今週の一枚(2015/11/16)
Essay 748:まぼろしの「キャリア」
キャリア=「能力スペックの経歴的実証」は、リアルにどれだけ意味あるのか?
キャリアとは何か
今週は「キャリア」をお題にしますが、要旨は「日本人にはキャリアという概念はあまり馴染まないのではないか?」ということです。
「キャリア」という言葉は比較的新しい日本語(外来語)で、キャリア形成とかキャリア・マネジメントとかいう”活用形”になると、近々わずか10年以内に広がってきたものに過ぎないのではないか。それまでもキャリアという言葉はありましたが、「経験が長いからよく知っている」程度の一般的な概念だと記憶しています。あとは国家公務員の上級職(一種)に合格したエリート公務員をキャリアといい、そうでない叩き上げを「ノンキャリ」という、刑事小説なんぞに出てくる”方言”くらいでしょう。
その後、就職、転職市場において「キャリア」という言葉は語られるようになってきました。しかしですね、これは僕の穿った見方なのでしょうが、なんとなく「言ってるだけ」という気もします。
僕自身、日本でいわゆるサラリーマンをやった経験はないです。バイトはあるけど、あとは司法修習生という公務員的な立場、そしてイソ弁という勤務弁護士ですが、いずれも法曹界という特殊な世界での話です。歌舞伎や大相撲ほどではないですが、良くも悪くも徒弟制度的な色彩をはらんでいたので、世間一般のサラリーマンとはちょっと趣が違う。そんな人間にあれこれ言う資格はないのかもしれませんが、まあ素人の与太話くらいに思っててください。
外来語にするわけ
なぜ日本人には馴染まないか?ですけど、日本のサラリーマンと呼ばれる職務内容一般と「キャリア」という概念は、本質的に相容れないんじゃないか?って気がするのです。そもそも「キャリア」って何よ?って話になるのですが、あなたは「キャリア」と「経験」と「経歴」と「年季」と「実力」と「専門技術・知識」と「特技」などの類語の違いを明確に言えますか?なんとなくボヤや〜んと一緒くたに概念されているような気がします。
社内人事で、だれかを抜擢・任命する場合、「これまでの経験を見込んで」「年季の入った堅牢な仕事ぶりに期待して」などといいますが、それと「これまでのキャリアを考えて」というのとどこが違うのでしょうか?同じことだと思うのですが。そして、同じことだったら別に英語でキャリアなんてお尻がこそばゆい外来語を使わずに、普通の日本語で「経験」とか言ってればいいじゃないですか。どうせ英語出来ないんだしさ、てかキャリアの発音だって間違ってるんだしさ(カ・リーアという)、何で使うの?
思うに新たに外来語を使う場合、なんか従来とは違った意味をそこに含ませようという意図があるのでしょう。意識的にせよ無意識的にせよ。例えば「商業広告文案作家」では地味すぎるので「コピーライター」というとか。その種の「横文字になるとカッコいい気がする」という、よく考えると後進国のメンタリティ丸出しのカッコ悪い感性なんだけど、まあそのカッコ悪さが愛らしくもあります。僕もよく横文字を使いますが、これにも意図があります。一つは英語学習のために「そう言うんだ」って道標として(「ヴァイス・ヴァーサ=逆もまた真なり」とか)、もう一つは手垢のついた言葉を洗って別の視点で見るような場合です。
転職市場における付帯概念
では「キャリア」という言葉を使う意味は何か?これって誤解を恐れず(てか自分が誤解してる恐れもあるんだけど)、就職(転職)用語であり、もっといえば営業用と啓蒙用のフレーズではないかと。人材バンクとか就職関係の業界の人が、お客さんに説明するときに、「やはり将来のキャリア形成という視点で考えますとですね」とか説明しやすいでしょうし。あるいは勘違いしている大企業出身のクライアントに教え諭す機能もあるのでしょう。実はこれが大きいかもしれませんね。大企業の部長サンだったというので本人は得意気エリート気分なんだけど、一歩外に出たら、単に「傲慢で使えないオヤジ」でしかないって場合はよくあるでしょう。大看板背負った「会社の七光」で仕事をしてただけで、一個人として何がどれだけ出来るかは、これは厳しく査定されます。なのに「格下会社に下っていってやる」という傲慢ぶっこいている人がいたら、「あのね」と一から教えないといけないわけで、そこで「キャリア=能力スペックの経歴的実証」という概念は、説明概念としてはとても役に立つでしょう。
逆にいえば日本社会でも転職が普通の行為になってきたということであり、転職の常態化とキャリアという言葉の市民権とはパラレルのような気がします。昔は「とらばーゆ」とかそのくらいの軽いノリだったんですけど、もうちょっと内実ありげ、意味ありげのズシっとした言葉が求められたのかもしれません。
