★↓背景画像bgmaximage★ グラデーションなどベンダープリフィックスを除去するJS★
735 ★背景デカ画像

  1.  Home
  2. 「今週の一枚Essay」目次

今週の一枚(2015/08/10)



Essay 735:とりあえず「てっぺん」を狙え

誇大妄想狂のススメ

 撮影場所はVaucluseの断崖の絶景。South Headの近く。

 日本はまだまだ暑いらしいので、先週に引き続き、まるで暑中見舞いの絵のようなものを。ご笑納あれ。

ガチ本気なら、とにかく「てっぺん」

 もしあなたが「本気で」何かを狙っているなら、とりあえず、ありえないくらいのトップを狙うといいです。

 いきなり注釈カマしますが、今回言うことは本気でやる場合だけですよ。とりあえずカタチだけやってるフリをしたい場合、なんかやって充実っぽく振る舞って周囲や、ひいてや自分自身すらをも騙したい場合はそうではないです。そういう場合は、またそれなりに「やり方」があります。今回は、ガチの本気で何かを狙ってる場合の話です。

 これから大学入試をするなら志望校は最難関のものにするといいです。なにか資格を取るならばその領域で一番難しいやつを狙うべきです。スポーツをやるならプロの頂点かオリンピック金メダル、音楽やるならベートーベンやビートルズに並ぶくらいのところ。登るんだったらエベレスト。運転するならF1優勝。格闘技やるなら世界最強、剣を振るなら天下無双、権力を狙うなら「天下布武」。とにかく狙うのは「てっぺん」。何はなくとも「世界制覇」。

 まあ、「誇大妄想狂になれ」って言ってるようなものですが(笑)、でもこれ、めちゃくちゃ合理性あります。
 逆に、「私はだいたいこの程度」みたいに「妙に身の程を知る」みたいなことをやってると、まあだいたいダメだと思います。仮に局所的にうまくいってもトータルでよろしくない。


 なぜそこまで言い切るかというと、
 (1)実践的に「大は小を兼ねる」から、
 (2)リアルな実現率を考えると大体5割から8割くらいだから、最初から高めの設定をして、そこから2−5割引くらいになるといい、
 (3)人間は怠け者だから「このくらいでいいや」と甘い設定をするとそれ以上の努力をまずしなくなるし、それに必要な努力すらしなくなる
 (4)物事の習得は、一気に徹底的にやった方が最速確実に身につく、中途半端な深度だったら結果的にゼロ同様になったりするので無駄な苦労が多い
 (5)セルフエスティームが上昇する
 (6)仮に失敗しても「てっぺん」だったら挑戦者の栄誉は得られる、
 (7)物事の美味しさはトップに70%くらい集中し、銀メダル以下になると極端に美味しくなくなる
 などの理由があるからです。

 その昔、「一番じゃないとダメなんですか?」ってのがちょっと流行りましたが、ダメっす。絶対ダメ!くらいに思っておいたほうがいい。いやね、結果的には198番くらいになったりするんだけど(笑)、それでもトライや準備段階では「てっぺん以外興味なし!」くらいでやるのが最も効率が良いです。

 以下分説します。

100%実現はありえない〜最初は吹っかけておく

 (1)実践的に「大は小を兼ねる」から、
 (2)リアルな実現率を考えると大体5割から8割くらいだから、最初から高めの設定をして、そこから2−5割引くらいになるといい、

 (1)と(2)は長々と説明する必要もないでしょう。
 大体において狙ったレベルには行けないのがこの世界の切ない真実だったりするから、交渉事みたいに最初はちょっと「吹っかけて」おくといいです。

 今はどうなのか知らないけど、大昔の僕の頃の受験では早稲田の政経学部ってのが結構偏差値高くて、そこ行ってた連中の話を聞くと、もう大体が東大法学部(文T)を落ちてきて仕方なしに入った奴ばっか。最初のコンパなんか、「ちくしょう、あそこ(入試)であの問題さえ出なきゃなあ」「あそこで失敗した」とかそんな受験の感想戦みたいな話題ばっか。まあ、無理ないんですよね。一握りの超優秀な人を除けばあとはドングリ君ですから、次の日にまた試験があったら半分くらい顔ぶれがガラリと変わったりするくらい、誰が通って誰が落ちても不思議ではないって世界。逆に言えば、最初から早稲田の政経をトップに目指して来た人というのは、この種の東大流れの連中に押し出されてなかなか席を確保できない。

