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今週の一枚(2015/12/14)



Essay 752:生理快感と自由度

 写真は、先週と同じPutneyで、Puteny Park。Mortlake Ferryという「移動式橋」みたいなものがあるところです。
 日曜の昼下がり、前方で人々が集まってオーストラリア名物BBQをやっているわけですが、これ、多分一週間で一番人口密度が高い状況だと思います。一番「混んでる」状態だと。このスカスカ感が生理的に気持ち良いです。

理想イメージ


 最初こっちに来るとき、どんな感じで生活できたらいいかな〜とか、ものすごーく漠然とイメージしたのが、だだっぴろいリビングというか大広間みたいなエリアがあって、フロアが木目で、周囲が綺麗な緑で、さわやかな風が吹き抜けて、気のあった連中が三々五々出たり入ったりして、酒のんだり、話をしたり、なんもしないで居眠りしたり、統率が取れているんだかいないんだかわからないような感じ。そんな感じがいいなあと。

 漠たるイメージですけど、要点は以下の2点です。

 (1)生理的に気持ちいいこと
 (2)自由であること

 これらの点です。これらは、自分の人生においてはかなり重要度が高く、ちょっとやそっとでは「譲れまへんな」て感じです。

 なんでこの2点なの?というとやや突飛な感じがするかもしれません。「お金の不安がないこと」とかさ、「大切な人や温かい家庭」とかさ、「他人から評価&羨望されたい」とかさ、そーゆーのは入ってこないのか?っていえば、入ってこないですね〜、不思議と。確かにそういう欲求もあるんだけど、ベストではないです。またイメージから当然に窺われる「人間関係の風通しの良さ」が入ってこないのはなぜ?という疑問も出てくるかしれません。

 なんというのか、この2点は、上の理想イメージを実現するための核心部分であるけど、その他のお金とか人間関係というのは核心ではない。因果関係や手段結果関係でいえば、条件整備の部分(お金とか)であったり、派生的なものに過ぎないような気がします。

 そのあたりのことをちょい書きます。今週もわかりにくそうだな。

生理的な気持ちよさ

 思うに、(1)の気持ちよさは、言うまでもなく誰でもそうだと思うんだけど、それ以上に不快指数が高いと自分が自分で無くなっていくのがイヤなのでしょう。イライラしてきたり常に怒ってたりしてたら、自分の良い面も出てこない。自分のポテンシャルが発揮できない。これでは成るものも成らない。やっぱ大事なことに臨むときはベストコンディションでいたいです。

 ただし、20代くらいで「俺が俺が〜」って頃は、生理的に不愉快でもそんなに気にしてなかったですね。体力もあるから耐えられたってこともあるし、「俺が〜」ゲームに熱中していたので、そんなに気にならなかったとも言えます。パチンコに熱中しているときは、椅子の座り心地の良し悪しなんかそんなに気にならないのと同じく。

 しかし、30代をこえ、なんかかんかやってくると、もう「俺が〜」ゲームに飽きてくるし、いつまでもそれやってるのも馬鹿みたいじゃんって気にもなってくる。他人と比較して勝ったとか負けたとかいうのも、暑苦しいな、うざいな、ガキだなって気分にもなります。優先順位が下がります。あるいはそのゲームはもう「消費」してしまったとも言えます。代わって上昇してくるのは、単純に生理的な気持ちよさです。

 それは例えば、空が青くて気持ちいいとか馬鹿みたいなことでいいのですね。猫が可愛いとか、ふかふかの布団が気持ちいいとか、谷から吹き上がってくる緑を孕んだ風が心地よいとか、美味しいとか、「あ”〜、極楽ぢゃ」的な。30歳前後くらいに、何事かを成し遂げた快感と、空青し快感とを純粋に比べてみたら、後者の方が快感値が高いんじゃないの?と疑問になりだしたのですね。もちろん成し遂げた物事によって快感度は違いますから一概に比較できないけど、それまで銭湯の富士山の絵みたいなバックグランドに過ぎなかった快感が、意外と馬鹿にできないぞ、てかそっちの方がデカくない?って気になってきました。

