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今週の一枚(2015/08/31)



Essay 738:親離れ子離れ、そして「自分離れ」

「俯瞰の自分」と「ライブの自分」

 撮影場所はLane Coveでウチの近所ですが、いつも晴れてる写真が多いので、今回は雨。春の雨。
 シドニーも当たり前ですけど雨降りますよ。なんか常に太陽がさんさんとしている観光イメージがありますが、あれは観光イメージね。京都を風景はどこをみても五重塔が映っているみたいなイメージ。だもんで、シドニーでもちゃんと雨は降りますって。だって、降らなかったら砂漠になっちゃうじゃん。

 「親離れ」「子離れ」についてはよく語られます。

 動物のドキュメンタリーフィルムなどを見てますと、ヒナや幼獣の頃、親は献身的に面倒をみる。それはそれは涙ぐましいほどのケアをする。でも、そろそろ一本立ちという時期になると、手のひらを返したように冷淡になります。まだ甘えていたい若鳥や仔獣が懸命に付いてこようとしても、「シャーッ!」と威嚇して、ときには本気で攻撃すらして、旅出たせます。なんか見てると、途方にくれて泣き出しそうな子供が可哀想で可哀想で胸が痛くなるんですけど(笑)。ほんでもここで一本立ちさせないとダメなんでしょうね。

 誰もが思う定番の感想としては、「動物、えらいな〜」。
 そしてそこまで本能プログラムに組み込まれているなら、遺伝子のプラグラミングってどんだけ複雑精妙なんだ?そんな情報が単なる4種の塩基配列で書き込めるものなのか?って感心しますね。さらに、こんなもんがダーウィンの淘汰原理とかで説明できるのかな?とか不思議な気分にもなります。

 ま、ここまでは普通の話です。

 普通じゃないのはその先で、この親離れ・子離れの次に、「自分離れ」というのが来るのではないかな?と思いました。今回のお題はそれです。

「結婚・子供ができたら一人前」の意味

 よく年長者に、「結婚したら一人前」「子供ができたら一人前」とか言われることがあるでしょう。同じような意味で「結婚したらわかるよ」「子供ができたらわかるよ」とも言われます。

 あれってどういう意味なんだろう?と。
 そりゃまあ、あれこれ経験するから確かに何事かを思うだろうし、学ぶではありましょう。
 だからといって、そんな封建時代の武士と町人みたいに、結婚や育児をするとワンランク上の「身分」になったり、なにか人間的に格上になったりするってもんでもないでしょう。少なくとも一律&自動的にそうなるものではない。

 また、何かを経験する→何かを学ぶなんてことは、この世のあらゆることがそうであって何にでも言えます。「部下を持つようになって一人前」でもいいし、「介護で苦労して一人前」でもいいし、「海外で無一文サバイバルが出来て一人前」でもいい。とある業界では「刑務所のメシ食って〜」「ポリにパクられてもカンモク貫いて〜」「ストレスで胃を切って〜」なんてのもあるでしょう。死後の世界があるとするなら、まずは「死んでこそ一人前」でしょうし。

 問題は結婚や育児体験で何を学ぶかであり、その具体的な内容でしょう。それを示さずして「あ、まだやってないの?ふふ、この未熟者め」みたいなノリというのは、要するに差別原理としていってるだけ、絶対に反論できない物事で人を見下すためのネタとして活用しているだけ、っていう厭らしい部分もありますよね。言ってる本人はそういうつもりはなかったとしても、言われる側としてはそう感じるかもしれない。

 では、その内容はなんなの?ですが、ここで、もしかしたら「自分離れ」って要素もあるのかもね?ってことです。

 「自分離れ」というのは僕が勝手に作った造語ですが、意味するところは以下のようなものです。

自分以上の優越価値

出産・育児

 若いうちは自分のことだけで精一杯です。あれこれ悩んだり、苦労したり、鬱になったり、ハイパーになったり、滑った転んだ、泣いた笑った落ち込んだ感動したってやってるわけですけど、基本全部「自分」についてです。やっぱ自分が大事ですから、常に自分がテーマ。「俺、これでいいのか?」とか「私って何か根本的なところダメなのかも?」とか「僕は何がしたいのだろう?」とか、要するに「自分」がテーマです。

