今週の一枚(2015/10/12)
Essay 743:「MASS」の凋落
〜「同じ」という価値、「大きい」という価値の低下
真正面奥に見えるのがManlyです。
BondiやManlyなどに比べれば格段にマイナーですけど、地元的には普通に知られているビーチ。シドニーハーバーの内海だから波が静かでちゃんと泳げます。
シドニーでも年に1-2回、47度とかいう猛暑があったりするんだけど、そういうときは海。近くに行くと気温がすっと下がってナチュラルに気持ちいいです。大量の水が目の前にあるから空気が冷やされるという冷風扇や打ち水効果でしょう。泳ごうとなった場合、泳ぎやすくて、クルマ停めやすくてっていうと、このバルモラルか、あとマンリーの北にあるDee Whyなんかがお気に入りです。Curl Curlなんかもっとプライベートビーチっぽくていいんだけど、逆に店とか全然ないからな〜。
MASSの退潮
「マス」というのはマスコミの「マス」で、英単語の"mass"からきます。「集団」「大きさ」「大量」という意味です。そこから「(大量にいる)一般大衆、労働者、市民」という意味も出てきますが、本質的な部分は、「個性がなく質が似通ってるものが」「やたら沢山ある」という点でしょう。さらに要約すれば「同じ」と「大きい」です。
それが退潮していくということは、「同じ」「大きい」ことに従来ほど価値がなくなってきたということを意味します。今週はその話です。
ところで、現在では「マス」を使う用語は「マスコミ(メディア)」くらいでしょうか、
昔はマスコミと並んで「マスプロ」って言葉が使われました。「大量生産」って意味です(mass production)。「大量に作って大量に売りさばく。そうすればコストも安くなるし大儲けだ、コレだよコレ、はっは〜」という時代の話ですね。アメリカのフォード車の大量生産システムとか、歴史の教科書に出てくるくらい古い発想。
「マスプロ教育」なんて言葉もありました。それってマス・エデュケーションのことなんだからそう言えばいいのに、"education"って英単語を見慣れてないものだから、英語シャイの当時の日本人は「マスプロ教育」って言ったのでしょう。分かる気がするぞ。今では信じられないかもしれないけど、「マイクをもって授業する」という大学教育の風景が「ありえない」と批判されたりもしました。一度に数百人?そんなもんが「教育」の名に値するのか?って論です。今はビデオ講義で、見たい時に見ればいい風ですからもっといっちゃってますけど。
マスの成立条件=猫も杓子も
このマス戦略の旨味を「スケール・メリット」ということもあります。でっかくやった方が利潤が多い。大量に仕入れるから仕入れ価格も買い叩けて原価を落とせるし、同じような店舗仕様やメニュー、ユニフォームで全国数百店レベルで広げれば、いちいち設計して考えてってコストが省ける。それに大きくなれば知名度も上がるから集客率も増えると。それはそれで合理性あります。一時代を席巻したのも分かります。今でもなお通用しますし、Googleもアマゾンも全世界を対象にするというスケールの巨大さが商売の本質を構成します。
しかし、1980年代から「大衆」に対置するものとして「分衆」という概念が出てきてます。「いま、時代のトレンドは〜」って書いててこっ恥ずかしくなるような言い方でよく語られました。博報堂総研(そうえば総研ブームもあったな)が作った言葉で、1985年の流行語大賞にもなっています。30年前の話ですよ〜。
実際この頃から「マス」という方法論が少しづつ流行らなくなってきた。
なぜか?といえば、「マス」というのは、誰も彼もが似たり寄ったり「猫も杓子も社会」でないと成立しないからです。
「大量」に作ろうと思ったら「同じ」でないと作れない。
「違う」ものは大量には作れない。
作れたとしても途方も無い手間がかかって妙味がない。
ずっと昔は「同じ」でした。娯楽といえば街頭テレビで力道山と美空ひばりから始まって(リアルタイムには知らんけど)、ちょっと時代が下っても東京&札幌オリンピックで、万博で、パンダで、ピンクレディーとキャンディーズとブルース・リーで、、って似たようなライフスタイルだから、感性も似たようなものになり、何が受けるかも大体同じだろうと。この時代の中高生(今の50前後くらい?)は、女子だったら「UFO」の振り付けを完コピし、男子だったらほぼ全員ヌンチャクが振り回せる、少なくとも一回は振ったことがあるって時代。牧歌的な。まあ、マスというのは、そういう牧歌前提あっての話。牛が草食ってモ〜と鳴いてる長閑(のどか)な時代のお伽話でもあります。