確かに「キャリア」という言葉の響きはカッコいいです。また、単にこれまでの過去の軌跡でしかない「経験」よりも、これから未来を開いていく、「これから経験をゲットする」「過去の経験を有効に活用する」という能動的でいきいきしたニュアンスもあって、それも良いと思います。
しかしですね、そういう「雰囲気を盛り上げる」「カッコよさげ」なクリスマスの飾り付けのような効用、ものの考え方を教えるための教導的な効用を除いてみたら、実際の意味内容ってどれだけあるのかな?と疑問にもなります。
ゼネラリスト指向にキャリアはあるのか
なぜなら、日本の会社、それもゼネラルな大企業の一般のサラリーマンになるほど、経験する職務内容って曖昧だと思うからです。大体「一般職」「総合職」って表現自体が曖昧でゼネラルですよね。字面からはどっちがどうなのかわからない、国語の問題でいえば同じじゃないの?って気すらします。この点、手に職系の方がはるかに明瞭で「NC旋盤技術者求む」などと分かりやすい。伝統的な大企業であるほど、新入社員(特に幹部候補生)にはあれこれやらせる。僕の知人は昔パナソニックに入って、各地の工場を転々とさせられ、さらに町の特約小売店に丁稚奉公のように出されて、お客さんの家の屋根に上ってアンテナ取り付けたとか言ってました。それはそれで良いことだと思います。その会社のあらゆる職場を自分で見聞経験してくるのは、将来の幹部としては計り知れないメリットがあるでしょう。現場の気持ちも分からない上層部にいい経営なんか出来るわけないですから。一通りやされていくうちに自然と適性がわかったり、あるいは単なる巡り合わせで、徐々に専門的な方向が固まっていく。資材購入方面にいくか、海外展開にいくか、国内販路にいくかとか。
つまりゼネラリストであり、且つスペシャリストであるという理想を追うわけなのですが、でもそんな「課長島耕作」みたいに絵に描いたように上手くいくのは一部の人だけではないか。数ヶ月やったら誰でもそこそこ出来るようになる程度の仕事を延々やらされるとか、単純にクソつまらない仕事だけであるとか、技術や知識よりもストレス耐性や根性だけが求められる職であるとか、そういった職務経験にどれだけの「キャリア」価値があるのだろうか。
仕事観と人生観の東西差
なぜ新卒採用をするのか?
上に述べたように「キャリア」というのは転職においてのみ意味ある概念で、新卒採用にはあまり関係がない。新卒者は、キャリアも何もバイト以外に殆ど働いたことないだろうし、こっちと違って日本の大学生は大体若い人がメイン。そして日本企業の多くは新卒採用によって人材補給をするのが主流であり、だからこそ大学生の就活という風物詩のようなイベントがある。ということは、日本企業の、それも大手になるほど「キャリア」なんかさして問題にしてはいないということでもある。もし絶対キャリア重視というなら、それこそこちらと同じように新卒採用は基本ゼロで、通年採用が当たり前だろうし、キャリアのないグラジュエイト(新卒者)は一生で最も厳しい就活をしなければならないことになる。これはニワトリタマゴのミッシング・リング問題(就職しないとキャリアは生じないが、キャリアがないと就職できない)として問題にもなっている。そのためキャリアを得るために無給でもいいですというインターンという制度、というか昔の夜這いのような「習わし」が苦肉の策として編み出されているわけです。
西欧の場合はそれはそれで理屈は合ってるのですが、日本の場合、木に竹を接いだようにヘンテコな話になっている。もともとキャリアなんか全然気にしない企業にインターンをする意味など本来の理屈の上ではゼロだろうし、キャリアとか言う割には、現場職務経験ゼロの無能確定の新卒者を大量に、それも国民的行事のように採用している。このフォッサ・マグナのような巨大なズレはなんなんだ?という。
西欧的スポーツ感覚の仕事観
これは結局どういう雇用をするかというモデルに関わっており、さかのぼれば「どういうビジネス組織の運営をするか」に関わってきてます。西欧の場合(てか資本主義、株式会社的にはこちらが本家だが)、お金儲けゲームで優秀な成績を残すための金儲けマシンであり、金儲けチームを編成し、機動させることです。プロスポーツのチーム編成みたいなもので、雇用や就職はいつにかかって「戦力補強」です。優秀な選手がいたら法外な契約金を支払ってでもゲットする、無能な人には目もくれない。また方針が変われば手のひら返したように全員解雇も普通だし、そもそも会社そのものの「存続」そのものにさして価値を見出してもいない。金儲け効率が落ちてきたら、新車に買い換えるようにすぐに売りに出したり、とっとと廃車にしたり。