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今週の一枚(2015/08/17)



Essay 736:「ブレ」について

社長の意見、変わりすぎ!の件

 撮影場所は先週と同じVaucluse。

 道端の樹木の上にいた野生のインコ、レインボー・ルリキート(Rainbow lorikeet)のカップル。
 この鳥、ときどきみますし、 マンションのベランダに水やパンを置いておくとどわっと集まったりしますよ。すごい綺麗。Wikiはここ

 でも今回のは珍しいくらい二羽が仲良しで、互いにくちばしで毛づくろい(?)をしてたりします。とーっても、ほほえましくて。

社長の意見、変わりすぎ

 パリパリに動いている企業、特にイキのいい新興企業の最前線、あるいは最終権限をもってる人(社長とか事業部長とか)の近くにいる人ならお分かりかと思いますが、「社長の意見、変わりすぎ!」です。

 もう朝に右と言ったと思ったら、夕方には左になり、深夜にメールが入ってきて「やっぱ止め」になって、翌朝になったら「よし今度は正面突破だ」とか言ってる。おいおいいい加減にしてくれい!何が本当なんだ?あまりにもブレ過ぎではないか?と。


 いや〜、でもそんなもんすよ。植物の成長点のような最前線においては、株式みたいに刻々と情勢が変わるから臨機応変に対応しなければならない。「臨機応変」「しなやかに対応」「即座に態勢を立て直し」などの言葉は、聞こえは良いのですが、要するに現象としては「コロコロ変わっている」わけですよね。それが現場感覚では、もう朝令暮改×朝令暮改の連続で毎日言うことが違うって感じになったりもします。振り回されるスタッフはたまったもんじゃないんです。

 それでいいんか?というと、それでいいのだと思います。臨機応変ってそういうもんだからです。

 一方「ブレない」ことを良しとする考え方もあります。局面が変わろうが時代が移ろうが、頑として変えないものは変えない。メニューは変えるけどダシは変えない、という。

 一方では激しく変わることを良しとし、他方では変わらないことを良しとする。ぱっと見矛盾してます。
 でも矛盾はしてないでしょう。変わることを良しとする局面と、変わらない方が良い局面があるというだけのことだと思われるのですが、さて、ここで問題です。

(1)どういう場合は変わった方が良く、どういう場合には変わらない方が良いのか?その基準を示せ。
(2)上で示した基準はなぜ導き出されるのか?その根拠を論ぜよ。

基準論

 僕の回答は以下のとおり。
 (1)の基準論は、より大きく、長く、深く、本質的であればあるほど変わるべきではないが、より小さく、短期で、浅く、非本質的であればあるほど激しく変わって良い。別の言葉でいえば、なぜこれをやるのか?という価値判断や究極目的に関するものは安易にブレない方が良いが、現場における手段的作業においては刻々と変化する現場の状況に合わせて常に最適化をほどこすべきであると。

 さらに別の言い方をすれば戦略(ステラテジー)は変えず、戦術(タクティクス)は変える。戦略というのは大きな計画で、三国志でいえば、魏と呉を噛みあわせておいて蜀が無傷のまま漁夫の利を得ようという構想が戦略で、戦術というのはそのためにあれこれ細かな画策をすることです。例えば、魏兵を装って呉の国境を侵掠して呉を挑発して怒らせようとか、呉が大群で魏に攻めてくるぞという怪情報(噂)を魏の国内で流すとか、その種のことですね。

 ただし、実際には戦略/戦術といってもこの両者は相対的なものであり、且つその2つしかないわけではなく、前後にもっといろいろあります。

 例えばボクシングの試合だったら、浅いラウンドでは相手の力を測りつつ、挑発して大ぶりさせて疲労を誘い、中盤から終盤にかけて一気にキメていくというのが「戦略」だとしたら、個々の局面でジャブを打ったり、アッパーでのけぞらせたりなどのコンビネーションやら、疲労を蓄積させるために小刻みにレバーを打ったり、、、などが戦術です。しかし、より大きな戦略としては、今回の試合はまだ世界戦への前哨戦だから、あまりムキにならずに次に備えてできるだけ体力を温存しようとか、後日のためにクセのある動きをする南米系の選手との戦い方に慣れておこうとかいう構想があります。さらにもっと巨大な視点もあります。「そもそもなんでボクシングなんかやってるの?」と。世界チャンプになって俺を馬鹿にしてきた世間を見返してやりたいとか、育ててくれたオフクロに楽をさせてあげたいとか、いやもうこの食うか食われるかのヒリヒリ感が最高に楽しいとか、そういったレベルの話があります。逆に戦術においてもさらにミクロに細かくなっていきます。ジャブひとつ打つにしても、3本に1本はスピードをタイミングを微妙にズラしてみようとか、ボディブローでも打ち方を変えて初速はノロくても当ってからじわっと押し付けるように接触時間を長くしつつ、ひねりを加えてダメージを倍加させようとか。

