今週の一枚(2016/01/25)
Essay 758:Mの構造
〜自我放棄の安らぎ、被支配と依存の快楽
写真は、Riverglade Reserveという公園で、Huntleys Coveというサバーブにあります。在住歴長い人でもあまり聞き慣れないとは思いますが、Hunters HillとGladesvilleの間といったらわかりますか。Wlakingであちこち歩きまわっていると、「ほお、こんなところがあったのか」と発見があって面白いです。
雲の感じが良くて。前にKirribilliの写真(Essay718)と同じく、中世宗教画で天使が降りてきそうな、阿弥陀如来の西方浄土みたいな、ああいう雲って単なるデザインじゃなくて本当にあるんだーみたいな感じ。低い位置にある雲が光の下限でクッキリ浮き上がってそう見えるんですけど。これ、小さな画像ではわかりにくいのですが、リアルに現場で見ると、スカーッと広がった風景の上にぽっこり雲が浮遊してて「ほお?」という不思議な感じになります。
雲の感じが良くて。前にKirribilliの写真(Essay718)と同じく、中世宗教画で天使が降りてきそうな、阿弥陀如来の西方浄土みたいな、ああいう雲って単なるデザインじゃなくて本当にあるんだーみたいな感じ。低い位置にある雲が光の下限でクッキリ浮き上がってそう見えるんですけど。これ、小さな画像ではわかりにくいのですが、リアルに現場で見ると、スカーッと広がった風景の上にぽっこり雲が浮遊してて「ほお?」という不思議な感じになります。
チマタで言われるM概念がなんか違う件
視界30センチで快楽が見えてない部分
先日メールのやり取りをしていて、いわゆる「M」(マゾヒズム)の話題になり、あー、世間ではよくそう言われているけど、俺は全〜然違うと思うぞと意見交換をしてて、これはかなりの行数がないと語れないぞと思ったので、今週のお題にします。Needless to sayですけど、これって別に何が「正しい」とかいうつもりはないです。このエッセイ全体についてもそうですが、ああも言える、こうも考えられるという複数のモノの考え方があった場合、自分の過去の全ての経験知識に照らし合わせて、こう考えた方がしっくりくるという、「しっくり」感を楽しむものです。かき氷を食べるときはシャリシャリ感を楽しみ、ポテチを食べるときはクリスピーなパリパリ感を楽しむのと同じく、考えるときはしっくり感を楽しみたいという。その程度の、まあ罪もない娯楽で書いてますので、よろしく。
で、「違う」と思ったのは何かというと、チマタでは、好んで試練の道を突き進むかのような、わざわざしんどいをことをやって充実感を味わうような、星飛雄馬のような、三日月を仰いで「我に七難八苦を与えよ」と言った山中鹿之介のような、、、、つまりは敢えてハードシップを求めるような姿勢をもって「M・エム」と称する点です。でも、それマゾヒズムというのとは違うんじゃないの?と。
そもそもハードであるかどうかなんか事柄の本質ではないのよ。ハードなことをやってまで何を得たいか、どういう快楽を得るか?でしょう。巨人の星になりたいとか、もっとタフでカッチョいい男になりたいとか、そこがゴールで、そうなるための過程おいて多少のハードシップがあったとしてもドンと来いってことでしょう。ハードなことを喜々としてやってる連中は、その先にあるでっかい快楽を見てるわけで、そこを含めずして、視界30センチだけ切り取って何を論じても意味ないというのが一点。そりゃゴールも何も考えず、ハードであることだけが自己目的化してるんだったらちょっとなーって思うけど、人間心理としてそれは無いよ。一見そう見えたとしても、何かに打ち込むこと自体に大きな快感があったりするわけですよ。早朝ジョッギングやってる人なら分かると思うけど、何を好き好んで、あんなしんどいことって問題じゃないよね。健康維持というのもあるけど、それも副次的で、とりあえず早朝の空気が気持ちいいわ、なんか充実してるっぽい気分がいいわ、身体全体に循環がよくなってそれが無条件で気持ちいいわで、やってるわけでしょ。だから別にハードなことやってるんじゃなくて、気持ちいいからやってるわけでしょ。
あるいは温泉旅行。あんな遠いところまで交通費使って出かけて行って、クソ熱い湯に浸かって、のぼせあがるまで我慢して、そんな拷問めいたハードの極致みたいなこと何故やるんだ、よっぽどM気強いんだなってもんじゃないでしょ?そんなこといえばスポーツや趣味なんかみんなMですし、ひいては人間の自発的行動なんか全部Mじゃん?一から十まで全部楽チンなアクティビティなんてこの世にないよ。エステだって安くもない金銭的苦痛を伴う。仮に全てが楽ちんだったら、今度は面白くないし、それをやってること自体が詰まらなくて苦痛でしょ。一日中寝て暮らせるのが最高だと本気で思うなら、長期入院患者になりなさいな。どんだけ苦痛か。人が何かを好きでやってるというのは、どっかしら「何を好きこのんで」という酔狂な部分、ハードな苦痛を背負ってるかに見える部分はあるもんですよ。そこが面白味、醍醐味でもあるしね。ヒマツブシにやるパズルだって、うーうー唸って考えて、しんどい思いをして解いたところで一銭にもなりゃしないじゃないか。