 銀メダルも銅メダルも、最初からそれを狙ってる人はいないです。てか大体ベスト10くらいだったら、ほぼ全員「金メダル流れ」でしょう。たまたまその日金メダルとれた人と、たまたま取れなかった人が銀メダル以下にずらっと並ぶという。パチンコに勝った日と負けた日があるような感じ。ある大学の実質競争率(冷やかしや記念受験を除外したガチなレベルの競争率)が3倍で合格者が100人だとしたら、200人の不合格者(でも受かって当然レベルの)が難民としてすぐ下のランクに押し寄せてくるわけですよ。現実にはこれも計算にいれておかないといけない。


怠け心の安全装置

 (3)人間は怠け者だから「このくらいでいいや」と甘い設定をするとそれ以上の努力をまずしなくなるし、それに必要な努力すらしなくなる


 物事成就させるコツは、「まあ、このくらいだろう」と自己査定した努力に、無条件で1.2〜1.5倍くらい掛けておくこと。2割増しか5割増くらいね。

 人間というのは、それは自己保存本能のなせるワザかしらんけど、無意識的に自分の身をかばいますよね。100%フルに頑張るようにはできていない。よく言うでしょ?人間の脳味噌は20%しか使われてないとか(数字は適当)、筋肉だって物理的な限界の30%くらいしか使ってない。疲れるのイヤだから無意識でリミッターかけてて、本当の限界のかなり手前で「もう無理です〜」って信号を出すようにできている。実際、いつも本当の限界でやってたら身体がぶっ壊れますからね。かーなり手前でセーフティ装置が何重にもかかっている。

 寝たきりの老人がいざ火事になったらピンシャン足腰が立って、重い金庫抱えて逃げ出してくるという、まあ話半分の冗談でしょうけど、「火事場の馬鹿力」というのは確かにあります。僕も超直前の追い込みで無茶頑張りをしてたたときなど、「ほー、俺ってここまで出来たのか?」と感動しましたもんね。これをもっと前にやっておけば、もっともっと楽にできたのに畜生って何度思ったことか。スポーツでも仕事でも、無意識でブレーキかけてる部分、多分10個くらいある安全装置を無理目なシュチュエーションで1個か2個くらい外すことで無意識限界を突破できて、「上達した」「体得した」ってことになります。いろんな意味で「未知の領域」まで足突っ込まないと進歩はないよね。これは超真剣になにかを習得した人にはわかると思いますが(やったこと無い人はただのお伽話にしか聞こえないかもしれないけど)。

 で、目標到達のために客観的に必要とされる作業量が100くらいだとしたら、無意識的に「ま、こんなもんだろう」と80くらいに設定しちゃうのが人間というものだと思います。「もうちょっと楽に出来るんじゃないの?」って無意識的にでも絶対考える。この「怠けたい」「楽をしたい」という自己保存本能は強烈で、だからこそ人類は道具を進化させ発展してきたようなものです。つまり「楽をしたい」という無意識の欲求に負けて、ややもすると客観的な作業量を過小に見積もるもんです。「このくらいやればいいじゃない?」みたいな。

 しかし、客観的に全然足りないものは足りないですから、結果は無慈悲でドボンです。そして「自分にはこの仕事に向いてない」とか、他の理由(言い訳ね)を考えだしたりして、「失敗の上塗りスパイラル」になって軌道を外れていって、暗黒の宇宙空間に彼方に消えていくという。めっちゃ怖いです。

プライドと言い訳は最初に封印しておく

 余談ですけど、本気で何かをやりたいなら、2つ準備活動がいると思います。一つは最初にプライドを潰しておく、2つ目に言い訳を絶対許さないこと。この2点です。なぜなら失敗した時って実は軌道修正やワンランク上にあがる「天国への階段」がぱかーっと開ける千載一遇の機会なんだけど、プライドと言い訳に目が曇ってそれをミスるからです。自分のプライドを守るためにあれこれ正当化しようとするから、そこで世界観が歪む。筋道の通った言い訳を一生懸命考えるから、そこでも歪む。

 思うに、この世の失敗の原因の圧倒的大多数は単純な「実力不足」でしょ?じゃあ、なんで十分な実力をつけられなかったのか?と遡って、怠けていたとか、自惚れていた、舐めてた、つまりはヌルい生き方をしてきたわけですね。あの〜、ここで「ヌルかった」「努力不足だ」とかいう結論にしちゃダメですよ。無駄に自分を責めるだけで、疲れるわりには展望はないからね。努力不足ってのは「結果」であって「原因」ではないです。問題はなぜヌルくなったのか?なぜ努力が不足したのか?です。ここをさらに遡れば、自我の中核にあるボタンの掛け違いに辿り着くこともあるでしょう(常にではないが)。

