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今週の一枚(2015/12/28)



Essay 754:年末閑話

〜今年を振り返れない、とか
〜やっぱり「清水」が好き、とか

 写真は、シドニーシティのハイドパーク。どこから撮ったんだといえば、シドニーの裁判所からです。
 詳しくはFacebook Pageのココを参照。
 なんとなくNYとセントラルパークみたいな絵柄ですけど、あっちの方がビルも公園もスケールでかいです。シドニーの方はこじんまり〜って感じ。

「今年」を振り返れない


 ふと気づいたら今日は日曜日でした。エッセイなんも書いてません。やばいです。
 なんでかな〜と思ったら、金土がクリスマス&ボクシングデーで、元旦と2日みたいな感じがするから、ここで曜日感覚がぐちゃぐちゃになってしまったのでしょう。

 それはともかく、何か書こ。

 よく年末になると「今年一年を振り返って」みたいな話になるのですが、僕はわりとああいうの苦手で。「今年一年」といわれても、過去の記憶のうち「どこから」が「今年」なのかよく分からなくて。「今年って言われても、、、」と愚鈍な表情を浮かべてしまうわけです。馬鹿なの?というと、はいそうなんですけど、他にも理由がいくつかあります。

 一つは、どうも僕には、人よりもカレンダー的なアニバーサリー感覚が薄いという点です。カレンダー単位でもの考えてないんですよね、最初から。自分の誕生日もほとんどなんの感慨もないし、他人の誕生日もおよそ覚えないです。カミさんの誕生日もうっかりするとすぐ忘れてしまうから怒られるのですが、親兄弟の誕生日すらろくに覚えてないです。同じようになんたら記念日とか、命日であるとか、そういうサイクリカルなものにあんまり興味がもてないです。

 個別に意味のあることだったら結構キッチリ覚えられますよ。何日にビザが切れるからとか、事件があったのが○月○日○曜日の午後○時だから、多分まだ日が高かっただろうとか、だからどうのとか個別に意味性があるカレンダー的なものはよく覚えられる。また、支払期限がいつまでだとか、完済まで何年だからというの年単位の計算も出来る。

 でも、誕生日にそこまでの意味性を感じることが出来ない。多分僕は占いなどに傾倒しないタイプで、何月生まれの人の運命は〜とか、生まれた日時時刻でなにかが決まるということに生理的に納得してないんだと思います。と同時に納得出来ないことはガン無視するという、クソ我儘な性格がそれにプラスされるという。

 意味を感じないという意味では年齢なんかもそうで、いっとき自分の年齢をカン違いして一つ多めにカウントしてて、「○歳です」とか結果的に逆サバ読んでた時期がしばらくありました。加齢による老化とか、なんたら受給年齢とか意味性があればいいんですけど、ただの年齢だけだったら、中古不動産の「築○年」くらいに大雑把にわかればいいやって。だから他人の年齢にも興味なくて、何度聞いても忘れる(笑)。

 ということで、話が逸れ気味ですけど、カレンダー的に「今年の」といっても、その1月1日から始まるということの意味がよくわからないのですね。どっかに境界杭を打って「ここからここまで」ってブロック分けして、区画整理しないと話が進まないというのは分かるのですが、それは統計とか経営やマーケなら意味ありますけど、漠然と普通に生きてるときに、そんな意味性ないと思います。だから年末も新年もほとんど意味感じてないです。

 そんなことよりも、過去を振り返るなら、「○○という観点」で振り返り、大きなまとまりのある意味ブロックを考えた方がいいじゃんって思う。例えば、このあたりまでは序盤戦で、ここから中盤になって中押しがあったり中だるみがあったり、、って、そういう分析的、ストーリー的な意味で見ていったほうが良くて、単に西暦○年ですとかそういう区分けに意味あんのか?といえば、僕にはあまり感じない。