でも、猫も杓子も同じではなく、猫は猫、杓子は杓子になってきた。それまで「流行歌」というのが厳然としてあって、日本国民だったら誰でも知ってるという世界でしたけど、それも崩れてきた。バンドブームになり、J-POPになり、つんくと小室が売れるJ-POP方程式を作ってた頃まですかね、テレビ露出と「売れる」とがかろうじて結びついていたのは。そこから先は秋元先生のAKBとかですけど、もう大分意味合いも変わってきている。そういえば今時「ベストテン全部言える人」ってどれだけ居るのかしら。てか、言える方がアウトではないか。そもそもベストテンとかいう発想自体がアウトというか。ファッションだって誰も彼もって時代ではないでしょう。なにがカッコいいのか、流行っているのかすら業界に居ないと良くわからない。「今年の流行色は」というのも「今日は暦の上では”立秋”で」みたいな、「へえ、そうなの?」くらいな。
さらにどんどん大衆解体作業は進みます。ガンコな汚れも「酵素パワーでGO!」みたいな感じでどんどん分解していきましたとさ。でもって「分衆」どころか原子分解、個体まで行き着いて「孤族」「お一人さま」「ぼっちライフ」の時代になってきました。こんな時代に「マス」ってなによ?と。
最後のマスの牙城〜マスコミと国家
ある意味では、こういう時代に「マスコミ」とか存在すること自体が不思議です。ネットの「お気に入り」「ブックマーク」って、「他人の本棚」と同じで完璧に人それぞれでしょう?何百万という選択肢チャネルの中から自分の好みだけで選ぶという。そんな中で、いまだに全国紙は戦後のまんま、テレビも放映開始時からの公共電波既得権をガッチリ掴んで選別淘汰再編成も一切ナシという新陳代謝率ゼロ。ホリエモンがそれをちょっといじくろうと思ったら、即座に国家権力まで使って叩き潰すという念の入れ方。守りぬけ!伝統芸能!の世界ですね。大相撲でも歌舞伎でももう少し革新的なことしてますよって感じのシーラカンス的な存在がマスコミだと思います。まあ、ここまで来ると本当に伝統芸能みたいな感じで、そのうち「後継者難」とかになって、逆に貴重だから保護してあげないといけないのかもしれないけど(笑)。もっとも時代がどうあれジャーナリズムは必要ですよ。でも旧態依然とした、というか最近では日々記録を更新して、江戸城の茶坊主か紫禁城の宦官かって感じの現在の日本のマスコミ体制がジャーナリズムの表現形態として良いとは思いませんね〜。ま、ここはいろいろ言いたいことありますけど、本題から外れるのでこの程度。
「どういう経路」というのは、マス→パーソナルが大きなメイン・ベクトルだとしたら、当然それに対するカウンター・ベクトルや、そこかしこで渦を巻くようなグチャグチャが生じたりするでしょう。ストレートに物事が進むわけがない。マス国家システムを前提にして生計なり人生を作ってる人はやっぱり「死守」ってことで、籠城戦を展開しますよね。時代が変わるというのは、ある意味では「今日の勝ち組、あしたのホームレス」という恐さもあります。江戸末期の旗本衆が「御公儀が潰れることなど天地がひっくり返ってもありえぬ!」と豪語してたようなもので、ひっくり返ったら失業ですからね。単に失業というだけではなく生まれてこの方積み上げてきたアイデンティティの全崩壊になるわけで、そりゃあそういう立場に置かれたら誰だって認めたくないでしょう。でもひっくり返ったんだよね、御公儀。今世界中で語られてるコンサバ(保守)の心情的な原点は、ほとんどがコレだと思いますね。生活絶対防衛線というか、こうあって欲しいというか、一種の「信仰」だと思います。
籠城戦の基本戦略〜マスのアピール
そのためには、マスの前提を再構築するでしょうね。つまり猫杓子社会の再生です。誰も彼もが同じような生活・人生前提の社会を作ると。そしてマスでやった方が効率が良いトピック、マスでやらないと始まらないテーマを毎日流して洗脳し、あるいは既成事実化しようとするでしょう。とりあえず思いつくのは戦争と原発ですか。これ思想的にどうこういうレベルではなく、単純にマス国家戦略としては非常に利用価値が高いというレベルの話です。
戦争ばっかりは国家的な軍事力がいるから、戦争の危機を煽ればそれだけに「国家のありがたみ」もアピールできます。昔のナチスもソ連も北朝鮮も中国も、国家的セレモニーって言っちゃ、戦車キュラキュラ、ミサイルごろごろパレードやって、閲兵式やってますよね。祇園祭の山鉾巡行じゃあるまいし、こいつら馬鹿じゃねーかって僕は思うのですけど、軍備の誇示=国家の強さみたいな発想が幼稚で滑稽で、しかしそれだけに本質を衝いているのでしょう。よく考えたら、国家=戦闘集団=人殺しの集団ってことで喧嘩するために国家なんか作ってるのかよ?という根本的なおかしさがあるんだけど、でも「わかりやすい」。ビジュアルにもアピール度が高いですからね。逆にいえば、戦争してる時が国家が一番輝いて見える(錯覚なんだけど)というのはあるわけです。広報的にいえば「絵になる」。
