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今週の一枚(2016/03/21)



Essay 766:マネタイズへの本質的な疑問

〜なぜいちいちお金に代えないとならないのか?

 写真はいずれもPalm Beach。
 「マネタイズ」という言葉を最近よく見かけます。
 「お金に換える」とか、お金にする、利潤を産みだすとかいう意味だと思うのですが、ネットやWEB系のビジネスでよく使われます。例えば、Googleが素晴らしい検索システムを開発しました。皆に無料で提供しました。性能が良いのでダントツの人気検索サイトになりました。めでたしめでたし、、、にならないのですね。この時点では、Googleは一銭も儲けていません。皆に感謝はされるんだけど、お金を払ってくれるわけではない。だから全然儲からない。

 ではどうやって儲けるのか?人がたくさんアクセスするのだからそこに広告を載せたら広告料を稼げるのではないか?これが「マネタイズ」です。無料ネットサービスの収益化、無償コンテンツの有料化や広告収入モデルの確立とか言われます。

 しかし、もともとの"monetize"の原義は「法定通貨・法定貨幣を定める」という意味です。別にWEBに限ったものではない堅苦しい単語ですが、それを現代IT業界で「無償コンテンツの有償化」という形で使っているということでしょう。

 で、僕が思うに、それって別の意味でWEBに限ったことではないなーと。そして、このマネタイズこそが現代起業のネックになっていくんじゃないかってことを今回書きます。それもどうしたらマネー化できるか、収益化出来るかという話ではなく、「お金にする」という部分で大部分が座礁しているならば、そもそもお金にこだわらなくても良いのではないかということを書きます。お金は、経済や人々のよき営みを応援するために考えだされたもののはずなのに、今となってはブレーキやガンになってるんじゃないか?という問題意識でもあります。


お金の功罪 

 今世界的、先進的な興味の中心のひとつがお金、貨幣制度だと思います。その問題意識を煎じ詰めれば「お金って便利だけど、不便でもあるよね」ということじゃないかなーと思うのだけど、特にこの「でも不便」って部分です。決済方法としては最も優れているし、人類最大の発明といってもいい貨幣ですけど、でも同時に副作用も大きい。その副作用は現代から近未来にかけて特に出てくるようになった。

精神的な弊害

 まだ十分に考察が進んでないので生煮えなのですけど、ざっくり思うに、お金の弊害を分類すると精神的な問題と物質的な問題があります。精神的な弊害は何かといえば、「発想が限定される」「幸福が定量化され比較されるようになる」点です。これ結構キツいんじゃないかなーと。

 秦の始皇帝について描かれた「キングダム」という面白い長編マンガがあり、リアルタイムに連載されてますが、最近の巻に非常に面白いくだりがあります。始皇帝と呂不韋が対決するシーンで、天才商人である呂不韋が貨幣について語るのですが、これが鋭い。貨幣がこの世に出現することによって何が変わったか?といえば、それまで曖昧だった「幸福」が量的に意識され、比較による我欲が増強されるようになった点、そして通貨が通用する範囲が広がることによって「世界=天下」という概念が生じるようになった点です。鋭いでしょ?いや〜、ヘタな経済本読んでるより、今はマンガが一番とんがってて面白いですよ。以下、スキャンした部分を適当にあげておきます。

 幸福の定量化ですけど、何かを食べたり所有する喜びがあります。幸福の一種といっていいでしょう。貨幣があるということは値段があるということであり、その値段がその物の価値を決める(絶対的に決めるわけではないが強くサジェストはする)から、ひいては喜びや幸福の量も決めていく。人の幸せ感覚って、本来は曖昧なものであり、曖昧でいいんだけど、お金を一杯持ってるとなんとなく幸福な気分がするし、持ってないと不幸な気がする。本当にそうか?というと微妙なんだけど、事実上検証が不可能に近いので、なんとなくお金の有無に引っ張られる。お金って数字で表せるから(てか数字そのもの)、超分かりやすい。分かりやすいから引っ張られて、本当に自分にとっての幸福なのかどうかあまり考えなくなる。

 例えば、500円の料理と50,000円の料理があった場合、価値は百倍差あります。しかし、人間の生理的な美味快感が100倍も違うわけないです。せいぜい2-3倍だと思います。もし今、人類が貨幣というものを全く知らなかったら(値段という概念が存在しないとしたら)、食べてみての美味しさや見た目のゴージャス感だけで判断するでしょう。その場合でも一般に5万円相当の料理の方を喜ぶ場合が多いとは思いますが、そこに100倍の違いを感じるか?といえば、それほどでもないと思います。でも、実際に百倍差の価格がついてて、それだけの支出(痛み)を伴うならば、なんとなく「凄いものを食べている」感は抱くだろうし、そこになんらかの幸福感もあるでしょう。つまりお金に引っ張られて幸福感が作られるという。

 フェラーリ3000万円だって、本当にそんな差があるのか?といえば微妙でしょう。100万のカローラの30倍凄いか?といえば、そこは人によりけりです。今ココでカローラとフェラーリが全く同じ値段(or値段という概念がないとしたら)、どっちを選ぶかといえば、使い勝手のいいカローラかもしれません。もしかしてフェラーリのほうが価値的に劣るかもしれない(後部座席もトランクもないしねー)。だからフェラーリの価値の実際の部分は価格そのものから来ている、フェラーリに乗っているというよりは「3000万円に乗っている」。そして「3000万円の高額車に乗れている自分の優越感情やナルシズム」に酔っているとも言えるわけです。これも貨幣が幸福を創造する、引っ張っていくということです。

