今週の一枚(2015/11/02)
Essay 746:にぎやかしテレビと「俺の現実」
紫色のジャカランダの季節ですが、ブーゲンビリアも咲いてます。この2つが並んでると結構ゴージャスでいいんですよね。先日、その混在パターンをみつけて撮ったものです。
この写真は、花の並びがデザイン的に千代紙みたいな、三越の包装紙みたいな、「ベルばら」みたいな感じがして面白かったので。
ファイダー動かして構図決める作業が難しいやら、面白いやら。
ドレッシングとテレビ
オーストラリアに暮らし始めてから、サラダにドレッシングをかけなくなりました。
そしてもう一つ、めっきりテレビをつけなくなりました。
それは何故か?今週はその話です。
トイレの消臭剤のような必要が。
素のままでは何か不愉快なものがあるから、それを上塗りするようにして誤魔化す行為。肌の皺を隠す厚化粧のような行為。これらをする必要がなくなったから。
ドレッシングは簡単で、野菜が美味しく感じるからです。日本に居るときは、(探せば本当に美味しい野菜もあったんでしょうけど)大体はなんか苦くて、身体に良いからといってクスリみたいに食わされるというか、お仕事のように義務的に食べていたので、ドレッシングかけてその味でいきおいで食べているような感じ。でもこちらの野菜は、それがオーガニックでなくてもわりと美味しく、ニンジンなんか生で齧れるくらい。最初は習慣でドレッシングかけてたけど、ほどなくして意味ないかも、むしろ邪魔かもということで、かけなくなりました。それをする必要がなくなった。
テレビも同じことです。ただ、テレビの場合は、ドレッシングよりも話がやや複雑です。
テレビの効用=現実逃避
甘い静寂
そうはいうものの、僕は日本に居る頃からテレビはもともと殆ど見てなかったです。小学校のときは結構見てた気がするのだけど(アニメとかドリフとか)、でも中学くらいからそんなにテレビ見なくなりました。大学時代も部屋にテレビなかったですもん(一時期、先輩が拾ってきた白黒テレビを譲り受けたことがあるがその程度)。仕事してる時もそんなに見てなかったかなあ。レンタルビデオとかPC通信はやってたけど番組そのものはMTVくらい。
もともと見てなかったので、オーストラリアに来てから「見なくなった」というのはおかしいのですが、それでも差異はあります。日本に居る時は、見る気が全然無くても、「とりあえずつけておく」って行為を時々していたのです。見る気がないなら(実際見てないのだが)消せばいいじゃないかって思うのだけど、消すとなんか寂しいというか、変な感じがして。
ココです、今回のテーマは。
つまり見る気のないテレビをつけっぱなしにしておくのは、「さみしい」にせよ何らかの不快な感情があって、それを誤魔化すようにテレビをつけて上塗りをしているって構図があったのではないか。
こっちきたら(ウチの近所では)、夜は本当に無音に近いくらい静かになります。時々近所でどんちゃんパーティ(21歳記念とかバースデーとか)はありますが、大体は静寂。だったら寂しいから常にテレビをつけているかというと、さにあらず。静けさが寂しくない。むしろ気持ち良い。「やさしい静けさ」「甘い静寂」って感じで、無音が圧迫的ではなく、肌触りが柔らかく、それで満ち足りてしまう。だからけたたましい笑い声が聞こえてくるテレビをつける気がしない。How dare you?って感じ。
まあ、「無音」といっても自然の音=風とか雨とか動物とか=はあります。それは潮騒とかセセラギのような麗しいヒーリング的なものではないまでも、耳に違和感のあるものではないです。そういえば書いてて思い出したけど、日本で本当に無音になると、キーンといった金属的な味がしてたような記憶があります。それがなんか不快でしたけど、そういう金属的なものはこちらの無音にはあまり感じられないです。