結局なにがおかしいのか?見方がおかしいからでしょう。要は、その快楽を理解できない人間にとっては、好きこのんでハードな苦痛を求めているように見えてしまうだけのことでしかない。そして「好んで苦痛」って部分だけ取り出してMとか言ってるだけじゃんってことです。これって言い換えるならば、人生の快楽を見つけるのがヘタクソです、しあわせになりにくい体質なんですって言ってるのと同じではないか。だってそうじゃん、快楽理解度が低い、快楽オンチなんだから。
上昇快楽、下降快楽
次に何らかの苦痛っぽいことをやっていて、それでなにかの快楽をえるとしても、上昇系と下降系があると思います。僕のしっくりくるM像、性的嗜好としてのそれ=SMクラブ的なそれは、そんな苦行僧みたいな上昇志向で建設的なものではないと思いますよ。そんなさー、人間的により高みに達したいから、ローソク垂らされたりしてるのか?というと、到底そうは思えないんですけど。むしろ真逆じゃないか。人間的に堕落したいから、堕ちていく快感に浸りたいからじゃないのか。星飛雄馬的なるものがエレベーターの「上にまいります」の上昇快感だとしたら、こちらは「下にまいります」の下降快感ではないかと。これはあとでじっくり書きます。
ということで、チマタのM論は、人間の快楽について見過ごしている点、そして快楽の種類が真逆であるのがわかってないというこの二点で僕にはしっくりいかんのです。それ、違うんじゃないのーと。さらにちょっと先走って言えば、快感=快楽回路の形成というのは、どんなところにでも成り立つのであって、要は発見するか/しないのかの差でしかないと思います。
何をそんなにムキになっているのか?といえば、前回にも書いたけど、人生や社会構造の本質は、煎じ詰めれば「気持ちいいか/悪いか」に分解できると思ってるからです。だから、快感や気持ち良さについては、僕、こだわりますよー。これ以上にこだわるべきテーマはこの世にないってくらいに思ってるから、そりゃうるさいですよ(笑)。
カッコつけたらダメ
さて、Mとは何か?を語る場合、カッコつけてたらダメだと思います。「俺には理解できんけどねー」とか防衛線張ってたら、実のある話にはなりませんね。やっぱ、こっ恥ずかしいけど、「実は、あれ、ちょっとドキドキした」とか正直でなきゃね。でも、そんなの中々言えないし、こんな不特定多数の前で実名晒して言えるような話題ではないかもしれません。でも、まあ、僕は気にしないけどね。てか気にはするけど、しちゃダメだと、俺ごときのクソ雑魚がカッコつけてどうする?って思うし。ところが、Wikiの記載とか見てると、本気でそう思ってるの?って言いたくなるような記述が書かれてて、上でいえば上昇快楽と下降快楽がごちゃまぜになってて、「なっとらん!」とか思っちゃうんですけど、これもやっぱカッコつけてるんじゃないの?心理学の議論なんかも、素人目にもカッコつけてるのと、つけてないのがあるような気がします。もっともらしいんだけど、もっともらしく「取り繕った」感があるような。世間の紳士淑女が安心して読めるようにコーティングしてるような。
そこへいくとフロイトなんかカッコつけてない極に振りきれてますよね。フロイト理論って、「なんだかんだいって、結局みんなオチンチンとおっぱいが大好きなんだよ、それっきゃ考えてねーんだよ」ということだと僕は理解してるのですが(専門家の方に背中から撃たれそうだが)、あそこまでカッコつけない、てかほとんどウケ狙いのあざとさじゃないの?とすら思えるくらい言っちゃうから、受けたと思うのですね。心理学者なんか今まで何十万人もいただろうけど、フロイトだけは誰でも知ってるビッグネーム。心理学界のジミヘンのような。それが合ってるかどうかは別問題ですけど、この種の話ってエンバラシング(カッコ悪い)ことを言わないと進まないように思います。それこそ2ちゃんレベルに赤裸々に。それを学問の場でやるってのは、なかなか大変だろうなーと思います。
Mの本質