 さっそく長くなっちゃった。いま言ったのが一つで、他には、仕事柄そんなに年周期で変わるものではないこともあります。農業とかだったらクッキリした時期の違い=仕事内容の違いがあるからいいんですけど、僕の仕事は基本一週間サイクルの初動サポートですから、年間通じてそんなにやること変わらないです。だから今年〜という年単位の発想になりにくい。あるいは、オーストラリア(シドニー)の気候そのものが、秋と春の二季しかなく、毎日コロコロ変わるので、季節感がなく、それもまた年間単位の発想を妨げてる部分はあると思います。厳しい北国の冬とかだったら、雪解けとか春の訪れはうれしいでしょうから意味もあろうし、記憶にも残るでしょうけどね。

 ということで何を言ってるかというと、「今年を振り返れない」という話でした。そんなこといわれても、始点がようわからんし、そこを始点にする意味も特にないし、、って。


ビル側を見ると、摩天楼が。なんとなくマトリクスみたいなSF映画的な。
あ、マトリクスの1はシドニーで撮ってるから、住んでる人なら「あ、あそこだ」ってすぐわかると思います。MIP2に至っては全編シドニー観光!ってくらいです。

自分的な流れ

はじめました

 それでも強引に振り返ってみると、それも半径ゼロメートルの自分のこと=このAPLACに関して振り返ってみると、やっぱり掲示板やら、オフ会やら、Facebook Pageやらを始めたことでしょう。それも単に「おでん始めました」的なノリではなく、大きな流れにおける必然というか、意図はあります。

 これまではですね、オーストラリアいいよー、いろいろ人生のヒントもチャンスもあるよー、とりあえず俺は楽しいよってことを発信し、その一環としてひょんなことから始まった語学学校への紹介エージェントを始めた。でも、それでは足りない、行けばいいってもんじゃないなということで一括サポートというスターター・キットみたいなものも始めて、「もっとイケるよ」って皆が本来持っているポテンシャルを顕在化させるような営みをしてます。

 ところがここ数年、それでも足りないという気分になるのは、何度も述べている日本と世界の変化です。それまでは「あー、面白かった」と栄養たっぷりの遠足をやって、帰国後に日本で頑張ってもらえたらそれで良かったんですけど、だんだん「日本で頑張る」こと自体が難しくなってきた。

 仕事というのはあれば良いってもんじゃなくて、それによってある程度余裕のある生活ができること、その仕事を通じてなにか(社会)人して大事なことを学べること、この条件が揃ってはじめて「仕事」といえると思うのです。でもだんだん条件が揃わなくなってきた。ここで「そんな贅沢な」「選ばなければ何でもある」という向きもあるのですけど、最低限そのくらいは選べてこその先進国じゃないんですか?

 「選ぶ」というのはどのレベルで選ぶかという程度概念と強くリンクしているわけですよ。そもそも「選ぶな」=「ワガママ言うな」ってことでしょ?だからどのレベルでワガママ言ってるかです。まるで無能だけど月給300万以上じゃなきゃイヤだというレベルで言ってるのか、もう女郎か追い剥ぎになるしかないってレベルで言ってるのか、それによってそれが「選ぶ」「ワガママ」なのかが決まる。でも、そのリンクを取っ払って一律に言うというのは、いわゆる言葉の一人歩きです。言葉というのは夜道と同じで「一人歩き」には気をつけよう。

 でもって、そんなレベルで「選ばなければ〜」が出てくるようでは話にならんのですよ。それは食うや食わずの発展途上国のレベルの話で、しかも発展途上国の場合は、まさに「発展途上」というのが大きな救いになる。今はしんどいけどここさえ踏ん張ればあとはどんどん良くなるという希望がある。でも、現時点での将来予測をみると、そんな力強い話でもない。