 例えば、根っこにあるのはコンプレックスや自分はダメだという強い意識で、現実を直視すればするほどその傷に触るから痛くて触れない、だからテキトーに見ていいことにするとか、詰めて考えないで大丈夫大丈夫って虚勢を張ってるだけだったとか。だから必然的にヌルくなる。てかヌルくすることで逃げていたとか、ヌルくしないと生きていけないとか。そこまで分かれば、じゃあそのコンプレックスって何よ?ですが、僕の経験でいえば多くの場合は「幻痛」ですわね。よくよく考えると何が困るわけでもない。なのに何となくイヤだと思い込んでいたみたいな。

 じゃあなんでそう思い込んでいたの?になるだけど、ここから先はプロのカウンセラーの領域でしょう。でもプロ手前でも、「なんで俺はあのとき真面目に向き合わなかったんだろう?」ってしばらく考えていると、結構見えてきますよ。本当は痛くない痛み、苦手でもない苦手意識が。例えばその昔の遠足でえらいバスに酔って死ぬ思いをしたので、自分は乗り物酔いをすると思い込んでるとか。運動神経がなくて体育の授業でいつも屈辱だったからスポーツはイヤとか。大体小さいときと体型も体質変わってるからそんなの現状では関係ない。乗り物酔いでも自分で運転したら酔わないし、三半規管やバランス感覚の鍛え方もある。僕も柔道やってバランス感覚鍛えられたせいか(一回の練習で100回くらい天地が逆転するからね)酔わなくなった。ほぼ全員船酔いしても自分だけはしないという。球技が苦手というのも、子供の頃に視力悪化が進んでメガネがあわず遠近感がないからエラーしてるだけってのが多い(僕もそうだった)。それに大人になったら、運動不足で成人病とかいってるくらいなんだから、無理やりスポーツさせられる機会なんか限りなくゼロですわ。だからもう痛くも痒くもないのだ。音痴もそうですね。カラオケ音痴くらいだったら2−3時間のツボを踏まえた特訓で上手になります(声帯の使い方をしらないから声域が異様に狭くなってるだけで、広げてやればいい)。

 ここが変われば、あとは自動的にすーっと修正していけるから、百戦百勝、、とはいかないまでもかなり変わるはず。あなたはどうか知らないけど、僕はそうだった。しばらく考えてると「ははあ、これか」と当たりはつきますから。自分で自分を手術するみたいに血がダラダラ流れたりするけど、まあ慣れますよ、こんなの。そう思い込んでるだけだし、大体は大人になれば自然解決するものが多いし。子供の頃に怖くて夜にトイレに行けなくても、大人になったらそんなに怖くなくなる。でも怖くなくなっていることに自分だけが気付いていないだけなのよね。ま、怖くなくなるのは想像力が摩滅してるからで、本当は良くないんだろうけどね(笑)。


 んでも、そういう失敗分析→天国へGO!ってことにならないのは、なんとか自分の絶対防衛線みたいなメンツが立つような言い訳やストーリーを考えるからでしょう。とにかく痛いと思い込んでる部分に触らないように、腫れ物を避けるように、破綻のないストーリーや理論武装を構築するのが第一目的になって、そのために客観現実を歪めてしまう。

 それは一国や大企業がぶっ潰れる過程と同じで、「発案者の◯◯常務の顔を潰さないように」「◯◯教授肝いりの案件だから」とか、ときの権力者がカッコつけられるように現実を歪めて理解しようとする。この種の傾向=現実直視ができなくなったり、情報の選別や操作をし始めた時点で、「お前はもう死んでいる」ですよね〜。だってゲームのルールが変わるんだもん。ゴールに達しましょうゲームではなく、破綻のない言い訳を構築しましょうゲームになるんだからさ。国民の生活を守りましょうルールから、僕らの利権を維持しましょうゲームになる。

 自らその愚を犯さないためにも、最初にプライド潰して、言い訳を殺しておくといいですよ。カッコつけようと思ったら死刑ね(笑)。そうすると素直に物事見れるようになるから、「なるほどココが足りないのか」「あ、なあんだ」って階段をトコトコ上がれます。さもないと、ちょっとした物事にいちいち自我(傷口)がリンクするから痛くて身動き取れないし、面倒臭くてかなわん。何をやるにも普通の10倍時間がかかる。省庁間の意見(利害)調整とか派閥の力学とか、そんなことばっかやってるから、一つのことを決めてやるのにえらく時間がかかる。自分自身の心のなかにも「派閥」はあるのだ。これだけは死守〜!って思い込んでる心の中の金庫や財布があって、一回取り出して見たらいいです。大体は中身カラっぽですから。で、実はカラであることを自分は前から知っていたというのがオチですわ。