 物の価値は使用価値と交換価値の2種類があると言われますが、僕はもっと種類が多いと思う。親にとってかけがえのない我が子という、使用でも交換でもない「自然価値」というのがあるのだとは過去にも何度か書いてますが、今回出てきたような「優劣価値=比較価値=虚栄価値」というものもある。それはヒヨワな自我を補強し、いい気分にさせてくれる(エラい人間になったかのように錯覚させてくれる)というドラッグ的な価値もある。お金がデジタル的な数値であるが故に、容易に比較できるようになり、そこに他者と自己という自我部分が絡み合ってくるというややこしい関係もあります。

 このように、貨幣制度は、本来人それぞれで曖昧で良い幸福感を、無理やりデジタル数値化し、平均化していく力がある。それはそれで便利な反面、弊害もある。その人が本来持っているナチュラルな幸福感や価値観を壊す(or影響を与える)という点です。冷静に考えてみればそんなに欲しいわけでもないんだけど、それが価格的に高いと、なにやら素晴らしい世界が待っているかのように思ってしまい、ついつい求めてしまう。それを身につけると人間的に高級になったかのように錯覚したいという心理も出てくる。

 ブランドというのはそういうもので、実際にもその差はあるんだろうけど、本気でその差を理解できる人なんか極めて少ないと思います。絵とか、宝石とか、陶芸なんかさらにそうで、こんなヘタクソな絵がなんで10億円もするのか理解できなかったりもしますが、そこまで極端になるとついて行けなくなって影響されにくくなるんですが(影響されたところで買う資力なんかないから最初から真面目に考えてないとも言える)、微妙に手が届くくらいになってくると、やっぱ価格に影響されてしまって、自分本来の価値観が見えなくなってしまう部分はあるでしょう。

 価値観が影響されるということは発想が限定されるということでもあります。とにかくお金がないと生きていけないとか、お金を稼ぐことが人生の最大目的になってみたり、「仕事=お金を稼ぐこと」と狭く決めつけてしまったりもするでしょう。この弊害はデカいと思いますよ。

 日本民族は本来文字を持っておらず、借りものの中国語を使ってましたが(漢文)、空海が日本独自の仮名文字を作りました。歴代日本人のなかでも最大級の「仕事」だと思いますが、さて、空海は仮名文字を作って儲かったのでしょうか?お金をどれだけ稼げたのでしょうか?というと、よくわかりません。史実を調べればなんかわかるかもしれないけど、そういう問題じゃないよねって感覚が先に立ちます。キリストがキリスト教を唱えたとか、ナポレオンがナポレオン法典を作ったとか、人類はみな偉大な「仕事」を成し遂げてますが、それでお金を得たかどうかはあんまり関係ない。偉大になればなるほど関係ない。同じように、自分の人生で一番意味のある「仕事」は何だったのか?と振り返ると、家族を大事にしたことであったり、友達を裏切らなかったことであったり、趣味に没頭したことであったりして、あまり換金性のあるものではなかったりもします。だから仕事=金儲けと狭く限定してしまうと、ともすれば本質を見誤る。発想が限定される。

 この弊害は、最近のグローバリズムによってさらに顕著になってるようにも思います。それが以下の物質的な弊害です。

物質的な弊害

 オーストラリアのK-MARTという量販雑貨スーパーでは衣料が安いです。もう簡単なTシャツくらいだったら数百円レベル、どうかしたら300円くらいであったりします。それもそんなに質も悪く無い。ユニクロなんか目じゃないというか、こちらではユニクロは高級品ブランドですから。この物価の高いオーストラリアでなんでそんなに安いの?といえば、パキスタン製とかそのあたりだからです。もう中国製なんか高級品で、今はインド周辺であり、おっつけアフリカ製になるでしょう。

 これはグローバリズムのおかげで、賃金の安い国で安く製造して、それを先進国に持ってくると高く売れて、そこに商機があると。それはそれで安く買えるし、新興国も潤うし、ビジネスも盛んになるんだけど、はて、そんなに素晴らしいことか?という疑問も最近になってよく言われるようになってます。これやってると、先進国や中流国の製造現場はほぼ壊滅しますよね。時給5円とかで製造されたら、どうしようもないですから。だから保護貿易が必要なのだ、ブロック経済化は防衛的に必要なのだ、TPPなんか言語道断じゃあってって話になるんですけど、それはさておきます。

 僕が根本的に疑問に思うのは、手近でそこそこ手頃な値段で優良なモノがあるにもかかわらず、地球の反対側までいって工場建てて製造して、また大汗かいて製品運んできて、売りさばくことがそんなに素晴らしいことなんかな?って点です。そんなことせんでも、モノ現物はここにあるんだから、それでいいじゃんって。無駄じゃん、と。

 じゃあなんでそんなことやってるの?といえば、そこに「価格」というものがあるからでしょう。価格がなかったらグローバリズムの半分は成立せんでしょう。なぜなら、こっちで作ったほうが「安いから」というのが強烈な商機になるところ、価格という概念がなくなったり、曖昧になったら、そういうことする旨味もなくなりますからね。