で、僕が思うMとは、陰陽二元論、エロス(生成)とタナトス(破滅)、エントロピー(破壊)と非エントロピー(構築)でいえば、タナトス系・破壊系の快楽だと思います。自我崩壊の快楽です。自我なんか崩壊したらダメじゃないか、一大事じゃないか、よがってる場合じゃないだろうって普通なるんですけど、だから限定的に。だいたい、僕らが「これが私」と思ってる自我、自意識、アイデンティティって虚構性分が多いと思ってます。まず客観的にズレている。誰でも2−3割くらいは自分のことを脳内で美男美女に修正してるといいますよね。だからふとしたスナップ写真でアホ顔晒してたりしたら、即刻破棄!これは私じゃない!と焚書坑儒のように全力で否定に走ったりします。でもそこで全力で否定している分だけ自画像というのは客観的に間違っている。と同時に、主観的にも間違っている。意識レベルの下層領域、あるいは無意識では真逆な自己認識だったりもします。そこに人生の苦悩が宿る(笑)。もともとが間違った自意識で動いてるんですから、外界では思い通りにコトが進まず、内心では思ったほどモチベーションが上がらなかったり、意味不明な葛藤に苦しんだりするんでしょう。そりゃモトが間違ってるんだからしょーがないよね。
社会生活を営む場合、そんな真実の自分、ダメダメで、だらしなくて、嫉妬深くて、クソみたいな自分をそのままさらけ出して、「自分に正直に〜」とかやってたら一発でアウトでしょう。特に日本みたいな社会、厳しい「他人の視線センサー」が、最高軍事施設の赤外線センサーのように張り巡らされてる環境においては、それなりに「よそ行きの自我」を作らないといけない。「ペルソナ」ってやつです。「立派な私」「イケてる僕」「愛らしいワタシ」「酸いも甘いも噛み分けた大人な俺」とかを作らないといけない。それも高度に造形された「ちょっと抜けてて、馬鹿にされないけど親しみを感じさせる二枚目半の路線」とかさ、パブリックイメージの作り込みは中々芸が細かいです。それは自分にとっても好ましいことだからそんなに負荷はかからないけど、でも心のどっかで嘘ついてる感はあるだろうし、長いことそれをやってると疲れちゃう。特に、それがハイレベルで要求される立場(聖職、教職、エリート的立場とか立派であることが業務内容になってるような)では、そのギャップがきつくなるから、疲労も激しい。
やっぱ息抜きしたくなるよね。ストレス解消ってことで、どんちゃん騒ぎしたり、泥酔して無茶苦茶言ったり、DV的に他人に当たり散らしたりしてガス抜きをする。でももっと核心的な方法論としては、自我そのものを原子分解レベルに解体しちゃって、オーバーホールして、また再構築する荒業があります。それがマゾヒズムの本質だと僕は思います。ずーっと立泳ぎでカッコつけてやってるから、ときどき落ちるところまで落ちて、地に足がついて楽になりたいと。
いわゆる風俗的なMプレイというのは、ムチや蝋燭などの古典的なやりかた以上にあれこれあります(20-30通りはあるんじゃないかな)。てか、そんな古典、いまどき流行らないんじゃないの?もっと精神的な苦痛→快楽じゃないかな。もとが精神”療法”だもんで。いずれにせよ共通のするのは人格否定、尊厳の否定です。徹底的な自己否定であり、虚飾の剥奪。そこではエラく立派なワタシが、平民に突き落とされ、それどころか一般以下の奴隷扱いされ、さらには人間以下の家畜扱いされ、ひいてもモノやゴミ扱いされる。自分なんか無価値な人間なんだ、ゴミみたいな存在なんだってところまで落とされて、そう扱われると、そこでは一切の虚飾は許されないのと同時に、それをしなきゃいけない義務からも解放される。それが楽。ムチでも肉体的苦痛が→快感に転化というけど、省略しすぎだろ。ムチ打たれてもなすすべもない、ひたすら他人のお慈悲にすがるしかない、無力で、みじめな自分という、その情けなさを味わう→自我構築ストレスから開放されることが快楽になるだと思いますよ。
だから昔から高位高官とかハイステイタスの人にM比率が多いと言われます。ものすごい上昇志向は同時に多大な無理をも生みますからね。もっとも今は、昔のエリートさんが感じるくらいの虚飾疲労を普通の人も感じているだろうから(それだけ世間の要求値が上がってきて、地のままで振る舞うことが許されない社会になってるってこと)、誰でもあると思います。実際エロ風俗(小説やエロゲなども含めて)でいえば、最近に近づくにつれM系のエリアがどんどん増えていってますもん。リアルタイムには、世界の、少なくとも先進国においてはほぼ全員がM属性持ってると思います。後に述べますが、それがノンセクシャルなM世界の温床になってるような気もします。
複雑微妙でブラックボックスな性的回廊
性的嗜好としてのMは、こういった感情解放が性的快感とリンクする場合、回路が接続されて開通した場合に生じるのでしょう。もともと性的なものというのは、感情解放に親和性が強いです。「下半身に人格はない」と言われるように。ちょっと一般論に戻りますが、僕も未だによくわからないのですけど、人間は、どういう状況になったら「萌え」たり、「その気」になったり、いやらしい気分になるのか。難しく言えば(いう必要もないけど)、「人間の性的(周辺)領域の生成と範囲」は、やたら複雑で難しいです。でもそれだけに面白い。また、ここをある程度極めないと、いいお友達にはなれるけど、あと一歩が永遠に足りないままになってしまうという「実害」(笑)もあります。爽やかに快く始まるのは大事なんだけど、いつまでたっても爽やか路線のままだったら、独特の「あの雰囲気」にならない。どっかでレールの転轍のようにガッタンと路線を変え、スィッチを入れないといけないんだけど、そのタイミングと持って行き方がナンパ道の奥義でもあります。上手い人はほんと上手ですからねー。