 以上は余談。
 本題に戻すと、どうせ割り引いて楽したがるのが人間だから、それを見越して、最初から目標値を1.2-1.5倍くらいにあげておくといいです。落とし所が100万円だったら、とりあえず150万でどやって言ってみると(笑)。


ディープにやるのが実は最速

   
(4)物事の習得は、一気に徹底的にやった方が最速確実に身につく、中途半端な深度だったら結果的にゼロ同様になったりするので無駄な苦労が多い

 これは勉強に特にいえるんですけど、物事というのはディープにやった方が理解しやすいです。なんでそうなるのかのメカニズムも明瞭になるし、論理や筋道が子供でもわかるように通ってくるから、「そりゃそうだよね」って感じで殆ど頭使わないで理解できます。

 歴史なんかも単に表面的な事件を追っていくだけだったら、なんでそうなるの?がわからないから、まず絶対覚えられないですよ。そういう勉強は最悪の効率だといってもいい。ところが、大河ドラマレベルに一人の人間の生い立ちから死ぬまで、そこで出てくる人間模様や葛藤を細かくディープに追っていくと、すごい分かりやすい。感動すらする。これは長編マンガと同じです。でもね、一般に受験レベルだったら、長編マンガのプロット以上の複雑な論理操作は必要ないですよ。逆に言えば、長編マンガを楽しんで読めるくらいの知的能力があったら、日本の入試レベルだったら普通に無敵になれるはずです。そのくらいの頭の能力はあるんだから。

 その昔まだ僕が小学生の頃、「4コマ漫画は難しい、子供には無理だ」って聞かされたことがあります。なぜ無理かというと、4コマしかないからコマとコマの間が離れていて、その間に何が起こったのか、なぜそうなったのかを自分で補足して推測しないといけない。それが出来るためには膨大な補助知識を持ってないといけない。これは「パロディを笑えるためには原作をよく理解してないといけない」というのと同じ原理です。提供される情報が少ないと足りない分を自前の知識で補強しないとならず、それを持ってなかったら「理解できない」ってことになります。

 「え、なんでそうなるの?」って初見で理解できなかったら、それは理解のための絶対情報が足りないということであり、それをどっかから仕入れてこない限り根本的に解決しない。ならば、最初から全部あれこれ書いてある本、4コマ漫画の内容を30コマ くらいに分けて描いてくれているものの方が分かりやすい。

 どんなに複雑な法律問題でも物理問題でもなんでも、細かく分解していけば、一つひとつのステップは「1+1=2」くらいの簡単なロジックです。いわゆる頭が良い奴とか飲み込みが早い奴というのは、この「分かる」という感覚にすごい鋭敏で、1ステップが欠落しているだけで「わからん!」「なんでじゃあ!」って停まる。安易に「わかった気」にならず、あれこれ調べたり聞いたり考えたりする。大体は補助知識の欠落による場合が多いから、それさえ見つけたら「なるほどね!」ってすぐに進める。結果的に「一回やったら、ほぼ完璧に覚えてしまう」というバケモノみたいに優秀に見えるという。これが種明かしです。バケモンちゃうねん、いわゆる「頭が良い」と言われている奴ほど自分が馬鹿だということを良く知ってるだけやねん。過信しない。わからんもんはわからんって素直に思える。

 これを受験や新規挑戦にあてはめていうなら、例えば大雑把な原則として「一番分厚い本を読め」です。「大雑把」というのは必ずしもそうとは言えない場合もあるからですが、エッセンスは自前の知識で補足推測しなきゃいけないようにステップが荒い本(たいていは薄っぺらい本)を読んでも、ぱーっとは読めるけど、理解しにくいから結局意味ないよってことです。分厚い本の方が細かく親切に書いてくれてるから理解しやすい。3行の部分で「むむむ、なんでじゃ」と脂汗流して呻吟しているよりも、すらすら10頁読める方が遥かに時間的に早いです。結果も確実。気分も快適。

 でね、「私なんかこのくらいでちょうど良いんだ」とかいって適当にペラペラな「やさしげ」な本を選ぶ人がいるけど、それって全然優しくないのよ。そして「こんな簡単な(実は難解なのだが)本すら理解できないなんて」と落ち込んで、「私は◯◯(科目)が苦手だ」「勉強が得意ではない」「頭が悪い」とか間違った理解をして、それでまた暗黒の宇宙空間に飛んでいくわけですよ。もうねー、人間の一生をみてたら70%くらいはこの種の無駄をやってますよね。超もったいない。あらゆる失敗の99%は「自滅」だといいますけど、ほんとに。