若気の至りと集団催眠

 最初の頃は、その種の「快楽主義」に走るのになんとはなしの抵抗もありました。一つの若年性血気症のような、若気の至り的なもので、早い話が未熟で無能だから不安でしょうがない、だからなんか自分は凄いんだって事実をみつけてほっとしたいという心理です。溺れている者が藁をもすがり、海底に足が届くのを求めるような、いっぱいいっぱい的な気分。これはでも時間が経てば、そうやってジタバタしてるから足が届かないのであって、自然とすっとしてたら足が届く程度の浅さでしかないし、あるいは身を任せれば勝手に浮いてそれでOKなのよね、ってのもわかってきます。

 もうひとつは、日本的な集団催眠にかかってた部分もあるのでしょう。そういう快楽に価値を置き過ぎるのを、堕落であり、怠惰であり、負け犬でありっていう忌避感が残ってたからでしょう。これも物事がよく見えるようになってくると、必ずしもそうではないよってのもわかってきます。堕落や怠慢こいてラクに流れてるのって、そもそも気持よくないんですよね。真剣に気持ちよくなろうと思ったら、かなりの努力と誠実さを求められるんだってのもわかってきますから。

 そういえばプロジェクトやらイベントを成功させようと異様に不眠不休で頑張る場合がありますが、あれって最後の「打ち上げのビール」がたまらなく美味しいからやってるんだって話を聞いたことがあり、それはすごい納得した記憶があります。また、半分冗談で、なんで月〜金まで辛い仕事をするのかといえば、土日の週末の開放感を味わうためにやってるんだって話もありますよね。わかりますわ。スキーで、リフト並んで乗って丘の上まで15分かけて、でも滑るのは2分で終わってしまうという感じ。時間的にははるかに少ない気持ちよさの為に、数倍から数十倍の時間をかけて営々と積み上げると。

羅針盤効果、カリキュラム編成機能

 また羅針盤効果やカリキュラム編成機能もあります。サイコーに気持ち良い状態を超真剣に考えていくと、自然と自分のやりたい方向が見えてくるような気がします。「本当に自分のやりたいことは何か?」という永遠の課題みたいなのがあるんですけど、往々にして、そういう命題や出題形式にしてしまうと答が見えなくなります。「えー、そんなもん別に思いつかないし」って感じになりがち。でも、究極に気持ちよくなれって感性的な問いかけにすると、わりと見えやすいです。と同時に、それを実現するためには、何と何が必要なのかという材料の準備の見えてきやすいです。

 例えば(何度か書いてますが)僕の場合、子供の頃に多摩丘陵の新興住宅地(てかほとんど造成途上の空き地)で育ったこともあって、だだっぴろい場所が好きです。スカーッと空間がひろがってると無条件にうれしい。それがオーストラリアに馴染んでいる大きな理由の一つです。最大の人口稠密地域であるシドニー(もうすぐメルボルンに抜かされるらしいが)ですら、ちょっと行ったらスカーっ!あの角をまがったらスカーッ!で気持ちいいったらありゃしない。

 あるいは、睡眠重視です。もう高校の時に眠くて眠くて(誰でもそうだが)、それもあって絶対に自由業、自営業って固くココロに誓ったわけですが、その甲斐あって、いまは気が向いたら寝るという感じ。分割睡眠っていうんですか?1日に三度寝くらいしてます。自然にしてたらそうなった。睡眠時間を削って何かをするというのは基本やらない。やらないように全体を組み上げ、マネージする。そういうクソ贅沢なことことを実現するために、最初から仕事の組み立てを工夫し、そもそもの業種の選び方や生き方、場合によっては住む国などの人生の根本部分すらも変えていく。

 これら自分の究極快楽みたいなもの(断片でも可)を基軸にしていけば、「こっちの方向」という羅針盤機能があるし、じゃあどうすれば良いかというカリキュラムや段取りも演繹的に出てきます。




自由〜自己実現の大前提

 (2)の自由は、これも同じ趣旨です。自由でなかったら自分のやりたいことが出来ないし、いいものも創造できない。「いいもの」というのは、その時々で違うと思うのですが、その時点で欲しいと思うものをゲットしたり、クリエイトするためには、なによりも発想や行動の自由度が必要です。アレしちゃダメとか、これは禁止されてますとかが多いと、行動が制約される以上に発想が制約されます。そして発想が制約されるということは、つまるところ人格が制約されるところにまで行き着くんじゃないか。「そーゆー人」になってしまう。本来あるべき「よき自分」が歪められたり、なりたい自分になれない。それはイヤだなと。