交感神経系と副交感神経系
ところで、バリバリ活動型の交感神経系と、ゆったりリラックス型の副交感神経系って言いますよね。イケイケでテンパってる交感優位の局面では、腹も減らないし眠くもならない。でも交感が暴走してしまうことがよくある。緊張が解けなくなって、ピリピリしてて、眠れない、お腹もすかない、そして身体だけがどんどん消耗していくというよくないパターンです。一括パックで僕がよくいうのが、副交感重視であり、食の重視です。これは前にも何度か書いたから手短にすると、疲労状態なのに精神だけテンパってる状態でなんかやっても大体ダメだし、多くの場合、冷静な判断が出来なくなる。しっかり心をリラックスさせ、ぐっすり寝て、しっかり食べるという基本が大事。でも「リラックスしよー」と掛け声かけても無駄です。そんなんでリラックスできたら苦労いらないです。じゃあどうするの?といえば、無理やりでも食べるといいです。食べると胃液も出てくるし、身体全体が副交感に切り替わってくるから、精神的にも落ち着いてくる。不安事で最初は「今日、メシはちょっとでいいです」とか言ってたのに、いざ食べだしたら腹が減ってくるという経験は誰にでもあると思いますが、それです。だもんで、シェア探しの際には、ときどきサンドイッチとかおにぎりとか作って持たせるわけですよ。異国の地でテンパってると食べ損なうから。そうなるとてきめんに能率落ちますし、思わぬミス(携帯無くしたり、事故にあったり)もする。お守り持たせるよりも、オニギリ持たせたほうがリアルには効果がありますよ、いや真面目な話。で、エロい世界というのは、どっちかといえば副交感系です。緊張しまくってるときはそんなエロい気分にならない。てことは、逆に緊張を和らげようとすればエロい世界に入るといいってことでもあります。試験前に気が高ぶって眠れないとか、大事な出張商談を前に緊張して列車に揺られているときとか、妄想力全開で、思っきりエッチなこと考えるといいですよー。ただし、エロの全てが副交感かというと、盛り上がって「うおおお!」でガンガンSEXやってるときはアドレナリンの交感世界のような気もするから、良くわからないんですよね。だからエロは難しいし、交感でもあり副交感でもある”第三世界”のような気がして。
ブラックボックスとレシピー
で、何の話かというと、どういう要素によって「その気」になるか、そそるかというと、この心理回路がブラックボックスみたいで、よう分からんのです。裸体の露出があればいいってもんでもないんですよね。ヌーディストクラブみたいに、太陽の下で健康的にどうだー!みたいにやられるとあんまりソソらない、でも露出度はそれよりも低いはずの着エロの方がそそるとか、もっと露出度の低い和服の襟足とかふくらはぎがツボにはまってしまうとか。チラリズムとかいろいろ言われますが、それは単に身体露出に関することだけで、他にもシチュ的に萌えたり萌えなかったりもする。「さあ、一発いこか〜」とかガンガン迫られると萎えてしまうとかさ(笑)。人類の文化の半分くらいはこの不思議なレシピーだという気もしますね。特にファッションとかアートとかそうで、エロさは魅力につながりますから、エロい部分も当然出す。コルセットで拷問のようにしめあげて腰のくびれを演出し、首筋から肩の肌を露出させてとか、タイトな着衣で自然な動きに巧まざるエロを感じさせたり。かといってエロばっかじゃダメなわけで、シックだったり、エレガントだったり、可愛らしさであったり、ノーブルでイノセントな感じだったり、複数の要素を掛けあわせて絶妙なレシピーをみつけていくという。
Mの話に戻りますが、苦痛で屈辱で不愉快でしか無いものが、ある瞬間にスイッチが切り替わって性的快感に繋がるのでしょう。あれこれやられているうちに、最初は「ちくしょー、いい気になりやがって、いつか殺してやる」とか恨みギラギラだったのが、だんだん「これっていいかも」と「目覚める」という(笑)。これを専門用語(笑)で、「マゾ堕ち」とか言うらしのですが、でもねー、リアルな世界では、こんなマンガみたいに一直線になるのは珍しいでしょ。
いわゆるマゾ堕ちの難しさ