 でもって、上の(3)と合わせると、ちょい無理目ってか、ほぼ絶対無理くらいの目標設定をしていると、丁寧に勉強するようになるからいいです。地元のそこそこの大学を目指す場合、なにがなんでも東大とか、いやいや東大なんて世界で20位にも入れないアジア辺境の田舎大学なんかダメでハーバードかMIT、妥協してソルボンヌ大学じゃあくらいに思っておくといい。これを最初から地元大学目標ロックオンしちゃうと、「まあ◯◯くらいだったら、このくらいでいいか」みたいな手の抜き方をして、荒い勉強をする。まず普通はそうなる。荒くなるから結局理解できない。でもって地元大学だって舐めてはいけないわけで、そこにも落ちる。ところが、最初からMITじゃあ!世界中の超秀才が俺のライバルだくらいに思ってると、「こんな理解でいいのか?」「この程度で受かるわけないだろ」って自然に思えるから、丁寧にやるのですね。まーねー、そこで多少丁寧にやったくらいではMITはムリでしょうけどね(笑)、でも地元大学くらいだったら確実に通れますよ。かくして地元大学号合格というミッションが完成する。

 でもさ、実際中高レベルですごい得意科目がある奴って、もう完全に学校レベルを超越してるでしょ?理系でも大学レベルや世界の学会レベルまでいってたり、体育の授業でもガチでオリンピック狙ってるとか、文系でも国語がどうのってレベルじゃなくて芥川賞狙ってますとか。そこまで超人的でなくても、ある程度は超高校級になり、クラスメートが子供に見えるくらいにはなってる。学校の授業レベルなんか幼稚過ぎてアクビが出て「まあ、初心者にはこのくらいでいいんでしょうねえ」くらいの感じ。

 なんでそんなに飛び抜けて凄いの?っていえば、趣味としてやってるから、面白いからやってるからです。例えば、部活でサッカー部の奴は、体育のサッカーの授業では全然レベルが違い、抜きん出て上手。なんでそんなに出来るの?といえばサッカーが好きで、面白くて、沢山やってるからでしょう。別な言い方をしたら、そのくらいムキになってやらないと本当の面白さってのは分からんのですよ。授業でチャララっとやるくらいだったら、本当の面白味なんか分からんもん。面白くなるくらいディープにやると、あとはほっといてもガンガン進んでいって学校の試験なんか満点で当然になる。

 これをさらに受験勉強に即していえば、およそ試験に出ないくらい細かな背景とかメカニズムをやるのがコツだと思います。試験に出る所だけやってたらむしろ効率が悪い。試験に出るところを理解するためには、試験に出ない部分をやった方が結局は早いんですわね。ここで「面白くなるためのコツ」「面白さを探すコツ」がまたあるんだけど、長くなるので今回は割愛。

セルフ・エスティーム

 (5)セルフエスティームが上昇する

 人間なんて他愛のないもので、ワンランク上を目指すだけでなんか誇らしげな気分になります。1部リーグのチームに入ってると、実際には球拾いとか草むしりしかやらされてなくても「俺は一部リーグの人間」という気分になります。そんなの入ったチームがたまたまそうだっただけで、自分の力でもなんでもないんだけど、そういう「文脈」になっちゃうとそういう気分になる。

 そのへんのおっさん連れてきて大企業の社長にしたり皇族に仕立てあげたりするのも簡単です。いい服着せて、ロールスロイスに乗せて、周囲に「社長」って呼ばせて毎日過ごしてたら1ヶ月もしないうちに「それっぽく」なります。「坂の上の雲」かなんかに書いてあったけど、確か全く無名だった東郷平八郎を抜擢する時、「まだ貫禄がないからダメだ」という意見に対して、大山巌だっけな?が「貫禄なんてものは、四頭立ての馬車に乗せて、皇居の廻りを三周くらいさせたら自然とつくもんでごわす」と言ったとか。でも、これ真理ですよ。

 いわゆる一流の人間と二流の人間がいるとして、何処が違うかといえば、端的に「俺は一流の人間だ」と本人が思ってるかどうかですわ。すくなくとも「そうありたい」と思ってるかどうか。

 自信、プライド、セルフエスティーム、、いろいろありますけど、要は本人がどう思ってるかです。一流企業の正社員とかいうプライドや自信があったといっても、実は大した根拠なんかないですよ。仮に社長になったとしてもさ、それが自分が作った会社だったら多少は自慢してもいいけど、他人の作った会社に後から入って番頭やってるくらいで、なにがプライドじゃ?って見方もできるわけですよ。自分の息子がエラくなったといっても、自分がエラくなったわけじゃないし、友達に有名人がいるとかいっても自分はド無名なわけだし。ビルの掃除だって、「俺は一流企業の掃除をしてるんだ」とかさ、「関係者」ってことでなんでも自慢のネタにはなる。バンド連中の他愛のない冗談で、皆金ないからバイトして土方仕事もやったりするんだけど、「あ、都庁ね、あれ、俺が作ったんだよ」とか「俺、レインボーブリッジ作ったし」とか(笑)。