 それは全然悪いことではないです。世界人類70億人のうち、まず優先的に大事にすべきは自分であり、自分を大切にすること、てめーのことはてめーでオトシマエつけることは、人類の義務ですらあります。それがあなたの「持ち場」であると。持ち場で懸命に働くのは良いことです。

 が、いずれこの「自分」よりも価値的に優越するものが出てきたりします。
 「自分を大事にすべし」という第一命題に対して、強烈なアンチテーゼとして「自分を大事にしない(犠牲にする)」という第二命題が出てくる。より優越する価値のためにには、自分を犠牲にしたり、自分を殺したりすること、そういうことをしたい気分にもなっていく。それが例えば結婚や育児だろうと。

 今日の出産において、母子の生命が危ぶまれるときには、母体優先が原則だと聞きます(詳しくは知りませんが)。しかし、出産する当の本人は子供優先を希望する場合が多いとも聞きます。「わたしはどうなっても構いませんから、赤ちゃんだけは」と。常にそうかどうかはわかりませんが、私の命がヤバそうだったら遠慮なく子供を殺しちゃってくださいって思う人は少ないんじゃなかろか。もし心底そう思うなら、最初から中絶なりなんなりするでしょうし。

 一番大事な筈の自分を捨てちゃダメじゃないか、というか、そんなこと思えるものなの?カッコつけてるだけじゃないの?酔ってるだけじゃないの?というと、わりと自然にそう思えるのではないか。ま、その真贋・当否はさておき、なんでそう思うのか?といえば、やっぱ自分よりも価値があるものが出てきてしまうんでしょうね。それが自然にわかってしまう。


 ここで無粋な注釈を入れれば、自然のプログラミング(本能)の中の生命維持本能と種族保存本能を比べれば、後者の方が優越するのでしょう。とある個体を生かしていても寿命的に残り少ない、だったら真新しい生命を発生を優先させた方が「生き延びる」「繁殖する」という自然の大命題には合目的的である、と。

 僕らが後生大事に抱えている「自分=自我」なんか、しょせんは大脳の前頭葉あたりでチラチラ線香花火のように着いたり消えたりしてる不確かなものであり、怒涛の奔流のような自然の本能には逆らえない。本能がそうしろと命じるなら、基本それに従う。「従う」といってもイヤイヤやるわけではなく、自然とそうなるように大きな「快感」というご褒美を与えてもらっています。クソ面倒臭い肉体動作にSEXの快感というご褒美を与られ、1日3回もやらなきゃいけない食事にも美味・満腹快感を与えられてるから、ほっといてもやるように仕組まれている。

 ということで「赤ちゃんだけは」と思うのは、僕らがお腹が空いたのでご飯を食べたいと思うくらいナチュラルな感情なのかもしれません。


 自分は男だし、あいにく子供はいないので想像を重ねるだけなんですけど、それでも懸命になりきって想像するに、そりゃ自分のなかに生命が出てきて、動いたり育ったりしたら感動するでしょう。「なんだ、これは!?」ってなもんで、この命をこの世に出現させるということが地球上で何にもまして優先する崇高な使命にも感じられる、かもしれない。まあ「崇高」とか「使命」とか堅苦しいことではなく、素朴に「めちゃくちゃ大切なもの」に思えるでしょう。この生命を守るために必要だというなら、自分なんかどうなってもいいわみたいに思えちゃうんじゃないかな〜と。

 子供が生まれて、目の前に真っ白で無垢な命がある。自分みたいに恥辱と悔恨だらけの汚れた人生じゃなくて、真っ白に輝いている。「うわあ」って思うだろうな。それが絶対的・盲目的に自分を頼ってくれる。自分がヘタレだったらすぐ死んじゃう。そんな儚い、大切な「いのち」を握らされたら、そりゃまあ頑張っちゃうよな〜。

 それは可愛い盛りの幼児期だけの一過性のものではなく、その後も連綿と続く。お母さんっていつも貧乏くじというか、「私はいいから、お前、食べなさい」的な行動パターンが多いですし。