 貨幣=価格があるから利潤という概念も生じ、利潤追求のためにコストカッティングが出てくる。しかし、それを先進国というある程度なんでも自分らで賄える社会においてやってしまうと、賃金の抑制(非正規化、リストラ、失業)というカタチになったり、あるいは下請けイジメになったりするわけです。これを大雑把にカリカチュア(戯画化)していうなら、「安いものを買うために失業する」ようなもので、素朴に考えて、安いものを買えるメリットよりも、失業するデメリットの方がでかくないか?と。もしかしてすご〜くアホなことをやってるんじゃないかと。

商品開発の飽和状態と先進国

 ここで別の視点をもってきます。ほっといたら(低価格の新興国に仕事を奪われて)生活水準が落ちてしまう先進国の99%の庶民はどうしたらいいか論ですが、「安く作って高く売る」というフォーマットがある以上、デフォルトで負け組になるのは理の必然。それを回避するにはどうしたらいいかといえば、途上国が逆立ちしても追いつけないような最先端で優秀な商品を作り続けて、ビジネス的に勝ち続けることです。

 大まかにいって、ビジネス的に売れるためには、(1)良い商品を、(2)より安く提供することです。優秀性×廉価性です。ところが、数回前にも述べましたけど、世界的に売れる商品が少なくなっている。画期的なイノベーション、誰もが欲しがるようなヒット商品はiPhoneを筆頭とするスマホくらいであり、あとはこれといってデカイものはないです。でもiPhoneだって2007年発売ですからもう10年前の話です。それ以外に、欲しい!と言わせるようなものは乏しい。もっと言えば、iPhone以上に、「これによって時代が変わった!」「人々のライフスタイルが一新された」という、文字通り「画期的(◯◯以前、◯◯以後と時”期”を”画”する)ようなもの=市民に買えるようになった自動車とか、電気の発見/発明(家電製品)レベルのものは、もう何十年も出ていないです。ネットくらいかなあ。

 結果として欲しいものが少なくなった。今はそんなに借金してでもコレが欲しい!と言わせる商品って少ないでしょ?強烈な購買欲をそそるもの。無いですね。誰に聞いても特に無いっていいます。これは先進国にツライです。そこそこ品質が良いくらいだったら差別化にならないですし、すぐに後から追いつかれてしまう。多少大きくなった、軽くなった、綺麗になった程度ですから。商品的に飽和状態になってしまい、日用品化してしまう。そうなると(1)良いという部分が相対的に小さくなり、いきおい(2)安いという要素の方が注目されます。でも、話が値段になってしまうと、先進国は死ぬしかないと(笑)。

 だから何が何でも(1)の「質」で勝負しなきゃいけないんだけど、フェラーリみたいに高品質ブランド路線にいったところで、そうなったら今度は買えるのはごく一部ですから業界規模が小さい。フェラーリやランボルギーニがあるからイタリアの労働者は全員食えているってもんじゃないです。それで食えるのはごく一部。救国的な存在ではない。またアップルだって、それがあるからアメリカ人は全員ウハウハに儲けてるってもんじゃないです。そのくらい国を潤す産業や新製品というのは、黎明期のフォードやデトロイトの自動車産業とか、大量の(安いけど)ジョブを提供したマクドナルドなどのファーストフードチェーンシステムとか、そのあたりでしょう。でも、そういうビジネスモデルは出てきてないです。

 そうなると、必然的に(2)値段の勝負になり、値段の勝負になるとコストカッティングになり、そこで出て来るのが人件費削減です。猛烈なリストラと、実質的な賃金削減(非正規社員をどんどん増やしていく)、さらに下請けの搾取です。要するに搾取系、ブラック系にいってしまうという。

 ちなみにもう一つ生き残るワザがあります。ワザというか(笑、「反則・ズルをする」という方法論です。「良くて安いものが勝つ」というルールの例外を作ったり誤魔化すことであり、越後屋的な利権構造の腐敗です。品質や内容が伴わなくても、オトモダチならば高く買ってくれる、自分でお金を出すのは馬鹿馬鹿しいから他人の(国民の税金とか)で買ってあげる、お返しにこっちも馬鹿高いものを(他人のツケで)買ってあげるという構造ですね。究極の利権構造は、皆も知ってるとおりの「戦争」でしょう。

 かくして、日本その他の先進国は、これといったブレイクスルーができないまま、99%はブラック搾取の圧力を受け、1%的には腐敗利権化していくというトホホな情景になってしまうという。今までだってそうだったんだけど、それでも前に進めていた頃には全体にパイがデカくなっていったので、そこまで悲惨にならなかった。でも、いまはパイが減ってきてるし、大きくする算段もつかないし(画期的ななにかを開発することが出来ない)、どうしてもジリ貧構造になるということです。




マネタイズって必要なのか?

 さて、話はマネタイズでした。お金の弊害です。
 このようにジリ貧構造になると、皆の可処分所得が減ってしまうから、ますます買えなくなる。まずは生活必需品から買い揃え、そこで終わってしまったら、「ちょっといいよね」くらいの軽い贅沢、趣味的なものが買えなくなる。そうなるとそのあたりの業界がどんどん滅んでいく。それらの人々が失業ないし所得減になるから、ますます顧客や消費者が減るわけで、全体にまた下がる。廻り回って自分の業界もそうなって、賃金減らされたり、リストラされたりもする。そうなると生活するのに手一杯になり、それすら怪しくなり、もう必死に金を稼ごうとするけど、全体にパイが減っている(給料の安い仕事は増えてるけど、これまでのようにゆとりのある職は減っている)から、朝から晩までお金のことを心配しないといけなくなる。人生=金になり、社会=金になり、人間関係=金になったりもする。

