていくのは、それほど難しいことではない。他の人達よりもほんの少し本気で腹を据えてやればいいだけだ。特殊な生まれでない私のような「平民」の出であろうが、段取りと手順を踏めばそれなりのところまではすぐにたどり着く。どこから登るにせよ、ありふれた平凡な街角から歩き始め、決して諦めず、正当な努力を払い続けるだけで、上位10%くらいにはすぐにいける。特に難しい技術はいらない。ただ決して諦めずに、コンスタントに努力しつづけるという持久力さえあれば、そこそこはいく。正直言って1%くらいならば、凡庸な素材に非凡な努力、あるいは非凡な素材に凡庸な努力など、素材か努力のどちらか一つが非凡でありさえすればいい。

 あなたは、「1:99」というレトリックにとらわれ過ぎだ。確かに100対1は数字的にわかりやすいが、実際には100人に一人程度では下っ端の人足頭くらいの地位しかつけない。それなりに水も甘くなってはくるものの、「支配」などとはとてもとても。

 軍隊の編成でも5人グループで最小単位を作り、そのリーダーが伍長と呼ばれる。そのグループ2個=10人のリーダーが什長であり、100人に一人というのは佰長にすぎない。せいぜい軍曹か曹長、いって少尉レベルだ。その上に、中尉、大尉、少佐、中佐、大佐などの佐官があり、中将など「将」がつくのはその上であり、さらに元帥までいっても、しょせんは国の軍事部門の統括官でしかない。支配階級というのはその上にいるのだ。

 つまり100人の一人の下級現場レベルなどスタートラインに過ぎない。そこからさらに上に這い上がらねばならないのだ。ここからが本当に熾烈な戦いになる。

 そこでは運不運の波もある。ただ不運だというだけで没落していく人々のなんと多いことか。
 上にあがればあがるほど、なんでもアリの世界になるから、暴力や犯罪沙汰も当然考えておかねばならない。一歩間違えたら文字通り殺されることもありうる。かくして陰謀が張り巡らされ、暴力があり脅迫がある。さらに思わぬこと、例えば異性関係などで足元を掬われることもある。そこまで勝ち上がってきたもの同士だから、大概の手の内は読めるから、奇想天外な手を打ってこられることにも気をつけなければならないし、私も奇想天外な手を常に考える。全てを監視され、記録されているという前提で日々24時間を過ごさねばならない。スキャンダルのネタになって後で脅されることは厳に慎まねばならない。ネットのサーフィンですら全てを知られているという前提で自制しなければならない。あるいは、力を得るために、胸糞悪くなるような人々に山程お金をつかませ、コメ付きバッタのようにペコペコし、揉み手をしながらへらへらと愛想笑いもしなければならない。そういったことを嫌がらず、一切手を抜かずに丁寧に、夜も寝ないでやり続けないとならない。そして、私はそれをやってきたのだ。あまりの緊張感に不眠症になったことも一再ならずあるし、鬱憤がたまって凶暴な激情に身を灼くことも多々あった。しかしその都度、超人的な自制心で抑えこんできた。

 そういった自制心に欠けるかどうかでまた厳しい淘汰が行われる。山の中腹で愚かにも舞い上がって、羽目を外してスキャンダルのネタになっていった同僚や上司も沢山いる。可哀想だが自業自得なのだ。なお、吹けば飛ぶような陣笠代議士のごときは、頭数揃えのカカシのようなものだから、いくら炎上しようが構わない。彼らは最初から使い捨ての消耗品なのだから。もっとも、その消耗品からほんの一部の連中が本物レベルに這い上がってくる。どこの世界も同じだ。私とて一山幾らの消耗品に過ぎない。真面目なだけが取り柄の小心な家畜のように人に言われ、蔑まれているのだ。だが、それがどうした?無害な腑抜けだと思われている方が、むしろ好都合なくらいだ。特に「上」の観察眼は射通すように鋭いから。

 私が99人分の富、いや1万人分くらいの富を独占しているのが気に食わなかったら、あなた方も自分でやればいいのだ。誰もそれを禁止していないし、その気になったら今日からでもできる。だけど、あなた方はやらないだろう。私にはわかる。あなたは百年たっても千年待ってもそういうことはしない。ただ目先のしんどいことから逃げまわり、なんとか楽できる近道はないかと探し、結局一番遠回りをするはめになり、その遠回りをしている間に寿命が尽きるのだ。可哀想だが仕方がない。最初の一歩を踏み出せなかったときから、そうなることは決まってしまったようなものだ。