そのフットワークや決断の速さ鋭さがむしろイノチですらある。そこでは正社員の(クビにならない)身分保障とか、終身雇用なんて”妄言”レベルの戯言でしょう。一方、個人側もそれに対応してしたたかに考えます。転職を重ねて高度を勝ち取っていくというロングスパンの発想で臨み、アンビシャスな人は中高時代からバイトをしたりインターンもやって人脈広げます。一般公募よりも、人脈コネ採用が非常に多いですから、これらは大事な作業です。また、就職するにしても将棋のように「三手先」を考え、この会社で○○という履歴書に書けるスペック(キャリア)を獲得し、それをもとにより高度な○○に転職し、さらに、、という具合に先の先まで考え、且つ降って湧いたチャンスを逃さないためにも臨機応変にプラン変更をする。1年以上の求職活動の末にやっと採用された職場であっても、大した仕事を任されもせず、これでは履歴書が充実しないなって判断したら1日でもスパっと辞めるくらいの決断力もいる。本当にスポーツ感覚で「一塁が空いてるから無理をしないで敬遠しよう」くらいのドライな発想で臨んだ方がいい。徹底してますよね。
非常に無味乾燥で潤いのない世界なんだけど、それだけに個々人のパーソナルライフの充実は、社会全体のコンセンサスとして重視されるし、強力に実践もされる。もともとつまんねーことやってるのが前提だから、職場の人間関係もある意味どうでもよいし(親睦を深める必要なんかないし)、残業という「苦役の追加」には「ペナルティ」と呼ばれる(本当にそういう)割増賃金を払わないとならないし、有給休暇を未消化のままなんか「絶対ありえない」ことであり、それを圧力的にサビ残させたりする企業があれば、あっという間に訴訟を起こされ、途方もない賠償金を取られ、社会的にタコ殴り的に厳しい制裁を受ける。ルール違反には非常に厳しいですから。
多分、僕が思うに、底の方に「他人の金儲けが面白いわけないだろ」という世界観があるんじゃないかな?「こんな詰まらないこと、金でも儲からないとやってらんない」という。だからオーストラリアでも、個人で起業するとか、ビジネスを買うような人たちはアホみたいに働いていたりする。それは面白いからですよね。またシニアマネージャーとか自分の才覚を存分に振るえ、報酬も数千万から億単位で巨額の人たちはいつ寝るの?ってくらい激務です。これも面白さ+報酬があるからでしょう。それほど面白くなく、大してもらってない人は、その代わり豊かなパーソナルライフが社会的に保証される(だから失業保険も一生出る)。それに金持ちが「エライ」という価値観もあんまりないですね。それぞれに帳尻合ってます。
このような世界で「キャリア」をいうのはよくわかります。企業という巨大なマシンの維持発展のために必要な「部品」の調達であり、それが就職。そこではネジやボルトの調達のように○ミリ径で長さが○センチでという厳しい指定(スペック指定)があり、それにちょっとでも外れたら採用しない。そりゃそうでしょう。寸法の合わない部品買っても無駄ですから。ゆえにこちらのCV/レジュメ(履歴書)は、具体的にどういうことをやって、何が出来るようになったのか?について詳細に書き込まないとならないから、通例数頁にまたがります。商品(自分)に関する詳細な仕様書です。また、能力機能だけがポイントなんだから顔写真を貼るのも、読みにくい手書きで作成するのも「ありえない」です。絶対やってはいけないってレベルです。これもそりゃそうでしょって話で、本質に関係ない無駄をせっせとやってる段階でそいつの無能が証明されているわけですから。
中世的「家」制度の日本
翻って日本社会の場合、社会の成り立ちとか、会社や仕事の概念が全く違います。つくづく封建社会風だなあって思うのですが、お家大事主義というか、まずロイヤルな人間集団がある。家族のような運命共同体的な人間集団がある。「風魔一族」みたいなもので、住友なら住友一族、三井なら三井党みたいなもので、商業登記的にも連結財務的にも全然別個の組織であろうが「一族」であるかないかが大事。そこでは滅私奉公的に一族(仲間)に奉仕することが人間として最高に立派なことだとされ、極論すればなんの仕事をするのか、金が儲かるかどうかすら本質ではない。「身内の恥」はひた隠しにしようとするしね。だから正社員というは「正会員」であり、平安時代の殿上人と地下人みたいな待遇差というよりは「身分差」と考えた方がしっくりいくし、仲間が困っていたら銭金抜きで協力するのは「人として当然」としてサビ残が美談にもなる。人間関係の美しさや快楽と「他人の金儲け」がなんか知らんけど分子間結合のように同じ時空間に重なり合っている奇妙なキメラ状態ですな。思うに、日本人というのは、地球人平均よりも「仲良しグループ」が好きなんかもしれないです。人間誰でも好きだけど、でも人生の中核にそれをもってくるくらい、未だにそれをやっているのって先進国では珍しいかもしれない。日本人よりも日本人属性が強い韓国くらいじゃないですかね、財閥強いし。