それでも来た当初はテレビよく見てました。それは英語の勉強やら、現地を知るためという目的あってのことです。しかし、時が経つにつれ、それも段々どうでもよくなってきて、レジャーとしてテレビを見ることは殆ど無くなりましたね。ケーブルテレビの契約してて、見ないと勿体ないんだけど(ネットとセットになってるから仕方がない)、それでも敢えて見る気はしない。たまーに勿体無いから見よう!とか思って見るんだけど、まあ5分も持ちませんね。「おもんない」と思っちゃう。
映画とかダウンロードしてきたアニメ見ることはありますよ。でも、それは見たいものがあるから見るだけの話で、日本にいるときのような「にぎやかし」でつけるということはない。つけてる時は食い入るように見てる。そして見ない時は邪魔くさいから消す。まあ正当っちゃ正当な見方ですよね。パンク修理の用具は、パンク修理の必要があるときだけ使うのと同じことで、見たいものがあるから見る、終わったら片付ける(消す)。
騒音対策と暇つぶし
ここで、「はて、なんでだろ?」と思うわけです。日本に居るときは、なぜテレビをつけてないと寂しい感じがしたんだろう?というか、あれは「寂しさ」なんだろうか?ちょっと違うような気がする。一つには騒音対策というのもありました。日本の都会はとにかくうるさい。帰る度に思うのだけど、なんでこんなにうるさいの?と。まず車の音がうるさい。これは今の家に住んで理由がわかりました。地形と樹木の多さでしょう。今住んでる家だって、すぐ近くに高速やらバス通が走ってて、大きな交差点もあります。だからうるさいハズなんだけど静か。なんでかなというと周囲の森のような木々が音を吸い込んでしまうのでしょう。同時に坂の途中にあるので坂の上部がいい遮蔽物になるのでしょう。だからこれは日豪の比較というよりは、住環境によります。オーストラリアでも大きな交差点にモロに面しているとか、マンションの高層階は音があがってくるからうるさいです。もし、静かに暮らしたいなら、樹木の多いストリートの一軒家(でなくてもそこそこ低層階で通りから離れて奥まってる部屋)がいいと思いますよ。
あと、オーストラリアの基本地型が京都の「うなぎの寝床」のように細長い(奥が深い)うえに二軒背中合わせになってる場合が多いので、日本よりも道路の数が少ないという点もあげられるでしょう。また住宅街の静穏を守るために、クルマの裏道をかなり気合をいれて潰してます。大通りにたどり着く手前で進入禁止にしたり、杭を打ったり、徹底的に意地悪してクルマを入らせないようにしますよね。だから住宅街の通行車両の数が極端に少ないという点もあります。住居の気持ちよさ>経済効率という価値観がハッキリ目に見えて、最初の頃、日本の感覚で裏道狙いでクルマを入れては「だー、またダメだ!」でカリカリしながらも、「そういうことか」と納得しました。
日本に帰ると、京都駅の南の方の大きなマンションに実家があるのですけど、あのへん樹木が全然ないのですよ。そりゃ街路樹もそこそこあるけど、可哀想なくらい小さいし、「鬱蒼として見上げるような」って感じではないです。これだけ森林資源に恵まれている国なくせに日本の都会は樹木少なすぎ。
そして日本の場合、密集したマンションなどの場合、隣近所の生活ノイズ(テレビの音やら言い争いの音やら)がうるさい。これは本当にテレビでもつけるか音楽でもかけるかしないとしんどい。壁が薄いというのもあるけど。高校の時、東京下町の佃というところに住んでましたが、これが巨人の星にでてくるような昔ながらの長屋で、裏の窓をあけたらすぐ隣家で、付近の家のテレビのナイターの実況中継を聞いていれば、自分でつける必要がないってくらいでした。大阪にいたときは、京橋〜桜ノ宮で、窓をあけたら太閤園の森が見えたので、それは良かったです。交通ノイズはほぼ遮断。年に一回、近所の造幣局桜の通り抜けの酔客が高歌放吟って感じで裏道歩くのがうるさいくらいで。その代わり、自室がエレベーターの真前だわ、階段の横だわ、よく反響するわで、話し声とかがうるさいのですね。土地柄なのか(その昔はキャバレーの本場京橋でありラブホテル村桜宮の近く)、カラフルな人生を送ってらっしゃる方々が住んでて、階段の踊場あたりで痴話喧嘩のようなやりとりがあります。筒抜けに聞こえるんですけど、「あんたが堕ろせゆうたやんか!」とか人生いろいろ劇場でして、最初は面白いけど飽きてきますよね。その種の話は仕事でもさんざん聴いてるし、自宅に戻ってからも聞きたくないし。