顧客層が変わる

 そうなると僕の近辺で何が変わるかというと、一つには顧客層です。これまでは 海外だあ!って好きな人が来てたわけですし、それでいいんですけど、ここ数年は、これまでは来なかったであろう層も増えてきました。22年前の僕と同じく、日本でそれなりにポジションにいて、それらを捨てていく必要なんか全然ない人が、必要に迫られ、あるいは本能的な危機感でこっちに来るという。パナソニックとか東芝あたりでキャリア10年以上でバリバリやってて、本来だったらMBAでも取りにアメリカ行くような人が、こっちに来るようになった。

 東芝の方が、先日おっしゃってましたが、つい最近日本に一時帰国して古巣の職場に挨拶にいったら(1万人リストラとかが発表される直前)社内ではぜーんぜん危機感がなくて、「大丈夫だよ〜」とのほほんとしていたらしい。まあ、その殿様的なゆったりしたところが東芝さんの良さなんですけど、しかしね、直前ですらそれかよ?本能的な危機感っていうのは、ここまで見事に摩耗するんだな〜と、改めてそれがショックで。

 でもまだ危機感のある人は他にも人生の選択肢を広げるでしょう。その一つとしての海外もあり、そのなかでも総合的にみて世界で一番カントリーリスクの低いオーストラリアを考えるのは、まあ当然でしょう。22年前の何も知らないネンネの僕でさえ調べていって消去法で消していったら残ったくらいですから。

ギャップが激しくなる

 その意味では、商売繁盛になりそうなんですけど(笑)、過渡期というのは辛いもので、それまでの顧客層が退潮する。これが第二の変化です。なぜなら、そんなに気楽に来れなくなってきていますからね。オーストラリアの物価は、日本のタバコの値段みたいなもので、ついこないだまで240円とかいってたのが、いつのまにか400円以上になっているみたいな感じです。それでも国内的には、賃金も比例して上がってるので帳尻は合うんだけど、でも初動の資金ハードルがどんどん上がってくる。初動さえクリアすれば、ジャパレスも週1ペースで店が増えるというありえないような好環境になってるので、あとは楽なんですけどね。

 大体ですね、国民の3割だか4割が貯金ゼロかその周辺(試算の仕方にもよるが)とかいってる状況で、渡豪資金もクソもないでしょう。また、その資金そのものが年々上がってきているわけですから、今でこれなら10年後はどうなるんだ?って。今のレートなら70万持ってくればなんとかしてあげられるますけど(これは世間平均で言われている額の3分の1くらいの路線ですが、やり方を極めればそこまでいけるという線)、多分5年後は90万くらいになるかな、10年後は120万くらいかな。一方、それだけ貯めるというのが年々難しくもなるだろうし、また、どんなに仕事に不満があっても収入の術を捨てるのが年々恐くもなるだろうと。

 以上は別に「今年」に限ったことではなく、長いトレンドとしての話です。

個人の「資源」の増大化と有効活用

 でもって、掲示板やらオフがそれにどう関係するのか?といえば、今こそ、そしてこれから、益々個人レベルでの「生きるための資源」を増やしておいた方が良いという点に関係します。

 なんせ従来の資源がだんだんヤバそうだし。つまり、勤務先もどうなるかわからない、職場があってもブラック化が薄く広く広がってるとか、年金も保険もそのときになったらコケてましたとか、資産も暴落リスクがあり、国が助けてくれるのかといえば逆に相続税やらなんやらでむしろ奪う側に廻るとか。そうなると、それ以外の方法、海外顧客をゲットしてそこから新鮮な果汁を吸うという方法論であったり、今自分がもっている全てのものを再点検して使えそうなものをリメイクして副業化するとか、そういう発想ですね。

 その中で、日頃あんまり言えないような人生戦略上の話などを構えること無く言える相手というのは大きな「資源」になります。そのレベルで噛み合ってる人や仲間というのは、何をするにあたっても力になってくれる可能性もある。また、自分が力を貸していくなから、やりがいや歓びを感じたり、自ずと方向性が見えてきたりと。いずれにせよ、ジャングルをマチュート(山刀)でばっさばっさとかき分けて進むような話であり、心細いったらありゃしないです。こんなの一人でやってたら遭難しまっせ。