また、どの国でもそうなるとファシズム的なノリになるから、猫杓子の「みんな同じ」として皆のメンタルを平らに整地しやすい。「うかつに物が言えない雰囲気」を作りやすいです。
一方、原発などの巨大エネルギー装置もスケール・メリットの産物で、鉄は国家なりの時代は八幡製鉄所、炭鉱時代は三池炭鉱とか、水力になれば黒四ダム、火力になれば臨海コンビナートって、途方も無いスケールのプロジェクトになりますからここでも国家の存在感を示しやすい。
同時に天文学的な利権が転がり込むからおいしい。企業はワイロ払っても安く払い下げてもらうから儲かって、受注でまた儲かって、幕張あたりの漁業補償で地元の漁協に金が落ちて、それを組合内のヒエラルキーで分配するから上ほど儲かって、それらを全部仕切る政治家は死ぬほど儲かって〜と、win-win-win構造。そしてツケは全部国民にってことで、looserはいつも同じ。これは3日やったら止められないの世界でしょう。そんなことばっかしてりゃ、そりゃ借金額も1兆円にもなろうというもの。オリンピックの森君もその意味では「守れ伝統芸能の旗手」ですね。無理やり合意”したことにした”TPPでも、3兆円の農家補助金を出して、次の選挙で”合法的な”実弾攻勢をするためのダンドリでしょう?細部の詰めなんかどうでもいいんだわ、3兆円ばらまく口実さえ得られたらいいんでしょ?昭和の時代はこんなことばっかやってたから、もう見飽きた。流行らなくなった昔のヒット曲をまた歌ってるような感じ。場末のディナーショーかって。
ということでこの2点(軍事&エネルギー)をプッシュしていくのは、まずは順当な「定石」だと思いますよ。僕でもそうするな。というか、もともとそういう必要性があって近代現代の国家モデルが出来てきたわけでしょ。「富国強兵」モデルです。
ちなみに、言うまでもないけど理念的にも実際的にも、近代国家、遡れば人が集団を形成する本質的な理由は「互助とシェア」でしょう。一緒にやった方が何かと効率がいいからそうするという。対外的な喧嘩をするためではないです。あなたは喧嘩をするために仲良しグループとかサークルを作るのですか?そりゃ他のグループとモメることもあるか知らんけど、モメるために作るってことはないよ。
孤族・ボッチ的なツイスト
さて、それにツイストがかかっているのは、孤族・ぼっちとの関係です。
原子分解して一人ぼっちになったら、「あー、せいせいした!」「おう、勝手にやらせてもらうぜえ」ってその自由を存分に謳歌するってもんでもないでしょう。僕ならそうするけどな、てかしてるけど。でもそんな人ばかりではない。ひとりぼっちでいることに、無力感、孤独感、不安感を抱いたりもするでしょう。そうすると軽〜く気が狂ってくるから、見えるものも見えなくなって、ますます大変。
ちょっと話それるけど、ついでに書いておこう。気が狂うと「僕だけひとりぼっち」とかありえない誤解をします。見えてない。問題はなんであなたがひとりぼっちなのか?でしょう。そこにはそうなるだけのメカニズムや合理があるハズです。つまり「そーゆー時代だから」です。
それを持って生まれた自分の資質のせいだけに帰着させるのは間違ってると思いますよ。元々あなたにはそんな飛び抜けた個性なんかないですよ、「あなた」って広く抽象的に言ってますけど、対象が誰であれそう言えるでしょう。そんなねー、個性バリバリ規格外のユニークさをもってる人は少ないです。中学になるまでに100人殺してますとか(紛争地域に生まれたらありうる)、小学校でもう世界コンクールレベルの実力をつけるとか(モーツアルトみたいに)、中学で株取引やってて去年は1億ドル儲けましたとか、そのくらいだったら世界にでても「違う」といっていいけど、「話が合わない」程度だったら全然普通、小物、雑魚。無駄にうぬぼれるから無駄に落ち込むだけの話。
そんな幸福に普通なあなただって、昭和時代に生まれてたらボッチにならんかったと思いますよ。なんで?って、似たようなもの食って、似たような生活して、とーちゃんかーちゃん先生は似たようなこと言って、似たようなマンガとテレビ見てるだから、話が合って当然です。みんなヌンチャク振ってるしさー、3組のだれそれは後頭部ゴンとぶつけて救急車で運ばれたらしいぞ、馬鹿で〜、きゃはは、○○なんてさー教室の後ろで回し蹴りの練習してたら机の角に足の指ぶつけて骨折したってさ(実話)、きゃははって、そんな他愛のない。
