今週の一枚(2016/02/01)
Essay 759:なぜ日本社会には流動性が少ないのか?
〜組織的生産性の高さ、人見知りするから
写真は、St Leonard'sのロイヤル・ノースショア病院とTAFEの間にある一角。表通りを歩いてるだけだったら絶対わからないのだけど、異次元空間のスポットのように、ぽんとこういう場所があります。
樹木の大きさ、人の小ささ、そして一点透視図法のような奥行きが、なんか映画のシーンみたいだったので。リアルに見た時はちょっと「おお」と思いました。
樹木の大きさ、人の小ささ、そして一点透視図法のような奥行きが、なんか映画のシーンみたいだったので。リアルに見た時はちょっと「おお」と思いました。
なぜ流動性がないか
流動性
今回は、エンタメ的な漫談というよりも、思いついたので書き留めておくという部分が強いので、素っ気のない論文調で書きます。日本的な「歪み」とか「濁り」というのがあるような気がする。
どこの国や社会にも独特の歪みはあるし、それが個性でもあるのだから、特に悪いと決めつけるつもりはない。しかし、その社会の人々ですら「そこは良くないな〜」と残念に思いながらも、でもなんだか知らないけど、トータルの集団属性として残念な部分をはらんでしまう場合もある。日本にも独特にそれがある。
話を一気にワープさせて結論を言うと、その歪みの根源は日本社会の流動性の乏しさにあるだろう。会社にせよ何処にせよ一度そこに所属したら中々他に移動しない、流動しない。したら損だと思っているし、実際に損をする場合も多々ある。
西欧でよく見られるように、民間企業のエキスパートが能力を見込まれて公務の要職につき、一定期間勤務したら今度はそれらの体験をもとに大学の講師になり、また別の企業に行き、起業をし、場合によっては自分でNPOを立ち上げて、さらにまた公務員になるなど目まぐるしく流動することは日本では少ない。絶無ではないが、普通ではない。こちらでは、部長募集、課長募集、ひいては社長募集という求人は普通にあるし、要職にあるほど広く一般から人材を募る。それが株式会社における最高権力者=株主の要求であり、ボンクラ社長はあっという間に株主総会で首になる。生え抜きエリートが尊重されるということは少ない(あったとしたらそれは実力を正当に評価されてるだけ)。また公務員の要職であるほど、国民を税金を使うのだからベストな人選を求めるし、ずっと前にシドニーの警察の長官に外国人(イギリス人)が任命されるなど、必ずしも国籍を問わない。それはプロスポーツの選手や監督人事と同じである。国家や会社は家族ではなくただのマシンであり、そこでは結果を出せるやつが一番エライというゲゼルシャフト(機能集団)の原点からは外れない。組織内部の派閥人事なんかやってられる余裕はない。ゼロではないが政権交代したら半分自動的に公務員の上の連中が首になるのだし、定期的に政権交代はほぼ絶対あるので、公務員くらい身分が安定しない職はない。
これは高度な技能とキャリアを持ってるエリートだけの話ではなく、一般人も似たり寄ったりである。というよりも、日本では同じ仕事を3年続けないと根性なしとか甘いとか言われるところもあるが、こちらでは3年同じ会社に勤めているだけで馬鹿か無能呼ばわりされかねない。よほど実力を認められるようなことでもないと、自動的に昇進させてくれるほど企業も甘くはない。同じ会社にいたらそこで頭打ちになってしまう。ゆえに、その企業で次にステップアップできるだけのキャリアを積んだら、とっととそれを引っさげてヴァージョンアップ(転職)を図るのが当然。この傾向はホワイトカラーの方がより強い(地元工場に勤務しているブルーカラーのほうが同じところに長く勤める傾向があると思う=デトロイトの自動車工場に長年勤めるとか)。
その当否はともかく何故こんなにも違うのか、なぜ日本ではかくも流動性が乏しいのか?その理由は後で考察することとして、流動性が乏しくなると、どういう弊害がおきるか?それが日本社会独特の歪みと濁りをもたらしているように思う。
流動性が乏しい社会の弊害