 でもねー、なんでそうなるの?です。

 それはグローバリズムがいけないんだ、新自由主義がいけないんだって話になるだろうけど、それだけでは展望はないでしょ。大体、グローバリズムは昔だって(今ほどではないけど)あったんだし、だからこそ日本が「安くて優秀な製品」を大量に輸出して儲けて、今日の生活水準を作り上げたんだから。もし最初から海外に売れない、売っちゃいけないままだったら、戦後の成長もないまま、今でもフィリピンあたりと似たり寄ったりだったかもしれんわけですよ。勝ってる時は仕組みを非難せず、負けがこんできたら非難するというのではねー、ちょっとねー。

 だからある程度は不可避的でしょうがない部分はあると思いますよ。
 でもね、行き過ぎじゃないかなーとも思うのですよ。

過疎化や限界集落の問題構造

 限界集落ってのがありますよね。過疎の村で人口が減りすぎて&高齢者ばかりになって、将来的に維持しうる展望が描けない場合です。でも、限界集落とか呼ばれる前の段階で、コスト的、経済的に成り立ち得なくなってくる損益分岐点的なポイントもあると思います。

 一つは公的なインフラで、学校も全校生徒が5人くらいだと、そこに教員を派遣して、カリキュラムを実施して、プールや遠足やってたら採算悪すぎるから統廃合していきます。赤字ローカル鉄道は廃線化され、バスもこなくなり、郵便業務もコストが掛かり過ぎるって話になります。

 民間レベルではもっと手前に限界がくるでしょう。例えば、あなたが美容師で自分のお店を維持するために、家賃や機材のリース料払って、自分らの生活費を捻出するために最低月間100人のお客がないとやっていけないとします。人口はそれ以上いるから大丈夫かといえば、半数以上がかなりの高齢者で美容院に行く必要が無いくらい髪が薄くなってたり、年金だけではそこまで捻出できないから3ヶ月の1回くらいになったりして、結局経営を維持するための十分の消費圏がないからやっていけなくなる。ちょっとおしゃれなレストランやらブティックなど、もっと顧客層が少ないだろうし、損益分岐点も高かったりもするだろうから、やっていけない。

 かくしてどんどん皆が都会にでていくから、ますます、、という。これが過疎化です。長々書くまでもなく、もう知ってますよね。

なんで全てを一旦マネタイズしないといけないのか?

 でもね、と思うのですよ。
 経営的に成り立たなくても、髪を切ってほしいという需要そのものは(少ないけど)あるのですよ。一方で髪を上手に切れるというプロの技術を持っている人はいるのですよ。同じ場所に。だったらそのプロが髪を切ってあげればいいじゃんってことになります。物理的には全然可能なんだから。でも、それができないで、そのプロの美容師さんは故郷を捨てて街に出ないとならず、他の住人は無駄金つかって長い旅をして街まで美容院に行かねばならないわけです。

 これ、なんかおかしくない?

 すぐ近くのいる人に髪切ってもらえばいいだけなんだけど、それが出来ないってのは変じゃないか?
 じゃあ、なんでそんな簡単なことが出来ないのか?といえば、そこには「経営的に成り立つかどうか」というファクターがあるからであり、それって煎じ詰めれば「お金」がワンクッション置いて存在するから、貨幣経済というシステムの飲み込まれているから、ではないのか。

 金銭や価格という定量的・数字的な決済システムを後生大事に抱え込んでいるから、家賃にせよ、生活費にせよ、一旦貨幣という形に換金しないとならないという宿命を背負わされる。いくら世のために人のために技術や知識、生産物があろうとも、換金化できなかったら意味がない!という話になる。つまり「マネタイズ」できなかったら、どんなにいいものがあっても死ぬしか無いってのは、どうなのよ?という問題意識です。

 なんでそこまで、何が何でも一旦お金に代えないとならないの?そこに合理的な根拠はあるの?と。

仕事=商売って誰が決めた? 

 さらって書いてるけど、今、僕は物凄いこと書いてます。
 根本的な固定概念をひっくり返しているわけですが、なんで全員がショーバイしなきゃいけないのよ?と。商売なり、貨幣経済や資本主義というのは、「財貨・サービス(労働力)の通貨交換によって利潤を生み出し、その利潤によって各自の生計を維持するシステム」だと思うのですが、なぜそんな面倒臭いことを皆がやっているのか?です。

 それは勿論、それがもっとも最小労力で最大成果をあげられるという合理性があるからですよね。全員が一人づつ自給自足で完結しようとしたら、大したことは出来ないし、餓死するかもしれない。だから集団で動き、さらに分業がおこり、「交換」という方法論が出てくる。そして交換をより効率的、安定的にやるために通貨というものが出てきた。すごーく画期的で便利だったから、こりゃあいいやで世界的に広まった。