 かくして極大においては「なんのために生きてるの?」みたいな究極の価値観があり、極小においてはコンマ0秒レベルでの細かな駆け引きがあり、その大←→小のグラデーション段階は無限に分化していくでしょう。そういった中で、対象となる構想スケールが大きければ大きいほど、より本質的で根本的な価値観に遡るほどブレない方がいい。逆にミクロになればなるほど、一つのやり方に固執するのではなく変化を持たせていった方がいい。

根拠論〜なぜ小さなことはブレてよいのか

 (2)次に、なぜ大はブレちゃダメ=小はブレてよしなのか?その根拠です。

手段の意味

 先に、なぜ戦術レベル以下の小さい物事は変化させて良いか?をやります。
 それは「手段」だからです。手段と目的の大きな差は、手段というのはそのこと自体に独自の意味は「ない」点だと思います。要は目的を達成すれば良いのではあり、手段なんかなんでもいい。

 英語の勉強でも、要は英語が上手になれば良いのであって、辞書をひくことそれ自体に意味や価値があるわけではない。辞書をひくのはボキャブラリーを増やすという中目標を達成するには良い手段ですが、別にそれに限ったものではない。その場で聴いて覚えるという覚え方もある。バスに乗ってて必死に辞書ひいて覚えてたら、横からネィティブが「このバスはどこにいくの?」とか話しかけてきたとしてます。「だー、うるせーな、俺はボキャの勉強をしてるんじゃい、邪魔するな」とは思わず、また話しかけられたせいで英語勉強が中断されたとも思うべきではない。なぜなら英語の勉強はボキャだけではなく、発音もあるしグラマーもあるし、実戦会話の緩急自在なタイム感やアイコンタクトなどの「伝え方」のノウハウもある(実はこれが一番大事)。それらを学ぶ格好の機会が向こうから転がり込んできたんだから、いつでもできる辞書なんか後回しにして良い。

 それにボキャでも、その話しかけてきたネィティブに「この単語、どういう意味?」と聞けばいい。「あ、それはね」と英語で説明された方が遥かにニュアンス正確で、記憶の定着率も良い。さらに「この単語、よく使うの?」と聞くと、「あんま使わないな〜、すごい堅苦しい場面とか、年寄りとかは使うけど、日常ではそんなに」「それにこれってそんなにいい意味で使うことはないな、他人を馬鹿にしたり批判するときに使うな〜」とか、辞書に載ってない本当に知りたい情報がゲットできます。

 でもって、仲良くなって今度一緒にメシでも食いに行こうぜって話になって、それがきっかけで友達が増えて、、、という。そうなるとさらに上の局面、「そもそもなんで英語上手になりたいの?」→「コミュが上手になって多くの人と知り合いたいから」→なんで知りあいたいの?→「その方が沢山楽しい時間を過ごせるし、人生が楽しくなるし、展望も開けるかもしれないから」であり、より究極目的に役に立っていく。

千変万化する現場

 このように現場というのは千変万化します。
 大目標のために大手段(戦略)、中目標のための中手段(戦術)、小目標のための小手段(個々のタスクやワザ)という階層をランダム且つ自由自在にいったりきたりするのが現場の妙味というもの。そこはもう臨機応変に対応していった方がいいに決まってる。巨大な究極目標に王手かけられるようなチャンスがありつつも、そこでミクロ手段に固執することで大魚を逸するようなことがあったら愚かですもんね。

 また、現場というのは思った通りに物事進まないです。というよりも、思った通り寸分違わず物事が進むことなんか、よほど局限された場面でもない限りおよそあり得ない。なんでそこまで言い切れるのか?といえば、神様じゃない普通の人間が、その場の全てを100%把握することなんか不可能ですから。