ということでテレビ見てないでPC通信やってるときも音楽は付けてましたね。「最近音楽を聴かなくなった」というエッセイ(307-8回)でも書いたけど、車の運転かジョギングしているとき以外には音楽聴かなくなりました。普通に生活している限りにおいては、騒音対策的( or ヒマ潰し的)に聴く必要がない。
余談ながら、昔出来た「ながら」が今は出来ないです。受験勉強の友=深夜放送と音楽って感じだったんだけど、それも大学入試までだったかな。司法試験受験も、実務の仕事も、ながらではダメでした。ビール飲み”ながら”ってのはあるけど、音楽聴き”ながら”は無かったです。なぜだろう?うーん、やっぱ局所的にCPU100%以上にカッ飛ばして自分の思考のK点越えないとならないと箇所があるからでしょう。超真剣にならないといけない数分間では自分の思考の100%を投入してもまだ足りなくて、105%くらいに力づくでもっていかないとならない、全力でピョンピョン飛ばないとならない。そこでは音楽にCPUの数%もっていかれるのも惜しいという。変な喩えですけど、あなたが新婚初夜のイトナミをするときにイヤホン音楽聴きながらやりますか?って話です。
その意味でいえば、大学入試なんか頑張ってるようで、実は全然真剣じゃなかったんですよね〜。やってるつもり。新婚初夜くらいの真剣度で勉強してたか?というと、してない。じゃあ仕事はそのくらいの真剣度でしてたのか?といえば、イエスです。即答。局所的だけどしてました。だって、数百ページもある証人尋問調書を読み進んで、「あれ、なんか変だぞ」「どっかひっかかるな」とカンみたいなものが囁いて、この違和感の正体はなんだ?なんで自分は変だと思ったんだろう?と必死にページをバラバラとめくって探す。ああ、でも時間がない!もうあと10分したら法廷行かなきゃ、ああ、くそ、気持ち悪いぞ、ああ、あと3分しかない、なんとかしてカタチにしないと、またグシャグシャになっちゃう〜!って状況です。そういうときは、本気でくわ〜っと没入しないとならない。将棋マンガでいえば「81ダイバー」のディープダイブであり、「月下の棋士」の「猖獗」みたいな感じです。だから音楽なんか聴いてる余裕はなかったです。
余談ついでいえば、若い時よりも音楽が味わえるようになったので、一回聴きだしたら真剣に聴いてしまって、「ながら」では出来ないという点もあります。30年前にはなにげに聴いてて、それなりいいなと思ってたんだけど、今聴くと、うわ、ここだけベースの音の硬さを変えてるわ、すげえ、ああ、このギター、同じ音階同じメロディだけど、フレット変えて弾いてるわ、ああなるほど、低フレット独特の鈍重だけどしっかりした輪郭と、高フレットで弾くときの切羽詰まったカスレ感とチョーキングでブーストする粘り感を出したいわけね、なんだこれ?バケモンか(Jeff Beckとかそうね)などとイチイチ感動してしまって、もう超真剣に聴きこんでしまって気付いたら3時間くらいたってて、あかん今日何もしてへんってことになるので、やばいんですよ。迂闊に聴けない。
話は戻って、騒音対策。「寂しい」だけではなく、他の目的=近所がうるさくて不愉快だとか、ヒマで不快だから気を紛らせるとか、そういう消臭剤的な「上塗り作業」もあります。
だけど、本当の原因はもっと別の、深いところにあるような気がします。ここがダイブするところなんだけど、無音になってしまうのが「恐い」んじゃなかろか?