んでも、そんな「皆で幸せを分かち合って〜」が通用したのは、ほっておいてもモノが売れた高度成長時代までで、頭打ち→縮小トレンドになると、当たり前だけど人員削減が出てくる。本来は「再構築」の意味であるリ・ストラクチャリングが「リストラ」と呼ばれ、「馘首」のマイルド婉曲表現として使われるようになり、リストラ=人生の恐怖みたいに語られるようになる。そこからトントン拍子に下り坂を走り続け、今では非正規が40%に達し、もうそんな「皆で〜」的なメンタリティは物理的に成立しなくなっている。
カレント(潮流)衝突
家族主義と利潤主義
転職市場が拡大して、マジョリティが普通に転職するようになっても、日本社会の本丸は中世的「家」であろうと思われます。そこの中枢エリートになろう、社長になろう、経団連の要職につこう、公務員でも霞が関の局長クラスまでいこうと思ったら、中途採用のような「外様」には難しく、多くの場合は生え抜きのエリートでしょう。そこでの外様の扱いは、機能面重視の用心棒や助っ人であり、用が済んだから切られるかもしれず、少なくとも人生丸抱えで面倒見る気はあんまり無いかも、です。まあ、そのこと自体が「まぼろしの封建企業」って感じで、正邪はともかく今後もサステナブルかどうかは疑問がありますが、事実の問題としてはそうだと。でもって、これが完全に払拭されるのは、おそらく新卒採用という儀式が日本から消滅する頃(昔の元服や隠居制度みたいに)でしょうから、随分先の話のような気もします。でもって、今なお当たり前のように新卒採用がどうの、解禁デーが前倒しだの後ろ倒しだのマスコミに流れているようでは、この種の封建的な外様扱いもまた、ここしばらくは続くだろうという予想がつきます。ま、ここらへんは、分かりますよね。そうなると、転職というのは、中世的な仲良しグループ原理とスポーツチーム的機能原理という二つのカレント(潮流)が衝突する局面での話になるかと思います。そういう局面は今はとても多くなっているでしょう。
これは2つの原理、中世的な家族主義と現代的な資本利潤主義とが激しく対立する局面ともいえ、もう納豆にケチャップかけて食えみたいな世界になって、いろいろとギクシャクする。ギクシャク具合では大企業の方が大変でしょう。従業員には中世的な奉仕を求めつつ、経営的には「弱い奴は骨までしゃぶられる」の資本の論理で臨むという。
その意味でいえば、中小企業や零細企業の方が、昔っから常に大変だったので融合具合はしっくりいってるでしょう。全員が深い顔なじみだから家族的に協力も惜しまないけど、しかし不景気になるとしわ寄せを喰らい、煮え湯を飲まされるから、背に腹は代えられないということでクビにしないといけない。そのあたりの社長の苦悩も小さい企業ほどよく見えるし、「しょうがないな」ってこともわかるし、また社長も従業員の再就職の斡旋に駈けずりまわったりもする。家族と資本の2つの原理の拮抗点に常にいるから、慣れてもいるのでしょう。
さて、そんなこんなで現在になって、そこでキャリアとは何かです。既に転職が当たり前になって久しく、新卒者といえども昔のような滅私奉公的に勤める気もなかろうし、そこまで「社畜」になりたくないわって気もするでしょう。だから就活でもドライに捉えているとは思います。もっとも、完全ドライに西欧流にやるのであれば、そもそも新卒採用なんか無いわけですから、そこで採用されちゃってる時点で、なんらかの「中世的恩恵」は受けているのですよね。それが嫌ならニューヨークでも、ベルリンにでも飛んで就活やればいいです。世の中等価交換ですから、中世的恩恵をうけた分、その見返りはきっちり求められるます。
このような「労働市場の流動化」と呼ばれる大勢において「キャリア」という概念は中途採用における採用基準のキーワードになります。だから大事なことなんだけど、でも同時に、だからいい加減な概念だとも言える思います。以下その点を述べます。
採用現場のリアルな感覚
採点基準が全部違う
さて、もともとが暖流と寒流のぶつかり合いみたいな局面ですので、そんな一律論理的に整然とコトが進むわけがないというのも容易に予想されます。会社によっては、ほとんど封建的体質をまるっぽ残しつつテンポラリー補充として中途採用をするところもあろうし、あるいは完全にグローバル風で全員中途採用で、全員が転職経験者ってサバサバしたところもあるでしょう。つまり採用する会社側の事情を考えれば、新卒採用のような一元化したフォーマットで話が進むはずがないです。どういう採用基準でどういうキャリアを重視するかは、極論すれば企業によって全部違うといってもいい。さらに同じ企業の同じ職種であっても、その時々の局面でアクセントの置き方は変わるでしょう。