 その私とて、巨大な力のほんの片端を握るに過ぎない。その「力」がちょっとその気になるだけで、あなたの人生など簡単に消し去ることはできてしまう。あなたが他人には絶対に知られたくない秘密を持っているなら、話は簡単だ。彼らはそれをいともたやすく見つけることができる。そして、紳士的にそれをちらと匂わせてあげるだけで、あなたは彼らの意のままになるだろう。あるいは、スキャンダルなども有効だろう。古典的すぎて恐縮なのだが、電車の痴漢など非常に効果的だ。スタッフも少人数で済む。50万円も払わずに被害者役をやってくれる女性などすぐにみつかる。というか、口の軽い危険な部外者を使うよりも、別に脅迫している女性に少し「お願い」すれば快くやってくれるだろう。もちろん大ごとにはしないからご安心を。彼らは紳士的にもみ消してくれる。それだけでもうあなたは逆らえなくなる。最近では「話のわかる」人が多くなってきたようで、彼らも手間が省けて助かっているようだが。


 今、私が多少なりとも支配的な立場にあるとするなら、それは私が血を吐くような思いで勝ち取ってきたものだ。昨日今日ふと思い立ったようなあなたなど、またあなたが99人いようとも、物の数ではない。

 私とあなたとは、最初から生物としての種族が違うのだ。ウサギと亀でいえば、私は亀なのだ。アリとキリギリスでいえばアリなのだ。強力な牙をもった亀であり、アリである。私は修羅になるべく研鑽を積み、人間としてはやや奇形になることと引き換えに修羅になりえた、修羅の世界に生きる修羅なのだ。私は捕食獣であり、あなたは餌だ。狼と羊の例えでいえば、一頭の狼が死ぬまでに食べる羊の数がどれくらいかといえば、多分百は超えるのではないか。1対百とは、つまりそういうことだ。狼は羊の群れを見ても決して怯えたりはしないが、百頭の羊は一頭の狼を見て怯える。だから個体数で言えば1が100を支配するという現象になる。

 考えてもみたまえ。古来、生物界においても人間界においても、常に支配するものの個体数は、支配されるものの数よりも少ないピラミッド型になっているではないか。課長が100人いてヒラが一人しかないなどという馬鹿な組織がありえないように、自然界においても、人間界においても、少数が多数を支配するのが自然なのだ。なぜなら、人の上に立てるのは、それ相応の力があってのことであり、その力を得ることができるのは、個体数でいえば遥かにレアだからだ。

修羅の独白(その3)

 ああ、だが、しかし、そんな力の権化のような私ですら、納得のいかないことが多くなった。

 私は、力が欲しいのではない。誤解しないで欲しい。努力に対する正当な評価が欲しいだけだ。毎日コツコツと練習をしていた人間が、徐々に技倆を向上させ、ついにはレギュラーになれたり、栄冠を得るという過程が面白いし、人生における最も偽りの少ない分野だと思うからだ。もちろん運の要素もあるし、汚いことも相当にある。しかし、ダーティであろうがなんだろうが、それが競争として、戦いとして成立するだけのものは欲しいのだ。それは私の人生においては聖なる戦いのようなものだ。狼が羊を捕食するとき、全力で走らねばならないし、牙を突き立てねばならないし、狩りは全身全霊で行う。それが羊に対する礼儀ですらある。私はそういう点では非常に律儀なのだ。

 ところが、狼がいきなり銃を構えて射つかのような、あってはならない場合も出てきた。そんなルール違反は戦いではない。いくらなんでもやりすぎだ。それどころか、本質的には羊に過ぎない者が、あろうことか狼のぬいぐるみをかぶっていて狼として振る舞おうとする。それを周囲の取り巻きが「狼だ」というから狼ということで通ってしまっている。こんな馬鹿げたことが許せるか!私はこんな茶番のためにこれまで戦ってきたわけではないのだ。これは断じて修羅の世界ではない。あの禍々しいほどの力の美しさがないではないか。

 また、意外に思われるかもしれないが、私が力に対して望むのは、その正当な行使である。別に99人を下に見てるわけでもないし、本気で自分の餌だと思ってるわけでもない。見下す気もないのだ。こと競争という一点でいえば、力を習得しなかったんだから仕方がなかろうという、ただそれだけだ。私は、他人を虐めて喜ぶような変態ではないし、他人を蔑むことで自我を保たねばならないほど貧しい人格ではない。そんなみじめったらしいコンプレックスなど持ちあわせていないし、その自負はある。だからこそ、そこに力があるなら、それを最も美しく、効率的に、皆のために使うことを望む。どうやれば最も効率的に廻すことができるか、私には幾らでもプランニングができる。なのにそれをやらずに、愚劣な方向に流れていくのを目の前で見ているのは正直いって苦痛だ。

 思えば、昔は上の連中は恐ろしかった。閻魔大王のように本当の力があったし、この私ですら素直に頭を下げざるを得なくなるだけのものを持っていた。ところが最近はどうだ。恐くないのだ。最初は気のせいかと思ったが、徐々に小心翼翼たる器の小ささばかりが透けて見えるし、無能であることも見えてしまうし、まるでピエロか道化のようだ。いつだったか思わず失笑しそうになって、慌てて渋面を取り繕ったことがあるくらいだ。そして、情けないことに、上にいけばいくほどそうだ。