気を散らす
無音になってしまう(まあ無音ということはないけど)、とりあえず「気を散らすもの」がなくなってしまうと(テレビが消えてしまうと)、目の前の現実に否が応でも向かい合わないとならないんだけど、それが恐い、苦痛、不快であるから、気を逸らせるためにテレビをつけるという。例えば、これは自分でも経験アリアリですが、思春期の頃、一家団欒の食卓ってのが苦痛だったりするのですよ。代わり映えのしないメンツで(当たり前だが)、苦虫噛み潰したような顔で味噌汁啜ってる親父とかさ、ふてくされてるような兄弟姉妹とかさ、疲れきってスキあらば愚痴百烈拳を繰りだそうとしている母親とかさ。本当はそうじゃなかったんだろうけど、思春期の頃というのはナチュラルに馬鹿でヘタレだから、その歪んだ心の視界からみるとなんでも不愉快に見える。毎回毎回顔付きあわせて、子供の頃から知ってるお馴染みすぎるくらいのオカズ食って、ああ、かったり、だるいぜ、そんなアメリカン・ホームドラマのような「いきいきした会話」なんかあるかよって感じ。だから、賑やかしでテレビがついててくれると安心する。とりあえず皆の思考は画面に向かうし。シーンとした状況で、くちゃくちゃ咀嚼音だけが響くような状況って耐えられないわって。
あ、もしこれ読んでる人が「私だ」みたいに思ったら、安心しなはれ。年取ったら自然解消しますから。何かと周囲が不愉快というのは、大体の原因は自分。てめえが弱っちーからそう見えるって場合が多いです。強くなったかどうかはともかく、あれこれやってそこそこ自信がついてくると、あんまり不愉快じゃなくなる。
あとテクニックもあります。シーンと無言が続いて超気まずいような感じだけど、それでも気まずくならない技術。まあ、家族相手にそんなテクニックでクリアってのも変な話ですけど、仕事とか外部の人の場合にはありえるでしょう。例えば、取引先の人と長距離列車で向かい合わせで数時間、うわー何を話せばいいんだ、気まずくなったらどうしよう、沈黙=死みたいに思わないでいいですよ。「あ、あの、蜜柑、どうすか」とかいちいち気を使わなくてもいいです。3時間完璧無言、でも気まずくならない持って行き方ってありますから。図書館なんか皆無言でやってるけど気まずくないでしょ?はい、じゃ自分の世界に入りましょうねって空気感があって、それを作ったらいいです。本当は年長者や目上になった人が気を遣って若い人を解放してあげないとならないんだけどね。「あ、ちょっと失礼して、資料のチェックをしないと。あ、いや別件なんですけどね、最近ちょっと宿題がたまっちゃいましてねえ、ははは」とかいって、書類に没頭するカタチにして図書館的空気にしてあげるとかさ。その気配りあってこその年長者でしょうと。
で、またコミュ再開のときは、うっすら夜明けみたいな空気になりますから、そこでホンワリした口調で「そろそろ石川県に入りましたかねえ」とか軽く伸びをしながら口火を切るとか。「さっきの駅が小松とか書いてましたからね」「小松市って石川でしたっけ、福井でしたっけ」「小松は石川ですよ。芦原温泉までが福井で、加賀になると石川県です」「お詳しいですね、こちらのご出身で?」「いやもとは熊本なんですけど、ずっと前に仕事でよくこっち方面に行かされましてねえ」「へえ、でも冬とか大変そうですよね」「そうですね、雪がすごいですからね、でも冬はズワイ蟹とか美味しくて」と続いて、ズワイガニと松葉ガニは違うのかとか、天橋立より向こうになると松葉になるんですよとか、どうでもいいような世間話になるという。
自分に向き合うのが恐い
さらに、そういう対人的なことではなく、一人暮らし場合も「恐い」です。仕事から帰ってきて、靴脱いで、電気つけると、狭い、とっ散らかった部屋。冬なんかキンキンに冷えてたりして。とりあえずテレビをつける、「何ゆうてまんねん(会場爆笑)」みたいな音と雰囲気が部屋に流れ込む。気が紛れる。別に面白くもないから見ないんだけど、つけっぱなしにして、部屋着に着替えて、キッチンまで歩いてコーヒー入れて、寝っ転がってメールチェックして、、、ここで、ぶつんとテレビが消えると、またシーンという状況になる。現実に引き戻される。なにげに本棚を見上げると、いっときは夢中になったけど今はさほど興味もないような本が無駄に棚を占拠してたり、ふと見たら靴下に穴があきかかってたり、、、「俺、何やってんだろ?」とか思っちゃったりするんだわ。