 あるプロジェクトがあり、朝から現場に行きました。ところが行ってみたら季節外れの豪雨になって、身動きとれなくなっちゃいましたとか。待ち合わせの場所にいったら一人遅れて30分押しになってしまい、もともとタイトのスケジュールだっただけにその遅れが最後まで響いてしまったとか。昼飯に近所の弁当取り寄せたら、食中毒になって自分も含めて病院送りになりましたとか。地震警報やら交通制限がなされて大渋滞になって到底予定通り出来ませんとか。スタッフ同士の内輪モメがこじれて一触即発のギスギス空気になって、全然乗らないで大失敗とか。一人パシリにいかせたら、そいつが軽い交通事故起こしてしまって、警察の取り調べを受けたりスケジュールがグチャグチャになったり。

 イベント、あるいは文化祭の模擬店やコンサートですら一度やったらわかると思いますが、もう次から次へと「これでもか」ってくらい予想不能のトラブルがありますよね。アンプが鳴らない、シールドが断線した、エフェクターの電池が切れた、ミキサー置く場所がない、やっと見つけたけど今度はコードが届かない、延長コードが見当たらないとか。バンドでステージに立って、いざ!一曲目ってときに限って、弦が切れるとか。なんでじゃあ〜、朝新品に張り替えたじゃないか〜!とか思うけど、そんなこと言っても始まらない。これがプロクラスなら、ボーヤと呼ばれるスタッフが新しいギターを持ってきてくれるけど、アマレベルではそれも不可能。曲の途中で切れたりしたらお手上げです。でもお手上げとか言ってる場合じゃないので、僕も1本弦が切れたまま誤魔化して弾いたことありますし、僕の友人なんかよほど日頃の行いが悪かったのか(悪いんだけどさ)、2本も切れたもんね。それでも一曲弾き切るアドリブ力はすごいけど(◯弦が切れた場合を想定した練習なんかもするのだよ、実は)。

 いや〜、ほんと、現場なんかそんなもんスよ。
 当日顔を合わせるスタッフ全員について、やれ◯◯は今日は生理痛がひどいからいつもの働きは期待できないぞとか、◯◯は昨日から子供がプチ家出して連絡つかないからメンタル不安定だぞとか、◯◯は密かに転職を決めていて心ここにアラズだぞとか、今日は午後から地震があるぞとか、なぜか帰りのバスがなかなか来ないぞとか、機材の◯◯が途中で原因不明の故障を起こすぞとか、、、、そんなことあらかじめ全部わかったら神様ですよ。わかるわけないのだ。

 さらに初めて行く場所、初めて会う人々、新しい試みなど「今回初めて」のオンパレードのような場合で何もかも見通せるわけなどない。そこでは「計画」「予定」などと呼ぶことすら憚られるような、「こうなったらいいな〜」という「願望」でしかないのだ。

 彼女と海水浴デートだ!とか勢い込んでドライブしたはいいけど、お盆休みやら帰省ラッシュで大渋滞。これは予想可能かもしれないし、それを見越して電車で移動だ!って先読み計画たてたところで、飛び込み自殺があって電車止まっちゃったってこともありえるわけです。彼女がトイレに行ったのを待ってたら全然帰ってこずで、おかしいな?と思ったら、トイレの出口が2つあって間違った出口から出てそのまま変な方向行ってしまってたとか。またそういうときに限って携帯がなぜが使えず。僕も、携帯なんか無かった大昔に、東京駅ではぐれてしまって、二人して1時間以上半狂乱になって探しまわったことがあります。駅のアナウンス頼んでもラチが開かず。「多分あそこにいるだろう」という予想ポイントを順々に潰すけど、ことごとく行き違いになってしまってもう大変。

 あ、余談ですけど、土地不案内な人をアテンドしたりデートしたりした場合、その人がトイレや建物に入って、出てくるのを待つ場合にはちゃんと出口で待っているといいです。少なくとも出口から出てきたら目につく場所に居るといい。なぜなら、一回どこかの建物に入って所用を済ませた段階で記憶が軽く断絶しますので、そこから出てきたときに、よく方向を取り違えたりするからです。先に進むつもりで、元来た方向に戻ってしまうという。そんな経験ありませんか?そのリスクがあるから「先に行って待ってる」ということをしていると、待てど暮らせど、、、ってことになる。自分が建物に入る場合は、入る直前にくるりと振り返って道路の画像を記憶したらいいです。入る時と出るときでは全く見え方(画像)が違いますから、出てきた時に見知らぬ風景が見え、「あれ?」と軽く錯乱するからです。だから入る前に、出てきたときにはこう見えるぞと予習しておくと間違えません。一分一秒を争うような忙しい仕事時には、道に迷ってるヒマなんかないですからね。