こういう世界では、話が合わないという可能性の方が少ない。だって選択肢が乏しいんだもん。今は選択肢がすごい沢山あるでしょ。人生の選択肢は少なく見えるかもしれないけど、趣味の選択肢は広いでしょう?自分で好きなものを探してそれに囲まれてってやってるから、個性はすくすく伸びます。でも、それは同時に話が合う奴が少なくなることでもあります。これは別に悪い話じゃないですよ。自分に正直にとか、個性を伸ばしてってやればやるほどマイナーになるのは理の必然です。
今、ここで日本社会から鬱やら孤独感を減らしましょうとすれば、とりあえずインターネットと携帯を全面禁止にしたらいいです。皆で同じようなもの見て、同じような生活したらいいです。超つまらないけど、でも話が合うから。同じ軍隊、同じ小隊になった戦友は一番深いつながりになるというのと同じで、情報インプットの共通性があれば、人格も趣味も似通ってくるから波長合致率が高くなるだけの話。今日、大々的に火星人が地球を侵略しはじめたら、もう世界で話題はそれしかないから世界中の人と話は合うよ。友達増えるぞ。
オーストラリアに来たばっかの頃ってすぐに友達出来ますけど、あれも似たような境遇になるからでしょう。とにかく英語わからんし、いつも怯えて暮らしているし(笑)、出来ることが少ないから行動も自然にかぶるし(いきなりヨット買ってる留学生とかそうそうおらんだろ)、くそお、オーストラリアはなんでこうなんだ、ふざんけんじゃねえってツボも似たり寄ったりだし、だから話が合いやすい。しかし、長いこと住んでくると、自分なりの生活が築きあげられてきます。10年以上海外に生活されている方、最初の頃に比べたら人の新規のつながりが減ってきたな〜とか思いません?僕もそうです。この趣味的な仕事で滅茶苦茶つながってるから、もうお腹いっぱいってのもあるけど、自分のライフスタイル築いてしまって、一国一城の主になっちゃうから、各自バラバラっぽくなっていくのですよね。また、つながって助けてもらう必要性もどんどん減りますからね。好きなように生きてるけど、まあそれでいいじゃん、ゴキゲンじゃんって感じじゃないですか。
つまり、ものすごく選択肢を減らして、そこそこ不便で困った状態にしておくと、自然と「やること」なんか似たり寄ったりになる。そうならざるをえない。だから話が合う。でも、選択肢が増えて、各自がのびのびと自分なりのスタイルを展開していくと、そうそう話も合わなくなってくる。当たり前過ぎるくらいに当たり前の話でしょ?
前にも書いたが、本気で波長が合う人なんか100人に一人だと思います。個性のびのび豊かな西欧社会で、本当の意味で「フレンド」と呼べる人に一生に3人出会えたらラッキーだって、そのくらいの確率で言われているわけです。別に全員がそう思ってるわけでもないだろうし、立証されてるわけでもないけど、そういう言われ方があるというだけで推測はできます。100人に一人ってのは誇大な数字でもないです。10〜20年つきあいが続いてる人って何人いますか?歩合なんぼですか?小中高12年12クラスで1クラス40人だとしても、それだけで480人。それに部活、バイト、大学、仕事その他、、って知り合う数は1000人は普通に越えていくと思いますが、「10年もの」って何人いるか?さらに「一生もの」は何人か?だから100人一人でも不思議ではない。それでも多いくらいです。
歩合100:1で、じゃああとの99人はどうしてるのかといえば、「テキトーにやってる」だけの話で、多くは毎日顔を合わせるから「可もなく不可もなく」って穏当なレベルで流して、でも場合によっては自分を殺してイヤイヤつきあって(接待みたいに)、あるいは何となくの体裁やピア・プレッシャーとか(欠席するとなんか言われそうとか)とか、そんなところでしょ。
この場合、あなたがあなたであろうとすればするほど、その合致率は低くなるし、自分を殺せば殺すほど合致率は上がる。よく出来てるよね。数が多いと一個あたりの容量は少なく、数が少ないと一個あたりの容量は増える。だから総体は似たようなものだと。
孤独不安感と迎合洗脳メンタル
閑話休題、話戻します。で、マス国家死守〜ってやる場合の似たり寄ったり化戦略ですが、孤独の時代になるから、皆さん不安になって、通常以上に他人に合わせよう、迎合しようという力が働くってことはあると思います。自信があったら、他人なんかどうでもいいですけどね、自信がなかったり寂しかったりすると、他人の動向や視線がめっちゃくちゃ気になるでしょうしね。