 この感覚=自分よりも優越する価値の前には自分なんてこの程度の存在だって思えること、「自分」を突き放すような感覚、自分を一種の道具や資材のように客観的に捉える感覚をもって、「自分離れ」とここでは呼んでいます。

結婚では

 結婚においても、似たような部分はあります。

 自然プラグラムにおいては、結婚(生殖)は出産/育児の前提、プリパレーション(準備)に過ぎないので、子供ほど強烈な自分離れ効果はないのでしょうけど、それなりの効果はあります。

 僕自身結婚は2回、10+15の25年やってますので、何となくわかりますけど、半分くらいは「自分離れ」しますよね。ま、平等にいって半分くらいは自分が自分ではなくなるくらいの感じ。”自我の断捨離”みたいなもので、アレもコレもどれも全部無いとヤダ〜!とかダダこねてたガキの自分から、「これ、別にいらんでしょ?」みたいな感じで、自我の中身を半分くらい捨てる。しかも自分が大切にとっておきたい方を捨てろと言われたりもする(笑)。

 直接的には、すげーイヤだしムカつくんだけど、でもそういうことに段々慣れてもくる。そして、同時に、相手だって同じように自分の半分を殺してくれてるんだし。てか、男女だったら男のほうが実際には7:3くらいで得してるでしょ。文句はいえねーぜ。でもって、無くしたままではなく、その欠損部分には相手からなにかをもらって埋め合わせるわけですから、トータルではとんとん、もしくはプラスである。

 もっとも、相手から貰うものが常に好ましいとは限らず、「え〜?」みたいなものだったりもするわけですよ。自分が男だったら独特の少女趣味に付き合わされたり。チャラいのが大嫌いで道場みたいな簡素な部屋に住んでた大男が、ヌイグルミに埋め尽くされたり、スリッパからティッシュカバーまでファンシーなものばっかな家に住んだりもする。「いや、もう慣れましたよ、はは」とか。自分が女性だったら、全然興味のなかったクルマやプロレスの世界にやたら詳しくなってみたり。「そんなもん要らんわ!」って感じなんだけど、でも、無理やり押し付けられるからこそ栄養素も多い。自分一人だったら絶対やらないような部分が入ってきますから。

 まあ半分は自分が自分が無くなって別人格になっていくんだけど、人はそれを「成長」と呼ぶのだわね(「堕落」になる場合もあるんだろうけど)。

 でも、思うのですけど、自分のなりたい自分になるだけだったら、絶対どっかズレてるから。自分が無価値だと思ってた部分にこそ意外と豊富な栄養素があったりするので、それを「喰え!」とばかりに無理やり食わされているうちに健康になっていくのでしたって。小学生のときの「牛乳飲め」みたいな。

 自分をガキゴキ!と強引に増改築されるようなもので、不愉快極まりないんだけど、でも意味あるんだよな〜。だんだんそれがわかってくると、いい意味で自分を信じなくなるし、あんまりこだわらなくなります。「まーね、しょせんは俺が考えることだからな〜、多分間違ってるだろうしな〜」くらいに軽く思えるようにもなる。

 その意味で自分を突き放せるようにもなるし、自分を客観的にみることも多少は出来るようになると。

 これら「自分離れ」の効果があるから、結婚して〜、子供ができて〜一人前、バランスのとれた視野の広い一人前の「大人」になるんだよってことだと思います。

自分だけでいっぱいいっぱい


 ポイントはどこか?というと、あまりにも自分大事にし過ぎるとバランスが崩れることでしょう。
 世界の中心には自分がいるわけだけど、それはあくまで主観的な話であって、客観的にはそうではない。街角に佇んでる、ちょいくたびれたおっさん・おばさん、何も出来ない未熟なあんちゃん・ねーちゃんが客観の自分なのであって、それ以上でもそれ以下でもない。主観でどう思おうが勝手だけど、あまりにも主観が強すぎると、モノがまともに見えないので他者や外界との折り合いが悪くなるし、結果、言うこと為すこと、なにかと子供っぽくなってしまう。