 というわけで、スムースにいかない、いくはずもないのが現場です。そんな現場では、状況に応じて手段をあれこれ変えていくこと、新しい方法を考えだすこと、小刻みに優先順位を前後させていくこと、切り捨てるべきものはさっさと切り捨てること、予定外であっても美味しそうな果実が転がってたら、すかさず飛び出してスライディングキャッチすること、その臨機応変な決断と実行が求められます。

 局面がミクロになればなるほど、末端現場になればなるほど、臨機応変の現場力が求められる。ゆえにそこではブレていいのですね。ブレないとやってられないというか。

 ここまではわかると思うのですが、これに全体のスケールがかぶさってきます。

スケールによる論理則の違い〜ブレて見えるか見えないか

 そんな末端作業が変わるレベル〜「ホチキスの芯が無くなったらセロテープでとめておけ」みたいな話だったらわかるけど、IT事業に進出だ、いややめてラーメン屋だ、いやそれもやめて総合レジャーランドだ、、、って感じで大きな部分がコロコロ変わる場合もあります。こんな大きな部分が変わっていいのか、方針ブレブレじゃん!って思うわけですね。で、冒頭の「社長の心変わり」愚痴になる。

 でも、そこにいるスタッフからしたら大きなことでも、社長から見たら末端の小さなことだったりするわけです。そこにスケールの大小による見え方の違いがある。

 巨大な世界企業からしたら、日本市場なんか全体の一部に過ぎないでしょう。昔日の面影は既になく、日に日に高齢化し貧困化する(日本の貧困率は先進国でワーストだともいう)日本マーケットなんか、地球規模でみれば過疎のジジババ村みたいにも見えるでしょうよ。切り捨ててもそんなに惜しくないし、コスパ考えて決めたらいいだけ。でも、どうせ切り捨てるならで、将来の幹部候補生や超エリート達の「練習の場」としてやらせよう、「ちょっと修羅場を仕切ってこい」って発想もアリなわけですよ。でも、日本レベルでみてたら、次から次に本社から送り込まれてくる社長の方針がコロコロ変わるわ、潰す気か?みたいな奇想天外な手を打ったりして「ついていけない」と悲鳴がでてくるでしょう。なんの合理性も一貫性も感じられないし、本社は気でも狂っているのか?って見える。ほんでもスケール大きな視点でいえば、「こうやると潰れる」という実地練習でやってるとか、実験場として使ってるとか、そういう「合理性」があったりするわけです(単にトチ狂ってるだけって場合もあるだろうけど)。

 そこまで巨大な話ではなく日本国内でも、大きな会社が小さな会社を吸収合併した時、欲しいのは特定の部門だけで残りの部門はスタッフもろとも「使い捨て」って非情なケースもあるでしょう。本部からすれば、その小さな現場会社を盛り上げようとか繁栄させようとかいう意思はサラサラなく、問題社員の左遷先として使おうとか、ライバル企業への牽制や陽動作戦として突撃させて全員戦死させようとか、むごい話もあったりしますよね。そういった「大きな思惑」そのものはブレてないんだけど、現場レベルでみるともう理不尽なことばっかやらされるという。

 そういえば、オーストラリアだって、最初からアジア市場におけるマルチカルチャルな拠点国をつくろうなんて発想で作ったわけではなく、最初は単にイギリスの刑務所が満杯だから、島流し先、いわば人的な産廃処理島みたいな感じで作ってるわけですからねー。そんなもんすよ。何度か紹介している、明治政府の頃の北海道開拓の樺戸集治監だって受刑者が死んでくれた方が経費が安上がりになって好都合とか鬼畜のようなドライさで捉えているし。

 まあそこまで血も涙もない話だけではなく、ここではスケールが違うと論理則も変わるし、大きな部分ではブレてないけど、中小レベルでみるとブレブレに見えるって見え方の違いでした。


根拠論(その2)〜なぜ大きなものはブレてはいけないのか

 大本になる基本戦略、さらにその戦略を導き出すにいたった根本的な価値観は、あまりコロコロ変わらないほうが好ましいです。では何故変わらないほうが好ましいのか?