やっぱ性的回路が繋がるには繋がるだけのブラックボックス的な「なにか」がいるんだと思います。職場でイジメられているうちにマゾになっちゃいましたってことは、あんまりないと思います。普通によくあるのが、普通にセックスしてて、そこからバリエーション的に変化してって、あ、これ気持ちいいかも的なものですね。受け身の快感、やってもらう快感みたいなところが段々追求され、拡大していくとか。オマセな小学生だったころ、憧れの先生がいて、その先生に怒られる。それも職員室や別室に連れて行かれて密室で二人きりになる。そうなると普段とは違った一個の女(男)としての先生がすごいリアルな実在感をもって迫ってきたり、その肉体性にそそられたり、だからドキドキしちゃって、でも状況的には叱られてて、それがまぜこぜになって、ああもっと叱って〜という(笑)。要はもっと構って、もっと近づいて親密になって、もっと好きにしてって感情に近いんだろうな。
はたまた、イケナイことをしている、あってはならないことが起きてしまうというハラハラドキドキ感が性的快感のスィッチを押すとか。これは露出系にそうですけど。ほかにも結構誰にでもあると思うけど、幼少期に見たテレビとかで、正義の味方やお姫様が悪者に捕まって縛られてしまって、ああ大変だ、どんなヒドイことされちゃうんだ〜とかドキドキして、そのヒドイことを自分で妄想して自分で盛り上がって、それが「ヰタ・セクスアリス」な目覚めになってとか。
でも、「快楽道」でいえば、ものすごーく複雑微妙なレシピーとダンドリがいると思います。そんなボコったら皆Mになるとか粗雑な話じゃないっすよ。リアルには、ごく普通のセックスの遊びの変化くらいでしかないでしょう。あとは相手不在の個人レベルの妄想とかそのあたりで、実際に相手もいてそれでなんか降臨してくる不思議な磁場を作るってのは、すごーく難しいと思います。その種のものって、か細いケモノミチみたいな快楽回路で、ちょっとでも何かがズレるとどっちらけてしまってトリップ出来ない。そのケモノミチを何度も通って道路に拡幅して、さらにバイパス高速道路みたいにしてる人は違うんでしょうけど(いわゆる「筋金入り」)、なかなかそこまでの達人レベルにはなれないっすよ。だもんで、プロのSM嬢とか縄師さん、調教師さんとか、すごい技術を持ってるんだと思います。尊敬するわー。あれって一種のカウンセリングだしね。
やっぱ「萌えの神秘」というのは、過去のトラウマがどうの、無意識の世界のなにかにコネクトしてとか、ブラックボックス的だと思います。フェティシズムなんかもそうですが、制服萌えとか、姉萌えとかそのくらいはわかるけど、もっと微妙な「白い手袋萌え」とか「ストッキングの電線萌え」とかさ、「よくぞ見つけた!」と言いたくなるくらいの、個人個人になんかあるんでしょう。過去の「気持ちいいトラウマ」みたいなこと。例えば、子供の頃の遠足で、やたらエッチな感じがするお姉さんがバスガイドで乗ってて、妙なモンモン気分になってて、それが原型。そしてその象徴としてそのお姉さんがはめていた白い手袋が目に焼きついて、脳内で記号化され、拡張子の関連づけみたいに、あとでそれを見ると自動的にモンモン気分が立ち上がってくるという。
そして一旦コネクトした快楽回路というのは、ヤバいクレジット通販会社のように、解約しても切れてくれない。どんな物事に萌えるか、萌えの自由は国民の基本的人権だと思うので人それぞれでしょうけど、出来るなら社会生活上支障の少ないものがいいですよね。犯罪心理学でも、放火犯と万引き犯は、精神的快楽によって引き起こされるものだから経済事情や怨恨とは関係ない。だから捜査でも「鑑取り」がやりにくくて難しいと言われてます。でもねー、エクスタシーに達するために、いちいち他人の家を燃やさなきゃいけないようでは、世間も迷惑だし、本人の人生も大変です。手袋あたりがいいんじゃないっすかねー、安上がりだし(笑)。
M的な周辺世界〜ノンセクシャルなM
ところで、「セクシャルではないM」というのが沢山あると思います。人間社会の秩序って、基本コレじゃない?って思うくらいに。M快楽の本質は、自分で自分を成り立たせなくても良いという楽ちんなところにあります。自分のことを全部自分で成り立たせようと思うと大変ですよー。なぜそうするのか、なぜそう思うのか、全部自分で考えて、自分なりの価値判断を下して、自分で実行する。僕はそういうのが趣味なB型気質、あるいはAPLACを面白いと思う人の共通属性でもあると思うのですが、自分で考えて自分で決めたいという意向が強い。自分の納得というのを大事にしたいタイプの人です。多くは子供のころから理屈っぽいとか、頑固だとか言われていたでしょう(それを表出するか抑圧するかは人それぞれだが)。そういう人は、自分を成り立たせることにそれほど負荷を感じないかもしれないけど、そうではない人のほうが比率としては多いと思います。
そんないちいち全部自分で考えて決めるなんて面倒くさいわ、それが合ってるという自信もないし、恐いわと。それがマジョリティなんじゃないかな。じゃあ自分で決めないでどうするのよ?といえば、当然「他人に決めてもらう」「それに従う」わけです。楽ですよね〜。
