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今週の一枚(2015/11/16)



Essay 749:頭で考えた不安は、頭では解決できない

解決は「現実」。いわゆる「なんとかなるさ」の構造分析

 写真は、Summer Hillの旧小麦粉工場→新築マンション建設現場

頭は問題提起、解決は現実

 頭を働かせること、じっくりモノを考えることはとても大切なことです。

 しかし、「およそ有用なものには常に毒性があるの法則」(今作った)で、頭を使うことがマイナスになる局面も多々あります。特に「考えだしたら不安になって、足がすくんで、はじめの一歩が踏み出せない病(長いわ)」などの場合、頭が悪さをしている場合と思って良いのかもしれません。今回はそのあたりの話です。

 頭は大体において問題提起をします。「こうなったらどうするんだ?」「よく考えたら無理に決まってるじゃん」「うまくいく保証なんかどこにもない」などなど、先々のことを考えていくと、あーなったら困る、こーなったら死んじゃうと不安が黒雲のように湧き立ってきます。ビビります。「やっぱやめようとかな」とか逃げ腰になります。そして、もうちょっと情報(or お金)を集めてからとか、もうちょっと基礎力をつけてからとか、その種の逃げスライダーすることもあります。

 ここで、バッドニュースでもありグッドニュースでもあるのは、これら頭の中で考え出された問題を、頭は解決できない!ということです。常にそうだと言うわけではないですが、そういう場合が多い。そして、なぜ解決できないか?といえば、それは構造的に不可能だからだと思われます。

 一方、では実際にダメなのか?というと、実はそんなことはないのですね。意外となんとかなってしまう。「絶対無理、私には一生出来ない」とかキャーキャー叫んでいたことでも、しばらく時が経ったら出来て当然のかったるいルーチンワークになっていたりもします。ちゃんと解決できている。

 例えば、車の免許を取るときにやらされる縦列駐車なんか最初は「絶対無理」と思うけど、しばらくすると出来るようになる。仕事になるとさらに顕著で、血を見るとすっと意識が遠のくような女性でも、外科医やオペ看になったら、血がドバドバ出ていても氷のように冷静に振る舞える。聞いた話ですけど、ゴキブリって誰もが嫌いでしょうが、実験用に大量に飼育しているところがあるそうです。無菌状態で育てるから全然不潔じゃないんだけど。それを世話する係になったうら若い女性も、最初は絶対無理!だったのが「慣れると可愛いですよ〜」とか言ってるという。こんな例は山程あるでしょ。

 しかし、頭で考えて解決できているわけではないです。頭は無理といっているんだけど、現実になんとかなってしまっている。なんで解決できているのか多分頭では理解できてないでしょう。もしかしたら一生理解できないかもしれない。そこが頭の限界でもあるわけで。

 ではなぜこんな不思議な現象が起きるのか?ちょっと緻密にみていきましょう。

メカニカルな分析

絶対無理!と思える根拠

 例としていつもお世話しているシェア探しを取り上げます。まず、ストリートの現場英語というのは教室英語よりも遥かに難しいです。もう100倍難しい!とか力任せに叫びたくなるくらいです。いや本当のところはそう大差ないし、見方によってはむしろ楽だったりもするんだけど、最初はもの凄く難しく感じる。絶対不可能ってくらいに思う。”体感温度”としてはそう。僕も最初はそうだったし、それどころか20年以上いても未だによう聞き取れないですもんね。ぜーんぜん無理って感じ(ただクソ度胸はついてるので、ここは分からんでもいいとか、「もっと分かりやすく話せよ」と強く出れたりするだけの話)。そのうえ電話英語は難しいです。対面英語の3倍くらい難しいかもしれない。