 換言すれば「自己実現の前提」とも言えます。
 その昔、まだガキだった頃に憲法をやって、憲法19条の思想良心の自由、21条の表現の自由は超重要だと言われ、なぜかという理由付けで、民主的な政治体制を維持するための必須条件であり、且つ個人の尊厳を実現するために欠くことできない前提だからだと本に書かれてました。前者(民主的機能)はすっと理解できたんですけど、後者の「個人の尊厳の実現」という部分は、なにやら抽象的すぎて、はっきりいってようわからんままでした。分からんけど、そう書いてあるから、とりあえず試験に出たらそう書くという。わかるような気もするが、完璧に腑に落ちてるわけではないという。

 でもそれはガキだったから分からなかっただけの話で、今ならよく分かります。ある意味民主制の維持なんかよりも遥かに重要ではないか。民主制というのは、暗愚な殿様が大虐殺とかするのを止める点に意味がある。最適解を導き出すというよりは、最悪解を回避する部分に主眼があるのであって、いわばサーキットブレーカー程度の意味しかない。だから究極価値というよりは安全装置くらいのシロモノですが、しかし個人の尊厳は生まれてから死ぬまで1秒といえどもオロソカにはできない恒常的で普遍的なことで、こっちの方が大事じゃないかと。

 そして、自由でなければ自分は自分になれないよってのは、体験を経ていくと身に沁みてわかるようになります。頭から洗脳されてたら、自分の認識すら歪められているわけですから、本当の意味で人生なんか始まってすらいないとも言えます。主君のための命投げ出してお仕えするのだ、それが自分の生まれてきた意味なのだなんて頭から思い込んでたら、あるいは他人をしてそう思い込ませたら、それって価値的には殺人罪に等しいようにも思う。

 どういう自分になりたいかは、自分で選ぶべきだし、選べるべき。そして選べるためには、あんな俺、こんな私ってあれこれモデルルームを自由に見学できるようにしておかないとならない。「これは見ちゃダメ」とか不自由な情報制限が多いと自由に選べない。「良妻賢母」などという体制側の(と言うかマザコンじじーの)願望を一択的に押し付けられたり、電通あたりに乗せられて「イケてる私」になろうとしてたら、不幸な話だと思います。その型紙に合わないからといって罵倒されたり、落ち込んだりという拡大損害も馬鹿にならないくらい甚大ですしね。

 僕も日本ではわりと自由な発想で好きにやってた部類に入るとは思いますが、それでもこっちに出てきたら、「え、そんなのアリなの?」という自由度爆裂みたいな生き方をしている人々がリアルに、それも大量におって、いかに狭かったかと思い知らされました。これ、高校の時から知ってたら、もうちょい要領よくできたんじゃないの?って思いますもん。あの頃はサラリーマン or 自営業くらいのモデルがなかったもんな。



自由と人間関係

自他の良い面を引き出す環境整備

 そして、「気のあった連中」という人間関係部分も、この自由に包摂されます。
 なんで?と思うかもしれないけど、良い人間関係をつくるに当たっては、まずもって「素の良い自分」を出さなければダメでしょ。取り繕ったり虚勢張ったものではない「素」であり、且つそれが「良い」ものであること。以前に人格サイコロ論を書きましたが、人の人格なんか立体的であって、まるで矛盾しているような一面を同じ人間が持ってるもんです。それが普通。あるときには他者に対して優しく、あるときは非常に冷淡になる。その法則性は?というと、あるようでいて実は無い。そういう「優しい気分になったとき」という「気分一つ」だと思う。同じ自分であっても、やたら他人に攻撃的だったり無駄にウジウジしたりするのではなく、頭脳はクールで、ハートは温かく、腰とフットワークはあくまで軽くってベストコンディションでいられたら、接する人々との関係もまた変わってくると思うのですよ。ダメダメな自分、嘘まみれの自分を前面に押し出して、さあいい出会いを、いい人間関係をっつっても、それは難しいでしょう。