ずーっと同じメンツ、同じ人間で構成される小世界(村とか業界とか)で一生過ごすとするならば、なるべくなら後に「しこり」を残したくないと思うのは人情でもあり、当然の処世術や戦略だろう。そこでは、小世界内部の人間関係の維持がプライオリティとして全てに優越する。なぜなら、そうしないと将来的に自分の人生に大きなダメージを受けるかもしれないからだ。組織内部の事情が優先され、対外的なことが劣後する。
するとどうなるか?先ず(1)その組織は、やがては外部の期待を裏切ってしまう。そしてそれは隠蔽されるし、とってつけたような屁理屈で誤魔化そうとする。いよいよ露見したら、それも度重なるにつれ、(2)単にその組織や業界の信用低下だけではなく、広く社会一般の公的な信用性を失わせることになり、ひいては「け、どーせ、世の中なんて」という白けた気分を蔓延させる。さらに(3)裏道を発達させたりもするので、ますます社会全体が静かに荒廃していく。と同時に、(4)環境が激変した場合に、組織延命を第一に考えるから機敏で大胆な対応をとることを遅らせ、場合によっては急速な衰亡をもたらす。
具体例を上げる。陳腐な例で恐縮だが、白い巨塔のような医学&大学内においては、将来的に良いポジションを得るためには、長期的な配慮が必要とされる。「上」の人間の「引き」が無い限り恵まれた地位につけず、逆鱗に触れたらとんでもないところに飛ばされたり、飼い殺しにされたりするなど事実上の生殺与奪の権利を握られている環境下においては、上に逆らうなど思いもよらない。とある教授の功名心のために、人体実験まがいの「新治療法」が試みられ、はたして患者に取り返しのつかないダメージを与えた場合、普通は徹底した緘口令が敷かれ、対外的にもっともらしい説明がなされ、それに皆で口裏を合わせることになる。ここで、「病院は患者を治すところであって、患者をダシにして自分がチヤホヤされたいという幼児的な自己顕示欲を満足させる場所ではない」というド正論をかまそうものなら、職場で浮くどころではなく、陰に陽に報復をされるだろう。将来的な「引き」もありえない。また、いずれ独立開業する者にとっても、経営ノウハウとしては大学病院とのつながりが深い方が紹介やらサポートやらで有利であるというから、古巣に対して弓を引くをようなことはできない。
この時点で、病院は「患者を治癒する」という公的な期待を裏切ることになる。同時に、あくまでも公的な期待に沿おうとする者は、内部においては「裏切り者」になり、”犯人探し”や”処刑”がなされる。しかし、どんなに白く装おうとも、その実態はほどなくして世間に知れ渡るところになる。生殺与奪の権利を握っていない外部の者によって、訴訟になり、記事になり、小説や映画の題材になったりもするからである。それは漠然と世間の常識になっていく。その内容は人によってマチマチだけど、大学病院にいくなら人体実験や薬の治験を覚悟していけという人もいるし、まさかそこまでって思う人もいる。何が正しいかはここでは問わない。ただ、それが徐々に染みだしていって、この社会のピュアさを汚染していくこと、幻滅や白けを生み出す方向にはいくだろう。そんなことが重なっていくと、右を見ても左を見ても「汚い世の中」に見えてもくるし、真剣にピュアな理想を求めて汗を流している人達(実は結構いる)、なにやら偽善者に見えたり、世間知らずの馬鹿に見えたり、いずれにせよ正当に評価されなくもなる。いいものを作ろうとという意欲が失われていってしまう。かくして、何をやっても無駄さというアパシー(無感動)が世を覆い、投票率は下がり、カウンターパワーは減殺され、正真正銘何をやっても無駄な社会になってしまう。
一方では、○○大学病院に「顔が利く」某大物(政治家とか)に内々に口を聞いてもらったり、特権階級的なサロンに所属することで手厚いケアを受けるという「裏道」の開発整備されていく。これが官民入り乱れてシステマティックに整備されていくと、天下りの温床にもなるし、行政的裁量に関する綱引き(保険点数や薬価基準の改訂とか)に活用され、やがては珊瑚礁のように利権構造が構築されていくことにもなる。