ということで、戦略的には、皆のボッチ不安感を査定して、絶妙なツボをつくように「妙なことを言ったら叩かれると、ツライ思いをするよ、もっとボッチになって死にたくなるよ」という恐怖感を与えるようにすればいいです。そういう番組のノリにしちゃうとか、その種の意見に因縁つけるみたいにして炎上させたり、そういう事件をでっちあげて大々的に報道するとか、古典的な手法ですな。「白色テロ」っていうんだけど、フランスのドレフュス事件とかそう。日本でも戦後もなんでもかんでも共産党のせいにして「郵便ポストが赤いのも共産党のせいだ」というジョークが生まれたくらいですもんね。手垢のついた手法。
これはこれで一定レベルは有効に稼働するでしょうし、現に稼働してるようです。「しめしめ」てなもんでしょう。
でもねー、致命的な欠陥があると思います。それでは100%稼働せんわという。
本質的な矛盾
なぜかというと、皆が同じのマス・メンタリティになるためには、経済格差、生活格差があったらあかんということです。生活水準やライフスタイルも似たようなものにしなきゃ、価値観やメンタリティの共通性が出てこない。その昔は、皆さん大体似たり寄ったりの安月給のサラリーマンで、「サラリーマン専科」とかサラリーマン漫画が普通にあって、やってられませんなあ、ご同輩、まあ一ついきましょう、あ、どうも、って感じにならないと。そりゃそうですよ。皆で一丸となろうってときに、それぞれの足元に高低差があったり、自分だけぬかるんでグチャグチャだったらやってられないですもん。「け、なにが皆で〜だよ」って気になる。ユナイトな感じにならない。それは思想よりも、価値観よりも何よりも「財布の中身」という、これ以上ないくらいソリッドでリアルな現実に左右されます。ところが格差社会だ、下流社会だ、貧困化だとかいっててこの点でのバラバラ化も進んでいる。正規と非正規が概ね6:4とか言われてますが、これじゃダメでしょう?こんなに二分されるのって日本史的にも珍しいじゃないかな。西欧の歴史のカトリックvsプロテスタントみたいな。中世の南北朝も、幕末の尊王佐幕もしょせんは武士エリート階級の権力争奪戦に過ぎなかったし、こんな全員参加で2つに分かれるというのは珍しいです。
そして、なんでそうなるかも分かります。根本において「最大多数の最大幸福」を目指してないからでしょう。
新国家樹立みたいなときは、とりあえずは全員のためになんかしようと原点があり意欲があり、それが上手か下手かはともかく、それをマジに目指す部分はある。ところが、今の場合は、落日のマス勢力が自分らの牙城を死守するためにやるわけだから、最初から「皆のため」ではないのだわ。勝ち組がこれからも勝ち続けるためのものだから、根本原理に違いがある。その倫理的な是非はともかくとしても、それがメカ的に機能不全をもたらす。
なぜならそこで守られるべきものは、国家あっての産業=電力財界マスコミなど国家レベルでのアドバンテージがあって競争が最初から制限されており、それゆえに生き延びている業界でしょう。あるいはいわゆる新自由経済でマスのスケールメリットを極限まで活用した超巨大企業なども入るかもしれない。こういうところは旧体制があるから生き残ってるわけだけど、でもそれで生き残るためにはその原資として国庫を増やして、リストラや賃下げを進めるという二極分化をいよいよドライブさせる方向に働く。貧者から収奪して強者が肥え太るという普通のパターンなんだけど、それをやればやるほど格差が広がり、メンタルや価値観でのギャップが広がり、「みんなで〜」「一億総なんたら」という掛け声が虚しく響くようになる。
話をシンプルにしてみればわかりやすいですけど、格差を確保をするためには格差を一層増大させないといけない、でも自分らで格差を広げておいて、全員同じノリになりましょうっていっても、それは無理でしょう。だから、それをやろうと思ったら、必死に格差を縮めているフリ(フリでいい)をしたり、「みんなで頑張ればいいことありますよ」という理念と、それを裏付ける実体を構築しないとならない。でも、そんな能力も意思もないから笛吹けども踊らずになるという。
マス戦略で勝とうと思ったら、図体が大きいだけではダメです。それなりに魅力的な商品を作らないと。アップルのiPhoneにせよ、アマゾンのオンラインシステムにせよ、グーグルにせよ、それなりの品質のものを作ってきた。でも、マクドナルドのように品質に疑問がついたり、単にデカくて有名なだけで別にメリットないじゃんってことになったら凋落するのが理でしょう。
格差極大化の経済統制戦略