 同じことは他人にも言えて、その他人のもっとも良い面が表になるような環境が望ましいです。自分がそうであるように、他人もまた立体なんだから、一部だけ見て全部を判断することはないし、端的にそれは間違ってると思う。その人の良い部分を引き出してこそ、自分の器量だと思うし。よく他人のアラ探しに熱中している人がいる(らしい=あんまり身近にそういう人いない)けど、そういう趣味は僕にはないです。カッコつけてるわけじゃなくて無いな〜。昔は誰でもそうだと思ってたけど、他人の良い面を見つけるのが僕はどうもちょっとは上手らしいです。「見つける」つか、もう明々白々と見えるんですけど。根がお人好しだからかもしれないけど。

 それに他人の欠点を見つけるのなんかメチャクチャ簡単で、どんな馬鹿にでもできます。全てにおいて人格円満高潔で一点の非の打ち所もないなんて、そんな人は実在しませんし、それを基準にすれば誰でもどっかは(てか全てが)至らないです。いっそ全部が欠点といってもいいくらい。その人の長所ですら「上には上がある」といえば否定できるし、「慢心している」とも言えるし。そして、完璧な人間がいたらいたらで、今度は完璧過ぎてイヤミな奴とか、「親しみがない」とか、そんなもん無限に言えるでのすよ。それを自分自身に向けてみたら、もう全身火だるまになるのも目に見えてる。全員がそう。だからそれは言わない約束なんじゃないんですかね(笑)。僕自身が自分に課した条件としては、その欠点の改善克服方法が比較的見えていて、しかもそれが実現可能なレベルにあって、出来ればちょっと変えたらすごーく良くなるというコスパ抜群の場合にだけ、欠点を言ってもいいのかなって思います。それか自分が直接の実害を被るときは、正当防衛的に許されるくらいかな。それ以外は、お互い「叩けば埃の出る身体」ですから不可侵条約を結ぶべきかと。

一知"全"解のくだらなさ

 ところで「一点だけで全部を判断しない」という資質は、弁護士などをやるにはいい素材ではありました。殺人犯の弁護をするにしても、その人の別の良い面を探して言うわけですから。極端にいえば「一人殺しただけでしょ?」くらいの感じで、そんな一過性の出来事、人格全体の3%くらいは占めるけど後の97%はまだ無地だと思うし。こう書くと驚かれる人もいるでしょうけど、でも、そんなもんちゃう?あとの97%も黒い人もいるけど、そうじゃない人の方が多いし。あなただって、この先人を殺さないとも限らないよ。例えば、自分の愛娘をなぶり殺しにした奴とかがいたら、ぶっ殺してやるって思うだろうし、たまたま条件が整ってたら激情にかられて行動にでるかもしれない。しかし、その一時をもって、生まれてからこの方全ての自分の歴史が「殺人者の一生」としてまとめられたら、これは納得出来ないんじゃない?俺はそんなんじゃないって思うだろうし、それが正しいと思いますよ。

 一点だけで全部断罪というくだらないレッテル貼りは、それが間違ってるから嫌いだというだけのことです。そういうことする人よくいる(らしい)けど、おそらく、そんなに人間が好きじゃないんじゃないかな〜。僕もそんなに人類愛に満ち満ちている方ではなく、むしろ理想世界=人類絶滅って思うときもあるくらいなんだけど、とにかく一点でも黒があったら全部黒く塗りつぶしてポイ捨てってほど他人に対して冷淡ではないですよ。犬飼ってて、その犬がどっかの犬と喧嘩して片耳千切られたら、もう完全な可愛さは失われたからとっとと屠殺しましょう、みたいな発想にはなれんわ。てか、飼犬が人を噛んだら問答無用に屠殺とかあるらしいけど、これにも異論あるもん。犬のために弁護したいくらいだ。ネットとか見てると、一点ダメなところが見つかったら「あー、こいつはダメダメ」とか一刀両断にする冷淡な人をよく見かけますけど、ああ、人間が好きじゃないんだなあって思います。

裏切られたとは思わない

 だから他人に対しても、その人の良い部分を出して欲しいですね。自分が気持いいから(笑)。良い面と良い面が接触したら、それはいい人間関係になるでしょう。ただし、立体であることを前提にしているから、それがどんな場合にも常に変わらず維持されるんだなんて夢物語はみませんよ。「その限りにおいては」という条件付きであることは当然の前提ですケド。だもんで、後になって、そうではないダークな人格部分を見たり聞いたりしたとしても、あんまり「裏切られた」とも思いませんケド。そりゃーそうだろーって思うな。立体だもん。

 真実どうであるかなんか、あんま興味ないんですよね。だって無理だもん。自分の人格すら把握できないし、無意識の膨大な領域とパワーを考えれば、そんなもん無理に決まってます。無理に決まってるんだから、無理であったとしても落胆もしない。望みもしない。だとしたら、自分と接している限られた時空間においては、できるだけ良い面と良い面が出てくるようにするしかないし、そういう環境整備に心を砕けばいいんじゃないの?と思うのです。実務処理としては、それがベストなんと違いますか?