 そんな苛烈な世界に、シドニー空港に着いたばかりのイタイケな子が果敢に挑戦するわけです。英語レベルは人によりけりですけど、平均すれば「現在完了、、ありましたね、そんなの」ってなレベルだし、もっと低い人もいる。もっと高い人もいるけど、仮にTOEICで900点くらいだったとしても厳しいでしょうね。とりあえず最初の結果や感覚はあまり変わらんという。

 そんなんでどうしてアポが取れて、わずか一週間内外の短期間に15-30件くらい見て回ってきて、最後には「火曜日になったらベッドが届くそうなので、それからなら入居できるそうです」などとちゃんと内容を理解できて、お金の話もバシッと決めるようになっているのか?不思議といえばこれほど不思議な話はないのですけど、これが現実。

 しかし、こんな素敵な結果になろうとは、事前に頭で考えていても予想できないと思います。そりゃそうですよ、何言ってるんだからわからなかったら、電話してアポを取ることなんか不可能だろうし、ならば絶対無理だと。理屈ではそうなるように見える。じゃあ、どうするの?といえば、最初は学校に探してもらってホームステイ〜その後にシェア移動といっても、わずか数ヶ月にそんなにバリバリ伸びるわけもないから、多くは日本人対象の掲示板などで探して、日本人村に定住。仮に日本人以外でも日本語の掲示板に広告が出ているような「親日家のオージー」とか”保険”がついているようなところになりがち。そりゃあそうですよ、到底出来るとは思えないもん。

 ところが現実には出来てしまっている。ウチに来る人は100人が100人全員出来ている。これだけ全員出来るというのは、確率でいえば自転車乗るよりも確実です。なぜこんなに巨大な(頭と現実の間の)ミスマッチが生じるのか?です。

そんなの「考えている」うちに入らないし

 話は簡単、事前に「考えて」とか言ってるけど、「考えてない」からです。キツイ言い方で悪いけど、本人は一生懸命考えているつもりでも、そんなの「考えている」というレベルに達してないです。もっともっと超真剣に考えたら「絶対できるはず」という結論になってもおかしくないんだけど、ちょっと考えて「ああ、無理」と思ってるに過ぎない。

 もう少し救いのある言い方になおしたら前提情報が決定的に不足しているから考えられないと言ってもいいです。試験でいえば、問題文そのものが虫食いになっていて半分以上読めないようなもの。将棋でいえば、各駒の動き方をわかってないのに将棋指してるようなもので、やってる最中に「え、銀ってナナメ後ろにいけるの?」といちいち驚いているような状態。「前提情報の絶対的不足」というのはそういうことです。

 これをシェア探しに置き換えてみれば、シェア探しが完成するまでの各ステップの前提情報が全然足りない。だからちょっと考えて不可能に見える。飛車も桂馬も全部「歩」と同じような動きしかできないと思い込んでるから、こんなの詰むわけないように思えている。

 リアルには、別に完璧に英会話ができる必要なんか全然ないです。煎じ詰めれば3〜4個の英単語、究極的には「シェア」とか「ルーム」という発音だけ相手に聞き取って貰えたらそれでいいです。あとの手順ダンドリはどこも同じで、何時にどこに来いって話だけです。ましてやこっちが英語全然ダメだとわかったら、超わかりやすい英語で言ってくれる(人もいる)。「ユー、カム、マイハウス、トゥディ、5ピーエム、オーケー?」とか。実際の会話というのはフレキシブルに千変万化するのですよ。出来なきゃ出来ないなりにやりようがあるのだ。そんなの無限にあるのだ。でも、そういう知識情報が無い。これが一つ。

 第二に、そこまで優しく接してくれる人がどれだけいるか?です。実は結構いるわけですけど、そこが情報として欠損している。欠損してることすら気づいていないというか。挙句の果てに「完璧な英語を喋られないと人間関係が形成できない、アポが取れない」とかいうありえない想定でモノを考えているから、「絶対無理」だと思ってしまうという。