一人という意味では、通勤列車の中でも、主張先で昼飯食う時でも、最寄り駅から自宅までの夜道でも、全部一人っちゃ一人です。でも「やること」があるから気が紛れる。とりあえず歩くとか、信号を待つとか、メシ食うとか、コンビニでなんか買うとか、目先の雑務があるから気が紛れるし、何事か進んでいってくれると、まだ気持ちも流れる。ところが自室で一人、無音となると、やることがない。そうすると、自分しか向かい合う相手がない。いきおい自分の現状やら、来し方行く末も考えざるをえない。「私、このままこうやって年取っていくの?」「俺、このままでいいんかな?」「本当にそんなことできるのかな?」とか、真剣に考えなきゃいけないような、でも考えたらヤバイような物事と対面する。それが恐いし、それがうざい。だから、テレビをつける。そんな心理、あるんじゃないかな。僕にはあったよ。
要するに、これも消臭剤的なテレビの活用方法です。不愉快な食卓、おもわずネガ街道を進みそうになる自己省察、それらは紛れも無い現実なんだけど今はちょっと直面したくないよ、面倒くさいよ、疲れてるんだし、今はね、ちょっとね、という「現実逃避」のツールとしてのテレビ。
オーストラリアにきた場合
じゃあなんでオーストラリアの場合はテレビ見ないで現実逃避しないでいいの?というと、いろんな理由があると思いますが、一番大きな理由は、そもそもの出発点が現実に向きあおうとしているという点です。これは何層構造にもなっているので順次言います。
現実逃避できない
まず、異国の地というのは戦場みたいなものだという点。僕のように20年以上住んで、のびのびリラックスしているようでも心の中の数%はアラート(警戒態勢)かけます。自分が予期できない、理解できない何が起きても不思議ではないですから。20年やそこら住んだくらいで何がわかる?って思いもありますし、実際、知ってることよりも知らないことのほうが遥かに大きいです。歩合比率にしたら1%も知らないと思いますよ。だって200民族のマルチカルチャルで、クロアチア人はスリランカ人をどう思ってるのかとか、ネパール人コミュニティでは今何が問題になってるのかとか、そんなの全然知らんもん。そして自分は「知らない」というのが普通に生きててよくわかる。これは日本にいたって同じことなんだけど、なまじそこで生まれ育つと全て知ってるように錯覚するので、結果としてアラートが解除される。でも、こちらでは錯覚できないから、アラート解除がされない。ましてや住み始めて数年レベルのビギナー、数日〜数ヶ月の新生児レベルでは、全神経を周囲に集中させていないと、恐怖の冬山登山のように「いきなりもっていかれる」的な恐さがあります。まあオーストラリアのように善人度の高い国で何がどうなるもんでもないけど、でも心理的にはそう思えて普通でしょう。アマゾンの上流を探検しているようなもので、次の瞬間ワニに足食いちぎられるかもとか(笑)、そのくらいの警戒心が生じても不思議ではない。僕の仕事は、最初来た人にそのリスクを教えるというよりは、ここは安全、これも大胆なようでいて実は大丈夫ってテリトリーを増やしてあげることです。英語が全くわからん、住所が全く聞き取れないときの問い直し方とか、安全にやっていける領土の増やし方とか、その基礎知識&技術を伝授する。でないと、あまりにも周囲が怖すぎて、結局何もしないで日本人同士、南極のペンギンみたいに寄り添い合ってそれで終わりになりがちですから。無理ないですよ。そのくらい恐いですもん。何をするにも「暴力団事務所にピンポンダッシュする」くらいにビビるもん。
こういう環境においては「現実逃避」なんか出来ないです。運転中に目をつむるようなもので、そんな恐ろしいことようやらんわ。目をかっと見開いて現実を見るしかないですから。