自由という環境整備

 で、環境整備って話になったところで、初めて「自由」が出てきます。人間関係なんか雲Aと雲Bの相互関係みたいなものだから、それがいい感じでつかず離れずするためには、それなりの可動領域つか、空間の広さが必要で、それが「自由」なんです。絶対こうしなきゃいけないって事柄が多すぎると、自由がなくて、人の良き部分を出すには不向きだろうと。

 抽象的にいってても分かりにくいかもしれないから例を出すと、例えば、冒頭の例での木目フロアの広いリビングにおいては、誰もが好き勝手してたらいいと思うのですね。何時になったら全員ラジオ体操するとか、親睦会をやるから全員参加、強制ではないけどといいながら事実上強制だとか、そういうのは自由がないからよくない。何よりも僕自身がそういうのが嫌いですから。出たくなかったら出なきゃいいじゃんって。頭が痛い時もあろうし、生理痛が激しいときもあろうし、理由はないけど気分が乗らないときもあろうし、そういう人を無理やり出席させて何の意味があるんだ?って。それによって「団結力」とやらを高めるんだって言われても、高まらないってそんなもん。親睦を深めるって本気でそう思ってるのか?深まるわけがないじゃん。むしろ逆効果でしょう。その人がそこにいること、その人の存在、それをまるっぽ承認するような包容力のある自由度がなかったら、人はやっぱり良い面を出してくれないと思うのです。

 だもんで臨機応変に動けるだけの可動領域=自由というのは、僕にとっては命と同等くらいに大事なものです。

付帯事項〜金とか 

 ということで、生理的な快感と自由、この2点をしっかり維持拡大していけば、あとは楽だと思うのです。

 というのは、例えばお金のことでも、必死になって就活して→イヤなことも頑張って仕事をして→いくばくかのお金をゲットして→そのお金でメシ食ったり住まいをゲットするとして、でも最終形である生活に快感が伴わなかったら、トータルで何やってんだか分からないですもん。それにも増して方向感覚が失われるのがイヤです。なんかもう、生活のための生活、生きるために生きるという、それが禅問答的に納得できてたらいいですけど、普通は何のために何をやってるのかわからなくなったり、何が楽しくて生きてるのかもわからなくなったり。

 ま、人間それでも生きられてしまうもんですけどね。でもなー、それがベストな形とは言い難い。だったら逆に快感と自由をマックスにもっていくように組み直した方が早いんじゃないの?こんな感じに気持よくなりたいというのをまず定め、それを実現するためには何と何が必要で、そのためには幾らくらいお金が必要で、どんなスキルと知識が必要で、じゃあそれをゲットするためにはどうしたらいいか。また、それを最短距離でフレキシブルに実現するために、自分の自由度はちゃんとキープ出来ているのか。どうでもいい「友達」と称する人々の目線やら思惑に縛られてたら自由度は下がる、思い切ったことはできない。発想が狭くて不自由だったら、うまいやり方を思いつけないから大損ぶっこく可能性もある。何かをやろうとする度に上から横からチャチャが入ったり、禁止されたりしたらうざったくてかなわんし。

 それをやってたら方向感覚は失われないし、人生のGPS「今ココ」感覚も多少はあるでしょう。現在位置がわかると励みにもなる。また、逆説的なんかもしれないけど、目的と手段の関係が明確になって、何のために何をするのかがわかると、多少の苦労は耐えられるようにもなります。不思議なもんで、あとで打ち上げビールだ、あとでダウンヒルの爽快スキーだってそれが見えてると、単にえっちらおっちら雪山登るのも苦痛ではなくなる。これが無目的にただ雪山登ってるだけだったら辛くてやってられんと思いますもん。


