★↓背景画像bgmaximage★ グラデーションなどベンダープリフィックスを除去するJS★
764 ★背景デカ画像

  1.  Home
  2. 「今週の一枚Essay」目次



今週の一枚(2016/03/07)



Essay 764:オフ続考〜味覚と栄養

 写真は、京都・平安神宮あたりでの落陽。
 付近の会場の下見にいったときに撮影。

栄養と味覚

 さて、今日というか昨日は京都で「全国オフ」をやりました。やったその日がエッセイの締め切りという愚挙は、前回の伊勢の時と同じで、あのときは書くのにえらい思いをしました。だったら懲りればいいんだけど、また今年もやってしまいましたとさ。さて、夜明けまでの数時間、ばーっと書くど。

 品川、真鶴、京都と大きめのオフを体験しましたが、体感はまんま同じです。最初にフィルターをかけて波長同調させておけば、初対面だらけであっても結構喋れる、てか初対面の方が楽しかったりするという不思議な現象が起きるということ。これは、20年以上前にネット黎明期の異業種交流のオフもそうでした(異業種交流をしているという意識は殆どなかったけど〜丁度今回も異業種交流っていえばまさにそうなんだけど、誰もそんなの気にしてないと一緒〜でも実質は十分にあるのに)。

 なんでそうなのかな?というのは前回書いたので、今回は別の側面から。

理屈は栄養、リアルには味覚

 一つは、物事には「栄養」と「味覚」の2つがあるんだなあってことです。さらに、客観的に大事なのは栄養なんだろうけど、でも、リアルに現実を支配するのは味覚の方であると。

 実際の食事だってそうですよね。タンパク質が必要です、カルシウムも取らなきゃねって栄養は客観的に僕らの健康を決定づける大事な要素です。もうそれっきゃないってくらい、食事=栄養補給=生命維持のための必須行為です。が!実際に食べるときにそんなこと考えてない。食餌療法やダイエットの食事制限など特殊なテーマに縛られているのでなければ、リアルに意味をもつのは「美味しいかどうか」です。「美味しいものが食べたい」というのは常に思うし、モチベーションになるけど、「栄養のあるものを食べたい」というのは、そこまで思わない。病気で弱ってるときとか「精のつくものを」とかいうけど、あれも理屈でそう思ってるだけであるし、食べたからといって実際にメキメキ精がついているという実感も少ない。だから、まあ、栄養というのは「理屈」ですよね(理屈だからダメだと言ってるわけではないよ、もちろん)。

 今回のオフ会でもそうで、これによって「視野が広がった」「人脈が増えた」「多くの知見を得た」という栄養分はあります。あるどころか、単位時間あたりの収穫量では破格の効率でなにかを得ているでしょう。だけど、実際には、会って喋って「楽しい」という味覚がずっと大きな意味を持ちます。タメになるから、役に立つからやっているという部分もあるんだけど、正味のところ「楽しいからやっている」というのが本当のところでしょう。

 いわゆる仕事もそうですよね。お金のためとか、社会経験やキャリアを積むためって栄養素は勿論あるんだけど、本当にノリノリで仕事に取り組めるときって、やっぱ「楽しい」です。もう楽しいのを通り越えて、ムキになってやっているという。よく言うけど、お金やキャリアというのは前方において目指すものではなく、気がついてたら得ていたというのが最高だと。馬車の轍(わだち)や船の航跡みたいに、後方において足跡のように得られるのが一番良いと。

 つまり味覚優先主義です。
 美味しいものだったら人はほっておいてもやる。やってて楽しいからもっとやる。やるなと言われてもやる(笑)。栄養価がゼロ、あるいは健康疑念すら言われているコーラが世界中で飲まれているように、味覚優先、味覚絶対ってのはあると思います。逆に、全然美味しくなかったら、いくら栄養があるのよって言われても、なかなか摂取したくない。苦い薬みたいに。

滑稽な逆転現象

 しかし、逆転現象もあります。「良薬口に苦し」といいますが、あれは本来「味覚的にはダメなんだけど、栄養があるモノもあるんだから選り好みし過ぎたらダメよ」「往々にして栄養のあるものは不味かったりする場合も多いよ」くらいなんだけど、段々とオーバーランしていきます。つまり、口に苦いからこそ意味があるんだ、不味いから栄養があるんだという青汁的な世界になる。あ、別に青汁さんが悪いわけではなく、そういう受け取られ方をしがちだということです。エクストリームになると「不味くなければダメだあ!」みたいになる。しかしそれは違うでしょう。美味ければ栄養があるってものではないのと同じく、不味ければ栄養があるってもんでもない。それは次元の違う問題なのに、なんかどっかで倒錯していってしまう。