と同時に、画期的な医療システムが海外で開発されても(極論すれば、診断・投薬・施術・看護の全てをなしうる医療ロボセットみたいなものが19万円くらいで販売でき、現在の医療スタッフと施設の90%は不要になるとか)、皆これまでの全人生を投げ打っているから、おいそれとは変われない。なんだかんだ理由を付け、難癖をつけ、闇から闇に葬ろうとしたり、メディアを使ってネガキャンペーンを張ったりして自分の人生利益を守ろうとするだろう。かくしてその社会内部では平穏を保たれても、そうではない他の世界から大きく取り残され、やがては絶望的な距離を生み、江戸末期の日本のように決定的な後進社会になってしまう。
日本性は原因ではない
これらが日本社会独特の歪みと濁りであるが、別に日本人だけがそうではなく、また日本人だからそうなるわけでもない。そうなってない業界や世界も、日本のなかにはいくらでもある。また日本人「だから」と言ったところで何の解答にもならない。本当のポイントは、なぜ日本人だとそうなるのか?である。思うに、日本人がそうなるのではなく、同じようなメンツでずっと一生をやっていく場合、そして組織それ自体の生産性が非常に高く、その組織の利益分配なくしては人生が成り立たないような環境に置かれた人間は、そのような行動を取るだろうし、それが集積すれば全体に上記のような展開になっていく、ということだと思う。
ここまではわりと簡単だと思うし、過去にも何度も書いている。
今回はさらにそれを掘り下げて、なぜ日本人は流動性の乏しい社会を好むのか?どうしてそういう社会を作ってしまうのか?である。
ここで、2つの仮説を立ててみた。
(1)組織的生産性がやたら高く、そのシステムが整っている反面、個人的生計システムが整っていないこと
(2)人間としての属性は流動性についてプラマイ両方もっているが、「人見知りをする」という一点で流動性低下になりがちである
組織的生産性と個人生計
日本人の集団的生産性は、世界史的に見ても高いと思う。なぜか?これも過去に書いた仮説だが、狩猟採集メインだった縄文時代から、稲作農耕を本格的に始めた弥生社会において、稲作は非常に難しかったからではないか。1万6000年も続いたと言われる縄文時代は地球も温暖で、それゆえ東北地方に大きな文化が栄えたと言われる(青森の三内丸山遺跡など)。諸説あるが地球の寒冷化によって採集狩猟生活だけでは限界が来て、計画的な農耕システムが主流になったらしい(これも諸説ある)。ところがイネというのはベトナム原産のド南方の植物であり、バナナやマンゴーのようなもの。それを(相対的に)寒冷な東北アジアでやろうとのが無茶な話。遺伝学も植物学も無い頃にである。どうなるかというと、結果的に「強い種」が残った。植物的には寒冷に強い種が残るだろうし、人間的には地味作業を協力してやれる人々、組織親和性の強い人が残った。組織親和傾向なんか遺伝するかどうかわからんが、少なくとも集団内部のカルチャーは世代を超えて伝えられる。これは単なる僕の空想であって事実かどうかわからないが、確かに古代縄文系の気風を残している沖縄から高知にかけての南方海洋漁労民族とアイヌや樺太など北方系狩猟民族と、農村社会の気質は微妙に違うような気がする。いずれにせよ精密機械のような集団作業が人々を餓死から救い、それが民族の生きる基本になっていったのではないか。
もっといえば、「努力すれば報われる」という世界観は、本当に努力すればそれなりにリターンがなければ生じない。何にもしなくても果物がたわわに実って魚が山程捕れるなど、あまりにも簡単に実現してしまう環境、あるいは努力のしようもない砂漠やツンドラなど不毛度の高い環境では、努力→幸福という世界観は生まれにくい。日本の場合、初期において稲作をやるという環境が、たまたまこのパターンにはまったので、そういう人生観になっていたのかもしれない。かくして集団的生産を極大値にまで上げるのが好きな民族になった(トヨタのカンバン方式のような)。世界は広く、そんなことに全然興味もないし、組織性に大きな意味のない環境もある。砂漠のラクダの隊商や、アメリカ開拓時代の荒っぽい西部においては、組織性よりも個々人の知識技能こそに意味があろう。