それが何か?というと、これがテストだとしたら採点基準が常に違うようなもので、非常に予測しにくいし、対策も立てにくいということです。絶対大丈夫という鉄板の何かがあるわけでもないし、逆に言えば絶対ダメということもない。不安定といえば不安定、面白いっちゃ面白い市場です。「家臣求む」の新卒採用とは全く違ったゲームであると。ラグビーとアメフトの差どころではなく、ラグビーとゴルフくらい違うんじゃないかって気がします。にもかかわらず、メンタル的には新卒採用みたいな感じで考えているから、おかしくないか?ってのが本稿の所論です。
胸先三寸
これは自分が雇用主になって他人を募集してみたら即わかると思います。別にビジネスでなくても、サークルの勧誘でも交流会の新人募集でもなんでもいいです。どういう人に入ってきて欲しいか?これ、ほんとにケース・バイ・ケースだと思いますよ。例えば、バンドのメンツ募集だって、それが完全プロ指向だったら、人間的にはいけ好かない奴でも腕が良かったらアリですし、人としては最悪に近くてもルックスが抜群に良くてそれだけで客を呼べそう、売れそうだったら加入させる。それでメンバー間が一触即発のギスギスモードになろうとも「仕事なんだから我慢しろ」です。しかし、別にプロになる気はなく、楽しく音楽ができればいいや、あるいはプロになりたいけどそういうやり方は嫌いだって場合もあるわけで、そこでは腕よりも音楽の指向性が一致しているとか、他のメンツと馴染むかってのが重視される。一緒にいて楽しい人ならアリで、つらい人ならナシだろうと。それをキャリアと言おうが、経歴や実績と表現しようが、志望者の過去の事実群から何を読み取って、どういう価値付けをするかは、すぐれて採用する側の事情によります。「○○をしてました」という一つの事実から、経験に裏付けされた技術を読み取るのか、あのハードといわれるところにいたんだからストレス耐性や根性はあるだろうと思うか、あのクセの強い親方のもとにいたんだから人間関係の順応性は高いだろうとか、それはもう「何を求めているか」によって違ってくる。
つまりキャリアといっても、何が正解、どれがどれだけ価値があるかは、ひとえに採用担当者(最終決定権のある人)の胸先三寸にかかっている。だとしたら、こんなの事前に分かるわけないですよ!「採点基準がバラバラな試験」といったのはその意味で、一所懸命答案を書いても、A社はその内容の深さよりも正確性を重視した採点をし、B社は深い独自の考察がなされているかどうかを見て、C社は内容よりも字が綺麗か、フォーマットを忠実に踏んでいるかに着目し、D社にいたっては試験なんか形だけで応募者のルックス、可愛いかどうかだけで決めているという。
もちろんひとつの基準だけで決めているわけではなく、専門技術に関して数項目(知識の深さ、現場経験の長さなど)、人間性に関してまた数項目(忍耐力、協調性、学習能力、バランスのとれた人柄など)、その他(紹介者やコネ、思想性、勤務継続可能性とか)などなど十数項目のポイントをミックスし、総合的に判断するでしょう。ただ、そうであってもアクセントの置き方は会社により、また採用局面によりそれぞれに異なる。
判断基準のバラつきというのは、何となく思っている以上にずっと広範囲にまたがると推測されます。なぜなら新卒採用なら定期的な人員補充ですから、これまでと同じような定量定性的な基準でいいかもしれないけど、ここでは中途採用が問題になっているわけです。土俵が違う。中途で募集をかけるなら募集をかけるに至った何らかの具体的な理由があるはずです。例えば、新たにミャンマーに工場を新設するので現地や海外慣れしている人材がほしいとか、工場や研究所を統廃合するので新たに現地在住のスタッフが必要になったとか、あるセクションの人員が定年あるいは退職してぐっと減ったので補充しなければならなくなったとか。そうなると、ニーズもまた具体的になります。○○支店で営業すると、あそこは土地のつながりが深いところなので出来れば地元出身の人の方が良いとか、あのセクションのスタッフは曲者ぞろいだから普通のメンタルだったらやっていけないだろうからタフな人を、とか。
かくして採点基準は本当にバラバラになります。そしてその採用基準を最初から求人広告で明確にしてくれたら、応募する方もおぼろげにでも採用基準がわかるので準備もできますが、普通そこまでしない。「クセの強い店長がいるから打たれ強い人」なんて書くわけもないでしょう。