 よくありますよね。勉強は辛くなければならないとか、仕事はしんどくなければイケナイとか、修行は血が滲まねばならないとか。真剣にやることと深刻になることは本来別な筈なのに、でもゴッチャになる。いやあ、子供の頃からこれに疑問がありまして、「そうなの?」という。子供の頃は理路整然と言えなかったけど、長ずれば言えるようになる。枝葉をバサバサをそぎ落として、論理的な骨格だけにするなら、それって「ポジを得るためにはネガにならないとならない」ということででしょ?しまいにはネガになることが最終目的みたいになってない?それ、論理的に滅茶苦茶じゃん。「掃除をするためには汚さなねばならない」とか「生きるためには死ななければならない」と言ってるのと一緒じゃん。そのトリッキーなレトリックに多少の魅力はあるんだけど、でもトリッキー過ぎるでしょ、王道ではないよ。

 僕は独学が好きで、ギターも、司法試験も、英語も、WEBデザインもほとんど独学でやってます。もちろんそれなりの学校にも通ったことあるし、それは勿論意味があるけど、でも一つの技芸を習得するのは基本独学でしょう。独学しかありえない。てか、いちいち独学とか言うまでもなく、教育カリキュラムの総編集権と最終責任者は常に自分以外ありえないんだから。

しんどいことほど楽しくやるべき

 それはさておき、独学で〜主体的になにかハードなことに取り組む場合、それも数年以上のスパンをもって取り組む場合、大事にするのは「楽しさ」「喜び」「笑い」です。それなくして続かないというのは、ガキの頃から体験済で、骨身に染みてる。同じことをやるにしても、楽しいなー、やったぜって思えるようにもっていく。なんというか、テレビの画面が窓からの光を反射して見えにくいときに、ちょっと角度を変えて見えやすくするように、ハードな作業の角度調整する。物事というのはわずか数度角度を変えることで驚くほど見え方が変わる。ちょっと前に「官兵衛メソッド」で書いたように、どんな些細な事からも喜びを見い出すこと、その視野角度や発想の調整というのは、多分、物心ついてからずっとずっとやってきた気がする。

 しんどそうなことであるほど楽しくやらねばならない。そのためには、学習過程の色々なところに楽しい物事やイベントを埋め込んでおくし、些細な変化も大袈裟なくらい喜ぶ。いわゆる「メンタル管理」の本質というのは、この快楽発見技法だと僕は思いますよ。それだけでは無いのだろうけど、自分にとっては結構大事なことです。

 それもあって、一括パックのやりかたでも、ビビリまくるシェア見学初日、ひとりぼっちで知らない町で知らない外人の家にいって会ってくる、それも一日何軒もやるという場合は、「Ashfield行ったら美味しい小籠包を食べろ」とか、ここまでいくならフェリーに乗って絶景風景を楽しめとか、道に迷ったりブッチされて途方に暮れたりすることこそ「海外の醍醐味」だから正しく「おお、来たぜ!」と正しく賞味しろとか(笑)、雨の日はカフェに入って、意味なく窓際で頬杖ついて、海外の街並みをぼんやり眺めて浸りまくれ、酔まくれとか言います。それからバリーションが組み合わされ、ほっといても楽しいときは、そこに流され過ぎないように「一日に一回はつまんねーことをやれ」とか、クビになったり辞表を叩きつけたりということを積極的にやれとか、それによって職の恐怖呪縛から自由になれ、そこが精神的に自由になれたら人生がずっと軽やかなものになるぞとか組合わせていきます。角度調整です。

 これって奇を衒ってるようで王道でしょう?子供だったら誰でも出来るぞ。だって、つまらない授業時間を少しでも楽しくなるように、しょーもないイタズラ仕組んだり、誰かの背中にバカと書いて貼り付けたり、授業中に変な紙片が廻ってきたり、100%無意味なんだけど必死に消しゴムのカスをビンに集めてみたり、、、もうあの手この手で楽しくなるように考える。大人になるとモットモ菌に冒されるのか、そういうことを忘れてしまう。

 実際、本気でハードなことやってるときは、そんなに苦しくないのですよね。司法試験の受験時代とか人生でもいっちゃん楽しかったんじゃないかな。「あれをまたやりたい」とか思って、オーストラリア行こうと思ったというのもあるくらいで。