 別に子供っぽいことは犯罪ではないんだけど、ある程度成熟した人々の中では「あいつはまだまだコドモだ」って扱われ方をしますよね。やたら被害者意識、やたら他罰的、やたら天下国家論、やたら、、って、お前、うざいよって。

 そこで、自分よりも大事な価値が出来たり、強引の自分世界をバキバキと宅地造成されちゃうことで、自分との距離感がいい感じで広がって、ものがよく見えるようになる。ああ、これは俺のワガママだな、ああこの人は不愉快だろうなってよく見えてくるし、思いやりも深くなるし、周囲が見えてるから機転がきくようにもなる。

 ビジネス的にもこれは大事な資質で、同僚や消費者の立ち位置が見えないとトンチンカンなことばっかやる。そこが見えるとツボをついた動きが出来るようになって、「あいつは仕事が出来る」ってことになる。人間関係でも、見えてる人はつきあってて楽ですよね。「まあ、悪いようにはしないだろう」という信頼感もあるし、あぶなっかしくないし。僕も「早く、”安心して任せられる”ようになれ」ってボスに言われてましたし。

 それを"mature"(成熟した)というのでしょう。自分のことでいっぱいいっぱいになってる人は、まだ"imature"。でもイマチュア(未熟)な人って、要するに自己中だってことだし、周囲からみたら「すげーヤな奴」にも見える。だって、事実「イヤな奴」的な振る舞いになってしまうからね。悪意はないんだろうけど、害悪はまき散らしている。免許取りたての人が、おっかなびっくり運転するから、トロトロ走ってみたり、いきなり飛び出してみたりと。違法行為はするんだけど、未熟だから未成年者や心神耗弱者のように責任が減軽され、かろうじて許されているみたいな感じ。

 だから「自分離れ」ができている人というのは、ある程度は、自分のことでいっぱいいっぱいになって「ない」人ってことでしょう。

 誰でも年をとると、若いころのように傷つかなくなります。むちゃくちゃ面罵されても、「まあまあ」ってニコニコもしてられるようになる。ストレス耐性がつくんだけど、苦痛を堪える忍耐力がつくという部分もある反面、そもそも痛覚神経が減ってくるって、昔ほど痛いとは感じなくなるって部分もあるでしょう。それは何故かといえば、おそらくは自分離れしていて、自分をある程度足蹴に出来る、そんな大したもんかよって自然に思えるからでしょう。別に投げやりになったり、絶望的になってるわけではなく、過剰な自己愛が客観標準化されていくだけのことだと思います。

 思春期の頃は、美容院にいって超残念な髪型になってしまったときは、もう死ぬほど絶望して、学校行かない!もう引きこもるんだ!って自我がゲシュタルト崩壊したりするだけど(笑)、自然とある程度どうでもよくなってくる。多少切りすぎたとかいっても、そんな大したツラじゃないんだから、大差ねえよ、少なくとも周囲からみればどーでもいいことだわな、って見えるようになるのでしょう。

 以上が本論、以下、補足。



補足

似て非なるもの

 まず直近から補足すると、周囲の視線ばかりを気にして、あれこれ気をつかってる段階は、「周囲がよく見えている=自分離れしている」のと状況は似てるんだけど、本質は全然違うと思います。

 なぜなら、それって結局「自己保身」だからです。自分がこう思われたらどうしよう、嫌われたらイヤだな、ハブられたら地獄だなとか、そういう自分の身の安全を考えて、そのために周囲を探ってるわけで、要するに自分のことでいっぱいいっぱいだという。

 自分離れをしてる人が周囲を見るのは、誰か困ってる人はいないかとか、○○さん今日は身体がしんどそうだな早く帰してあげたいな、○○さんは自慢したくてウズウズしてるからちょっとソロを取らせてやりますか、○○さんの娘さん今日が誕生日じゃなかったかな、だったら報告は明日でいいいことにして直帰してもらおうとか、自分の保身のためにではなく、他人のために他人が見えてる人のことです。

 ちなみに、やたら嬉々として人を見下すような言い方する人も、非常に周囲(のアラ)がよく見えているんだけど、これも自分離れとは違うでしょう。むしろかなりいっぱいいっぱい。だってさ、冷静に考えて、他人を馬鹿だと断じたところで自分が自動的に利口に昇格するもんでもないでしょ。他人の点数が30点で馬鹿かお前って笑ってたら、自分は20点でしたってことだってありうるわけで。だから他人を見下すことって本質的に意味ないし。その意味のないことをやりたがるのは何故か?といえば、やっぱかなり厳しいところにいるからじゃないの?