いずれにせよ「やればやっただけのことはある」という物的環境は、健やかに生きる希望を与えるし、ナチュラルな向上心をも与えるだろう。実際そうなのだから。それがひいては、集団システムの洗練だけではなく、個々人のレベルにおいても個人技の究明、という求道的で凝り倒した性向を助長したと思われる。
組織=個人になる必然
「だから」ではないか、日本人の流動性の少なさは。あまりにも組織的な生産性が高いがゆえに、組織に加入し、組織と個人が一体化し、組織の発展=個人の幸福という同一化がなされやすい。これが組織の生産性が低い場合、例えばたまに会ってあれこれ喋るだけの集団の場合、組織に対する忠誠心も同一化もないだろうし、そもそも「組織」かどうか疑わしい。ヒマ潰しでやってるようなメンツの多い部活と、インターハイをマジで狙えるレベルの部活とでは、組織的生産性はまるで違うし、組織と個人の一体性も違ってくるという理屈である。日本の場合、たまたま組織的生産性が高い場合が多く(常にそうだというわけではない)、個々人を多少ないがしろにしようとも、組織そのものをとにかく存続させ、発展させることが最大幸福に叶ったという客観的事実があったものと思われる。戦後の高度成長のカイシャ文化などはまさにその好例であろう。しかし、戦前より前の日本社会では、職業横転率(同一業界の転職率)の高い社会だったという。「包丁一本晒に巻いて〜」という古い歌があるが、腕一本あればどこででも食っていけた職人社会である。都市型住人は、大工の熊さん、八つあんのように職人であり、組織性も、また「宵越しの銭を持たない」という縄文時代の海洋民族に先祖還りしたような人が多い。一方、農村はがっちり組織性があった。現在の学会に相当する宗教界は、宗門という巨大な組織を持ちつつも、流浪漂白する僧も多々あり、個々人の動きが比較的自由であったのではないか。
このように、日本といっても、その業界や世界によって流動性が高いところもあれば、低いところもある。ただ戦後において一億全員サラリーマン化する時点で、組織流動性が極端に低くなったのではないか。これは一過性の現象であるのだけど、同じことが20年も続けばそういうもんだと世界観が変わる。それは今の若い人たちが、つい先日まで20代でBMW乗り回して、ボジョレーだ、ドンペリで一気だ、アルマーニはエンポリオがいいかジョルジュがいいかと言っていたのが同じ民族だとは思えないのと同じこと。
以上が、組織的生産性の高いところでは、組織に順応した方が人生レベルで得だから、流動性は減るだろうという理屈である。繰り返すが、本当かどうかの保証は出来ない。なお、ここでいう「組織生産性」というのは多義的であり、最初は単に村人が協力して収穫量が多いという素朴な意味だっただろうが、現在においては必ずしもそうではない。例えば組織に期待される機能をぜーんぜん果たしてなくて、サボりまくって、それどころか嘘やら害悪ばかり垂れ流していたとしても、国から補助金をせしめるのが抜群に上手く、構成員に手厚く利益を分配できるところも「組織生産性が高い」と観念されるだろう。「生産性」というよりも「組織内利益配分率」と言い換えたほうが正確かもしれない(長ったらしいから生産性という言葉を使い続けます)。要は組織に尻尾を振ってどんな見返りがあるか?である。見返りが少ない場合は去っていくし、見返りが沢山あるときは激しく尻尾を振る、それだけのことだと思う。
実はいろいろある日本