頑張ろうと思った時点でもう失敗している

 カミさんから聞いた話ですが、彼女の1DAYコースだったかなでストレス管理法があるんですけど、彼女いわくは「頑張ろう」と想った時点でもうヤバいと(僕なりの意訳なので、本人から違う!と蹴り入れられるかもしれないけど(笑))。でも、確かに「頑張る」と思ったらヤバイですよね。なぜって、「頑張る」というのは「ツライことを我慢して〜」というニュアンスが不可避的に入るでしょ?それがアカンです。だって、やりもしないうちから、その対象を「ツライこと」「しんどいこと」「苦痛に満ちたこと」と規定しちゃうんだから。そういう角度設定をして物事に臨めば、そりゃあ辛いですよ。で、辛すぎてやめてしまうと。そしてなんて自分はダメなやつだと思い悩む、もっと「頑張らなくちゃ」と決意して「もっと辛いこと」を探して〜と。彼女は、それを個人別に掘り下げたり、バリエーションを広げたりして、「ほら、ここズレてる」ってのを見つけていく技法、つまりこの原理の実践的応用をやってるわけですが、ここでは発想の骨子のみ。

 そこを「辛いことをやろう」「苦痛だからこそ栄養がある」的に思い込むこと=快楽発見技法(成功への王道)を封印するような愚かなことやってたら、うまくいくわけないですよ。いかに楽しみを見出すか、いかに楽しくやるかでしょう。でも、この根底心理にあるのは「生きるためには死なねばならない」的な滑稽でパラドキシカルな世界観じゃないかな。そういうの多いよね。

 オーストラリアの英語学校いって「ほお〜」「あ、俺と同じだ」と思ってうれしかったですね。もっと理論化され、もっともっと細密に実践化されている。すげーもんだなって。西欧的なメソッドでいえば、学校の授業というのは常に笑いが満ちていなければならない。だから先生は超大変で、いかに笑わせるか、いかに聴衆を乗せるかであり、もう一流のエンターテナーにならないとならない。なぜなら人の脳や学習というのは、ほがらかに、活発に笑ってる時に最も効率よく働くからです。で、あの手この手で教室を盛り上げるわけで、その技法の多彩さ、タイム感の良さ、大したもんだって思いました。

 で、長く述べてきたことを、冒頭につなげていきますね。栄養と味覚って話でしたよね。
 人(自分)をよく動かそうと思ったら、実践的にはまずは味覚であると。栄養があれば味覚は犠牲にしてもいいってことはなく、味覚にこそ注意を払わねばならないということです。ね、似てるでしょ?てか、同じことでしょ。

 異業種交流だとか、視野を広げるとか、キャリアをつけるとか、海外で修行するとか、英語をみにつけるとか、、、、あれこれあるけど、まずはそれを楽しく感じられるようにしなければならない。こっちからみたら超詰まらなくて退屈なことでも、こっちから見たら楽しく感じられるような角度を発見すること。

 オフでも留学でも何でも、まず楽しくあることだと思います。人間、本当に嫌なことだったら続きませんから。無理に続けていると心 and/or 身体がぶっ壊れるように出てきますから。ずっと息を止めていたらそのうち死ぬという単純な物理現象のように。

 ただし、これが主理論だとしたら補正理論も多々あります。

アテ馬仮想モチベーション

 一つには「アテ馬仮想モチベーション」です。いくら楽しさが大事よといったところで、やっぱ人がなにかをやろうと思う時って、栄養(理屈)的なモチベーションがいるのですね。例えば、オフ会でも「人脈を広げる」みたいな、建前というか、能書きというか、ゴタクがいる。留学やワーホリでも、「英語をモノにする」とか「海外に通用するキャリアを磨く」とか、そのあたりの建前が必要だったりします。

 実際に始まってしまったら、オフ会だろうがオーストラリアだろうが、感じるのは単純でピュアな「楽しさ」です。もう、人脈もキャリアも頭から消えてしまう。なんでまだオーストラリアにいつづけたいの?というと、キャリアが〜とかいうよりも、単純に居て楽しいから、生活しててのびのびしてるし、気持ちいいからでしょう。殆どの場合がそうです。