そうなると結局は「闇鍋」みたいな、博打みたいな、ビンゴみたいな話になってしまう。ならざるをえないのですよ、こんなに採点基準がケース・バイ・ケースでブレてしまうならば、何がいいのかよく分からんですもん。
法律事務所の場合
僕自身、前の職場(法律事務所)で事務員さんの採用を担当(てか使いっ走り)をして、最終選考会議(といっても零細企業だからボスとパートナーと事務局長さんと自分だけ)にも参加させてもらったのですが、一人退職したから補充に入れるという一般的なことであっても、やっぱあれこれ真剣に考えます。でもね、感じとしてはほぼ満場一致ですね。「あ、この人」って。僕が「うーん、ちょっとな」と思う人は、他の人もそう思う。そしてその基準は、なんと「直感」です。法学部出身だから良いというわけでもないし、正直学歴なんか殆ど誰も気にしてないです。かつて満場一致で決めた人の前職は保育士さんでしたし、それが人選ミスでなかったのはその後の働きで十分分かったし、また現在も某事務所でバリバリに活躍されていることからも明らかです。過去に別の法律事務所で働いていたというドンピシャの「キャリア」さえ、必ずしも重要ではない。逆に作用する場合もあって、ほかの会社のクセがついてしまってウチの流儀に合わないかもしれないなってネガティブな視点もまたあるからです。未経験者だってちゃんと教えますし、他のスタッフも殆ど全員が未経験者採用からOJTで覚えてきたから教え方も上手い。僕以降のイソ弁さんを採用する際にも、これも学歴とか何年で司法試験受かったとかは関係なくて、「鼻っ柱が強そうで良い」とか、そんな感覚的なところで決める。でも最終的には「ウチに合うか」です。そしてそれは、直感で見るのが一番正解にたどりきやすい。そういえば非常に良い方だったんだけど、惜しくも落選になった方のお母様から「なぜですか?」とお電話をいただいたことがあります。手塩にかけて育てられて、どこに出しても恥ずかしくないお嬢さんで評価も高かったんですけど、そういう一般解的に高水準という人を別にウチは求めてないのですね。ウチもクセがあるので、そのクセの曲がり具合が同じかどうかというか、共通属性があるかどうかという部分。
これは本当に説明しにくい。直感なんて大雑把に過ぎるというなら理屈で説明することも可能ですけど、それは後付の理屈にすぎず、前に立つのはあくまで直感、しかし外れない直感です。弁護士3人と経験豊富な事務局長が見るわけですから、そうそう人選を過たないですよ。だから大体いつも満場一致です。意見が分かれたことは、無いんじゃないかな〜。見る目は大体一緒です。なんでかといえば、そんな一般解的な基準なんか、実際の鉄火場のような現場ではクソの役にも立たないからです。そりゃヤクザもくるわ、変な人も怒鳴りこんでくるのが法律事務所で、それを弁護士は超多忙でいつも不在みたいな感じだし、事務員さんも事務処理に追われている中で片手間に対応されて、妙なことでも口走られて言質取られたら命取りですもん。集団登山のザイルパートナーみたいなものですから、それは超真剣に見ますよ。超真剣に考えて、その人が職場にいる風景をリアルに想像して、動かしてみて、しっくりくるかどうかです。
だもんで「キャリア」なんか殆ど通用しないです。しいてキャリアをいうなら、「今までちゃんと生きてきたかどうか」です。真っ直ぐ生きてきたかどうか、変なところで歪んでないかという素材の良さですね。少なくとも数ヶ月から数年にわたる長い付き合いになるわけですから、そこにズレがあると長い間におかしくなってくるので、それが恐いです。
多分、世間で最も通用する(就活に限らず)特性は何かといえば、「性格が素直で」「地頭が良い」ことだと思います。この二点がそろっていたら、人間社会のあらゆる局面で相対的に最強になれると思いますよ。2つのうちさらに一つに絞り込むなら「素直」ですね、断然。素直だったら多少無能でも、頑張って覚えてくれるし、その学習プロセスが多少遅かろうとも、逆にいえば丁寧な仕事をしてくれるってことでもあります。実際の職務でそこまで超絶技巧を求められることはマレですし、多くは当たり前のことを当たり前の手順でミスなくやってくれればいいだけですもん。
キャリア=証拠
証拠→証明力→立証命題