これは日常レベルでもそうで、何かを上達しようという場合でも、自分であれこれ模索して、山にこもって瞑想して、修行法を苦労して、、ってのは大変です。やっぱ学校や教室に通って、「はい、じゃ次はこれでーす」とか合理的カリキュラムのもとに指示されたとおりやってた方が全然楽です。社会人としての作法なんかも、先輩上司にあれこれ言われて矯正されたほうが心理的にはちょっとツライけど、でも自分で全部発見して直していくことに比べたらまだしも楽。
で、前回のプライド話でも「○○だからイケてる俺」という納得感を得るためにも、他人の尺度を流用した方が楽です。世間ではエリートと呼ばれている部落に入った、だから俺もエリートだ、大したもんなんだって思ってるのは楽ですよ。これ100%自前でやるのは大変ですよ。てか無理。「俺はスゴイ!」と無理やり思おうとしても、でも自分が駄目駄目なことは自分が一番知ってますからね。すごい俺!とか思った瞬間、輪唱にように覆いかぶさってくるのは、過去の走馬灯歴史における卑怯な俺、しょーもない嘘をついてた俺、他人を裏切ってる俺、ドン臭い俺、みじめな俺、、、これでもかって出てきますからね。到底、エリートだあ!とか脳天気に思えないすよ。自家培養でいい気分になれるのは、誇大妄想狂くらいに突き抜けないと。これに比べれば、形式的な他人の基準でいい気分になるのはすごい簡単。○○試験に合格したからエリートなんだと思ってりゃいんだから、超お手軽。だからハマるんだろうなー。
世界観テンプレの被支配の快楽
更に進んで是非善悪の基本的な価値観とか世界観とかも他人に作ってもらった「出来合いのもの」をテンプレ式に利用したほうが楽です。世間でこれがカッコいいと言われてるからカッコいいんだとか、世の中こうなってると言われてるからそうなんだ、それが人の道として優れていると言われてるから、、、という具合に。これってMじゃんって思うのですよ。自分自身の支配権の一部ないし全部を他人に譲り渡すんだから。それは支配されて楽になること=「被支配の安らぎ」であり、その延長線上に「奴隷の幸福」がある。Mプレイ快楽のポイントは、「あなたは難しいことは何〜にも考えなくていいのよ。ただただご主人様の命令の通り、忠実なペット、可愛い奴隷ちゃんになるのよ。ご主人様の前で恥ずかしこと沢山されて、でもと〜っても気持ち良くしてもらって、情けない姿をぜ〜んぶ見てもらって、どんどんしあわせになろうね〜」とか言われてトロトロになっちゃうという(笑)。赤ちゃんプレイなんか典型的だけど。それと同じじゃんって。
封建社会の身分制、強烈な宗教世界、そして社畜と呼ばれる苛烈な企業カルチャー、軍国主義やファシズム、武士道でも騎士道でもなんでも、僕からしたら全部「M」入ってます。一種の人格(個性)否定をすると同時に、その報酬として強烈なプライド(自我を成り立たせる松葉杖みたいな)やら快楽を与えてもらえるという構造においては相似形だと思います。
主君、神様、会社、国家を絶対的なものとしておいて、それに身命を捧げる。絶対的で究極的な価値をまず想定し、そこに全身全霊のdevotion(献身・奉仕)をすることで、その絶対価値とつながり、自らの絶対的なGPS位置を確保する。そこまでいけたら、自分の居場所は、これまた絶対的に保障されるわけですから、人生上のなんだかんだの悩みも少ないでしょう。戦前の軍国主義教育なんか、笑っちゃうくらいマゾ調教であって、まず徹底的な自我否定から入ります。具体的な個性も価値観も持っているパーソナルな個人の属性をぶっ潰して、「臣民」「天皇陛下の赤子」として置く。お前の肉体も精神もお前のものじゃないのよ、国家(陛下)のものとして再定義し、それに誇りを持てとかいう。なんでそんなもんが誇りなのよといえば、そもそも日本民族はエリートだからだと決めつける。論証抜きのトンデモ強弁なんだけど、でもそれって気持ちいいから皆酔いたがる。ヒトラーのアーリア民族がどうと同じ。そしてその価値観に殉じたものを国家的にヒーローに祭り上げ、強烈な自己顕示の快感という「ご褒美快楽」を与える。で、「喜んで死ね」と。すごいな〜、マゾとかいうレベルを通り越してます。
価値観世界のインストールと快楽報酬