 ほんとはね、やる前から深層心理ではちゃんとわかってるんだと思いますよ。楽しくなりたいからやるんだとか、つまんねーから行くんだとか。でも、それをそのまま意識化し、口に出してしまうと、なんか馬鹿みたいに感じてしまう。「楽しいから」という理由だけだと、子供みたいな感じでカッコ悪いなーとか思っちゃう。そこで「カッコいい理由」を作る。それがあれこれもっともらしい理由なんだけど、それが第三者や世間用の理論武装としてやるならともかく、自分でもそう思ってしまう。

 それがアテ馬的モチベーション、仮想モチベーションです。高校野球が「青少年の心身の健全な発達」のためにやってるように、文化祭が「文化に対する理解と造詣を深める」ためにというように、もっともらしい、何処に出しても恥ずかしくないような(それはそれでこっ恥ずかしいのだが)、モチベーションを必要とすると。NPOが国から補助金を引っ張りだすために、もっともらしい活動目的を作文するようなものですね。

 実践的な方法論としては、とりあえずはアテ馬的になんか考えてみると。オーストラリアに行きたいな、でも楽しそうだけではアホみたいだな、なんか日本社会からの敵前逃亡みたいでイヤだな、そう思われたら辛いなとかあるから、「は!ワタクシは、国際言語たる英語の習得に励み、グローバルに通用する幅広い視野を獲得し、さらに豊かな自然のもとで頑健な身体を鍛え、もって心身ともに〜」とかなんとか考えると。この段階においてはもっともらしければ、もっともらしい方がいいです。

 第二段階は、そうはいいつつも、自分でそれを信じないことですね。あんなこといってるけど、本当は真っ昼間っからビールの飲んで、ひゃっほ〜、気持ちいい〜ってのが本音だよなと、「うっすら」と、でも正しく把握する。ここ、うっすらにしてあんまり深めないのは、深めすぎてしまうと、露骨に本音が見えちゃったりして、「ダメじゃん、俺」とか思ったりするからです。いや、それで別にいいんだけど、「そうだよ、ヘラヘラしたいだけだよ、文句あるか」とまでは開き直れない、そこまでの自信はないから、「うっすら」にしておくのがコツだと思いますねー。

 第三段階は、実際に始まってしまってからで、このフェーズの要諦は、第一段階のモットモ系の理屈を速やかに忘れるということですね。第一段階のモットモ理由を煎じ詰めれば「立派な人になりたい」ってことだけど、立派な人なんて目指してなれるようなものではなく、多くの場合は、楽しくムキになってなんだかんだやってたら結果的に立派だと他人に言われるようになるもんです。それは体験談書いてる人なら実感としてわかると思うのだが、あとから人に「皆さん凄すぎて〜」とか感想言われると、「俺のどこが凄いんだよ?全然凄くない、こんなにヘタレでしたって書いてあるじゃん!」って思うんだけど、人には「立派だ」と言われるという。そういうもんですよね。

 オフ会の場合、ちょい面倒臭いのは、行ってしまえば楽しいのはすぐわかるんだけど、事前にはなかなか分からない。あんな妙に居心地いい時空間があるとか、やる前にはわからないからモットモ君がいる。しかし、モットモ系をプッシュし過ぎると、本当にそういうモットモ君ばっかりやってきて、別の言い方をすれば他人を利用してやろうって人が誘蛾灯的に寄ってきて、会場は名刺交換ばっかやってて、内容空疎なものになると。だから、モットモ系の出し加減が難しいところ。昨日のオフだって、オフとか言わないで「懇親会」とか呼んで、しかも主催団体を「日豪交流なんたら財団」とか「国際起業家の集い」とかにして、上から下までモットモ度100%にしたら、あんまり面白くならないように思います。やっぱですね、A僑のところで共通属性=馬鹿属性って呼んでますけど、「なんだかよくわからない」という要素を最初からふんだんにいれておくと。昨日のオフでもほとんど誰も名刺交換してなかったんじゃないかな?そのあたりのレシピーが難しいんだけど。

栄養と味覚の統合

 二つ目は、栄養と味覚の統合です。美味しさのセンス、味覚を高めていって、美味しいと思うものを食べておけば、自然と栄養もバランスが取れるってのが理想だと思います。オーガニック食品のように、美味しいなーというのを追っていったら、自然といいものを食べているようになる。その際、ジャンクフード的な美味しさくらいしか味覚が鍛えられてなかったら、それは果たせない。だから美味しさに対する感覚を磨くことが大事であると。