 自分を抜本的に向上させる可能性があれば、普通それをやるよね。「(真実)絶対確実にイケメン・美女になれる3分間体操」とかあったとしたら(あるわけないけど)、誰でもやるでしょ?他人を馬鹿にするヒマもないよ。それを馬鹿にしてるってことは、それ(体操みたいな向上策)が見つけられない、この先死ぬまで自分が良くなることなんか絶対に無いって黒い絶望が核にあるような気がする。だからこそ、せめて他人を馬鹿にして、相対的に馬鹿にした分自分が上にいるような”気がする”という淡い一瞬の幻覚みたいなものにすがろうって話じゃないですか?これって一種のドラッグやん?阿片窟の廃人というか、か〜なり厳しい状況にあるんじゃないの?と。

教育機会と学習は別問題

 言うまでもないですが、結婚や子供出来たら無条件で偉いってもんでもないです。今は封建社会ではないのだ。なんでもそういう「身分」的なフォーマットでモノを考える人というのは、頭の中が中世・江戸時代というか、封建社会の人なんだと思う。

 結婚や子供は、そういう自分離れをするという「教育機会」があったというだけに過ぎず、その教育機会をどれだけ活かして、どれだけ学んだかは人それぞれです。思いっきり学んで人間力がドカンと上昇する人もいるだろうし、全くなにも学んでない人もいるでしょう。そりゃひどい配偶者や鬼畜みたいな親もいますからね。

 高校やら大学やら教育機関に通い、適正な教育機会を得ていながら、誰も彼もが習ったことは100点満点取れるとは限らない。てかオール満点なんて人はいないでしょうし、実際には「ほとんど忘れちゃった」みたいな状況だったりもする。機会を与えられながら、それを生かし切れないのが人間というものですからね。

 子供が生まれて自分離れを学ぶ機会がありつつも、逆にその子供を自我の中に取り込んでしまって、所有物のような、自慢の道具のような、延長自我にしちゃってるパターンだってあるでしょう。結婚しながら、ぜーんぜん自分は変えようともせず、相手にだけ妥協を強いて、それで上手くいかないから「失敗した」「騙された」ばっか言ってる人もいるでしょう。

 さらに言えば、学んだ人/学ばない人ってデジタルにオン・オフ出来るわけでもなく、学校がそうであるようように、数学は苦手だけど古文は得意みたいに部分的に学んだり、学ばなかったりという細かい模様になっているのだと思います。こういう部分はよく学んだけど、こういう部分は相変わらず全然ダメね、みたいな感じね。

自我憑依

 ありがちなのは、子供に全愛情を注ぎこんでるようにみえるんだけど、単に自我が子供に憑依しているだけって状況です。子供=自分になっちゃってて、自分離れどころか、自分が広がってるとか移転してるだけ。どうなるか?といえば、だから将来的に親離れ・子離れができなくなるのでしょう。育てるべき時期には献身的な自己犠牲をしつつ、ある成長点に達したら、これまでのコンセプトを180度ひっくりかえして「シャーッ!」ってやらなきゃいけないんでしょう。このシャー!は、起承転結の転みたいな重要なポイントで、これをミスると面倒くさいことになる。

 離婚事件なんかでも、娘の代わりに親が出てきて、あれはけしからん、〇〇家に対する侮辱だとか息巻いててうるさいことこの上ない。モンペアの離婚ヴァージョンみたいなものだけど、弁護士は学校の先生よりも傲慢で頭が高くて喧嘩が好きな人種だから「あんた、うるさいわ、黙っとき!」で黙らせますけど。

 この種の自我憑依ってよくありますよね。「会社のためを思って〜」とか言うんだけど、それって煎じ詰めれば自分のためだろ?という。お国のために〜なんてのもそう。自我がいろいろな仮面をつけて出てくるからややこしいんだけど、どこまでいっても結局は自分しか好きになれない人なんでしょう。その意味で自分離れできてないんだろうなーって思う。