 ここまではいいんだけど、でも、それ昔の話でしょ?とも思うわけです。

一人でもやっていけるかも〜集団を作る合理性

 まず話を極端に分かりやすくするためにSF的な設例をすれば、科学技術が進展して、一人で十分暮らせるようになったらどうか?今、太陽光線の電磁波を利用して発電し、それを蓄電するという研究など、あらゆるエネルギー研究が行われてます。少なくとも発電それ自体に関しては電力会社だけではなく多くの企業が自分でやっている。発電そのものはそんなに難しい技術じゃないから自分で必要な分を作るだけなら出来てしまう(難しいのは送電など売りさばく流通部分でしょ)。例えばつい10日ほど前の記事では(企業の自家発電、原発7基分増える 災害対応や売電狙う 日経新聞2016年03月11日)というのがあって、いま猛烈な勢いで普通の企業が発電をしている。このままいけば原発どころか電力会社なんか要らないんじゃない?少なくとも今ほどニーズはなくなるよねって状況が既に生じている。その延長線でいけば、自分らの必要分くらいの発電だったら簡単に出来てしまう日が来るかもしれない(てか来てるけど)。と同時に、生命を維持するための水と食料のゲットですけど、これも水の浄化システム(錠剤ひとつでOKとか今すごい発展しているらしい)、空気中の水素を〜とかいうシステム。あるいは、食料でもバイオ農業などの発達で、自宅で簡単にできるクローンなんたらとかが安くゲットでき、あるいは既に出てきているフード版3Dプリンターの将来像は、油と粉があったら食物が作れてしまうとか、もっといえば、そこらへんの草とかぶち込んでおけば必須栄養素別にサプリメント化してくれるものも出てくるかもしれない(てかそういう抽出技術なくしてどうしてサプリメントが作れるのか)。

 そのあたりの「自給自足キット(これさえあれば死なない)」がイチキュッパくらいで売りだされたらですね、もう別に人々は集団を作る必要はなくなるわけです。分業も交換も必須ではない。もちろん、趣味的な交換は残るだろうけど、やらないと死ぬってもんではなくなる。そうなると社会のあり方も根本的に変わるし、国なんて図体のデカイものも要らないです。娯楽や教育、文芸面においても、ナノテクが進んで記憶容量の倍々ゲームが進めば、切手一枚に全人類の遺産(全ての専門知識、文学、音楽、絵画、映画、、、データー)が入ってしまって、それが一枚10円くらいで売られるようになって(てか3秒でコピーできるようになって)、もう一生かかっても読みきれない、聴ききれないくらいのコンテンツがあるとしたら?(実際には既にそんな感じではあるのだが)

 生きていくために絶対必要だから集団を作り、分業を行い、交換を行い、そして通貨が、、て流れがあったわけだけど、集団や分業をする必要が「ない」となった時点で話は根本的にひっくり返りますよね。今すぐ直ちにそうなってるわけではないけど、そっちの方向に向かっているでしょ?社会性や楽しさなど精神的必要性から集団は残ると思うけど(家族や友達が残るのと同じく)、物質的な必要性は乏しくなってる。必要だとしてもせいぜい100人とか1000人規模で大体間に合ってしまうんないかなー。そんな1億人単位で集団作って回さないとダメだという理由がなくなる。既に無いけどね。「昔の話でしょ?」というのは、これが一点。

距離とライバルと失業リスク

 もう一点あって、交換とか分業とか商売とか言ってたのは、手が届くような範囲で話だからです。多くの場合は村内分業でことが足りていたでしょう。人々は百姓として食料生産に従事し、次に布や衣料や自家製でも出来たし(鶴の恩返し的に)、技術が必要な鍛冶屋(工業生産部門)がいくつかおって、あとは宗教祭祀関係者がおって、誰かの家の普請くらいだったら分業ではなく協業で済んだ。たまに行商がやってきて富山の万金丹を売ったり、旅芸人一座がやってきてエンターテイメント部門があって、、ってな感じでしょ。西欧でもジプシーが村にやってきて〜って感じだもん。中世以降になると都市経済化して大規模な流通や専門化がなされたけど、それとて藩内や国内で済んでいるのが殆どで、あとは珍しいとか贅沢品とかでしょ?南蛮渡来の〜とか、唐渡りの〜、シルクロードを超えて〜とかいうのは。

 このくらいだったら分業世界、交換世界でも、そんなに誰もが失業リスクを負わなかったです。なぜなら似たり寄ったりの社会内部での分業ですから、「絶対勝てない」という強力なライバルは少ないからです。せいぜいが同じ町内でのラーメン屋のライバルがいる程度の話ですから、努力次第でなんとでもなった。ところが、現在のようにグローバリズム(その要諦は世界レベルの平和と生産設備の拡充+流通システムの整備)によって、労働者の賃金でも桁外れに安いところがあったり、物価が死ぬほどやすかったりするところがライバルになったら、絶対勝てないって話になる。安い労働力を目当てに企業や工場はどんどん外に出て行くし、出て行かないと死ぬし。また途方も無く安い製品がガンガン入ってくるから、作っても全然採算が合わない。結果として、仕事は減るわ、ビジネスチャンスは減るわで、そのエリアまるごと沈没してしまうわけです。これが今起きていることで、それを防ぐために、関税とかで防波堤を築いたり、補助金出して帳尻合わせたり(弥縫策だが)、しまいには鎖国的なブロック経済や保護貿易になるという。

 でも、それで上手くいかなかったのは過去の例でも同じです。そんな対症療法では限界があると。なぜって、保護貿易とか関税とかいうのは、究極的には「商売を上手くいかせるために商売を否定する」という本質的矛盾があるからです。商売というのはモノを動かす妙味にありますよね。Aで安価なものをBに持ってきて高く売りさばくとか、原価が安いものを特殊なスキルで加工して高く売るとか。つまり、どっかとどっかに凸凹があって、その高低差を利用して利潤を得るのが商売です。保護貿易というのは、それを制限するものなんだけど、基本的にそこで「儲かる」という構造がある以上、網の目をかいくぐってでも儲けようとする人は出てくる。禁酒法でアルカポネなどマフィアが栄えたように、禁止して禁止できるものではない。結局権力やら暴力持ってるとか、強くて、ズルい奴が得することになる。