 同じように「楽しい」ということへのセンスと感度を磨くこと。楽しさセンスが良ければ、楽しいなってことをやってれば、自然と立派な(笑)人になれる。ところがセンスが悪かったら、しょーもなくて、不本意な方向にいってしまう。例えば、他人をいじめたり嘲笑したりするのが「楽しい」と感じるジャンクフード的な(簡単でレベルの低い)楽しさしか知らないのと、何かを発見したり、やりとげたり、ただ存在しているだけの居心地感が鋭敏になっていけば、より楽しくなりたいと思うことは自分への納得にもつながるし、それは往々にして立派と呼ばれることにもなる。何かの勝ち負けで勝つのは楽しいことだけど、勝ちゃあいいんだとばか、反則やら買収やら陰険な仕掛けをして勝っても楽しくない。そこを楽しいって感じられる人がいるけど、やっぱ快楽感度がジャンクレベルだと僕は思う。

 そして、「楽しい」という感情の正体は実は「無い」と思ってます。だから難しい。
 なんで楽しいの?面白いの?と言われると、よくわからないでしょ?てか、よくわからない楽しさの方がより本質に近く純度も高いでしょう。子供の遊びは一番ピュア(儲かるとか余計な要素が入ってないから)だと思うのだけど、なんでかくれんぼや、ピンポンダッシュや、基地作ったりするのが面白いのか?です。仲間との連帯感?ハラハラするスリリングな感じ?なしとげた自己実現?どれもそうだと思うけど、でも本質なのか?属性じゃないのか?(〜するときに感じやすいとか)という疑問はあります。連帯感があれば楽しいのか?といえば、戦争中の悲惨の行軍なんかも楽しいのか?スリリングが楽しいんだったら谷底に転落するバスの乗客は皆喜んでいるのか?なしとげた自己実現だったらイヤイヤやらせている就活とか昇進試験だってそうでしょう。でもそんなことを趣味でやってる奴は少ない。だから、属性であって本質ではない。じゃあ本質は?というと「無い」んじゃないか。

 感覚に理屈なしだと思う。なんでこの人が好きなの?なんでそれを綺麗に感じるの?なんでこの味が好きなの?なんでこの触感が好きなの?というと、よくわからないです。これってアホなこと書いてるようでいて、実は哲学やら審美学の大きな命題でもあるし、古来から皆考えてて、仮説はたくさんあるけどこれという決め手がない。この世でおよそ「良きもの」とされるのはみな良く分からない感覚をベースにしている。なぜ他人が喜んでくれると自分も嬉しくなるのか?そこのところが良く分からない。でも現象としてはある。まるで心霊現象のように(笑)。

不純物を取り除く

 僕の今思いついた仮説は、一つ一つ不純物を取り除いていったら楽しくなるんじゃないかって気がします。対人関係においては、他人を道具に利用するとか儲けるとかいう利得要素、あるいは比較して買った負けたエラいダサいという格付順位要素、意地悪したりされたりの攻撃防御要素、世間に取り繕う虚構要素、それら不純な要素が入ってくると制約が多くなりすぎて自分を素直に出せなくなる。だからつまらなくなる。上司から愚劣な指示を受けた場合、「アホかお前」って言えたら楽なんだけど、そんなこというと後で意地悪されるとか、クビになってお金がなくなって困るとかそういう要素に縛られるから何も言えない。ハラワタ煮えくりかえるといいますが、あんまり煮てると煮詰まってきて、毒素が結晶化してきて、やがては癌細胞のようになって、病む。

 だから社会的体面も、ゼニカネも、格付けもなにもかも、「カンケーねーよ」ってしていけばしていくほど楽しく、ほがらかな時空間になる。なぜそうなるか?の究極の分子論的な理屈はわからんのだけど、しかし現象としてはそうだと。経験論的にそうだと。

 オフ会というのは一種の「アート」だとも言えるでしょう。てか、あらゆる人間関係は一種のアートと思います。夫婦関係にせよ、友達関係にせよ。共通するのは感覚一発である、という点です。理屈はあるけど、理屈は支配しない。第一に来るのは味覚であり、味覚を磨いていけば栄養も十分取れる。良い恋愛をすれば(結果がどうあれ)、人間的にも成長できるのと同じ。職場でも良い上司や同僚に恵まれれば、やっぱり学ぶものは多くなる。でも「良い」って何が良いの?といわれると、ようわからん。多分、不純物が少ないからだと思います。上司でも、階級的に従うのではなく、人間的に自然に従える人の方が楽だし、気持ちいい。