逆に言えば、組織生産性の少ないところでは、個々人の忠誠心もまた乏しく、同時に流動性も強い。あるいはベンチャー系企業などは、急成長はしても社員に一生レベルでのベネフィットを与えられるかどうかもわからず、またそんな先の話をしても現実味がないので、流動性は高いだろう。1−2年も働いたすぐに退職して、他の会社に転職したり、自分で起業したりする人が多い社会、カルチャーになるだろう。一方、組織に頼らず個人レベルでの生計を立てることが容易な業界と難しい業界もある。手に職系の職人世界は、独立が基本である。徒弟制度のように最初は丁稚奉公でこき使われるのだが、あれ自体がインターンのようなもので、未熟な労働力を安値(時には無料)で買ってもらう代わりに、職人としてのスキルを学ぶ学校でもある。そこでは今は怒鳴られているけど、将来的には自分は独立自営するのだと、組織ではなく個人生計を立てるのだとごく自然に誰でも思う。僕のやっていた弁護士世界も全く同じで、イソ弁時代はコキ使われながら一本立ちできるだけの修行を積む。誰でも近い将来独立するものだと思ってやっている。こういう世界は、職業的ギルドのような締め付けはありながらも、基本的に個々人の動きには流動性がある。事務所を出るのも、誰かと組むのも、またコンビを解消するのも自由であり、なんだかんだ他人に言われることもない。その意味では、バンドと同じで、誰が誰と組んでグループを作ろうが、基本は自由だし、ヘルプで助っ人参加するのも自由である。トヨタの社員が、男気に感じてニッサンの仕事にヘルプで入るということはサラリーマン世界には普通ありえないが、バンドや弁護士の世界では普通にありうる。
組織肥大化とその揺れ戻しの個人ベース
群れるのが好きな奴、ボッチが好きな奴、そこは人それぞれでよく、その好みに応じて生計や人生を成り立たせる道があるのが、本当は理想なのだろう。が、巨大化・システム化・グローバル化によって小さな自営は潰され、大きなチェーン店やガリバー寡占が進むと、そうも言ってられなくなる。地球のファミレス化とか人類サラリーマン化とかいう話は、既に16年前のシドニー雑記帳のときに書いたが、いささか組織過剰な感もあり、それが息苦しさのひとつの原因になってるかもしれない。そして、それに対する静かで大きな反動も、日本のみならず世界レベルで広がっているような気がする。一つには、組織生産性が上がっていないこともある。組織そのものの図体は大きくなるのであるが、それがスケールメリットとして繋がりにくくなっている。また、本質的には、組織内部の利益配分率の低下がある。正社員の賃金だって、上昇したというだけで特権階級のように言われているが、昔に比べれば労働条件はどんどん悪化している。非正規やパートは言うまでもない。利益配分が減るんだったら、組織に尻尾を振る必要も減ってくる。他に選択肢がないから、ということで仕方なくしがみついている場合も多かろうが、好きでやってるというロイヤリティは減少するだろう。
国や会社という組織が従前ほどのベネフィットを提供できなくなっているとするなら、その反動として個人としての生計を立てる方向に進む。そのニーズや潮流は、ネット、コミケ、SNS、NPOやボランティアなど個人ベースのアクティビティの前提となる土壌改良段階を超え、さらに何度も紹介しているシェアリング経済やら、バーター経済や、共生経済システムやら多くの実験的試みになって世界的に出てきていると思う。
組織論、特に組織の変容論(=純粋に目的を達するための機能集団が、いつしか存続のための存続を測るようになり、ひいてはハイエナ利権の温床になるなど)については興味があるのだが、今回はここまで。先を急ぐ。
人としての性向、人見知り
日本人は昔からチームワークよりも個人技が好き
日本史を概観すると、日本人が格別に組織愛に満ちあふれているとは思いがたい。過去にも沢山書いているが、その反対証拠が山程あるからだ。例えば、上からの締め付けや利益供与がなくなって自由になるにつれ、流動性が極端に高い戦国時代のような社会を形成したこと。野球、サッカー、ラグビーあらゆる集団スポーツは日本起源ではなく海外産であること。純国産の集団競技は精々が蹴鞠くらいであり、基本的には個人技を非常に好むこと。チームワークの日本というが、実はそんなに興味ないのかもしれない。多くのスポーツは武道から発しているが、実戦的な軍事学でいうなら孫氏のような戦略学や兵器開発こそが好ましく、個人レベルで刀や弓を振り回してもたいした意味はない。が、鉄砲の世の中になった江戸以降でも剣術や弓道、槍術、薙刀、、、個人技は一向に衰えないし、称揚されている。チームワーク大好き民族なら、江戸時代にも棒倒しのような集団競技が盛んに奨励されていなければならないが、あまりそんな感じではない。