変わること自体は悪くない

 いきなり前言をひっくり返すようなことを言いますが、別に変わったりブレたりしても良いとは思いますよ。価値観が変わることそれ自体は、特に忌避すべきことではなく、それは時として人間的成長を意味することもあります。例えば、人を押しのけて上に立つこと、上昇志向で勝ち得た高度の分だけ幸福になれるという価値観だったのが、大病をして長期療養をしたり、子供が生まれたり、陰謀の渦中に巻き込まれて濡れ衣着せられて失脚したり、、、などをしていく間に「アホらし」「上に行けばいいってもんじゃないよな」って気が変わる価値観が変わるってことはあります。そしてそれは、長い目でみれば人間的に成長したと評すべき場合もあるでしょう。

 もっといえば上昇志向とか自分らしく生きるとかいうのも、「幸福になる」という究極価値からしたら「手段」や戦略・戦術にすぎないという捉え方もあるでしょう。そこでは「幸福になりたい」という根本価値観は変わってないけど、そのための方法論が変わっただけとも言えます。このあたりは単なるコトバの問題ですが「幸福のカタチ」が変容したとも言えます。さらに述べれば幸福のカタチといっても一つの価値が一党独裁しているのではなく、複数の価値が合議制で集合しており、その席次やレシピーが変わるだけって言い方も出来るでしょう。

 例えば、世界最強になるのだという圧倒的な自己顕示&実現快感が筆頭価値を占めているときは、美味しいものを食べたいとか、好きな人と睦まじく暮らしたいという価値は劣後します。だから仕官の口を断って山野をさすらって餓死寸前になったり、お通さんが待っていても頑なに避けたりって価値序列をつけます。しかし、自分を顕示してそれでどうする?それって楽しいの?って疑問にもなってくる。まんまバガボンドの流れですけど、最強の吉岡清十郎を倒してもあんまり嬉しくない、「もう少し嬉しいかと思ってたけどな」という独白になり、いよいよ天下無双の夢が近づくほどに、その価値が幻のように薄らいでいくという。そういうことはありますよね。以前「なるほどの旅」で書いたように、てっぺんまで登り切った時に思うのは「それがどうした?」です。もう大して嬉しくなくなってるという。

 究極の価値観を決める奥の院、重役会議というか枢密院みたいな価値観決定委員会における合議の内容が徐々に変わっていくことは、生きてりゃしばしばあります。それは悪いことではない。それに10年に一回変わるというよりも、考え方次第ですが、細かな点では毎日のように変わっているともいえる。日々新しい現実に触れるから、世界観も日々アップデートされ、それによって価値観も微妙に変わっていきますからね。

 以上のように、究極の価値観、その内容であっても、別にブレたらダメなわけではない。生物の進化の流れ、あるいは一秒ごとに新陳代謝を繰り返していることから考えるに、「生きること=変わること」なのかもしれません。

 ただし、これもコトバの問題ですが、好ましい変化は通常「ブレ」とは呼ばない。好ましくない不毛 or 劣化する変化を「ブレ」と呼ぶ。そして、価値観とか根本戦略レベルにはこの「ブレ」がありうる。てか非常によくある。だから気をつけろって意味で「ブレてはいけない」ということだと思います。

 では、好ましくない変化とは何か?価値観が変わるのは別に悪いことではないなら、何が変わると悪いのか?

「混乱」が好ましくない

 私見によれば、手段と目的がごっちゃになることが「悪い」のだと考えます。それは「成長」「アップデート」という好ましい「変化」ではなく、単なる「混乱」「ミス」だからです。

 例えば、幸福(価値)の実現のために環境整備事業があり、その一つとして物質的基盤というのがあります。とりあえず暮らしていけるだけの資産的な充実、収入の安定、衣食住の確保などです。大事なことだから誰もが頑張ってお金を稼いだり、スキルを身につけたり、よい就職先を探したりします。そこまではいい。ただし、そこが肥大しすぎていって、何が何でも金じゃ、金さえあればという拝金主義に陥っていくと、本来手段的なものだった物的基盤、そのうちの一部局でしかなかった集金部門が突出して権力を増大して、次第にはその部局が天皇のような存在になっていくという、へんてこな下克上みたいな現象があります。はじめは単に満州植民地方面の末端実務部隊だった関東軍が暴走して、国家の権力そのものを簒奪し、日本を破滅に叩き込んでいった経過に似てます。