人間関係〜統率されてるんだか、されてないんだか

 最後に、三々五々、好き勝手に皆やってて、統率されてるんだかしてないんだかってイメージですが、人間関係はそんな感じが好きです。一致団結して、えいえいおーというのも、まあ時期限定ならアリです。部活の対抗試合とかさ、限定的なイベントとかだったらそれもアリです。でも恒常的になると辛いな〜。

 木目のフロアがあって、だだっぴろくて開放感があって、というのは、今の家を借りるときにもなんとなく頭にありましたね。「あ、いい感じ」って。7ヶ月くらいかけて探して、300件近くはインスペクションしたんじゃないかって思うんだけど、これを見た時は即決だったのは、このイメージがあったと思う。でも、まあ、それも15年くらいやってて、それはもうよくて次の段階。

 丁度三年前、2012年の12月13日かそこらにAPLACのHPと並んで卒業生専用の掲示板を作りました。翌年2013年の8月に突如「A僑」とかいって卒業生のゆるい起業ネットワークとか言い出して、まだ続いてます。でもって、2015年2月に実際に伊勢で皆で集まって、6月には一般の掲示板作って、日本やオーストラリア、NZ各地でオフ会というのも始めて、でもって10月からそれまで避けてた(面白い活用方法が思いつかなかった)Facebook Pageも作って、、、長い時間をかけて一手一手布石を打ってる感じです。10年、20年スパンでこういうのやるのは実は得意ですし。

 理想はですね、上のようなイメージの場所におって、三々五々好きにやってて、しかもそれで「食えてしまう」ってことです。人生それでOKさって感じのところまでもっていけたらいいよねって。そんなのどうやってやるの?どうやって食うのよ?とか色々あるけど、完成イメージ図だけじっと見てると自然と叶うんだよ(笑)。なんとなく次に何をすべきかとか、タイム感とか見えてくるから。

 で、統率云々とかいうのもこれに関わってて、組織っぽくする気は全然なくて、創造性のあるエーテルが漂ってる「場」みたいな感じ。東京に下北沢ってカルチャータウンがあったり、シドニーにニュータウンやら、メルボルンにセントキルダとかありますが、ある種の磁性をもった場があって、そこに惹きつけられて住む人はそういう属性を持ってる人であると。だからといって、株式会社下北沢という組織があるわけではない。商店街の組合とかはあるかしらんけど、それは技術的な利害調整やインフラ整備のためにあるだけで、本質ではない。

 人間の集団とか、関係とか、そんな感じが一番いいんじゃないの?って僕は思います。ただし、あまりにも価値観が雑多過ぎたらもう無茶苦茶になるし、そもそも不愉快である。それじゃ意味ない。快感マックスな関係というのは、価値観でも本質的な部分が同じだけど、あとはバラエティに富んでる方がいい。同じじゃないとダメなんだけど、バラバラの方が良いという矛盾しまくりで、こう書くとすごく難しいことのように感じるかもしれないけど、でも、意外と簡単じゃないの?って気もします。

 音楽やバンドのアナロジーでいうと、キー音(調性を決定する音程)です。例えば、テキトーにセッションする時も、「キーAでいこか、Amね」とか軽く決めますが、Aというはドレミファでいえば「ラ」の音であり、イロハでいえば「イ」であり、マイナーは調でいえば「短調」です。だもんでAmというのは「イ短調」であり「ラで始まる悲しい感じの音階」でもあります。そしてキーがAでマイナーだったら、自ずと使用可能な仲間の音程(スケール)が決まってきます。そこから外れると「音を外した(れた)」といって一発で違和感バリバリになります。変な感じになるし、滑稽感も漂う。ただし、音が外れているんだけど、でもそれによって緊張感が高まったりするテンションノートというのもあるから、話は難しく&面白くなるのですね。

 何の話をしてるのかといえば、キー音だけしっかり決めておけばいいんじゃないかと。あとは、それに合ったスケール仲間がテキトーに集って、テキトーにセッションして、それで〜って感じになるのかなという。これが単に趣味の話ではなく、起業とか生臭い話を交えるのは、言うまでもなく日本も世界もちょっとヤバイかもって危機感の裏返しで、こういうときこそ実のある互助やシェアが出来たらいいよねって話です。







文責:田村



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