何でも機会になる

 自分離れをする機会は、別に結婚や子育てだけではないです。当たり前ですけど。
 中学校の部活のキャプテンになったり、班長になったりするだけでも学ぶ。家族間でも友達間でも学ぶし、小説や映画からでも学ぶ。学ぶ人はどんなことからでも「おお、なるほど」と学ぶし。

 時と場合によるとは思うけど、仕事なんかでも学びどころはあるでしょう。
 「俺が俺が」のスタンドプレーで仲間に大迷惑かけたり、その損失のツケを文句も言わずに黙々と払ってくれている上司や仲間がいることに気付いて、自分の馬鹿さ加減に気付いたりとか。

 師と呼びたくなる上司もいるし、反面教師になる人もいる。「よし、思いっきりやってみろ!責任は俺が取る」で自由にやらせてもらえたら幸運ですよね。でもって、大失敗した挙句、それでもその上司は「全て私の責任です」と言って本当に責任をとってくれて、しかもそれで左遷させられて、尚且つ「いや、お前が責任を感じることはない。お前はよくやったぞ」とまで言われたら、もうたまらんですよ。左遷先に向かう列車のプラットホームで号泣って。

 でも、思いっきりその逆もいるしね。手柄は全部自分のもの、ミスは全部部下のせいって、そんなん多いだろうな〜。ま、昔から「一将なって万骨枯れる」といいますからね。で、そういうのに限って出世したりして、結局、その後、途方も無い衰退・破綻期を迎えるという。

 前にも書いたけど、事件で倒産案件やって、社長以下一丸となって必死で再生を図ってて、ある程度軌道に乗るあたりで、これまでの帳簿の誤魔化しという問題が出てきた。倒産する会社なんか最後の数年間は粉飾につぐ粉飾ですからね。どこだってそうです。必死の延命でお金をかき集めるけど、これだって詐欺といえば詐欺なんですよね。返せるアテもないのに「大丈夫です」といって借りるわけなんだから。最後になって、そのあたりのツケをどうしたらいいかという問題になったところで、めちゃくちゃ温厚な経理担当の常務さんが、「あ、じゃあ私が塀の中に行きましょう。全部私が遣い込んだことにすればいいです。私を業務上横領で刑事告訴してください、それでいきましょう!」と春風のように微笑を浮かべて言い出して、いや、それは、、となりました。一番気色ばんだのは社長で、彼らゼロから一緒にやってきた仲間だもんで、あとは本当に「ばかやろー」のドラマの世界で、「お前、一人だけいいカッコすんなよ、刑務所行くのはトップの仕事だ、俺がいく」「何言ってるんだ、トップが塀の中にいったらどうやって立て直すんだ、あんたは腹心に裏切られた可哀想なトップというピエロを演じてればそれでいいんだ、俺がやったことにしろ」みたいな言い争いになりました。そーゆーことって本当にあるのですね。目の前で見たもん。結果的には誰も行かないで済むように”処理”したんですけどね。そのへんはイロイロあります(笑)。

 ま、しかし、なんですな、国も会社もトップがこのくらい腹括ってて、自分離れしてくれていたなら、結構なんとかなるんですけどね。トップが腐ってたら、もうどうしようもないね。

 幕末の志士やら、革命戦士やら、殉教者やらも、自分以上に価値あるものを見出して、そのために役に立つなら、けっこう惜しげも無く自分の身を犠牲にしたりもします。究極的なのは自爆テロであり、特攻隊ですけど。

 その是非はともかく、対象がなんであれ、自分よりも大事なものを見つけてしまったら、案外、自分なんかどうでもよくなるのでしょうね。逆に言えば、いつまでたっても「俺は〜」「私は〜」でやってる人というのは、自分よりも大事なものがまだ見つかっていないのかもしません。

規範衝突

 よく書いていることだけど、A命題とB命題がバッティングする場合です。「自由」と「平等」は本質的にバッティングするとか。ここでは、まず「自分を大事にしろ」という命題と、自分を大事にするな(自分離れしろ)というB命題が対立しますが、それはなんとかアウフヘーベンするにせよ、今度はB命題がB1命題とB2命題に分岐してそれぞれに対立するって話もあります。