で、それになんで従っちゃうかといえば、逆らうことも恐怖感ももちろんあったんでしょうけど、それだけじゃないです。やっぱ楽だし、気持ちいいからなんだと思いますよ。よく考えたらヘンテコな理屈であろうが、なんであろうが、周囲から偉い!と絶賛され、褒められたら、そりゃ悪い気はしないもんさ。もっと頑張っちゃおうかな〜とか思って、おーしこうなったら敵を一人でも多くぶっ殺して沢山褒められたいよなーとかになる。快楽回路を強制的に作られてしまう。そこでは敵っていうけど、会ったこともない人間がなんで敵なの?敵ってなによ?殺し合い以外にもっと生産的な解決方法はないの?というごく当然の疑問も出てこなくなる。人間の世界観や価値観なんか、広そうに見えておっそろしく狭いから、周囲の3人くらいに「すごいぞ!」「よくやった!」「さすが!」とか激賞されたら他愛なくそっちにフラフラ行くもんでしょ。子供が悪いグループに入るのをなんで親が心配するかというと、そこでは万引きした仲間がヒーロー視されたり、誰かを激しく虐めた奴、キレて半殺しにするような悪性の高いことがむしろカッコいいこと、素晴らしいことって価値付けされてて、それに染まるからだと思います。朱に交われば赤くなるというのは本当ですよ。この種の快楽統治は政治学でも出てくると思います。他人を意のままに使うのはプライドを与えたり、くすぐったりするのが一番安上がりで、一番簡単ですからね。織田信長が、部下達を鼓舞するにあたっても、銘品といわれる茶器を譲ったり、朱傘を使う特権を与えたりして、でも肝心な領土に関してはめっちゃケチ。全然与えない。管轄地域というタスクとしては与えるけど、私有財産としては与えない。人は名誉によって簡単に生きたり死んだりするものだとしたら、名誉を作ればいい、そして名誉を生み出す根本的な価値体系や世界観を作ってしまえばいい。それを押し付ければいいけど、単に押し付けるだけなら反発食らうから、押し付けると同時に快楽も与えるといい。上手なやり方ですよね。
もっと言えば、滅私奉公的な自己再定義と快楽報酬、それによる奴隷化というのは、さらに一層巧妙だと思います。それはファシズムだろうが、社畜文化であろうが、部分的には人間本来の美徳に合致するからです。利他精神であるとか、他者との信頼を大事にするとか、誤魔化さないで誠実に取り組むとか、目標を定めて頑張る達成感であるとか、ひとつひとつは正しく人間の美徳と呼ばれているものに合致します。だからこそハメられる。大きなところで大きく歪んでるんだけど、大きすぎて気づきにくい。ブラック企業で、やりがいを搾取してるのも同じです。人を養殖場の魚のようなところに泳がせて、なんだかんだ言って人間の本来持ってる美徳や善性を搾取する。養鶏場の卵のように。そのフォーマットの悪辣さですね。
ずっと前のエッセイで「インチキ人の道」で紹介しましたが、ヤクザの脅し文句って、ぱっと聞いただけでは道徳の教科書みたいなこと言うんですよ。絶対に反論できないような美徳を並べる。サラ金の取り立てでも「借りたお金を返す、約束を守るってのは人として当然のことちゃいますか?約束破ってもええの?いやあ、あなた立派な人だから、間違ってもそんなこと思いませんわね?」、交通事故の示談なんかでも「人としての誠意を見せて欲しいってゆうてるんですわ」とか。とにかく「誠意」って言葉が便利使いされてて、「もっと金出せ」って意味なんだけど、そうは言わない。それは違法な労働条件を押し付けておきながら、「社会の厳しさ」「仕事の責任感」にすり替えるのも同じ。
M的相似性
こういった構造というのは、全然セクシャルではないんだけど、マゾヒスティックな心理傾向と呼応すると思います。それに染まって、自分の支配権を譲り渡してしまうと楽なんですよね。自分が何者かというアイデンティティも与えられ、何をすればいいかも全部指示され、教えられ、その通りやったら褒められる。同時に、お前は誇り高い皇軍兵士とか、伝統あるわが校のとか、由緒正しい栄光の○○のそのまた精鋭だとか、神の御心を正確に理解している数少ない使徒であるとか、とにかくプライドや居場所だけはふんだんに与えてもらえる。これってSMプレイで、「今日はいい奴隷ちゃんでいたから、ご褒美あげるわね」とかやってるのと何処が違うんじゃって気もします。逆に何が同じかといえば、「自律管理の放棄」であり、その放棄による快楽であり、さらに快楽を他人から投げ与えてもらっている部分です。まあ違う部分でいえば、SMプレイでやる下降快楽、徹底的な自己否定と虚飾の剥奪部分ですけど、でも、これもありますよ。新興宗教なんかでも、最初は人格崩壊するくらいボロカス言われるところもあるというし、「フルメタル・ジャケット」という映画に出てくるアメリカ海兵隊の新人教育でも「お前らはゴミだ、カスだ」と徹底的に自我否定をされる、新入社員教育でも似たようなことあったりするでしょ?そりゃ実力がないんだからボロカス言われても仕方ないんだけど、それを超えるような形で行われる。セクシャルなプレイと違って、そこには全然快楽は伴わないんだけど、一回それをしてしまったあとの自我再構築、与えられたアイデンティティ、与えられる快楽って意味では同じ。