 この種の価値紊乱(びんらん)というか、ゆるやかなクーデーターみたいな出来事というのは、僕ら個々人の生活においても、社会においても非常によくみられます。もしかして圧倒的なマジョリティはそうかもしれず、そうじゃないのを探すのに苦労するくらいに。

 例えば先程の英語の学習にしても、なんのために英語を勉強するのか?という目的=幸福のための人的環境の充実(楽しい仲間にたくさん出会って楽しくなりたいな)のイチ手段、道路整備事業や整備新幹線みたいな存在だったのにもかかわらず、勉強の鬼のようになり、さらに英語学習の数ある方法論の一つでしかない「できるだけ日本語を喋らないようにする」というその一点に意識が集中してしまう。その挙句、海外留学先で日本語で話している日本人がいたら問答無用に「馬鹿」だと決めつけ、自分は絶対に馬鹿にはなるまいと固く心に誓い、日本語で話しかけられてもガン無視し、「馬鹿ばっかでやんなっちゃうよ」とやたら人を見下すことばかり覚え、、、おいおい、「人的環境の整備」はどうなったのだ?真逆にいってんじゃん。人生全体のトータルマネジメントでいえば、英語学習などせいぜいが3-5%程度しか占めないと思われるところ、英語学習部門の最高司令長官だとしても、まあ、せいぜいは広島支店長か福岡支店長レベルにすぎないです。それをムキになってやってるうちに、本体である自分の人間的魅力すらをも腐食させてるわけで、こんな使えない支店長は即刻クビにすべきです。ところがクビどころか社長になってしまうという。さらに、その取り巻きが悪く、その取り巻きが権力を握るという宦官政権みたいなこともおきます。馬鹿ばっかりと周囲を見下すことに快感を覚えてしまい、幸福量=他人を見下した量みたいになってしまって、もうそうなると人生泥沼劇場の開幕です。

 こういうことを「ブレ」というのだと僕は思います。価値観が育つのではなく、不毛に混乱してきて、指揮命令系統がグチャグチャになっていくこと。

 栄養があってリーズナブルなものをお腹いっぱい食べてもらおうという純な志でお店を開いたけど、なかなか流行らない。やっぱ高いのかなあ、食材を選んでるからどうしても高くなっちゃうしなあ、、、そこで、栄養価とか安全性にはあまり関係ないような部分で仕入れ単価を下げて価格を安くしたところ、お客が増えた。おし!ということで、今度は損覚悟の目玉商品を作って集客し、その代わり微妙に関連商品(飲み物とか)を値上げして帳尻を合わせたら、これも大当たり。面白くなってきて、だんだん安くしたり、売上が上がるのが主目的になってくる。店舗展開も考えるようになる。今度は人件費削減だ、バイトなんかコキ使えるだけコキ使えばいいんだ、このくらいの規模の店に3人はいらんな2人でいいな、いや使える奴が一人いればいいな、文句言うやつは洗脳しちゃえばいいな、文句言えない雰囲気の職場づくりをすればいいな。そうそう、食材だけど被曝の廃棄処分流れのものが安く手に入るという営業を受けたけど、この際いいか、わかりゃしないよなこんなの。ああ、油なんか毎日変えることないぞ、一週間に一回変えれば十分だ、、、、なんてやっているうちに名実ともに立派なブラックになっていくという。

アホやねん

 何のために何をやってるのがわからなくなってくる。そんなアホな?と思うかもしれないけど、もともと人間なんかアホなもんで、この種のアホなことばっかやります。なんでアホになるのか?といえば、これはテーマが違うのですが、アホになって手段が目的化した方が、話が分かりやすいし見えやすいからでしょう。目的って高次なものになるにつれ「幸福」とか曖昧な抽象概念になりますから、よう分からんのですね。ピンとこない。でも手段は現実的だから見えやすいし分かりやすい。そして見えやすい部分で成果があがってくると面白いし、充実した気持になれる。だから手段の目的化がよく生じるのでしょう。そこで「ブレ」が生じてしまう。