うまくいくなら何でもいい

 僕が言ってるのは、「安定的に商売ができるようにしましょう(保護貿易)」ではなく、「そもそも商売ってしなきゃいけないの?」ってことです。全面否定は勿論しませんけど、部分否定はしていいじゃないの?と。先ほどの過疎の例でいえば、ここに誰かが財貨サービスを求め、それを持ってる奴がいたら、それで基本OKじゃないの?と。そこでバーター交換すればいいし、もっといえば「交換」すらする必要もないんじゃないの?と。髪を上手に切ってくれる人が居ないと困る。居てほしい。だけどほっといたらその人が餓死してしまうんだったら、髪を切ってほしい人達がその人の生活を助ければいい。ここで一つ一つ交換という形式にしてもいいけど、交換するモノを持ってない人もいます。あるいは交換しにくいモノであるかもしれない。例えば、何一つスキルも財産もないんだけど、皆への「影響力」を持っている人もいるわけですよ。その人の口利きで話が通るという。政治力といってもいいけど。それもサービスの一つなんかもしれないけど、もういちいちポーカーのワンペアみたいに、交換ペアにして考えなくて丼勘定でいいんじゃない?って気もするわけですよ。それでメンバーが納得してたら別にいいじゃんって。

 要は昔の原始共産制みたいなものです。みんなの幸せのために資本主義とか自由経済が発達したわけだけど、オーバランして幸せに寄与しなくなった、デメリットが大きくなった、ついには破綻した、、、だったら原点に戻って原始共産制になるのは、ある意味では論理的必然でもあるでしょう。

 ただし、そんな白黒つけるもんじゃなくて、必要な限度でフレキシブルに混在させればいいじゃんって思います。貨幣経済はそれはそれとして有効な範囲で回せばいいし、バーター経済で考えたほうがスッキリする部分はそれでいいし、なんだか良くわからないムニャムニャな部分は、あえてなんたら経済とかなんたら制とか言わんで、ムニャムニャのまま処理しちゃえばいいじゃん。原始共産制とかいっても、さきにいったように大昔と違って個人レベルでなんとかなっちゃう事柄も多いんだし、何が何でも原始でなきゃダメとか、共産で無きゃダメってもんでもないでしょ。もっとも楽チンで、もっともリターンが多い方法を、融通無碍にやっていけばいいじゃんっていいたいわけです。

 まあね、「いいじゃん」「やろうぜ」と働きかける必要もなく、自然にそうなっていくと思いますけどね。被災地における炊き出しとか自然協業のようにね。ただ、やれば出来るのに、固定観念にバリバリ縛られて、出来ないと思い込んで失業、ホームレス、自殺、餓死、、、ってのはツライな〜って思うのですよ。先日日本に帰った時も、とある地方のわりと富裕なエリアでさえ、自分の住んでる通りでもう5軒も自殺者が出ているとかいうリアルで生な話を聞いて、特にそう思う。景気がいいとか大嘘やで。やって出来ないものはしょうがないけど、やれば出来ることって結構あるんじゃないの?考えてないだけ、動いてないだけでさ。

 そのための方法論やら何やらは、考えれば幾らでもありますが、長くなるので別の機会にします。小集団における内需と外需とにわけ、内需はキャッシュレスにし、外需をどう捌くか問題とか、切り口はなんぼでもあるとは思います。だって「なんでもいい」んだから(笑)、方法論なんか無限にあるぜよ。

仕事、商売、マネタイズ 

 マネタイズに関して、ちょっと言いたいことを書きます(まだ、あるのか?って感じだろうけど、ごめんな)。しかも理路”非”整然とダララっと書きます。ロックのライブの曲の最後に、ばーっとフリーソロ的に弾きまくりって場面があるけど、あんな感じに。

 僕らは資本主義の自由経済だから、大きなフレームとしては、仕事=取引=利潤追求=商売=人生=社会・国家みたいに思ってしまいがちだけど、はっきり言って、それって幻想じゃないのか。

 いや、素朴に「俺は商売するために生まれてきたんじゃないぞ」って想いがまずあります。商売が悪いわけじゃないし、好きではあるんだけど、それだけデフォルトで押し着せられるのがケッタクソ悪いというか。そりゃ生活に必要だから金は稼ぎますけどね、でも、それだけのことで。

非マネタイズ部分の豊穣さ

 「仕事」というのも同じで、かつて「はみだし仕事論」で触れたけど、全然収益性に直結しない部分が面白いんですよね。弁護士の仕事もそうで、儲かる事件もあるけど、大半は儲からないです(笑)。もう赤字。てか手弁当で勉強とか使命感とか、単に可哀想だからとか、なりゆきでやってるのが半分くらいじゃないかな。儲かる系だって、儲からない部分が面白いとか。でも、ほんと、儲からない部分が滋養分豊かなんですよ。破産申立ての仕事をするにしても、事務遂行には必ずしも必要ではない部分、てか無駄な部分は結構あります。そんなことやってる時間的余裕はないんだけど、でもやるという。例えば、倒産した社長の話でも、裁判所に提出する陳述書の作成やら、申立書の「破産に至る経緯」の起案は必要だけど、別そこまで書かなくてもいい、知らなくてもいい事柄も多い。なんでこの仕事をしたの?とか、生い立ちの話とか、起業の際の苦労話とか、足元すくわれた油断の話とか、もうお金払ってもいいくらい値千金の話なんですよ。儲かってるときは調子に乗って、フェラーリで神戸の湾岸高速170キロでぶっ飛ばした話なんか面白いんですよ(笑)。深夜の事務所で社長さんと「へえ、それで?」とか笑いながら話してたりして。あとは、その方にサラ金が来ないように、セーフハウスを探すのに、依頼者系統の不動産屋さんや家作持ちの人に頼んだり、そんなの多いです。