そうかといって、何から何まで全部自分で支えていくのはしんどい作業でもあります。西欧人、というか日本人以外の地球人って言ってもいいかもしれないけど、わりと自己を強く持ってて、主張もするし、自律意識は強い。何に価値を置くか、どうやって生きていきたいかについては、比較的明瞭にスラスラ答えられる人が多い。日頃から考えて、自律してるからだと思います。なんでそんなに頑張れちゃうの?といえば、しんどい部分は宗教によって安らいでるからかもしれないです。これは推測でしかないし、本当のところはわからないんだけど、ちっぽけな自分が神様という超越的な存在と対峙し、しかしそれでもちゃんと見守られ、いいようにしてくれると考えることは、M的ではあるんだけど、大きな安息になるんだと思います。人類の90%以上が何らかの意味で神を措定しているという事実は、この現実世界の理不尽さやハードさは、自分一人でマネージするには人間精神のキャパを超えるのかもしれません。ときどきそれを肩代わりしてくれる、依存的な構造も部分的には必要であり、それが宗教という形になってるのかも。で、日本の場合は宗教的救済は少ないのだけど、その部分、大きな世間とか組織とかに帰依して自分を位置づけて貰うということになるのかもしれない。ま、推測ですが。
さらに憶測を逞しくすれば、フロイト(again!)でいうスーパーエゴ(超自我)みたいな、自分を抑えつける存在を観念しないと、自我(エゴ)がどこまでも増長してしまって収拾がつかなくなるってこともあるかもしれません。この辺りの話は、森羅万象・全世界において、自分をどのあたりに位置づけておくと収まりが良いかって問題なのでしょうか。考えていくと果てしなくなりそう。
さらに同じワンコ。
ちなみにこの入江のことを"Tarban Creek"、見えている橋のことを”Tarban Creek Bridge”というらしいです。もう何百回も通ってる橋なんだけど、初めて知った。
ちなみにこの入江のことを"Tarban Creek"、見えている橋のことを”Tarban Creek Bridge”というらしいです。もう何百回も通ってる橋なんだけど、初めて知った。
洗脳快感よりもしっくり快感値の方が高い
いわゆる洗脳というのは、価値観や世界観のインストールです。それを受け入れるかどうかは、そこにどれだけ快感を感じるかによって決まるのかもしれません。僕の場合は、自分で考えた「しっくり快感」が結構ツボなんで、右から左に出来合いの価値観をインストールされたりすると、むっちゃ腹が立つ。というか、「なんでそうなの?」とかいちいち考えて検証したくなるのですね。それって別に偉いとか正しいとかいう問題じゃなくて、そこで気持ちよくなりたいからです。納得する快感が強いから、それに比べたら与えられた「エリート」「誇り高き」的快感は、相対的にしょぼいんです。「あっそう」「ふーん」くらいの感じで盛り上がらない。そこで盛り上がれるくらいだったら、オーストラリアなんか来なかったと思いますよ。そういえばフラッシュバックのように蘇った高校時代の記憶があります。朝礼で校長先生が「君たちはエリートなんだ」とか口走ったから、皆でどっちらけてしまったことがありました。今なら分かるんだけど、校長さんの言いたかったのは、それなりに自覚をもってもっと自分を大切にしなさいよってことだと思うのですよ。一応進学校だったもんで、それなりに国家社会を背負って立つとかそういう気概や責任感を持てと、まっとーなことだとは思うんだけど。でもね、進学校に進んだからといって、本当のところはこんなクソ偏差値輪切りの教育制度を素晴らしいとは誰も思ってないわけですよ。もともと自由の気風が強い反骨的な校風だったこともあるし、だからエリートだとか言われても「けっ」としか思えなかったです。だからちょっと殺気立つくらい険悪な空気になったんだけど、それを和らげたのは、僕らの兄貴分くらいの若い先生で、イケメンでもあるし気持ちいい人だったから男女問わず人気あったんですけど、その先生がマイクで、「校長先生のおっしゃったとおり、お前らはエリートなんだ。下町のな。」と付け加えて爆笑になったという。
このエピソードが何を意味するのかというと、洗脳するのも難しい、とくに我の強い連中には洗脳は難しいってことです。そんな頭ごなしにエリートとか言われて舞い上がれるもんでもないですよ。上の例では「下町の」と付け加えることで、しょせんは庶民なんだよ、大したこたあないんだよって含意を与えて中和してます。それが皆にもわかったから好意的な笑いになったんですけどね。それなりに納得出来ないと洗脳なんかされない。
また納得するための要求水準が高い人と低い人がいるでしょうね。「我が強い」人は、我が強い分だけ自分で自分で成り立たせることに慣れている(てか自分でやらないと気がすまないんだから)、自我の成立のための出来合いのテンプレ(洗脳なり、社会構造としてのM性)をそれほど必要とはしないんだろうなとも思います。
文責:田村