ちなみに、格差をキープしたまま全体主義になる方法論もあります。もっともっと格差を拡大して、大多数を餓死寸前くらいにまで追い詰めて、否応なく選択肢を一つにしていく方法論です。大多数の地域である寒村に生まれたら、男は軍隊、女は女郎屋に入るしか生きていく術がないというところまで。そうなると思想統制よりも経済統制を先にできるから、経済徴兵が出来る。ん〜、でも、そうなると大体軍事クーデターが起きるのが定番。中南米やパキスタンあたりの近現代史をみるとわかりやすいですけど、文民政権の方が腐敗が激しい。特に冷戦下では米ソどっちかの強いサポートを受けて権力者一族が不当に肥え太る。一方、軍隊は貧しい村から出てきた庶民比率が高いから、目の前の腐敗と格差にムカムカする。だからクーデーターを起こして軍事政権になるけど、軍事政権の方がまだマシってくらい格差腐敗が激しいわけですね。パキスタンのブット、シャリフ政権時代なんかひどいもんです。パキスタンはジンナーという偉大な国父をもっているにも関わらず、短期間でここまで堕ちるか?って感じ。国というのは怖いもんだなと。日本の2.26事件もそのカテゴリーに入ると思うのですが、究極においては右翼も左翼も同じであり、表現の仕方が違うだけ。格差是正のための革命というか、国賊の成敗というか、左翼的暴力革命というか右翼的軍事クーデターというか。
しかし、今時そんな方法論流行らんでしょう。これだけ情報が発達して、選択肢の多い世界で、そこまでいったら難民でもなんでもなって逃げちゃいますよね。それにバナナや誘拐しか産業がない国ならいざしらず、国際経済と高度に緊密に結びついた先進国でそこまで貧困化させたら、既得権そのものが崩壊しますわ(例えば国債価値が暴落して金融機関即死でまわりまわって資産パー)。そんなクソ荒っぽい方法論ではダメで、本気でこれをやろうと思ったら、脳外科手術ばりの精密な作業が必要でしょう。「累卵の危うき」って言葉があるけど、卵を積上げてその上にグラグラ乗ってるようなものだから、それはそれは繊細なオペが必要だと思います。
しかし、まあ、見たところ目を覆わんばかりの下手くそさで、これ真剣にやってるのかな?もしかしてすごく頭の良い奴が「ほら、こうなって国がダメになっていくんですよ、わかりましたか?」って実地教育をしてるんじゃないと思うくらいのわかりやすさで。もうね、「ちょっと、貸してみ!」って感じ。俺にやらせろ、もっと上手く騙してやっから、っていいたくなるくらい(笑)。でも、こんなのコンビニの店長くらいのマネジメント能力があったら、誰でももっと上手に出来るよ。
「同じ」「大きい」価値の低下
かつての日本には、「同じ」こと「大きい」ことに価値がありました。一億総中流という、絵に描いたような幸福な中産階級充実構成は、どんなビジネスをやるにも好都合でしょう。皆が似たような選好であるなら、作ったり売ったりする方は楽です。また、皆の頭の中身が同じような情報と価値観で満たされていたら、一定の情報を与えてそれらを誘導することも容易いから、広告代理店のマス・マーケティングもやりやすかったでしょう。
この頃に深層心理に刻まれた価値観は高齢になっても中々抜けないようで、「同じ」で「大きい」ことが人生の成功を意味するように何となく思ってるキライがあるでしょう。「人並みに」と皆と同じような生き方をしていれば大体間違いがないという発想と価値観。そして大企業など規模が大きいところに就職した方が安定するとか、収入が多いとかいう発想。
それらは今でも通用するけど往年の輝きからしたら大分色褪せてきていますし、今後もそうなるでしょう。大体、勝ち組・負け組とかいう「二元論」が語られるようになった時点で、それまでの中流とか人並みという「一元論」が風化しつつあるともいえます。
商売の方法も、大衆が分衆になり、少品種大量生産が多品種少量生産になってくると、作成コストもやたらかかるし、当たったところで量的にはしょぼいから、二重の意味で利潤が上げにくくなってきます。でもねー、根本的なところでいえば、大量に作れないんだったら大企業であるメリットがどこにあるのか?ですよね。
リアルタイムの話題で言えば、最近スーパーがやばいみたいですね。コンビニはまだ元気で収益性あるけど、スーパーはしんどい、売上増えてないと。イオンも、セブン&アイのイトーヨーカ堂も、ユニーもどれも収益ガタ減りだそうだし、ユニーはいつ潰れてもおかしくないとか言われながらも、傘下のサークルKとサンクスをファミマに売りました。儲け頭のコンビニ売っちゃったらもう後がないと。しかしながら、ローカル地域スーパーは健闘しているところが多いとか?