 ここでそんな都合のよい、希望的観測バリバリの想定(優しい人が沢山いる)をすること自体がおかしいんじゃないか?って意見もあるでしょう。でも、それが希望的観測かどうかはやってみないと分からないでしょ?とっととやればいいだけでしょ?ダメでもともとだし、失うものなんかほとんど無いんだし。でも、そこがそうは思えない。「実は失うものがない」という情報(なのか?)が欠けているから(欠けているのか?)、「英語が通じなくて立ち往生したら、死にも勝る苦痛と恥辱にまみれて絶命寸前に至る」と勝手に思ってしまい、「それだけは避けなければ!」って強く思う。そんなの死なないって。髪の毛一本抜けませんって。外国語が出来ないことなんか恥でもなんでもないって。でも、そう思えない。ここまでくると「情報」なんだか「迷信」なんだかわからんのだけど。

 でも、そんなこと言ってたら日本人同士暮らしてそれで終わりになるけど、そんでいいの?ホームステイだって、そこまで英語が通じないなら一緒に住んでも毎日辛いだけだろうし、意味あんのか?って気もする。そこで「語学学校に1ヶ月通って英語に慣れてから」とかいう”戦略”があったりするわけですが、この想定こそが百万光年くらい「ありえない」希望的観測です。そんな一ヶ月かそこらでなんとかなるくらいだったら、中高6年間も英語やってたらもう楽勝に喋れるようになってなきゃ嘘ですよ。それとも飛行機乗って南半球にいったら知能指数が3倍になるとかいう法則でもあるのか?

 以上の次第で、事前に「考える」といっても、大事な情報は欠落しているし、情報以前の迷信にたぶらかされているし、どっかの過程でありえないワープ想定(1ヶ月サッカーを練習したらJリーガーになれる、くらいの)でやっている。これでは、到底「考えている」なんてシロモノとは言えないでしょう?

 ところで、百人が百人レベルで成功させるためにはワザは要ります。何をどの順番に教えて、何をどういうダンドリで体験させていったら最大速度&最小苦痛で成功できるか、それはもう僕のプロパーで、毎週のようにヴァージョンアップしてます。凝り性だからかなり精密なメカニズム作ってます。見学対象物件のピックアップでも、「最初からこれはハードル高いからボツ」とか、「そろそろこのレベルに挑戦して揉まれてきてもいいかな」とか、最初は易しくて自信をつけさせ、だんだん難しくしていって、、という。そして全体で4つのターニングポイントがあって、序盤の攻め方、中盤のテンション維持、終盤の悩みと自分の高め方、そして最終ゴールにいくときに実務レベルの「詰め」の確かさなど、それぞれにカリキュラムがあります。このカリキュラムには結構自信ありますよ。もう豪語すれば、シドニーでのシェア探しの教え方だったら世界で俺より上手い奴は居ないと言い切りましょう。てか、一銭にもならないのに10年以上毎週こんなことやってる馬鹿は、地球広しといえども僕だけでしょうし。もう人間国宝に指定してもらいたいくらいですが、それって馬鹿大賞みたいなもので、名誉なんだか不名誉なんだか。

 でもね、いかにワザを研ぎ澄ませようが不可能なものは不可能です。やっぱり基本的には「やれば誰でも出来る」ことでなければワザの工夫のしようもないです。絶対無理ではなく、可能な事柄だと。僕のテクニックは、思わぬ不幸によって失敗するパターンを最初から想定して手当していくことです。やれば絶対出来ることでも、人は簡単に諦めますからね。恐い時は何もかもがダメっぽく見えるので判断を誤る。それを事前事後に防止する部分に意味があります。

 ではなぜ絶対可能なことが絶対不可能に見えてしまうのか?ですが、だからそれが思考するための情報の欠落だからだということです。そんな前提でもの考えてたら不可能に思えるのも無理がないというか、そりゃそうなるよねって。