「キャリア」とは一種の「証拠」だと思います。過去にこういう職務経験があるという証拠は「○○の仕事は出来るだろう」という証明力を持ち、それが「我が社が望んでいる人材である」という立証命題に対して強い推定力が働くと。しかし!今までのべてきたように「立証命題=どういう人が欲しいか」そのものが時宜によって全然違うので、バッチシの証拠を出してきたつもりで大した意味を持たないということも多々あります。さらにその証拠がどれだけの証明力をもつかは、実際の裁判と同じく「自由心証主義」です。数学みたいにああなればこうなるってもんでもないです。例えば「○○のプロジェクトをやりました」と書かれていても、別に一人でやったわけではないだろ?とか、あれはブレーンとかスタッフが良かったからそうなっただけで本人一人の力は未知数だよねとか、逆に優秀なスタッフが周囲にいない環境ではダメダメなのかも?と思われたりとか、「証拠の証明力の評価」というのは本当に違うのですね。また、証拠的にはそろっていても、「なんか腑に落ちない」とか「どことなく人間的に信用しきれない部分がある」とかいうファジーな部分があって、それが結構決め手になったりもするわけです。
だもんで「キャリア」つってもね〜って、ちょっとスケプティカル(懐疑的)な部分も僕にはあります。本当に意味あんの?という。それは、高身長で高収入でイケメンで、、、というスペックが揃っていて(キャリアに相当するものがあって)も、だからといってその人と結婚するか?というと、あといくつか関門はあるでしょう?連れて歩いて見せびらかすという採用目的ならそれでもいいでしょうが、一生一緒にやっていく、老後になって下の世話までやりあうとするなら、この人でいいのか?というのはあるでしょう。それに他の要素、やれ親御さんと合いそうもないとか、実家の地元がうるさそうとか、そもそも性格や価値観が全く合わないということもある。だから、キャリアやスペックが揃っているから、それではいリーチ一発上がり〜!というわけにはいかない。数あるポイントにおいては高得点を取るだろうけど、決め手にはならない。数ある証拠の中の一つに過ぎない。
西欧でよくあるリファレンス(前の勤務先が発行する内申書みたいなもの)やレフリー(保証人)だって、「目撃証人」としての証拠の一種と捉えられるでしょう。経歴、経験、特技なんてのも、その人の採用適合性を推認させる証拠のうちの一つにすぎない。学歴や資格、趣味、エピソードなど、その人の人となりや奥行きを窺わせるものは全て証拠になりうる。だからこそ履歴書にそういう欄があり、面接でも聞かれたりもする。
この場合、こう答えるとGOODみたいな模範解答があったりするのですが(ボランティアやってこう感じたと言えとか)、採用する側にしてみたら、版で押したみたいなコピペ回答もらっても何の感銘もないでしょうね。むしろその証拠の証明力は「個性がない人」「すぐ鵜呑みにする人」という心証形成に向かって働くでしょう。しかしながら、立証命題(求められる人物像)そのものが個別で違うわけですから、その個性のないところが良い、すぐ洗脳される単純さが良いという場合もあるのですよ。特に新卒採用のように白色無地で我が社の色に染めやすいかどうかで見る場合、無駄な個性なんか無いほうがいいし、上司が黒と言えば白いものも黒なんだと洗脳されてくれる方が都合がいいですから。それは言葉悪くいえば、優秀な奴隷ロボット属性みたいなもので、それをこそ求めているという場合もありますから。エキセントリックで見てて面白い遊び友達を探しているわけではないのですから、それはそれで一理あります。
ちなみにキャリアと資格の違いですけど、例えばバーの用心棒を採用する場合「喧嘩が強い」というのが条件になったとします。その際「○○空手三段です」というのは資格でしょう。でも「あの○○とタイマン張って勝った」というのがキャリアになると思います。キャリアという概念がわかりにくかったら、「武勇伝」と意訳して置き換えるとわかりやすいかもしれませんね。いずれにせよ、証拠の証明力の世界です。資格でもキャリアでも、勢い込んで「○○です」と言ったところで、「それがどうした」と思われてしまったらそれまでです。証明力が弱かったと。
長くなって申し訳ないのですが、以上の点を前提に、ピンポイントに所感を述べます。
雑感
キャリア病にならないように
上でさんざん述べたように「キャリア」というのも、ケース・バイ・ケースで意味内容が千変万化する空の雲のような存在です。そんなにカッチリした煉瓦のような実体があるものではないです。ともすれば、「キャリアを積まないと人生が開かれない」と思い込んでしまって、そこで悩む方が多いのですが、あまり気にせんでもいいと思いますよ。キャリアのためのキャリアなんか、犬も喰わないぜ。僕のところは貧乏所帯ですので人様を雇う余裕はございませんが、もしそういう機会になった場合、キャリア=全半生で見ます(つまり事実上不問)。世界50カ国を歴訪し滞在歴20年の人と、海外どころか飛行機乗るのが初めてで英語も全然って人がいたら、どちらを雇うかわかりませんね。後者になる可能性が高いかも。というのは、僕がやろうとしていることや価値観を素直に理解してくれる人が絶対条件ですから。知識経験が豊富にあればいいってもんでもないのですよ。本当に優れた人は、知識経験が増えるにしたがって素直に、プレーンに、柔軟になるけど、人によっては偏ってしまう。実際仕事やってて、いちいち「えー、リオではそうじゃなかったですよ」とか言われると「うるせえよ」って気分にもなるし(笑)。