現実を直視したから来ている
第二に、これは本質的な理由ですが、「俺、これでいいのかよ?」みたいな現状に対する根本的懐疑からやってきている人が多い。少なくとも自発的意思で来ている人、さらに日本でそれなりに築いたものを捨ててきた人はそうです。ま、うちに来る人はほぼ全員そうです。それは自己懐疑であると同時に、「自分ってもっと素晴らしくなれるんじゃないのか?」という自己確信もあります。そう思えるからこそ「このままでいいのか」という懐疑も生じるわけですから、同じことです。それだけの犠牲を払ってこっちに来ている、やっとゲットしたのが目の前の現実なんですから、これを直視しないでどうする?です。大学生が、それまでさんざんバイトして貯金して、やっと実現した夏休みの旅行、エメラルド色の海みたいなもので、ここで目の前の現実から逃避してどうする?です。まあ逃避したいとすら思わないでしょう。
何が「現実」なのか
まあこう書くと、そもそも海外に行くということが現実逃避行為なのであって、逃避先の現実なんかいくら見て意味がないという意見もあるでしょう。それは宿題をやるのがイヤでマンガを読んで、そのマンガを熱心に読んでいるのと変わらないじゃないかと。ここは価値観の分かれるところで、僕なんぞは日本で普通に日々流れている「現実」というのは、あれは集団幻覚みたいなもので本当の意味では「現実」じゃないよって意見です。そもそも「日本では〜」とかいっても「それがどうした?」です。世界の地表面積の0.25%、400分の1しか占めない小島ですからね、今日沈没して消滅しても世界全体としては大して痛くも痒くもないでしょ。絶対比率でいえば針の頭みたいな極小ローカルのシキタリをもって「現実」とかいってもね、ど田舎の分校のドッジボールのローカルルールみたいなもんでしょ。また宿命論的に、そこに生まれたらそこで生きていく以外に選択肢はないとかいっても、事実の問題として選択肢あるもん。現実に僕は違うもん。大体、長崎の出島じゃあるまいし、いつの時代の話をしてるの?今は全世界のほとんどの国に日本人住んでますよ。マダガスカルにも100人くらい住んでるっていうしね。
そして日本にフォーカス合わせても、今みたいに上から下まで嘘ばっか、偽装ばっかで何が「現実」じゃいって気もします。ちゃんとガッコいって、いい会社入って、いいエスカレーター乗るのが正しい現実対処法なのだといっても、それは今となっては「宗教」「信心」の世界でしょ。あのー、エスカレーターというのは全てが上にいくとは限らないの。半分くらいは下に行くの。それが栄枯盛衰というものだし、新陳代謝というものでしょう。下りエスカレーターに乗ったら最後、途中で降りられないからヤバいでしょ。で、何もかもが縮小均衡しているような現在から将来にかけての日本の場合、多くのエスカレーターは下りである疑惑はあるわけですよ。そのあたりを見極めてこその現実じゃないですか。
その種の議論で本当に意味があるのは、どんな場所、どんな状況になっても、しっかり自立して生活できて、ハッピーになれること、そういう「人としてのベーシックな力」でしょう。それは脳内抽象論では養われず、やはり厳しい現実に対峙していくなかで養われていく。だから現実って話だと思います。確かにガッコいけば何らかの体系的な知識を得ることができようし、しっかりした仕事をすれば、そこで実社会の経験値も広がり、視野も広がり、人としての見識もまた上がる。そういう部分に関しては何の異論もないですよ。でもね、それが独り歩きして手段の目的化をしたらまずいだろうし、さらに「皆と同じことをやってればいいんだ」というのは、世界の特定のエリアの特定の時代には通用するだろうけど、普遍的に成立するものではないです。非常に局所的暫定的な戦術であって、それ以上でもそれ以下でもない。
そして何よりも、もし目の前の現実が自分を豊かに育み、より輝かしい未来につながっていくのであれば、見もしないテレビを「にぎやかし」のようにつけるという行為はしないんじゃないかな?