 シドニーでは鬼のようなマンション新築ラッシュですが、その度に古い建物群が取り壊されて、tastelessな新築物件になってしまうという。Chippendaleのビール工場なんかもそうですけど(あれなんかまだ新築建物が面白くてマトモな方だが)。無くなる前にせっせと写真撮っておきます。

情報という形では習得不可能

 そして、ここが二番目に大事なことなんだけど、そこで欠落している情報というのは、いわゆる「情報」収集って形では絶対にゲットできない種類のものです。ネットや本を読んだだけでは、まず習得不可能です。

 なぜか?これも簡単で「信じられないから」です。

 情報が欠落、、といってますけど、実は情報自体はあるんですよね。僕のサイトやFBでは毎週のように誰それさんがシェア先に〜とか書いてあるし、誰でもやってるのはわかる。だから「出来る」という情報はあるんだけど、でも、こと自分におきかえてみたら、「そんなことが自分に可能なのか?」「あれは一握りの優秀な人達の話で」という形に捻じ曲げて、そのまま鵜呑みに出来ない、安心できない、信用できない。

 もう一つは、結果的にうまくいきそうだというのはわかっても、なんでそうなるのかのメカニズムがわからない。わかっても納得出来ない。本当にそんな親切で優しいオージーがいるんだろうか?そんな人に当たるのだろうか?そこが未知数だから、それを除外して考えると、やっぱ無理って話になる。

 つまり、自分で体験してみないと信じられないからです。自分でやったら信じられますよ。信じるも何も目の前の現実がそうなんだから、認めるしかないし、その頃には「こんな感じ」という絶対的な体感が出来てますから、「ああ、あんなの簡単だよ」って気分になっている。もうその頃になったら、なんで出来るのか?なんてメカニズムなんかバカバカしくて考えることすらしない。「なぜ私は毎回毎回忘れもせずにキチンと箸を持てるのか?」とかいちいち考えないし、悩むこともないのと同じです。わかった時点では、もう問題は消滅している。

 ということで、ここで欠落している情報というのは、自分で体験しない限り絶対に得られないという特徴をもつ。だからネットや本で調べてもダメだよと。なぜなら、どんなに事細かに解説されたところで「でも、私だけダメかもしれない」という余地は理論的にはありえるから不安は決して消えない。そしてその不安を消すのは現実に「やった、出来た」という体験がいるので、事前に(体験なくして)不安を解消するのは論理的に不可能だ、というわけです。

 以上のことを、頭で考えた問題提起(不安)を、頭では解決できないと言ってるわけです。そして、その問題(不安)を解決できるのは「現実」だけであると。

 これらのことを、よく言われる表現であらわせば、「なんとかなるよ」ってやつですね。

 何がどうなって、なぜそうなるのかはさっぱりわからないだけど結果的には成功している「でしょう」という、超いい加減な、楽天的な認識なのですが、でもそうとしか言えない、そういう表現が一番ピッタリするような。

 でもね、何でもかんでも「なんとかなる」わけじゃないですよ。なんともならないことも多いです。高層ビルの屋上から飛び降りても「なんとかなる」ってことはない。普通は死にます。話は進んで、ではどういう物事がなんとかなるもので、何がなんともならないのか?その見極めは?という点に移ります。



いや、なんかこのお兄ちゃんがいい味出してたので、つい。

「なんとかなる」の構造 

細かな成功過程は不明だが、トータルで成功確率が高いこと

 「なんとかなる」という現象の本質は、一つ一つの細かな過程は予想できないけど、トータルでいえば成功できるはずだという状況であり、その認識をいうでしょう。

 まず細かな成功過程が不明であるという点ですが、考えてみれば、成功確実と安心出来るような事柄でも細かな部分は不明だったりもします。例えば、スポーツでも圧倒的に力の差のある2チームが試合をしたら、まあ普通は強いと思われているチームが勝ちます。プロ野球の某チームがそこらへんの草野球のチームと試合をすれば、大体はプロが勝つだろうと。そして実際にも勝つわけですけど、ただし、○回の表にプロが○点入れて最後には○対○で勝つ、と細かなところまでは予想不可能です。受験でも合格確実なもので実際に合格しても、どんな問題が出題されて、どういう解答を書いて何点で合格するかまではわかりません。