また採点基準が千差万別であるということは、誰にでもチャンスがあるということでもあります。大企業の新卒の場合は集団処理になるから画一的な基準を用いる必要も出てくるだろうけど、中途採用の場合、重視するポイントは多岐に亘ります。また、自分では全然プラス評価していない過去のなにかを、どっかの誰かは高く評価するかもしれません。
また、一見ネガティブな経歴であっても、事情をよく見たらプラス評価に転じる場合もありえます。例えば高校時代先生殴って退学になりましたって経歴でも、その先生がクラスメートに目に余るセクハラをして、その子が鬱になっちゃって、でも学校側が世間体を気にしてシカトしてたから、「ざけんじゃねえ」でポカリとやったというのであれば、男気度数高し、正義感強しってことで、プラス評価できます。「いや、そういう主張の強い人はどうも、、」と尻込みするところもあるでしょうけど、それは尻込みするような組織であり、そんなところに下手に入ったらまた上司をポカリとやることになるから採用されない方がいいです。それでもメゲずにやってたら、破顔大笑で「気に入った!」と言ってくれる人だっていますよ。てか、そのくらいでないとボスにはなれないって部分もありますからね。
ワーホリや海外留学してきたことをプラスに取ってくれるところもあろうし、マイナスに取るところもあるでしょう。でもね、就職というのはアイドルになるのとは違いますよ。なんか知らんけど勘違いしてる人が多いような気がしますが、一般大衆に受けなくても、CDが百万枚売れなくてもいいのです。そんな百万社に同時に勤務することなんか不可能なんだから、一社あればいい。勝率0.00001%(数字はテキトー)で良いのだから、楽なもんでしょ?一般解なんか要らないのだ。特殊解・個別解でよく、それだけが問題。この一般・個別の混同というは、人生で一番やってはいけないことだと僕は思うのですが、一般論は参考にはなるけど具体的な指針にはなりませんよ。したらあきまへん。結婚だって同じことで、別に全世界の異性にモテる必要は毛頭なく、どうせ一人としか結婚できないんだから一人いればいいです。その一人を大切にするところから全てが始まるんじゃないんですか?
面倒くさいから起業
僕個人としては日本的な仲良しグループ的なビジネス組織論も良いと思ってます。仕事が気持ちよくて楽しかったら、それはそれで手っ取り早くていいでしょう?って思うし。また少なくとも、仕事以外の人生局面を全力でサポートし、賞賛する文化とシステムが社会に根付かない限り、結局仕事にそれなりの人生的充実を求めることになるんだから、そういう部分は大事だろうと思います。ひるがえって、個々人のパーソナルライフの自由度が保証されているこちらで、スポーツ戦略的にコトが進んでいくのも悪くはないと思います。上から下まで金儲けのためってスッパリ割りきってやるという。人生の愉悦は他の局面で存分に楽しむ。学生さんの夏休みみたいなもので、バイトはバイトで頑張るけど、遊ぶのもきっちりやるという人生です。
ただ、こっちのスペック重視の部品調達就活を見て、それを我が事に置き換えてみると、「面倒くせえな」って思ってしまう自分もいます。そんなに中々スペック合致なんかするわけないし、初期においてはスペック(キャリア)もないわけですから、かなり苦労します。まあ、その種の苦労は覚悟の上で、1000連敗単位でもいいかとは思うのだけど、でもね、と。
でもね、そこで1000連敗単位で一生懸命努力するくらいなら、その労力で自分で起業しちゃった方がいいやって思ってしまうのですね。雇用先も一般のお客も「取引先」という意味では同じですから。一社専属取引をするか、広く世間相手にやるかの差でしかない。そして同じ苦労をするくらいなら、自分でやりたいことをやった方が得じゃんと。まあ、そんな損得勘定で考えているわけではないのですが、自分でやっちゃった方がトータルで割が良いような気がするのですよね。まあ、やりたいことがどうにもこうにもお金になりそうもないならば、別途バイト的にマックジョブでもなんでもやりますけど、部分的にも重なる(やりたいことをやりつつお金も多少は入る)可能性があるなら、追求してみてもいいよなって、そう思いました。まあ、そこまで言葉にして明瞭に考えたわけではないんだけど。
文責:田村