オストリッチ症候群とストックホルム症候群

 この精神的効用というのは、負けが込んできて落ち目になってきた状況ではかなり価値があります。なぜなら、ヤバくなってくると人間の世界観って狂いますから。感情にドライブされて理性的な状況判断が出来なくなる。これといった打開策が見つからない場合、つまりほっておけばイヤな未来がやってくるという死刑執行前みたいな状況の場合、心理学的に人はどうするかといえば、まあ現実否定、現実逃避をするでしょう。そんなことないよ、大丈夫だよという。死刑のことなんか忘れようと、思い過ごしだよと。オストリッチ症候群です。

 もう一つは、ストックホルム症候群と言われるものに近いような気がするのですが、積極的に現状肯定するようにします。ストックホルム症候群とは犯人の人質になって長期間過ごした人達は、ナチュラルに犯人に好意を抱き、事件後もそんなに悪い人達じゃないよ、いい人達だよと逆弁護する。まあ、リアルに接して人間的魅力を垣間見るって側面もあるんでしょうが、それだけではなく、人間は絶望的な圧政下においては、本来は憎い敵である筈の人や状況について、積極的に肯定しようとする。そうすることによって、そんなに悪い状況じゃないよ、悲惨な話になってるわけじゃないよと思ってバランスを取りたいのでしょうね。大きな圧制者→被抑圧者という構図を忘れてしまう、忘れたい一心でそうする。会社人間になるとか、ファシズム社会における熱心な愛国者とかもそうでしょう。そうでもしないと、人間の精神は壊れてしまいますから。これは帝王学の基本なんかもしれないけど、ちょっと圧制的にやると下の人間は不満をぶちまけるけど、一定レベルを越えて暴力的に完全支配すると人はむしろ積極的に迎合してくれる、自らすすんで支配されたがるという機微です。だから北朝鮮みたいな国も成立するし、長いこと封建社会なんかも成立していた。余談ですけど。

 楽天性やポジティブな視点というのは大事ですけど、大きな状況判断が出来なくなったら意味無いです。そういう悲惨な状況でも、悲惨さを体験するというのはまた一つの人間経験になるんだよというポジはいいです。ダメなものをダメだと認識できているから。でも、ダメなものを良いように思えてきたら、ああ、もう狂ってきたなということであかんでしょ。

 さらに、日本においては嫉妬=正義みたいなところがあって、自分よりも良くなろうとする人の足を引っ張ろうとする人が出てくる。「そんなことしたって無駄だよ」「自分ばっかり、ずるい」とか冷水をかけたり。あるいは毀誉褒貶が激しくなる。凄いと思ったらカリスマ的に崇拝してあやかりたいと依存し、ちょっとダメだと徹底的に叩く。自分よりも下がいることで安心したいのでね。

 こういう環境は、自分で未来を切り開こうという人にとってはアゲインストな環境なのは言うまでもないでしょ。こっちだって不安でいっぱいなのに、それを精一杯の勇気でなんとかしようとしているのに、無駄に不安を増幅させられたり、やっとの思いでつけた種火にじゅっと水をかけられたらやってらんないですよ。

 だもんで、そういう懸念のない人、いちいち気を使って喋らなくてもいい人、言いたいことを気持よくストレートに言える人、さらには自分よりももっと生産的で実現可能な方法を考えられる人、それを実行できる人、また実際にも実行している人、というのは値千金なんです。