 では個々の過程はわからないのに、なんでトータルではこうなるという予想がつくのか?それは、大きな枠組情報やら、柱となる情報をしっかり把握できているからでしょう。スポーツにおいては、こういうルールのもので、通常の場合は実力によって勝敗が決せられ、運の要素もあるけど比較的少なく、そんなに番狂わせという予想外の結果にならないということを知っている。ここで話が変わって、試合終了後に両チームがジャンケンをして勝ったほうが最終的に勝者になるとか、点数は一切カウントせずにスタンドの観客の人気投票で決まるなどのルールになってたら、実力差は勝敗の要素にはならず、且つ不確定要素が多くなるのでトータルでは未知数になります。でも普通の野球の試合では、そんなことは「ない」ということを知っている。だから安心して「大丈夫でしょ」と思える。

 もっとも、そうはいっても「蓋を開けてみないとわからない」「勝負は水もの」という一定の留保はつきます。大丈夫だと思われていたのに、味方のエースが絶不調だったり、食中毒やら交通事故で出場不可能になるとか、相手チームにとんでもないバケモノがいたり、どこまでいって未来予知に100%はない。だからその部分はグレーというか留保をつけておいて、「まあ、大丈夫、だと思うけど」という感じに捉えます。それで大体合っている。

 ところが、全くの未経験領域だと、このあたりのカンドコロがわからない。全体の構造や主要な決定要素が算定しにくいから、何がどう転ぶかわからない、だから不安だと。個々の詳細プロセスも分からないけど、全体にもわからない。「これからある種のスポーツをして、その優劣で決まります」と言われても、それが球技なのか格闘技なのかもわからないし、どういう基準で優劣がつくのかのルールもわからない。もしかしたらトライアスロンや金網デスマッチをやらされるかもしれないし、そこで「芸術点」なんかがつけられるかもしれない。これじゃわかりませんよね。

 そうなるとですね、結局は、全体の構造がわかっているかどうかだけがポイントで、個々の展開プロセスなんか予想できなくても構わないってこともなります。つまり、詳細なプロセスはそのときになってみないとわからないのが普通であり、そこはそんなに問題にならず、どういう要素がモノをいうどういう事柄なのかという全体的なストラクチャーこそが大事であり、そこがわかっていれば良いと。

全体の構造把握をするために必要なこと〜洞察力と推理力

 未経験の領域でその種の全体構造を把握するためにはどうしたら良いか?それは洞察力と推理力だと思います。これはまあ確実という外形ポイントをひょいひょいとピックアップして並べて、その大まかな配列から「まあ、多分こんな感じになっているのだろう」というアタリをつけていくことが出来るかどうかです。これはその人のこれまでの人生経験の量と質によって決まってきますし、またその人の本質的な聡明さにもかかわります。が、同時に、これらは意識的に研磨していくことができる技術でもあります。

 先ほど、シェア探しについて「そんなの”考えている”うちに入らない」といい、「超真剣に考えればわかる」と書きました。どう真剣に考えればいいのか?どう全体構造を把握すればいいのか?ですが、まず成功している人が大量にいるという事実です。僕のサイトでは何百人もの人が成功していると書かれている。ではこの情報は真実なのか?ですが、主催者である僕の立場を推理すれば、こんなところで嘘をついても意味がないことはわかるでしょう。別にそれでお金をとってるわけでもないですからね。それに体験談やFBに山のように載せられている写真は、あれは全部ヤラセなのか、僕がだれか雇って写真を撮っているのか?といえば、そんな莫大な予算を投じて何になる?です。だからまあ本当のことなんだろうなって考えて良いでしょう。次に、彼らは特殊なエリートなのか?といえば、体験談や紹介文などを読めば、それほど飛び抜けて優秀ってこともない。むしろ自分らと同じ平均的な日本人だと思っていい。全員が年収1億以上でバリバリやってきたというわけでもない。学歴だって博士号から中卒まで、職業だって公務員、サラリーマンから、元自衛官、元レースクィーンまでいるわけで、なんらかの統一的な基準がありそうもない。つまりは、「普通の平均的な日本人」と考えていい。ただ、一点あるとしたら、そんなスキルやキャリアの問題ではなく、多分「やる気がある」という感性的な部分だろうと。