 話は巨大にして国家だって同じことです。もともと近代法の原理でいえば国家というのは国民の幸福のための前提環境の整備事業としてあるわけです。ある程度集団で動かしてその結果をシェアした方が効率的だからやってるにすぎない。国家とはそのためのシステムとプロトコル(手続)の体系的集大成に過ぎない。その意味でいえば、「愛国心」とかいうのも胡散臭い概念で、そんなシステムなんか愛してどうする?と僕は思う。それって、「ATM愛」とか「TCP-IP愛」とか「全国送電線整備事業愛」とかいってるようなものだ。国家などという人工的な、お約束の集合体を愛するなら、まず人を愛せです。ここで国家=国民全員と実体化したとしても、まず手近なところから、パートナーを愛せ、親や子を愛せ、友達を愛せ、隣人を愛せ、地下鉄車内で隣の席に座ってる見知らぬオバサンを愛せで、それが出来ないで何が国家だという気がします。人間が一度に愛せるのは、個人差もあるけど、ええとこ数十人と違いますか?百人は無理でしょ?てか、一人か二人かというレベルでも四苦八苦してるちゅーのに。1億人も愛せないよ。

 国家というのは、あった方が便利だし、国民と呼ばれる構成員の幸福追求のための環境整備がやりやすいからあるものでしょ。それが上位レベルにおける価値序列なんだけど、だんだん手段が目的化していく。ブレていく。国家あってこその国民みたいな感じになっていく。それって、18−19世紀はリアルな実態でした。建前は美しいけど、やってることは封建主義的な身分社会であり、その本質を一言でいえば「弱者は強者の所有物」であり、強者が弱者の生殺与奪の権を握ることの事実上の肯定でしょう。今どき国家主義的なノリになりたがってる人がいるとしたら、その本当の思惑は忖度の限りではないけど、心情的には強者が弱者の上に君臨すること、弱い奴を踏みにじっても自分を優先させたいというエゴを別の形で正当化させたいって思惑がどっかにあるような気もしますね。

 それはさておき、この種の価値紊乱ちゅーか、手段がいつのまにかデカイ顔をしているってアホアホな状況というのは、よくある話です。それが忌むべき「ブレ」に見えるということですね。最初のころは「お客様に安心して食べていただく〜」とか言ってたのが、だんだんコストカッティングだ〜とか言い出して、「味付けを濃くすればわかりゃしねえよ」になっていくという。

現場における見極め

 ただし、これって現場レベルで見分けるのは意外と難しいかもしれませんね。
 ラーメン屋の店主が、やっぱラーメンだけじゃなくてカレーも人気商品だから充実させようとか、そのネーミングでも「特製カレー」ではインパクトが弱いか、「秘伝・究極のカレー」ならどうだ?大袈裟過ぎる?じゃあ、、とかネーミングが他愛なく変遷しているのは、愛すべき現場での試行錯誤で許されるような気がします。あるいは「激辛ねぎ味噌高菜根菜トンコツ醤油ラーメン」とか作って、くどいか?わかりにくいしインパクトが無い?じゃあ「スーパーギャラクティカラーメン」はどうだ?嘘臭い?そうだよなー言ってて自分でもわからんもんなー、そもそもウチは伝統的な醤油でビシって決めるのがコンセプトであったはず、あれこれ亜流を出してはいかん、基本に戻らねば、、、でも、メニューが3つだけとか寂しくない?もうちょっと、こう、「華やぎ」が欲しいよね、あ、華やぎラーメンってどう?ダメか、、、というのも愛すべき試行錯誤でしょう。

 なんで愛せるのか、許せるのか、そのメルクマールはどこにあるのか?といえば、「美味しいものを食べてもらいたい」「みんなに喜んでほしい」って根本部分がブレてないかどうかだと思います。そこが変わってない限り、あれこれ訴求力ある商品開発を考えるのはアリでしょう、日替わりメニューのようにラーメンのネーミングが変わるのも良しとしましょう。まあ、こんなにコロコロ変えられたら現場はたまったもんじゃないだろうけどね。

 ところが、「美味しいものを〜」って部分がだんだん変わってきて、とにかく儲かればいいとか、出店数を増やすとか、社長が地元で有名人になることとか、次の市議会選挙に打って出るとか、、、、になるにつれて、ブレてきますよね。いや、ラーメン屋の親父が議員先生になるのは悪いことじゃないですよ。民主主義ってまさにそういうもんだから。でも、それはそれ、これはこれで、議員になろうが海賊になろうが構わないけど、ラーメンはラーメンでビシッと基本理念は守ってほしいよねって話です。



 最後に画像では伝わらないので、その際に一緒に撮った動画も編集してあげておきます。
 音声はカットしてます(車の音とか関係ない音がうるさいので)。
 小首をかしげて、掻いてもらってるところが可愛いのだ。






 

文責:田村



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