またコンビニは壮烈な競争をしながらも堅調です。でもコンビニって、店舗規模でいえば普通の小売店に毛が生えたくらいの広さしかないです。てか、もともと一般小売店をフランチャイズ化してるんだからそうなんだけど、なんでもかんでもあるわけではない。
一方アマゾンのようなスケールメリットで押していくタイプは今も強いし、もっと強くなるかしらん。このあたりをどう解釈したらいいんでしょうね。
二極分化
極大化の流れと極小化の流れが同時進行で起きている、とはよく言われます。コンビニは、メカニズムでいえばスーパーよりももっとマクロ的でマスな管理をしていると思います。全国規模で仕入れて、品揃えを考え、POSシステムによる完全仕入れ管理と配送をする。管理はかなり徹底してます。だけど、個々の店舗は大きくはない。ここでのマスは、ロジスティクスやバックヤードの効率性という意味では十分に機能していますが、販売レベルではあんまり機能してないという気がします。
ここ注釈が必要なんでもう少し書きますが、販売レベルでマスが機能するというのは、「大手だから安心」「大規模なチェーン店であること自体に価値がある」という点です。だから昔は無理矢理にでも出店数を増やして「全国○○店!」という規模の大きさをアピールし、消費者の信頼をゲットするという戦略がよく使われた。
しかしですね、コンビニが受けるのは一にもニにも便利だからという、まさにコンビニエントだからでしょう。僕が日本に居た頃も近所にコンビニは沢山あってそこそこ利用してたけど、でもあそこがローソンで、あそこでセブンでとかいちいち覚えてませんでしたね。コンビニはコンビニでそれだけで、全国展開してるから安心のブランドだとか別に考えませんでした。いわばガソリンスタンドみたいなもので、どこで給油しようがガソリンはガソリンだし、それが全国展開してようが、ローカルだけのものであろうが、どうでもいいです。コンビニもそうで、どこであれタバコはタバコ、雑誌は雑誌ですから。コンビニのポイントは「近くにあること」です。街道沿いに巨大な店がドーンとあるのではなく、小さな店がきめ細かく家の近所にまで配置されている点に意味がある。
このように大きいことが売上増大に貢献するかというと、あんま関係なさげです。
これはアマゾンやグーグルにも言えると思います。なるほど世界的に有名でどこにでもあるんだけど、別に規模がデカイとか、有名なことが購買意欲をそそってるわけではない。アマゾンなんか所詮は本とか雑貨その他の通販であってアマゾンが自分で製造しているわけではないので、品質の差なんかあるわけないです。どこで買っても一緒なんだけど、買いやすいこと、品揃えが豊富なこと、つまり純粋に「機能」が受けているだけで、会社に対する消費者のロイヤリティがあるわけではない。
しかし、この時点でも尚もマスであることの有効性はあります。少なくとも品揃えとか、仕入れ配送の効率性には役に立つ。だけどこの先はどうかな〜?です。
マス=インフラ
極大化ってガリバー寡占の旨味があります。価格決定権を持つから独裁できる。ゆえに独禁法なんかもあるわけで。だけど、極大化って突き詰めていくと、無色透明なインフラみたいな感じになっていくのではないか。何を言ってるかというと、例えばアマゾンってこのまま未来永劫栄えるのか?というと、それも微妙だろうなって思うからです。要するに世界中の本がそこ行けばあって、そこで買えればそれでいいわけでしょう?だったら、e-BayとかYouTubeみたいに、「場所」だけ提供して、あとは勝手に世界中の出版社が参加して陳列しておけばいいじゃないか?品揃えでアマゾンに優越してきたら、そっちがメインストリームになるのではないか。あとは検索機能の強化とか、同種本の並べ替えとかタグ付けとかそのあたりに技術的なものはあるでしょうが、こんなの既存の技術の適用だけだからそれほど問題ではない。
確かに過去の履歴で選好を覚えて「これどうですか」というオススメ機能(億単位の開発費用を投下したというアルゴリズム)もアマゾンの方が強いでしょう。でも、そんな付加価値どうでもいって気分もあるわけですよ。てか、いちいち自分の過去の履歴を記録されていること自体が気持ち悪いとか、そういう意識もあります。要は検索しやすかったらいい。そしてアマゾンの場合、あそこの商品管理システムに適合する本だけが出てくるから、正味全ての本というのは難しいでしょう。でも、場だけ提供して、あとは勝手にやってくださいというYouTubeみたいな縁日方式だったら、およそアマゾンでは出てくるわけがないケッタイな本も出てくるかしらん。極論すれば、自費出版どころか、手書きですら売れるわけです。○○小学校○年度卒業文集なんてのも売ろうと思ったら売れるわけですからね。卒業生が懐かしがって買うかしらんよ。