 今の仕事だって、収益性のない部分が90%くらい占めるんじゃないかなー。このエッセイだってそうだし。廻り回っての間接投資だって言えばそうだけど、間接過ぎるでしょう?でも、この無駄な部分が、人生を豊かにしてくれるのは、もう確信レベルであるんですよね。だから、僕からしたら、人生レベルで本当に「仕事」と言える部分と、儲かる部分はあんまり、てか全然関係ないです。でもって儲かった分だけ幸せになれるかっていうと全然違うというのも経験済です。それはもう全否定に近いくらいにそう思うね。お金と幸福は比例はするけど、正確には比例しない、、、なんてレベルではなく、全然関係ないねってレベルで違う。

 何を書いてるかいえば、「マネタイズ」ですよ。
 ある程度はしょうがないにせよ、このマネタイズの呪縛から逃れられたら、人間というのは今よりもずっと楽に、ずっと幸せになれるんじゃないかしら?って思うのです。

 そして金になるかならないかではない、本当の意味での「仕事」なり、価値観なりを考えたほうがいいんじゃないかと。どうせマネタイズするのは、日に日に難しくなってるしね。環境が厳しくなれば話もこすっ辛くなってくるし、お金を稼ごうと思ったら自分や誰かの幸福を犠牲にする=労働力や自分の時間をぼったくられたり、罪もない人を偽装的に騙したりする部分が増えてくるなら、お金と幸福は反比例すらする。

 でもって、理想論を吠えるだけではなく、現実論で言うなら、マネタイズというのは部分的にできたらそれでいいと。自分の生活、自分の幸福の構築要素で、お金以外で成り立つ部分を増やせば増やすほど、マネタイズ努力部分も少なくて済む。そしてお金以外で豊かになれる部分を追求して、広げていくほうが、実は近未来においては有望な鉱脈なんじゃないかなーと直感的に思うのですよね。

降ってくるマネタイズ

 と同時に、それが廻り回ってマネタイズにもつながるのだろう。
 ネットでなにか新サービスを始めました、面白いブログを書いてますといっても、それだけでマネタイズできるものではない。そこが非常に難しい。リアルな話として、今ネット系のビジネスで現実的な方法論でいえば、「金もってる企業を騙す」ことですね。「騙す」といったら失礼ですけど(笑)、「これからの時代、コレですよ〜」とか半分煙に巻くような最新理論や横文字を並べて、企業担当者をして「そ、そうなのか」と思わせて、金引っ張ってくるのが、ニュービジネスの基本でしょう。SEOもGoogleのアクセルレイテッド・モバイル・ページ対応が必要ですよ、AI検索にシフトするからそっち方面の対処もとか(必要なんだけど、過剰な部分はあるでしょ)。昔っから言うじゃないですか、広告って本当に必要なのか?と。で、広告屋の殺し文句は「広告止めたらわかりますよ」という。わかんないんですよね、検証しにくい。だから、宗教的な魔除けの御札を売ってるのとニアリーな部分もあります。

 でも、それ詰まんないよね。弁護士だろうが、医者だろうが、教師だろうが、レーサーだろうが、金儲かるから「だけ」でやってる人は少ないでしょ。やってる人もいるけど、なんかなー、本質的に豊かじゃないなーって思っちゃうでしょ?本業にまつわる「マネタイズしてない部分の豊穣さ」というのは、一人前の職業人だったら誰でも知ってると思いますよ。ゼニカネじゃねーよって部分ね。

 世の中お金で廻ってるようで、実は廻ってないような気もしますね。そりゃないと困るけど、それだけじゃない。酸素みたいなもので、酸素がないと人間死ぬけど、酸素がたくさんあったらそれでハッピーか、理想的な天国になれるのかっていったら別に違うもんね。過呼吸になるだけって。じゃあなんで世の中廻ってるの?っていえば、「いろいろ」ですよね。そのなかでも横綱レベルに巨大な要素は、多分「感情」でしょうねえ。でもって、マネタイズしない部分は、この感情部分にかなり親近性があるのですよ。それがデカイ。なぜって、幸福感も感情の一種ですもん。そして人の豊かなつながりの結合手になるのは、まさに感情だもん。(質の良い)感情でつながってるのは大きいですよ、利害関係でつながるよりは。

 で、ぜーんぜんお金にならない、マネタイズしにくい、しようとしても中々軌道に乗らないことを、でも面白いからやっていると、意外なところで展望が開けたりします。だから簡単にあきらめないで、面白さに導かれるように、森の奥に進んでいくと、なんかあるかもしれません。僕に関して言えば、これまではありましたけどね。その「なんか」の一つにお金、マネタイズもあったりします。でも、そのときは、ああそうかと思うだけのことで、別に悲願達成!とも思いませんけど。