他には、日本人は古来よく旅をすると言われる。お伊勢参りにせよ、「物見遊山」という言葉が残ってることでも、知らないところに一人ないし少数で出かけていくことに歓びを感じる。流動的な快感を知ってるのだ。東海道、中山道など旅行用街道は整備され、宿場町が出来、ホスピタリティ産業(観光や宿屋)が栄え、「お土産」という慣習が色濃く残っている。大名の参勤交代ニーズだけではこれだけの産業は維持できない。膝栗毛のように名もない庶民が旅を楽しんでいる。移り変わるものごとに感興を抱く感性は持っていたのだ。それどころか、ぱっと咲いて散るから良いと桜が愛されるように、万物は流れる「無常観」は日本人の原風景ですらある。恒久的でしがらみだらけの人間関係ばかりではなく、「一期一会」の尊さをも知っている。こういった「流れる喜び」を知っている人間類型の、どこが流動性の乏しい、ゴリゴリ安定志向なんだか。
司馬遼太郎の対談で(確か開高健氏とだったかな)で、モンゴルの遊牧民族は生まれてから死ぬまで羊の干し肉を食べるという話が出てきた。1日3食、毎日死ぬまで同じものを食べる。七味を入れると旨いぞとかアイディアを提案すると、皆旨い旨いといって喜んで食べてくれるのだが、次はまた七味なしのノーマルなものに回帰する。そういうもんだと思ってる。こちらか見ると信じられないようなライフスタイルだが、しかし、それが本当にひとつの慣習やスタイルを墨守するってことなのだろう。物珍しさや新しさにさしたる価値を感じないのである。
しかし、日本人は違う。驚天動地の明治維新も戦後もあっという間に咀嚼してしまうし、何もなくても「最近日本では○○が流行ってる」というのは年中行事で、常に常に新しい物に触れていたいという探究心や好奇心はズバ抜けているといってよい。日本人は優秀だから理解力や咀嚼力があるんだという説もあるが、僕は違うと思う。そんな力は誰にでもあるのであって、大事なのはその力を発揮したいというモチベーションである。日本人はそのモチベーションが高い、つまり新しい物に嫌悪や不快を感じるよりも、面白さや楽しさを感じる度合いが高いからだと思う。
これら類例はいくらでもあるのだが、一個の人間の特性において、日本人がさほど保守的で、頑迷固陋だは到底思えないし、物事の道理を踏みにじってでも組織的安定を第一に図るようにも思えない。つまり必要に迫られてそうしているだけであって、好きでやってるわけではないと思う。
人慣れしてない
しかし、ただ一点、好きでやってる部分があるとしたら、「人見知りをする」という部分だと思う。日本人は人見知りをする傾向が強い。シャイだと言われる。実際、十人十カ国の人がたまたま居合わせた場で、どんどん場をリードするのが日本人だったというケースは少ない(アメリカ人にはこのタイプが多い気がする)。人見知りをするから、新しい人間環境に入っていく、いわゆる「転校シュチュエーション」をややもすると苦痛に感じるのだろう。それが微妙に流動性を阻害している気がなきにしもあらず。
なんでそうなるのか?であるが、一つはやっぱり人見知りだろう。
さて、そうなるとさらになぜ日本人はシャイで人見知りをするのか?かが疑問になる。
これは割りと簡単に答が出るように思う。理由は超ド田舎だったから、である。もし仮に、日本がイスタンブールなどシルクロードの交差点のような場所にあったなら違っていただろう。年がら年中あらゆる民族が交錯していけば、それに対する「人慣れ」も強くなっただろう。見知らぬ人への免疫も耐性もついただろうし、対人技術も磨かれただろう。結果、シャイで人見知りの度合いも減ったと思う。ところが、日本では、外国船がちょっと寄港しただけで、黒船だといって上へ下への大騒ぎになるくらい珍しかった(それまでも来ていたけどごく一部の人間が見聞するのみだった)。「外部の人間」がそれほどまでに珍しかったのである。逆にいえば、「外部の人間が滅多なことでは訪れない村」ということであり、どんなんじゃ?って話である。まるで人里離れた秘境のような場所に日本があったということであり、日本自体が「平家の落武者部落」かアマゾンの秘境民族みたいなものだったということである(それはむしろラッキーなことではあったが)。