 例えばこの子のためには何でもやります、自分なんかどうなってもいい、なんと罵られてもいい、刑務所に入ってもいい、死刑になっても構わん!くらいに思ったりするわけですが、それは「家族を大切にする」というファミリーマンとしては美徳ではあります。でも、でもそれで社会的に求められることをやらなかったり、犯罪とかやっちゃったらまずいでしょう。最低限の社会的義務は果たせというB2命題に抵触する。

 例えば中高年がリストラになったりします。若い人からみてれば、使えない無能なオヤジが高給取りやがって、いい気味だ、ざまあみろくらいに思うかもしれない。そして、なんとか会社に残留しようと、恥も外聞もなく土下座したり、露骨なおべっかつかったりして、人間あそこまで保身に走るもんかね、あそこまで恥を捨てられるもんかね、あーやだやだって見えるかもしれない。昨今のメディアの自殺行為のような報道傾向にしても、あそこまで媚びを売れるのってどうなの?という。でも、人それぞれでありながら、中には、子供のために家族のために、どんな恥でもかいてもいい、どんなに馬鹿にされても構わないって人もいると思います。

 ある意味、結婚するならそういう「ミジメな」人がいいかもしれない。なぜって、身体をはって自分や家族を守ってくれる人というのは、リアルにはそういうみじめったらしい、恥辱にまみれた姿を晒すってことでもあるのだから。そんないつもケンシロウみたいに経絡秘孔で解決さってわけにはいかんもん。

 逆に家族よりも社会正義を取るみたいな人もいるわけです。「義のために死するは士の本懐!」とか言っちゃって、東奔西走し、あれこれ世のため人のために頑張ってるんだけど、家には金を入れないとか、かえりみないとか、家庭人としてはサイテーだったりもするわけです。

 三国志のエピソードだったかな、古代医学に華侘という超達人がおって、曹操に殺されんちゃうんだけど、その前に自分の全技術と知識を本にまとめて誰か(牢番だったかな)に託した。その託された人は、世のため人のために広めるんだ!って張り切ってたけど、寝ている間に、自分の奥さんにその貴重な資料を燃やされてしまった。なんてことするんだ!って怒るんだけど、奥さん曰くは、だって、あんたがこの本を世間に広めたら忙しくなったり、上に睨まれたりするだろ、私達家族はどうするんだい、だからこんなものは災の素なんだから燃やしてしまうのさと。もしその資料が世に出ていたら、おそらくは人類の医学の歴史はかなり変わっていたかもしれない。その意味でその奥さんは人類全体からすれば犯罪者のようなものなんだけど、でも彼女からすればそれは家族を守るということでは正義だったりもする。

 いや、難しいっすよね、規範衝突。
 僕が思うに、20代は自分を大切にして思いっきりその可能性を伸ばしてやって、30代になったら自分離れがそこそこ出来るようになって、40−50代になったら、この種の規範衝突のマネジメント技術というカリキュラムがくるのでしょうね。もうA(自分)はほっといても何とかなる、Bに力を入れられるんだけど、Bが増えてくる。社会的に責任が増えるほど、B1、B2、、って、しまいにはビタミンみたいにB12まで出てきたりして、それらの調整に四苦八苦するという。60−70代になると、さらにその上のカリキュラムが出てくるんだろうけど、すんません、そこまではまだ見えてません。なんかあるんだと思うけど、いってみないと分からんわ。


自我の二重構造

 最後にややこしい話をします。

 自分離れが出来ると、自分を突き放して見れるようになると言いましたが、そうやって突き放して見ている自分と、突き放されている自分がいます。あるいは自分よりも優越価値があると書きましたが、優越価値があると判断しているのも自分であり、自分を犠牲にしようとして決めたり、犠牲にしてより高次な価値が実現できたらそれを喜んでいるのもまた自分であるわけです。

 つまり、自分が二人になります。自我が分離して二重構造になるというか 不思議な関係になります。
 現場でいろいろ心を痛めたり、調子に乗ってる自分のほか、そういった自分を冷静にモニターしている「俯瞰の自分」がいる。丁度ATMの天井あたりに設置されているセキュリティカメラのように、あるいは後ろナナメ上あたりの空間から見守っているご先祖様の霊か守護霊のように見ている自分です。

 それ、どゆこと?自分がそんなに何人もおっていいの?って思われるかもしれないけど、自分なんか何人もいるんだと思いますよ。てか一人なわけないでしょ?