 なんなのだ、これは?これではまるで、私が半生をかけて登ってきた山が、ただのゴミ山に変わり果てていくようなものではないか。瓦礫の山でママゴト遊びをするために、私はこれまで努力をしてきたわけではないのだ。この吐き気を催すような醜怪な道化芝居は、なんとしたことか。ただただ力の優劣、その一点だけで全ての秩序が構成される、あの結晶のように美しい修羅の世界ではない。

 王朝の終焉。そんな言葉が頭をよぎる。かつて歴史を彩った数々の帝国や王朝、その勃興期には綺羅星のように英雄豪傑が群がりでた。しかし時が経つとゆっくりと腐敗する。多少の腐敗や悪徳ならば私にも耐性はある。生肉と同じで多少腐敗してるくらいが美味なくらいだ。だが、ものには限度がある。末期になるとかつての栄光は微塵もなく、救い難く暗愚な王が登場したり、人間性の底まで腐り果てている佞臣どもが跋扈するようになる。どんな帝国も数百年と持ちはしない。その遠因であり、最大の原因は、人々の技術革新とそれに伴う社会構造の変化である。故にかつて百年かかって変化していたものが今では10年で生じる。ということは現代の王朝の盛衰もせいぜい数十年スパンだということか。

 私がまだ若い修羅見習いだった頃、英雄豪傑はやはりいた。仰ぎ見るような巨星達がいた。同じ人間とは思えない怪物達がいた。だか、自分が年をとったせいからかもしれないが、そのような王朝絵巻は今はない。いや、今なお、有能練達の士は数多いるのであるが、だが、誰もが報われていない。有能であるほど報われていない。木偶と佞臣がはびこるようになり、卑怯さや卑劣さなど、人間の卑しい部分をふんだんに持っている方が勝つという奇妙な話になっている。

 現在はそういう修羅のゲームなのか。私は古典的な修羅、もう時代遅れなのだろうか。
 勃興期においては力を競う下克上ゲームだったのが、衰退期になると卑劣さを競うゲームになるのだろうか。「強さ」と「汚さ」どちらが上か?こんなことを言っても、あなたにとってはどちらも唾棄すべき世界なのかもしれない。眉根をしかめるあなたの顔が見えるようだ。そういうあなたを、実のところ、私は嫌いではない。それどころか、かすかに尊敬さえしているのだ。私がかつて敢えて切り捨てた人間のある美しい部分を、あなたはまだ持ち合わせているのだから。「弱さ」は悪ではない。恥じることでもないし、嫌悪すべきことでもない。一生かけて強さだけを追い求めた私がそういうのだ。畢竟、強さも弱さもなにかの根源であることに変わりなく、そのエネルギーから美しいものに昇華させるか、卑しく汚いものに堕落させるかでしかない。私は強さから美を、あなたは弱さから美を、それぞれに導こうとしている。道は正反対ではあるが、同志と言ってもいいくらいだ。といっても、私が差し伸べた手を、あなたが握り返してくれることはないだろう。それでいい。

 だが、私達の修羅の世界では、強さと汚さでいえば断じて「強さ」である。強き者が上に立つのは修羅の世界では正義であるが、、、、、ああ、また私の「上司」と称する男が何事かまくしたてている。ふふん、いつもの保身と言い訳だ。貴様のモチベーションは弱さと劣等感だ。己が弱いことを知っているからそれをカバーするために、あれこれ虚勢の刺繍を織り上げる。貴様は、弱さから美を紡ぐことが出来ず、弱さから醜を吐き出している。貴様は、強さと自負心をモチベーションとする我々の世界にいるべき人間ではない。ああ、なぜこんな卑しい弱者が私の上に立っているのだ。私の上に立てるのは、この私をひれ伏させるだけの力の持ち主でなければならない。ああ、まだ連々と愚にもつかぬことをわめいている。私は貴様の小狡そうで卑しげな目が大嫌いだ。うるさいな、これ以上その薄汚い口を開くなら、頭から喰い千切ってやろうか。

 私はもう疲れた。肉体的な疲労もあるが、卑劣に裏切ったり、おもねったり、馬鹿丸出しの詭弁を弄するのに疲れたのだ。修羅として、人の心を持たぬ化物としての罵倒は甘んじて受ける用意があるが、それでも、いやだからこそ一匹の戦鬼としての矜持は保ちたい。なぜこの私が人生の秋口になって愚昧な卑劣漢を演じねばならぬのだ。これはこたえる。これほどまでに身体の奥に疲労がたまったことはない。

 ああ、かつて、全知全能を振り絞って、正々堂々と戦い合ったライバル達が懐かしい。あの天下に自分以外に人物なしと顔に書いてあるような、ふてぶてしくも憎々しげな面魂。傲然と頭を上げ、狂犬のように喧嘩っ早い彼らは、だがしかしキラキラと輝いていた。今の宮廷にうろちょろしている、卑屈な上目遣いや、死んだ魚のような目をしている連中とは違った。私の好敵手たちは、決して人格円満ではなかったが、奇妙な気高さと美しさはあったのだ。

 やはり、老いたということなのだろう。
 だが、老いたのは、この私なのか、それともこの王朝なのか。










 文責:田村




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