 なお余談ながら。ここで成功談を聞くのも大事だけど、失敗談も大事だという点もあります。ただし、同じ失敗談でも、これは厳選する必要があります。なぜなら多くの場合は「失敗すらしていない」からです。やりもしないうちから無理だと思ったり、目先に辛さにビビッて、てか辛くなる前に逃げてるというケースも大量にあるからです。そういう人の心理傾向からいって、「ヘタレだから逃げました」という痛い理解はしたくない筈です。客観的に無理だから合理的判断として中止したクレバーな私って形に仕立てると思います。それが人間でしょう。ゆえにいかに難しいか、いかに不可能かをいう。他愛のない都市伝説レベルの恐怖を振り回したりする。エピソードみたいな、それこそ真偽もわからぬ恐怖話をもって「海外恐い」とかいってるのと同レベルです。ちなみにその種のことをいう人は(実は最近では少なくなったと思ってますが)、個人的にはつきあいたくないです。なぜならイメージでものを判断する人、理性的に分析する能力に欠ける人、つまりは偏見に支配されやすい人ということで、恐いんですよ。いつなんどき予測不能なことで自分に害を与えるかわからんもん。もーね、勝手な思い込みで他人に動かれることくらい迷惑で恐いことはないですから。海外恐いというよりも、お前が恐いです。トイレに行けば必ず花子さんがいると思ってる人とは付き合いきれないです。

 次に、受け入れ側のオージーの方はどうか?これも簡単に推理できるでしょ?まず英語が出来ない人の存在とその扱いですけど、これだけ英語学校が沢山あるということは、それだけ英語が出来ない人が大量にいるということでもあります。また、高度な専門ビジネスやハイソな社交界にデビューするわけではなく、一定の廉価なシェア不動産を探すという局面ですので、向こうも英語ができない学生さんに慣れているだろうと、これも予想はつきます。そしてさらに深く推論して相手の立場になりきってモノを考えるならば、彼らは毎日のように電話をうけSMSを交換しているわけですから、技術的に向上しないわけがないです。英語ができない人に対しても、「こういう言い方をすれば通じる」「全部SMSでやりとりする、雛形も作っておけばいい」とか、やりようはなんぼでもあるだろうと。そんなところで困ってたら、空き部屋の収益化という遊休資産の活用がヘタだということで成り立たないだろうと。

 さらに大きな全体構造を洞察する力ですが、オーストラリアというのはこれだけマルチカルチャルな国でありながら、黒人と白人の対立とか、少数民族の迫害とかその種の内ゲバ要素が珍しいくらいに少ない国です。これはどんな文献を調べてみてもすぐに分かる容易な一般情報です。なんでそんなにギスギスしてないのか?といえば、多分誰もが生活していて快感度が高いんだろうな〜というのが洞察できるでしょう。