そうなると、どうしても奥深い村の保守的で排他的な村人チックな心理傾向にもなろう。慣れてないからドギマギしてしまって、反射的に拒否反応が出てきてしまうのだろう。可愛いといえば可愛いのだが。
反面、共通属性度の高い人々とだけつきあって一生を終えることになるから、かなり特化した性質=極めて洗練された高度な人間関係が要求される。往年の貴族社会のようなもので、確固とした格の上下があり、最初に誰に何をどう言えばよいかというパターンまで決められ、さらに求愛ひとつするにもいちいち和歌を読んで届けさせるというクソかったるいナンパをし、それを雅と呼んで珍重した。
こんな人間関係は、前提の違う部族との間では当然ありえない。言葉も通じない他民族と上手くやっていくには、(1)何よりも開けっぴろげで誰もが魅了される無邪気なスマイルであり、害意敵意のないことを理屈抜きに伝えられる感情的な説得表現であり、(2)場合によっては対立をも辞さないという戦闘能力とメンタルの強さであり、(3)誰が聞いても一発で理解できるという主張の明確さとプレゼンの巧みさである。つまり、一瞬で友好関係を築き上げられる人間性、即座にNO!と言える瞬発力と肝っ玉、そして明瞭な自己主張と優秀な説明能力である。これなくして、見知らぬ人と上手くやっていくのは難しいが、こんなものは車の運転と同じくただの技術である。ただ、この技術を練習する場所が異様に乏しいから技術拙劣のままであり、そんな状態でいきなりステージに上げられたら誰だってやり方もわからずにぎこちなくなる。かくして、どうしてもシャイで人見知りして、ともすれば冷淡で、派閥的、差別的に見えるように振る舞ってしまうのだと思う。
これは日本国内の日本人同士でも同じであり、同じセクション、同じ仲間だったら兄弟のように親しくなることもありながらも、他のセクションになると途端に温度が下がり、さらに同業他社になると全く他人、ないし潜在的には敵性種族になり、たまたま電車やバスで乗り合わせた程度の間柄においては、そのへんの野良犬や電柱と変わらないくらいの冷淡さを示す場合もある。会社での接待技術には抜群のものを持っていながら、二次会に向かう途中の路上で人が倒れて苦しんでいてもついシカトしてしまうという、人としてアンバランスな感じになってしまう。
仲間内での芸術にも似た高度な人間関係にエネルギーを費い果たしてしまうのか、それ以外のゼネラルな人間関係、ましてや言葉も通じない異国の民との間で英会話をするのは、「月の輪グマと雑談せよ」と言われているに等しく思える。日本人が英会話コンプレックスを根強く抱えているのは歴然たる事実だと思うが(「英語」教室といわずに英「会話」教室というとか)、なぜかといえば、それは英語に対するコンプレックスというよりも、外人(=見知らぬ&見慣れぬ人)に対する当惑感情の方が強いと思われる。会話が苦手だというのは、会話が苦手なのではない、(見知らぬ)人間が苦手なだけだと。
ただし、このあたりの「人慣れ」は、要するに「慣れ」の問題である。「慣れ」というのは、知識や技術よりももっと素朴なもので、要するに数さえこなせば誰でも自然に覚えてしまうという習得過程が比較的容易なものである。ただ最初の部分で心理的なハードルがやや高いのが玉に瑕なのだが、そこを通過してしまえば、あとは楽。
広く人間のゼネラルな性向でいえば、流動(変化・刺激と不安)と反流動(安定・安らぎと退屈と停滞)のどちらも持っていると思う。ゆったりペースでのんびりしたいときもあろうし、スリリングで刺激的な展開を望む場合もあるだろう。その好みそのものについては、日本人もその他の人々も、そう大差ないように思われる。しかし、新環境や新しい人々の接触を、わくわくするよりも不安に思う度合いが強い(人慣れしてない、人見知りをする)ので、振り子の針は、ややもすると反流動性(固着性)に振れてしまうのかもしれない。
文責:田村