 今回のオフ会が楽しいのは、この仮説においては当たり前であって、いろいろ不純物を出来るだけ除去していって、最後にオーストラリアとか、それによって象徴される自由さとかだけ残してあるという。大体なんでオーストラリアがいいのよ?というと、要するに海外に行っちゃえば、日本的な不純物を除去する効果があるからでしょ。だから着いて、だだっ広いところにぽつんという圧倒的自由を与えられると、不安もあるけど喜びもある。ラウンド行って、なーんもないというクソド田舎に行けば行くほど、不純物がろ過されていくから自然と楽しくなる。初対面だからぎこちないというよりも、初対面だからこそ不純要素が少なく、だから自然に楽しくなれる。

 それに人を素の状態にしておくと、そんなに悪いことしません。悪いことって、あれはあれで結構モチベーションやエネルギーが必要で、よほど屈折したルサンチマンやら、なにかが無いと出来ないです、あんな面倒くさくて、気持ち悪いこと。なんであなたは人を殺さないのか、犯罪を犯さないのかといえば、「悪いことだから」ではなく「面倒臭いから」だと思いますよ。だから面倒くさくない犯罪や違法はすぐやる。駐車違反とかスピード違反とか、業務上横領(職場のボールペンを自宅に持って帰るものそう)。だから、素の状態にしておけばそんなに人は悪いことしないです。もしそこでするなら、多分人類の文明文化は違った形になっただろうし、そのときはそれを「悪い」という価値判断をしないでしょう。

 今回も、二階の部屋が荷物の置き場にしましたが、あんなのその気になったら財布取り放題ですよね。でも、そんなことあんまり気にしないで置くことが出来る。人を信頼できるというのは楽なもんです。初対面ばっかなのになんでそんなに信用できるのか?やっぱ楽しいからでしょう?もっと楽しいことがあるときは、悪いことせんよ。せっかく良い友だちが出来そうなときに、コソコソと悪いことをしてそれを台無しにしたくないでしょ。また、そういう人が集まってるし。

 なんのことはない、シェアは人で選べ、スペックで選ぶなというのと同じですよね。いわゆるスペックというのは不純要素のカタマリみたいなものですからねー。ある意味コレステロールみたいなものですから(笑)。楽しい感性っていうのは、アクティベイトして励起させておかないとすぐ馬鹿になります。スペックに気を取られてると眠ってしまう。今日一日生きていて、楽しい!ってことが何一つなかったら、それは「重症」でしょう。だって、何もしなくても楽しくなるのがデフォルト設定なんだから、その楽しさを阻害するクソ要素で一秒の間断もなく埋め尽くしているってわけでしょ?なかなか出来ることじゃないですよ。

 まあ、究極にいけば、単に生きてるだけ、存在しているだけでエクスタシーに達する(笑)というくらいになれるはずです。僕はまだまだ修行がたりないからダメなんだけど、多分死ぬまでにはそこまで行くつもり。てか、行けるはずでしょう。ちなみに、そのさらに先は、楽しくなるためには「存在すらしている必要がない」って境地があるんじゃないかなー。つまり生きてなくてもいいよ、死んでていいよって最高難易度があって、それをクリアするのは多分死んでからなんでしょうねー。生きてる必要ないから、じゃあ死のうねって、だから「仏になる」という。これは我流バリバリの仏教解釈だけど、放下とか、喜捨とか、捨身とか、無の境地とか、断捨離なんかも源流はそうだと思うけど、とにかくやたら捨てたり、断ったりする。削ぎ落とす方向へと向かう。不純要素を削れってことでしょうね。で、最後は死ぬ時点に頂点をもってくるという即身成仏とか。

 ま、仏教の話はようわからんまでも、本来、美しくて楽しいにも関わらず、せっせと汚物を貼り付けて、その汚さに悩んでいるのが我々なんだよねー、ほんとアホだよねーって発想はベースにあるような気がしますね。

 そんな宗教的な話を考えてオフやってるわけじゃないだけど、何か書かなきゃね〜でつらつら書いてたら、こんなところまで来てしまいましたとさ。


 さて、短い日本出張でありましたが、そろそろ終わり。帰って飛行機から降りたら、そこから即「シドニー空港現地集合」という一括パックが待ってます。おし!


 当日の写真はFBにあげておきました。
https://www.facebook.com/aplac.info/posts/1701645416739913
https://www.facebook.com/aplac.info/videos/1701649313406190/



文責:田村



★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
★→APLaCのトップに戻る
★→APLACのFacebook Page