 それが悪いと言ってるのではなく、それが人間という可憐な生き物の実態でしょ?と。だったら、逆手に取らない手はないよ。無理目の目標でも持つことで、「俺は違うんだ」とか思えるから。ちょっと気分良くなれるから。「はあ、そうなんだ」と思ったのは柔道で黒帯とったときで、自分がどれだけヘッポコかは自分でイヤというほど知ってるんだけど、でも黒帯とか取っちゃうと「俺は黒帯なんだからね、ユーダンシャなんだからね」とか他愛なく思えてしまうという。この自分のアホさ加減に自分で驚きながら、「なるほどね〜、この幻想みたいないい気分のことを「自覚」というのか」って思ったもんです。


 でね、日本人の最大の弱点はセルフエスティームが抜群に「低い」ことです。これは過去に何度も書いてますが、先進国中でいえば、飛び抜けて低い。もう信じられないくらい低い。平たい言葉でいえば「私なんて、、、」という思いが強い、強すぎる。世界の人、ってか地球人はもっと高いです。「俺ほどの男が」「私くらいの女が」とか普通に思ってるから。もう、運に恵まれたら、アメリカ大統領くらいだったら「やってやれないことはないんじゃない?」くらいに思ってるという。

 まあそれは冗談にしても、でもね、全ての物事について「俺には出来る」ってところから始まるのですよ、あいつらは。僕もそうで、およそ他の人間がやってることは、十分に準備さえすれば自分にも可能だと思ってるもん。でも日本人は「私なんかには無理だ」というところから始まる。もうすぐに「無理」「出来ない」って結論に行く。なんつかね、もう日本だけ重力が6倍くらいありそうで、ちょっと飛ぼうとしても、あっという間に大地に叩きつけられるみたいな。

 僕自身これまで「なんだよ、狙えばよかったじゃん!」と思ったことが山ほどあります。当時は絶対無理だと思ってたけど、後になって色々出来るようになってからみると、全然可能だったという。大したことないのよね。それが経験的にわかってきて、全く見えない未来空間でもあっても、或いはどうやって成功するのか全く予想もできなくても、「大体こんなもんでしょ」という自分の飛距離がわかります。孤立無援で、英語もろくすっぽできないで海外にポンといって、そこで一生レベルで暮らせるようになるとか、それも海外旅行経験1回レベルで、永住権という言葉も概念も知らなくても(こっち来てから知った)、「まあ、そのくらいならいけるっしょ」って目算が立つ。なんで立つのか?といえば、これまでやってきて大体の飛距離がわかるからです。でも、自分の飛距離は自分で飛んでみないとわからんよ。そして、賭けてもいいけど、今の日本にいる人(あの環境に染まってる人)だったら、大多数はセルフエスティーム低すぎると思います。腰だめの数字でいえば、3分の1くらいにしか思ってない。多くの人は、伸びしろがあるどころか「伸びしろしかない」くらいの感じ。


プライド(虚栄心)と行程カウント

 また余談ですけど、僕の乏しい経験によると、セルフエスティームと妙なプライド(虚栄心的な)は反比例する傾向もありますね。
 セルフエスティームとプライドって似て非なるものです。プライドは虚栄心や自尊心というくらいで(本物のプライドはまた違うが)、「自尊」「卑下」みたいに自己認識になんらかの感情が伴う。感情が伴うから傷ついたりもする。でもセルフエスティームは、同じ自己認識でも「血中の白血球値」とか「自分は7月生まれである」とか、その種のドライな認識で感情がリンクしない。そういう冷静な「査定」として、自分というのは「まあ、こんなもんでしょう」と値踏みしてることです。

 セルフエスティーム高い人は、逆に妙なプライドもないです。他人にあれこれ言われてもあんま傷つかないし、素直に他人の意見に耳を傾けたりもできるし、ペコペコ頭も下げられる。「このくらい出来るでしょ」というのは確信としてあるから、他人の言動に左右されない。貴重な参考にはするんだけど、だからといって自分が揺らぐことはまずないね。そりゃそうですよ、7月生まれなのに、他人からお前は9月生まれだと言われても、「ああ、こいつ間違ってんな〜」くらいにしか思わんもん。行動局面でも、やると決めたら、出来るかどうかではなく「どうやるか」しか頭にない。でもエスティームが低い人は、ベーシックに「どうせ俺なんか」って思ってるから、なにか言われる度 or 失敗する度にいちいち傷つくし、傷つきたくないからプライドという虚構の城壁を築きたがる。褒められると嬉しいし、ケナされると怒る。誰でもそうだけどその度合が激しい。また出来るかどうかで不安に思う気持が強い。