 さきに自我なんか「前頭葉の線香花火」って書きましたけど、別の言い方をすれば、巨大な全記憶意識(無意識も含めて)の任意の一点でしかないです。○○地方で大地震がおきました、ビルが崩壊して一面瓦礫の山です、生存者の安否が気遣われています、捜索隊が懸命に救助活動を行ってますって場合、たとえば真っ暗な瓦礫の上をヘリが飛んで、下にサーチライトを照らして地上を照らすんだけど、「自我」というのは、このサーチライトに照らされている部分だけなんじゃないかな?だから時と場合で映るものも違う。自意識の内容も局面や時間によってガラリと変わったりもする。

 あるいは、別の比喩でいえば、自意識というのは舞台。ステージである。時間と局面によって演し物が違う。あるときは着ぐるみが沢山出てきて歌って踊って、あるときは一人芝居のパントマイムやって、あるときは落語やってて、あるときはパンクのコンサートをやっているという。

 そのときにステージで歌って踊っているのが「ライブの自分」だと思います。感動したり、ムカついたり、反省したり、調子こいたりしてる。そしてそのステージを全体的に管理しているモニター調整室とか、劇場のマネージャーみたいなのが「俯瞰の自分」なんじゃないかな。

 これって、むちゃくちゃわかりにくいことを言ってるようで、誰でも心当たりあると思いますよ。全力で感動しているときですら、心のどっかでは、そういう感動している自分を冷静に見ているもう一人の自分っているでしょ?それがマネージャーの俯瞰の自分です。

 俯瞰の自分が安定してくると、いいことがあります。舞台上のライブの自分がきゃーとか泣いてても、それに全人格が引きずられることがなくなる。もっと大局的にものが見えるようになってるから、「まあ、ここらへんでイロイロ苦労しておくのもいい薬になるだろう」てな感じで構えていられますから。

 もう一点、これが一番大きな福音だと思いますが、俯瞰の自分がちゃんとしてたら、ライブの自分もまた活き活きと舞台に立てるようになります。難しい話はマネージャー(俯瞰の自分)に振っちゃえばいいですから。今ここで起きている出来事の意味はなにか、この自分の対応はイケているのか、課題はなにかとかそういうのはマネージャーに振る。で、舞台の自分は、子供のように純粋にキャッキャと喜んだり泣いたりしてればいいんだと思います。つまり、その場その場を純粋に楽しめるようになります。あんま深いこと考えなくて、きゃ〜!が出来るようになる。それデカイすよ。

 奥田民生の昔の歌で「愛する人よ」というのがあるんですけど、その歌詞がそんな感じなんだろうなって勝手に解釈してます。こういうんですよ。

 簡単 簡単 ベリーグー  今日の一日も終わった  
 朝方ちょっと腹立った  夕方めちゃくちゃ笑った
 これがいつもの 僕の事だよ

 陽がまた昇る また陽が暮れる  とぼけてる顔で 実はがんばっている
 陽がまた昇る また陽が暮れる  とぼけてる顔で 実は知っている

 この前段がライブの自分ね、後段のとぼけてる顔が俯瞰の自分ね。まあ奥田氏はそんなつもりで書いたんじゃないのだろうけど、そう読めるなと。この「ベリーグー」という超軽い歌詞、また曲調も人生舐めてない?ってくらい軽くて、でもって淡々と日常が過ぎてるだけなんだけど、それでいいのさって。朝にはムカついて、そのときは真剣にムカついてて、でも夕方になるところっと忘れてゲラゲラ大笑いをしている、それが自分なのさ、怒らせたり笑わせたりしてればいいんだよ、それでいいんだよって。






文責:田村



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