 前にも書いたけど、以前司法試験受験時代に聞いた話ですが、京大のなかには(どこでもそうだが)私的な勉強ブループがいます。数名の気のあった集まりで一緒にゼミやったり、メシ食ったり、情報交換したりします。で、面白くも慄然とするのは、合格するグループは数年差のタイムラグはあれども全員合格する、いっぽうダメなグループにいると全員不合格になって結局一人も合格しないという冷酷な事実です。うわー、こえー!って受験時代の僕は思いましたね。だからマジに夢を叶えられるような連中の近くにいないとダメなんだって。そうでない人達の中にいると、そういうもんかって気分になるし、彼らよりもちょっと出来るだけですごく出来たような気になるという。でも、合格・不合格っていっても、当時の激烈競争の時代ですから、客観的にはほんの微差でしかないんですよ。でも結果は天国と地獄になる。なぜかというと、一つ一つの過程の徹底度とか、厳しさがほんの少し甘いからでしょう。ボーダーが100だとしたら98くらいまではやるんだけど、2点足りない。でもその2点を埋めていくのは、精神的にかなり辛いです。成功する集団というのは、最初から105点とか110点目線でやりますから、98位だったら全然ダメじゃんってダメ出しされるのです。その差です。


法廷の向こうにはNorth Shoreの住宅街が見えます。

 長くなっちゃったけど、とまあ、そういうことで、その種の知り合う場があればいいな、ベースが同じだから会えば世間よりも遥かに高い確率で(絶対ではないよ、勿論)仲良くなれそうな場を構築していきましょうってことです。ちょっと前にも年表みたいに書いたけど、A僑とか言い出したのが2年前、それから卒業生クローズドで掲示板やりだして、でもって、実際に日本など各地で皆であったり、それも定例化したり、クローズドではないオープンな掲示板をやってみたり(それもいくつも)、さらにとっ散らかってくるから統合するためにFacebook Pageを作ってみたり、全ては有機的に関連させてます。

Give & Give & Give & Give & Take

 ただし、それをやったから僕が儲かるかというと、まあ当面は全然持ち出しばっかでしょうね〜(笑)。でも、それでいいんですし、それが王道でしょう。Give & Takeっていうけど、本当はGive & Give & Give & Give & Takeで、先に他人を儲けさせてあげるのがスジ。これはよく言われますよね。ほんとどんな本見ても書いてありますし、本なんか読まなくたって20−30年生きてそれなりにハッピーな生活をしてたらわかります。

 なぜか?これも理由は言えます。
 まず自分がどうすれば儲かるかってのは意外とわからない。自分の資源って盲点になってる、当たり前になってるから、自分では活用しにくいです。でも、他人のことならよく見えます。「なんで、そこをもっと押し出さないの?」「そこはもっと自信持てよ」という。だからTakeするよりもGiveする方がずっと簡単です。また、Tekeするのは、自分にgivenするもので一人しか対象がいない(自分)のに対して、他人というのは無限にいるから、なんぼでもgiveネタはありますから。

 第二に、もしそこで自分のTakeばかりガツガツ求めて、与える局面ではケチ臭く、安上がりになることばかり考えていたら、人とはつながれなくなるという点です。そういう人って嫌われますよね。僕だって我利我利亡者で来られたら、ドン引きしますよ。会ってて楽しくなさそうだし。将来Giveしてくれるかどうかなんて話ではなく、とりあえず人間としての魅力がないですから。そんなこんなで知らない間に「イヤなやつ」「ケチなやつ」に思われてしまうリスクがある。そうなると、類友効果で、寄ってくるのは結果として同じような「隙あらば」って奴ばっかになるから、これは広がらないです。広げるほど奪われるというか(笑)。

 それにそもそも起業というのは、「さあ、これから起業するぞ」とか思ってやるもんじゃないですよ。これは恋愛といっしょで、「さあ、恋をしよう」で出来るもんじゃないです。あれはオデキみたいなもので、気がついたら出来ているものです。だもんで、儲かるとか「業」になるからとかそんなのはどうでもよくて、どう考えてもやった方がいいと思われるのは、遠慮会釈なくやればいいってことです。そのうちなんかになっていくだろうしね〜というくらいの感じで。別に結果的にならなくたって、やった方がいいと思うことを「やる」というのは楽しいもんですから、それで結構満たされちゃうし。