 また作業行程の長さも反比例する。セルフエスティーム高い人、つまり「本気で狙いにいってる人」は、成功までのステップを長めに取る。もうフルマラソンかトライアスロンくらいの行程として冷静に捉えるけど、セルフエスティームが低い人ほど成功のステップを近所のコンビニに買い物に行くくらいの距離にしか思ってない。そのくらいの距離でないと走れないと思ってるからね。だからいきなり全力疾走をしてすぐ燃え尽きて絶望する。これ、なんでそうなるかは理由があるんだけど、それ解説してると長くなるので、ここでは思ったことのみ。

 そのセルフエスティームを高めに(てか普通に)取るためには無理目な目標のほうがいいです。他愛なくいい気分になれるし、むしろ正確な距離感がわかるようになるから。野球でも甲子園を目指すんだったら、甲子園「優勝」を目指す。出場なんか出来て当たり前くらいに思う。年収も1000万なんかチャチなレベルを狙うから難しいんであって、「年収1000万円の社員を雇えるようになる」と思えばいいです。でもね、年収1000万目指して1000万はまず無理ですよ。少なくとも3000万、普通に億単位を狙うくらいでないと。でも億レベルで狙うと世の中の見え方が全然違いますよ。企画構想のスケールもがらりと変わる。普通のやりかたやってちゃダメだって思うから、そこはやっぱ真剣に考えますよ。動くにしても手間暇惜しまず動くようになる。実際に1000万レベルのプレーヤーがいるフィールドというのは億プレーヤーがウヨウヨ歩きまわってる世界ですからね。プロスポーツの世界でもそうでしょ。あのフィールドに立たないと話が始まらないのよ。

その他

挑戦(失敗)キャリア

 
(6)仮に失敗しても「てっぺん」だったら挑戦者の栄誉は得られる

 これは半分冗談みたいなノウハウですが、目標がビッグだったら仮に成功しなくてもチャレンジしたというだけで、結構立派なキャリアになったりするのですね。例えば合法的な学歴詐称(じゃないんだけど)をしたいんだったら、大学進学はせずに高卒でやっていこうと思っても、東大とか京大とか難しそうな大学を一つだけ受けておくのですね。当然落ちます。だから1時間だけ受けて帰ってきてもいいくらいで(笑)。でもね、後になって「いやあ、東大受けたんですけどね、落ちちゃって」って言えるんですよ。まず大体は「へえ、すごいですね」と言われますよ。まさかそんな箸にも棒にもかからない成績で受けたとは思わないもん。でも高卒。なんで?っって聞かれたら「いやあ、東大以外にあんまり行きたい大学がなかったんですよね」「それより実社会で自分を試したくて」とか答えておくと、なんか異様に「すごい奴」のように見えますもんね。でも嘘はないんですよ。

 この種のことって、直後はさすがに白々しいけど、数十年たってきて「僕も昔は〜」くらいに言うと受けますよ。もう人間40歳も過ぎてきたら、頭がいいとか勉強がどうのとか、そういうのってどうでも良くなってますからね〜。この例は冗談ぽいけど、でも、本質はそれ。つまり、キャリアというのは、成功したものだけがカウントされるのではない、ってことです。甲子園でも、芥川賞でも、オリンピックでも「目指す」のは自由ですし、あとで「目指してました」って言えます。全然成功しなくても、そのレベルの人であるかのように見えますもん。

 でもこの種のチャレンジ・キャリアってのはありますよ。「どうせ無理」とか言ってないで、なんでもダメ元で挑戦しておくといいです。「挑戦した」ということが、その人のキャリアになるんだってことは、覚えておいて損はないです。

Winner Takes All

(7)物事の美味しさはトップに70%くらい集中し、銀メダル以下になると極端に美味しくなくなる

 これはちょっと毛色が違うんだけど、「親の総取り」みたいなことって確かにありますよ。金メダルと銀メダルじゃ、やっぱり待遇(リターン)が全然ちがいますから。「首席」はあっても「準首席」っていい方はないから、2番以降だったらゼロカウントですもんね。