そうなってくると最終的には「出版」という形態すら形骸化し「テキスト・データーの販売」になるかもしれない。あとは、実際の「書籍」としてゲットしたい場合は、自分でカバーやら装丁やら指定して作ってもらうということもアリでしょう。今のDTPや3Dプリンター技術がどんどん進化すれば、最低でも千部は刷らないと元が取れないという原価構造も変わるでしょうしね。今全国各地で村おこし的レトルトカレーが流行ってますけど、あれもレトルト製造技術が大幅にコストダウンしたからだそうです。新規参入の費用がそんなにかからなくなったから気楽に参加できるようになった。
つまり全員参加しやすい無色透明でハードルの低いやり方が徐々に開発されていけば、それでいいわけです。アマゾンとかどっかの私企業が全てをやろうといっても、全員参加には叶わないでしょう。
インフラとプロトコル
国家のマスとしての存在価値は、秦の始皇帝がやった度量衡の統一のように、マスなレベルでの「約束ごと」の統一機能でしょう。つまりはプロトコルでありアルゴリズムです。でもそれって別に”国家”が決めなくてもいいんですよね。インターネットの接続方式であるとか、HTMLのインライン要素がどうとかいうのも別にどっかの国家機関が決めてるわけじゃないですもん。また世界中どこにいっても、自動車が沢山走ってるところでは「信号」というシステムがあって、赤は止まれで青はススメでってのは大体同じです。それぞれの国家がそれを決めるわけですけど、でも大本の発想とシステムは何となく広がってるわけです。「お約束」が約束として広がっていけばそれでいいだけです。
マスというのは極大化すれば、空気のような存在、あって当然のようなインフラ、あるいは自然インフラみたいなものになるのだと思います。それは例えば「言語」です。「日本語」という膨大な知的体系は誰のものでもないです。これに知的所有権が認められたら(多分ひらがなだったら空海が著作権者だろうが)、莫大な著作権料が入るでしょうけど、でもそんなこと誰も考えない。アラビア数字の1,2、3、、というデザイン料とか、加減乗除の四則計算のルールとか、あれなんか知的インフラでいえば世界でもトップレベルのインフラでしょう。でも、どっかの個人や国が所有してたり、管理してたりするものでもない。
要は皆に必要な有形無形のインフラがちゃんとあって、その利用方法(プロトコル)が合理的に定められていればいいわけで、それは誰が決めても構わないです。国家であろうが、どっかの機関であろうが、たんなる慣習であろうが。文字コードがISOとかUNICODEとかいうのも、別に国家権力が決めてるわけでもないでしょ?ちなみにUNICODEは各関連機関の代表が合議して最後には投票で決めるらしいけど、その決定過程は逐一一般人に開放されており、メーリングリストに乗せればいち個人でも意見を言えるというシステムになっている。誰が決めたというよりも「みんなで決めた」。それで廻っている。
互助システムの適正規模
それ以外の国の役目の「互助とシェア」ですけど、ある程度の嵩は必要ですけど、億単位の人が必要なわけではない。年金だって、極論すれば頼母子講システムでもいい。頼母子(たのもし)なんて歴史の教科書の鎌倉時代の記述に出てくるのですけど、リアルタイムに現存してますよ。あれは庶民の知恵というか、銀行や保険会社という専門機関を通さないで全部自分たちだけでやるから、機関の利潤分が浮きますので有利なんですよね。大阪でもやってる中小企業の経営者とかいました。
だから年金的な互助システムだって、別に1万人くらいおったら廻るんじゃないの?てか数学的に1万人だったら廻らないけど1億人だったら廻るという理屈がわからんです。そりゃ2−3人じゃダメだろうけど(笑)、一定数おったらええんちゃう?それに成立しうる最少人数(これは数学的に算出できると思う)でやった方が、やれ厚労省だお役所だって中間団体の無駄なコスト部分が節減されるからリターン率は良くなるはずです。それに何を決めるにしても、規模が小さい方がなんでそうなるのかがよくわかるし、不正があったらすぐに発見しやすし、効率的に廻るでしょう。
だからほんと、「マス」でやらなきゃいけないメリットなんか実は大してないんだって思いますよ。
時が経つにつれ、徐々にそういう感じになっていくでしょうし、見たところ実際そうなってるような気がするし。
もっとも、その無駄なマスシステムが気に食わなかったとしても、今の自分の生活そのものが、その無駄なマスシステムの上に乗ってたりすると、話は微妙になってくるんですよね。というか、皆さん大なり小なりその時代遅れのシステムの上に生活が成り立ってることに変わりはないでしょう。そこが妙な煮え切らなさというか、動きの悪さというか、心は冷め切っているんだけど、でも離婚したあとの生計のめどが立たないからズルズルやってるみたいな感じにもなってるのだと思います。
文責:田村