清水の舞台こそが美しい

 こう書くと、なんか僕が慈善事業的に、世のため人のため的にやってるみたいに読めるかもしれないから、一本釘を刺しておきます。なによりも自分が楽しいからやってるんですよ。Giveっていっても客観的現世利益的な側面での話で、主観的満足度とか悦楽度では十分Takeです。

 これはまた別稿で書きたいのですが、どうも僕は生きるか死ぬかって感じでマナジリを決している人が好きなようです。そういう人を美しいと感じる。前職のときも、やれ破産だ、やれ離婚だとか、真っ暗な海に船出するような、乾坤一擲の勝負にでるような局面ばっかでしたが、それがストレスにはあんまりならず、そういう状況下の人間にむしろ惹かれてました。言葉で言えば「凛冽」という言葉が近いのかな。昔の武士の出陣前のような。

 やっぱ気持ちいいですよ。毒にも薬にもならない、くそぬるい社交辞令なんか言ってる余裕はないですから、口から出るのは全部本音で全部シリアスで、混ぜもんなしだから。留学やワーホリの最初の一週間をお世話するのもそれと同じで、やっぱ彼らも武士の出陣で来ますからね。いい顔してますし、気持ちいいオーラ出してくれます。もーね、この気持ちよさを知ってしまったら、他の「いやあ、どうも」みたいなのが詰まらなくて(笑)。

 こういう清水の舞台から飛び降りる感じが良いのですが、しかし、だからといって半狂乱にパニクってるわけじゃないですよ。それはまだシリアスさが足りない。本気にシリアスになったらパニクらないです。もっと腹が座って、むしろリラックスしてくる。ジタバタしてもしゃーないって気になるし。

 そして常にギリギリである必要もないのですね。ここ間違ってもらったら困るのですが、日常的にはだらーっと寝そべっていてもいいのですよ。ただ、一朝ことあるときには、大刀をひきつけ、むくりと起きてくればそれでいい。ちょうど木の上で寝そべってあくびしてる豹みたいな感じね。だらーっとリラックスしてるんだけど、やるときゃやるよ、ハンパないよって感じね。そんなのがいいなあって。

 その気持ち良い感じを味わうために人と交わってるんだよ、だから生きてるんだよってことで、ゆえに僕にとっては十分Takeがあります。自分が楽しくなかったらやらないって。

 ということで「今年」だけをさくっと切り取るのは無理なんだけど、そういう流れで言えば、今年はあれこれ展開があったなーと思います。

 で、来年は?といえば、その延長線ですし、もう少しハッキリ絵図面が見えてくるかも、です。とりあえず来年2−3月にちょっと帰省するので、一つは羽田乗り継ぎを利用した関東圏のオフを、3月初頭には京都で全国オフをやろうと思ってます(島根の田舎に行こうというお誘いも実は受けてて、時間的に許せばとかそれも)。

 すでにオフ専用掲示板では、関東、関西それぞれにスレ立てしてあれこれ愉悦の時間を過ごしてます。だって、こういう企画モンって好きなんですよ。遊びをあれこれ考えるくらい楽しいことがこの世にあるか?ってくらいですから。





これはSt Mary Cathedral、セント・メアリー大聖堂。観光地の定番。Cathedralは「カセ(テ)ドラル」と日本語で言われますが、英語の発音では「かしーど(ら)る」で「しー」にアクセントがきます。最初何言ってるんだか、さっぱり聞き取れなかったです。
 この年末年始シドニー旅行する人の中には訪れる人もいるでしょう。拝観料とか要らないです、入るだけなら無料。カッチョいいすよ。あと、HPなど見て、パイプオルガンとかクヮイア(聖歌隊)の音楽の時間をチェックするのも良しです。
 



文責:田村



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