 毎日圧政に喘いで、日々理不尽なことに苦しめられていたら、八つ当たりのように弱者に辛くあたったりするでしょう。学校のいじめられっ子が、そこらへんの猫をイジメてみたりとか、外では卑屈なくらい低姿勢の旦那が家では内弁慶でDV夫になったりという、暴力や迫害は連鎖します。良し悪しを問わず人間は模倣の動物であり、他者から辛く当たられたら、自分も他人に辛くあたるようになる。虐待されてきた人は長じて虐待する側に廻りがちであり、部活で先輩にシゴキを受けてきたら、自分も後輩をシゴくようになる。一般傾向としてはそう。よくネットで胸糞悪くなるような罵倒をしている人がいますが、それを見たら、「ああ、この人は、この数十倍の分量の罵倒を過去から現在の実人生で受けてきたんだろうな」「だからこんなになっちゃったのね」と思えばいいです。思わず罵倒し返したくなりますが、あなたがやらなくても、そいつの周囲にいる他の人が日常生活でやってくれていていますから、その必要ないよって思えばいいです。

 で、オーストラリアでその種の社会不安的なギスギスが少ないということは、見知らぬ人に「辛く当たる」という出来事が、比較的少ないんじゃないかな?という予測もまた出来るでしょう。だからオージーは優しいっていうのはある程度推察できます。「優しい」っていうよりも、日頃からそんなに鬱憤たまってないから(そりゃあれだけ楽しく遊んでたらねー)、自然状態の人間が自然状態に接するように出来るだけのことだと思います。またこと英語に関しては出来ない人に慣れているだけのことなんです。

 つまりはこういう思考発想ができるかどうかだと思います。それは、これまでの人生経験や、地頭の良さという聡明さによるけど、わかってしまえばなんぼでも自力で開発できます。この程度だったら大したことないですよ。

何にでも応用可能であり、そこが修行ポイント

 これは人生や世間のあらゆる局面に通用するゼネラルな能力ですので重宝しますよ。英語必死に習得しても、英語を使う局面でない限り意味がないですけど、これは全ての局面に使えるから利用価値は比較にならないくらい高い。

 ことラウンドでも、仕事があるかどうか不安だとしても、もし真実全然仕事ないのならば、年間27万人といわれる大量のワーホリ達がオーストラリア全土で行き倒れて白骨化している筈です。ハイウェイをドライブすれば、1時間に一回の割合で死体が転がってるとか(笑)。そんなことはないわけです。ということは、なんだかわからないけど20万人以上の連中がコンスタントになんとかなっているってことでしょう。僕なんかは、もうこの時点で絶対大丈夫じゃんって思いますけどね。

 さらに農作業をすると二回目ワーホリが取れるというユニークな制度があるわけですけど、なんでこんな制度があるのか?ですよ。ちょっとでも経済を考えてみれば、「それだけ人手不足だからだ」というのが分かるでしょう。地元のオージーだけで席が埋まって、さらに激烈な仕事の奪い合いをやっているというなら、英語もろくすっぽできない、教えてもすぐに居なくなってしまう不安定で使えない労働力なんか必要とされないでしょう。そもそもビザの本質からいって、自国民に不利になるようなビザの内容にするわけがないです。したら強烈な反発食らって選挙で負けます。それが二回目というエサまで垂らして釣ってるわけですから、どんだけ労働力不足なのかですよ。

 但し当然のことながら運の疎密はあるわけで、ダメダメのときもあります。しかし、構造的に全然ダメってことはありえない。運の疎密は、長期スパンすることで不均一な出現パターンを平均的な確率値に均していくことができる、数学的にそうなることになっている(平均値への回帰)。だからしぶとく一定期間がんばってればよいだけです。

 これは起業でも、就職でも、結婚でも同じことです。もし本当に絶望以外に表現がないくらいダメダメだとしたら、世界は死体で埋まってます。てか、もう人類とっくの昔に終わってるし。ということは、まあ、そこそこ頑張ればそこそこなんとかはなるってことでもあります。それにダメだったとしても致命的なことになるのは少ないと。勿論一家心中とか離散とか悲惨な話は事欠かないけど、絶対比率でいえば、そちらがマジョリティってことはないでしょ?日本でそれがマジョリティだったら、人口半減してなきゃ嘘だもん。