 自営業を長いことやってる人ならおわかりかと思いますが、仕事なんか、まさに「降ってくる」ものですよね。狙ってゲットという仕事もあるだろうけど(競争入札に参加するとか、接待攻勢でもぎとってくるとか)、でも多くの仕事は降ってきます。予想もつかないところから、予想もできないときに降ってくる。

 大体、弁護士なんか、よくあれで食っていけるなと最初は思いましたもん。そんな弁護士に依頼するなんて一生に一度もないのが普通なのに、そんなに困ってる人が次から次へとコンスタントになぜ登場するのか?です。広告出せばいいっていうけど、広告見てくる依頼者は大体が筋悪が多いです。優良な顧客は紹介案件。だから紹介案件しかやらないってのが僕らの頃の普通の営業態度でした。今でも広告出してるところは少ないでしょう。でも、そんなに都合よく客が来るのか?と。これはシャーロック・ホームズがなぜ食っていけるのかとか、私立探偵小説でどうしてそんなに面白い事件がやってくるのか不思議というのに似てます。でも来るんだわー。不思議なことに。

 これって、結局、自分の預かりしらない世間で、自分の噂をしている人がたくさんおって(口コミ)、そういう自分の噂という粒子を全世間に放射するともなく放射して、それがたまたま困ってる人にぶつかったら、降ってくるという現象になるのだと思います。その過程はまさにブラックボックスですよ。コントロールなんか到底できません。

 ただね、こうは言えると思うのです。大量に噂粒子を流すのは、マネタイズする本業技術もさることながら、非マネタイズな部分の影響力が非常に強いってことです。つまり事件処理とはぜ〜んぜん関係ないところでやってる雑談であるとか、飲みにいって意気投合しましたとか、趣味に凝ってますとか、人間的な面白さ、愛嬌、とっつきやすさ、魅力部分です。別の言い方をしたら感情ですよね。弁護士業務のお客さんは、技術に頼ってきてるようで、実は人間的に好きだから、信頼できるから、ファンだから来てるって部分が大きい。個人レベルで起業する場合、ここは結構重要だと僕は思います。そして、その魅力は、マネタイズしない無駄な部分においてより強力に発揮されるわけですな。

 これ、どんな仕事もそうだと思いますよー。仕事だ、ビジネスだ、利潤だとかいうけどさ、基本は人間関係なんですよね。血も涙も無いマシンのような大企業の営利活動は又違うかもしれないけど(でも本質は同じだろ)、人間的要素が大きい個人レベルでは、結局そこがモノをいうと。

「売れる」って何よ?

 最後に、昔っから納得しているようで納得してないことがあります。「売れる」って概念についてです。僕の知り合いはプロのミュージシャン目指した人多いし、皆それぞれにやってるんだけど、なっかなか売れない。もう、上手とか、才能があるとか、良い作品を作るとかいうことと、「売れる」という商業的成功ってのは別次元の話ですからね。

 昔は、それもこれも難しいゲームの難易度の一つで、だからこそ挑戦する価値があるんだ的な、ややいい意味にも捉えてた部分もあります。売れなきゃ意味ねーんだよ!的な。でもねー、だんだん売るための環境がしょぼくなってくるに連れて、そんなこともないんじゃないの?って気もしてます。

 「メジャー」という言葉がもつ魅力はあります。実質もあります。甘えが許されず、完成度も高く、あらゆる戦略に精通しって技術的なレベルもあります。自己満足一発だけなのとは明らかに本気度やレベルが違う。やっぱカッコええわってのもあるんだけど、でも、どう考えても質的にダメダメなのに売れてるのもある。まあ、そこは「世の中そんなもんよ」的にシュラッグしてればいいのかもしれんけど、ほんでもね、売れる売れない以前に、この世界にステージが一個しかなく、そこで人気者になれるかなれないかだけで成功失敗が決まってしまうという構造それ自体がクソじゃないのか?って気分の方が強くなってきた。

 これは昔にかいた「マスの崩壊」と重複するけど、「メジャー」って何よ?です。そんなもん幻想ちゃう?本当にあるの?意味あんの?国民誰もが知っているから、それがどうした?って。要はその作品で誰かが幸福になるかどうか、その量、その質じゃないのか。芸事系のマネタイズって本当に難しいショービジネスだし、そのマネタイズの道も、けっこうドス黒かったり、汚かったりするわけだけど、それっきゃ道がないのって、人類的に馬鹿すぎない?って。俺らはそんな世の中しか作れない間抜けばっかなのかよ?って。

 自分にとっての家族とか恋人とかは、まさに自分一人にとってのみの価値であり、対世間的に「売れる」もんじゃないです。「売れない」といえば全然売れない。てか売れたら困るけどさ(笑)。価値とマジョリティやら多数決は違うだろ?と。ここに歌う意欲があり、創作欲求がある奴がいて、他方でその歌を聞いていたい人が一人でもいたら、その人は歌っていいと思うのだわ。従来の意味でいえばお話にならないくらい「売れない」わけで、マネタイズも全然できないんだけど、でもいいじゃんって。そこに「なにか」が成立するなら、成立させるべき。そういう世の中にするべき。マネタイズしなきゃ死んじゃうって部分をなんとか補強して軽減してやれば、その分自由は広がる。なんかね、売れる売れない、マネタイズ出来た出来ないだけで全ての物事が決まっていくのって、やっぱダサいんじゃないの?カッコ悪いんじゃないの?って気がしてならない今日このごろです。







文責:田村




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