 だから狙うんだったらまずトップ。法曹関係でも、狙うんだったら司法書士ではなく司法試験。司法書士もかなり難しいんですけど、その後のリターンが全然ちがいます。書士さんも大変なお仕事ですけど、基本は作成手数料だからそれほど高額な報酬になることはない。しかし、弁護士は手弁当の事件もやたら多いのだけど、一発で数千万円の報酬をゲットするチャンスもあります。社会的な押し出しも違うし、政治家への定番ルートでもある(世界的にもそう、ガンジーもカストロも弁護士あがり)。

 オーストラリアに住むにも、457ビザ(労働ビザ)はステップであって、とにかく永住権狙い。もう待遇が天地の差です。永住権者の方が税率は低いし、手厚い社会保障(メディケアやら年金、失業保険その他)があるしね。医療関係やりたかったら、とりあえず一回医師免許とっておくとかさ。相当な無理をしてでも、あとの人生で十分にお釣りがきますよ。

 別に、何が何でもってわけではなく、純粋にそれがやりたいならトップでなくてもいいです。てか、そういうときはトップとかいう序列意識はないでしょうけどね。でも、「私にはせいぜい◯◯くらいが手頃で〜」みたいな、お手頃感、お値ごろ感でモノ考えたらあかんよ、ということです。

まとめ


 えらい長くなってしまった。
 まとめると、ガチで狙いに行くならロングレンジでてっぺん目指すといいです。飛距離が長いから、十分に準備するし、多少ダメでも全然へこたれないし(先は長いんだし)。それに、ライフルの長距離射撃みたいなもので、長い距離をタマが飛んで行く間に、重力によって落下するし、風によって横に流されたりもするし、地球の自転に関するコリオリの力なんてのもある。ライフル選手やスナイパーは(大藪春彦の小説によく出てくるけど)、風を計算し、距離を正確にはかってスコープの位置を調節したりしますよね。1000メーター照準で1500メートル狙うときは、目標の1メートル上を狙う。風を考えて右横2メートルを狙うとか。

 そして人生はライフル射撃の比ではないくらい長い。なんか町内一周すれば一生終わりみたいに考えている人がいるかもしれないけど、実際には「シルクロード踏破!」くらいの距離がありますよ〜。40歳越えてからが本番、それまでは慣らし運転みたいなもん。だから、そんなサンダルつっかけて〜みたいな装備や体力でシルクロード行けるかあ!くらいに思ってるといいです。これから奈良の都を出て、中国は唐の長安を過ぎ、田舎抜けて、崑崙とかゴビ砂漠をわたり、ヒマラヤの山裾迂回して、途中で三蔵法師や孫悟空に会って、チベットやインドの連中と酒を酌み交わし、ペルシャの市場で散策し、アラビアンナイトを楽しみ、魔都といわれたイスタンブールやギリシャに着くのだ。

 ということで、腕や心が縮こまって、妙に「身の程を知る」みたいなことをするのはNGね。「身のほど」というのは自分から知るものではないのだ。あれは世間によって「思い知らされる」ものであって、自分から予習してはいけない。クラーク博士も言ってるではないか、少年よ大志を抱けと。あれは、単純な精神論ではなく、それが一番心理的負担が少なく、快適で、しかも一番近道だからだと僕は思います。

 ライフルを構えてスコープに映るのは、今あなたが20歳なら50歳になった自分、30歳なら60歳になった自分だけ。ただそれだけを見据えていればいいっすよ。どういう自分になりたいか。

 乱世の奸雄として立ち、城壁の上にすっくと立って幾万の軍勢を睥睨しているか、広大な山岳地帯の静かな湖のほとりで孫娘といっしょにジャムを作っているか、下町の居酒屋で楽しい仲間たちに囲まれて、相変わらず馬鹿話をしては笑い転げている日々か。そしてさらに時は流れ、大きな山寺の山門付近、蝉しぐれに打たれながらゆるやかな石畳、50年連れ添ったパートナーと日傘をさしてゆっくり歩き、「かき氷でも食べようか?」と声をかけている自分。Life is beutifulだぜい。All yours! Don't be shy!ですわ。

 ロングレンジの先にあるもの、スコープに写ってる一幅の絵のような光景、ただそれだけ見てればいいっす。自ずと何をすべきかがわかってくるし。でもって、どーせ何をどう画策しようが、絶対に「紆余曲折」はあるに決まっているのだ。どの道をどう通ろうとも「なるようになる」に決まっているのだ。だから途中経過なんか一切合切どーでもいいのだ。「約束された地」に辿り着けるかどうかなのだから。





 

文責:田村



★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
エッセイの捕逸(L1掲示板の該当部屋)
★→APLaCのトップに戻る