俺の現実
自分を振り返って見るに、その「にぎやかしテレビ」を自分がしていたのは、日本で仕事して慣れてきて「なんだかな」と思い始めた頃です。大学にはいって実家に出てから、そんなことをしたのは後にも先にもその時だけです。大体自分の部屋にテレビがあった時期というのが非常に少ないし、欲しいとも思わなかった。大学1,2回生の頃は、初めてのひとり暮らしだわ、下宿の皆が面白いわ、ギターの練習だわ、デートだわで忙しくてテレビなんか見てるヒマもなかった。司試受験中は、上に書いた先輩直伝の粗大ゴミテレビが凄まじいクオリティ(白黒だわ、殆ど画像が流れて判別できないからラジオ的に視聴していた)であったけど、疲れを癒やすひとときとして見るだけでした。にぎやかしはないなあ。確かにテレビをプツンと消してしまえば、わびしい下宿の部屋なんだけど、別にそれが寂しいとか不快だとは全然思わなかった。だって自分が望んだ現実なんですから。よくプロボクサーとか役者志望の人とかの部屋が殺風景で何もないってのはよくあるけど、あれ、分かります。要らないもん。人間、目の前の現実に納得しているときは、それを隠したり、誤魔化したりする必要はない。だから「なんだかな」と思いはじめたときに、にぎやかしのテレビって状況になった。誰もいない部屋でガンガンTVが鳴ってる風景を見て、自分でも気付いた。俺、ちょっとヤバいかもと。目の前に現実に自分で納得してないな、と言葉で思ったわけでもないし、分析できてたわけでもないけど、直感的な結論は明白で、「これは違うな」「これはないな」と。そっから、じゃあどうしようかな?とあれこれ考え始めた。
ということで、こっちきてからも、見もしないテレビを意図的につけておくということはしてないです。それは、目の前の現実に十分に納得していることでもあるのでしょう。それが「だー、今月も赤字だ、やばい」と頭を抱えることであろうと、つい先日消耗しながらしあげた確定申告のウザさの極致のような仕事であろうとも、なんであろうとも、「俺の現実」として受け入れられますから。
そして、目の前の現実が自分のものとして直視でき、受け入れられ、そして願わくばエンジョイできたならば、テレビってほんとーに見ないですよ。日本に帰った時も全然見ないもん。実家での食事の際、両親が見てるのを見るともなく見てたりすることはあるけど、あまりの幼稚さにムカムカしてくるし。バラエティの下らなさはいうまでもないけど、あのキャプションは何なの?母国語でそんなにリスニングが出来ない人がいるの?なんかさー、ロンパールームかピンポンパンみてる感じ。知的障害者の方のための特別番組って感じ。世界のニュースは完璧に他人事モードだしさ。ニュース解説なんかも、「赤ちゃんはコウノトリが運んでくるんですよ」みたいな話を、よくもまあって感じで。視聴率が1%でも驚愕すべき。まあ、深夜アニメとか、ドラマとか、ドキュメンタリーとか、個々の作品として優れているのもあるのは分かりますから、全てがダメダメって言ってるわけではないですけどね。
でもなー、しかしなー、この世で何が面白いって、目の前の「俺の現実」が一番おもしろいです。テレビでもなんでも、言ってしまえば「他人事」ですからね。他人事よりは自分事の方が面白いです。他人がメシ食ってるのを見るよりも、自分がメシ食うほうが面白いです。
文責:田村