 あとは個別事例に応じて、ぽんぽんぽんと重要指標みたいなものピックアップして杭を打っていって、そこを拠点にして調べていって、全体のバランスに配慮しつつ深めていけば、だいたいのことはわかると思いますよ。さらに感の鋭い人は、究極的な「ここだ!」という急所のポイントが見えると思います(それが合ってる保証はないんだけど)。

 少なくとも、本稿の主題でいえば、こーなって、あーなってという個別の成功プロセスなんか分からなくても良いということです。そんなことができたら未来予知が出来るってことで、それだけでメシ食っていけます。競馬の予想だけで巨万の富を築けますよ。多くの成功というのは、予想外の出来事が生じて、予想外のプロセスを辿ってそうなる。結婚だってなんだってそうですわ。事前に予想なんかできっこない。それを人は「縁」とか「赤い糸」とか呼ぶのだけど、そんなの分かるわけないのだ。だから個別プロセスが不透明なことを思い悩むくらい愚劣なことはないと言えますし、もしここで成功確率を高めようと思うならば、いかにして「予想外の出来事を呼び込めるか」だと思います。ガチガチの鉄板ルーチンをやってるだけだったら、予想外が生じにくいから、たまには変なことをしてみるとか、ヒマがあったら散歩にでるとか、気まぐれに動いてみるといいかもです。これを「犬も歩けば棒に当たる」と言います。

最後の不確定要素=自分

 最後にこれだけ書いて締めます。
 実際にいろいろやってみて、「世間のカンドコロ」「指標杭の打ち方」を学んだりするのですが、どんな場合にも共通して生じる定点ポイントが2つあります。マクロとミクロです。マクロには「人類社会はだいたいこう」という巨視的な世界観です。渡る世間に鬼はなし/鬼だらけなのか、鬼がいるならどのくらいの比率なのか、それは他の外形指標から推理できるのか(失業率が高まると治安が乱れるのかとか)という世界観です。

 もう一つのミクロは「自分」です。自分というのは世界平均からしてどの程度の偏差値なのか?です。どのくらい他人に愛されるのか、信頼されるのか。自分はどの程度有能なのか、無能なのか、どういう部分がどう評価されるのか。そして、どういう状態になると自分は満足し、どういう状況になると不幸感が募るのか?というスペクトル分析のようなデーターです。人付き合いといっても、八方美人的に誰とでも仲良くなれるけど、これはという特定の親友はできにくいパターンなのか、人見知りでシャイだから誰とでもは無理だけど、それだけに仲良くなる場合にはディープにそうなれるというパターンなのか、そもそもそんなに他人を必要とせずに淡い感じで良いタイプなのか、誰かのぬくもりがないと寂しくなっちゃうタイプなのか、などなど。

 これらは「自分探し」とか呼ばれたりもしますが、これって時として馬鹿にされたりもしますし、馬鹿にされてもしょうがないようなパターンもあるでしょう。でも自分探しの全てがクソなわけではなく、むしろ誰にとっても必要なことだと思います。だってそれが分からなかったら、何をやるにしてもカンドコロがわからないから、全ての成功確率が低下するわけで、看過できない大問題とすら言える。

 それに、こんなの言い方一つですよ。「自分という一個の資産を正確に査定すること」「スキルとキャリアと人格特性をグローバルレベルで精密に見積もり、実証していくプロセスである」とも言えるわけです。もし「自分探し」と言ったら馬鹿にして、国際的な人材会社の専門スタッフから「グローバルレベルで精密な査定をする必要があります」と言われたら「おお〜」と感心してしまうならば、こう言ってはナンですけど、アタマ悪いですよ。同じことやんけ。全体構造の把握ができてへんで、洞察力と推理力に欠けとるで、と。


 もともとはこういう平和で普通ないなたーい町並みなんですけど。



文責:田村



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